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週刊少年ジャンプに連載され、テレビアニメも大ヒットした「ヒカルの碁」という漫画があります。囲碁漫画という異色のジャンルを切り開き、子供たちの間に一躍囲碁ブームを巻き起こした話題作でした。
囲碁のいの字も知らない少年ヒカルに不遇の囲碁棋士佐為(サイ)がとり憑き、サイの指南でヒカルが成長していくというストーリー。はじめは他の人に見えないサイの指示に従って碁を打つだけだったのに、徐々に自分でも打てるようになっていく。
この漫画の中で、やや不自然に強調されていると感じた展開がありました。それが「名前」です。
たとえば武者修行中のヒカルが碁会所でいざこざのあった韓国の少年と対決するシーン。その少年は「ボクが負けたら、お前の名前を覚えてやる」といい、対決の最後にヒカルは「僕の名前は進藤ヒカル!」と高らかに答えました。取引内容にしては不自然ですよね。ちょうどサイの協力なしに碁を打てるようになって来たころのことです。このほか、「俺の碁が…」とか、「このままじゃサイの碁になっちゃう」とかいう表現が随所に出てきて。そんなアニメシリーズで言えば中盤を過ぎたあたりのことですが、ようやくそのころになって一見平凡な「ヒカルの碁」というタイトルがこの物語の主題を端的に語っているように思え始めました。サイが消えてだいぶたったあとヒカルは自分の打ち方がサイに似ていると言われ泣きだします。自分の碁を育ててくれ突然いなくなった大切な友人が自分の碁の中に生きている。今流に言えば「自分探しの旅」が完結した瞬間ってことでしょうか。

オペラをやるときに私がもらう役名といえば、民衆、群集、地獄の人々、親戚の人、男爵。とあるオラトリオでやった一番出番の多かった役名が門人B。まぁ、合唱はまとめでドンですから、個別の役名なんていらないって言えばいらないんですが、ちょっと寂しいです。
いろいろ取りざたされている中に良かろうが悪かろうが自分の名前なり、ハンドルネームなりが出てくるとちょっとうれしいです。
今なら、知らない人に会えば名前を名乗るなり聞くのがあたりまえですが、大昔は名前を聞くこととイコール求婚だったそうで。
物忘れの激しい私はしばしば身近なひとの名前をド忘れして、ねぇねぇ、と呼びかける程度で誤魔化してます。逆にとある有名な合唱指揮者の一人は、名前を覚えることを武器としていて、任されたばかりの低調な合唱団向けの技として、事務局から借りた写真入り名簿で全員のフルネームを一気に覚えて早期の信頼を勝ち取り、そこから一人ひとりの生き生きした声を引き出して行ったとか。

名前って大切です。名前そのものは形式的な存在かもしれないけど、名前を呼ぶこと。何度も呼ぶことは、その人のことを考えることに時間を割いているわけだし、もうそれだけで、愛ですよね。
筑後平野という言葉は何度か出てきてましたけど、「筑後川」という歌詞は、ここに来て初めてです。しかも連呼です。
ここまでくればもはや「筑後川」はただの川のはずがありません。九州一の川、日本の3大暴れ川、古代の日本を育んだ川、人の成長そのもの、あなたとの愛、あるいはあなたの故郷をあてはめてみても。
何を思ってその名を呼ぶのも自由だとは思います。たぶんそれは大きな、大切な何かですよね。