太平洋陸戦関係




太平洋戦争時に日本軍に騎兵はまだ存在していたのでしょうか?

騎兵はいました。うちの祖父が近衛騎兵連隊にいましたから(w(本土勤務)
で、確か終戦直前に中国で日本騎兵部隊による作戦があって、勝ったとか。
それが今のところ、史上最後の大規模な騎兵作戦になっていると聞いたことがある。

騎兵部隊は、戦車部隊に改編されたものもありますし
最後まで騎兵として戦い続けたものもあります
騎兵として戦った部隊は主に中国・東南アジアで戦ったようです

終戦時の騎兵部隊の数は、騎兵1個旅団、騎兵15個連隊、捜索22個連隊ありました。
(27:48,50)

WW2で同盟国のドイツが使ってたパンッァーファウストみたいなのを日本軍が使わなかったのはなぜなんでしょう?

そもそも成型炸薬弾からしてドイツからの技術導入だからねぇ。
ちなみに一応対戦車兵器のようなものはあったようです。
一つは「タテ器」と呼ばれる対戦車小銃てき弾(ドイツのシースベッヒャーのパチモン)
もう一つは九十七式20㍉自動砲に装着する「ジテ弾」地雷てき弾です。
いずれも実戦では活躍できませんでした。
(27:名無し軍曹)

日本陸軍はM3軽戦車を大戦初期に 具体的に何両くらい鹵獲して運用したのでしょうか?

M3軽戦車自体は有名なエピソードなので、
誰も回答しないのは、やはり冒頭の「具体的台数」がネックになっているのでしょうか。
で、台数に関しては自分も聞いた事はありません。
ただ、ビルマではM3のみで小隊を編成した所もあるそうで、かなりの数を入手したようです。
捕獲場所はビルマ(from英)とフィリピン(from米)で、使用目的は実弾標的が多かった様ですが、
前述の通り部隊運用もあり、その重装甲(日本車に比して)もさることながら、
自動車としての運転のし易さから、非常に好評だったと言われています。
ビルマでは進撃して来る英M3部隊に、日M3部隊が迎撃に出たことがありますが、
この時は日本側が地雷で全滅してしまい、戦車戦は行われませんでした。
米軍によるフィリピン奪還時に、再捕獲された日本軍迷彩M3の写真がありますので、
運用された車両は、最後まで使われたものと思われます。
(32:753)

大戦末期、戦車兵の技量が一番高いのは日本の戦車兵だと思うのですが、どうでしょうか?

最高、はともかくかなりイイ線いってたようです。
終戦間際まで消耗がなかったためベテラン揃いだったとか。
(59:ゆうか ◆9a1boPv5wk)

日本軍は高射砲や野砲で米英軍の戦車を撃破した事実はあるのでしょうか?

あるよ。
沖縄戦で75mm高射砲や機動90式野砲がシャーマンを撃破している。
高射砲でも信管を遅く切れば近距離ならばなんとか撃破できる場合がある。
(59:702)
戦車に対する高射砲の水平射撃はノモンハンからやっていたそうです。
しかしこの時の高射砲は水平射撃が出来るように設計されてなかったため
1発発射しただけで壊れてしまったそうです。
(59:708)
撃破記録はあるけど。
(俺初質スレ435:142)

二次大戦中、何処かに島自体が砲台になっている島があって、そこを日本軍が攻略、占拠したが、連合軍に取り囲まれて篭城。

業を煮やした連合軍側が通気孔やらなんやらから、ガソリンやTNTを流し込んで
島ごと爆破した、という話を昔読んだ記憶があるのですが、何と言う名前の島だったのかを思い出せません。
恐らく、マニラ湾のコレヒドール要塞の一環をなすエル・フライレ島の事では?

米軍は要塞内にガソリンを流し込んで放火し、守備隊(武蔵の生存者)は全滅。
島ごと吹っ飛んではいません。今は観光地になっています。
(64:225)

事前に察知し,準備を整えていた場合,関東軍はソ連軍にどのくらい抵抗できたか?

 1.関東軍の精鋭部隊,装備の優れた部隊は,南方戦線に増援として送られたり本土決戦に備えて日本本土に引き上げられたりして,関東軍は全体的に戦力,装備が低下していた.
 2.既に日本が負けかけてることは関東軍の将兵も察していたので,戦意が極端に低く,ソビエト軍の侵攻開始と共に総崩れになった.
 3.なにより軍首脳部が一番に逃亡してしまい,指揮系統が崩壊した為,マトモな作戦指揮がなされず,各個撃破された.
 4.ソビエト軍の兵力,装備は圧倒的で,戦う前から勝負がついてる状態.
といったところ.

 正直,精鋭部隊が充分な装備で事前にソビエト軍の侵攻を察知し防戦を準備していても,装備(特に戦車の性能差が圧倒的),兵力(特に砲兵の兵力差が壮絶だった)で勝り,ドイツとの戦闘で経験豊富なソビエト軍に対しては鎧袖一触だっただろう.

 ただ,在満邦人を避難させる時間を稼ぐことぐらいはできたかもしれない.

 一応,徹底的に抵抗しソビエト軍を足止めした部隊も存在はした(虎城要塞,で検索するべし)

関東軍  24個師団,1個旅団,9個独立混成旅団,2個戦車旅団
       航空機230機 兵力約75万人(実質8個師団程度の戦力)

ソヴィエト 80個師団,40個戦車,機械化旅団,(戦車5250両)
       32個飛行師団航空機5171機 総兵力約157万人,

 関東軍からは以下の部隊が抽出された(昭和19年10月以降

昭和19年 10月第23師団(ルソン),12月第12師団(台湾),
昭和20年 1月第71師団(台湾),3月第11師団(四国)第25,57師団(九州)
       戦車第1師団(本土),第111,112師団(南朝鮮)

 穴埋めの為に20年初頭から121~128師団までの8個師団と4個旅団を編成.
 5月には中国戦線より軍司令部1個,4個師団を編入.
 更に在郷軍人25万人を動員.
 全般に装備が貧弱で,関特演時の1/2~1/3程度の火力しかなかったようだ.

(軍事板)

ソ連の日本侵攻ですが,なぜ北海道ではなく北方領土から攻め始めたんですか?

北海道のほうが面積広いから,守備隊の密度も低くて攻め易いと思うんですけど.

 北海道本島に関してはアメリカの承認(つーか黙認)が得られてなかったから.

 また,現実問題として1945年8月の時点では,満州と南樺太に加えて北海道本島を制圧できるに充分な兵力は用意し切れなかったというのがある.

 もし戦争が8月以降も続いて「日本本土決戦」が行われていたら,北海道本島にもソビエト軍が上陸してきただろう.

(軍事板)

帝国陸軍が満州に遺棄した化学兵器だそうですが,200万発という数が出ております.あまり使わない化学兵器をそんなに生産する余力が,日本にあったんでしょうかね?


 化学兵器の生産技術を一度確立すると,多量生産はさほど費用もかからず,簡単だそうです.でないと,殺虫剤がえらい高いものになってしまう.
 ただ,中共の化学兵器には旧日本軍が遺棄したものの他に,敗戦で武装解除時に人民軍に引き渡したもの,中共が生産,購入したものも含まれてしまっています.
 日本が「化学兵器禁止条約」に則って,処理しなくては成らないものは日本軍が遺棄したものだけであるはずなのですが.

(剣恒光 ◆YR1Hskt.M. )

日本陸軍には各分隊に短機関銃,軽機関銃の装備はあったのだろうか?


 日本陸軍の歩兵分隊には分隊あたり一丁の軽機関銃が配備されてましたです.

 短機関銃は一般の歩兵部隊には配備されず,空挺隊のような特別な部隊で使用された例が殆どでした.
 例えば,昭和20年の義烈空挺隊は,総勢120名中,4分の1に当たる30名が100式短機関銃を装備していました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

旧帝国陸軍は,ドイツ軍の小火器をライセンス生産しようとはしなかったのでしょうか?

自主開発に拘らず,MP40とかMG34なんかをライセンスした方が良かったんじゃないかと思うのですが.

 モーゼル・スタンダード・モデル24式とチェコ製の同型銃を1938年に,準制式小銃として試験.結果,8,000挺を輸入しています.
 但し,大陸戦線で使用する場合は,防塵対策が不十分,安全性にイマイチ不安な点があることを挙げています.

 ついでに,License生産をするというのは,それなりにLicense費用が上乗せされ,数を揃えるのには不利になります.
 そのLicenseeがどれくらいかかるか判らないですし….
 ならば,機構だけ模倣して,独自に生産した方が安上がりだったりしますわな.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争時に米軍は,火炎放射器を有効に用いて,洞穴にいる日本兵や民間人をいぶりだしましたが,日本軍は火炎放射器の攻撃に対する対策を取らなかったんでしょうか?

狙撃兵に米軍の火炎放射器兵の燃料タンクを狙撃させる事を徹底させる等の対策は,日本軍には無理だったんでしょうか?

 まず,あれは「隠れてるものを燻り出す」為に行っているのではありません.
 物陰に潜んでいるであろう兵員,ゲリラを問答無用で「撃破」する為です.

 物陰,藪,洞窟等,人間が隠れていそうなところには片っ端から,実際に人間が隠れているかどうかの確認などはせずに,徹底的に行われていました.
 尚,火炎放射器と言うと「焼き殺される」イメージですしそういう映像が多いですが,ほとんどの人は,強力な火焔の燃焼に伴う局所的酸欠(洞窟に行われた場合は殆どこれ)や,周囲の物が燃える事による煙の吸引で死亡しました.

 で,アメリカ軍のマニュアルでは,
「火炎放射器使用時は,最低1名の自動火器を持った者が援護に当たる事」
等,火炎放射器を前線で対人掃討任務に使う際の規約を定めています.
 仮に日本軍が狙撃等で対抗しようとしても,逆撃に遭うのがオチだったでしょう.

 ただし日本軍は,敵将校や指揮官,通信兵等への狙撃は積極的に行い,米軍を相当に悩ませています.
 南方や沖縄では米軍には,
「将校は階級章を付けない事」

「指揮官はマップケースを携行してはならない」
等の狙撃対策指示が出ていました.
 それでもかなりの数の米軍将校が,狙撃で死傷しています.

旧日本陸軍の小隊~中隊規模の砲兵隊の編制や装備って、どんなもんなんでしょう?

(356:92)

日本軍は戦争初期には火炎放射器を多用しましたが、後期に使用しなかったのはどうしてなんでしょうか?

大戦後期の日本軍も使用している。
もともと火炎放射器は陣地攻撃用の兵器なので、
日本側が陣地に篭る大戦後期では、多少活躍の頻度は下がったかもしれないが、
主に対戦車兵器として工兵隊などが使用している。
例えば、独立混成第58旅団工兵隊は、火炎放射器15器を装備しており、
ルソン島防衛戦初期に、爆薬とあわせて米軍戦車隊を迎撃して、戦果を報じている。
http://www.geocities.jp/bane2161/dokukon58ryodan.htm
同じくルソン島では、戦車第2師団工兵隊の装甲作業機も、火炎放射器をつんでる。
(508:931)

日本兵は米戦車をどうやって倒したんですか? 対戦車地雷ですか?

 地雷の場合は,精々擱坐させる位しか威力がありません.余程の軽戦車(タンケッテ)程度でないと,引っ繰り返すのは無理.
 Caterpillar切っても,回収して修理すれば前線に出せますし.
 分隊一個を潰して擱坐させた戦車が,あっと言う間に戦場から回収され,再び修理されるケースがImphalでは多く見られました.

 日本がM4などを相手にする場合は,思いっきり近くから37mm対戦車砲を側面か背面から打ち込むか,陣地に引き込んで榴弾砲などの野戦砲の直射くらいと,後,火炎瓶くらいです.
 火炎瓶で,火災を起こさせ,乗員が慌てて出てきたところで上に乗った兵が中に手榴弾を投げ込み,戦車を乗っ取って,敵に発砲すると言う戦術も採られています(当然最後は撃破される訳ですが).
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)
 地面に埋められた航空機用爆弾を転用した仕掛け爆弾とか,道端に隠されて戦車の側面からHEAT弾を撃ち込む対戦車地雷とか,いろいろあります.
 けど,基本的に対戦車地雷はキャタピラを切る程度の奴が多く,地雷原は対人地雷と混ぜて敷設されたり,地面の上に直接置かれたり,撒かれたりする.

(軍事板)

日本陸軍の戦車が弱いのは限られた予算を航空戦力の充実に回したとのことですが、戦車よりも航空機優先なのはどういう意図なのですか?

ていうか、航空と機甲兵力の整備は陸軍の整備計画の中では共に優先されてますよ。
それが非常に遅れたものになっていったのは、欧州の戦車が日本の予想を超える
恐竜的進化を遂げたのと、日本の軍需工業の規模が大型戦車の開発・整備を許さなかったことです。

また、昭和18年以降米軍により輸送船が多数沈められたために、輸入が減った限りある資源を
航空機と船舶の整備に振り向けたという事情もあります。
(362:512:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

アメリカは東南アジアの港湾設備など、兵站上の制約をどのように解消したのでしょうか?

大日本帝國陸軍は東南アジアの港湾設備及びクレーンの制約から、戦車は15t以下の制約を設けざるを得なかった
という話をよく聞きますが、アメリカは同じ戦場に大量のシャーマンを始め重火器を揚陸しています。
(514:593)

太平洋戦争に入っても突撃ラッパが使われることはあったんでしょうか?

太平洋戦争時にも普通に使用されました。
わりと有名な例としては、ブラウン環礁の万歳突撃、サイパン島での夜襲時に吹いたものなど。
通常の戦闘ではないですが、カウラ捕虜収容所の反乱事件のときも吹いてます。
(525:950,◆yoOjLET6cE)

帝国陸軍にはゲリラ戦、市街戦を想定した今でいう特殊作戦群、米国だとグリーンベレーのような部隊ってあったのでしょうか?

ごく少数があった。
太平洋戦争前は対ソ連戦を中心に想定していたので、
シベリア鉄道の爆破工作なんかをねらった部隊が、関東軍に若干。
ただ、中野学校出身者を幹部に亡命ロシア人なんかを使ったので、
精鋭部隊という感じはあまり無い。

太平洋戦争が始まると、いくらか増える。
ジャングルでのゲリラ戦闘専門部隊として、
中野学校出身者を幹部に台湾の山岳民族出身者を主力とした「遊撃中隊」がいくつか創設。
ニューギニア方面でのゲリラ戦や、レイテ島への空挺攻撃なんかに使われた。

対ソ連用としては「機動旅団」(数個機動連隊からなる)が編成され、
少人数でのゲリラ戦を行うはずだった。個人用気球を使った潜入訓練なんかやってたらしい。
これが、日本陸軍では現代の特殊作戦群に一番近いと思う。
(528:630)

ガダルカナル島で最初に飛行場を作っていて米軍の上陸で山林に逃げ込んだ日本軍の設営隊と若干の守備隊ってその後どうなったんですか?

なんとか再集結して連絡も取り、駆逐艦で陸戦隊1個中隊の増援を受ける。
飛行場の運用状況や、別地点に上陸した一木支隊の壊滅を報告するなどの貢献。
米軍と交戦して徐々に圧迫されるが、川口支隊の上陸まで持ちこたえ、合流。
その後、増援部隊の到着と入れ替えに駆逐艦などで収容され撤退する。
(542:346)

旧陸軍は関東軍特殊演習の名目で対ソ戦を計画していましたが、兵站関係はどう考えていたのでしょうか。

あんまり真面目には考えていない。
その辺は日本陸軍の体質。

ただ仮に「関特演」を実行したとしても、主攻略目標はウラジオストクと
ハバロフスクを中心としたアムール川東岸地域で、第2目標がバイカル湖と
オホーツク海を結ぶ線だったので、そんな苦労はしないと思っていたようだ。
そうなの? というツッコミはまぁ・・・ね。

元々「ドイツが西から攻撃して兵力を引きぬいた隙に背後から攻撃しよう」と
いう火事場泥棒計画なので、兵站が問題になるまで戦争が長引くとは最初から
考えていないというのが実情。
(348:579)

南雲中将は海軍出身ですが、陸戦となったサイパン防衛戦の指揮はきちんと、執れていたんでしょうか?

サイパン島の防衛責任者は第31軍の北部マリアナ地区集団長(第43師団長)である斉藤義次陸軍中将。
南雲中将は中部太平洋方面陸海軍部隊の最高指揮官だったが、サイパン防衛戦を直接指揮した訳ではない。

大本営発表(昭和19年7月18日17時)
一 「サイパン」島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の突撃を敢行所在の敵を
 蹂躙し其の一部は「タポチョー」山附近迄突進し勇戦敢闘敵に多大の損害を与え十六日迄に
 全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む
  同島の陸軍部隊最高指揮官は陸軍中将斉藤義次、海軍部隊最高指揮官は海軍少将辻村武久
 にして、同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一亦同島に於て戦史せり
二 「サイパン」島の在留邦人は終始軍に協力し、凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し概ね
 将兵と運命を共にせるものの如し
(557:563)

ペリリュー島は堀栄三が指導して水際防御を止めたのいうのは事実?

霞ヶ浦の住人氏が以下のような書き込みをしてますが
サイパン、グアム、テニアン島守備隊は、愚かにも水際防御をやって、そこで戦訓を得ました。
大本営参謀の堀 栄三が、水際防御を止めて、内陸に深く穴を掘り、潜むことを指導しました。
ペリリュー島や硫黄島の防御は、その指導に沿って行われました。
堀参謀が指導したかどうかは知らんが、少なくともペリリュー島は「水際防御」ですよ。
サイパン戦の戦訓により『主陣地は海岸から適宜後退して選定する』と定めた「島嶼守備要領」が大陸指示第2130号で
示達されたのが昭和19年8月19日、
ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月15日
常識的に考えて、4月末からサイパンと同様に水際防御で陣地構築されていたペリリュー島が、1か月程度で陣地配備を
変更できるとは思えない。
(557:648)

堀参謀が指導したのは、水際玉砕を禁止し、抵抗力のある陣地構築についてです。
ですから水際陣地か内陸陣地かは二の次です。
戦艦は2個重砲連隊 重巡洋艦は1個重砲連隊相当以上の火力があり
したがって上陸に備えた米国艦隊の艦砲射撃は戦艦1隻につき2個師団
重巡洋艦は1個師団に敵対すると考えよ、
とはじめて陸軍が理解できる言葉で作戦要領をつくりました。

さらに、戦艦級の40cm砲については陣地は最低1m以上の
鉄筋コンクリート構造にすべきとの指導が初めて行われたのです。
(それまでは遠距離からの24cm級榴散弾に対する
防御から40cm程度とされていました。)

ぺリリューもタラワも内陸と呼べるほど奥行きはありませんから陣地は
水際になりますが、いずれも米軍をかなり苦しめたのは事実で
堀参謀のガイドライがも大きく貢献していると思っています。
(558:陸軍入門者)

沖縄戦の直前に沖縄から精鋭の第9師団を引き抜かれたため、沖縄防衛が不可能になったというのを読んだのですが、

第9師団が沖縄に留まり、5月に反転攻勢をせずに長期持久戦を続ければ
沖縄にいた第32軍は昭和20年の8月15日まで持ちこたえることができたのでしょうか?
もともと第9師団があるうちは、持久ではなく積極水際防御作戦をとっており、
その場合、史実より早く沖縄が陥落する可能性が高い。また史実どおり持久作戦をとっても
史実の沖縄戦の流れからすると、大本営とか、参謀長が攻勢論を主張して無駄に兵力を失うと
いうのが目に見えてるから、2個師団半で2ヵ月半持ったところを見ると1個師団多いわけだから、
よくもって7月半ばが限界だろ。
(587:172)

火力の低い大戦期の日本軍は、トーチカやバンカーの攻略にかなり苦労したのでしょうか?

支那事変の開戦劈頭、上海決戦において、トーチカやバンカーで固められたゼクートライン相手に、
名古屋第三師団が多大な犠牲者を出しています。
その為、師団に所属していた第三十四聯隊の静岡市内は軒並み葬式で
朝に兵を送り夕に遺骨を迎えると言う有様でした。

もっとも、これは初期の補給不足(「火器に頼らずもっぱら銃剣によるべし」と言う恐るべき通達が出ていた)や、
上海周辺の兵要地誌の「上海付近の地形は、野砲以上の大砲が使用できない」と言う誤記が原因です。
後で慌てて重砲を届けた後はコンクリート陣地を木っ端微塵に粉砕しています。

後は太平洋戦争の開戦劈頭の要塞化されたバターン半島・コレヒドールでもかなりの苦戦をしてます。
(326:ue ◆WomMV0C2P.)

日本兵って戦車に対して弱すぎね?

ろくなというか、まともなと言うべきか、まあ必要な対戦車装備が不十分で(装備が無くて)
対戦車戦闘能力のある戦車もしくは火砲の支援も不十分な場合の歩兵なんて
どこの国であろうと、戦車に対して脆弱すぎるというか一方的に圧倒されるしか無いよ
同じ装備と同じ状況だったら現代のアメリカ海兵隊でもWW2世代戦車に負ける
逆に、旧日本軍でも対戦車装備が充実してる場合は普通に戦車を撃破できてたりする戦例はある

それは遮蔽物のない平野での遭遇戦が多い独ソ戦やアフリカ戦線の話だったりする。
防御陣地を構築していたり、地形が複雑では双方の交戦距離が至近になり、
戦車の進撃路が限られたりするから歩兵でも効果的な攻撃を加えることが可能になる。
例えばエル・アラメインでのイタリアのフォルゴーレ空挺師団は
戦車比70分の1、歩兵の対戦車兵器は火炎瓶と地雷のみという状況下にもかかわらず
陣地に篭って防戦できたため英軍機械化師団の大攻勢を二度に渡って撃退している。

ノモンハンでソ連機甲戦力の中核だった第11戦車旅団は
日本歩兵師団との戦いで装備戦車のほぼ全て、170両を完全喪失している。
(604:160-164)

大戦末期に種子島か屋久島で守備部隊として駐屯していた部隊があるらしいのですが

第一三五七三部隊の正式な名称がわかりませんが、種子島なら独立混成第109旅団(剣閃兵団)でしょうね。
屋久島にいたのは特設警備第207中隊と特設警備第208中隊だけですから。

独立混成第109旅団の編合と人員装備(定数?)は次の通りです。
 旅団司令部(37名・馬5頭)
 独立歩兵第678~680大隊(各 590名・馬3頭)【大隊本部・中隊3・機関銃中隊】
  ※ 中隊に軽機関銃9?・重擲弾筒9?、機関銃中隊に重機関銃4?
 独立歩兵第681~684大隊(各 705名・馬21頭・軽機関銃12・重擲弾筒12)【大隊本部・中隊4】
  ※ 中隊に軽機関銃3?・重擲弾筒3?、大隊には重機関銃なし?
 特設警備第203大隊(420名、軽機関銃12・重擲弾筒12)
 特設第55機関砲隊(85名、96式基筒単装25粍機関砲12)
  ※ 海軍から供与された96式25粍単装機銃を装備
 独立野砲兵第26大隊(492名・馬55頭、指揮車7・自動貨車51・38式野砲12【大隊本部・中隊3・大隊段列】
 旅団工兵隊(188名・馬1頭)
 旅団通信隊(162名、電話機30・3号甲無線機1・3号丙無線機2)
 旅団衛生隊(70名)

昭和20年8月1日現在における旅団の主要兵器現在数
 小銃4656、軽機関銃149、重機関銃13、10年式擲弾筒1、重擲弾筒122、速射砲4、41式山砲4、野砲12、噴進砲50、高射機関砲3、乗用車3、自動貨車35

独立混成第109旅団の兵員の出身地については明確な資料が手元にありませんが、
1 旅団の補充担任が熊本師管区(もと留守第6師団)であること
2 旅団の母体となった独立混成第23聯隊(昭和19年7月12日臨時動員)の動員管理官が留守第6師団長であること
3 独立混成第23聯隊が鹿児島の歩兵第45聯隊補充隊で編成完結していること
4 独立野砲兵第26大隊の母体となった種子島臨時砲兵隊は留守第6師団(熊本)と留守第56師団(久留米)の人員で編成されたこと
から南九州(特に鹿児島・宮崎)を主体とした九州一円の可能性が高いと思います。
 ※熊本師管区 :熊本県、大分県の大部分、宮崎県、鹿児島県、沖縄県)
 ※久留米師管区:福岡県、長崎県、佐賀県、大分県日田郡、山口県下関市・豊浦郡

以上 戦史叢書 本土決戦準備<2>九州の防衛から引用
(337:826,827)

沖縄戦で、まともな医療行為は行われたのですか?

物資が欠乏してきてもできる限りにおいて医療行為はする。
「手術用手袋とエプロンのストックが尽きたので手術はもうやれない」
なんてことは言わない。つーか言えないだろ。

沖縄戦の末期になるともう「消毒用アルコールがないので度数の高い
酒で代用、それすらも欠乏したので消毒なしでも手足を切るときは切る」
という悲惨な状況になっていたりした。
勿論麻酔薬やモルヒネなんぞはとうに尽きているのは言うまでもない。

沖縄戦のエピソードとして動員されて看護婦になり、末期には看護婦の仕事は
「外科壕」という名のただの洞窟にろくな敷物もせずにただ寝かせているだけの
重傷者の替えがないため汚れ切ってる包帯の隙間から染み出してくる膿を取って
やったり、傷口に湧く蛆を取ってやることくらいしか出来ることがなくなって
しまった、というものがあったりする。

沖縄南部の有名な戦跡である「ひめゆりの塔」の近くに今でもこの
「外科壕」(という名のただの洞窟に)が残っているので、沖縄に行く機会が
あったら足を運んでみるといい。
覗くとなんつーかこうやりきれない気分になるぞ。

「軍医の武器、それは注射器とメスだ。
 戦闘が始まった後の軍医の武器は骨切り鋸とモルヒネだ。
 軍医の最後の武器は拳銃だ。
 ・・・ただし敵に向かっては撃たないが」
という言葉があったり。
(325:705)

沖縄戦で日本軍はなぜ5月に反抗作戦を行ったのでしょうか?

第32軍の参謀たちは戦力の消耗度から
組織的抵抗が可能な期間は5月15日までが限度と判断していて
それまでに攻勢をとるべきという判断から反攻作戦が立案された。
攻勢をとる理由は、将兵の心理状態に拠るものが大きい。

5月の反攻が計画された時点では
すでに米軍の上陸から1月以上がたっていて
湿度が高く換気も悪い壕内の衛生状態は最悪で、
疫病が蔓延しほとんどの将兵が下痢に苦しみ、
将兵の士気の低下は著しかった。

もともと受身の戦術は士気の維持が難しい。
そこまで厳しい生活環境の中で、
絶望的な戦況のもと何の希望もなく、
いつまでも頑強に戦い抜くなんて
人間にとってそう簡単にできるものではない。

死ぬまで受身でいることと比べ、
攻勢は心理的に僅かでも希望がもてるため前線部隊から支持され、
消沈しきっている士気を高める効果があった。
(608:242)

戦車第二師団がアメリカに対して勝利、圧倒した事例はありますか?

戦車第二師団は昭和20年1月9日の米軍のルソン島上陸開始後懸命の遅退戦闘を繰り広げますが、
第23師団に配属された重見支隊(戦車第七連隊基幹)は28日までに玉砕、師団主力
(戦車第六連隊・戦車第十連隊)も2月初旬にはほぼ戦闘能力を喪失して2月6日の軍命令により
山岳地帯に後退しています。
師団の装備も、対戦車能力を期待できた独立自走砲大隊は海没、97式中戦車(改)ですら
台数がそろわない状況では、米軍を圧倒などとても出来ない相談でした。
(322:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

山下軍司令官はたしか訪独団で独ソ戦開戦間際に慌てて帰国したと記憶してるのですが、かの地ではやはり機甲戦術を学んでいたのでしょうか?

歴史群像のマレー電撃戦の特集見てて疑問に思ったのですが、
その研究の帰結としてあのような無謀とも思える電撃戦を行ったのでしょうか?
訪独中、グデーリアンらドイツの将軍からの講義を受けている。
もちろん、1939、40年の戦役について研究だってしていただろうから、
マレーでの電撃戦のイメージを、頭の中でキチンとイメージできるようになったとちゃうんかな。
たとえ座学であっても、当事者の話を直に聞けるってのは、非常にためになるもんです。

戦場から鑑みればユーゴあたりの地形(無論気象等は全く異なりますが)
が近いのではでしょうか。
ヒトラーは対米戦は論外で日本に対しシンガポールを攻めよと言っていた
らしいですが、マレー半島の侵攻作戦を参謀本部レベルで研究。
山下大将にも助言を与えていた可能性は高そうですね。確証は得られるはずも
ありませんが・・

訪独団は4月に帰国してるから、バルカン作戦の前後に帰国している。
現地で研究例にするには時間的に無理だろ。
参謀本部の一般業務として、想定されうるあらゆる戦争計画を平時から立案することはあるが、
さすがに、距離的に隔絶していたマレー半島の進行作戦を、独参謀本部が研究立案するいわれはないわな。
ドイツと日本は同盟関係にあったけど、絶望的に政戦略の擦り合わせはやってないし。

多分、訪独団へのグデーリアンの講演も、電撃戦の一般論的なエッセンスに留まったんと違うかな。
ただし、ポーランド、フランス戦までの事例を踏まえれば、強い説得力を持つし、
日本で無手勝流に自動車化部隊の研究をやるよりも、
当事者の意見や経験を取り入れるというだけでも、随分と違ってくるはずだけどね。

そもそも、マレー戦て、辻~んが、戦前、調査したデータを元に作戦案が立てられた物だから。
(617:312-315)

フィンランド兵はろくな対戦車兵器もなく、モロトフカクテルで大量のソ連戦車を破壊できたのに、なんで日本兵は、サイダー火炎瓶でアメリカの戦車を破壊できなかったの?

アメリカの戦車は歩兵支援が主任務。つまり周囲に歩兵がわんさかいるので、
火炎瓶もって近づけなかった。

モトロフカクテル火炎瓶の効果...
日本軍では、スペイン内戦での火炎瓶の効果を聞いて実験したのですが。
ディーゼルエンジンの戦車でしかも止まっている状態で実験したため効果
が出ず...火炎瓶は役に立たないと言うことになっていました。
(308:543,544)

「最後のナイチンゲール」を見て思ったのですが、沖縄戦での赤ん坊殺害や方言を使っただけでの処刑って何件あったんですか?

地元の人間だ。
客観的なことだけを言わせてもらう。

沖縄戦で一般人何人死んだか、現在でもわかっていない。
日米共に、それが民間人であると知りながら殺したという証言は多数存在する。
米兵が一般市民とわかって殺した事例は、殺害数こそ少ないが公式資料として存在する。
一般人を殺した数は、米軍の方が多いだろう。砲弾消費量を調べれば判る。

市民の犠牲の多くは、首里戦線が突破され、日本軍の指揮系統が混乱した後に生じている。
従って、正確な数は知る由もない。
赤ん坊を絞め殺したという話はあるけど、俺が探した限りでは証言などの一次資料としては確認できなかった。
方言に関しては、以下のような命令が20年4月9日付けで出されている。
「爾今 軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」
終戦後に、壕の中に隠れている日本兵に降伏勧告に行った一般人を殺した事例は存在する。
ちなみに、降伏勧告に行った(事前に捕虜になっていた)日本兵を殺した事例もまた存在する。
(「沖縄県民斯ク戦エリ」講談社 参照のこと)

ここからは私見だが、沖縄戦は非常に混乱したその悲惨な状況から、当時の状況を正確につかむのは不可能である
(証言と言う不正確な手段しか残されていない。最近ではそれすら困難になってる)
そのせいで、左向きの人や活動家や、この手の事でメシ食ってる連中が、日本軍のことを悪く言う証言「だけ」を抜き出して、
日本軍を貶している感がある。
(ひめゆりの塔の平和祈念館なんかその典型。見に行って腹が立った)
でもって、それを真に受けたやつがお涙頂戴のドラマを作って、みんながそれを信じちゃう、と。嫌な世の中になったもんだ。
実際には、日本軍について良い感情を抱いている証言も多い。
(300:225)

引き抜かれる前には沖縄の最強師団といわれた第9師団、またその代替として予定されていた第84師団の戦力と実力はどんなものだったのでしょうか?

第9師団は日露戦争で拡充した俗に言う常設師団で、伝統もあり、常に一線級の兵力が与えられていました。
また、装備、訓練も充実しており、常に定数を維持しています。
大体、歩兵聯隊3、師団捜索隊、山砲兵、工兵、輜重兵聯隊各1くらいでしょうか。

一方の第84師団は、1944年~1945年2月の内地兵備強化の為に編成された師団で、歩兵聯隊3、速射砲、野砲
(なければ山砲)、工兵、輜重兵聯隊各1の編成になっています。
砲兵が三八式になっているなど、装備的には些か劣ったものですが、末期の貼り付け師団よりは遙かにマシです。
但し、人員的には留守第54師団基幹で編成されたものですから、予備役兵主体で、平均年齢は上と言う形であり、
万一に沖縄に転用されても、兵力として数えるのは若干疑問があります。
(296:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本の対戦車攻撃って肉弾攻撃が主ですか?

日本も対戦車戦闘は速射砲(対戦車砲)がメインです。
次に野砲や連隊砲等で、対戦車壕や地雷等も利用します。
ノモンハンでも戦果の80%程度は速射砲で、肉薄攻撃による戦果は5%程度です。
(俺初質スレ432:161)

日本軍が捕獲したM3軽戦車って全部で何輌なんでしょうか?

Philippinesでは米軍は108輛のM3を持っていましたが、31輛が鹵獲されました。
Burmaでは、2個連隊のM3を投入していますが、その戦いが終わったときに残って
いたM3は1輛だけだったそうです。
恐らく、日本に鹵獲されたM3は概ね数輛程度ではないかと思います。
後に修理・回収されることでもう少し増えた可能性はあるかもしれませんが。

M3中戦車とM4中戦車ですが、鹵獲したもののそのまま破壊というケースが多かったみたい
です。
(265:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍の対戦車戦法はどんなものだったのですか?

日本陸軍では対戦車防衛に「弾性防禦」の表現を使っており、正にその通りの弾力的な防禦策を展開している。
このため、第一線の戦車攻撃に対する抵抗は、それほど激しいものではない。
第一線では歩兵装備の重火器のうち、戦車に向けられるものは20%以下と見て良い。
戦車が接近すると一個小隊のうち一個分隊を残して、後はひとまず800~1500ヤード後方に退く。
第一線に踏みとどまった一個分隊は、直ちに煙幕を張って散開し、煙幕の中から戦車が姿を現すと、焼夷擲弾をもって
肉迫攻撃を加えるのである。

こうして初戦に於いて、先ず敵戦車の隊列を崩してコントロールを乱れさせ、被害を与えるというのが、その戦術的な狙いだ。

こうして第一戦の攻防戦が展開されている間に、師団砲兵が直接照準の出来る位置まで前進する。
もし、歩兵の主要火力で攻撃を阻止できなければ、歩兵主力部隊は煙幕や焼夷擲弾を使用しながら肉迫攻撃を掛け、これを
突破した敵戦車に対しては、直射陣地に前進していた砲列が集中砲火を浴びせると言った作戦である。

この作戦の特色は、一旦攻撃が停頓すると、攻撃側が忽ちピンチに陥ることだ。
立ち往生した戦車に対しては、手榴弾その他の手持ちの兵器でも功を奏することがあるし、散開したとは言え、敵戦車部隊の
後続歩兵部隊を阻止できる。

●対戦車攻撃法
  1. 場所の選択
   対戦車攻撃要員が活動するのは、主として戦車の前進速度が鈍るところで、対戦車砲による攻撃の邪魔にならぬところとなる。
  2. 特別要員
   各歩兵中隊(機関銃中隊に適用されることもある)毎に対戦車肉攻班が設けられ、要員は特殊装備の元に訓練を受けている。
   各要員の武装は、対戦車地雷と発煙手榴弾。
  3. 攻撃方法
   攻撃方法には次の三つがある。
   (1) 援護射撃の元に肉攻班員は戦車に向かって匍匐前進を行い、相手の死角に入る。
      次に戦車の前方15ftの地点に、長い紐を付けた地雷を放り投げて、この紐を引きながら、戦車の真下に誘導する。
   (2) 援護射撃の元に肉攻班員は突進して数個の地雷を戦車の進行方向にばらまき、そのいずれかを必ず接触させるようにする。
   (3) 全長150ftのコードに、1ft間隔で地雷を結びつけ、これを戦車の通路に置き、両端の肉攻班員各1名と共に偽装隠蔽し、戦車を
      待ち伏せする。
   このほか、肉攻班員は、通常後方から戦車に跳び乗り、ピック(小型鶴嘴)で戦車の武器又は砲塔の回転装置を破壊するよう訓練
   されている。
   時には戦車の開口部から乗員めがけてピストルを発射することもある。
   また、砲塔に掩蔽物を被せたり、開口部を泥土で目つぶししたり、開口部を利用して燻りだしを図ることもある。
   勿論、こうした作戦を行う場合、その前に戦車部隊と行を共にする歩兵部隊は、別働隊によって除去される。
   更に戦車は、3インチの丸太材または1乃至1.5インチの棒材を車輪のスポークに突っ込まれてスローダウンさせられ、遂には停車
   に追い込まれることもある。
   当然ながら、磁気徹甲地雷が使用されることもある。

米軍の対日本陸軍戦闘マニュアルより抜粋。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

米軍の中隊や大隊の火砲は迫撃砲のみですが、日本軍との戦闘で大隊砲や連隊砲に苦戦したなどという話はあるのでしょうか?

自分たちの砲火力に不足が有れば、師団砲兵を呼び出したり、航空支援、戦車、或いは艦砲の支援を仰いだりしています。

苦戦という件については、日本軍が十分な戦備を整えていた、緒戦の段階や余り練度の高くない中国軍相手
であれば被害甚大と言うケースがありましたし、上陸反抗戦の局面でも、砲配置が適正で奇襲となれば米軍
の被害が或程度はありました。

しかし、例えば、第17師団の西部ニューブリテンでの上陸防禦の場合、水際撃滅のために全火砲を持って
行こうとしていましたが、兵力が足りず弾薬が持てないということで、装備火砲を各口径1門ずつとし、弾薬も
5発ずつを何十人かで持つと言う状況でしたので、有効な打撃が行えませんでした。
また、ガダルカナルでは、大攻勢を掛けたものの、迫撃砲のFPFのため、全て撃退されています。

更に砲弾が少なく、砲の門数も少ない状況では、何をしても無駄だと言う諦観もあったみたいで…。
歩兵学校が作成した対米戦闘法は、大砲は撃つと叩かれるから撃つなと言うものだったりします。

ついでに、ジャングル戦では、樹木が生い茂っているために平射をしても効果が少なく(後の陣地構築が
充実した状況は別)、樹木越しの見越し射撃が多用されました。
また、下が泥濘状態になっていれば、機動力に劣る牽引砲は不利で、迫撃砲の方が効果があります。
ジャングル戦では、寧ろ大隊砲、連隊砲より、重擲弾筒の方が敵に被害を与えています。
(199:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」(東潮社,1967/5/25)という本に,「建武集団虐殺疑惑」が述べられているのですが,

2万数千名の日本軍部隊が,あの拡大な地域で一兵も残さず戦死したとはどうしても考えられない.
南サンフェルナンド(中部ルソン)で投降した日本兵に対しゲリラによる虐殺があったのではないか?というものなのですが.
無いことの証明は悪魔の証明だとは思いますが…。

例えば、1945年2月のマニラ市街戦では、日本軍の戦死者は兵力2万人のうち、1.2万人でした。
この殆どは米軍の砲火によって生じたもので、マニラ市内に逃げないで居た現地人は70万人中、
約10万人が犠牲となっています。
このうち、米軍の砲火による被害は過半数との見方があります。

確かにゲリラについては、フィリピン上陸戦以後活発となっています。

例えば、パナイ島に展開していたゲリラ勢力は、ビサヤ地区で最も規模の大きなものでしたが、これが
兵力2~3万人でした。
この地域を警備していた守備隊の兵力は、2,300名余、パナイ島に上陸した米軍は7,000名で、米軍との
戦闘で、戦死者850名を出していますが、生存者は1,560名でした。
ゲリラの兵力であれば、その全滅は赤子の手を捻るようなものでしたでしょうが、実際には米軍が戦闘
をしているだけです。

中部ルソンでのゲリラの規模や指導者は不明ですが、職業軍人でなければ、それだけのことは出来ない
のではないか、と思います(ちなみに、パナイ島のゲリラ指導者は、米比軍出身のマカリオ・ペラルタ大佐
という職業軍人でしたけど、それでも、積極的に戦闘に加わったのは1942~43年頃の一時期だけで、以後
は上陸までは積極的な戦闘を控えるよう、豪州から命令が来ており、戦闘は低調となりました)。

ルソン島北部山岳地帯なら、Lamuet川の氾濫で、橋が流失して動けない在留邦人に対し、米軍機と戦車
が集中攻撃を行い、1000名以上が亡くなったケースはありますが、これとて、米軍というのがファクターに
なっているのですから、ゲリラ主体でそれだけのことを成し遂げるのは無理ではないかと、愚考します。
(205:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦時中、活躍した日本軍の戦車師団を教えてください。

実戦に参加し、しかも勝利を収めたことのある日本軍の戦車師団といったら戦車第3師団しかないな
(俺初質スレ2050:239)



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