日本陸軍2


陸軍はレーダー連動射撃装置完成して実戦投入したって聞きましたが本当ですか?

ドイツのヴュルツブルグレーダーをコピーした物を開発していましたが、
実用にはならなかったはずです。
(58:474)

松井岩根や杉山元、畑俊六ら大先輩の陸軍大将を抑えて何故、師団長もやってない中将の東条がデカイ顔してリーダーになれたのですか?

東条英機はいわゆる統制派に属し、永田鉄山の暗殺や2・26事件を経て統制派の筆頭として
軍の主導権を握っていたからです。
政財界とも繋がりがあったようですし。
(58:624)

大日本帝国陸軍の輸送の主力は何だったのでしょうか?

馬匹です。ドイにもまして自動車化された部隊は少数でした。
輜重部隊の悪戦苦闘振りは光人社NF文庫の「インパール兵隊戦記」なども
参考になると思います。

遊就館に陳列されているのは八九式15センチ加農砲、九六式15センチ榴弾砲のようですが
これら15センチ重砲には専用のトラクターが開発されています。
主に独立重砲兵連隊で運用されていました。

それより軽量な7.5センチ・10センチ級野砲を運用する野砲兵連隊は馬匹を用いています。
当時の野砲兵連隊では野砲48門に対し馬匹2269頭で編制されています。
(58:689)

帝国陸軍では中将の陸軍大臣と大将の軍司令官はどちらが偉いんですか?

大将。しかし、陸軍大臣は軍令ではなく軍政の責任者だから、軍司令官とは
命令されたり、命令したりする関係じゃない。
(61:386)

旧陸軍は機械化の必要性を重々承知しながらも財政的な制約から断念したのでしょうか?

それとも決定的な破局を迎えるその時まで白兵主義の優位を確信していたのですか。
元々、日露戦争までの日本陸軍は、メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて、ドイツ式火力主義、
つまり、迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており、歩兵の
白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流
でした。
その萌芽は、既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています。

ちなみに、1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので、1898年に
日清戦争を受けて改訂されたものも、ほぼそれに沿っていました。

で、日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては、
 1. 重機関銃を陣地防御の要とする。
 2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲、とくに15cm以上の榴弾砲、10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
 3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である。
と言うもので、各国は重機関銃、重砲の開発、大量配備に躍起となり、陸戦力の主力兵科となりました。

ところが、当事者の日本陸軍が白兵主義、砲兵軽視になるのは、
 1. 砲弾、小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった。
   開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾、砲弾の大量生産・備蓄と、開戦後の民間工場の
   動員による銃砲弾の大量生産をしたが、それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾
   を使用したが、これは開戦前の半年分の消費量、砲弾生産量の三ヶ月分であり、旅順第一次総攻撃、遼陽
   攻略で完全に欠乏、得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと。
 2. 砲兵運用の根本的誤りで、平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと。
   消費された野山砲弾の弾種比率は、榴弾1に対し、榴散弾6であり、戦場からは榴弾補給を養成されていたが、
   陸軍中央はこれを黙殺し、前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず、結果として歩兵の大量犠牲を必要と
   したため、歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした。
 3. ロシア陸軍は、フランスの影響を受けており、仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし、機を見て
   火力支援を得て相手に接近し、歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて、屡々白兵戦を挑
   んできたこと、それに対する味方からの支援砲撃が、前述の通り効果が無く、ロシア兵の負傷率が比較的低い
   (ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで、首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が
   植え付けられたこと。
以上の三点があり、火力主義への不信感が芽生え、加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで、「日本式
戦法」が模索され始めました。

そして、1909年の歩兵操典改訂、翌年の野砲兵操典、輜重兵操典、12年の騎兵操典へと進みます。
1898年の歩兵操典では、「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ、更に、「多くの場合
に於て、近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は、突撃は敵兵既に去りたるか、若しくは僅に
防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し、1909年の歩兵操典改正理由書
では、「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なりとの
主義を改正操典にて明確に指示せられたり。我国古来の戦闘法は…白兵主義にして白兵使用は我国人
独特の妙技なり。
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する
妙決なれは…此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています。

その後、第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で、一定の近代化を行ないますが、これは、日本固有の地理的条件により、
ロシア帝国崩壊後は、純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと。
従って、欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく、陸軍内で対立が起きています。

近代化路線派は、宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら、日露戦争後に出てきた陸大出の
エリート幕僚、但し、これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から、欧米流国家総力戦を志向する層まで
様々な層の寄せ集めで、平時の少数精鋭・戦時の大動員、ある程度の機械化のみ一致しているだけでした。

現状維持派は、歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので、常時多兵、速戦即決、白兵突撃万能を説く保守派
でした。
彼らは上原勇作、福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ、長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍
の軍人、参謀本部第二部、隊付下級将校を中心に支持を集め、「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうこと
は出来ないと説き、近代化路線を「器械主義」、欧米模倣の「弊風」、「皇国の独自性の放棄」、「攻撃精神の衰退」、
「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました。

この路線・派閥対立の最中の1928年、統帥綱領が改定されます。
これには、「統帥の本旨は常に戦力を充実し巧に之を敵軍に指向して其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚
するにあり、蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然と
して精神的要素に存すること古来渝る所なけれはなり」況や帝国軍にありては、寡少の兵数不足資材を以て尚能く
叙上各般の要求を充足せしむへき場合尠少らさるに於いてをや」と有り、更に、1928年以降の歩兵操典などの改定
に於て、その改正理由書には、「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し、益々忠君愛国の至誠を
磨き、訓練の実行を重ね、上下互いに信頼し合って一体となり、かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して、如何なる
強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」

と段々、精神主義が強調されていくようになります。
(149:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍の士官学校の予科とは何なのでしょうか。

陸軍士官学校予科は大正九年(1920年)に設けられたもので、従来あった
陸軍中央幼年学校を改称したものです。
それ以前の士官への道は
  • 陸軍地方幼年学校(予科)→陸軍中央幼年学校(本科)→士官候補生→陸軍士官学校
  • 中学校(旧制)→士官候補生→陸軍士官学校
の二つがありました。
しかし、この二つは互いに派閥を形成して幼年学校出が中学校出を差別し、また
幼年学校出のほうが優遇される傾向が強くなりました。
このため、これら二つのコースを統合するために中央幼年学校本科を廃止して
陸軍士官学校予科として幼年学校・中学校出身双方を入校させました。
これにより
  • 陸軍幼年学校/中学校4年修了→陸軍士官学校予科→士官候補生→陸軍士官学校本科
というコースが出来上がりました。
残念ながら、幼年学校と中学校出身者の対立はその後も続いたようです。

なお、昭和十三年には入校者の増加に伴い陸軍士官学校予科を陸軍予科士官学校として
陸軍士官学校から分離させています。
(292:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

旧軍が6.5mmだった小銃弾を7.7mmにしたのはなぜでしょうか?

6.5mm弾は、他国の小銃と比較して、弱威力で有る事が目立った他は、
戦闘距離内での威力は必要にして充分、人馬への殺傷能力を保持していました。

7.7mm弾に移行した理由としては、上記の威力不足の他、自動火器への不適合から来る、
限定的な将来性しか無く、いずれにせよ新しい弾薬への移行が急がれたのです。
それについては賛否両論ありますが、理想的なのは、6、5mm弾の小銃、軽機関銃と、
7.7mm弾の中機関銃・汎用機関銃、13mm以上の重機関銃・車輌塔載機関銃と、
用途に拠って三種類程度に弾種を集約する事でした。

実際にはそれらの整備の最中に大東亜戦争の戦端が開いてしまい、結局何種類もの小銃弾薬、
機関銃弾薬をただでさえ乏しい兵站能力を酷使して補給せねばならず、
その混乱は、前線の火器が「補給を受けたのに不適合な弾薬が来たので」戦闘継続が不可能、
と言う、近代軍としては非常に恥ずかしい状況へと追い込まれたのです。
(676:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

陸軍が土決戦用に編制した迫撃砲の部隊について教えて下さい。

本土決戦師団に於ては、師団砲兵隊の代りに迫撃連隊が編成されています。
また、各歩兵連隊の編成中、歩兵砲中隊の装備に迫撃砲がありますし、各大隊の歩兵砲隊の
代りに迫撃砲中隊が配備されていました。

迫撃連隊は、連隊本部と段列、迫撃砲3個中隊と大隊本部、段列から成る大隊で編成されています。
これには、二式12糎迫撃砲が一個中隊8門充て装備されています。
これで合計24門となります。
また、歩兵砲中隊には同じく二式12糎迫撃砲が4門、迫撃砲中隊には4門それぞれ配備されていました。
(但し、末期になればなるほど、編成が様々なので、定数がこれであるとはっきりは言えません)

装備された迫撃砲は二式12糎迫撃砲のみです。
九六式中迫撃砲は1941年6月から翌年7月までに僅か90門しか生産されていませんし、九七式中迫撃砲
は1941年に40門、42年に40門、43年に30門しか生産されていませんから到底戦力になり得ませんでした。

配備部隊としては、201、202、206、205、214、209、212、216の各師団がそう言った編成を取っています。
他にも配備された部隊があったかも知れませんが、記録は定かではありません。
戦史叢書辺りに掲載されているかもしれませんので、調べられては如何でしょうか。

ちなみに、二式12糎迫撃砲については、1945年に必要数が5500門、九九式軽迫撃砲が600門という数字が
出ていますが、生産予定数ですから、実際に生産されたのかは不明です。
(284:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍師団に関して、四単位制から三単位制へ移行した後の歩兵団及び歩兵団長職ってどのくらい必要性があったんでしょうか?

歩兵団長は平時には閑職だが、戦時には必要。
歩兵団という結節があると、例えば2個連隊に砲兵大隊を付属させて歩兵団長の指揮下で
戦闘に投入し、残り1個連隊は師団長が把握して予備とするとか柔軟な編成が可能。
つうか、そのための三単位師団だし。
(276:60)

日本軍は機関銃の実弾をどれぐらい携帯していたのでしょう

例えば99式
九九式よりも古い十一年式の場合、歩兵で鉄板製の弾薬匣に小銃弾120発、
それが無い場合は、麻布製の弾薬嚢(本来は弾薬匣を包んで運搬するもの)に
小銃弾150発。
これらは弾薬手が運搬していました。

自分で携行する場合は麻布製の弾薬盒に小銃弾60発を入れます。

騎兵の場合は、木製の弾薬箱に360発の小銃弾を収容します。
馬一頭につき、これを4箱駄載します。

射撃に関しては、あくまでも突撃時の支援火器として使用するもので、歩兵に随伴して
火力支援を行ないます。
但し、ドイツのものとは考え方が異なり、面制圧ではなく、拠点制圧として使用していました。
目標手前400~500mで5発点射、300mなら3発点射が標準になっていました。
そんなに、少なくて、機関銃としての十分な威力が発揮できたんでしょうか。
何か弾をケチケチ使うような印象があるのですが。
上でも書いたように、MG34の様な機関銃とは使い方が違います。

日本に於いての軽機関銃の使用は、歩兵と共に機関銃手も突撃し、歩兵の突撃に
邪魔になる目標を狙い撃ちする為のものです。

従って、機関銃手が多量の弾薬を携行していたら、歩兵の突撃について行けず、
有効な支援が出来ません。(一応、手持ち弾薬は弾薬盒のうち、30発入り前盒を2個
ぶら下げ、背部に60発入後盒を持っているので、携帯弾薬定数は120発。これに、
軽機関銃弾薬手が金属製の弾薬箱(120~150発)を抱えると言う形ですが)

一回の突撃で、数回5発ずつ発砲するとしても半分くらいは手持ち弾薬が残るという
計算でしょうか。

実弾に関してはその生産量が急激に増えた訳でもなく、出来るだけ節約する方向に
ありました。
つまり同時期の米軍で言うところのBARのような物だった、と理解した方がいいのでしょうか?
う~ん、位置付けはBARも同じなんですけど、自動小銃と機関銃の二兎を追う
性格が災いして、重く、反動が大きくて命中率が悪く、銃に装備できる弾薬数が
さほどでもないという意味では、日本以上にあまり評価できないと思います。

結局はその穴埋めをしたのがM1Rifleだと思いますが。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本陸軍では上等兵から兵長になる為の条件はどんなものでしょうか?

また、兵長から伍曹になる為の条件はどんなものでしょうか?
平時に於いて下士官になるには、徴兵による現役兵期間満了時に志願する形が一般的です。
しかしながら、現役兵期間の成績が参考にされますので、余り悪いと選抜されません。
(とは言え、平時に於いては、軍で必要とする下士官の数と、志願者の数はほぼ同数だったりしますが)

1927~38年に掛けては、歩兵、砲兵科の下士官候補者は、各地の陸軍教導学校で一年間、更に軍教育隊で
教育しています。(それ以外の兵科は各種学校で教育)

もう一つ、徴収期間が満了して上等兵として除隊する時、下士官適任証を受けていますと、再招集された場合に
下士官として任官されます。

また、幹部候補生になって将校にならない場合は、予備役下士官に任ぜられます。
六週間現役制の場合、修了者は国民兵役に編入されますが、国民軍幹部適任証書が交付され、国民軍が編成
された場合は、彼らを以て幹部(下士官以上)に充当します。

下士官が足りなくなった1938年以降は、高等小学校卒業程度の者を陸軍航空学校、戦車学校生徒として二年間
教育し、一年で伍長にする少年飛行兵、少年戦車兵の制度が誕生しました。
この制度は、通信、砲兵、防空でも採用され、陸軍通信学校で教育する少年通信兵、陸軍野戦砲兵学校、陸軍
重砲兵学校、陸軍防空学校で教育する少年砲兵、少年防空兵がありました。

1943年より、特別幹部候補生制度が出来、15~20歳の者に一年半の教育を施して現役下士官とし、二年後に予備
役とすることになり、飛行、船舶、兵技、通信、航技について募集しています。
このほか、技術下士官は陸軍兵器学校生徒から、経理部下士官は経理部少年委託生徒から、憲兵下士官は憲兵
上等兵(後に兵長)から昇進させることで対応しています。

戦時には、在隊期間が長くなって、伍長が兵長の昇進先となり、志願に拠らない下士官も多数生まれ、1938年に召
集中の予備役軍曹、伍長で志願する者を現役とする措置が執られています。
なお、下士官の進級の実役停年は、曹長二年、軍曹三年、伍長半年でしたが、1941年以降、曹長四年、軍曹二年、
伍長一年となっています。
(110:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と、部隊あたりの配備数などをどうか教えてください。

小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです。
基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません。
例えば、第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが、中隊毎にどれくらいの
数を配分したかはよく判らない状況です。
輜重兵中隊の場合は、自動貨車40両基幹になっています。

自動貨車には完全武装の兵士15名、または荷物500貫を載せることが出来ましたので、例えば、歩兵
分隊を輸送する場合、単純計算では自動貨車1台があれば足ります。
1個小隊は4個分隊ですから、単純計算で、5台程度の自動貨車が必要になるでしょう。
1個中隊は4個小隊と指揮班、弾薬小隊が付きますから、大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になり
ますね。
(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

方面軍直轄の大隊の大隊長が野戦昇進か何かで連隊長になるようなケースはあったのでしょうか。

聯隊長には一般的に少将が親補されます。
一方、大隊長は一般的に佐官が任命されます。
但し、戦争末期の聯隊乱造状況では、少将が足りなくなり、大佐でもそれなりに軍歴のある人
であれば、聯隊長への昇進が可能でした。
(274:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

幼年学校、陸軍士官学校の入試科目、教育内容がどういうものだったか調べたいのですが

陸軍幼年学校は3年課程です。
入学資格は、13歳以上15歳未満という年齢上の制限だけで、学歴上の制限はありません。
但し、その試験は(当時の)中学校1年程度の学力試験、即ち、国語、漢文、外国語、歴史、地理、数学、
理科(地学・生物学)から出題されたみたいです。
外国語試験は英語、フランス語、ドイツ語から選択されます。
このため、高等小学校卒業程度の学力で幼年学校に入学するのは難しかった様です。
(辻ーんの様な例外は居ますが)

教育内容は、基礎素養教育(普通の中学校教育に相当)が主であり、これに外国語の習得が加わります。
外国語は、フランス語、ドイツ語、ロシア語のいずれかを選択するもので、英語はありませんでした。
(昭和期にやっと英語と中国語が加わりますが)
ちなみに、軍事知識の教育は、同年代の中学生が学校教練で学ぶものの方が豊富だったと言われています。

幼年学校卒業、または中学校卒業した者は、その後、陸軍予科士官学校にて2年間教育を受けます。

入学資格は幼年学校卒業生もしくは、中学校卒業程度の学力を有するもので、16~20歳の者です。
この試験内容は、中学校4年程度の学力試験で、国語、漢文、外国語、歴史、地理、数学、理科、公民から
出題されたようです。
ちなみに、東北の中学校の例では、200名中、1935年までは、成績上位30番以内が入学出来、1936年には
上位5、60番以内、1937年には更に増え、100番~120番でも合格出来たそうです。

陸軍予科士官学校では、国語及び漢文、外国語(英独仏露中のうちから一つ)、歴史、数学、理科(物理、
化学)、地理及び地質、心理及び論理、公民(法制及び経済)、図画の様な、高等学校高等科の科目と、
教練、陣中勤務、射撃、剣術体操、柔道馬術、訓話、内務班指導及び検査などがありました。

この過程を修了後、半年間の士官候補生勤務を経て、本科に進みます。
陸軍士官学校では、戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、
衛生学、教育学、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術、体操、馬術、典範令、服務提要
などのカリキュラムがあります。

なお、教育学を履修するのは、軍隊教育の教育者として、彼等を養成する必要がある為であり、これは
必須科目として、陸士から、東大教育学科に派遣される場合もありました。
(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

東條を始めとする日本陸軍の対米開戦支持派ってアメリカに留学経験とか行った経験ないのでしょうか?

五十六のようにアメリカの強大な工業力を知っていれば対米開戦という愚考を犯すことはなかったのでは?
いわゆる「バーデンバーデンの密約」に代表されるように、当時の陸軍では
ドイツに留学したメンバーが派閥として非常に大きな勢力を持っていました。
当時の陸軍では、陸大を卒業した将校の多くが一度は専修語学の国を対照とした
外国出張の機会を与えられていました。
帰国後も彼らは派閥を形成し、陸軍内部で大きな勢力を形成していきます。

なお、英語専修の場合は英国が出張先に選ばれたようで、今村均大将と本間雅晴大将は
大正7年に英国に出張しています。
(267:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦前の日本陸軍が大型の火砲の実弾演習をするところは、どこだったんでしょう?

渥美半島の先端に、陸軍技術研究所伊良湖試験場と言うのがあり、此処で大阪砲兵工廠にて
試作した大砲、砲弾、信管の試験データの採取、鹵獲砲の試験を行っています。
1901年11月30日に開設、敷地面積285万坪の広大な試験場です。

後、赤城山北面山麓一帯では、迫撃砲の演習場ですが、実際は化学戦部隊、
つまり、毒ガス弾専用の射場でした。

後、15糎高射砲弾道試験用には浜松試験場を有しており、他に1920年、海岸砲兵用の
41糎榴弾砲試射の為に、射程が大きすぎて伊良湖試験場では対応出来ないため、今の千葉県富津岬に、
富津試験場が整備されています。

此処では、41糎榴弾砲の他、24糎加農砲の試験も行われています。

これは東京湾元洲砲台の跡地に建設され、射線は房総半島に平行して、上総湊方面に1万メートル、館山
方面に向けて3万5千メートルでした。

伊良湖試験場、富津試験場ともいくらかの遺構は残っているようです。
(266:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍は大陸などに展開する師団の中に自活班を置いて糧食やらを自弁していたようですが

この自活班の編成にさいして、どんな用意がされてたのでしょうか?
情報に関しては、大本営陸軍部で編纂された所謂「戦訓報」、「戦訓速報」によって、
各部隊の有効な経験を各方面の部隊に展開するようにしています。
例えば、「戦訓速報」第二号には、南方第一線から南方への転用部隊に対する教育
訓練についての提言で、大まかな情報が寄せられていますし、戦訓報第十四号では、
無煙竈の作り方について満州の部隊で研究した結果を公開しています。

また、「現地自活(衣糧)の勝利」と言うマニュアルが陸軍省経理局衣糧課で編纂されて
各部隊に配布されました。
これは、随時追加、改訂が成されています。
これをベースに南方軍は独自に「南方地域現地自活教本」を編纂し主要部隊に配布して
います。

但し、兵要地誌については、陸軍の研究は後手に回っており(本格研究は1943年以降)、
現地に行って初めて、これが必要とされるケースが多いわけで。
(261:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

当初陸軍は各地に鎮台を置き、後にそれを師団に改めましたが、鎮台制と師団制はどのような違いがあるのでしょうか。

1871年に発足した鎮台は、地方の治安維持を担う為、藩兵の整理、再編成を行なって
編成されました。
当時の模範兵制はフランス式でしたが、これでは、ロシアの脅威に対抗出来ないことから、
山県有朋、川村純義、西郷従道を中心に外征軍への転換に関する意見書を同年に早くも
提出し、その後の普仏戦争でのFranceの敗退で、1886年にドイツ兵制に移行し、1888年に
六鎮台(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)、名古屋、広島)を廃止して、師団が編成
されています。

師団は、それ自体が一個の戦闘単位となるような編成であり、工兵大隊、大小架橋縦列、
輜重兵大隊、弾薬大隊、衛生隊、野戦病院と言った後方部隊も含めたものになっています。
鎮台の場合は、歩・騎・砲は揃っていますが、工兵、輜重兵は小部隊でしかなく、なおかつ、
衛生関係の部隊はありません。

これは当初、ドイツの山砲兵師団の編制をそっくりそのまま移植したものですが、日清戦争
に至るまでに、輸送部隊関係(弾薬縦列大隊、輜重兵大隊)はやや簡素化されています。
(135:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の戦車連隊の編成について教えて下さい。

1942年当時の戦車第一聯隊の定数は、
 連隊本部:九七式中戦車×2、九五式軽戦車×1
 第一中隊中隊本部:九五式軽戦車×1
   第一小隊~第三小隊:九五式軽戦車×各3
 第二中隊中隊本部:九七式中戦車×1、九五式軽戦車×2
   第一小隊~第三小隊:九七式中戦車×各3
 第三中隊、第四中隊は第二中隊と同じ
合計して、九五式軽戦車×約20、九七式中戦車×32くらいでしょうか。
これが時代が下ると、更に砲戦車中隊が1個増え、戦車の定数は77両となります。

戦車師団の編成表上では、装軌車1,579両、装輪車875両。
 師団司令部:装軌車×35、装輪車×31
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
 機動歩兵連隊:装軌車×222、装輪車×87
   歩兵大隊×3、歩兵砲中隊×1、整備中隊×1
 師団速射砲隊:装軌車×45、装輪車×87、機動47mm砲×18
   速射砲中隊×3、整備中隊×1
 師団捜索隊:装軌車×91、装輪車×12
   歩兵中隊×1、砲戦車中隊×1、整備中隊×1
 機動砲兵聯隊:装軌車×89、装輪車×73、九○式野砲×12、九一式重榴弾砲×24
   野砲大隊×1、榴弾砲大隊×2、整備中隊×1
 師団防空隊:装軌車×105、装輪車×63、八八式高射砲×8、九八式対空機関砲×24
   高射砲中隊×2、機関砲中隊×4、整備中隊×1
 師団工兵隊:装軌車×122、装輪車×50
 師団整備隊:装軌車×15、装輪車×152
 師団輜重隊:装軌車×100、装輪車×216
(139:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍経理学校について教えて。

陸軍経理学校は、明治19年(1886年)に開校した陸軍軍吏学舎が元になっています。
当初は初級経理部士官を養成するため、下士官から選抜された生徒を採用していましたが、
明治23年(1890年)に陸軍経理学校と改称されてから高級経理官の養成を行うようになりました。

陸軍経理学校の生徒は上記の通り、下士官や兵科の尉官から選抜されていました。
しかし、明治36年~大正11年までの19年間と、昭和11年以降敗戦までの10年間は
一般から生徒(主計候補生)を募集しています。
(250:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日本陸軍の獣医将校の待遇などについて教えてください。

獣医部では陸軍で使用す主に軍馬の医療(稀に軍犬の医療も)を担当します。
その任務は軍馬病毒予防、傷病馬の治療、馬事衛生一般に関する業務と、
合わせて、食用獣の検査、蹄鉄に関する業務を取り扱います。
1930年代、平時の陸軍では36,000頭、戦時になると70~80万頭の馬が必要に
なるので、この任務は重要です。

獣医部の将校担当官は、大学・専門学校獣医科卒業生を見習獣医として採用し、
陸軍獣医学校で教育した後、二等または三等獣医に任命します。

もう一つのスキルパスとして、上等蹄鉄工長(後、獣医務准尉)を実業学校令に
基づく獣医学校に派遣し、卒業と共に、獣医師免許を得ることで三等獣医となる
ケースもありましたが、実業学校での獣医師免許取得が不可能になったので、
少尉候補者は、陸軍獣医学校で教育した後、獣医務准尉の上の階級としての
獣医務少尉から獣医務大尉までの階級が出来ました。
但し、彼等は、獣医師免許は持っていません。

最高位は獣医中将で以下、獣医少将、同大佐、同中佐、同少佐、同大尉、同
中尉、同少尉が獣医師免許を持っている者で、獣医師免許のない者は、獣医務
少尉、同中尉、同大尉までとなっています。
以下、獣医師免許のない獣医務准尉、獣医務曹長、獣医務軍曹、獣医務伍長と続きます。
(246:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍幼年学校は、陸軍士官学校に入るための学校だったのですよね?

陸軍幼年学校は、1897年から1918年に掛けては、3年制の陸軍地方幼年学校(東京、仙台、
名古屋、大阪、広島、熊本、後、1903年に東京は陸軍幼年学校予科となる)と、1年8ヶ月制の
陸軍中央幼年学校がありました。
これは中学校4年修了(修了年の9月から)で地方校に入り、次いで中央校に進学すると言う
スキルパスを経ます。
1920年に中央幼年学校は陸軍士官学校予科となり、軍縮の影響で、一旦東京以外の地方校
は廃止となります。
しかし、1936~39年に地方校は復活し、三年制4月入学となりました。

年齢的には、12歳は入学資格がありますが、直接尋常小学校卒業生は入学させず、実際には、
13歳以上15歳未満という年齢制限を課しています。

幼年学校を卒業すると、運が良ければ、陸軍士官学校予科進学となります。
しかし、中学校→陸軍士官学校→陸軍大学校のスキルパスが優位にあったりします。

幼年学校的なものは米国にもあります。
映画にも何回かなっていると思いますので、探してみては如何でしょう。
(243:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍では将校の拳銃は自前だったようですが、 どの拳銃が持たれる事が多かったのでしょうか?

一応、将校が購入する拳銃としては、南部式、14年式といった国産自動拳銃が主だった
ようですが、前者は威力が足りず、価格が高くて品切れ状態、後者は大型で重すぎ、
しかも価格が高いと言ったモノでしたので、モーゼル、ブローニング、コルト、ベルグマン、
パラベリューム、エキスプレス、ハーリントン、アストラ、ユニオン、ローヤル、スター、
シムソン、ダントン、ベラー、コンチネンタル、レジナ、ベアード、ビッカース、デモン、
ジュピター、ウェブリー、マンリッヘル、グリセンチ、レキザーなど、東西の拳銃なら何でも
購入し、装備していましたので、兵器部や野戦兵器廠は大変だったそうです。
(有名どころは兎も角、それ以外のものは使用に耐えうるか、現品を見て、実包を装填し、
 検査しないといけなかったりするので)

基本的には、国産以外なら、ブローニング、コルト、モーゼルが好まれたみたいで、特に
大陸ではモーゼルが生産されていたことで、部品の供給も容易で、しかも威力があるため、
これが結構好まれたりしています。
前二者に関しては、航空兵が好んで装備していたようです。
また、蘭印占領時にルガーが3000丁没収されています。
(162:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

参謀本部の独立とは具体的にどういうことですか?

あと、独立してるなら中の人は陸軍省から出向扱いみたいにして参謀になるのですか?
参謀本部の仕事は軍令…つまりすべての陸軍の作戦・行動を計画実行する機関であり、
統帥権を持つ天皇の手足となって働くことが建前上の存在意義です。
いわば、政府や議会から横槍を入れられることなく、建前上は天皇の意のままに陸軍作戦を考え実行できます。
これが参謀本部の独立性。
参謀本部は、永遠に「極東からロシア人を追放する」方法を考え続け、いつでも実行できるよう備える権利があります。
そこで政府に対して「ここと同盟組め」「この装備をそろえる金をよこせ」「ここに基地を造らせろ」と
憲法にこだわらないで実現化の努力を続けることができます。

これに対し、陸軍省は政府の一部であり、
「金がないんです。シベリアから撤兵します。ついでに師団も減らします」とか
「イギリスと約束してるんです。ドイツと戦ってください」とか、政府を代表して参謀本部と直談判できる立場にあります。
参謀本部が陣取り合戦の夢を見られるのに対して、
陸軍省は日本政府の陸軍担当として、予算や条約を第一にして日本という国家の利益と地位を守る責務があります。
陸軍省が従うのは参謀本部のわがままではなく、
第一に憲法、外務省が主導して他国と結んだ条約、そして国家予算の配分を守る義務を負っています。
(229:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

連隊長と連隊区司令官との違いは何でしょうか?

聯隊は一般に独立団体と言い、一つの兵営を構え、陸軍部隊組織のうち最も重要なものとされています。
聯隊長は、一つの兵営の長として、その統率に当たり、日夜将校以下を訓練して精鋭な軍隊を教育し、
聯隊の戦力を充実し、動員計画を完備する役職にある人のことを指し、歩兵聯隊長は概ね大佐、騎兵聯隊
長は概ね中佐でありました。

聯隊区司令部というのは、徴兵、動員、召集、在郷軍人の指導などを掌る機関として、大正12年勅令第267号
聯隊区司令部令に基づき、全国各地に置かれていました。
平時は師管(各師団の管轄範囲)を四つに分け、ほぼ歩兵聯隊の所在地または近接市に聯隊区司令部を
設置しました。
聯隊区司令部は、長を聯隊区司令官と言い、大佐クラスがなり、他に副官1名、部員数名、下士官2~3名、
属10数名で構成されていました。

1941年に、北海道を除く1府県1聯隊区に再編成され、平時編制の聯隊区司令部は閉鎖し、臨時編制になる
聯隊区司令部と、地区司令官が設置されました。
聯隊区司令官と地区司令官は兼職として、六大都府県は中将、他は中少将が就きました。
地区司令官は、師管区司令官に隷属し、隷下部隊を統率して地区の防衛にあたるものになります。

なお、外地の在留邦人、在留軍人の服役関係事務については、関東軍、朝鮮軍、台湾軍司令官の下、各地に
陸軍兵事部を置いてこれが聯隊区司令部と同様の任務に就いています。
(229:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

鎮台制が廃れたのはなぜですか?

鎮台制は、基本的に歩兵、砲兵、騎兵と言った第一線装備だけで編制されており、
治安維持を目的としていました。
補給段列も小規模で、長期的な外征には向きません。
一方、師団はその第一線を支えるための各種段列が充実しており、それだけで
一つの独立した戦闘単位となります。

但し、鎮台制に比べると必要とする規模は必然的に大きくなるので、軍事費の
割合、募兵する人数が大きくなり、軍備拡張は経済を圧迫する形となります。
(188:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の「勤務隊(中隊)」と「輸卒隊」の違いは何なのですか?

勤務隊と言うと、師団にある兵器勤務隊と、大戦時に編成された臨時勤務隊があります。

前者は、師団内に於ける兵器修理の為の組織で、それには兵士が所属していました。
後者であれば、補給の望めない地区に派遣される師団や独立中隊などの自活の為に、
鋤や鍬を持って、農地を切り開いたりする軍属の集団で、徴用された人が多かったみたい
です。

輸卒隊は、輜重兵部隊に配備され、駄馬や輓馬の馬の口を取る役割を持つ、輜重輸卒
(1931年に輜重特務兵と改称)の集団のことです。
その教育期間は2ヶ月で、その中身は徒歩、輓駄馬、梱包積載、陣中勤務からなってい
ました。
彼らは戦時召集されて任務に就きますが、長期にわたることを想定せず、万年二等兵で
したが、板垣征四郎が陸軍大臣に就任した1937年に一等兵への進級が認められ、1939年に
やっと輜重兵と改称されました。

但し、正規の輜重兵とは武士と足軽のような関係で、輜重兵は長靴、長剣を帯びて馬に乗り、
二等兵でも一個班15名の輸卒を統率するのに対し、輸卒はゲートルにゴボウ剣で馬の口を
取る仕事をしていました。
余談ながら、輸卒を統率する必要があるため、輜重兵は二等兵であっても、軍曹並みの指導力
を必要としたそうです。
(190:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍に「自動車連隊」という部隊は編成されていたんでしょうか?

自動車連隊とは、関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を
編成したのが始まりで、六個の連隊が編成されましたが、16年の関特演で
これらは独立自動車大隊に改変されました。

同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました。
その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり、傘下には連隊長以下人員700名、
自動車300両を装備しました。

お尋ねの自動車34連隊とは自動車第三十四連隊として昭和16年5月に沙洋鎮で
編成された部隊です。
編成以来十一軍に所属し、湘桂作戦(大陸打通作戦)中の編成表でも軍直轄部隊に
含まれています。
終戦時の所在地は中支。
(198:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日本の空挺部隊は41年実戦配備ということですが、空挺部隊員になる道のりを教えて下さい

また米軍の場合どういう扱いだったのですか?
米軍の空挺部隊は、確か1940年9月に一個大隊を編成していたかと記憶しています。
なので、日本軍よりも早くに編成していますね。

日本陸軍に於いての空挺部隊は、軍極秘扱いであり、編成の際には、陸軍の場合、「機動部隊要員」
と言う名目で各部隊から優秀者を集めています。
海軍に関しては秘匿は特に進められていません。

米軍に関しては、特に極秘扱いではないでしょうね。
これも各部隊から選抜されて、空挺部隊に入隊していますので、エリート扱いではあります。

空挺部隊の隊員になる訓練ですが、陸軍の場合、まず、陸軍の体操学校である、陸軍戸山学校に隊員が集められ、1ヶ月間
地上での基礎訓練が行われました。
ここでは関節の柔軟性を高め、筋肉を強靱にするなど、降下に必要な体力作り、運動神経の向上に主眼が置かれています。
翌月に、所沢の陸軍航空整備学校に移り、降下訓練を行い、実機を用いての降下も行っています。
このほか、読売遊園地落下傘塔で、降下訓練も実施しています。

基礎訓練終了後は、三方ヶ原に開設されていた、陸軍飛行学校付属挺進練習部に移り、本格的な降下訓練を開始。
次いで、訓練の秘匿のために、満州の白城子に移駐しますが、最終的には新田原に移って降下訓練を続け、9月に
編成を完了しています。

ちなみに、海軍の方は館山で似たような訓練を行っていました。
(210:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍の兵営生活とはどんなものだったの?

1. 真夜中に突然点呼ラッパが鳴ることがある。これを臨時点呼という。その方法は日常の点呼と同じである。
2. 起床から夕食時間までの間は、寝台上に横たわらないことになっている。これは放縦に流れないためである。
  しかし一般休日と、特に許されたときは、朝から寝台につくことができる。
3. 平常室内では上着の釦を外し、またこれを脱いでもいいが、検閲、検査、巡視の際は許されない。
4. 世論、政治に関することに携わってはならない。学術技芸に関する事なれば、中隊長の許可を受け、これに出席
  または参加することが出来る。
5. 軍隊に関する書物以外の書物を見たい場合は、内務班長を経て、中隊長に願い出る。
6. 官給品と金銭は決して貸借してはならぬ。また金銭物品を賭けて勝負事等するのは厳禁である。
7. 柱・梁、羽目板、器具などに妄りに釘を打ってはいけない。
8. 用がないのに工場や倉庫、炊事場などに立ち寄ってはならぬ。
9. 許可のない品物を営内に持ち込んだり、官給品を営外に持ち出してはならぬ。
(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)



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