軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

WW2各国の戦車

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匿名ユーザー

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2C戦車の砲塔の後ろのところにのっているエンジンみたいなのはなんでしょうか?また、車体側面にある機銃の正確な場所はどこでしょうか?

排気管が出ていますから、ガソリンエンジン用の機関室と思われます。
一応、ガソリンエンジンで発電機を回す方式でしたから。
で、思想的には第一次大戦の発想ですから、上面からの航空機の攻撃
は考慮されていなかったのではないでしょうか。

車体前方何ミリの所にあるのかは寡聞にして判りませんが、車体前方に2丁8ミリ機銃が装備されていました。
(11:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)

イギリスの戦車で、砲塔の周りに白いペンキかなにかで、角度が書いてあるものがありますが、あれはなんのためなんですか?

某模型メーカーのセントー戦車の説明書によれば、
照準用目盛りだったと思います。
(10:名無し厨尉)
セントーのCSタイプなんで、支援砲撃用のものであって、直接照準用で
無いと思います。
なので、目盛りを書いても差し支えないのではないかと思いますね。

ノルマンディー上陸作戦時の第一ロイヤル海兵機甲支援連隊所属の
セントーIVですね。
(10:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)
どのように目盛りを使って、目標を統一するんですか?
砲兵観測用でしょ。北を零として、「目標○時○分方向!」って
指示するのが普通です。もちろん、おおよその距離も知らせます。
で、艦上の観測員が正確な目標距離を算定し砲撃するのでは?
(24:一等自営業 ◆kawD31MU)
セントーMK.ⅣはRMASG(英国海兵隊機甲支援グループ)と呼ばれる部隊で戦車揚陸艇に
乗ったまま味方歩兵部隊を海上から火力支援する任務に就いていました。
砲塔の目盛りは海上から射撃を行うときに、たとえ視界不良でも複数のセントーが
同一方向へ射撃を行えるように基準として書き込んだものです。
1942年11月から950両が生産されたうち80両は、この95mm榴弾砲装備型でした。
クロムウェルとセントーの違いは前者がミーティアエンジン・後者がリバティーエンジンを
搭載していることです。
(53:130)

カリオペって対日戦でも使われたんでしょうか?

カリオペ・シャーマンは、私が知っている範囲で太平洋域のは見たことがありません。
でっかいロケット、ホイッツバンのランチャーをLVT(多分LVT-4)に載っけた例は太平洋であります。

あとカリオペで用いたれたロケットをダック(水陸両用トラック)にぎっしり載せた例もあり。
これは太平洋で用いられたとキャプションにありましたが、実戦写真では未確認です。
なんか、島に一気に上陸するんですから、大砲をえっちらおっちら揚げている間に、カリオペで凌ぐってありそうです。

勝手な想像ですが、道無き道のジャングルでは邪魔になるという以外に、
カリオペでは揚陸艦に載せにくそうに思います。
ところが、役に立つ。
そこで水陸両用車両にって事になったのかも
(26:朝日太郎)

M4の主砲である76ミリ砲は鉄鋼弾では75ミリ砲よりもすぐれたものだが、榴弾を撃つときにはその逆だったと以前読んだ事があります。

何かワケがあるのですか?
×鉄鋼弾 ○徹甲弾
簡単に言うと砲の口径が大きくなっても中に入ってる炸薬の量が少なければ、
威力は小さいということです。
で、どうしてそういう設計になったのですか?
設計の理由ですが、単純に言うと対戦車能力を重視したということです。
そして対応ですが、当時は75mmの貫徹力のなさが緊急の問題でして、問題とされた76mmの榴弾威力の少なさは
目をつぶることになりました。
ただ現場では炸薬量の多い75mmが歩兵支援用に好まれたので、76mm砲型に生産の主力が移行してからも
並行して生産されました。
あとさらに榴弾の威力の高い105mm砲型も生産されてます。
砲を改良せずに用途によって使い分けたということです。
(36:バッチ3)

Nahuel DL43 アルゼンチン中戦車ナフェル1943ってどんな戦車かご存知ありませんか。

Nahuelは、4人乗り75mm砲搭載の中戦車で、16両生産されています。
その後、M4など米軍の装備を供与されたのでこれ以上の発展はありませんでしたが。
(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)

三式戦車対シャーマン戦の予測では60mでないとシャーマンが倒せないとされたものを読みました。

となると一式砲戦車対シャーマン戦で一式が善戦したらしいという記録が怪しくなるのですが、どちらの信憑性が高いでしょう?
一式砲戦車の戦果は主に防御戦闘時の側射陣地からの射撃による
斜射側射は防御火力を編成する上での基本で、敵戦車の攻撃方向を至当に見積り、
障害と連携して周到な対戦車火力を編成した日本軍の対戦車戦法が
間違ってなかったことを証明している
一式砲戦車は当時の日本陸軍の保有する最強の対装甲火器であり、善戦したのは間違いないが、
虎や豹のようにM4を嬲り殺していたわけではない
(45:389)

M3軽戦車って、実戦配備時に車体が延長されたって本当ですか?

エンジンの違いによって車体が変わってるのは確かです。
(45:901)

M4ってM4A6まであるけど違いは?

M4…溶接車体、鋳造砲塔、M3 75mm砲またはM1A1/A2 76mm砲装備、
    エンジンはコンチネンタルR-975空冷9気筒
M4A1…鋳造車体採用、M3 75mm砲またはM1A1/A1C/A2 76mm砲装備、
     なお、76mm砲塔はT23と同型式。
M4A2…溶接車体、鋳造砲塔採用、M3 75mm砲装備またはM1A1C/A2 76mm砲装備、
     エンジンはGM6046水冷12気筒ディーゼル。
M4A3…溶接車体、鋳造砲塔採用、M3 75mm砲装備、またはM1A1/A1C/A2 76mm砲
     装備、エンジンはフォードV8水冷8気筒ガソリン
     後期車体には湿式弾庫を装備した。
M4A4…エンジンにクライスラー・マルチバンク水冷30気筒ガソリンを採用。
M4A6…兵器廠製RD-1820星型9気筒ディーゼル搭載。

なお、M4A3、M4A4には105mm榴弾砲搭載型もあります。
(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
M4に76mm型はないです。(計画のみ)あと76mm型全ては湿式で後期型車体ですし、後期型車体でも105mm型は乾式です。
あと後期型車体を採用したのはM4(105・75ハイブリッド、ただし乾式)、M4A2(75後期、ただし乾式・76)、
M4A3(75後期・76・105)、M4A6(ハイブリッド、ただし乾式)です。
それと105mm砲型はM4とM4A3です。M4A4とM4A6は75mm型のみ。
欠番のM4A5はカナダのラム戦車です。
(47:バッチ3)

第2次世界大戦イギリスが、アメリカからもらった空挺戦車つかったって聞いたような

テトラーク空挺戦車は英オリジナル、ノルマンディでも投入されてますが
投入数も微々たるもんです。
(47:404)

T-34にはハッチを内側からロックする仕組みはなかったんでしょうか。

たいていの戦車のハッチには、内側からロックできるようになっている。
ただ、戦闘時には視界確保や脱出等の為に、ロックをしていないことが多い。
(俺43:35)

『バレンタイン戦車』というのがあると聞いたんですが

ヴィッカース・アームストロング社が
1938年2月14日に陸軍省に企画書を提出したため、命名されました。
(63:91)

何故第二次大戦中のアメリカはM26パーシング戦車の開発が遅れたのでしょうか?

 シャーマンの車高低下→
  火力の強化→
   タイガーへの対抗上、再強化。
のような感じで段階的に研究を重ねたためです。

また、開発途上で四号戦車相手ならかなり有効そうな試作品が完成して
いたのですが、ノルマンディー上陸前にそれらを量産する必要無しと
判断したためです。

新兵器の完成まで作戦を遅らせたくない。
シャーマンより重い戦車は、たくさんイギリスに送れない。

等の理由です。
ちなみに、上陸作戦を前に戦車兵の再訓練をしている暇が無いので、
シャーマンの火力強化すら見送られました。
(64:136)
補足なんですが、アメリカのM10やM36は、「タンクデストロイヤー」です。

十年くらい前からか、「駆逐戦車」じゃなくて「戦車駆逐車」と訳す方が増えて来てます。

機動力に物を言わせて戦車より先行し、敵戦車と火砲を破壊する車両として開発されて
います。

敵の火砲を早く発見できるように、わざとオープントップとされてます。

と言う訳で、ドイツの駆逐戦車とはまったく性格を異にする物ですのでご注意ください。

(とは言え駆逐戦車の定義も無いけどね。)
(64:145)
現実的な問題を挙げますと、船で運ぶにはパーシングは重すぎるのです。
というのは、米国の港湾のクレーンの制限重量がシャーマンで限界であったためだそうです。
日本の97式があのような重量なのも、クレーンで積み込み可能な限界があるからです。
(64:148)
最初、米国は45トン級のM6重戦車を開発していました。
しかし、米国の戦車運用構想は、ドイツの電撃戦思想をもろに受け、装甲と
火力を二の次にして機動性を重視したため、そして大西洋の海上護衛戦が
連合国に不利に推移していたのもあり(輸送船が次々に沈められているのに、
スペースを食う重戦車は不要)、重戦車の開発は細々と続けられていたに過ぎ
ません。

しかし、連合国が海上護衛戦に勝利し、欧州戦線の展開で、重武装の戦車が
求められたので、漸く開発が本格化した訳です。
(64:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

シャーマン戦車のエンジンは全形式とも信頼性が低いって本当?

一応解説しますと
M4,M4A1
 振動による燃料漏れと引火事故/FODに弱い/オーバーヒートがひどい。
 とかいろいろあったけど、改善されたみたいです。
 (イスラエルが好んで使ってますし。)

M4A2
 FODに弱い。 でも片側が止まってもシャーマンが動く程度の出力が
 出たそうで、むしろ生存性は高いと言われてます。

M4A4
 整備が面倒ってだけ。 初期モデルは問題があったが改修されてます。
 イギリスは信頼性は高いと言ってます。

M4A6
 トラブル解消前に開発中止。 でも、実戦には出てません。

で、問題のM4A3ですが、日本で国産化したエンジンが異常に信頼性が
低かったために、自衛隊OBの方で、そういう見解の方がいるそうです。
当時の日本ははっきり言って発展途上国でして、工作精度も低く、エンジンオイルも低質でした。
加えて、アメリカさんから提供された図面はインチで書かれてたんですが
それをメートル法で書き換える時に寸法誤差の取り方を失敗しちゃったとのことです。

で、まあ昔の日本で、シャーマンのエンジンの信頼性は劣悪という評価があったそうです。
(65:514)

巡航戦車(Cruiser Tank)と分類される戦車がありますが、これは普通の戦車(軽戦車や重戦車といわれるもの)とどう違うのでしょうか。

所謂巡航戦車はイギリスでのカテゴリーですが、
リデル・ハート流の「陸の艦隊」として機動打撃を行なう機動力の高い(その分軽装甲の)戦力として、
陣地突破用の重装甲・低機動力の歩兵戦車と別に開発されました。
(70:601)
WW2に「巡航戦車」と呼ばれるカテゴリーを専門に開発していたのは英国です。
英国では一般的な軽戦車、中戦車(主力戦車)、重戦車と言った区分けではなく、
軽戦車、巡航戦車、歩兵戦車という区分けを用いていました。
軽戦車はそのままですので割愛します。

巡航戦車は路上において快速を発揮し航続距離が長く、路外においても軽快な
機動が可能な戦車として開発されました。他国の中戦車と同じモノ、とも言えます
が、英国では特に機動性を重視し走行系の能力に応じた砲、装甲を装備する傾
向に有りました。
つまり機動性をスポイルしない範囲で各種装備の性能を決めていたのです。
代表的な巡航戦車として「クロムウェル」が有りますが、これは航空用マーリンエ
ンジンを地上用に転換したミーティアエンジン(液冷V12ガソリン)を装備し、路上に
おいて時速50キロを超える快速を発揮し、航続距離も300キロ近くに達しました。
まさに陸上の巡洋艦と言えると思います。

大して歩兵戦車と言うカテゴリーは、歩兵と共同して強固な陣地や敵戦車を排除
するのが任務とされ、巡航戦車に対して鈍足ですが重武装、重装甲となっている
のが特徴です。
なかでも特に重装甲の歩兵戦車として「チャーチル」が有りますが、これは路外
においては時速10数キロしか発揮する事が出来ませんでした。しかし英国では
歩兵の前を進めれば良いとして歩兵戦車の路外機動はこのレベルが普通です。
しかし歩兵戦車は車体が長く、超壕性能は高いのが特徴でした。

第二次大戦終盤になって英国は従来の歩兵戦車、巡航戦車と言う区分けを止め、
新世代の主力戦車(中戦車)として「センチュリオン」を開発します。これは防御力
も攻撃力も機動性も従来の戦車を上回る水準でまとめあげ、結果的にこれ以降
の英国戦車は重戦車、中戦車、軽戦車という一般的な区分けに統合されて行く
事になり、巡航戦車は開発されていません。
(70:604)

第二次大戦終結位までのイタリアの戦車や軍用車両の顛末などが分かる資料ってありますでしょうか?

う~ん。
洋書でならあるかも知れませんけど、とりあえず日本のなら、「世界の戦車1915-1945」
(大日本絵画)辺りでしょうか。
後デルタ出版のグランドパワー95/8が第二次大戦のItalyの軍用車両特集です。
(76:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

M4やM26のコマンダーズキューポラにある6方向の視察孔は単なる防弾ガラスか潜望鏡かどちらでしょう?

コマンダーズキューポラと言うのが、上部ハッチの円形のリングのところ
とすれば、そこの視察窓は「単なる防弾ガラス」です。

視察窓の形が、長穴形状(両側が丸くなってる形状)の場合は、99%、
単なる分厚い防弾ガラス、と考えて良いです。
(77:≡ 6等兵 ≡)

M3リーグランドとM5スチュアート戦車の元ネタをおしえてくだされ。

リー、というのは南北戦争の南軍の将軍で、南軍の英雄。ついでに言うと
アーリントン国立墓地はリー将軍の屋敷の敷地だった(南北戦争の戦没将兵の為に彼が提供した)。
グラント、というのは同じく南北戦争の時の北軍将軍で、北軍のの英雄。
後にアメリカ大統領になった。

      • というかどちらもとてつもない有名人だぞ(汗 検索しる! というか
軍事板に来るような人間なら基礎教養なんだが・・・まぁ知らないならしょうがないか。

スチュアート、というのはやっぱり南北戦争の時の南軍の騎兵将軍。
南部騎兵隊にこの人あり、と言われた人だった。
(82:195)

「パンツァーフロント」というゲームでは砲塔防盾が弱点である戦車が多いです。装甲は厚いはずなのになぜなんでしょうか。

防盾には小さいながら照準機や機銃の穴が付いているので
そこに砲弾が当たると通常防盾に当たるよりは簡単に撃破されます。
(96:294)
そうです。
バージョン差もありますが、ハーフトラックが88mm砲を弾いたと言う話もあります。
おそらく純粋に着弾角から砲弾が侵入する方向への装甲厚を計算し、砲のカタログから求めた貫徹力と大小比較してるのでしょう。
弾頭重量からくるダメージも装甲材の弾裂による貫通も考慮してないために、ことさらに防盾が脆く見えるようです。
ゲームと割り切ってください。

なお、実車でも砲身基部は弱点ですし、パンターの防盾脇のはみ出し部分は弱点ですので、そう言う所の命中弾による撃破は吉としてください。
(96:300)

イギリスのファイァーフラィについて質問です。

このファィァーフラィ、戦車というよりは対戦車車両だと思うのですが、資料では戦車に分類されていることが多いです。
それはなぜなのでしょう?対歩兵戦闘や対陣地戦闘に向いているとは思えないのですが・・・。

次に、ファイァーフラィの写真を見ると、車体機銃がなく車体機銃のある場所に蓋がしてあるものと、
車体機銃がついているものが両方あります(機銃つきのものは少ないですが)。
これは何故なのでしょうか?2種類あったということでしょうか?

最後に、シャーマン戦車には丸い砲塔の75mm砲型と、平たい砲塔の76mm型が
ありますが、なぜ76mm砲型砲塔がファイァーフラィのベースには使われなかったのでしょうか?
76mm砲型砲塔のほうが、内部容積が広くて17ポンド砲を積むのが楽そうですが・・・。
とりあえず、時間がないので判る範囲だけ。

戦車か?対戦車車輌か?
 → 戦車は戦車を相手にしています。
    従って、広義の対戦車車輌ですね。
    その当時の対戦車車輌は、装甲が厚くて固定式戦闘室を持つものか、装甲が薄くて大口径砲を搭載
    するものかの何れかという形だと思います。
    故に、戦車と同等の装備を持ち、回転式砲塔を有するFireflyは、戦車と言っても差し支えないのでは
    ないでしょうか。
    但し、英国式に言う、火力支援戦車でしょうね。

車体機銃の有無。
 → 車体機銃は基本的に取り外しているケースが殆どだと記憶していますが。
    車内に砲弾を搭載するスペースを増やすために銃手席を廃止していた筈ですし。

75mm砲塔型がベース車輌に使われた理由。
 → 76mm砲自体は初速、有効射程距離、貫徹力全てにおいて75mm砲に勝っています。
    但し、その搭載車輌は75mm砲型に比べると少なく、またそこそこの戦闘力は持っていますので、
    ベース車輌にするには勿体なかったのでは無いでしょうか。
(96:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
1.戦車と分類するか否かは当時の調達/運用者の都合次第。
ファイアフライは立派に対陣戦闘などもこなせる。
また、17ポンド砲による対戦車自走砲や戦車駆逐車は別途存在する。

2.車体銃は試作車も含め、すべて外してある。
普通のシャーマンとファイアフライの混成部隊の見間違いでは無いか?

3.英軍が17ポンド砲のプラットフォームを用意しようとした時期に、75mm砲型のみが、配備されていたので選択の余地は無かった
(96:336)

ファイアフライってのは、正式名称じゃなくってただのニックネームだったのですか?

ファイアフライは英国人のセンスだし……
戦車にチャーチルなんて名前を付ける香具師等がなにしようと驚かない。
101:265)
英が戦闘車両の名前を付けるにあたり、人名→宗教用語や神話→勇ましげな名前など雑多に使っていた。
輸出&レンドリースした兵器について、アメリカは英国側の意向を良く取り入れており、
(例えば砲塔に無線機を積む。コマンダーズキューポラを銃塔にしないなど)結果的に大戦
初期の英国に倣った「人名頂戴」がアメリカ側の伝統になった。
101:267)

イギリスってアメリカから戦車貸してもらって、勝手に名前付けてたんですか。

一応、人名はアメリカの武人の名を使う配慮はしてたりする。
(101:271)
大事なことを忘れていた。
M3グラントを購入&命名時点で、英国は米国から有償で戦車を購入している。
アメリカもその時点で英国側の意向に沿った砲塔を生産してるけど、機密品である砲安定
スタビライザーを載せなかったり、ビジネスライクな面を見せている。
いきなり借り物に勝手に名前つけた訳では無いよ。
(101:293)

イギリスのクロムウェル戦車の砲塔ですが、定規の目盛りみたいなのは何の役に立つのですか?

上陸作戦時に使うもので、戦車が艦の甲板上から砲撃する時に砲煙で標準が定まらなくなって
しまった時に使うものだそうです。他の艦上の戦車の目盛りを見て照準を定めるんだそうです。
(101:270)
270の補足。
ちなみにあれはクロムウェルでは無くてセントーMk.Ⅳ巡航戦車です。
これらの戦車はRMASG(英国海兵隊機甲支援グループ)と呼ばれる部隊に属し、
戦車揚陸艇の上から陸上を砲撃するために製造されました。
この任務のためにセントーMk.Ⅳには95mm榴弾砲が搭載されています。

射撃指揮は搭載された戦車揚陸艇ではなく別の母艦から無線で行われました。
つまりこの目盛りを基準にして複数の艦上の戦車がいっせいに同じ方向に砲身を
向けることができるように工夫されていたわけです。
(101:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

アメリカ軍には航空機用の星型エンジンを積んだ戦車があったのでしょうか?

強制冷却ファンを積んで冷やしていました
これはたいへんやかましかったそうです
(103:284)
コンチネンタルのR-670型エンジンがそれに当たります。
スチュアート戦車、M3中型戦車、M3シャーマン戦車、海兵隊で使わ
れたLVT A-1等に使用されました。
(103:295)
M4シャーマンのエンジンをぐぐったら、「クライスラーA57、30気筒マルチバンク液冷ガソリンエンジン」
って書いてあったんですけど?
あれっ?「フォード製水冷8気筒ガソリン」って書いてるページもある。
どれが本当なんでつか?
シャーマンと言ってもね、多数のエンジン/車体・タイプが有るの。
(103:316)
シャーマンはね、国内の各工場が生産できる鋳造/溶接車体、
適当な出力の液冷/空冷エンジンを組み合わせて大量生産されたの。
(103:322)
当初は空冷ガソリンエンジン。
これは、戦車に使える高出力でコンパクトなエンジンが、航空機用以外に適当な物が無く、
専用設計も面倒だから。
空冷だと熱がこもって不都合も多いが、当時のアメリカでは水冷の航空機用エンジンの方は
製造数が少なかったので仕方ない。
ただし、戦争が激化すると航空機の需要が増すことが予想されたので、GM、フォード、
クライスラー他に、早期に実用化可能なので、戦車に搭載可能なエンジンの開発が打診された。

各エンジンは、
燃料(ディーゼルとガソリン)
全長
冷却方式
ドライブシャフトの高さ
などがマチマチで、当然、エンジンデッキの冷却気の取り入れ方や燃焼用の空気取り入れ口
車体の全長、排気管の取り回し、操縦用の計器類、砲塔床下の構造などを変えていた。

と言う訳なので、柔軟にエンジンは変えられないよ。
それぞれの工場が、支給されるエンジン(時期による変化を除くと基本的には一定の型)に
合わせた車体を、少々作りやすくアレンジして量産した。
なお、エンジンや車体の多形式化はM3から始められている。
(103:402)
戦後イスラエルが入手したシャーマンのエンジンを極力空冷星型に統一してるが、
確かにただエンジン乗せ変えましたって風では無い。
(103:411)

M4A3 OPという戦車を砲兵観測員が使用していたようなのですが

この戦車の仕様の詳細についても教えて頂けると幸いです。
ちなみにOPという語が入っている戦車の例としてはRam OP tank こちらです。 
http://www.mapleleafup.net/vehicles/cac/ramtank_05.html
今思ったのですが、このRamとはM4A3のみを指しているのでしょうか?

Ram、というのはカナダのラム巡航戦車のこと
シャーマンのカナダ版・・・というかM3グラントのカナダ版、と言える車両。

砲塔を外して”カンガルー”という名の兵員輸送車に改造された物がわりと有名。
(115:614)
カナダ軍のラム戦車でしょう。
(115:615)
観測戦車型は1943年にモントリオール戦車廠で84輌製作。
主砲はダミーで砲塔バスケットを廃止して空いたスペースに指揮用テーブルと無線、
有線の通信装置及び砲兵観測機材を追加。そのため砲塔は90度までしか回転しない。

シャーマンOPの方もそれなりの改修を受けていると思われ。
(115:617)

鋳造車体の105mm砲塔を搭載したM4A1は戦中にもあった形式なのか

M4A1の105mm榴弾砲搭載型は1941年に計画が立てられ、1942年11月にM4A4が2両、
これに改造されています。
最初がM4A4E1でこれに改造が加えられたのが、M4E5です。
前者が、M4(105mm)、後者がM4A3(105mm)として制式化されました。
これらは、中戦車大隊の大隊本部中隊に配備されている75mm自走榴弾砲の後継として使用されています。

また初期型ベースのものは、主にShermanIBとして英軍で使われました。

なお、歩兵近接支援用突撃戦車として、T26E1が間に合わないので、車体前部と側面上部に
厚さ38mmの装甲板を溶接し、肉厚のデファレンシャル・ギア・カバーを装着、
177.8mmの防盾が取り付けられた装甲厚152.4mmの砲塔が取り付けられたものは、
M4A4E3と呼ばれ、1944年5月から6月にかけてグラント・ブランク戦車工廠で、254両生産されています。
(117:眠い人 ◆gQikaJHtf2)



M4戦車の開発当初、モックアップ審査の時点でキューポラが廃止されたと聞きました。理由は何だったのでしょうか

車長に全周視界を与えるよりも、何を優先したのか知りたいです。
車高が高くなりすぎるから。
M3リーがそうであったようにM4(の試作型)も背が高く、キューポラ付けると
更に背が高くなるのでやめた。

M3リーは供与する為にイギリスに見せたら
「こんな背の高い戦車じゃいい的になる。車体は仕方ないにしても砲塔はもっと
 低くしてくれ」
なんて言われて平べったい別砲塔型(これが”グラント”中戦車)を作ったぐらいで、
このグラント用砲塔には当然ながらキューポラはついてない。
それで問題になったという話もなかったのでそのままキューポラ無しになった。

あと、アメリカ軍がシャーマンに求めたのはあくまで「歩兵支援戦車」だったので、
「全周視界が無くて不便」という局面を想定できなかったというのがある。

ついでに言うと「うちらの戦車は車高があまりにも高すぎる」というのはアメリカ軍は
密かにかなり気にしていたらしく、結局没になったT20やT23といった
”シャーマンに替わる筈だった”戦車たちは限界まで車体が低い設計ばかりになっている。
(350:701)

M4シャーマン中戦車について

ドイツ戦車のトチ狂った火力などに苦戦したM4シャーマン中戦車は、現地で土嚢を積んだり撃破された戦車の装甲板を切り取って
溶接したりしたそうですが、それらの応急処置的増加装甲はどれほどの効果があったのでしょうか?
土嚢は重たくて足回りに不具合が出る割に効果がほとんどなかった。
パンツァーファウストのような成形炸薬相手にはそこそこの防御力を示したが、
デメリットの方がはるかに大きかった(なのでパットン将軍は禁止令を出している)。
切り取った装甲板の防御力はその切り取って貼り付けた装甲の厚さによる。
でも、88mmを相手にするとあまり意味がなかった。

あと、M4は車体の弾薬庫部分に四角い増加装甲を貼る事が現場レベルではなく野戦修理所
レベルで行われたが、これは防御力はほとんど増さない割りに「ここが弱点です」と丁寧に
教えてるようなものなので、逆効果となった。
しかし、このようにあまり意味はなくとも戦車兵達は「気分だけでもやらんよりマシだ」と
規定無視でありとあらゆる「増加装甲」を自分の戦車に載っけまくっていた。
(520:695)

M4シャーマン戦車は失敗作だったのですか?

大戦中の米陸軍のM4シャーマン戦車は戦争への備えを怠っていた米陸軍のために、あのようなドイツの戦車には敵わない
ような失敗作になったという話を聞いたのですが、本当に失敗作だったのですか?
その前のM2、M3のコンポーネントを流用して、手早く敵であるIII号、
IV号戦車に対抗できる戦車を大量生産できたという点では評価できる。

問題なのは、AGF(陸軍地上軍管理本部・・・陸軍航空軍が別にあるのでわざわざ地上軍と付く)が
M4シャーマン程度の性能でドイツ戦車に
十分対抗できると信じ込んで、より強力な90mm砲搭載のT25やT26(後のM26)の配備を妨害したこと。
またシャーマンも90mm砲を搭載できる
車格なのだが、75mm砲や76mm砲で十分、と考えていたので、いざノルマンディーに上陸してみたら
パンターと正面きって戦えないことが判明。
「対戦車戦闘用としては」失敗作になってしまった。
なお同じシャーシのM10やM36を見てわかるように、水冷V8やツインディーゼルを搭載した型なら
車高を下げることもできたが、互換性や車内の広さを優先したのかそのまんま。
(542:850)

M3グラント戦車はアフリカ戦線では「砂漠の救世主」と称えられてドイツ軍を圧倒したのに、逆にロシア戦線では役に立たず、

「7人兄弟用棺桶」と陰口をたたかれました。しかし、両戦線でグラント戦車が使用された時のドイツ軍主力戦車は、同じ3号戦車だったはずです。
M3は対峙した相手が同じ戦車なのに、どうしてこんなに評価に差が出てしまったんですか?
北アフリカでは、当時榴弾の支給されてなかった2ポンド戦車砲ではドイツ軍の対戦車砲に対し有効な反撃ができず、
大きな損害を出していた。
M3中戦車は75mmの榴弾が使えたので、ようやく対戦車砲に対し有効な反撃ができたので、その点で好評だった。
しかし東部戦線に現れた1942年半ば頃では、ドイツ戦車の火力が向上していたこともあり、北アフリカほど優位に戦えなかった。
(572:290)

「榴弾の撃てない初期のイギリス戦車」という記述を見つけたのですが、これは日本軍のチハ並の大失敗だったという理解で良いでしょうか?

元々、英国の戦車の傾向として、重装甲で歩兵に随伴して榴弾を発射して、その突撃を援護する歩兵戦車と、
その戦車を援護して、対戦車戦闘に特化した巡航戦車の2種類に、1936年に分けた訳で。
また、費用的な問題、兵科の対立などから両方の任務に就けるような戦車が開発出来なかったと言う面もあり
ます。

とは言え、同じ車体を用いて、榴弾を撃てる近接支援用の戦車を生産、配備していますので、大失敗とまで
言えないのではないか、と思いますが、この辺は主観問題。
(340:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

イギリスのセントーMk.Ⅳ巡航戦車の砲塔には、定規の目盛りみたいなのが描いてありますが、何の役に立つのですか?

上陸作戦時に使うもので、戦車が艦の甲板上から砲撃する時に砲煙で標準が定まらなくなって
しまった時に使うものだそうです。他の艦上の戦車の目盛りを見て照準を定めるんだそうです。
(101:270)

これらの戦車はRMASG(英国海兵隊機甲支援グループ)と呼ばれる部隊に属し、
戦車揚陸艇の上から陸上を砲撃するために製造されました。
この任務のためにセントーMk.Ⅳには95mm榴弾砲が搭載されています。

射撃指揮は搭載された戦車揚陸艇ではなく別の母艦から無線で行われました。
つまりこの目盛りを基準にして複数の艦上の戦車がいっせいに同じ方向に砲身を
向けることができるように工夫されていたわけです。
(101:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

M4戦車の型番についてご存知の方がおられましたら、宜しくお願い致します

M4A1の105mm榴弾砲搭載型は1941年に計画が立てられ、1942年11月にM4A4が2両、
これに改造されています。
最初がM4A4E1でこれに改造が加えられたのが、M4E5です。
前者が、M4(105mm)、後者がM4A3(105mm)として制式化されました。
これらは、中戦車大隊の大隊本部中隊に配備されている75mm自走榴弾砲の後継と
して使用されています。
また初期型ベースのものは、主にShermanIBとして英軍で使われました。

なお、歩兵近接支援用突撃戦車として、T26E1が間に合わないので、車体前部と側面上部に
厚さ38mmの装甲板を溶接し、肉厚のデファレンシャル・ギア・カバーを装着、177.8mmの防盾
が取り付けられた装甲厚152.4mmの砲塔が取り付けられたものは、M4A4E3と呼ばれ、1944年
5月から6月にかけてグラント・ブランク戦車工廠で、254両生産されています。
(117:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

スペイン戦争時にドイツ軍は、自軍の一号,二号戦車よりはるかに高性能なT26戦車を、どの様に評価していたんでしょうか?

所詮英国の物真似であり、装甲は薄く、ラインメタルのPaK36さえあれば、直ぐに
装甲をぶち破ることが出来る。
従って、戦車などに頼らなくとも、対戦車陣地に誘い込みさえすれば、撃破は簡単。
1000m以内ならば、Pak36で撃破出来るし、2号戦車でも500m以下の距離であれば、
その主砲にて撃破できる。

よって、T26は恐るるに足らず。
また、2号戦車は所詮付け焼き刃であって、本命は3号戦車だし、その主砲は37mm
なのだから、T26を撃破できる。
(272:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

M4は地雷で引っ繰り返せますか?日本軍はどう戦ったんでしょう?

地雷の場合は、精々擱坐させる位しか威力がありません。
余程の軽戦車(タンケッテ)程度でないと、引っ繰り返すのは無理。
Caterpillar切っても、回収して修理すれば前線に出せますし。
分隊一個を潰して擱坐させた戦車が、あっと言う間に戦場から回収され、再び修理されるケースが
Imphalでは多く見られました。

日本がM4などを相手にする場合は、思いっきり近くから37mm対戦車砲を側面か背面から打ち込むか、
陣地に引き込んで榴弾砲などの野戦砲の直射くらいと、後、火炎瓶くらいです。
火炎瓶で、火災を起こさせ、乗員が慌てて出てきたところで上に乗った兵が中に手榴弾を投げ込み、
戦車を乗っ取って、敵に発砲すると言う戦術も採られています(当然最後は撃破される訳ですが)。
(243:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

シャーマン戦車はエンジンがタイプ別にバリエーションが多いのはどうしてです?

要するにアメリカですら必要な生産量をなかなか確保できなかったからです。

当初M4A1に搭載されたR-975ワールドウィンド星型エンジンは航空機用であり、
戦車用としての供給が不足気味でした。
そこで兵器局はGM製ツイン6-71ディーゼルエンジンの採用を決定しました。
ところが現場の補給部隊からはディーゼル油とガソリンの両方を供給することは
困難であるとの意見が出たため、これを搭載したM4A2は海兵隊とレンドリースに回されました。

そして新たなエンジンとしてフォードGAAエンジンの採用を決定し、これを搭載した
M4A3は信頼性・耐久性もよく現場から好まれました。
また、クライスラーA-57マルチバンクエンジンを搭載したM4A4は、主に英軍への
供与のために生産されました。
(243:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE )

M4中戦車は車体横、下部にあたる星形エンジンのヘッド周りの整備・点検はどのように行われていたのでしょうか?

M3軽戦車も同じ系統のエンジンを搭載しておりますが、初期にはエンジンを上から釣り
上げ、下部を整備するしかありませんでした。
大体、下部のシリンダーにはオイルが溜まり、その始動不良対策を行うには4時間かかる
と言う状況でした。

後期型になると、車体後部に点検扉が設けられ、そこから下部の点検を行う様に変更され
ています。
M4の場合は、その後部扉が最初から取り付けられていたと思いますよ。
(232:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

1950年代のイスラエル軍と自衛隊の戦車はシャーマン戦車で大丈夫でしたか?

朝鮮戦争と違いM26パーシング戦車が配備されずに、
シャーマン戦車が苦戦したドイツのパンター戦車と互角のT-34/85戦車に対し不利だと思うのですが?
一応、余剰在庫から供与されたのですが、MDAPでの供与には、76mm砲装備のものを
優先的に供与しています。
また、76mm砲装備車が足りなくなると、余剰在庫の75mm砲装備車を改造して76mm砲装備
とし、各種改良は行っていますし、朝鮮に於けるT-34/85との戦闘では、砲口径こそ劣っていた
ものの、高速徹甲弾が潤沢に供給されたので、その装甲は問題なく貫通出来ます。
(とは言え、T-34/85も同条件ではありましたが、戦車兵の練度が桁違いだったので、腕でカバー
 しています。)

なお、朝鮮戦争では、最初はM26やM46を喜んでいたのですが、1951年以降の落ち着いた情勢
になってくるとM26は「出来損ない」、「完全な失敗作」と嫌われるようになります。
丘陵地形の多い戦線では機動力の有る方が好まれ、M4と同じエンジンしか搭載されていないのに
車重が重く、変速機の故障しやすいM26やM46は嫌われた訳で。

イスラエルは、何でも欲しかったためです。
大戦終結後、ベルギー、フランス、イタリアに残された数百両のM4は、スクラップされるはず
だったのに、多くが闇市場に流れ、イスラエルはそれを入手して使っています。
(218:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

なんでアメリカ軍はパンターをパクった戦車作らなかったの?

そうすればシャーマンの性能不足なんか解決したのに。
 マジレスすると、米軍では前線での戦車の種類の統一にこだわったため、
T26(M26)の量産ですらM4の大量生産を阻害するとしてその優先度が低くされています。
ましてやパンターのコピーなど考えもつかなかったでしょう。

 陸軍地上軍管理本部(AGF)は敵戦車の撃破は戦車駆逐大隊の駆逐戦車に任せ、
中戦車は歩兵支援に重点を置くことを求めています。
1943年の時点で陸軍部内ではM4の75mm、および76mm砲に絶対の信頼を置いており、
ティーガー登場以降もその考えは薄らぎませんでした。
しかもソ連からの報告でパンター戦車が量産されつつあることを認識しておきながら
それをティーガー同様の独立大隊で運用する重戦車であると誤認し、なんら
手を打とうとしませんでした。
 さらにT23重戦車の開発失敗、T26の開発遅延などで結局WW2はほとんどM4のみで
戦う羽目になったわけです。
(212:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日本軍戦車


日本軍戦車の黄帯迷彩って、本当に効果があったのでしょうか?

日本戦車の黄色迷彩は集団の時、台数がわかりにくくなる効果があるらしいです。
(7:665)

四式中戦車関係の文献史料って現存してるのでしょうか。

独立した資料はありませんが、デルタ出版の本(日本の戦車)とか、
世界戦車戦史(図書出版:絶版)に掲載されていたか、と記憶しています。
あと、文林堂の日本の戦車写真集とか…くらいでしょうか。
あとは、米国国立公文書館くらいにありそうですけど…。
(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)

戦前・戦中の日本戦車に多用されたシーソー式の懸架装置についての質問です。

この方式を採ることによる、主な長所と欠点はなんだったのでしょうか?
うろ覚えで資料が出てこないので恐縮ですが、

(長所)
履帯の設置性に優れている
走行性、防弾性が板バネ式に比べると勝っている。

(短所)
上下動が激しく、それがなかなか減衰しない。
即ち、行動中の砲の照準が付け難い。
(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)

旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか?


 当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました.
 WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました.
 もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました.
 武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした.
(でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ)
 また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました.

 ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな?
 で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます.
 こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした.

旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか?

満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.
また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる.
それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.
結果として,装甲が貧弱になった.

ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い.
大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた.
(軍事板)

「三式飛行戦車」これってなにか分かりますか?

詳しいデータは覚えてないけど、確か2式軽戦車をグライダーの翼をつけた奴
空挺部隊用だったはず、無論失敗作
(24:460)

チハ チヌ ホニとか言うけれど、この法則ってどうなってるの?

前の字は戦車の中戦車・軽戦車・砲戦車等の属性
後ろはイロハ順

つまりチハ車は「中戦車で、3番目に製作された戦車」
ホニ車は「砲戦車で~」というわけ

皇紀は関係ありません
(27:103)
「チ」は中戦車のチを表す。※軽戦車の場合は「ケ」
「ハ」はイロハを意味し、開発順を表す。

この略称が使用されるようになったのはチハとチニの競争試作時からで、
それ以前の戦車については
八九式軽(中)戦車>イ号
九五式軽戦車>ハ号 と呼称された。

九五式重戦車については不明であるが、のちに自走砲化した車輌に「ジロ」があるので、
もしかすると「ロ号」だったのかもしれないし、あるいは「ロ」は欠番だったのかもしれない。
いずれもそれを裏付ける資料が無いので断定出来ない。
(41:143)
重戦車は「ジ○」。
同様に軽は「ケ○」。
(44:401)
「チリ」は五式中戦車なんだけど。チチは当然?欠番。
しかし、なぜ三式中戦車が「チト」ではなく「チヌ」になったかは謎。
(「チト」は四式中戦車につけられた)
(117:274)
なぜ三式中戦車が「チト」ではなく「チヌ」になったかは謎
 四式、になった戦車の方が三式、になった戦車より早く試作された為。

 ”チリ”は「塵」に通じるのでどうか・・・という意見はあったらしいが、
「”散り”と読めば潔くて良い。軍人精神に通ずる」
 としてそのまま使われた。
 帝国陸軍だのぅ・・・。
(117:275)



旧日本軍の”砲戦車”っていったいどういう意味で付いた名前なんでしょ?

直協支援用装甲戦闘車両
(29:833)

日本の戦車は手榴弾一発であぼーんされるものなんでしょうか?

中に放り込まないと無理でしょうね。
日本の戦車はエンジンだけは燃えにくいので。
(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)

九七式中戦車が最近まで競争試作だった事を知らなかったド初心者です。

試作で負けた方の戦車はどういうもの(制作社、性能諸元)だったのでしょう。
また、負けた理由はなんだったのでしょうか?
チニ車です。
チハは三菱ですが、チニは大阪砲兵工廠が制作しました。
乗員はチハより1名少ない3名。エンジンは九五式軽戦車のものを搭載し、
装甲、速力、その他諸元はほぼ拮抗していました。
外見はスマートになったチハってとこですかね。
チニはチハに比べて価格の安さが魅力で、陸軍側はチニ車の方を推していましたが、
直後に日華事変が始まって軍事予算が増大した為に、多少高価でも設計的に余裕のあるチハが採用されました。
(39:536)

第2次大戦中、日本軍の戦車がアメリカ軍の戦車を撃破したことってあるんですか?

もちろんあります。
至近距離から側面や背面を打ち抜いたり
障害物を乗り越えようとして車体下部を晒したところを狙撃したり
挙句の果てには爆雷つんで体当たりをしたりと、およそ思いつく事はやっています。
さらに鹵獲M3軽戦車でM3中戦車を撃破した例もあります

スチュアートなどの軽戦車ならばビルマなどで
チハ車でも榴弾を多数命中させるとかで撃破できたそうです。

シャーマンになると47mm速射砲や90式野砲、
それを搭載した戦車なら辛うじで可能です。
有名なところだとルソン島で機動砲兵第2連隊の
一式砲戦車がシャーマンをいくらか撃破したらしいです。
(39:270-271)

97式中戦車について質問です。

砲塔の上についている手摺がアンテナだと聞いたことが有るのですが、
ラジオチューナーについているものと同じループアンテナということでよろしいのでしょうか?
アンテナタイプと指向性について誤解があるようですが。
ループアンテナは、アンテナ自体をループとして結合/終端させ、ループ内をとおる
電界をエネルギとして効率よく取得しよう、というアンテナです。副次効果として、
ループに結合しやすい位置にある外部導電体を、サブエレメントのアンテナとして
利用できるという特徴もあります。ポケベルのアンテナなんてそうやね。
んで、97式のアンテナについては、電気的にはループアンテナとは言えません。
単純に、中波帯域の長くて邪魔くさいホイップアンテナをうりゃーとひん曲げて
砲塔に沿わせる形状にして、ひっつけただけです。
もしアレがループアンテナだったら、指向性はお空と地べたに向けて
発生しちまいます。はい。
(40:電波な人)

日本海軍の軍艦はずいぶんと強力だったのに日本陸軍の戦車は超弱かったのはなぜですか?

「超弱い」って程じゃない。チハ車(97式)なら3号初期型以上だし、同時代の標準レベルだ。

 戦争が始まって戦車なんか開発してる余裕がなくなったのが大きいだろう。
ろくな対戦車火器を持たない中国軍を追い回すのはチハ車で十分だし、
アメリカ相手なら飛行機優先。戦車の生産数自体が非常に少ない。
(43:442)
戦車については、
 満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え、重量を押さえていた。
 それなのに、燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い。
結果として、装甲が貧弱になる。
それに加えて、電装品や光学機器、材質や砲の性能が欧米列強に見劣りしていた。

しかし、こう言った事情は海軍装備も同じ。
海軍の艦船も、鋲接、粗悪な鋼質、貧弱なレーダーなど考えるに、決して質的に充実していた訳では無い。
要するに、日本の戦車が貧弱なのは、実は海軍装備にも当てはまる「お国の事情」です。
(94:693)
海軍の装備は過去の海戦の戦訓を元に、砲の口径を大きくしたり
装甲を厚くしたりしてきたわけです。
これはどこの国の海軍も同じです。ですから、相手よりもちょっとでも
大口径、ちょっとでも重装甲といった具合にテクノロジー競争になったわけです。

それに対して、日本陸軍は日露戦争以降、白兵突撃こそ最強と信じていた
ようですので、装備を改良しようと言う発想はあまり無かったのではないかと思います。
(94:695)

二次大戦中の日本の戦車は、連合軍の重機の弾丸すら貫通してしまうほど、装甲が薄いと聞いたのですが、どうなのでしょう?

軽戦車では装甲は薄かったですし、八九式戦車の装甲も薄かったようです。
しかし、九七式中戦車以後の装甲の厚さは、世界の趨勢に何とか追いついています。
尤も、それ以上に対戦車砲の発達、連合軍側の戦車の発達が早すぎて、意味を為してはいませんが。

後、鋼板の製作水準にも問題があり、炭素が多く含まれ、結構割れやすかったようです。
(46:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
九五式軽戦車の装甲は最厚部で12mm、九七式中戦車で25mm、それに対し
当時のM2重機関銃の貫通力はAPを使用して100mで20㎜前後。
近距離なら九五式は貫通するでしょう。まあ、もともとM2重機は装甲車両や
観測気球を撃破するために開発されたんで仕方ないかもしれませんが。
(46:679)

旧日本軍の戦車には防弾ガラスがなく、単に風通しがいい窓だったというのは本当ですか?

チハ改の車長のキューポラを見る限り、防弾ガラスは入ってますね。

展視孔と言われるスリットは、ただの穴の様です。

穴を開けた円盤を高速回転させて弾片の侵入を防ぐ装置だの、プリズム使用の潜望鏡(普通は鏡を使う)だの、使い物にならない物の研究はしてますね。
(55:701)

旧日本軍の戦車はコマンダーズシートがないって聞いたんですが、それは古くて小さな砲塔を持つ戦車ならワールドスタンダードなのですか?

日本の場合、砲塔バスケットもターンテーブルもどっちもありません。
加えて、戦車砲の設計がチープなので、装填手の手伝いが必要でした。
さらに砲塔の機関銃手を兼ねてるんで、車長は立ってる方が都合がいいですね。
根性より、技術と運用思想の問題です。
(63:398)

四式中戦車と五式中戦車の違いって、つまるところ何だったんでしょう?

High-Low-Mixの考え方で、M4Shaman戦車相手の戦闘については、四式中戦車、
それ以上の重戦車(M26のような)を相手するときには五式中戦車を用いるために開発されたようです。

開発当初こそ75mm砲ですが、後に88mmに換装されるのがそれを如実に表していると思います。
それに四式中戦車自体が1940年代前半に世界が既に達しているレベルに漸く追いついたものですので、
現状のレベルに追いつくには次世代の戦車開発が急務でもありましたし。
(68:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
硫黄島守備隊が遭遇した謎の重戦車M1への困惑ぶりから察するに、当時の日本がシャー
マン以上の難敵を視野に入れていた可能性は低そうだが。

単純に新型戦車を矢継ぎ早に開発することは、どこでもやってたし。
主砲の生産上の問題で既存の戦車と代わりばえしない主砲を暫定的に積んだ例も幾つかある。

後に90mm砲に変える予定であったことは、ハイローミックスを考えていたことを如実には語ってないと思う。

単純な話だが、四式と五式は我々から見れば同時期の変わり映えしない代物だが、走行装置には大幅な改造が入っていた。
逆に言えば、技術的チャレンジが多いわけで、五式の生産が始まるまで、四式を生産しても何も不思議はない。
(68:473)
四式中戦車は、元々長砲身57mm砲を搭載、三式中戦車より早めに開発に着手しています。
戦況にあわせた仕様変更と、開発が遅れが重なり四式になった訳です。

五式は本土決戦兵器ですね。 あの馬鹿でかい砲塔は、75mm砲に半自動装填装置をつけるためです。
90mm砲への換装は企画されましたが、そのために砲塔をでかくした訳ではないようです。
90mm砲換装の実現性は不明。 いつ実現させる予定だったかも不明です。
硫黄島守備隊の混乱ぶりや、それが正しく分析されていない点などを見る限り、M26パーシングのこと
などまるで判ってなかったらしく、とてもそれに対抗しようとしていたとは思えません。
(敵の重戦車M1がレーダーで正確無比な射撃をした。という報告がなされた)

実は、M4と三式の主砲は同じ砲(フランスの野砲)をベースに開発されてますが、日本製の方がかなり
劣ってますよね。 操作性だけでなく、装甲貫通力も。
対戦車砲弾の性能差から、この差が生じてるんですけど、
そこから考えるとシャーマンクラスと渡り合うのにも90mm砲は必要なようです。
残念ながら、90mm砲搭載型の五式が日本のタイガーとして、
シャーマンをアウトレンジで叩きつぶしパーシングと互角に砲撃戦を行うことはできなかったようです。

ただ、四式に比較して、アンダーパワーの元凶である”無過給の空冷ディーゼル”に見切りをつけ、
砲塔もより生産性を考慮したものとしています。
足回りも完全新設計だし、後発だけに明らかに四式より性能アップしてますね。

まとめますに、
●四式と五式はまったく別の時期に開発スタートした。
●四式の仕様変更(強化)で装甲・武装が五式に似通ってしまった。
●四式の設計が完了した時点で生産に入るのは当然。 (本土決戦に備えなきゃ)
●走行装置・エンジン出力・生産性など見ると、五式は明らかに性能向上している。
●でも、五式はまだまだテスト中。
●五式が生産スタートするまで、四式の生産を続けるのは当然。
 (本土決戦に備えなきゃ)
●武装は同じだけど、おそらく四式は装填作業で四苦八苦。 五式は半自動装填で
 最初の数発の発射サイクルは早い。 つまり、主砲は同じでも、かなり戦闘力に
 差が生じたことでしょう。
 (当時の小柄な日本人には75mm砲弾は重い。 ちなみに当時のアメリカさん
  は大柄な奴を戦車兵にしてました。)
(68:856)
しいて突っ込みを入れるなら五式の開発命令は三式より早い
それと五式に88mm砲を積む計画自体は実在しないよ。
さらに言えば四式は三式の量産と改良に専念させるために量産する気は無かったらしい
(68:875)

日本の戦車のキャタピラ、鋳鋼で作られていた?

それはもしかして旧帝国陸軍の高マンガン鋼の履帯のことを言っているのですか?
(76:685)
私のつたない記憶では、「61式戦車」辺りまでは、使われていたような記憶があります。
ダブルピン方式になってからは、「ゴムブッシュやゴムパッドの装着」が普通みたいなので、
あるいは、耐磨耗性の必要性も、余りいらなくなったのかも知れませんね?。

ちなみに、低マンガン鋼とか、ただの、マンガン鋼、などと言うのも有るそうです。
(76:≡ 6等兵 ≡)

日本軍戦車に搭載されていた”統制エンジン”とはいったいどのようなものなのでしょうか?

統制型一〇〇式ディーゼル発動機の事ではないかと思いますが、統制型
エンジンというのは、単気筒の気筒寸法を統一したエンジンの総称で、この気筒を連ねて
出力を調整し、各車両に使用しました。

気筒直径120mm、ピストン・ストローク160mm、予燃焼式で、戦車の場合、V型
12気筒に、軽戦車、その他の車両は直列6気筒として使用されました。
(77:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「日本軍の戦車の装甲はヤスリで削れた」などと言う人が居ますが本当なのでしょうか?

柔らかく徹甲弾を受け止める場合(ドイツのティーガー戦車など
装甲表面の硬度を上げてはじき飛ばす場合(パンター戦車など)があります
日本の97式戦車は、機関銃程度に耐えればいいとの思想なので
硬度は高かったです

3式戦車は、柔らかい装甲板で弾を受け止める構造だったので
ヤスリで削れるのは当然との説と
軟鉄使っていたんじゃないか? との説があります。

真実は、自衛隊武器学校にある3式戦車を削らないとわからないかも。
(79:387)
61式戦車の試作品は軟鋼板を使っていたね。
(79:388)
装甲表面を柔らかくして耐弾性能を上げる方法がありますが、宮崎駿が当時の工場の人に聞いたところ、
3式戦車は本当に軟鋼を使っていたという話があります。ソースが宮崎駿だから、話半分に聞いてください。
(79:389)
司馬氏のその文章については知らないのだが、
装甲の材質には大別して二種類ある。
浸炭処理などを施した表面硬化装甲と
全体に均質な均質圧延装甲であり、後者はヤスリでも削れる。
(79:407)
対ソ連の戦闘で、砲塔と車体の隙間に銃剣を刺されると、砲塔の旋回ができなくなったと言われています。
つまり、明らかに砲塔か車体の一方、または両方に深刻な傷がついた訳ですな。

日本は英仏の初期の戦車を購入し、それを参考に装甲材を研究し、一応満足の行く物が出来たようですが、どうもその後、さしたる進化は無かったようです。

ところで、ヤスリにもそれなりに製造ノウハウが必要です。
果たして当時の日本にどれほどのヤスリが存在したか疑問ですね。
(開戦前に入手した輸入品や職人の技物かなんかでしょうか?)
(79:427)
それは銃剣を刺されたのでその抵抗摩擦で旋回不能になっただけだと思うぞ。
(79:439)
一応、過去に出た意見を総ざらいしてあげとく

  • 軟鋼を使ってたという文そのものが司馬の捏造説
  • 軟鋼をあえて使用することで抗弾性の向上を図っていた説
  • 実は資材不足でホントにただの鉄を使って作ってました説

真偽のほどは不明。
つーか、事の真偽の確認なんて後回しで「司馬信者vsアンチ司馬」な
対決になりやすいテーマだし。
(101:389)
日本の戦車の装甲材は輸入品の性質を参考に独自に研究した物です。
わざと柔らかい物を使った事実はありません。
他方であくまで真似たら似た(当時の日本の技術者や軍人の基準で)物が出来ただけですので、
他の列強諸国の物より劣ったことも確かです。
ところで、ヤスリの鋼は粘りが極度に少ない分硬いので、
割れないように多少の粘りのある戦車用の装甲材が削れても、何ら不思議はありません。
(101:391)

旧日本軍の戦車って、太平洋戦争時どこの国に進出してたの?

日本の戦車は戦車連隊のみならず捜索連隊などにも配属され、
中国大陸のみならず、シンガポール・フィリピン・マレーシアなどの南方作戦にも
戦車部隊が随伴しており、また太平洋の島々にも防衛のため進出しています。
例えばサイパン島には戦車第九連隊(中型戦車36台、軽戦車12台)が進出しており、
かの地で全滅しています。
また戦車第二師団(撃兵団)がフィリピンに転出、ルソン島の防衛戦力として奮闘し、
さらにここから抽出された戦車第十一連隊は占守島に配置され、1945年8月18日の
ソ連との日本軍最後の戦闘で奮戦しています。

生産はすべて国内で行なわれ、海上輸送の途中で多くの戦車が海没しています。
(82:名無し軍曹)
一応満州でも生産してる。
えらく少ないが
(82:158)

4,5,6式中戦車って完成してたんですか?

四→完成。
五→砲なし状態。 四に砲を渡したから未完成。


六→歴史の教科書嫁
(92:270)

日本軍の戦車の変てこな黄色い線の入った迷彩は何を意図していたのでしょうか?

あの黄色の帯は、遠目に見たときシルエットの判断を狂わせるため。

暗い色で塗ったものに明るい色の帯を書きこむと、
そこだけが目立つせいで本来の形がわからなくなります。
(93:547)

戦時中の日本の戦車って、何で主砲の後ろ向きに機関銃が積んであったのですか?

車体を小型に作ったら砲と機銃を並べておくスペースがなかったためと、そもそも砲と
機銃とでは別々の目標を攻撃するつもりだったため。
(93:547)

旧日本軍の戦車のエンジンスタートには職人的な勘が必要だそうですが何故でしょうか?

電装品が今一つだったようですが、合わせてディーゼルだからの様です。
可動部品が重たいし、少し暖まってから燃料噴射を始めた方が始動しやすいとか、
ガソリンエンジンより面倒が多いです。
(99:365)

1945年夏の時点のM4シャーマンに対して、三式中戦車は、火力/装甲的にどれくらいのアドバンテージが有ったのでしょうか?

三式では75ミリ砲搭載M4には負ける。
四式も76ミリ砲搭載M4には負けると思う。
(104:318)
え、だって三式も75㍉でしょ? 同等じゃないんですか?
口径が一緒というだけ。
まあM4の75mmと同祖の大砲なんだけど。
弾薬の性能も違うし、何より三式のは戦車砲といえない。
なぜならりゅう弾砲をそのまま載せただけだから。
三式は無理有りすぎる戦車。
(104:322)
昭和20年5月参謀本部によって出された「戦車用法」によると、
「三式中戦車は600メートルにおいてM4戦車の正面を貫通し得るも
命中角の関係上その公算は僅少にして、側面および背面を攻撃するを要すること多し。」
とあります。

装甲も強力とは言えず、正面から打ち合うのはやはりかなり苦しい戦車かと。
(104:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ゼロ戦がもてはやされてチハがもてはやされないのは何で?

チハタンは登場当時から最強でもなんでもなかったんですが?
単に世界水準程度の戦車というだけです。
(106:276)
チハたんが華々しく活躍する漫画や映画が、戦後存在しないから。
ゼロ戦はそこそこあるんよ。鶴田浩二のせいでもあるけど。

それどころか松本零士の漫画に見られるように、典型的な殺られメカ。
荒巻鮭の「艦隊」シリーズでさえ活躍の場がない。
これじゃあファンはつかない。
(106:278)

チハ戦車ってまだ何処かに残ってますか?

「サイパン戦車戦」下田四郎/光人社NF文庫 を買って読みなさい。
(109:170)
※日本国内だと那須戦争博物館・若獅子神社・遊就館に現存車両があります

旧日本軍の戦車の車載機銃は銃身が妙に太いのは何故ですか?

防弾器(防弾カバー)が取り付けられているからです。
九七式車載重機関銃の設計の要求項目の一つに

1.銃の露出部に防弾装置をつけること。

という一文があり、それに沿って取り付けられたものです。
(113:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

チハの乗り心地はどうだったんですか?

日本戦車の場合、戦車長と操縦手以外に座席はなく、通常の移動時、
この2人以外は随伴車輌で移動することになっていました。
普通はそんな贅沢できませんから、当然立ったまま移動です。
すなわち、居住性はきわめてよくないです。
不評をあまり聞かないのは、単に少数だったため証言者が少ないせいかと。
(113:718)

チハって3号戦車くらいとは互角に戦えますか?

おとりのチハと、側面攻撃するチハの、2~3くらい居ないと
チハでは勝てません。
2号となら良い勝負をするのではないでしょうか。

元々、対歩兵戦闘戦車なので。
(115:292)

三式中戦車にベンチレーターはないのでしょうか?

終戦までに日本軍の戦車にはベンチレーターは装備されていませんでした。
チハ車による実験では、密閉して前方銃で30発も発射すると
軽い一酸化炭素中毒の症状がでてきたそうです。
特に銃手席ではガスの滞留が激しかったようです。
対策としては、射撃の中止・各窓扉の全開などがありますが、
信じがたいことに現場では車長が扇子を用意して前方銃手席をあおぎ、
一酸化炭素を拡散したとか。
(123:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日本陸軍の「砲戦車」の英訳語ってなんでしょうか?

英語のサイトで見るとSelf-Propelled GunsかGunTankですね…
GunTankは砲戦車の直訳かな…自力推進戦車なみに変だと思うけど
(123:362)
しかし「対戦車能力を持った砲を搭載している戦車」という定義が実に日本軍らしいですね(笑

実際は単なる兵科間の縄張り争い。試作順で一番早い「ホイ」は山砲搭載で対戦車用じゃない。
開発部門が戦車系だから「自走砲」とは言えなかっただけ。
(123:366)
昭和17年3月1日陸軍機甲本部作成だとホイ車も砲戦車の枠に入っている。
一応参考までに(漏れの誤読があったら指摘よろしく
(123:371)
※リンク先消滅
362
それは逆に和訳すると戦車駆逐車。
戦車はカテゴライズされない。
(123:383)



日本軍の戦車ですが、開戦前ならともかくM4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても、デザインに進歩が見られないように思うのですが

なんででしょうか?

日本には「T-34ショック」は生じてないのでパンターのような方向性への進化は
起きようがない。
ドイツから情報は入っていたらしいが。

替わりに「M3スチュアートショック」「M4シャーマンショック」が発生し、それらは
一式砲戦車(とりあえず対戦車戦闘できる長砲身の砲載せろ)や三式中戦車(泥縄的に75mmカノン砲装備に改良)
三式砲戦車(砲塔廻んなくてもいいから三式中戦車の数が欲しい)となって結実してる。
これらはドイツで言うならIV号F2型や75mmL48装備の対戦車自走砲/駆逐戦車の位置にある
だろう。
そして、これらの上位機種として四式や五式といった重戦車が開発されていた。
この2種は戦前からの重戦車開発の流れと戦争での戦訓が合わさったものなので、ティーゲルに
相当する位置にある。

あと、「戦争で対峙したソビエトの戦車にショックを受け、急遽それまでの設計思想を捨てて改良した」
と言う位置には、ノモンハンでの「BTショック」を受けて開発された九七式改や一式戦車が
ある。
(480:454)

大戦中の戦車って、トランスミッションがよく壊れたらしいけど日本軍の戦車ってどうなの?

いやよく壊れた。
でも、あの当時はどこの国のもトランスミッションがデリケートですぐ壊れるのは結構当たり前。
別に日本のだけに限った話ではなく、どこもそんなもの。
アメリカのものだけはわりとマトモな出来だったが、やっぱり荒っぽく扱うとすぐに壊れた。
ソビエトの戦車は起動輪が後ろにある=トランスミッションが後部にある、のでどれもレバーが
延々とロッドを介して操作することになるため、レバー操作がやたら重くて大変だと不評だった。
「ハンマーでブッ叩かないと切り替わらない」と言われ、でも実際にそんなことした日には
当然レバーとロッドが壊れる。
ドイツの戦車は作動そのものは快調だが丁寧に操作しないとすぐに壊れる繊細な作りな上
頻繁かつ綿密な調整と整備を必要とした。

戦車は重い車体を無理やり走らせてるので別に設計に欠陥がなくてもトランス
ミッションが壊れやすく、ずっと後になってトルクコンバーター式のトランス
ミッションが普及するまでは変速機関係は戦車のウィークポイントであり続けた。
(534:556)

チハは57mm砲を長砲身化して攻撃力を向上させることは、できなかったんでしょうか?

優秀な砲を拡大していくと言う発想は当時よく見られた傾向。
日本も長砲身57mm砲を完成させている。試作のみね。

ただし、57mm砲を長砲身にしたと言う発想じゃなく一式47mm機動砲の拡大型。
装甲貫徹力は 1000mにて60mmと言われている。
ただし、日本製の鋼板撃ってテストした可能性があるから、アメリカやイギリスの
装鋼材に対してもそのような性能が出るかどうかは俺の調べた範囲では判らない。

何故チハに積まないか?と言い出すとおかしな話になる
チハ車はノモンハンの戦訓から47mm砲の新砲塔を搭載することにした。
だが、欧州戦の情報や実際にアメリカの戦車など研究した結果からより高い火力を
持ったチト車を開発する。
つまり新主砲を搭載する新戦車が必要と考えたんだと判るよね。
そこから急場しのぎにでもチハに積めるような物では無かったと想像出来る。
もう一つ、57mm砲が完成した時点で一式中戦車の生産が始まっており、その意味
でも積む意味が無い。新型戦車に積むって決定で良いじゃないですか。

ところが完成した試作砲は貫通力が低いのでチト車には使わないことにした。
(47mm砲より上かどうかは問題ではなく、情勢に適応しない。)
また、貫通力の割りに重い点が問題視され、砲そのものが不採用になったので
他の車種や砲戦車への搭載も当然されていない。

完成していない訳でもないし、合理性云々より出来事の時系列を理解しなければ
ならないよ。
(349:74)

「日本の戦車は港のクレーン能力によって重量を制限された」などと言われますが、単に輸送船からランプを使って自走で積み降ろしすれば良かったんでは?

当時輸送に使われてた貨物船は今のバルクキャリアの様なタイプが殆ど、
RoRo船なんかは車両を大量輸送する時代になって現れた。
当時にもフェリーは有ったが艀に毛が生えたような物で、外洋を長距離航海出来るような物じゃない。
でバルクキャリアはクレーン無しじゃ重量物の積み下ろしは出来ない、
舷側までのランプを作っても(それ自体長大で強度が必要な大変な物になるが)船倉に降ろせない。
それなら舷側を切り取ってランプをつけ、船倉にもランプを付け多層にすればRoRo船になるが、
そんな(当時は)普段使わないものが海上輸送の主体となるほど転がっているわけない。
要は重車両を輸送・運用するインフラが全く整ってない事が問題で、クレーンの能力だけに理由を求めるのもやや一面的。
(567:485)

五式中戦車や、計画のみで終わったホリ車の主砲には半自動装填機を組み込む予定だったようですが、

なぜこんな複雑で厄介そうな、ドイツ軍ですら採用していないような機構にしようとしたんでしょう?
チビの日本兵の装填手だと、巨大な砲弾を抱えて砲尾に突っ込むだけの体力が無いとでも思ったんでしょうか?
いくつも勘違いがある。
半自動装填装置自体は簡素な装置で、事前に装填主が装置に砲弾を装填しておくことで
ここ一番の連射性能を上げるだけ。

何故それが必要かと言うと、一つには日本人の体格の問題。
アメリカの場合は数十tある兵器を人力操作する上で、特にパワーアシストの開発
に注力せずに体格の良い者を戦車兵にすることで対応した。
(戦後、自衛隊がアメリカの戦車を運用しようとした時に体格の差が問題になった。)

日本では47mm砲の時点で問題を抱えており、戦車長が砲の操作をアシストしていた。
にも関わらず、戦車の乗員が定数割れしたまま運用することもあるような始末。
砲塔の動力旋回にも頓着せずに主砲が47mmの高初速砲になっても肩押し式の主砲を
好むくらいで、逆に主砲が75mmクラスになった所で装填・排莢操作の自動化の必要
性を認識した。(つまり体格が原因で着眼点が少し他国と違っていた。)

当時でも自動装填装置はアメリカがベルト式の物を研究しており、実用化も可能な
レベルに近づいていたが、ま、ドイツ相手にはもっと他の研究に注力すべきと判断
したんですな。
もう一点。殊更にドイツのテクノロジーが優れていたと言うような事実もない。
赤外線暗視装置など開発が他国より目立って先行した技術もあるが逆も多い。
ドイツが出来なかったから難しい技術などと言うことは無い。
(343:288)

日本戦車の戦闘力不足の一因ってやっぱり馬力不足?

馬力は関係ない。
統制型の次は航空用ガソリンエンジンの再利用、ディーゼルターボ開発をしていた。
エンジンに関しては無いなら作っている。それが理由で戦車開発が出来ない要因にはなってない。
まず、機甲戦力を持ち始めた当時、戦車の開発・配備にかけられる予算が過小だったために安価に数を
揃えられないかと言う思想が根付いてしまい、転換できない派閥があったとされる。
一式や新砲塔チハはBT-7に対抗すべく作った訳だが、太平洋戦争に突入後、敵方がM3軽戦車
程度しか保有しておらず、対抗可能と判断したために、その後の戦車開発がスローペースになっている。

もう一つは、省力化機器や土木作業機械、自動車工学が未発達だったことや、(当時併合していた朝鮮
半島を含む)自国内や満州、南方戦線の道路事情が悪かったことも大きい。
(実際、ソ連側が満州に侵攻した際もT-34やM4よりBT-7Mの方が使いやすかったとされる。)

我が国の運用者には、戦車が30tクラスになると既に限界を超えてしまうと言う発想があり、逆にそれ
より重い戦車を運用するための技術開発が遅れていた。
(当時の日本人の体格では75mm長砲身砲の操砲は困難になってしまっているくらいで、アシスト装置が
無ければ装填はおろか、操縦操作なども困難だろうと思われる。)

情報の見誤り・軽視もあった。
開戦前~大戦前期にかけて、欧州、と言うよりもソ連戦車に引っ張られて各国の戦車が重厚長大に
なっていく過程で、それを後追いした。(先回りして強力な物を作ろうと言う発想が無かった。)
ドイツの駐在武官から、欧州戦の情報は入っていたが思いっきり軽視して対応が遅れている。

まあ、こんな話がある。
ソ連軍人がまだ友好的な頃、ドイツの4号戦車を見学して、その余りのショボさに「強力な
戦車を隠している」と信じて疑わなかった。 ドイツ側はその態度からソ連はより強力な
戦車を開発していると早い時期に予想出来たし、その後もスパイ情報があったが軽視していた。

我が国はさらにその後で欧州の戦車が75mm砲を撃ち合っていると聞いたが、なかなか自分達に
波及する話とは思えない訳で、M3軽戦車にワンサイドで勝てる戦車を作っている内にエラいことに
なってしまった。
(569:639)

チリ車(五式)のエンジンは既存の航空用(BMWのライセンス品で練習機に使っていた)
で800馬力。 ドイツのHL230より高出力だったりするけど。

そもそも、日本の戦車は戦闘力不足のものしか無いと言うのが誤りで、試製100t戦車・120t戦車では10cmカノンを搭載している。
これらの戦車では、航空用エンジンを2基、伝達ギアでリンクさせており、強力なエンジンが無いなら無いなりの工夫をしている。
馬力不足と言われても他国同様に航空用エンジン引っ張り出したり、アメリカのH型パワーパックのようにまとまりは良くなくても
エンジン2基の連結でさらなる馬力アップも行っている。

100t戦車の場合、操作系に油圧アシスト装置を導入したり後方駆動を採用するなど、一部M4シャーマンより進歩的な部分のある。
ところがテストしてみると、不整地では重すぎでスタックしまくり、舗装道路では舗装を壊すので。
過荷重でテスト以前の問題。44年末まで放置した後、解体。
120t戦車は車体のみでテストすると流石に操縦性や抗堪性に問題ありと判断されている。

作れないでも無いし、作っても見たが、いきなりハードル上げすぎてるって言うのが実状。
(570:283)

砲塔はチハとかでも自動で回転したんだよね?

手動です
Ⅳ号J型も手動です
(321:726)

97式中戦車改はなぜ一式機動砲をそのまま流用して搭載せず、砲身をやや切り詰めた一式戦車砲をわざわざ採用したのでしょうか?

これは単純にチハ改や、本命のチヘの砲塔に収めるにあたって後座長が問題となったからです。
狭い砲塔の中の戦車兵さんたちにとっては、高速で後退してくる砲は正に恐怖なのです。
ハ号の戦車砲も九四式速射砲より短砲身の物になってますね。(後に換装されてますが)
(315:11)

日本が試作したという100トン重戦車について教えて下さい

100㌧戦車は又の名を"大イ車"(もしくはミト車)と呼ばれ、基本構造は89式中戦車を
約5倍の大きさにスケールアップしたものです。
  • 重量約100㌧ *全長10㍍ *全幅4.2㍍ *全高4㍍
  • 装甲厚 前面:75㍉ 側面:35㍉+35㍉(スカート)
  • 武装 105㍉カノン砲×1・75㍉速射砲×2・7.7㍉機銃×3
  • エンジン BMW水冷12気筒550馬力×2基

作ったはいいがでかすぎて工場の門を出られず、走らせれば重すぎて腹を打つわ
キャタピラが外れるわサスはヘタるわさんざんだったようです。
(47:名無し軍曹)
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0248.htm
1940年、100t重戦車
(走行テストで100tの重量を走行装置部分が支えられず自壊)
荒地走行テストでずぶずぶ沈んでしまったとか...
日本の道路を走れなかったとか(幅が広すぎ)
速度はエレファント以下...
装甲もたいした厚さではなく役に立たないので分解されました。
(312:559)

小銃の徹鋼弾でチハの装甲の20mmの部分を零距離で撃てば貫通しますか?

無理
九五式軽戦車の最厚部(12mm)以外なら可能
というか末期のは金質が悪化してたので最厚部も撃ち抜かれるかも
(俺初質スレ431:828)

チハたんの後継戦車が、なかなか本格的に生産、運用されなかった訳は?

航空機なら、なかなか苦労しながらも更新が結構進んでいるのに。
まさに理由はそれだよ。
戦車作るなら工場設備は飛行機生産に回す。
鉄使うなら船舶の建造に回す。
島嶼やアジアが主戦場という戦局から戦車の優先順位が低かった。
(515:164)

日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラス(米英日)なのに、何で陸軍の装備(戦車など)は、世界のトップ(米ソ独)と較べると見劣りするんですか?

陸海の予算分配に偏りがあったのですか?
の後段ですが、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書に書かれていたので書いておきまする。

1940~45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計、軍需省の歳出決算額で、日本銀行支払小切手によるもの。
これを原資料に、陸軍省、海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し)、費目別に算出しています。
1945年は4月~10月の上半期のみで単位は100万円です。

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  4,191  6,383  10,368  15,764  45,511  20,808
海軍省  1,532  3,104   8,385 13,779  19,069  17,553
軍需省                   1,244  10,472   8,993
合 計   5,723  9,487  18,753  30,787  75,052  47,412
陸:海   7:3   7:3    5:5   5:5    6:3    4:3

即ち、初期は概ね陸軍優位に推移していますが、中期~末期は対等になってきています。

次いで、上の表をこのうち費目別に編集し、うち兵器燃料費を抽出すると、
(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  1,625  1,797   3,267  4,558   3,085  3,725
海軍省   978  1,814   5,629  9,114   8,022  5,619
合 計   2,603  3,611   8,896  13,672  11,607  9,344
陸:海   6:4   5:5    4:6   3:7    3:7   4:6

となります。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ごく単純に言うと、技術(とそれを支える国力)が無かった。
砲、装甲、エンジンどれも。特にエンジンが力不足なのは痛かった。
サイズや重量に制限がでちゃうからね。

よく言われるのが港湾設備の問題。戦闘重量を増やし過ぎると海外展開が難しくなる。
2つ目が対戦車戦闘というのを重視していなかった事。
そして対戦車戦能力が必要だと気付いたときには航空主兵に転換していて資材が回ってこなくなった。

ぶっちゃけるとノモンハンまでザコ支那軍相手で優秀な戦車なんか必要なかったから作らなかった
それがノモンハンでソ連戦車にコテンパンにされてさすがにヤバイと思ってようやく着手
苦労してやっと完成したのがチハ改や一式
しかしこの子が登場した頃には既に30トンやら50トンやらの化け物戦車が跋扈していましたとさ

当時戦車は歩兵科に属していて戦車は歩兵の陣地攻撃を支援するものであると考えられていた。
騎兵の機械化を行うとき、「戦車対戦車の戦いは騎兵の抜刀突撃並に同じくありえない」と切り捨てられている。
92式、94式、97式装甲車(騎兵連隊を改変した捜索連隊が主に装備)が実質戦車なのに装甲車と名乗ったのも
兵科間のセクショナリズムから。
ただ、チハ車が比較的早く新砲塔にできたことに現れているように、先見の明のアル設計者と一部の
用兵側は戦車対戦車が起こることを予期していた。
(362:743-751)

司馬遼太郎が戦車をヤスリで削った話の真偽について教えて下さい

戦時中に戦車兵だった氏は、
「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて、ヤスリをかけても歯が立た
なかった。しかし、戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた。敗戦間際の
日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」
といった趣旨のことを書かれていたのですが、これは本当なのでしょうか?
一応、過去に出た意見を総ざらいしてあげとく
  • 軟鋼を使ってたという文そのものが司馬の捏造説
  • 軟鋼をあえて使用することで抗弾性の向上を図っていた説
  • 実は資材不足でホントにただの鉄を使って作ってました説
真偽のほどは不明。

漏れが知っているのは、
1)司馬が、末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表。
2)軍事研究家?が、わざと軟らかくしていたんだと紙上で反論。
3)元戦車工場勤務の方が、末期には鋼鉄は手に入らず、普通の鉄を
  使用していたと再反論。
って話でつ。御参考までに。
(101:389-417)
圧延鋼板の製造配分に関しては、1944年春から陸軍向けが頗る少なくなり、
重火器の生産が高射砲を除いて停止され、弾薬生産が削減され、戦闘用車輌
の生産が激減し、軽戦車の生産が事実上停止し、中戦車、装甲車輌の生産が
著しく削減されると言う状況にはなっていますが。
(101:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
遅レスだが司馬遼の戦車鑢がけのエッセイは新潮文庫「歴史と視点」所収の「戦車、この憂鬱な乗り物」
これについての論争の経緯については徳間書店「宮崎駿の雑草ノート」巻末の富岡吉勝氏との対談で出てくる。
前のほうで誰かが書いてるが、
司馬遼のエッセイに「あれは冷間圧延鋼鈑だから鑢で削れても問題ない」と装甲板の開発にあたっていた技術者が戦車雑誌で反論。
その雑誌に戦車工場に勤務していた人から「末期はただの鉄板でした」という投稿。
という話だった。
(101:695)

チイ車とかチロ車とかあったのでしょうか?

有名なのでは、一式中戦車(チヘ)なんかありますよ。
(102:◆530FVxFn7E)
八九式中戦車 イ号
試製中戦車(九七式の対抗馬) チニ
一式中戦車 チヘ
三式中戦車 チヌ
四式中戦車 チト
五式中戦車 チリ

という訳で、必ずしも開発順につけられた訳でもなさそう。
(102:420)
89式中戦車は、「イ号」の他に、「チイ車」って呼び方もあるよ。
(102:430)


陸軍は本土決戦のため三式戦車を温存してたようですが、1945年夏の時点のM4シャーマンに勝てたでしょうか?

昭和20年5月参謀本部によって出された「戦車用法」によると、
「三式中戦車は600メートルにおいてM4戦車の正面を貫通し得るも
命中角の関係上その公算は僅少にして、側面および背面を攻撃するを要すること多し。」
とあります。

装甲も強力とは言えず、正面から打ち合うのはやはりかなり苦しい戦車かと。
(104:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

四式中戦車や五式中戦車の後継は計画されてましたか?

エンジンを過給器付空冷DieselとしたチリII型の計画はありましたし、120t戦車の
計画はありましたが、計画途中で敗戦となっています。

なお、1943年以降、陸軍の考え方としては、戦車の量的充当よりも質的向上に
ウェイトを置いたため、三式の主砲換装は考慮されていましたが、四式の性能
向上までは考慮されなかった様です。
(274:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍の戦車はM4に対抗できたんですか?

新砲塔チハで正面から撃ちあってもほとんど勝ち目がないので
待ち伏せて側面や背面から射撃して対抗してた。爆薬付けて特攻することさえあった。

75mm砲を搭載した一式自走砲や三式戦車ならだいぶマシだが、不利な戦いには違いない
(俺初質スレ432:モッティ ◆uSDglizB3o)

3式中戦車にベンチレーターがついてないという記事がP誌に載ってましたが、本当でしょうか?

終戦までに日本軍の戦車にはベンチレーターは装備されていませんでした。
チハ車による実験では、密閉して前方銃で30発も発射すると軽い一酸化炭素中毒の
症状がでてきたそうです。
特に銃手席ではガスの滞留が激しかったようです。
対策としては、射撃の中止・各窓扉の全開などがありますが、信じがたいことに
現場では車長が扇子を用意して前方銃手席をあおぎ、一酸化炭素を拡散したとか。
(123:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

一式中戦車の主砲はその主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか。

一式中戦車の主砲は47mmです。(試作一号車は57mmですが)

Shamanを撃破する場合は、可成り目標に近づくか、後ろや側面を狙うしかありませんでした。

47mm砲の性能的には、直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます。
ただ、実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には、70mまで近づかないと、
M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした。
それは徹甲弾の材質に問題があったということでしょうか?
特殊鋼、特に、ニッケル系やマンガン系の材料不足と、金属回収で回収した金属粉を
混合した事による脆さが出ているので、戦争が進展する程、問題が発生したのではな
いかと思います。

ちなみに、同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で、例えば英国の2ポンド砲は、
初速850m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm)、米軍の
37mm砲は、初速775m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力60mmになります。
一つ上のクラス、英軍の6ポンド砲では、初速786m/secですが、射距離1,000mで46mm、
米国の75mm砲では、初速700m/secですが、射距離1,000mで69mmになっていますね。
(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

司馬遼太郎が日本の戦車エンジンについて、でかい、馬力がない、複雑で運用が難しい、という欠陥だらけのもの書いてましたが。

本当でしょうか?
九七式中戦車に用いられていた、三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm、
170馬力/2000回転、重量1200kg)に関しては、噴射系統がデリケートで調整が難しく、耐久力に欠けるきらいがあり、
動力性能に関しても、公称200馬力の筈が、実力は170馬力程度しか出ず、しかも、白煙、黒煙が甚だしく、
更に五月蠅い(三菱の整備員曰く、豆煎りエンジンと言っていた)。
シリンダとシリンダヘッドは4本の長い通しボルトで共諦めする方式で、チェンブロックや他車の動力を用いた
エンジン吊り出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからで、ローラータペットを用いた4弁方式に
ついても、こなれておらず、しかも、直噴はまだ未完成の技術でした。

このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く、「まるで航空発動機のような、屁理屈の塊のようなエンジン」と
評していたそうです。

当時の軍用車両用ガソリンエンジンでは、オクタン価の制約から余り攻め込んだ設計が為されず、車輌、兎も角人員が
生きて帰ってこられる信頼性を重視したために非常に甘い設計になっていました。

他方、ディーゼルに関しては、池貝とか三菱、いすゞなどが犇めいていたため、性能重視型の設計ではありましたが、
それでも、軍用、就中、統制であるがために、設計には十分な余裕を持たされ、最大出力時正味平均有効圧が可成り
低い状態に置かれていました。
本来は、常用時の負荷率は低い筈ですから、最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが、
第四技術研究所や、戦車部会のメンバーが、作戦行動中に逆上した操縦者が、無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い
運転を続けて、エンジンを壊すことを心配したためか、パワートレイン側の問題があったのかもしれません。
(187:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた、というのは本当でしょうか?

「行進射」と言って、日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です。
砲手と操縦手が連携して、発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います。
当然命中率や発射速度は低下し、五七ミリ砲では
  • 一分間の発射速度:1~2発(停止時:5~12発)
  • 500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)になりました。

したがって実際には戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います。
(223:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

九七式中戦車の砲塔内には、何発の弾薬を積めますか?

八九式戦車の資料しか手元にありませんが、八九式乙型の場合は、8発入り弾薬箱が5段車体内に
装備されており、これに加えて、即応予備として4発砲弾架に掛かっています。
つまり、44発が車体内に置いてありました。
なお、甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり、これらが車長、砲手の腰掛けを兼ねていました。

砲側には、右側面に4発、左側面に2発の57mm砲弾架があります。

九七式中戦車の資料は、カッタウェイしか無いので、しかとは言いかねますが、砲塔前部に4発の弾薬架があり、
砲塔後部にも、5発分の弾薬架がありました。
また、車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です。
1箱20発入りとして40発、即応用として10発程度あったのではないでしょうか。
(215:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍の戦車の燃費はどれぐらいだったんでしょう?

日本戦車の燃費
 八九式中戦車(甲) 0.64km/l
 八九式中戦車(乙) 1.00km/l
 九七式中戦車    0.85km/l
 九七式中戦車改   0.85km/l
 一式中戦車      0.64km/l
 三式中戦車      0.64km/l
 四式中戦車      0.63km/l
(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

チハでM3やM4に対抗出来たんですか?

1942年4月、ビルマへの第二期侵攻作戦の為、戦車部隊が投入された。
彼の地で対決するのは、当時アジアに於ける連合軍最強の戦車である、M3軽戦車。

と言う訳で我らがチハタンがM3軽戦車の装甲をぶち抜けるか、研究することになった。
標的は遺棄されたM3軽戦車、迎え撃つは、各中隊から選抜されたチハタン、第一中隊で鹵獲したM3軽戦車。

最初に各車1発の57mm徹甲弾を装填し、標的に向けて500mの距離から射撃。
それは狙い過たず、砲塔に2発、車体に1発命中していたのだが、その部分の塗料がはげていただけで、
徹甲弾は粉みじんになっていた。
次いで、M3の37mm徹甲弾を同じ距離500mで射撃…これは見事に貫通していた。

それでは、と、300mの射距離で徹甲弾発射。
これも木っ端微塵に徹甲弾の方が飛び散るだけだった。

そこで、射距離300mから今度は榴弾で側面を集中的に撃ってみた。
すると、M3軽戦車の側面には衝撃で装甲板に30cm平方の穴が穿たれたのである。

と言う訳で、M3軽戦車に対し、チハタンの戦法は、
「小隊(3両)で300m以内に肉薄し、1両が囮となって正面に、残りが側面に回り、近距離から
榴弾の一斉射撃を側面に対して行なう」
と言うことになった。

信じられなくはないが本当だ。
30cm平方ってことは、装甲接合のリベットが吹き飛んではがれたのかな?
装甲の溶接部が衝撃で割れたラスィ。
(信じられないが、本当だPart21:眠い人 ◆ikaJHtf2)

日本戦車はソ連戦車と違って無線が完備していたんでしょうか?

チハ(九七式中戦車)だと、いわゆる「鉢巻き」(無線アンテナ)を標準装備している。
(俺初質スレ1024:416)

四式中戦車だけど、何で側面装甲(35/25mm)より後面装甲(50mm)が厚いんですか。

4式の場合、当初57mm砲搭載戦車として開発されて、
設計がある程度進んだ段階で75mm砲搭載に変更されたので、
重心位置が大きく変わったものの抜本的な設計変更ができず、
仕方なく後部装甲を分厚くして辻褄を合わせてる
(俺初質スレ2048:872)

チハをやめて一式砲戦車をもっと沢山つくれなかったんですか?

搭載した90式野砲の生産能力が足らないので、無理です。
(俺初質スレ2049:277)

97式中戦車改の後部の信号灯は何に使うものでしょうか

信号灯は砲塔上のもの共々、夜戦用装備だな。旧軍の戦車兵は
連隊単位での夜襲をかけることのできる鬼のような練度だったからさ。
(俺初質スレ20501:458)

日本の戦車は対歩兵用?

まさにその通り、97式までの日本の戦車は、味方の歩兵部隊の攻撃に際し、
敵の強固な防御陣地を潰すのが目的だった
だから対戦車能力が低い、短砲身の榴弾砲を主砲に選んだ

当時の戦車のあり方としては、別に珍しいものではなく、日本だけが遅れていたわけではない
(俺初質スレ50501:718)

WW2ソ連戦車


戦時中のソビエト戦車の砲塔には何やらスローガン(?)が書いてありますがどんな事が書かれてるのでしょう?

ЗА Родину!(祖国の為に!)
ЗА СТАЛИНА(スターリンの為に!)
みたいな祖国賛美系

Смерть Фашистам(ファシストに死を)
みたいな敵に対する決意系

МОСКОВСКИИ КОЛХОЗНИК(モスクワ・コルホーズ)
みたいな戦車寄付先、生産工場の名前

АО Берлина(ベルリンへ)
みたいな地名、行き先
この様なものが描かれています。
(29:919)
3A?ってどういう意味?
~のために
という意味と推測できる。
しかし、3Aではない。ЗАである。
(29:928)

T-34/85やJSシリーズは戦後も多くの国で使われていますが、KVシリーズやT-34/76はなぜ使われなかったのでしょうか?

T-34/85やJSシリーズが長く使われたのは、戦後もソ連に生産ラインがあったり、採用した外国が自国に生産ラインを作ったからです。
戦車砲用弾薬や、交換部品の事を考えると、T-34/76やKVは使えないでしょう。
(32:861)
ソ連の武器援助は1944年後半から行われている。ソ連軍は戦車の損耗が激しかったため、この時期には既にT-34/76やKV戦車はほとんど残っていなかった。つまりKVシリーズやT-34/76はそもそも他国に送るものが無かった。
(hismed)

T-34、JS-2等の車体横によく付いている横長のホームベースみたいな形をしたあれは一体何なんですか?

のこぎり…の事を言っていると推定。
日本ではあの形ののこぎりを大鋸というのだが、電動工具の普及ですたれた。
第2次世界大戦の車外装備でのこぎりを積んでるのはソ連くらいしか知らないな。
現用だと結構積んでる車体が多い。
(36:620)

T-34の34って、どう言う意味ですか?

T-34は、T-34の設計者コーキシンがソ連戦車部隊の増強が布告された1934年を記念して
「T-34」と名付けてもらえるよう主張したのでT-34となった。

つまりT-34の34は1934年の34。
(40:556)

T-34/76も砲の種類がいくつかあるような気がするんですが…??

T-34/76の主砲はL-11,F-32,F-34とあり、ほとんどがF-34搭載です。
F-34で使われた徹甲弾BR-350A、APDS弾BR-350P、榴弾F-354,OF-350をチェックした所、
76mmカノンUSV及びZIS-3(コレ辺りがラッチェ・ブム?)で使われていました。
(42:バッチ3)

BT戦車って、ノモンハンのころだと二線級だったんですか?

ノモンハンの時点ではKVやT-34は作られていませんね。
生産数が多くなかった多砲塔戦車を除くと、BTはT-26と合わせてソ連軍の主力戦車の位置を占めています。
BT-7の37年型なら最新鋭、35年型ならこなれた具合。
BT-5は主砲が同じですし、装甲厚がやや7型より薄いという程度なので、
(ソ連にとっては)一線級の主力戦車と言えると思います。
(57:Chkz ◆fycV/APV4o)

JS2m スターリン2の後方右左両側についてる、水筒みたいな筒って何に使うんでしょうか?

燃料タンクです
T72など現用戦車でも搭載しています。
ttp://www.wp.mil.pl/zdjecia/czolg.t72.jpg

航続距離の長いT-34でも搭載していたので、
兵站の貧弱なロシアなりの配慮かもしれません。
(57:413)
予備燃料タンク。
T-34やKV等ほぼ総てのソ連戦車に、独ソ戦開戦後しばらくした頃から付いています。
極初期は角型でしたが、すぐに円筒になりました。よってスターリンは円筒型のみ。
(57:415)

ソ連のT-34はバスケットないのに椅子がありますよね。砲塔に二人いるから、旋回させると45度くらいから苦しいんじゃないですか?

それともやっぱり戦闘中は立ってしまうんでしょうか。(装填手は立ちますね)
ソ連について。

戦車の開発や仕様変更については、軍上層部(大粛正を免れた人たちなので、資質は推し
て知るべし)や、政治首脳部が横槍入れまくる訳ですが、門外漢ばかりなので火力や防御
力の強化ばかりが要求されたようです。
また、現場からは火力・機動力・信頼性の面の要求が多かったようです。
生産性も重要でした。

以上のことから人間工学面の研究は遅れ、砲塔バスケット装備はT-55からです。
(実際はターンテーブル)


砲安定装置(水平面)とセットで装備されました。

要するに、行進間射撃用。
(63:438)
他国ではどうだったんですか?
アメリカについて

M4シャーマンは初期から、M3軽戦車はA3型からバスケットが装備されてます。

以後、概ね装備されてますが、シャーマンのA3型の後期型(前面装甲が一枚板)のものは
床に弾薬箱を移したので、仕方なくバスケットを廃止してます。

A3後期型は弾薬の誘爆防止のため、弾薬箱を水入りにしつつ、被弾率の低い床に置いてます。
(63:438)
砲塔バスケット、同世代の戦車なら世界でも標準?と言えるかとは思う。

しかし、だ。小隊長以上になると車外で指揮を執るってのが・・・
(63:ミリ屋哲 ◆qmwryStCos)

ソ連製戦車の照準器って精度はよかったのでしょうか?

大戦中は相当ひどかったようです。
大戦末期、かなり良くなったらしいです。(レンドリース車両に影響を受けたとか)

冷戦突入後はノルマ重視と工作機械の老朽化でまた品質低下したらしいです。
(65:197)

ソヴィエトの T-34 はアメリカの設計ですか?

サスペンションのことを言ってるんじゃないかな?
T-34のサスペンションは、クリスティーってアメリカ人が開発したサスペ
ンションを使ってるのよ。

クリスティーがソ連の為に戦車用サスペンションを設計したワケではなく、
クリスティーはベンチャーで戦車制作を始め、アメリカ軍に売りこもうとしたけど相手にされず。
作ったもんは勿体無いんで、ソ連に売っぱらい、ついでにライセンス権も売ってしまったのです。
(67:ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E)
T-34の設計者コーシキンはロシア人です。
その設計の源流をたどればクリスティ(アメリカ人)型戦車に辿り着きます。
(67:9)
補足しますとクリスティー戦車→BT戦車→T-34と発展しています。

クリスティー氏は元々自動車の技術者で戦車開発に当たっても、機動性を重視し、当時考えられないような快速で、しかも装甲車にも成る戦車を実用化しました。
アメリカ陸軍は数台購入しましたがその内一部の代金を踏み倒してクリスティー氏の不信を買っています。

ソ連は快速戦車を気に入り、民間企業に偽装した米国出張機関を通じて購入しました。

ただ、T-34にとってクリスティー戦車は、お手本程度の物ですので、米国人設計とは言えません。
(67:26)

旧ソビエトは一体いつまで、T-34向けの予備パーツや砲弾を製造・備蓄していたのですか、教えて下さい。

少なくとも旧ソ連崩壊の時点では500両近いT34がシベリアで油漬けになって
保管されていたことが報道されていました
また一説ではソ連軍の兵器保管期限は50年だったそうで、今でも予備パーツは
あるかも知れません
(78:915)
T-34にもかなりいろいろあって戦後型はT-34と互換性があるT-54/55やT-55と互換性があるT-34が
作られていました。
だから予備の部品にはそれほど不自由しないようです
(78:916)

T-34/76で徹甲弾を撃ったときの初速はどれぐらいなんでしょうか。

1940年型(76mmL-10) 558m/s
1941年型以降(76mmF-34) 680m/s
(82:401)

T-34-76は無改造で、85mm砲塔を載せかえられますか

主砲のみの取り替えはサイズが全然違うので当然出来ません
砲塔の取り替えはターレットリンクの径が違うので出来ません

76から85へ無理やり改造(リンク径の差を埋めるパーツが実在)した話は聞いた事がありません
無かった事の証明は難しいのですが、
  • 76は終戦まで前線で使われている
  • 砲塔を損傷し、台車のみになったT-34は戦車回収車に流用された
上記2点が傍証になるかと思います
(82:761)

T34/85とかの、「/」の部分って読みますか?

普通は読まないで飛ばすけど、あえて型番を指定するときは「スラッシュ」って呼ぶぞ。
(90:590)

T-34はBT快速戦車シリーズの発展型で、キャタピラ外して走行可能と信じてきたのですが、これって間違いですか?

間違いです。競争試作やって車輪での走行をあきらめて大型化したモデルが採用されました
(90:792)
BT戦車設計チームがBT戦車の更新を図っている最中に責任者を筆頭に技師の逮捕者が出て、開発引継ぎの為に設計技師長に納まったのがコーシキン技師でした
引き継いだ時に設計されていたのが競作で負けたA-20、それの車輪走行無し・装甲強化・砲強化版がT-34原型のA-32なので、
T-34の足回りはBTの発展と言う捉え方で間違いないと思います

リア駆動であの起動輪では滑らないかとの事ですが、履帯に大型のセンターガイドを備えていますし、
  • 起動輪に関してソ連側が問題にしたとは聞かない
  • T-34/76の40年型から、69年の改修型まで同一の機構を使っている
以上から特に問題は無かったと思います
(90:798)
T-34のドライヴスプロケットは、内側に”歯”にあたる部分があって、
履帯の爪はそこに引っかかって廻ります。
(90:799)

教会からの募金で製造されたT-34がありますが、社会主義では宗教は御法度のはず。

どういうことなんでしょうか?
ソビエト時代のロシアでも、教会は細々と生き残っていましたし、
ゴルバチョフも幼少時には洗礼を受けたくらいです。

完全に宗教をなくすことは流石のソ連もできなかったようです。
(93:366)

T-34を「鬼戦車」と呼び始めたのは、64年公開のロシア映画が元ネタだと判断してよろしいでしょうか。

鬼戦車T-34 というのは日本の配給関係者が勝手に付けたタイトル。
まぁ、はまってるけど。

T-34/76はソビエト兵には ЖАВОРНОК  (ヒバリの意)と呼ばれていました。
「鬼戦車T-34」の現題もそうです。

ドイツ兵はT-34は普通にT-34と呼んでいたようですが、T-34/76の1943年型(鬼戦車
T-34に出てくる形)を見たアメリカ兵が”ミッキーマウス”と呼んでいました。
これは、砲塔ハッチを二つとも開くと、ミッキーマウスの耳のように見えるからです。

あえて”鬼(のような)戦車”をドイツ語にすると・・・ der TeufelenPanzer.でしょうか。
(105:742)

第二次大戦後にT-34を使っていた国は、ポーランド、チェコスロバキア、北朝鮮、ベトナム、アフガニスタン(タリバン?)、

で合ってるんでしょうか?他にあるんでしょうか?
それだけだと少なすぎ
中国、ユーゴスラビア、シリア・・・言ってるとキリが無いな
共産系国家と中東諸国には大体配備されてる
(108:215)

ソビエトのBT戦車やT-34に使われていた「クリスティー式サスペンション」と

現代の主流になった「トーションバー式サスペンション」ってどこがどう違うのでしょうか?
単にコイルスプリングを使った物はホルストマン式と呼ぶ。
クリスティー式とは、コイルスプリングを車体に内装することでストロークを大きくした物を言う。
これは米国で取得された特許に定義されている明確な違い。

だからクリスティー式は車体内にコイルスプリングの収納スペースが出来て邪魔。
トーションバーも車体が上げ底になってしまうが、大戦後半頃から、
地雷の爆風を逃がすために戦車の底は舟形にするので、
丁度その舟形の部分に入れてしまえば、むしろ床が広く使える。
(114:850)
トーションバーは少々の負荷では曲がらないが、一線を越える負荷がかかると大きく柔らかく曲がる。
この特性が戦車向き。
加えてクリスティー式は大きなストロークを実現するために上部転輪を廃するが、これが振動や騒音の元になる。

最後にひとつ、最近は油気圧式が増えつつあり、トーションバーが優れているとは言えない状況になりつつある。
(114:853)

T-34にドイツ軍がA~F型とアルファベットをつけて分類していたそうですが、それぞれの型の識別点を教えて下さい

A:1940年型
B:1941年型(40口径砲搭載タイプ)
C:1943年型(ハッチ増設、新型砲塔)
D:1943年型
E:1943年型(キューポラ搭載、溶接構造)
F:1943年型(砲塔がチェリャビンスク工場製のもの)

T-34にはまるで詳しくない。世界の戦車の写し。つーか、いまいち読んでもわからん。
(114:807)
あとドイツ軍ではT-34/85を<T-43>と呼んでいたらしい。
(114:817)

ソビエト軍はアメリカのシャーマン戦車を援助品として送られて使っていたそうですが、砲や機銃といった武器はどうしていたんでしょうか?

銃、砲弾ごと援助
(116:361)
これらのシャーマンは、戦後どうしたんでしょうか?
ソ連のシャーマンについては大戦中期は温存され、対戦末期に実戦投入。
諸々の評価はむしろイギリス戦車の方が高い所を見ると、温存し過ぎたか、戦車兵の体格が合わなかったか?
(シャーマンは大柄な搭乗員用に作られている)
ただし、砲搭上の機関銃や砲安定装置は後のソ連戦車に大きな影響を与えている。

前述のとおり温存したおかげでまとまった数がヨーロッパ戦を生き抜き、対日戦にも使用された。
(116:430)
レンドリース法の約款によれば戦後は
(1)返却
  ただし米国は望まず
(2)廃棄
  使用中の消耗は構わないとされており、返さなくて良いから捨てろとされた。
(3)代価の支払い
  使い続けるなら金ください
のどれかを望まれたんですが、ソ連は踏み倒しました。
(116:431)


KV-85ですが、トランスミッションの不具合を克服しかつ、高出力のエンジンを装備できていれば、T-34よりも有用な主力戦車になりえたんでしょうか?

まず、KV-85はJS1開発までの繋ぎなので、優秀な主力戦車になどならない。
もう一つ、KV-85のベースはKV-1Sであり、同車はKVシリーズの本格運用開始以来、欠陥
があると判っていたトランスミッションの改良を実施済みなのね。

T34M計画を知ったコーチン技師は、同時期、KVシリーズの生産継続を賭けた改良を要求されて
いたのだけれど、一方、中戦車と重戦車の両方の良いとこ取りをした新型戦車を作れば、T34の方
を生産中止に追いやって、自分の新型戦車が主力になると言う、プラス思考でKV-13を開発した。

高速化は出来たけど、不整地走破性能が落ちた上に、トランスミッションはまったく改良していな
かったので保険として並行開発していたのがKV-1Sが開発された。
で、ティーガー1に対抗すべく、T-34Mは取りやめ、重戦車もJSシリーズの開発に入っている。

良く病的なドイツ戦車ガソリンエンジン擁護ヲタがデマを流しているけれど、大戦中期以降、ソ連重戦車
が40t代で開発されたのは良いエンジンが無いからではなく、それ以上重く作ると路面や橋を壊して
しまうから、と言うだけの話だったりする。ソ連工兵の架設橋の限界もその辺りだったようだ。
ドイツは国内の主だった橋の荷重限界が24tで、潜水装備をつけることを前提でそれにより重い戦車を
作ることにしたんだけど、実はこの潜水のための装備やエンジンデッキのレイアウトが意外と嵩張り、
余計に巨大になってしまっている。そんだけの話だったりする。

仮にもっと軽量高出力なエンジンがあっても、ソ連重戦車はあの大きさで設計されることになってたのね。
KVの欠点として、機動性の低さは問題視されていたけど、もう一つ、橋や路肩を壊して後続車の通行を
妨げるってのも問題視されてたんで、仮に高速と重装甲を実現出来るエンジンがあっても、当座は40t
代で設計することになった訳ですよ。

JS3がJS2より車体を小さくしたのは、パンターを分析した結果「側面投影面積が大きすぎて撃たれ
弱い」と判断されたから、逆を目指しただけ。
そのため、エアフィルターをエンジン上から横に移動したり、車体高を低くする努力をしたんだけど、その
ために設計したエンジンマウントのトラブルが続いたために、大戦に間に合わなくなっている。

一応、より強力なドイツ戦車の登場を予測して、より強力なエンジンを搭載して、重武装・重装甲の
戦車としてJS4を開発したんだけど、こちらはゆっくり時間をかけて開発して良いとされていたらしく
大戦には間に合っていない。

けど、やはり予想されていたことだけれど、重過ぎて扱い難かったらしい。
それと、強力なエンジンは冷却器駆動のためのパワーロスが大きいと言うことが判明し、意外と当時の
技術では「強力なエンジンがあっても駄目」ってな感じでJS3の再生産が始まっている。
(553:542,545)

ソ連軍の戦車は頑丈で信頼性が高かったと聞きました

機構が単純だった、部品点数が少なかったのが一番だろうな.

ちなみにT-34の作りが単純な理由。
  • 航空機用に研究していたディーゼルエンジンを戦車に転用することにした。結果的にの点火系統が不要になり燃料火災にも頓着しなくなった。
  • クリスティー戦車から発展した結果、後方駆動が継承され、エンジンや変速機、操向装置が車体後方にまとめられているのですっきりしている。
一方で脱輪しやすい起動輪も最後まで継承していたりする。
  • その理由。根本的に1930年代に開発された古い戦車であり、配備中にドイツの侵略を受けて防衛戦から反撃に転じた経緯がある。
数的な不足を克服し、逆に攻勢に転じるために生産を阻害するようなマイナーチェンジはしない方針を選択した。
ちなみに信頼性を向上させるマイナーチェンジや火力や装甲の強化は度々したが、殊更に複雑なシステムの組み込みは避けた。
  • 工業製品としての精度は大戦前半の工場疎開期は極めて低い。
 それ以降は5カ年計画の進行の成果とアメリカ製工作機械のレンドリースが相まって意外に良い。
  • 信頼性は鉄道と道路事情の悪さを鑑み、必要な戦線に必要なタイミングで必着するために重視された。
逆に、特に前線の将兵が信頼性や不整地走破性能の低い軽戦車や重戦車は不要と主張することがあった。
  • 特にソ連の気候に言及するなら、深雪と泥寧期に着目して接地圧を低減させたり、航続距離は重視している。
 が、そのために凝ったことはしないと言うような話は無いと思う。
例えばクリスティー式サスペンションよりトーションバーサスペンションの方が泥の凍結には強い。
つまり凝ったことをした方がソ連の気候に合う部分もあるんだが、上に挙げたような理由で採用していない。
ソ連軍の戦車は頑丈で信頼性が高かった
そもそも間違っているが。
T-34・KVとも変速機故障が多く、T-34はマイナーチェンジした結果信頼性を確保する。
が、T44は再び信頼性を落としている。
重戦車はKV-1Sでの軽量化やJS系列の小型に抑える形態(装甲を内側に向けて
厚くする)など繰り返して信頼性を確保している。

「ドイツと比較して」と言うことなら、ドイツ側のアニマルタンクの過大な
重量、非鉄金属の不足、パンターのシングルラディアス式操向装置が駆動系
に負荷をかけるなどドイツ側の信頼性の低さが”ちと酷過ぎる”だけ。
(341:597-619)

T-34は砲塔が回転すると中の人はどうなるの?

戦車の砲塔バスケット下部の旋回プラットフォームに立ってるのは装填手だけ。
でもT-34-76では砲塔リングに付いた椅子もある。装填作業中は床下から弾薬を取り出すため降りるけど。砲手兼戦車長は座りっぱなし。
(669:109)

T-34-85の機械的信頼性はどうなの?

T-34は戦争後半になるほど信頼性は改善されている
アメリカから工作機械や良質な鋼材を入手できたし、照準器も改善された
(俺初質スレ2048:980)

今も一部の国ではT-34/85が現役ですが、増加装甲つけてもやはりRPG一発であぼーんなのでしょうか?

タンデム弾頭でイパーツです
しかし、戦車が存在しない戦場においては、有力な火力支援となりうるので
場所によっては強力です。
敵が小銃程度しか保有しないゲリラや民兵なら蹂躙できるし。
(63:363)

ソ連戦車は初期のT-26とかは軽装甲だったのに、どういったきっかけで他国に先駆けてKVやT-34みたいな重装甲の戦車に切り替わったんですか?

スペイン内戦や張鼓峰事件で、37mmの対戦車砲にボコスカ抜かれて
装甲の薄さが問題となったから。
(俺初質スレ30501:71)


WW2各国戦車比較


T-35という戦車があることを知りました。なんでソ連以外の国はこういう戦車を作らなかったんですか?

他国にも無いわけじゃないよ。流行らなかった理由は、でかくて重いくせに
装甲が薄くて機動性が低いから。
もともとT-35というヤツは、火力支援戦車って言う位置付けだったんで、
機動性は重視しなかったんだが、いざ使ってみるとドイツ戦車に歯が立たなかったんだな。
ドイツにはPzKpFw、NbFzという名の多砲塔戦車があったけどね。
あと日本の100トン戦車とか、イギリスのビッカースインディペンデントとか。
(結構あるな。)いずれも試作程度。ある程度台数が実戦参加したのはやはりT-35くらい。
(32:803)

T-34/85と、M4シャーマンは、朝鮮では互角だったって本当ですか?

カタログデータだけでなく、総合能力で見比べてください。というかシャーマンだって改良されてるんです。
あと錬度と運用が違います。
(45:901)
朝鮮戦争当時のシャーマンはM4A3E8、いわゆるイージーエイトと呼ばれる
最強級のシャーマンであったのも理由の一つだが。
56口径の長砲身、一枚板の前面装甲板、湿式弾庫、幅広キャタピラの採用等々。

4号H型で75mm48口径、パンサーで75mm70口径。アメちゃんはタングステン弾芯の
徹甲弾を多量に持っていた。一概に口径で威力を比較できないが、まあ第2次世界大戦のシャーマンよりは強かったのは確か。

あと、手に負えないヤツが出てきたらパーシングやセンチュリオンの支援も受けられたしね。
(45:916)

Panzerという雑誌には三号戦車とチハ改の性能は、ほぼ同等とありました。

チハ改はM4に全く歯が立たなかったわけですから、アフリカ戦線での3号戦車はM4にボロ負けしたんですか?
III号でも、J型後期以降の60口径50mm砲のやつだと、戦力的に新砲塔チハより全然上。
M4相手だと有効射程内なら互いに撃破可能。なお、ずっと後のドイツ本国の戦いでも、
訓練用になっていたのを引っ張り出したIII号戦車でのM4撃破記録がある。

北アフリカ戦線で英軍に供与されてデビューした当初のM4(イギリスが使ったんで
M4 ではなく シャーマンMk.* だけど)は当時としては厚い装甲と75mm砲の
威力でドイツ軍相手に絶対的な強さを示した。
数が少なかったので一方的に戦局を変えるまでには至らなかったが。

この前に供与されたM3(イギリス軍は砲塔を独自の型にして グラントMk.*と
いう名前で使用)と合わせ、アメリカの供与した75mm砲搭載車両はドイツの脅威と
なった。
これに対抗するためドイツ軍はIV号戦車の主砲を75mm長砲身対戦車砲に載せ変えた
IV号戦車長砲身型「マーク4スペシャル」(イギリス軍の呼び名)を急遽開発して
対抗したが、これも数が少なく用兵側の要求量に供給がちっとも追いつかないままに
終わった。

アメリカ軍はM4のこの開発に「うちらの戦車もやるもんだ。ドイツ軍恐れるに
足らず」とすっかり調子に乗り、本格的に参戦した後の北アフリカ戦線で苦労した。

何せその時にはドイツ軍にはかの「タイガー」重戦車が数は少ないながらも配備され
てたので。
(566:302,306)

第二次大戦中のイタリア戦車もディーゼルエンジンを搭載してましたが当時の日本の戦車用ディーゼルエンジンとは性能的に比べるとどうなのでしょうか?

イタリアの戦車用ディーゼルエンジンは、水冷のオーソドックスなものですので、
日本の空冷で貧弱な馬力のものとは全然違います。
記憶モードなので恐縮ですが、幾らかはソ連の戦車用エンジン開発にも影響を
与えた筈です。
(340:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

チハ車より軽いM3軽戦車の装甲厚がチハ車を上回っているのは何故なんでしょうか?

まず、M3は砲塔前面こそ50mmもあるが、他の部分は薄い。
九七式は砲塔前面25mmに対し砲塔側面と砲塔側面は20mmであまり変わらん。

あと、砲やエンジンの重さも九七式のほうが重い。
M3のL53 37mmに対し九七式のはL18 57mmもしくはL48 47mmで大きいし、冶金技術で劣っているのでなおさら重い。
エンジンも、M3はガソリンエンジンだが九七式はディーゼルで、エンジン技術は冶金技術以上に差をつけられている。
(326:953)

T-34以前のソ連戦車なら日本の機甲戦力でも苦戦はしても対処はなんとか可能だったという説は?

ノモンハンでソ連BT戦車(まさにT-34以前、というか直前の戦車)を撃破した実績があること。
97式改や1式はノモンハンの戦訓により対装甲火力を増強していること。
以上の2点から対処が可能であったことは確実。
もちろん「可能」と「楽勝」は違う。
(608:773)

T-34とM4中戦車が戦った例はありませんか?

朝鮮戦争ではアメリカ軍のM4A3E8と北朝鮮軍のT-34/85が砲火を交えてる。

カタログスペックではT-34/85の方が性能が上のはずだが、戦車兵の錬度と
数の優位で米軍側が優位に戦闘を進めた。

米軍のレポートによれば、T-34/85は車高と砲塔高が低いこともあり、砲の取れる仰俯角で
M4に劣っていて、朝鮮の山がちで起伏の多い地形では不利だったとのこと。
また、M4の76.2mm砲は、T-34/85を相手にしたときに攻撃力で不足を感じることはなく、
M4の装甲がT-34/85の85mm砲に対して大きく劣っていると感じられたこともなかったとのこと。

中東戦争でもイスラエルのM4とアラブ連合軍側(主にエジプトとシリア)のT-34/85が戦った。
こちらでは初期型の75mm砲型のM4がほとんどであったためか「砲の威力が不足している」
「装甲防御力が低すぎる」というレポートが出されている。

これを受けてイスラエルではM4の76mm砲塔型の入手を急ぎ、多少装甲の厚くなった後期型の車体に
76mm砲を積んだ型(一般的なシャーマンの型式番号で言うと、M4A1)のシャーマンに「M1 スーパー
シャーマン」の名称を与えている(M1、の直接の由来は搭載した76mm砲の形式名)

75mm砲塔型にフランス製の75mm長砲身砲を搭載、機関と足回りを改修した型は「M50 スーパーシャーマン」
として制式化されている。

余談だが、朝鮮戦争でのM4A3E8 VS T-34/85 の比較レポートは自衛隊の戦車開発にも
影響を与え、STA(後の61式戦車)の開発初期に「主砲は76.2mmで充分」という主張の
根拠になった。

結局この主張は退けられたが・・・。
(609:499)


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