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城島町~佐賀県千代田町に架かっているワーレントラス鋼桁の橋。

複数の情報をまとめると、1968年5月下旬か6月上旬頃の小雨の中、北九州交響楽団を指揮するため八幡滞在中だった團伊玖磨は、昼の練習がない日を利用して、城島町(現 久留米市城島町城島)にある料亭 魚新(福岡県三潴郡城島町城島496-5)を訪ねた。そこから橋を渡って対岸の佐賀県側からエンジンつきの小舟に乗船。龍頭(ブリジストン副社長)、中野(ブリジストン総務課)、本間(合唱指揮者)と同行。船頭さんは本村栄次さん。エツ漁を楽しみながら曲想を練った。
http://www7.plala.or.jp/tikugogawa/zyou/index.html
http://www.ctv.co.jp/kusukusu/2003/0809/tabi00.html

このとき渡ったのがこの六五郎橋。その2年前に竣工したばかりのこの橋は幅員6.0mながら長さ450mと、当時としては結構長い橋だ。ここから7kmも下流にあるもっと古い大川橋は、筑後川が早津江川と分岐した後なので川幅が逆に狭くなっていて、長さ216mですんでいる。つまり、このあたり、結構川幅広いってこと。
ちょっと微妙なこの橋の名前の由来。島原の乱の翌年、乱世に急場の築城を余儀なくされた西牟田氏が、川幅の広い城島を選び、10日での建設を試みた。しかし、荒れる川にままならないと人柱を立てることとなり、築城を命じられていた庄屋の楢橋六左衛門と、庄屋の子飼いの吾平が命を捨てた。その甲斐あってか川は静まり、建設は進み、地の利を活かした城は敵を蹴散らした。ながらく祠があっただけのところ、この橋が建設されたので、彼らの名前をつけたとのこと。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/b-165-rokugorou.htm

こういったエピソードの一つ一つに、筑後川が持つ暴れ川の側面が見てとれます。いやいや大変。