戦中関連2


本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか?

大戦末期の根こそぎ招集だと、乗る船もないので、本土決戦用の蛸壺掘って
終わったと言う人もありますよ。
(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
みんながみんな外地に行ったわけじゃないんですよ。
「本土決戦」も考えていましたし、内地にもちゃんと部隊はいました。
たとえば、作家の池波正太郎は海軍に入り、横須賀の海兵団を経て
終戦まで美保にいました。
(47:327)

映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画?

中国戦線の独立混成旅団の戦いを描いた映画
陸軍省後援だけど戦意高揚的な匂いはあまりしなかったと記憶
(48:247)

戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。

活動はかなり低調化していたようです。
当時のヤクザは現在みられるように大規模なものでなく、街ごとのこじんまりとした集団でした。
あとは”仁義無き戦い”でも読んでください。復員後のヤクザについて書かれております。
(48:269)

戦時中、ラジオの短波放送が禁じられていたそうですが、主な理由はなんですか?

外国の流す宣伝放送を聴く事ができないように。
あと、スパイがラジオを通して指令を聴くことができないようにさせるため。

主にこの二つ。
(51:309)
短波は電離層反射により遠くまで届くため、防諜上から受信そのものが禁じられた
(51:310)

大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか?

なぜ、わざわざ名称まで変えたのでしょうか?
1943年9月30日の御前会議で、戦争指導の大綱が決定しますが、軍政府と行政府との
齟齬で、その実現が余り上手くいっていないこと、また、大本営だけでは、殊軍事だけの
視点でものを見がちで、外交面はともすれば等閑にされてしまっていること、でもって、
外交面で言うと、大東亜共栄圏の諸国が今後独立を達成するに当たって、彼らの協力を
得るため、また、独ソ戦などでのドイツの勢いが落ちてきたことなどから、今後の戦争指導
には外務省(大東亜省)の助力が必要なこと、などが理由となり設置されました。

また、軍需生産が軍需省に一元管理されて、軍政と切り離されたことによって、調整の場が
必要になったこともあります。
(307:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか

一応、出征家族に対しては家族手当があります。
また、万一の時に備えて、徴兵保険(富国生命保険は昔これを一手に扱っていました)を
掛けている人も多かったようです。
更に、軍事扶助法によって、現役下士官の家族には扶助金が出ます。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか?

戦闘または戦闘に準じる公務で死亡した場合、その遺族には、普通恩給の金額、それ以外
の普通公務で死亡した場合は、普通恩給の10分の8、それ以外の要因で死亡した場合は、
普通恩給の10分の5が、それぞれ支払われますが、これは、軍在籍3年以上で恩給年限に
達しなかった人の場合です。
それに達しなかった人の場合は、当時の棒給月額に在職月数を乗じた額が一時的に支給
されます。

戦地に出た人のいる家族に対しては、隣組や婦人会、町内会で相互扶助を行っていました。
特に応召者のいる家庭の訪問、遺家族に対する慰問などが重要視されています。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

蛇足
恩給法における公務扶助料は、軍人等が戦病死した場合に、その軍人等によって生計を維持し
または生計をともにしていた配偶者を先順位者として、続いて未成年の子、父母等の順序で
支給されることになっています 従って支給額は個々によって違います

その他には金杯と知事から労いの紙切れ一枚
(304:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)

大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか

ニューギニアの第十八軍は人肉食の横行に苦慮し友軍の肉を食べたものは厳罰に処す旨の
通達を出している。実際に処刑された日本兵もいる。
逆に敵兵の肉は食べてもお咎めなしであった
(658:226)

1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか?

ソ連は、ドイツに利益となる日本人のビザを発行したがりません。
日本のドイツ駐在武官を、東欧の他の国の駐在武官として偽って報告したこともありました。
日本は苦肉の策として、遭難したソ連人船員の帰国のビザと交換に、日本人のソ連通過ビザを得たこともありました。

しかし、1942年に日本人外交団がソ連のビザを得て、ソ連領を通過してドイツへ行きました。
中央アジアを経由しました。
その際、観察したソ連の様子を、ヨーロッパから無線電信で日本へ報告しました。
それは、暗号解読していた、アメリカやイギリスの関係者にも、有用なソ連情報でした。

1944年1月は、独ソ戦でソ連が有利になっていました。
ドイツへの日本人の通過ビザは、なかなか発行しません。
(672:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)

多分、佐貫亦男さんのエッセイか何かを呼んで疑問に思ったのでしょうが、可能です。
但し、1943年10月に日本近海で撃沈されたソ連貨物船乗組員50名を満州国経由で送還する交換条件ですが。
この時は外国人3名、民間人3名、満州の民間人1名に査証が降りています。

そして、1943年11月にベルリンから在ドイツ日本大使館一等書記官の牛場信彦、佐貫さん、古賀電工技師の松尾敏彦、
川村知、満州国官吏の河野徳太郎、ブダ=ペシュトから、大久保利隆マジャール公使、
ブカレストから在ブルガリア日本大使館二等通訳官が帰国しています。
先ず、ベルリン組は二手に分かれて、寝台列車でブレスラウ、スロバキア領を通過し、ブダ=ペシュト着、それから
ブカレスト経由で、ソフィア、イスタンブール、アンカラを経てソ連へ、クラスノボーツクからノボシビルスクを経由し、
チタ、そしてアトポールで満洲里到着というコースです。

また、1943年11月から1944年1月にはトルコに赴任する田辺宗夫三等書記官、スウェーデンに赴任する土屋準二二等
書記官、スイスに赴任する武川基外交官補がソ連経由でドイツに向かっています。
途中、伝書使としてベルリンに赴いています。
このルートで最後に帰国したのは堀切善兵衛欧州遊撃大使になります。

後、ブルガリアから帰国する日本外交官が、1944年11月にソフィアからイスタンブールに行き、アンカラ、バクー、コーカサス
経由で、モスクワに行き、そこから満洲里に言った記録も残っています。
(672:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう?

特に人の行き来は、現代の海外旅行のようにはいかなかったと思うのですが。
第二次大戦勃発当初は、イタリアがまだ参戦していませんでしたので、通常の欧州航路から地中海に入り、
ナポリで下船し、鉄路でベルリンに向かいました。
これは1940年春にイタリアが英仏に宣戦を布告するまで続きます。
1940年9月以降はスエズを通航出来なくなり、パナマ運河経由か喜望峰経由に変更。
この場合、リスボンに寄港し、欧州に行く人々はここから鉄路で各地に向かっています。
前者は1941年7月18日に米国が通航を拒否したため休止、後者も経済的に維持出来ず休止されました。

シベリア鉄道経由はウラジオ、ハバロフスク経由、満洲里経由の2ルート(満洲里経由は出発地によって2ルートあるので、
都合3ルート)ありましたが、ソ連が軍人、外交官を除き一般人にビザを発給しなかったので、利用は少ないです。
1939年9月1日に一旦中断し、12月頃再開、1941年6月22日の独ソ開戦で中断されました。

米国経由は、太平洋航路で、シアトル、サンフランシスコから鉄路でニューヨークへ、其処から大西洋航路で
欧州(米国は未だ中立国)へ渡ると言うものですが、これも1941年7月26日の在米国日本資産凍結によって
事実上閉鎖されました。
以後は、南米航路で、ブラジル、アルゼンチンからリスボンに渡ると言うものでしたが、これも、
1941年12月8日の日米開戦で途絶しました。

太平洋戦争勃発後は、先ず、日米、日英交換船による外交官赴任があります。
これはポルトガル領だったロレンソ・マルケス(今のモザンビークの首都マプト)経由、其処からポルトガルの
便船で喜望峰経由でリスボンに向かい、其処から鉄路でベルリンやらヴィシーやらベルンなどに赴きました。
(ちなみに、外交官のポルトガル船での赴任は、連合国に了承されています)

また、陸路は、シベリア鉄道のモスクワ経由は無くなっていますが、満洲里から
ソ連に入り、中央アジアを抜け、コーカサス経由でトルコに入り、トルコを横断し、
ブルガリアへ、ブルガリアからロマーニャ、そしてマジャールを経由してドイツという
ルートです。
そのルートは二ヶ月の時間を要し、ソ連の通過査証が中々降りないのがネックでした。
一応切り札として、日本領海で遭難して救助したソ連船員との交換で発給を受けて
いたのですが、なかなか発給されず、屡々在モスクワ日本大使館とソ連外務省との
間で丁々発止の遣り取りが行われています。

この陸路を通った例としては、ローマのイタリア大使館から帰国した参事官が最初で、
ローマ→ウィーン→ブタペシュト→ブカレスト→ドナウを下ってジュルジュからブルガリア
のルセを渡り、ソフィア→スビレングラード→其処からバスでイスタンブール→アンカラ
→サルカムシ→カルスを経て此処からアルメニアのレニナカン(現在のクマイリ)→グル
ジアのチフリス(今のトビリシ)→ソ連に入ってスターリングラード→ラポリ→クイビシェフ
→ノボシビルスク→シベリア鉄道で満洲里という右往左往ルートです。

独ソ戦で、コーカサスが最前線になると、チフリスまでは上記通り(但し、ドナウの結氷期は連絡船は動かないため、
小舟で渡るか、歩いて渡ることになります)、チフリスからはロシアに入らず、バクーに移動し、カスピ海を横断、
トルクメニスタンのクラスノボーツクから鉄道でタシュケントに抜け、カザフスタンのアルマアタ、セミパラチンスク
を経てノボシビルスクというルートで以後、シベリア鉄道というルートに変わりました。
このルートは、1944年8月23日のルーマニア降伏まで続きました。

で、それ以外は、潜水艦によるものが人口に膾炙されていますが、伊号第30号潜水艦、同第8号潜水艦、同34号潜水艦、
同29号潜水艦、同第52号潜水艦の5回試みられ、欧州到達したのは3回、往復したのは1回でした。
ドイツ潜水艦によるものも試みられ、U511、U1224、U234の3回のうち、1回のみ成功、イタリア潜水艦も4艦のうち、
1回だけ昭南に到達しました。

後は、物資だけなら、ドイツの封鎖突破船、イタリアからの福生まで空路というのもあったりします。
イタリアからの福生まで空路ってどの程度実現していたのでしょうか?又中継地は?
特殊型なのですが、1939年7月30日~8月1日に掛けて、Savoia-Marchetti S.M.82PDと言う
改造型は、航研機の持つ周回記録を上回る12,910kmの飛行を行っています。

同じような改造型で、1942年にイタリアのローマから、ブカレスト、コーカサス(当時はドイツの
占領下)を経て、其処からは無着陸でアフガンを越え、天山山脈上空を飛行し、中国の日本占
領地(蘭州辺りだったかと記憶)に飛び、其処から満州を経て、福生へ飛んでいます。
ちなみに、このルートは、1938年4月23~28日に満州航空が購入したHe-116の2機が通った
ルートをほぼトレースしています。
この時には、カプロニの「ジェット」エンジンを搭載してきたんですよね。
帰りには南方で採取された資源(生ゴム、雲母、錫、タングステン、阿片)を搭載して見事に
帰着しています。

後、思い出しましたが、逆ルートで、立川A-26の2号機を用いて、シンガポールからドイツまで
無着陸連絡飛行(セ号)を1943年6月30日に福生を出発、シンガポールで給油し、7月7日にド
イツに向かいましたが、インド洋上空で行方不明、1944年から45年にかけて、立川キ-74遠距離
偵察爆撃機の2号機を使って同じような飛行をしようとしていましたが、ドイツ敗戦で中止になりました。
(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか?

この島は機密保持の為、地図から消されていたといわれていますが
工場が設置されたのは、戦前の1929年で、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所
となっています。
この工場開設時は、昭和の大恐慌時だったので、工員の応募総数が6,000名で、
そのうち200名が採用されています。
従って、地域では、陸軍が工場を設置したことは判っていたでしょう。

また、1933年に秩父宮、1934年に高松宮が工場を訪れており、日中戦争勃発後
は生産拡張のために、男女従業員1000名が採用され、工員は忠海港から島に
通い、1940年には、工場内に技術者養成所が設置されて、広島、岡山の国民
学校高等科卒業の男子を集め、養成工として3年間の教育を始めました。
彼等は、20年の雇用契約を結んでいます。

1943年のRooseveltによる毒ガス報復宣言が出てからは、この島でのガス生産
は低下し、風船爆弾などの製造に転用されたりしています。

戦前からの動き、毒ガスの使用状況、砲弾の補給状況などを丹念に追っていけば、
何処で製造されているか、までは突き止められます。

但し、ホスゲン、サリンなどの新規開発の瓦斯はあるのかは、第二次大戦末期になる
まで判らなかったみたいですがね。
(289:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか?

我が実家も有耶無耶の内に、隣の土地を市に没収されたっけ。
曾祖母が怒ること怒ること。

配給途絶に備えて、空き地の徹底的活用で食料を緊急増産する為に、地方自治体から
南瓜、韮、不断草などの種子を無料配布したり、作り方を教授するようにしています。
ただ、例えば、南瓜などの種子は、粉末化して食料にするため、回収していますね。

なお、こういった耕作地については、戦時農園としてきちんと登録する必要がありました。
更に、芋類に関しては、戦時農園推進員が巡回して、生育状況を確認しますが、統制外の
南瓜の様な作物は、お目こぼしされています。
但し、種芋についての配給は、入荷が遅れて、種付けに間に合わない場合が多かった様です。
(289:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです

チャフでしょうか?
多分チャフ(日本では電探欺瞞紙と呼ぶ)。
アルミ箔(日本では紙に錫箔を貼った物)をレーダー電波の波長と同じ長さに細長く切ったもの。
空中で大量に散布して電波を撹乱して、敵の探知を妨害した。
レーダー画面上では白い雲のように映る。
おそらくは日本に侵攻してきたB-29が散布した物。
(286:48)

大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが

「川崎造船所40年史」以外で。
Tom Smith辺りの論文でそうしたものを扱う予定でしたが、残念なことに本人が病没しました。
とりあえず、新修神戸市史の産業経済編巻2と3が参考になるでしょう。
また、日本経済新聞に、日本財閥経営史という一連の本がありますが、このうちの「新興財閥」編、
「地方財閥」編もしくは、「阪神財閥」編に触れているものがあったかと。
(283:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか?

少なくとも邦人に関しては、それなりの生活が出来ています。
食料事情も内地よりは豊かでした。

例えば、台湾の場合、日本の内地では余り見かけなくなった砂糖がふんだんにあったりしますね。
朝鮮の米事情に関しては1939年の凶作の影響で、余り良くなかったと言う点はありましたが、それ
以外はまずまずと言えるかもしれません。
(280:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか?

提灯行列自体は、1941年までは何とか行われていましたが、太平洋戦争が
勃発した時点では、既に止めようと言うことになってしまっています。
見送りも最小限になっています。
(280:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか?

雷撃艇とか揚陸艇にでも使われてたんですか?
海軍は、レーダーの代りに海上を見張る監視艇、掃海艇として主に用いられていました。
陸軍は、海上トラックとして、また、現地調弁用の漁船として使用しています。
(277:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの?

参謀長口達覚書なるものに捕虜の扱いが書かれていたとされる。
元々、商船を捕獲するとは思っても見なかった。
海上通商破壊には情報漏洩を第一に考える。
Uボートの場合、大西洋上で撃沈することが多く、少々の食料を与えて陸地の方角を教えたところで、
その陸地に到達するまで長い時間が掛かり、更に、現地に着いてからも人跡未踏のジャングルだった
りするので、情報の伝達まで時間が掛かる。
インド洋では、陸地に到達する距離が短く、また人口も密集している為、情報伝達時間が短いことを
考慮したものかもしれない。
(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。

「秋風艦上の虐殺事件」
1943.3. 東部New Guinea、カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が、駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を
全員ラバウルに移送するよう命令を受ける。
カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士、11名の修道女、彼女たちが世話していた2~7歳の中国人3名。
3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船、翌日午後、マヌス島の40名(3名の神父、3名の修道女、ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻
2組と1人の子供、2名のドイツ人農園主、2名の中国人と3名の原住民。)が乗船。
なお、ドイツ人の他、少なくとも5名がオランダ人、1名がマジャール人、1名が米国人。
3.18.AM.10:00 秋風はカビエン沖に停泊、海岸と信号をかわした後、ラバウルに向けて航行を開始。

カビエン沖60マイルの地点で、艦長(佐部鶴吉少佐)が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える。
外国人たちは、前方の乗員室に連れてこられ、目隠しをされ、船尾に特設された処刑台に連行。
両手首を縛られて吊され、小銃の一斉射撃にて銃殺され、そのまま、海中に放り込まれる。

処刑開始は正午、終了が午後3時半。
その後、秋風は午後10時にラバウルに帰港。

豪州側は、三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの、管轄権の問題で
米国側に委譲され、不起訴に終わる。
これは、「秋風」の艦長、先任将校が戦死、秋風自体も米潜水艦によって撃沈され、乗組員は
全滅したため、三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている。

詳細は、豪州国立公文書館 SeriesMP742/1 細目336/1/1444 「秋風虐殺事件調査ファイル」を
参照してください。

ちなみに、ビハール号事件の際にも、南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠に
なったと言う話もありますが、その資料そのものが発見できていません。
(派生議論スレ4:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか?

戦略爆撃調査団の報告書では”本土に対する諜報工作は絶望的”という記述がある。
陸奥爆沈事件などのきな臭い事件もあるが,破壊工作の可能性は低いという説が一般的。
(112:13)

戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの?

1935年前後、大学卒の初任給が60円前後、対して自動車の価格は、
キャデラック・フリートウッドが35,000円、リンカーン・ゼファーが9,000円、シヴォレーが4,000円、
ダットサンが2,100円でしたから、自家用の免許を持った人はあまりおらず、殆どが職業運転士
でした。

で、今、手元にあるのが、KKKのバス事業の資料しかないのですが、まず、運転士になりたい
人は、会社に入って、現役運転士の補助になります。
この現役運転士がお師匠となり、補助に付くと、その一挙手一投足を目で盗み、庫内で自習を
します。
いい人に当たると、結構手取り足取り教えてくれた人も居たようですが。

そんなこんなで数ヶ月すると、路上教習になります。
で、これにお師匠と試験官が付いて、路上に出て一通りの運転動作をした上、問題が発生しな
ければ、運転免許証が発行されます。

内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは、大正8年に内務省警保局・土木局が
連名で出した自動車取締令によるものです。
これを基に、各府県は自動車取締細則を定めて運用します。

ちなみに、軍事とは離れますが、大正12~13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件、
歩行者の死者3名、負傷者41名、従業員の負傷者1名、その他13名で、事故を起こした運転士
61名のうち、15名は無免許です。
運転手の養成所はありましたが、数が足りず、免許取得の運転手の添乗の下、
助手が無免許でハンドルを握らせています。

流石にこの状態は不味いので、大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され、
業務用(乗合、貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ、そのナンバーも
外せない構造となります。
(118:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争末期に誕生した国民義勇隊の詳細を教えてください

一応、国民義勇軍は、小磯内閣の最末期である1945年3月の閣議に於て、義勇奉公隊(仮称)組織ニ関スル件が
閣議決定され、府県毎に本部を設け、本部長は知事とし、市町村隊の隊長は市町村長が当たることを定めています。
(但し、義勇奉公隊が国民義勇隊と訂正されている部分と無い部分があり、訂正も閣議前か後かが不明であり、
 また、国民義勇隊に関する閣議決定、了解資料は数多いのですが、施行しないもの、前後矛盾したものが多かった
 りしますので、注意が必要です)

1945年4月の鈴木内閣成立後の閣議で、国民義勇隊組織ニ関スル件が決定され、国民義勇隊に中央機関を設けないこと、
大政翼賛会と大日本翼賛壮年団の解体を定めます。
同時に警防団は国民義勇隊の組織に一体化することとなり、陸海軍大臣請議の「状態急迫セル場合ニ応スル国民戦闘
組織ニ関スル件」が閣議決定され、情勢急迫した場合は、国民義勇隊組織から戦闘組織に転移することを明確にし、戦場
となる地域の国民義勇隊は戦闘隊に転移するものとし、軍管区司令官、鎮守府司令長官の命令に服すること、そのため
兵として動員し、統帥権下に服従させ得るための法的措置をすること、戦闘隊と国民義勇隊は表裏一体とすること、在郷
軍人防衛隊は発展解消させることが確認されています。

また同じ4月に内務大臣請議による「国民義勇隊ノ組織運営指導ニ関スル件」が閣議決定され、国民義勇隊の当面の任務
として、軍需・食糧増産など戦力の増大に努めるものとし、戦闘隊に転移した場合でも、主に作戦の要望する生産・輸送・築城・
防空・救護など兵站業務を中心に服し、最後の場合、戦闘任務に就くと言うこととしています。

国民義勇戦闘隊とは少し性格が違うものです。
国民義勇隊は、行政措置で設置された任意組織であり、出動には強制力が無く、衛生組合や翼賛会と同様に民間の機関であって
国家機関ではありません。
国民義勇隊は、地方に於ては地方総監府第三部が所管し、国民義勇隊自体は市区町村単位あるいは、職域単位で設置され、
その隊員は非戦闘員です。
(272:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

敗戦直前の昭和20年7月頃に勝札なんて宝くじがあったそうですが、

こういうギャンブル的なこと、芸能・スポーツとかも戦時中に普通に行われていたんでしょうか?
芸能に関しては、1945年も押し迫った状態でもやってます。
徳川夢声とかが新宿の演芸場なんかで芸をしてたら、空襲警報であっという間に中止とか
言う話もありましたけど。
流石に歌舞伎は中止でしたが(芝居を掛ける小屋がない)、演劇とか漫才などは、
移動演劇ということで、田舎の慰問の名目で最後まで行なってます。

スポーツは、武道・鍛錬の名目で推奨されていましたが、学生野球が1943年秋のシーズンまでで終ったのを
皮切りに、他のスポーツも、決戦態勢の確立の名の下、1944年までにどんどん中止させられていきます。

ちなみに、株式市場も1945年8月10日までやってました。
(121:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中、日本国内にいた外国人はどんな扱いだったのでしょう?

日本国内にいた日本国籍を持つ欧米系外国人は、スパイの疑いがあるとして憲兵による
監視下に置かれていました。
J・Bハリス氏の他にも、かのグラバーの子息倉場富三郎や外交官寺崎英成の妻女
(娘マリコの名が日米交渉の暗号に使われたのは有名)など、かなりひどい目に
あったようです。

日本国籍を持たない外国人は開戦と同時に拘束されましたが、日本と連合国が
行った在留者相互交換により本国へ強制送還されました。
日英および日米の交換船は合わせて4回抑留者の交換を行っています。
(143:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦艦や巡洋艦のスペックとか、一般市民にどれぐらい公開されてたのでしょうか?

まあ娑婆の人々がどこまで理解していたかはともかく、海軍はそれなりに広報していました。
私のかかりつけの医者は、子供の頃に陸奥の実物をスケッチしたことがあると話していますし
軍港見物ができた時代は、佐世保は陸奥、舞鶴は吾妻が船内公開されていたようです。

開戦まで、新聞報道はギリギリの線で海軍の情報を流していました。
佐世保のお膝元、長崎日日新聞の記事には
  • 6年6月、霧島が長崎・五島で公演・映写会・見学
  • 11年10月、修理中の由良で蒸気噴出、6名死亡 など、やばげな報道もしていました。

陸海軍が現代の「白書」じみた年鑑を発行していたことも分かっています。問題は頒布先ですが。
また、維新から日華事変参戦中の艦艇の写真集も発行してます。(編纂委員長が古賀さんなのです)。

公開されたスペックを覚えている海軍ヲタから、名前ぐらいは知っている程度までの幅はあれど
銃後の人たちは、艦艇を知る義務ではなく、知る権利を与えられていたのはまちがいないです。
(143:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

鉱物資源は日本領土や大陸でコストを度外視して採掘しても、戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか?

石炭、鉄鉱石など連合国の通商破壊で日本本土への輸入が叶わなくなった資源の場合、
本当に採算を度外視して、鉱脈があれば人的資源を投入して採掘を行ないました。

しかしながら、その鉱山開発に必要な採掘機械生産への投資や資源配分が行なわれなかったため、
既存の鉱山から採掘機械を転用するなどして、本来、重要鉱山(例えば、室蘭の鉄、常磐、筑豊の炭坑など)
で使用すればもっと生産が上がったであろうものまで影響を受けており、そうした資源開発をすることは
反って生産効率を落とすことになっています。
(146:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中、キリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが、それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう?

最近、仏教徒の宗派にしろ、基督教の宗派にしろ、太平洋戦争に於ける国家への戦争協力
を反省する文章が出てた筈です。

例えば、賀川豊彦門下のキリスト教徒が、国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりして
います。
また、太平洋戦争では、宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され、戦時活動実施の要目
として、教化活動の強化、宗教施設活用、報国団の整備拡充を申し合わせています。
仏教徒は、大東亜仏教青年会連盟を結成し、大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集する
としていました。
基督教では、日本基督教団が、各宗派の大同団結の下に結成され、ラテン語の賛美歌を日本語化
する活動を行い、新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降
使っています。

建前上、日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが、国家神道は別格扱いでした
(とは言え、その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが)。
民間レベルでは、特にその教義から基督教は敵視され、徴兵に於いても、生きて帰ってきても
何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに、基督教系の学校で先生やってた
から、祖父は三回も徴兵されたし)。
(251:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

徴用された船舶が撃沈されたら弁償してもらえたの?

太平洋戦争中徴用された船舶が喪失した場合、海上危険(衝突、座礁、沈没など)の
要因によって、保険金が支払われる場合がありました。

敵国に撃沈されたと明確に判断の付く場合(これを戦争危険と言い、乗組員の証言、同行船舶
乗組員の証言などで判断)は、保険が掛けてあっても、保険金ではなく、軍から補償金が支払わ
れます。

一方、単独行動中に行方不明になったとか、操舵員のミスで座礁したとか、衝突したなどと言った
場合は、保険会社が調査の上、海軍当局と協議し、潜水艦などに依るか否かと判断して、それが
敵の軍事行動による滅失の場合は、軍当局から補償金が、普通海上危難の場合は、保険会社から
保険金が支払われます。
これは徴用船舶、民間船舶でも同じでしたが、民間船舶の場合は軍が補償金を支払うケースは余り
ありませんでした(海軍の護衛下で船団航行中に喪われた場合がこれに相当する)。
また、海軍徴用船舶の場合は、普通海上危険によっても分損の場合の修繕費用は海軍が負担した
のに対し、陸軍徴用船舶の場合は、分損、全損とも普通海上危険では保険会社の支払いとなりました。

但し、軍の補償金は保険金額よりも一般的に低く、船主によっては普通海上危険にして貰おうと画策した
者もいたようです。
(155:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

沖縄戦の集団自決って本当にあったのですか?

一番有名なのは、渡嘉敷島の集団自決ですが、沖縄タイムスが編集した1950年の
「鉄の暴風」が最初に触れ、その後、それが子引き、孫引きで定着したのが始まりです。
曾野綾子がその辺を調べて、1973年に「ある神話の背景」という本を出しています。

さて、問題になるかならないかですが、例えば、渡嘉敷島の事例では、確かに集団自決
が行われています。
しかし、その集団自決は、軍の命令ではなく、村長や防衛隊員辺りから誰からともなく、
「自決命令」を聞いて、自決したものであったことが最近の研究で判明しています。

これが「軍の命令」となったのは、1955年頃、日本政府の援護法適用の際、「『軍の要請』
で戦闘に参加し、戦死した」形式を取らないと、補償の適用除外となってしまうことが判った
ため、生き残りの住民に島の長老が偽証するよう要請したと言う話です。

全部が全部この様な事例ではないと思いますが、一部にはこういう形で伝えられたものも
あります。
(230:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中の軍人と宗教の関係を教えて下さい。

いくつか手掛かりになりそうなものをあげておきます。
まずは田中智学の創設した「国柱会」です。ここは日蓮宗系の宗教団体で
宮沢賢治が入信していたことで知られていますが、田中智学は国家主義的思想が強く、
石原莞爾に代表される陸軍内の強硬派の信仰を集め、多大な影響を与えています。
ちなみに田中智学は「八紘一宇」という造語の創作者であることで知られています。

次に、竹内巨麿の創設した「天津教」があります。
いわゆる「竹内文書」によってオカルトファンには有名ですが、最盛期には
荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将といった錚々たる面々が信奉者として名を連ねています。
最終的に天津教は、天皇家の紋章である菊花紋を使ったという罪で不敬罪に問われ、
竹内巨麿は逮捕されましたが、終戦で不敬罪が消滅したことで無罪になっています。
その他に、治安維持法違反で検挙された大本教にも軍人のシンパは多かったとか。

この時期の新興宗教は、軍人を引き入れるのに熱心でした。
これは、教祖側が官憲の弾圧に対する抑止力として軍人の力を欲したことや、軍人の中に
国枠主義者が多く、教義的に受け入れやすかったことなどがありました。
(226:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦争「末期」ではないが、
大日本回教協会の初代会長は林銑十郎陸軍大将。
また、1938年、日本側の寄付によって建てられた東京モスクの落成式には
頭山満・松井岩根陸軍大将・山本英輔海軍大将が列席しておる。

もっとも彼らのイスラーム指向は宗教的なものというよりも、
当時、満州国にかなり存在した回教徒に対する対策的意味合いが強い。

そもそも林大将は皇道主義者であり、
現人神を信じる皇道主義と、
多神教を憎悪する(原理的な意味において)イスラームとは合い入れないものであるはずなのだが、
なぜか当時の(今も少なからずの)日本人はそういう矛盾を感じなかったらしい。

さらに笑えるのは
日本イスラームのパイオニア有賀文八郎(民間人)の著した「日本イスラム教の道徳概要」では
「但し」「但し」「但し」の連発によりて
飲酒、豚食、喫煙を肯定してしまっておる。
これではイスラームではなく、
イスラーム神道と呼んだほうがよいかもしれぬ。w

戦前は日本と中東の距離が地理的にも精神的にも遠く、
お互いにファンタジーじみた「中東」理解、
ファンタジーじみた「日本」理解(例えば日露戦争礼賛がそれである)で
事足りたのであろう。

しかしこれほど情報化が発達した世界においては
もはやそのような牧歌的な関係は
望んでも得られぬであろう。残念なことに。
(226:イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw)

昭和20年の航空機生産計画は何を根拠に決められていたんでしょうか?

20年前半期の計画より後半期は随分少なくなってますが。
既に南方からの輸送路が絶たれ原料供給の見込みが立っていない状況で、
希望的な数値を出しても意味がありませんから、ボーキサイトの在庫がどれ
だけ、それから出来るジュラルミンの製造高がどれだけ、ならば、作ることが
出来る機体の数はこれだけ、特殊鋼はこれだけ在庫があるから、エンジンに
回せるのはどれだけ…と引き算の論理で行けば、幾ら盲でも近似値は出せる
わけですわな。

ついでに、これも海軍の例ですが、雷電用の火星エンジンは1944年中期の時点で
誉への一極集中のため生産中止が決定し、治工具は他ラインに流用されてしまい
ました。
しかし、1944年11月の中島飛行機武蔵製作所への空襲は、海軍当局を周章狼狽させ、
生産中止になった火星を100基を2ヶ月で生産して納入しろと言った訳で。
工場では出来ないと断ったのですが、「これが出来ないと日本は敗れる」と拝み倒され、
結局、生産簡易化を図って12月から供給出来るようになったと言う話もあります。

1944年末には航空機生産高の増加を政府が命令しながら、1945年2月には生産現場の
疎開(しかも生産を落とさずに)を命じるなど、終始一貫してない訳ですな。
(225:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本の軍用機の生産数のピークが、物資に相当困っているはずの1944年だったのは何故ですか?

生産力が分散して、今まで総花的に、やれ戦艦だ、やれ戦車だ、やれ大砲だ、と色々やってたのが、
1944年以降に航空主兵に転換して、何が何でも航空機を作れと言う話になったからです。

1943年3月に五大重点産業が指定され、航空機生産のため、産業再編成が行われます。
この時に、不要不急産業(繊維産業など)は軍需産業への転換を余儀なくされます。
1943年10月には軍需会社法が制定され、軍需会社に対する統制と特権措置が発動、11月に軍需省が
設けられ、その麾下に航空兵器総局が設置されて航空機増産体制が一元化、1944年1月に航空工業会
が発足、1942年に続き、航空機大増産指令が出され、超重点最優先の産業となります。

この時期に、機械工業力のピークを迎えた訳です。
(225:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
戦略爆撃調査団はこう述べています。

戦争中期には航空機生産に関しては、アルミニウムは潤沢な供給があった。
しかし44年に急激に引き上げられた航空機生産目標を達成しようとすれば、アルミの供給は需要を満たすことはできなかっただろう。

以上要約。
アメリカの潜水艦が輸送船攻撃を明確に打ち出したのが43年後半。功を奏すのが44年半ばごろからです。つまり、44年前半までは、
ある程度アルミの新規取得が可能でした。
43年のアルミのストックと44年前半のアルミで、44年の航空機生産を支えていましたが、景気が良かったのはあくまで前半の話。
後半になるにつれ、輸送船の被害が拡大。44年後半にはアルミの取得は前年の66%に低下、末には新規取得は事実上0となります。
こうして45年の航空機製造は寒いものになってしまいますが、44年はある程度のアルミの取得が可能だったことと、生産設備の
充実に伴って、航空機生産はピークを迎えたのでした。
で、あとは資材不足と空襲で生産設備が被害をうけ、下り坂を転がり落ちていく、と。
(225:784)

東条英機暗殺計画について御教授ください

サイパン戦の不始末、マリアナ海域での戦況悪化、北九州爆撃と言った状況にも関わらず、
東条首相は、嶋田海相と共に、杉山陸軍参謀総長、永野海軍軍令部総長を元帥にして追い出し、
それぞれがその後任に就任し、一気に権力を掌握します。

その後、高松宮の軍令部からの転出、近衛側近の酒井中将の解任、岡田大将と瀬島大佐の関東軍
への転出、松永参謀本部戦争指導班長の中国戦線への転出、松前逓信院工務局長の二等兵として
の召集、創価学会関係者の弾圧、毎日新聞の新名記者の政権批判記事に対する弾圧と召集などしたい
放題の状況となっていきます。

事此処に至って、1944年6月22日の夜、神大佐は、小料理屋に元海軍中尉で、5.15事件で犬養毅を射殺
した三上卓を呼び出して会合を持ちます。
翌23日に、高木惣吉と、神大佐が会合を持ち、次の7条件を示します。

1. 秘密保持と民間人の犠牲者を出さないために、三上卓は勿論、民間人とは一切関係を持たない。
2. 計画の実行者は7名
3. 決行後の脱出は一式陸攻を用い、パイロットと共に7名が搭乗するために、決行人員は7名となる。
  決行後6名を脱出させ、現場には高木惣吉が残り、全責任を取る。
4. 決行日は火曜か金曜とする。これは、東条がその日10時にオープンカーに乗って行くからである。
5. 決行方法は自動車3台に7名が分乗して、東条首相のオープンカーに衝突させ自動車事故とする。
  失敗したときは射殺する。
  場所は海軍省手前の四つ角で、1台は海軍省に、大審院の壕側にもう1台、内務省に1台を配置し、
  見張を警視庁前に置いて、東条の乗ったオープンカーが見えたら合図し、四つ角にさしかかるところで、
  前と両方の進路から突入して襲撃する。
6. 決行者の脱出については、厚木基地司令の小園中佐が協力し、一式陸攻で決行者は台湾に脱出する。
7. 決行日は高木が決定し、決行日2日前に決行者に直接連絡する。

で、6月23日に東条首相はサイパン放棄を決め、24日、いよいよ臍を固めた高木惣吉は岡田大将を訪ね、
決行を打ち明けます。
岡田は之に反対しますが、高木の決意は固く、決行前に必ず連絡させることを約束させて帰します。
それから、岡田大将は、伏見宮元帥を訪ね、海軍内部の状況を報告し、伏見宮から天皇に上奏が行き、
嶋田更迭、東条辞職の布石が打たれたため、暗殺決行は中止となりました。
(195:眠い人 ◆gQikaJHtf2)



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