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楽譜に書いてあるいろんな表情記号は読んでいると楽しい。音符自身から感じられる音楽をさらにいろんな方向からで彩ってくれる。書いてなくてもするだろうクレシェンドを追認してくれるような場合もあれば、普通思うよりも1小節後ろに書いてあって、そのじらされた感がまた楽しく、ようやく許してもらえたときのクレシェンドの充実振りにいっそうの開放感を感じたりする。
ただ、こういった話には逆の場合もある。クラシックではないイベントとかで安直な編曲で誰かのバックコーラスをやらされるときとかによくあることだけど、曲の終わりに何の脈絡もなくクレシェンドだとかフォルテ3つだとか書いてあって、とりあえず盛り上げておけばいいですか?って感じにさせてくれるやつ。しょうがないから営業スマイルは崩さないようにするけど。

『筑後川』の作曲のすばらしさはいまさら疑う必要がない。というよりも、ここの所ずっとこの曲のことを調べたり考えたりして、いっそうそのよさがわかってきた。しかし、まったく私ごときがどうこう言う資格なんてあるはずもないということを百も承知の上でなのだけど、この2度目の「はじまる」についたクレシェンドとフォルテシモはイミフメイだ。
ここは「さあ」から1ページ半かけて作ったフレーズの終わり。終わりだからまとめにかかりたい。どのパートも五線の真ん中より上に音符が続いていたところ、はじまるの「まる」で低いところに入る。どのパートにとっても声を張り上げにくい低い音。この後は8分休符でちゃんと切った後音楽を入れ替えて「けものの」とフォルテで入りたいようだから、次に向かって取り立てて特別な動きをつけておく必要も感じにくい。だからここのどこをどうとってもクレシェンドしたりフォルテからフォルテシモに一段上げて歌うような流れにはなっていない。

なぜ?どうしてここで大きくしたいの?

To be continued