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作詞家丸山豊が『筑後川』の詩を書き終えたとき、5つめ、終章は「河口夕映」という標題だったらしい。ところがこの詩を受け取った作曲家團伊玖磨はこの「夕映」の削除を求め、現在のようになったそうだ。

夕映えといえば、合唱曲ではタダタケの富士山が有名。でも、終曲から「夕」を排除したことで言えば池澤夏樹/木下牧子の「ティオの夜の旅」で、最終楽章「ティオの夜の旅」から原詩にある「夕方 環礁の残照/犬はティオをにらんでうずくまる」という2行を作曲家がカットしたことの方が妙な一致を感じる。
ティオは木下牧子の初期の作品で、池澤夏樹の『塩の道』という詩集から、一見脈絡なく5つの詩を選んで作曲したように見えるもの。詩が、謎解き的な意味で難解で、何をどう言葉遊びしているのかとっさにはわかりにくい。しかし完成された組曲としてその構成を見てみると、1番の「祝福」が混沌とした未明、2番の「海神」が朝(わからないけど)、3番の「環礁」が強い日差しの照りつける昼、4番の「ローラビーチ」がまさに太陽が沈む夕方、そして5番「ティオの夜の旅」がまさしく夜、という風に、時間の概念でまとめられているのだとわかる。となれば5番で夕方を思わせる言葉はかなり邪魔。結果、その部分は作曲されなかった、ということなのだろうと思う。

ではさて『筑後川』。川の上流から下流との空間的移動いうくくり、これに水量の変化を、愛と人の成長にかけている。曲も、およそその流れに沿っていて、ティオのような朝昼晩といった話はない。
問題は終わりの捉え方。川の終点は河口でそこからは海になる。これを川が終わったと捉えるか、水が川から海へ移動するところを捉えるか。
たとえば中学生が高校生になるとき中学卒業は中学生活に視点が行けば終わってしまうこと、だけど、人生の積極的な節目。
恋人や婚約者という時期を終えて結婚生活に入る節目の結婚式を、恋人でなくなる日と悲しむ人は少ない。いや実際楽しいのはそこま)以下略。
夕映えという言葉の感傷的な沈んでいくイメージが、人生の終わりを想起させるなら、それは作曲家の意図を誤解させかねない。紛らわしいところは切ったほうがいいだろう。
もちろん日はまた昇るのだけど。