軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

独ソ戦

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匿名ユーザー

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映画スターリングラードは皆様から見て実際には考えられないシーンはあったでしょうか?

印象的なのが数人に一人しか銃が配布されないことだが、
あれは実際あった。ソ連に限らない。
手ぶらで戦場をうろついてる兵隊はいつでもどこでも居たらしい。
ソ連政治将校が味方の兵隊を撃つのもあった話。あれほど
大々的に撃つかどうかは微妙。

戦車のすぐ脇に兵が立っていて、戦車砲を発砲するのは
かなりおかしい。爆風でぶっ倒れるし、鼓膜が危険。
戦車のすぐ脇に生身の人間が立っているのは、危険なので
ふつうやらない。やっても後ろに立つ。

戦闘終了直後にいきなり高級将校がシャワー浴び出すのは
どうかと思ったが。あり得なくはないが、不用心にもほどがある。
最前線で裸にはなりたがらないだろ、ふつう。
記憶にある限りではこんな感じかな。
(44:11)

映画の「スターリングラード」で、ソ連兵は銃は二人に一丁だったり退却すると機関銃で撃たれたりしていたのですが、史実でもそうだったんですか?

それは一部の悲惨な部分が拡大解釈されただけです
()

独ソ戦で悲惨な戦場だったといわれる、スターリングラードでは、どのくらいの死者が出たのでしょうか?

スターリングラードでは両軍合わせて150万位です。
(65:227)

独逸がソ連を攻撃したのって、なんでだっけ?

理由はいろいろ。
よく聞くのは
1…近隣国を吸収して肥大化するソ連がうっとおしくなった。

2…ポーランドを分割占領した時に「ドイツ側の取り分」としていたエリアまでソ連が占領したので許せなくなった。

3…で、ソ連に驚異を感じてる近隣の小国と同盟を結べるし。

まあ、弱小国でも「枯れ木も山の賑わい」(アテにして泣きを見るんだが)
ルーマニアとは絶対仲良しでいたかった。

上のはどれも、今一つ開戦する理由として弱い気もするんですが、ソ連なんざ片手間で倒せるつもりだったんですな。
(66:107)
ついでにソ連を片手間に倒したら、「重工業 by 5ヶ年計画」がゲットできると。
(66:109)
  • ゲルマン民族が生存する為のヒンターランドとして東ヨーロッパを欲していた。
  • 共産主義を嫌悪、スターリン個人を信用していなかった。
(66:111)

独ソ戦で、スターリングラードで死者はどのくらいでたのでしょうか。

スターリングラードは100万人くらい。
(73:886)

大祖国戦争で、ソ連が第三帝国に勝利した要因を教えてください。

  • ドイツが2正面作戦を行った事。
  • ヒトラーが誤った作戦指導をしたこと
  • 物量差
(74:77)
軽い人命、レンド・リース法、T-34かな?
(74:78)
焦土作戦・偶然・冬
(74:79)

『ヴラーソフ軍団』について詳しい内容の書籍などがあれば紹介していただければ幸いです

多分図書館か古本屋巡りをすればあるでしょうが、「幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」
(発行 フジ出版  著者 ユルゲン・トールヴァウト 訳 松谷健二)が一番の資料だと思います。

補足です。

ロシア自由軍(Russkaya Osvoboditel'naya Armiya )は、1940年に独国内
に作られた秘密組織を核としています。
1941年に独ソ戦が勃発すると、100万と号するヒヴィス(Hilfs Freivilliges
ロシア救援義勇隊)が編成されます。
彼らは、占領地の宣撫工作、警備に当たっていました。
が、ドイツ軍自体が兵員不足に悩まされたために、大量の赤軍軍人とその捕虜を
前線で活動させようと、捕虜になっていたウクライナ出身の元赤軍第二突撃師団
司令官ウラジミール・ウラソフ将軍を寝返らせ、1943年にロシア人の部隊をドイツ
軍内に作ります。
これが、俗称、「ヴラーゾフ軍団」と呼ばれているもので、陸軍の他、少数の空軍
も保有していました。
(78:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次大戦末期、ドイツ本土にソ連軍が迫っていた時、住民の避難が遅れたそうです。

理由は早期に避難をドイツ指導部が認めなかったからとか。
同様に戦争初期のソ連も自国民の避難を渋ったみたいです。

質問なのですが、なぜ両国指導部は早期避難を認めなかったのしょうか?
現在の日本政府も避難を渋った有事法制を作って、非難されてました(笑)
政府としては早期の避難に伴う出費が嫌なのです。
(79:205)
ドイツの場合は、

(1)大量の住民を組織的に避難させるための交通手段が確保出来なかった。
(2)生産活動が阻害されるため。
(3)住民に動揺が出るため治安上の問題
(4)軍への絶対的な信頼感

等の理由からソ連軍が接近しても住民の避難命令はほとんど発令されませんでした。
でも、ナチ党員や管区指導者レベルではソ連軍接近時に自発的に逃亡を図った者も多く、
大戦末期にはかなりの数が反逆罪で処刑されています。

また、面白い事にドイツの軍需工場では規定で敵軍の砲兵の射程距離になるまで操業する事を
義務つけられており、そうなるまで必然的に労働者も避難する事が許されませんでした。
(79:220)

ロシア義勇軍ってどういうもので、どういう人たちが所属してて、どういう戦果を挙げて、どういう武装だったのでしょうか?

対ロシア戦に突入したドイツ軍は自軍の兵員不足をカバーするために捕虜の中から
ヒヴィスと呼ばれる志願補助員を募り、自軍で活用しました。
また、1943年以降武装SSではクロアチア人やウクライナ人といった非ドイツ民族から
志願者を募り、師団を編成しています。
ただ、ロシア系の捕虜を主体とした部隊の編成はヒトラー等の人種的偏見もあって遅々として進まず、
ようやく1945年にアンドレイ・ウラソフ将軍率いる自由ロシア解放軍が編成されています。
(84:名無し軍曹)

独ソ戦と共産主義の基本知識を得たいのですが適当なサイトがあったら教えてもらえますか?

下手なサイトに書かずりあうより、本を読むことをお奨めします。
パウル・カレル著『バルバロッサ作戦』、『焦土作戦』、
デビッド・M. グランツ、 ジョナサン・M. ハウス著『詳解 独ソ戦全史―最新資料が明かす「史上最大の地上戦」の実像』

あたりが基本的図書です。
これで興味が湧いたら、さらに関連図書を書評スレで、紹介してもらうのが吉でしょう。
(94:550)

第二次世界大戦中のドイツとソ連はどこからゴムを輸入してたんですか?

ソ連は主に英国(の植民地)から輸入してたかと。

ドイツも戦前に英国(の植民地)から輸入していたと共に、南米諸国からも
彼らがドイツの友好国であったので、輸入をしていました。
戦時中のドイツは、人造ゴムを開発、生産すると共に、南米諸国からの封鎖
突破船による輸入と、日本が占領した東南アジアから潜水艦による輸送で
生ゴムを輸入しています。
(97:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

バルバロッサ作戦ののバルバロッサってあのドイツ王フリードリヒ3世のこと?

違います。

この場合のバルバロッサは、フリードリヒ一世(在位1152-90)です。

彼は、即位してのちイタリアに勢力を伸張し、また同時に東方への(つまり
スラブ民族への)勢力の伸張を行ったことでも知られています。

最期は、小アジアでSaleph川渡ってる最中の溺死。

で、第三回十字軍のときに編成されたのが、後にドイツの東方拡張の主役となる
ドイツ騎士団やね。ただ、これの結成はフリードリヒとは直接関係ないみたい。
(99:843,846)

映画スターリングラードは、軍事考証面に関しては良さげなんでしょうか?

戦車は別の戦車を3号戦車に似せたものが出てきます。一回り大きいですが精巧に作られています。
考証については有名なイギリス人ドイツ軍マニアグループが協力しているので非常に正確です。
あえて言えばMG42が出てくる事と残骸の中にT34/85がいるくらいですか。
(104:819)

スターリングラードの戦いについて詳しく解説してあるサイトがあったら教えてください。

本を購入して読書しましょう。
『バロバルッサ』
『鼠たちの戦争』
『第六軍の心臓』など。
(107:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)

独ソ戦の書物を読むと「スチームローラー」という名前をよく見るのですが、これは戦車の車輪の事を指すのでしょうか?

全てを押しつぶす圧倒的な物量による抗し難い攻勢を「スチームローラー」に例えています。
(108:438)

ブルムベアがあればスターリングラードはドイツ軍のものになったのでしょうか。

そもそも赤軍の指針は独軍をスターリングラード市街へ引きつけるだけ引きつけることですから、
第6軍がブルムベアの投入で多少占領の速度が上がったとしても、
やっぱり脆弱な側面を破られて包囲下に陥る→降伏の歴史は変らんと思われ。

超兵器で戦局逆転できるのは仮想戦記の中だけでつ。
(112:899)

クルスク戦でヒトラーが介入しなければ勝てていたというのは信憑性のある話でしょうか。

少なくともマンシュタインは自伝でそう主張していますなw
『失われた勝利』とw

個人的感想ですが、計画立案時に攻勢を仕掛けたのなら勝利は揺ぎ無いでしょう。
もっと最善を期するのなら、初期のように敵の攻撃限界点で反撃を行なう
攻勢防御の方がよろしかったかと。

ついでに参考になりそうなフラッシュ&本

マンシュタイン回顧録『失われた勝利』上下巻
ジョナサンMハウス、ジビットNクランク共著の『独ソ戦全史』
などをご覧になられてみては?
(114:213,215)
本来、Washington条約では、1931年以降、艦齢超過の主力艦については代艦建造が認められています。
しかし、この条約制限の排水量で所要の防御を施し、速力を十分に取ろうとすると、
主砲口径の限界は356mmが精一杯でした。

また、1937年に延長される第二次条約は、結果的に日本とイタリアが参加しなかったのですが、
この時に主砲口径は356mm以下と規定されています。
ただ、1937年3月までに両国が参加しない場合は、主砲口径を406mmまで拡大することが認められていました。

しかし、工事進捗の関係上、1940年には英独開戦が予想され、
主砲口径の拡大とそれに伴う設計変更をする暇が無かったので、そのまま工事が進められ、
356mmで完成しています。
なお、その後のLion級は406mm砲を搭載する予定でした。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦当時、レニングラードは41年9月から44年1月まで900日間ドイツ軍に包囲されました。

ドイツ軍が1つの都市を900日間も包囲しながら陥落させることができなかった原因は何ですか?
完全包囲ではなく、細々とした補給線が稼働していたからです。
また、主攻正面でなかったのもあります。
(115:804)
ヒトラーが、完全占領命令を出さなかったから。

独ソ戦の初期、ドイツ軍はソビエト軍が放棄した大都市を占領し、仕掛爆弾で悲惨な目にあった。
それに、ソビエト軍は撤退していく際に都市インフラを徹底的に破壊して撤退していったので、
占領した後のインフラの整備にものすごい手間がかかった。

その為、占領せず包囲して陥落させられるなら、それに越した事はない、という戦略が取られた。

また、スターリングラード戦が苦境に陥り出すと、これ以上困難な戦線を作るのは得策ではないと判断され、
主力部隊がスターリングラード方面に集中されたので、レニングラードについては包囲に留めおく、
という戦略判断がなされた。

実際には、レニングラードへの補給は細々と続けられ、冬には凍った湖の上を補給路にし、
更にはパイプラインまで建設され、レニングラードは工業都市として機能していた。

      • 兵と市民は飢餓に苦しんでたけれど。
(115:805)

1941年の独ソ戦において、ソ連がヨーロッパへの侵攻を計画していて

ヒトラーが、それを察知して先制攻撃をかけたという説は本当ですか?
ソ連の対独先制攻撃計画は、80年代に当時の西ドイツで騒がれ始めた説ですが、証言者や物証がありません
当時の参謀次長の個人文書の中から、スターリンに提出するつもりの「対独攻撃計画意見具申書」の、
草稿が見つかったのみで、実際に提出されたのか、またそれに対して
ソ連政府(スターリン)がどうしたか等の公式文書なりは見つかっていません

また、ドイツ側の対ソ戦決定に関連する公文書は多数残されていますが、
「ソ連が対独先制を決意しており、ドイツはそれを知っていた」を記録した物も見つかっていません
(116:979)
独ソ戦開始時、スターリンが国境沿いに兵力を集結させてたのは本当。
別にドイツを攻撃するからってわけじゃなく、単に防衛戦略に従っての配置。
現実には見事に裏目って、短時間で徹底的に粉砕されちゃったが。
(117:38)
ポーランド戦より前の独ソ不可侵条約締結前、英国とフランスはポーランドに
ソ連軍を引き入れて、ドイツ軍と戦わせようとしていました。
結局、ポーランドの反対で流れましたが、その辺の事情もあったのではないかと…。
(117:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ソ連の対独侵攻計画について詳細に触れた本は「砕氷船」という本だと思われます。
著者がソ連からの亡命将校(GRU所属の佐官)であることもあって、ドイツ系の書籍では大きく扱われることが多いようです。
「砕氷船」は未見なので明確に言えませんが、「知られざるスターリン」等、ロシアでは否定的に扱われているようです。
なお、著者のスヴォーロフ(本名レズン)氏は、亡命から20年以上たっているのに、
「ロシア」の秘密計画について暴露する等、貴重な情報源をお持ちのようです。

また有名な「三部作」は、ソ連軍の教義、実態について教えてくれる良著です。
ソ連の秘密兵器として当時知られていなかったITシリーズの「ミサイル戦車」を紹介した点は評価されて良いでしょう。
「大量生産された秘密兵器」ではなく、「1コ大隊分が生産されただけで倉庫入りしていた兵器」であったとしても。
(117:47)
スヴォーロフは英国情報機関からデータを得ているとか
実は英国情報機関が謀略のため作り上げた架空の人物で
あるとの見解もある
(117:61)
「対独攻撃計画意見具申書」(独及びその同盟国に対する戦争の為の戦略開進計画)によれば
  • 支攻撃をジードルチェ、デンブリン方面に加え、ワルシャワ近郊に独軍を拘置する
  • スロヴァキア国境に近いボーランド南部をクラカウ方面に進み、
 ドイツと同盟国を分断した後北上し、ポーランドに展開している敵軍を包囲
  • フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、東プロイセンに対しては防御
  • 作戦には303個師団、砲兵74個連隊、218個飛行連隊を使用
と、なっていて開戦時期は記載無し

ソ連が41年7月に対独開戦を予定していた、いや43年だった等の説が出ています
が、それを肯定・否定する確証は出ていません
また西部に防衛するだけにしては多すぎると思われる部隊を配備していましたが、
それが侵攻用だったという事を肯定・否定する確証も出ていません
結果、「そうだったかも知れないけど、証拠は無い」という状態です

私見ですが、戦車連隊大改変真っ最中に当たる41年7月開戦説は?ですね
(117:71)
レズン自体は実在の亡命者。
「代理」としての存在は可能性有り。
(117:72)
当初の質問に、私見でお答えすると、41年時点でのソ連からの開戦計画はまず無い。
71にも有るとおり、戦える状況ではない。
(117:73)

独ソ戦って宣戦布告があったんですか?

開戦直後の22日早朝に駐ソ大使のフォン・デア・シューレンブルクから
外務人民委員のモロトフに宣戦布告が伝えられています。

教科書での扱いはほかの方にお任せします。
(117:316)

第2次大戦のドイツによるソビエト侵攻ですが、最初のソビエト軍の被害が大きかったのは

ポーランドを分割したことによって、旧ポーランド国境沿いの陣地の意味がなくなり
新たなドイツとの国境近くに軍を配置する必要があり、使える基地が少ないために
部隊を少ない基地にたくさんまとめる必要があったからでは

一応ね、6月22日に過度な集中配置は行われていなかったと思われますよ。
むしろ、国境沿いに一通りにラインは形成されていた。

もちろん、旧ポーランド国境の陣地線(通称:スターリンライン)に拠っていれば、
その防御効果によって、ある程度の被害軽減はできたかもしれません。

ただねえ…独ソ戦開戦直後の赤軍は、
最初の奇襲効果による組織的混乱があまりにも酷く、
その上、固守・反撃という実情に合わない命令が出されたことによって、
あまりにも大きな損害が出てしまったことの方が、問題でした。
スターリンラインによっていたとしても、そうなっていた可能性は大きかったかもしれません。

あくまでも可能性でしかなく、推論の域はでませんけどね。
(117:523)
考えすぎ。
実際は、
スターリンが独との友好関係を信じすぎていたこと。
スターリンによる大粛正の結果、有能な軍人が減っていたこと等から、充分な戦争準備がされていなかった。
日本の動向が確定するまで、満州側への戦力配置が必要だったこと。
ソ連はレンドリース物資に支えられる形で第二次世界大戦を戦い抜いたが、開戦後、それが始まるまで期間があること。
など。
(117:533)

冬の東部戦線では3回の冬があるのですが、それぞれドイツ軍の凍死・凍傷の被害は多くでたのでしょうか?

それとも教訓が生かされ防寒対策は充分だったのでしょうか。
問題は冬季装備が無かったことでは無く届かなかったこと。
スターリングラードの飢餓も同様。
大戦前半のドイツは華々しい電撃戦のイメージがあるが、現実は長期戦に耐える輸送能力が無かった。
加えて対ソ戦では困難な状況での戦略的後退をヒットラーが許可しない。
(スターリングラードでは空軍の輸送能力の過大評価もあった)
ソ連側の徹底的な焦土作戦が拍車をかけた。

一応、戦略的後退が有効的に行われ、RSO等の輸送手段を増強した結果、
凍傷や飢餓による被害は減ったが、慢性的に物資が不足していたのは確かでありますよ。
(120:196)

WWⅡのドイツについての質問です

1939年にソ連と独ソ不可侵条約を締結
同年のポーランド侵攻に始まり6月にはパリを占領→イギリスにも攻撃
上陸できないまま1941年にソ連に侵攻した
とありますがなんでいきなりソ連に侵攻したんでしょうか?
イギリスに侵攻するのは不可能になったが、かといってイギリスに即座に反撃をしてくるような
力があるわけでもなく(少なくともドイツはそう判断した)、それならば西への侵攻が行き詰まった
なら東へ…
ということで次の標的はソビエトに定められた。

まぁ、ヒトラーは実際にはイギリス本土へ上陸するつもりなど無くバトル・オブ・ブリテンは
講和条約を結ばせる為の圧力をかけるのが目的だった、とか、背後を攻撃されないように
ソビエトと不可侵条約を結びはしたがロシアの植民地化はヒトラーの、というかドイツの歴史的
目標だったので必ずソビエトには攻め込むつもりだった、とか色々あるけど、
端折って説明すると上のようになる。
(121:557)
んで、なんで1941年にソビエトを攻撃したかというと、ドイツは石油資源のかなりの量を
ソビエトに頼っていたのだけど(あとはルーマニアから)、ソビエトはドイツへの石油供給を
渋り始め(ドイツが欧州を制覇する可能性が薄れてきたので、ドイツよりも連合国側に石油を
供給した方が得なのではと考え初めた)、このままだとドイツの必要石油量が確保できなく
なるかさもなければ石油価格の高騰で経済が破綻する可能性が出て来た為。
 それならば、まだ備蓄量が充分あるうちに・・・ということで1941年の開戦となった。

 一応ソビエトもドイツとの戦争の可能性が急激に上昇し始めたことには気づきつつあって、
主に東欧(ルーマニア、ハンガリー)方面を主正面とした先制攻撃計画が構想されたりは
していた。

 そんなこともあってソビエトは前線部隊にドイツ軍に対して挑発と取られる行動を取ったり
またドイツ軍の挑発行動に応じたりしないようにとの厳命を出していて
(ドイツに「先に手を出したのはソビエトだ」と条約破棄の口実を与えるので)、
それが開戦初日に徹底的に奇襲される原因になる。
(121:559)

第二次世界大戦でドイツがソ連に攻め込まなかったらなにか劇的な変化はあったと思いますか?

その質問には明確な回答があります。
実は、ソ連側もルーマニア経由のドイツ侵攻を計画しており、どの道
両国の開戦は避けられませんでした。
だからドイツが先に手を出さなくても結果は同じです。
(123:384)


独ソ戦でドイツ軍はKV2戦車にかなり手を焼いたそうですが、開戦前にKV2の性能についてドイツ軍は掴んでいなかったんでしょうか?

存在は把握していたし性能も掴んでいた。
だが、独ソ戦に先だってのフィンランド戦争での実戦投入結果から、
KV-2(当初のドイツ側の呼称は大型砲塔KV戦車)は「陣地突破戦用の火力支援戦車」であり、
ソビエト軍が”守り”の戦闘を行うならば、拠点に固定配置されてトーチカのごとく
運用されると考えられていた(これはソビエト側の開発意図もそうなので分析としては正しい)。

その為、電撃戦では敵軍が強固に守る拠点は迂回して孤立させるか航空支援で潰すものなので、
ドイツ戦車が正面切ってこれと戦わねばならないような局面はそうそう無いであろうと考えられていた。

まさか、「単独でドイツ軍部隊に対し阻止突撃を仕掛ける」とか「五月雨式に投入し
とにかく手近なドイツ軍部隊に殴りこませる」などといった運用をしてくるとは
思ってもいなかったため、ドイツ軍はKV-2に遭遇すると非常に苦労することになる。

だが、現実にはKV-2は足回りとエンジンに無理が掛かっているので故障が多く、
重量が重過ぎてちょっと路外走行をしただけで軟弱地にはまって動けなくなって
しまったり重すぎて橋が渡れず無理やり橋を渡ろうとして橋ごと川に落下・・・と
戦闘以前に行動に不能になってしまったものが多く(この辺戦争後期のドイツ軍
重戦車群と同じ)、”伝説”として語られているほどには実際の戦闘では活躍は
していない。
戦闘参加以前に上記のような理由で搭乗員に放棄されてしまった車両も多く、
ドイツ軍に「撃破」された車両の半数くらいは乗組員が爆破放棄したものであったり
ドイツ側が行動不能になって放置されたものに弾を撃ち込んで「撃破した」という
ことにしたものだったりして、そういう点でも戦争後期のドイツ軍重戦車と同じ
結果になっている。

いや、「重すぎる重戦車は自滅する」ということが独ソ戦の初期に既に証明されていた、
と言うべきか。
(402:683)

独ソ戦では補給が途絶えた地域で人肉食が日常的に行なわれたというのは本当?

市場では人肉が売買され、人肉目当ての子供の誘拐も横行したとか
今は手元にないので記憶モードだが
ソールズベリー著「攻防900日」に同趣旨の記載がある。
雪道に解体された金髪の少女の生首が置いてあったとか
ブーツを買いに出た若者がアパートに案内され、室内を覗いたところ
天井から解体された人体のパーツが吊り下げられていたとか
(その若者は何とか逃亡、兵士に助けを求めて生き延びた)。

レニングラード周辺の攻防は3年くらい続いたが、ソ連が盛り返してくると
包囲下とはいえ生活も徐々に楽になっていったようだ。
1944年にソ連軍が独軍を駆逐して、完全に包囲が終わったあとの市場では
人肉を売る闇商人は姿を消し、みんなが子猫を買いたがっていたと書いてあった。

質問とは関係ないが、この本はルーデルがJu87を駆ってマラートを
大破着底させた時のレニングラード市民の証言も載っていて面白かった。
マラートの受けた大損害の様子は市民の間でも語り草になっていたみたい。
(517:二人兄弟の墓 ◆z8d8W/sbaQ)

『食人全書』のレニングラード包囲戦の章を嫁!
(517:754)

スターリングラードって戦略的価値はあったんですか?

レニングラードやモスクワへ侵攻する進路よりはかなり南方だし、目の前は黒海やグルジア。
カフカスまで攻めくだれば油田があるけど・・・ウクライナの穀倉地帯を確保するため?
もともとスターリングラードは完全占領しようとしていた訳ではない
A軍集団がカフカスの油田占領に失敗し、第四装甲軍との共同作戦であるドン河下流でのソ連軍撃滅にも失敗
このザマでは世界と同盟国に対するドイツの威信やヒトラーの威信まで危うい
そのためヒトラーはスターリングラードにソ連軍けん制で展開していたB軍集団にスターリングラード完全占領の総統命令を発令した
何故スターリングラードの完全占領に踏み切ったかというとスターリングラードはその名の通り敵国の最高指導者の名前が冠されており
軍需産業の一大集積地でありヴォルガ河水上交通の要所であったため
(539:219)

ソ連軍は独ソ戦で、戦車を先頭に数で押しつぶす戦法で大損害を出しました。どうして米軍のように空軍で支援しながら前進しなかったのですか?

戦車と火力、航空支援の活用による縦深戦術の提唱者だったトハチェフスキーが粛清され、
さらにそれが全軍に波及したために人材や戦術が低レベルのままだった。
独ソ戦開戦初頭にソ連空軍はドイツ空軍によって大打撃を受けており、
制空権を掌握されていたので航空支援を行うことが困難だった。
開戦当初のソ連戦車部隊の主力は三号や四号でも太刀打ちできるBTやT-26といった装甲の薄い戦車で、
T-34やKV-1の配備はまだ少数にとどまっていた。
戦車部隊と歩兵部隊を切り離して投入するような拙劣な戦術や、通信機器の不足から
戦車部隊が連携した行動を取れなかったことで戦車を活用できなかった。
アメリカからのトラックを始めとする物資の供与や、T-34の大量配備、ウラル以東での航空機を
始めとする兵器の増産、戦争中盤までの戦訓を基にした戦術の改良がなされて逆襲に転じるのが1943年以降となる。
(343:55)

パンツァーフロントにザクセンドルフというマップがありますが、どういう戦場だったんでしょうか?

ザクセンドルフはベルリン東方、オーデル河畔のキュストリンとゼーロウ高地の間にある小村。
http://www.geocities.com/panzerfrontuk/historysachsendorf.html
に戦いの概要について記述されてる。
要約すればオーデル河を渡河したソ連軍が橋頭堡を築いたキュストリン奪回のためにSS第502重戦車大隊と第9降下猟兵師団が進撃した作戦。
しかしソ連軍の反撃にあい攻撃は挫折、この後両部隊はゼーロウへと後退し、さらに502はベルリンでの市街戦で最後を迎えることになる。
「SS戦車隊 下巻」の後半は502の戦闘記録が中心で、ごくわずかだがザクセンドルフ戦に関する記述がある。
(ただし地名がザクセンベルクと誤記されてるが)
グーグルアースかマップでベルリン東方をみるとわりと簡単に見つかり、ここがベルリン防衛上の要地であることがわかる。
ちなみにパンフロのゼーロウはザクセンドルフのすぐ西、「最後の戦闘」のコルガスト(正しくはGorgast)はキュストリンのすぐ東でマップに出てくる要塞もちゃんとある。
(340:208)

ドイツ軍はレニングラードを包囲したまま占領しませんでしたが、これはなぜ占領せず包囲にとどめたのでしょうか?

レニングラードを占領して海路からの補給線を確保した方がワルシャワで渋滞してた鉄道輸送の負荷軽減になり、
また、モスクワ戦へ北方軍集団の一部を投入でき、メリットが大きそうなんですが。
戦力の余裕がなかったから。

独ソ戦初期のキエフやミンスクを占領した経緯から、ソビエト軍が頑強に守る
都市を陥落させて掃討し仕掛けられた爆薬等を撤去して完全な制圧下に置く
には物凄い手間と人員と物資と予算がかかることが解っていたので、あえて
作戦目的に「都市を占領しての完全制圧」を入れなかった。

スターリングラード戦の経過と顛末を見るにこの判断は正しかったと思われる。

レニングラードは放置することはできず、かといって陥とすには方手間では無理・・・
という非常に厄介な目標で、ドイツ軍としても頭の痛い所であったろう。

後出しジャンケンで考えるなら、モスクワさえ早期に陥としてしまえば後はなんと
でもなったろうからレニングラード包囲に裂いた戦力をモスクワ攻略に使えば
よかったのだろうが・・・。
モスクワ陥落したらなんとでもなる、の根拠は何?
兵器工場がモスクワに集中していたからじゃないの。
モスクワが落ちるさなか疎開が順調に進むとも思えないし、
たとえ順調にいったとしても丸一年は掛かるだろうし、
T34の生産能力が半減どころか三分の一にまで減ったら逆転は難しいでしょう。

いや、モスクワやレニングラードが脅かされた頃には戦車工場を初め
兵器工場はみんなウラルに避難してたわけだが。
”タンコグラード”と呼ばれるようになったチェリャビンスクなんか
有名だな。

「モスクワが脅かされた頃」には、首都機能はクイビシェフ(現サマーラ)に移転していたわけだが
(339:535-617)

独ソ戦開戦時のドイツ軍の配備状況

「1941年6月22日におけるドイツ軍は205個師団
西方戦場 28個師団
ノルウェー 12個師団
デンマーク 1個師団
バルカン 7個師団
リビア 2個師団
東部戦線投入可能兵力 145個師団」

下記、メモを参照ください。
http://www.oc.jful.jp/~oc429s/newpage13.htm
(603:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

ドイツ軍は常に劣勢の兵力でソ連軍と戦ってたの?

緒戦からして枢軸国軍の方が多いんですけど
バルバロッサ作戦は350万超えてる枢軸国軍(独軍だけでも300万)と250万強のソ連軍の戦い
これが逆転するのはモスクワ戦の辺りで、それまでは一貫して枢軸側の方が多い
(603:476)

1944年6月22日の時点で、ドイツ北方軍集団には1個装甲師団(第12、リガ近郊)、中央軍集団には1個装甲師団(第20、ミンスク近郊)しか配備されていないようですが、なぜ?

それに対して北ウクライナ軍集団には10個(ハンガリー第1戦車師団を含む)、南ウクライナ軍集団には8個(GD師団を含む)と、
プリピャチ沼沢地の北側に比べて非常に手厚い配備状況になっています。
中央軍集団が東に突出した形になっているにもかかわらずこのように偏った配置になっているのは
素人目にも危険に思えますし、事実壊滅してしまいましたがどういう理由があったのでしょうか?
それまでのソビエト軍の攻勢志向から、すでに大損害を受けカルパチア山脈ふきんまで後退してた
南北ウクライナ軍集団をそのまま突破してバルト海まで駆け抜け中央軍集団を丸ごと包囲すると予測したから、
無理をして北方、中央、両軍集団から装甲部隊を指しまわしたから。
けっかてきに予測が外れたわけだ。
(604:826)

北方軍集団がドヴィナ川を渡る前に最後に遭遇したソ連軍の機甲部隊との戦いはどんなものでしたか

敗北の情報は正しく伝えられましたか?
バルバロッサ作戦の初期
北部で、レープの北方軍集団が目的地である、バルト軍管区の向こう側、レニングラードを目指し
彼らとそのの間にある最大の障害、ドヴィナ川に向かって進軍していた
ゲオルグ・ハンス・ラインハルトの第42機甲師団は、6月23日の夜に
リストニアのライゼニヤ村において、編成されたばかりの機械化軍団の一部である戦車部隊に攻撃を受けた
しかし、編成されて間もないこの部隊が、ドイツの熟練した機甲部隊にかなうはずもなく
戦術は単純そのもの、ただただ、火力で勝る敵に対し正面から波状攻撃を掛けていった
当然、自らの手で戦力を消耗する形となり
挙句の果てに、側面からの別働隊の攻撃にさらされ湿地帯に追い込まれた
結局、ソ連軍虎の子の戦車部隊は185両の損失を出し、全滅
ドイツ軍はほとんど損害を出さず、何食わぬ顔でソヴィナ川に向かって進軍していった
ソ連機甲部隊の唯一の戦火といえば、弾薬と燃料を浪費させ
さらにほんの数時間、ドイツの進撃を鈍らせたにとどまった

情報については、同日午後十時

―「ソ連側に有利な戦況にあり、ドイツは押し戻されている」―

・・・ソ連軍参謀総長を務めるゲオルギー・K・ジェーコフが
開戦後の戦況とこう判断したことからわかるように
モスクワでは、すべての命令が実行され、ドイツ軍に対して猛反撃が加えられているだろうと確信していた
つまり、情報は正しく伝えられず、命令と架空の戦況のみが報告されていた
(315:名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM)

独ソ戦でドイツ軍は冬将軍に悩まされていましたが、当時ソ連軍はどのような防寒装備をしていたのでしょうか?

ソ連軍の防寒装備で最も基本になったのは、ウール製のコート。
シューバと呼ばれる羊の毛皮を使った厚手のコートもあります。
裏側には羊毛が敷き詰められており、保温性は非常に高いです。
また、1941年にはチュラグレイカと呼ばれる木綿製のキルティング
衣服も用いられました。

ブーツは皮製で、ワレンキと呼ばれるフェルト製のオーバーシューズを
使うこともあります。
ブーツを履くときには、ポルチャンキと呼ばれる木綿製の布を
靴下代わりにしっかり足に巻いて、その上からブーツを履きます。
冬季は分厚い布を使い、隙間には藁などを詰めました。
(314:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ドイツ軍の歩兵で一人で10何両のソ連戦車を撃退したやつがいたそうですが、その人の名前を教えていただけませんか

(299:322)

レニングラード市民は何故逃げなかったの?祖国の為に戦う決意があったから?

陸路がほぼ完全に包囲されていました。冬季になると湖が凍り付いてその上に鉄道を
仮設し補給ができるようになりました。動力橇なども使用され、氷の上にトラックが
通行できる道も作られたようです。
市民は全員が戦闘員として動員され子どもや老人もバリケードを作ることになりました。
レニングラード大学の女子学生と戦車工場の女子工員が銃を持って突撃し全滅した記録も
残っています。
フィンランド軍はドイツの再三の要請にも関わらず旧国境線から前進せず、包囲戦に参加
しませんでした。結果的にこれは後にフィンランドの立場をよくする好判断でした
(652:543)

スターリングラードではソ連狙撃兵が勝因でしたか?

勝因の一つでした。 
下記、『最強の狙撃手』 アルブレヒト・ヴァッカーから引用
http://yakouhai.seesaa.net/article/73650639.html
「熟練の狙撃兵ならば、たった一人で敵部隊を足止めすることが可能だからです。
後退時の後衛として、狙撃兵ほどうってつけの存在はいませんでした。
ただし、ドイツ軍がこうした狙撃兵戦術を学んだのは、モスクワ前面での苦い教訓からでした。
ソ連軍の狙撃兵は、まさにこの戦術によって、ドイツ軍の進撃を遅滞せしめ、冬将軍の到来まで耐え抜いたのです。
致命的なことに、バルバロッサ作戦開始時、ドイツ軍にはソ連軍狙撃兵に対抗すべき狙撃兵が、ほとんど存在しませんでした。
というのも、ドイツ軍は1931年に狙撃兵という兵種を事実上、廃止していたからです。
マイク・ハスキュー『戦場の狙撃手』P67によれば、1931年12月5日付け陸軍総司令官指令として「現有分を除き、
以降はスコープ付狙撃銃を生産・保管しない」との通達が発せられたとのこと。
これに対しソ連軍は、1930年代初頭から狙撃兵の育成に重点を置いていました。
狙撃兵予備軍の証であるヴォロシロフ射手章を有する兵士は、1938年時点で600万人も存在し、
モシン・ナガン狙撃銃は独ソ戦勃発後、毎年5万丁も生産されました(『戦場の狙撃手』P106)。
これではソ連軍狙撃兵の排除に苦労するのは当然でした。
悩んだドイツ軍は、窮余の策として前線の兵に狙撃銃を持たせ、即席狙撃兵を作ることで対抗することになります。 」
(686:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)

レニングラードは列車砲で砲撃していましたが、連日砲撃を続けていれば町は壊滅しなかったんですか?

レニングラードを砲撃してた列車砲は、弾薬の集積が進まず、ろくに砲撃を行わないうちに、
第11軍と共にセバストポリ要塞攻略のために南方軍集団に引きぬかれています。
レニングラードって、市となのってるけど、WW2で占領されたのは、市の上のレニングラード州の一部が占領されただけで、
その州の大きさも関東平野の6倍近く大きいので、市街地の外縁の防御陣地を砲撃するのが精一杯です。
(687:334)

スターリングラード包囲戦において、ソ連兵に化けて包囲を突破したドイツ兵はいなかったのでしょうか?

グムラク飛行場の喪失などで、空路からの脱出手段がなくなった後徒歩で脱出に成功した者はいなかったはず。
第6軍が降伏した43年2月以降、徒歩でドイツ軍の戦線方向に歩く個人や小部隊は偵察機などから目撃されているが、いずれも消息を絶っている。
カレルのバルバロッサ作戦に、ただ一人友軍にたどり着いた直後に砲撃で死んだ下士官の話が出てくるが、これは実話ではないらしい。
他の戦場では、ロシア語が堪能なバルト出身のドイツ人が捕虜を後送するロシア兵に化けて戦線の突破に成功した例などがある。
(287:887)

ドイツ上層部はソ連領内の鉄道の規格が違う事や道路事情が悪い事を事前に認識していたのでしょうか?

絶版になってますが「補給戦」には割と詳しく書かれています。
鉄道に道路網は考えずに侵攻を開始したようです。
ドイツ陸軍には鉄道連隊があって、侵攻に合わせて鉄道の幅を
改修して、トラック輸送部隊で不足分は補えると考えてました。
実際は鉄道連隊は数が少なく(西部戦線で手がいっぱい)前線
部隊の進撃に追いつけなかった。ロシアの道路網も舗装道路は
モスクワ-スモレンスク間だけで、その他は良くて砂利道でした。
西ヨーロッパの地図表記と、ソビエトの道路の表記は同じだと
勘違いをしており、道路網の不備と泥道が進撃を阻んだと言って
間違いがありません。ドイツ陸軍の戦車も機械化部隊も基本的
には、舗装道路を進撃する軍隊だったのです。不整地の走破力は
非常に非力でした。
(151:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)

WW2の東部戦線において「コサック義勇兵の中隊」などといったものが登場するのですが。

SSの義勇師団も含めての話かな?
主にスラブやカフカス地方の住民で構成された陸軍の外国人部隊(いわゆる東方大隊)は、
基本は大隊編成だが連隊や師団規模の部隊もあった。
師団規模以上だとパンヴィッツ将軍が率いたコサック騎兵師団とか、ウラソフのロシア解放軍とか。
ただ兵士たちの来歴(反共主義から熱烈に戦ったコサックもいれば、収容所での餓死を逃れるために志願した捕虜もいる)もさまざま。
ヒトラーやヒムラーのスラブ人蔑視から大規模な部隊の編成や実戦投入が中々許可されなかった為に、多くは後方での
建設労働や捕虜収容所の警備といった汚れ仕事をやらされている。

これらの部隊の成り立ちや戦歴、運命についてはユルゲン・トールヴァルトの「幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」
(フジ出版)が詳しい。
(248:991)

ベルリン陥落時にソ連兵達による大規模な略奪やレイプがあったといいますが、本当でしょうか?

統計的数字は確認が難しく、ベルリンでは140万人の女性がいましたが、数万人、少なく
とも10万人、最高の数字が84万~98万人とされています。
これは、婦女の40%が複数回の暴行を受けていたからで、これにより、件数の特定が不可能
になったこと、更に混乱期で表に出ないことも挙げられるでしょう。

一つの客観的尺度としては、自殺者統計というので表されます。
例えば、メクレンベルクの小都市ノイブランデンブルクでは、住民18,000名中、2,000~3,000名、
同じ規模のフォアポンメルンの小都市デミンでは、自殺者は2,000名近いですし、デミンの墓地
には400名の子供が埋葬されています。

また、ソ連共産党員および「コムソモル」メンバーの数と犯罪件数との間に相関関係があることが
証明されています。

ちなみに、モスクワのプロパガンダでは、ソ連軍兵士に対し、「ドイツ女性は正当な獲物」だと
約束していますし、その他の反独プロパガンダの影響もありました。

なお、ベルリンのソ連軍兵士について、米軍の将軍、F.A.キーティングは、以下のように評して
います。

「多くの場合、彼らの慎みのない行動はチンギス・ハンの野蛮粗暴な群れのそれと同列である」
(167:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツ軍はクリミア半島攻略時に17万、ハリコフ攻略時に14万の計31万のソ連軍将兵を捕虜にしたとの事ですが、

それだけの数の人間をどこに押し込んでおいたんでしょうか?
捕虜収容所
つってもまさかそんな大量に捕虜が出るとは思わなかったからほとんどは建物もない野原に鉄条網で囲いを作っただけの代物。
食料もまともに配給されないし衛生状態も最悪だから飢餓や伝染病で大量の死者をだした。
ドイツ軍はロシア人を「亜人間」として扱ったから待遇を改善する努力はほとんどしなかった。
そんな状態から逃れるためにドイツ軍の補助部隊(Hiwi)に志願してドイツ兵と共に戦ったり、労働者として収容所や
ドイツ国内の農場や工場で働かされた者も多かった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Prisoner_of_war#Eastern_European_POWs
ここに引用されてる資料によれば全部で460万人の捕虜のうち終戦時に生存してたのは180万人
(ドイツ軍に志願した者や一旦釈放されて再び赤軍に徴兵された者を除く)だから半分以上は死んだ可能性がある。

で、生き残ったものも終戦後は多くがドイツに降服した卑怯者ということで処刑されたり流刑になったりした。
そしてソ連の捕虜になったドイツ兵も似たような環境に置かれたが。
(717:316)

ロシア派遣イタリア軍(第8軍)とロシア派遣スペイン義勇軍(青師団)の戦歴と装備した兵器が知りたいです。

Romania経由でUkraine方面に進撃しています。
装甲兵力としては、第3騎兵師団(第3軽機械化師団)に属する、第67ベルサリエリ装甲大隊所属の
L6/40軽戦車と、1個中隊のセモベンテL40 47/32、それに少数のL3 カルロベローチェも有ったそうな。

しかし、1942年冬にDon川戦線、Stalingrad北方で壊滅的な打撃を受け、結果的に1943年初めには
本国に呼び戻されたそうです。

空軍に於いては、ロシア方面特別航空兵団が編成され、ドイツの第4航空軍傘下で活動しました。
その兵力は、22°Gruppo C.T.のM.C.200が51機、61°Gruppo O.A.のCa-311が22機、S.M.81が11機を基幹とし、
M.C.200はKrivoy Rogから作戦していました。
初撃墜は展開初日で、SB-2bisとI-16の戦爆連合の大編隊を迎撃し、6機の爆撃機と2機の戦闘機を撃墜して
います。

後に、B.R.20、Z.1007が追加され、1942年からは、M.C.202が参加、激しい戦闘を繰り広げましたが、指揮官が
戦死、兵団も地上軍の敗退に伴って1943年に引き揚げました。

青師団ではないけど、スペインの空軍義勇兵は、中隊規模でJG57に所属して、1941~44年初期まで、交代制
で合計4個中隊が東部戦線で戦っていますね。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

スターリングラード攻防戦終了後、単独行動していた独狙撃兵とか組織的な戦闘が終了しても単独でゲリラ戦闘を展開したりしたんでしょうか?

末期の狙撃兵について記載されている文献は知りませんが、
状況から推測すると死亡もしくは捕虜になっていない限りは
戦闘を続けざるを得なかったと思います。
ただし、ゲリラ戦闘などと言えるようなものではなく、ソ軍の殲滅作戦に対する
自己防衛と言うべきものだったのではないかと思います。
(俺初質スレ2049:926)

独ソ戦のソ連軍って兵士を消耗品扱いで、前進できなくても撤退しても銃殺していますが、脱走兵が続出して軍規が崩壊せんかったん?

兵士の後ろには銃を構えた督戦隊がryといいたいところだが
ロシア人は祖国愛が非常に強く、外国の「解放軍」よりも、狂気でも自国政府を選び
士気は非常に高くて脱走は少なかった
(俺初質スレ434:323)

フューリーみてておもったんすけど主人公たちって対空識別用の赤い布はってますよね

ドイツ軍も真似したらヤーボに悩まされずにすむんじゃないすか?
ドイツ軍がそれやったら、赤軍戦車と勘違いされて、
味方の航空機の攻撃を受けかねない。
制空権はほとんど奪われてたけど散発的な地上攻撃は行われてるので。
(俺初質スレ436:349)



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