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長谷川時雨「九条武子」」(2005/12/13 (火) 16:42:03) の最新版変更点

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九条武子<br>  人間は悲しい。<br>  率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字もかけない。<br>  遠くはなれた存在だった、ずっと前に書いたものには、気高《けだか》き人とか麗人とか、ありきたりの、誰しもがいうような褒《ほ》めことばを、ならべただけですんでいたが、そんなお座なりをいうのはいやだ。<br>  その時分書いたものに、ある伯爵夫人が  その人は鑑賞眼が相当たかかったが、<br>   あのお方に十二|単衣《ひとえ》をおきせもうし、あの長い、黒いお髪《ぐし》を、おすべらかし《、、、、、、》におさせもうして、日本の女性の代表に、外国へいっていただきたい。<br>   ああいうお方が、もう二人ほしいとおもいます。一人は外交官の奥さまに、一人は女優に<br>   i和歌をおこのみなさるうちでも、ことに与謝野晶子《よさのあきこ》さんのをー<br>  歌集『黒髪.』に盛られた、晶子さんの奔放な歌風が、ある時代を風靡《ふうび》したころだった。<br>  その晶子さんが、<br>   京都の人は、ほんとに惜《おし》んでいます。あのお姫さまを、本願寺から失《なく》なすということを、それは惜んでいるようです、まったくお美しい方って、京都が生んだ女性で、日本の代表の美人です。あの方に盛装して巴里あたりを歩いていただきたい。<br> といわれた。米国《アメリカ》の女詩人が、白百合《しらゆり》に譬《たと》えた詩をつくってあげたこともあるし、そうした概念から、わたしは緋《ひ》ざくらのかたまりのように輝かしく、憂いのない人だとばかり信じていた。もっとも、そのころはそうだったのかもしれない。<br>   桜ですとも、桜も一重《ひとえ》のではありません。八重の緋ざくらか、樺《かば》ざくらともうしあげましょう。五《いつ》ツ衣《ぎぬ》で檜扇《おう ぎ》をさしかざしたといったらよいでしょうか、王朝式といっても、丸いお顔じゃありません、ほんとに輪郭のよくととのった、瓜実顔《うりざねがお》です。<br> と、おなじ夫人がいったことも、わたしは書いている。<br>  それなのに、なぜ、その時のままのを、他《ぽか》の人のとおりに、古いままで出さないのかといえば、わたしは女でなければわからない、女の心を、ふと感 じたからで、あたしには偽りは言えない。といって、生《いき》ているうちから伝説化されて、いまは白玉楼中《はくぎよくろうちゆう》に、清浄におさまられ た死者を、今更批判するなど、そんな非議はしたくない。ただ、人間は悲しいとおもいあたるさびしさを、追悼の意味で、あたしの直覚から言ってみるに過ぎな い。笞《しもと》の多くくるのは知っているが、手をさしのべて握手するのも目に見えぬ武子さんであるかもしれない。<br>  昭和二年ごろだった。掠屋《りやくや》が  商業往来にもない、妙な新手のものが、階級戦士ぶってやって来ていうには、<br>  「九条武子さんとこへいったら、ちゃんと座敷へ通して、五円くれた。」<br>  それなのに、五十銭銀貨ひとつとは、なんだというふうに詰《なじ》った。女というものはそういったらば、まけずに五円だすとでも思っている様子なので、<br>  「あちらには、阿弥陀《あみだ》さまという御光《ここう》が、後《うしろ》にひかっていらつしゃるから、お金持ちなのだろう。われわれは、原稿紙の舛目《ますめ》へ、一字ずつ書いていくらなのだから、お米ッつぶ拾っているようなもので、駄目《だめ》だ。」<br> と断わったことがあったが、吉井勇《よしいいさむ》さんが編纂《へんさん》した、武子さんの遺稿和歌集『白孔雀《しろくじゃく》』のあとに、柳原曄子《やなぎはらあきこ》さんが書いていられる一文に、<br>     ある日のことだった。思想のとても新らしい若い男が、あの方と話合った事があった、<br>   その男の話は常日頃《つねひごろ》そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなこと<br>   を、たあ様の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根《まゆね》一つ動かさずにむしろ<br>   その男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も<br>   明晰《めいせき》な洞察《どうさつ》をもって、今の社会の如何《いか》に改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、<br>   とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私が呆《あき》れた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低脳だよ」<br>   たしかにこんな蔭口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」<br>   その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に訊《き》いた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問なさったの?」その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(下略)<br>  この一節《いつせつ》に思いあわせたのだった。その訪問者の軽率なのも、掠屋《りやくや》にもおかしさもあったが、武子さんの晩年の救済事業が、なんと なく冴《さ》えてきた心境を感じさせていたので、人を選《よ》るいとまもなく、聞こうとしたものがあったのだと思わせられた。死んでしまった、古い宗教か ら脱《ぬ》けて、自分の救いを・ と、いってわるければ、新しくゆく道を探《たず》ねていた人ではないかと、思っていたことにこの一節がびたときたのだっ た。<br>  武子さんを書く場合に、普通常識ではかりきれないものがあるということを、はっきりさせておかないと具合がわるい。身分があるとか、金持ちだとかいうの とは、また異《ちが》っている。それらの人たちからも拝まれてもいれば、一般からもおがまれている。ある時は人間であり、ある時は阿弥陀さまと同列に見ら れ  見る方が間違っているのだが、特別人あつかいで、それが代々、親鸞聖人《しんらんしようにん》以来であり、しかもその祖師は、苦難をなされはした が、もとが上流の出であり、いかなる場合にも凡下《ぽんげ》とはおなじでなく、おがまれ通してきた血であることだ。本願寺さまは本願寺さまでなければなら ぬところを、大谷家《おおたにけ》になり、子爵と定まり、伯爵となったが、それだけでも門徒には大打撃だったのだ。生仏《いきぼとけ》さまの血脈《おちす じ》が、身分が定まってしまったのだから、信徒の人々には一大事で浅間《あさま》しき末世とさえおもわれたのだ。<br>  武子さんはそうした家柄の、本派本願寺二十一代|法主明如上人《ほつすみようによしようにん》(大谷|光尊《こうそん》)の二女に生れ、長兄には、英傑とよばれた光瑞《こうずい》氏がある。<br>  で、また、ここに、他の宗教家と著しく違うところに、親鸞聖人の妻帯は、必死の苦悩を乗りこした浄土であったのだが、いつからのことか、このお寺だけは お妾《めかけ》のあることがなんでもないことになっていて、お生億《はら》さんというものがあることなのだ。姻戚《いんせき》関係もおおっぴらで、もっと も縁の深いのが九条家で、月《つき》の輪関白兼実《わかんばくかねざね》の娘|玉日姫《たまひひめ》と宗祖の結婚がはじまりで、しかも宗祖は関白の弟、天 台座主《てんだいざす》慈円の法弟であったのだから関係は古い。ごく近くでは、光瑞氏夫人が九条家から十一歳の時に輿入《こしい》っているし、光瑞師の弟 光明師には、夫人の妹が嫁《とつ》がれている。重縁ともなにとも、感情がこぐらかったら、なかなか面倒そうだ。<br>  山中峯太郎氏著、『九条武子夫人』を見ると、父君光尊師は幼いころから武子さんを愛され、伏見桃山の麓《ふもと》の別荘、三夜荘《さんやそう》にいるこ ろは、御門跡《ごもんぜき》さまとお姫《ひい》さまのお琴がはじまったと、近所のものが外へ出てきたりしたという。武子さんの文藻《ぶんそう》はそうして はぐくまれたというが、この父君の雄偉な性格は、長兄光瑞師と、武子さんがうけついでいるといわれているそうで、武子さんは暹羅《シヤム》の皇太子に入輿 《にゆうよ》の儀が会議され――明治の初期に、日支親善のため、東本願寺の光瑩《こうけい》上人の姉妹《はらから》が、清《しん》帝との縁組の交渉は内々 進んでいたのに沙汰《さた》やみになったが1武子さんのは、十七の一月三日、暹羅《シヤム》皇太子が西本願寺を訪問され、武子さんも拝謁されたが、病いを おして歓迎、法要をつとめ、その縁談に進んで同意だった、父|法主《ほつす》が急に重態となり遷化《せんげ》されたので、そのままになってしまったとい う、東本願寺の元老、石川|舜台《しゆんたい》師の懐旧談がある。<br> ――兄光瑞師  新門《しんもん》様  法主の後嗣《あとつぎ》者が革命児で、廿二、三歳で、南洋や、西蔵《チベツト》へいっていることを見ても、その人たちと似た気性といえば、武子さんはなみなみの小さい器ではない。<br>  しかし、愛された父法主は逝《ゆ》き、新門跡は印度にいてまだ帰らず、ここで、木のぼりをしても叱られないでお猿《さる》さんと愛称された愛娘《まなむ すめ》に、目に見えない生活の=転期があったことを、見《み》逃《のが》せない。それは、新門|跡《ノ》夫人の父君、九条|道孝《みちたか》公が、家扶 《がふ》をつれて急いで東京から来着し、主《おも》な役僧一同へ、<br>   ーかねて双方の間に約束いたしおきたることは、もし当山に万一の事ありし時は、速《すみや》かに私が罷《まか》り出て、精《せいぜい》々御助力いたすべくー<br>  これはみな、前記山中氏の著書のなかにあるから、信頼してよいものと思う。こうなると、前法主お裏方《うらかた》の勢力も、お生母《はら》さんのお藤の 方もなにもない、お裏方よりは愛妾《おめかけ》お藤の方のほうが、実はすべてをやっていたのだというが、もはや新門跡夫人の内房《ないぽう》でなければな らない。<br> と、同時に、武子さんの位置もおなじお姫さまでも、かわったといわなければならない。<br>  十八、十九、二十と、山中氏の菩書の中にも、美しき姫の御縁談御縁談と、ところどころに書いてあるが、武子姫の御縁談のことを、重だってお考えになる方 は、お姉君の籍子《かずこ》夫人が、その任に当られるようになりましたとある。本願寺重職の人々が、それぞれ控えていまして、その人々の意見もあり、籌子 夫人お一方のお考えどおりには、捗行《はかゆ》かぬ煩らわしい関係になっているのでした、ともある。<br>  その一節を引くと、<br>   二十の春を迎え給《たま》いし姫君、まして、世の人々が讃美の思いを集めています武子姫の御縁談につきまして、本願寺の人々が、今は真剣に考慮するようになりました。<br> 「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」<br> 「しかし、それについて、御法主《ごほつす》は何とも仰せがないから《、、、、、、、、、》、まことに困る。」<br> 「我れ我れから伺ってみようではないか」<br> と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、<br> 「お前たちが選考して好《よう》しい。己《おれ》には今、これという心当りがない」と、一任するという意味でした。(註「九条武子夫人』、一四九頁)<br>  それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき伴侶《はんりよ》と見きわ め、妹を貰《もら》ってくれといったのだというふうに、わたしはきいている。私は一連枝《いちれんし》にすぎないからと、先方は一応辞退されたのを、人物 を見込んで言いだした人は、地位などで選みはしなかったのだから、二人だけの約束は結ばれた。帰朝すると、夫人にもその事は話され、武子さんもきいて、そ の人も帰ると表向きの訪問が許され、内園を、連れ立っての散歩も楽しげだったというのに、それはどうして破れたのか――<br>  その間《かん》の消息は、山中氏の著書ばかり引くようだが、<br>  あらためて申すまでもなく、才貌《さいぼう》ともにお麗《うるわ》しく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先 ず指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚《しんせき》)の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密 に結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世に稀《ま》れなる才能と、比《たぐ》いな き麗貌《れいぼう》の武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威に関《かか》わり、なお自分たち一同の私情 よりしても、堪えられないことに思われるのでした。おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。<br>  「明如《みようによ》様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど-…」<br>  「 たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳《もうしわ》けないことにな<br>  る。」<br>  「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」<br>  「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に係《かかわ》る」-(『古林の新芽』、一五二頁)<br> おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは――<br>  ここで、前記の、<br>  「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」<br> という光瑞師のいったことが、まことに痛切に響いてくる。<br>  私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたがi<br>  「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、 「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。<br>   かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな<br>   三夜荘《さんやそう》 父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし<br>   緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや<br>                              i『金鈴《きんれい》』よりi<br> <br> 二<br> <br>  東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖入の娘、弥女《いやによ》が再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所《びようしよ》をつくったのにはじま る。この弥女は覚信尼《かくしんに》といい、この人の孫が第三世|覚如《かくによ》。親鸞の子|善鸞《ぜんらん》から、如信《によしん》となり、覚信尼の 孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と厩腿もあったわけだった・八世の飆嫉上人の時、伝道襲偈につとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまで のぼったのだ。十世|証如《しようによ》のころは戦国時代ではあり、一向一揆《いつこういつき》は諸国に勃発《ぼつばつ》し、十一世|顕如《けんによ》に 及んで、織田信長と天正《てんしよう》の石山合戦がある。<br>  石山本願寺は、現今《いま》の大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨 《りんし》が下《くだ》って和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉《とよとみひでよし》から現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地《じち》の 寄附を得た。しかし、この時に傷畦の東西本願寺  本願寺派本山のお断と、真宗大谷派本願寺のお職どが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建 で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門《けいもん》の示唆によって長子が退けられたともいわれている。<br>  東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、 世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝《これんし》(兄弟、近親)でも、御 出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、 敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主i光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係を むすんだといっても、お宝《たから》娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。<br>  本願寺さんのお姫《ひい》さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身《ひとりみ》でと、案じ ているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌《て》のなかの玉をさらわ れるふうに考えたものもなくはあるまい。<br>  なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人《わこうど》たちには住みにくい世界よ、熟議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと 成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、簿子 《かずこ》夫人について各地|遊説《ゆうぜい》に、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつまでおかわいいお姫《ひい》さまでいるであろう か。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛《あゆ》と権謀の周囲で、離れてはじめて貴《たつ》とさのわかるのは真《まこと》だけだ。<br>  一葉《いちよう》女史の「経《きよう》つくえ」は、作として他《ほか》のものより高く評価されていないが、わたしはあの「経つくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、ある<br> とおもう、明治年代の、淑《しと》やかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふ くめているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすごはぬけ出てしまって雑誌『白樺《しらかば》』の武者小路《むしやのこうじ》氏 の愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて 惜しむ心はなかなかにあわれは深い。<br>  もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそ んなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱《しやくねつ》の恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤《たいこう》秀吉の常の居間であったという、 西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣《ひうんかく》から飛出されもしたであろうし、解決は早くもあったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま 訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、代《かわ》る女《もの》はなかったとの歎《たん》をもたれたのだから悲しい。<br>  も一度、<br>     かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。<br>  この歌は、嫁《とつ》がれてのち、夫君《つまぎみ》を待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。<br>  爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は経《た》ってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、勝《す ぐ》れた家の爵位を嗣《つ》ぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に 飛出してくるはずもない。ここまで来て籌子《かずこ》夫人から、天降《あまくだ》り案が提出されたのだから、捏《こ》ね廻してしまったものには具合がよ かったと、ことが運んだわけだった。<br>  山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、<br>     重職会議へ極めて内々のお諮《はか》りがありました。御生家《ごせいか》の九条公爵の御分家たる良致《りようち》男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。<br>   籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁《いいなずけ》として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に  良致男爵は簿子夫人の弟君に 当られます。なお、夫人の妹君には九条家に紐子《きぬこ》姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿《あつまろ》様 (光明師)へ紐子姫が、御縁づきになりますことは、簿子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方《さんが た》とも御結婚になり、両家にとりてこの上のお睦《むつ》みはないのでした。<br>   簿子お裏方《うらかた》より直接のお諮《はか》りを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。<br>  なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのに拘《こだ》わるのも、それでは男爵 になれるようしますからとまでいって来たのを、すくなくも子爵でなくてはと拒絶したといわれているのを、わたし自身が頷《うなず》くために、引いてみたの だが、良致氏は前から男爵ではなく、武子さんを娶《めと》る前になったのだった。<br>  良致氏はお気の毒な方《かた》で、やったり、とったりされた人だった。ずっと前に他家へゆかれ、それから一条家の令嬢の婿金《むこがね》として、養われていたが帰されてーやっぱりこれも例をひいた方がよいから、山中氏の前のつづきを拝借すると、<br>   ――かつて一条公爵家の御養子として、暫《しばら》く同家に生活していられました。それは、元来一条家よりの懇《ねんこ》ろなお望みがありまして、御 結縁《ごけちえん》になったのでした。しかし、家風《かふう》の上から、その後《のち》、男爵は再び九条家へ、お復《かえ》りになったのでした。(前掲一 七四頁)<br>  なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の蒐集《しゆうしゆう》に、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近かな人々からも 指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよぼず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者の序に、初校 《しよこう》を終る机のそばに、武子さんが、近く来《きた》りていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔《けいけん》な著であるので、信頼して読ませ て頂いたからだ。その行間からわたしは何を見たかー<br>  籌子《かずこ》夫人のこのお婿さん工作も、愛弟だったときけば頷《うなず》けるし、実家の嫂《あによめ》は東本願寺からきた人で、例の御連枝《これん し》と縁のある方《かた》であり、それらの張合もないとはいえまいが、良致氏は、簿子夫人の手許《てもと》へ引きとられていたというものがあるから、武子 さんとも顔を合せていなくてはならないのに、この書では、結婚の日が初対面と記されてある。この初対面という方に従ってゆくと、これはまた、あれほど大切 にしたお姫《ひい》さんを、なんと手軽にあつかったものだかー<br> もとより何もかも、知りすぎる位にわかってる方が進めてゆくのだから、誰にも安心はあったであろうが、いやしくも人生の最大事業をおこなう男女当事者が初 対面とはー無智|蒙昧《もうまい》な親に、売られてゆく、あわれな娘ならば知らず、一万円持参で、あの才色絶美、京都では、本願寺からはなすのはいやだと 騒がれた美女《ひと》なのに――<br>  籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の指図《さしず》だった。<br>  も一度。<br>     緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや<br>     三夜荘《さんやそう》父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし<br> 緋の房の襖の向うは、彼女の胸の隠家《おくが》でなくてなんであろう。<br>  結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へーけれども、御婚儀の日が、初対面の日なので した。ll昨日《きのう》までの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほ か、更に御承知はないのでした。<br>                              (『九条武子夫人』より抄)<br> i七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。<br>  性格も趣味も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主《ほ つす》夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、<br>  「よろしいように」<br> と静かに答えるだけだったという。<br>  印度では光瑞《こうずい》法主一行の、随行員も多く賑《にぎ》わしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、い つも姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。<br>  船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、<br>  「では失礼します。」<br>  「どうぞ。」<br>  水の如き夫妻だ。<br>  武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっ ちかが軽蔑《けいべつ》しているのだ。どっちかがすく《、、》んでいるのだ、でなければもつと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀 儡《かいらい》になったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してし まった。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。<br>  シベリア線で、籌子夫人と武子さんが帰朝ときまったとき、訣別《けつべつ》の宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立《しゆつたつ》のおりもプラットホームに石の如く立って、<br>  「ごきげんよう」<br> と、別れの言葉は、この一言だけだとある。<br>  良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなか隅《すみ》にお けない、白粉《おしろい》を袖《そで》や胸にもつけてくる人だというし、またある人も、気さくなよいサラリーマンだといった。新婚のころは、特別に、そん なムッとした人にならざるを得ぬことがあったものとおもえる。世間からは花の嫁御《よめご》をもらって、日本一の果報男《かほうおとこ》といわれたが、他 人ではわからないものが、その人にとってないとはいえまい。<br>  また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。<br>  三年たった。ここいらから武子さんが、麗《うる》わしい武子だけでなく、同情と、人気とその人のもつ才能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。<br>  空閨《くうけい》を守らせるとは怪《け》しからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持《そうじ》高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。<br>  この間《あいだ》も、斎藤茂吉《さいとうもきち》博士の随筆中に、武子夫人が生《いき》ていられたうちは書かなかったがと、ある田舎《いなか》へいった ら、砂にとった武子さんのはいせき物《ぶつ》を見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということを記《しる》されたが、そんなばかげた事もおこるほ ど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。<br> <br> 三<br> <br>  武子さんの第一歌集『金鈴《きんれい》』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、<br>     ゆふがすみ西の山の端《は》つつむ頃ひとりの吾《われ》は悲しかりけり<br>     見渡せば西も東も霞《かす》むなり君はかへらず又春や来《こ》し<br>  作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人 が急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、桎梏《しつこく》の枷《か せ》をはめられて残された武子さんの感慨は無量であったろう。全く運命というものは変なものだ。<br>  しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えするが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡同宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆ くばかりなので、九条武子となっても、本願寺に起臥《おきふし》して、昔にもまさって本願寺の大切な人であった。そして、思い出したように、お美しい方が 空閨に泣くとは、.なぞと、時々書いたりいわれたりしたが、武子さんの場合だけは、それが不自然ではなく、なんとなくそれで好いような気がしていた。語ら ざる了解があるように思われた。そうしているほうが、お互が気楽なのではないかと思えた。<br>  遺稿和歌集の『白孔雀《しろくじやく》』をとって見ると、<br>     百人《ももたり》のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足《た》る<br>     その一歩かく隔りの末をだに誰《たれ》かは知りてあゆみそめむそ<br>     この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く<br>     この胸に人の涙をうけよとやわれみつからがくるしみの壺<br>     おもひでの翼《つばさ》よしばしやすらひて語れひとときその春のこと<br>     影ならば消《け》ぬべしさはれうつそ身のうつつに見てしおもかげゆゑに<br>     引く力|拒《こば》むちからもつかれはてて芥《あくた》のごとく棄《す》てられにしか<br>     たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり<br>     たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《こういん》かこれ<br>     執着も煩悩《ぽんのう》もなき世ならばと晴れわたる空の星にこと問ふ<br>     空《むな》しけれ百人千人讃《ももたりちたりたた》へてもわがよしとおもふ日のあらざれば<br>     夢寐《むび》の間《ま》も忘れずと云《い》へどわするるに似たらずやとまた歎けりこころ<br>     むしろわれ思はれ人《びと》のなくもがなあまりに病めばかなしきものを<br>                      1滞洛手帖十四首の中からー<br>     ふるさとはうれし散りゆく一葉《ひとは》さへわが思ふことを知るかのやうに<br>     ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉《ひとは》のわかれ告げゆく<br>     叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの詮《せん》なきつかれ<br>     岐《わか》れ路《じ》を遠く去り来《き》つ正しともあやまれりとも知らぬ痴人《しれびと》<br>     夕されば今日もかなしき悔《くい》の色|昨日《きそ》よりさらに濃さのまされる<br>     水のごとつめたう流れしたがひつ理《ことわ》りのままにただに生きゆく<br> 震災後|下落合《しもおちあい》に家を求めてからを知っている人が、武子さんの日常を、バサバサしたなつかしみのない、親分の女房みたいだと評し、わざと らしいしな《、、》をつくるが、電話の声と地声とはちがい、外から帰ると寛袍《どてら》にくつろぎ、廊下は走りがちに歩く、女中にきいてみたら、京都へゆ く汽車の中では、ずっと身じろぎもしないで、座ったままだというのにIiと、良致さんとの夫妻生活を、およそ男性のもとめるイットのないものとくさ 《、、》したが、わたしは胸が苦しかった。武子さんはもうそのころ自分の表而的な職分と、自分の心だけでいるときとの、けじめ《、、、》がはっきりつい て、卑近な無理解など、どうでもよいとの決心がついていたにちがいない。なぜなら、その人がいったようなただ、あざ《、、》けた女《ひと》に、こんな心の 声があろうか、<br>     さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも<br>     ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり<br>     さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷《おおたに》の山<br>     まぼろしやかの清滝《きよたき》に手をひたし夏をたのしむふるさとの人<br>     やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも<br>  これはみんな、世にない人を思い出した歌ではない。ふるさとの人とは、誰をさしていったものだろう、そんなことは言っては悪いと叱られるかもしれない。 だが、それだからこそ人間ではないか、それだからわたしは武子さんが悲しく、そして忘れないのだ。ただ、わたしはいう、あの豪気な、大きい心の人が、なぜ その苦しみとひたむきに戦わなかったか、この人間の苦しみこそ、宗祖|親鸞《しんらん》も戦って戦いぬいて、苦悩の中に救いを見出《みいだ》し大成したの ではなかろうか、良致氏が外国で家庭生活をもっていたことが、かえって武子さんを小乗的《しようじようてき》にしてしまったのかもしれない、仏教のことば なんかつかっておかしいが、そんなふうにもおもえる。さし詰《せま》った苦しさというものは、勇気を与えるが、それも長く忍んでいると詠歎的になってしま うものだ。<br>  『白孔雀』の巻末に、柳原|白蓮《びやくれん》さんが書いているから、すこし引いて見よう、<br>   百人《ももたり》のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足《た》る<br> 第一この歌に私はもう涙ぐんでしまった。あのたあ様は本当に深い深い胸の底に涙の壺を抱いていた人だった。<br> 私が今の生活に馴《な》れるまでの問を、たあ様はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、「貴女《あなた》は幸福よ。」この一言によって私は 考えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私 は何といってあの方に感謝していいかわからない。人こそ知らね私には深い思いがあるからである。<br>   美しき裸形《らぎよう》の身にも心にも幾夜かさねしいつはりの衣《きぬ》<br> 「ねえ、私だって、ああなのよ、こうなのよ、ねえ、よう。」甘えるように私の手をとつてゆすぶったりした。私は、「そんなら御勝手になさいまし、ただ、く しやくしゃ語ったって、私がどうにもして上げられるもんじゃなし。」とつんと突き放したものいいをすると、その時、ほっとためいきをつきながら「もういわ ないから、かんにんよ。」あの時の少女のような身のこなしが、今も目に浮かんで来てしようがない。<br> 1たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。<br> 私の友よ、友の霊よ、<br> 生命《いのち》があるのだーー<br> この歌の一つ一つが、<br> 貴女《あなた》の息から生れたものなのだ、<br> それぞれに<br>  人生の裏も底も、涙も知りつくしたはずの歌人、吉井勇《よしいいさむ》さんが『白孔雀』巻末に書いた感想<br> をひいてみると、<br>   ー今その手録された詠草を見ると、「薫染《くんぜん》」に収められた歌以外のものに、かえって真実味に富んだ、哀婉《あいえん》痛切なる佳作が多いような気がする。私は先ず手録された詠草の最初にあった、<br>     百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る<br>   の一首に、これまでの武子夫人の歌に見られなかったような情熱を覚えると同時に、かなり感激した心持でこの新しい歌集『白孔雀』の編輯《へんしゆう》に従うことが出来たのであった。<br>   この十一月初旬、この遺稿の整理をしに往《い》った別所温泉は、信濃路《しなのじ》は冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて、部屋の中にいても落葉の降る音が雨のように聴えた。<br>   が、手録の詠草を一首々々読んでゆくうちに、私の耳にはだんだんそんなもの音も聴こえなくなった。私は真実味の深い歌が見出される度《たび》ごとに、若うして世を去った麗人を傷《いた》むの情に堪《た》えなかったのである。<br>   死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすちの路<br> そういう死をうたった歌や、<br>   この胸に人の涙もうけよとやわれみつからが苦しみの壺<br> といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでに潤《うる》んだ。<br>   たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり<br>   たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《こういん》かこれ<br>   うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女《おみな》は<br>   そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし<br>   まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと<br>   しかはあれど思ひあまりて往《ゆ》きゆかばおのがゆくべき道あらむかな<br>   何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや<br>   酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ<br> こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢《はか》なさを思わずにはいられなかった。――『白孔雀』からー<br> 吉井さんにしても、曄子《あきこ》さんにしても、入世の桎梏《しつこく》の道を切開《きりひら》いて、血みどろになってこられたかたたちだ、その人の心眼に何がうつったか2 ただ、寂しい心情とのみはいいきれない<br> ものではなかったろうか。白蓮さんの感想には、書かれない文字や、行間に、言いたいものがいっぱいにある気がする。遠慮、遠慮、遠慮! 昔だったらわたし など、下《げげ》々ものがこんなことを言ったら、慮外《りよがい》ものと、ポンとやられてしまうのであろうが、みんなが武子さんを愛《いと》しむ愛しみか たがわたしにはものたらない。こんな、生きた人間を、なんだって小さな枠《わく》に入れてしまうのだろう。<br>  iいや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。<br>  こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな 売女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、勘定《かんじよう》が細かいのといった。わたしはそれに答えてはこういう。<br>  武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする媚態《びたい》があるというが、それは、多くのものに、よ ろこばせたい優しみを、とる方がそうとりちがえたのではないか。算当《さんとう》が細かいというのは、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はその ために、責《せめ》をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろ う。『無憂華《むゆうげ》』の中の、「父に別れるまで」の一節に、<br>   ー今思うとこんなこともあった。そのころの道具|掛《がかり》の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金《かね》の水指 《みずさし》を稽古《けいこ》用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織《オランダモウル》の抱桶《だきおけ》であったことや、また幾千金にか えられた堆朱《ついしゆ》のくり盆に、接待|煎餅《せんべい》を盛って給仕《きゆうじ》が運んでおったのもその頃であった。<br>  そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳《たた》んでいられたのだと思う。<br>  武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その切《せつ》ないなかに生きぬいて、自分の苦し んだのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋は空 《むな》しいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか――<br>  おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときにーー外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空 閨《くうけい》を十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰 る人にも悩みは多かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたということだ。<br>  死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく頷《うな》ずいて別れた東の御連枝《ごれんし》だっ た。だが、今度はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけない病《やまい》が急に重《おも》って、それとなく人々が別れを告 げに集《あつま》るとき、その人も病院を訪れたというが、武子さんは逢《あ》わなかったのだった。お別れはもう先日ので済んでおりますと、伝えさせたとい う。<br>  私が、戯曲的に考えれば、生母の円明院《えんみよういん》お藤の方が、手首にかけた水晶の数珠《じゆず》を、武子さんが見て、<br>                                ○<br>  おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。<br>  といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かい情《もの》が籠《こも》っているかもしれないと、思うことだった。<br>  君にききし勝鬘経《しようまんぎよう》のものがたりことばことばに光りありしか<br>  君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし<br>  この日ごろくしき鏡をニツもてばまさやかに物をうつし合ふなり<br> 勝鬘経は・印度紮衡王騨麒と・摩秕餐との間に生れて・欝獻国王に嫁した勝纂栽が仏教に帰依《きえ》した、その説示だという、最も大乗《だいじよう》の尊さ を説いたもので、わが聖徳太子も、推古《すいこ》女帝に講したまいし御経《おんきよう》ときいたが、君とは、父|法主《ほつす》でも、兄法主でもない人を 指している。<br>  築地《つきじ》別院に遺骸《いがい》が安置され、お葬儀の前に、名残《なご》りをおしむものに、芳貌《ほうぼう》をおがむことを許された。<br>  二月八日の宵《よい》だった。梅の花がしきりに匂《にお》っていた。わたしは心ばかりの香《こう》を焚《た》いて、「秋の夜」と署名した武子さんからの 手紙を出して、机上においた。そこへ、安成二郎《やすなりじろう》さんが訪れられて、どうしてお別れにいって来ないのかといわれた。蘭燈《ぼんぼり》にて らされて、長い廊下を歩いていって、静《しずか》な、清らかな美しいお顔を見ると、全くこの世の人ではない気がしたといわれた。そして、どうしてゆかない のかと、再び問われた。<br>  あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはお厭《いや》だろうと思うと、答えたわたしの胸には、ちょっと言いあらわせないものが走った。<br>  震災|前《ぜん》、あの別院が焼けない前に、ある目の日かげを踏んで、足|許《もと》にあつまる鳩《はと》を避《よ》けて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたもの<br> は、あんなに麗《うらら》かな面《おも》ばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦《ゆうく》といおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。<br>  その時、<br>  「曄《あき》さまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」<br> と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮《びやくれん》さんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。<br>  二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶《くもん》をかくしているなと、思った。<br>  震災に、なんにも持たずに逃《のが》れ出たが、一束《ひとたば》の手紙だけは1後に焼きすてたというが、iあの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。1そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが1<br>  武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこ ういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もつと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを話《はなし》ても、あの方の苦節 に疵《きず》はつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚《めざ》めてきた働きは出来ない。本願寺という組織に操《あやつ》られてでも、それを承知 で、自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方に まで進んで、かなり一ぽいの努力だったと思う。<br>  そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちの床《とこ》の 間《ま》に、ブロンズのドラ猫があった。埃《ほこ》りまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好きだったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれ の置物を、かあいい、かあいいと撫《な》で廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が話して、君が逢えばきっと猫をつくらせられてしまうよ といったらば、いや決して僕は魅惑されないといっていたのが、いつか銀の猫をつくって、呈上してしまって、そういったものへは内密にしていた。だが、それ が縁で、デスマスクはその人がつくったということだ。<br> <br> あなかしこ神にしあらぬ人の身の誰《たれ》をしも誰《た》が裁くといふや<br> ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は<br> をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること<br>                            1歌集『薫染《くんぜん》』よりi<br>   はつ春の夜《よ》を荒るる風に歯のいたみまたおそひ来ぬー<br>  この最後の一首は、磯辺《いそべ》病院で失《う》せられた枕《まくら》もとの、手帳に書きのこされてあったというが、末の句をなさず逝《ゆ》かれたのだった。<br>  「嵯峨《さが》の秋」という脚本のなかで、蓮月尼《れんげつに》には、こう言わせている。<br>   みめよい娘《こ》じやとて、ほんに女は仕合せともかぎりませんわいな。<br>   おお、そうですそ、おまえさんの正直な美しい恋のまことが、やがてきっと、大きな御手にみちびかれてゆきまする。<br>  昭和三年一月十六日より箘痛、発熱は暮よりあった。十七日、磯辺病院へ入院、気管支炎も扁桃腺《みてへんとうせん》炎も同復したが、歯を抜いたあとの出 血が止まらず、敗血症になって、人々の輸血も甲斐《かい》なく、二月七日朝絶息、重態のうちにも『歎異鈔《たんにしよう》』を読みて、<br>   有碍《うげ》の相《そう》かなしくもあるか何を求め何を失ひ歎《なげ》くかわれの<br>  この人に寿《ことほぎ》あって、今すこし生きぬいたらば、自分から脱皮し、因襲をかなぐりすてて、大きな体得を、苦悩の解脱《げだつ》を、現《あき》らかに語ったかもしれないだろうにi-<br>                              i昭和十年九月<br> <br>
九条武子<br>  人間は悲しい。<br>  率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字もかけない。<br>  遠くはなれた存在だった、ずっと前に書いたものには、気高《けだか》き人とか麗人とか、ありきたりの、誰しもがいうような褒《ほ》めことばを、ならべただけですんでいたが、そんなお座なりをいうのはいやだ。<br>  その時分書いたものに、ある伯爵夫人が  その人は鑑賞眼が相当たかかったが、<br>   あのお方に十二|単衣《ひとえ》をおきせもうし、あの長い、黒いお髪《ぐし》を、おすべらかし《、、、、、、》におさせもうして、日本の女性の代表に、外国へいっていただきたい。<br>   ああいうお方が、もう二人ほしいとおもいます。一人は外交官の奥さまに、一人は女優に<br>   i和歌をおこのみなさるうちでも、ことに与謝野晶子《よさのあきこ》さんのをー<br>  歌集『黒髪.』に盛られた、晶子さんの奔放な歌風が、ある時代を風靡《ふうび》したころだった。<br>  その晶子さんが、<br>   京都の人は、ほんとに惜《おし》んでいます。あのお姫さまを、本願寺から失《なく》なすということを、それは惜んでいるようです、まったくお美しい方って、京都が生んだ女性で、日本の代表の美人です。あの方に盛装して巴里あたりを歩いていただきたい。<br> といわれた。米国《アメリカ》の女詩人が、白百合《しらゆり》に譬《たと》えた詩をつくってあげたこともあるし、そうした概念から、わたしは緋《ひ》ざくらのかたまりのように輝かしく、憂いのない人だとばかり信じていた。もっとも、そのころはそうだったのかもしれない。<br>    桜ですとも、桜も一重《ひとえ》のではありません。八重の緋ざくらか、樺《かば》ざくらともうしあげましょう。五《いつ》ツ衣《ぎぬ》で檜扇《おうぎ》 をさしかざしたといったらよいでしょうか、王朝式といっても、丸いお顔じゃありません、ほんとに輪郭のよくととのった、瓜実顔《うりざねがお》です。<br> と、おなじ夫人がいったことも、わたしは書いている。<br>   それなのに、なぜ、その時のままのを、他《ぽか》の人のとおりに、古いままで出さないのかといえば、わたしは女でなければわからない、女の心を、ふと感じ たからで、あたしには偽りは言えない。といって、生《いき》ているうちから伝説化されて、いまは白玉楼中《はくぎよくろうちゆう》に、清浄におさまられた 死者を、今更批判するなど、そんな非議はしたくない。ただ、人間は悲しいとおもいあたるさびしさを、追悼の意味で、あたしの直覚から言ってみるに過ぎな い。笞《しもと》の多くくるのは知っているが、手をさしのべて握手するのも目に見えぬ武子さんであるかもしれない。<br>  昭和二年ごろだった。掠屋《りやくや》が  商業往来にもない、妙な新手のものが、階級戦士ぶってやって来ていうには、<br>  「九条武子さんとこへいったら、ちゃんと座敷へ通して、五円くれた。」<br>  それなのに、五十銭銀貨ひとつとは、なんだというふうに詰《なじ》った。女というものはそういったらば、まけずに五円だすとでも思っている様子なので、<br>  「あちらには、阿弥陀《あみだ》さまという御光《ここう》が、後《うしろ》にひかっていらつしゃるから、お金持ちなのだろう。われわれは、原稿紙の舛目《ますめ》へ、一字ずつ書いていくらなのだから、お米ッつぶ拾っているようなもので、駄目《だめ》だ。」<br> と断わったことがあったが、吉井勇《よしいいさむ》さんが編纂《へんさん》した、武子さんの遺稿和歌集『白孔雀《しろくじゃく》』のあとに、柳原燁子《やなぎはらあきこ》さんが書いていられる一文に、<br>     ある日のことだった。思想のとても新らしい若い男が、あの方と話合った事があった、<br>   その男の話は常日頃《つねひごろ》そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなこと<br>   を、たあ様の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根《まゆね》一つ動かさずにむしろ<br>   その男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も<br>   明晰《めいせき》な洞察《どうさつ》をもって、今の社会の如何《いか》に改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、<br>   とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私が呆《あき》れた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低脳だよ」<br>   たしかにこんな蔭口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」<br>   その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に訊《き》いた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問なさったの?」その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(下略)<br>   この一節《いつせつ》に思いあわせたのだった。その訪問者の軽率なのも、掠屋《りやくや》にもおかしさもあったが、武子さんの晩年の救済事業が、なんとな く冴《さ》えてきた心境を感じさせていたので、人を選《よ》るいとまもなく、聞こうとしたものがあったのだと思わせられた。死んでしまった、古い宗教から 脱《ぬ》けて、自分の救いを・ と、いってわるければ、新しくゆく道を探《たず》ねていた人ではないかと、思っていたことにこの一節がびたときたのだっ た。<br>  武子さんを書く場合に、普通常識ではかりきれないものがあるということを、はっきりさせておかないと具合がわるい。身分があるとか、金持ち だとかいうのとは、また異《ちが》っている。それらの人たちからも拝まれてもいれば、一般からもおがまれている。ある時は人間であり、ある時は阿弥陀さま と同列に見られ  見る方が間違っているのだが、特別人あつかいで、それが代々、親鸞聖人《しんらんしようにん》以来であり、しかもその祖師は、苦難をな されはしたが、もとが上流の出であり、いかなる場合にも凡下《ぽんげ》とはおなじでなく、おがまれ通してきた血であることだ。本願寺さまは本願寺さまでな ければならぬところを、大谷家《おおたにけ》になり、子爵と定まり、伯爵となったが、それだけでも門徒には大打撃だったのだ。生仏《いきぼとけ》さまの血 脈《おちすじ》が、身分が定まってしまったのだから、信徒の人々には一大事で浅間《あさま》しき末世とさえおもわれたのだ。<br>  武子さんはそうした家柄の、本派本願寺二十一代|法主明如上人《ほつすみようによしようにん》(大谷|光尊《こうそん》)の二女に生れ、長兄には、英傑とよばれた光瑞《こうずい》氏がある。<br>   で、また、ここに、他の宗教家と著しく違うところに、親鸞聖人の妻帯は、必死の苦悩を乗りこした浄土であったのだが、いつからのことか、このお寺だけはお 妾《めかけ》のあることがなんでもないことになっていて、お生億《はら》さんというものがあることなのだ。姻戚《いんせき》関係もおおっぴらで、もっとも 縁の深いのが九条家で、月《つき》の輪関白兼実《わかんばくかねざね》の娘|玉日姫《たまひひめ》と宗祖の結婚がはじまりで、しかも宗祖は関白の弟、天台 座主《てんだいざす》慈円の法弟であったのだから関係は古い。ごく近くでは、光瑞氏夫人が九条家から十一歳の時に輿入《こしい》っているし、光瑞師の弟光 明師には、夫人の妹が嫁《とつ》がれている。重縁ともなにとも、感情がこぐらかったら、なかなか面倒そうだ。<br>  山中峯太郎氏著、『九条武子夫人』 を見ると、父君光尊師は幼いころから武子さんを愛され、伏見桃山の麓《ふもと》の別荘、三夜荘《さんやそう》にいるころは、御門跡《ごもんぜき》さまとお 姫《ひい》さまのお琴がはじまったと、近所のものが外へ出てきたりしたという。武子さんの文藻《ぶんそう》はそうしてはぐくまれたというが、この父君の雄 偉な性格は、長兄光瑞師と、武子さんがうけついでいるといわれているそうで、武子さんは暹羅《シヤム》の皇太子に入輿《にゆうよ》の儀が会議され――明治 の初期に、日支親善のため、東本願寺の光瑩《こうけい》上人の姉妹《はらから》が、清《しん》帝との縁組の交渉は内々進んでいたのに沙汰《さた》やみに なったが1武子さんのは、十七の一月三日、暹羅《シヤム》皇太子が西本願寺を訪問され、武子さんも拝謁されたが、病いをおして歓迎、法要をつとめ、その縁 談に進んで同意だった、父|法主《ほつす》が急に重態となり遷化《せんげ》されたので、そのままになってしまったという、東本願寺の元老、石川|舜台《し ゆんたい》師の懐旧談がある。<br> ――兄光瑞師  新門《しんもん》様  法主の後嗣《あとつぎ》者が革命児で、廿二、三歳で、南洋や、西蔵《チベツト》へいっていることを見ても、その人たちと似た気性といえば、武子さんはなみなみの小さい器ではない。<br>   しかし、愛された父法主は逝《ゆ》き、新門跡は印度にいてまだ帰らず、ここで、木のぼりをしても叱られないでお猿《さる》さんと愛称された愛娘《まなむす め》に、目に見えない生活の=転期があったことを、見《み》逃《のが》せない。それは、新門|跡《ノ》夫人の父君、九条|道孝《みちたか》公が、家扶《が ふ》をつれて急いで東京から来着し、主《おも》な役僧一同へ、<br>   ーかねて双方の間に約束いたしおきたることは、もし当山に万一の事ありし時は、速《すみや》かに私が罷《まか》り出て、精《せいぜい》々御助力いたすべくー<br>   これはみな、前記山中氏の著書のなかにあるから、信頼してよいものと思う。こうなると、前法主お裏方《うらかた》の勢力も、お生母《はら》さんのお藤の方 もなにもない、お裏方よりは愛妾《おめかけ》お藤の方のほうが、実はすべてをやっていたのだというが、もはや新門跡夫人の内房《ないぽう》でなければなら ない。<br> と、同時に、武子さんの位置もおなじお姫さまでも、かわったといわなければならない。<br>  十八、十九、二十と、山中氏の著書の中に も、美しき姫の御縁談御縁談と、ところどころに書いてあるが、武子姫の御縁談のことを、重だってお考えになる方は、お姉君の籍子《かずこ》夫人が、その任 に当られるようになりましたとある。本願寺重職の人々が、それぞれ控えていまして、その人々の意見もあり、籌子夫人お一方のお考えどおりには、捗行《はか ゆ》かぬ煩らわしい関係になっているのでした、ともある。<br>  その一節を引くと、<br>   二十の春を迎え給《たま》いし姫君、まして、世の人々が讃美の思いを集めています武子姫の御縁談につきまして、本願寺の人々が、今は真剣に考慮するようになりました。<br> 「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」<br> 「しかし、それについて、御法主《ごほつす》は何とも仰せがないから《、、、、、、、、、》、まことに困る。」<br> 「我れ我れから伺ってみようではないか」<br> と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、<br> 「お前たちが選考して好《よう》しい。己《おれ》には今、これという心当りがない」と、一任するという意味でした。(註「九条武子夫人』、一四九頁)<br>   それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき伴侶《はんりよ》と見きわめ、 妹を貰《もら》ってくれといったのだというふうに、わたしはきいている。私は一連枝《いちれんし》にすぎないからと、先方は一応辞退されたのを、人物を見 込んで言いだした人は、地位などで選みはしなかったのだから、二人だけの約束は結ばれた。帰朝すると、夫人にもその事は話され、武子さんもきいて、その人 も帰ると表向きの訪問が許され、内園を、連れ立っての散歩も楽しげだったというのに、それはどうして破れたのか――<br>  その間《かん》の消息は、山中氏の著書ばかり引くようだが、<br>   あらためて申すまでもなく、才貌《さいぼう》ともにお麗《うるわ》しく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先ず 指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚《しんせき》)の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密に 結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世に稀《ま》れなる才能と、比《たぐ》いなき 麗貌《れいぼう》の武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威に関《かか》わり、なお自分たち一同の私情よ りしても、堪えられないことに思われるのでした。おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。<br>  「明如《みようによ》様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど-…」<br>  「 たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳《もうしわ》けないことにな<br>  る。」<br>  「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」<br>  「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に係《かかわ》る」-(『古林の新芽』、一五二頁)<br> おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは――<br>  ここで、前記の、<br>  「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」<br> という光瑞師のいったことが、まことに痛切に響いてくる。<br>  私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたがi<br>   「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、 「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。<br>   かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな<br>   三夜荘《さんやそう》 父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし<br>   緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや<br>                              i『金鈴《きんれい》』よりi<br> <br> 二<br> <br>   東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖入の娘、弥女《いやによ》が再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所《びようしよ》をつくったのにはじま る。この弥女は覚信尼《かくしんに》といい、この人の孫が第三世|覚如《かくによ》。親鸞の子|善鸞《ぜんらん》から、如信《によしん》となり、覚信尼の 孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と厩腿もあったわけだった・八世の飆嫉上人の時、伝道襲偈につとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまで のぼったのだ。十世|証如《しようによ》のころは戦国時代ではあり、一向一揆《いつこういつき》は諸国に勃発《ぼつばつ》し、十一世|顕如《けんによ》に 及んで、織田信長と天正《てんしよう》の石山合戦がある。<br>  石山本願寺は、現今《いま》の大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一 向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨《りんし》が下《くだ》って和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉《とよとみひ でよし》から現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地《じち》の寄附を得た。しかし、この時に傷畦の東西本願寺  本願寺派本山のお断と、真宗大谷派本 願寺のお職どが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門《けいもん》の示唆によって長 子が退けられたともいわれている。<br>  東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子 であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある 御連枝《これんし》(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこに ある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主i光尊、光瑩の両裏方を、お 互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、お宝《たから》娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。<br>   本願寺さんのお姫《ひい》さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身《ひとりみ》でと、案じて いるというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌《て》のなかの玉をさらわれ るふうに考えたものもなくはあるまい。<br>  なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人《わこうど》たちには住みにくい世界よ、熟 議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団 体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、簿子《かずこ》夫人について各地|遊説《ゆうぜい》に、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつま でおかわいいお姫《ひい》さまでいるであろうか。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛《あゆ》と権謀の周囲で、離れてはじめて貴《た つ》とさのわかるのは真《まこと》だけだ。<br>  一葉《いちよう》女史の「経《きよう》つくえ」は、作として他《ほか》のものより高く評価されていないが、わたしはあの「経つくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、ある<br> と おもう、明治年代の、淑《しと》やかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふく めているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすごはぬけ出てしまって雑誌『白樺《しらかば》』の武者小路《むしやのこうじ》氏の 愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて惜 しむ心はなかなかにあわれは深い。<br>  もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわ らず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱《しやくねつ》の恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤 《たいこう》秀吉の常の居間であったという、西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣《ひうんかく》から飛出されもしたであろうし、解決は早くも あったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、代《かわ》る女《もの》はなかったとの歎《たん》をもた れたのだから悲しい。<br>  も一度、<br>     かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。<br>  この歌は、嫁《とつ》がれてのち、夫君《つまぎみ》を待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。<br>   爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は経《た》ってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、勝《すぐ》 れた家の爵位を嗣《つ》ぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に飛出 してくるはずもない。ここまで来て籌子《かずこ》夫人から、天降《あまくだ》り案が提出されたのだから、捏《こ》ね廻してしまったものには具合がよかった と、ことが運んだわけだった。<br>  山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、<br>     重職会議へ極めて内々のお諮《はか》りがありました。御生家《ごせいか》の九条公爵の御分家たる良致《りようち》男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。<br>    籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁《いいなずけ》として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に  良致男爵は簿子夫人の弟君に当 られます。なお、夫人の妹君には九条家に紐子《きぬこ》姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿《あつまろ》様 (光明師)へ紐子姫が、御縁づきになりますことは、簿子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方《さんが た》とも御結婚になり、両家にとりてこの上のお睦《むつ》みはないのでした。<br>   簿子お裏方《うらかた》より直接のお諮《はか》りを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。<br>   なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのに拘《こだ》わるのも、それでは男爵に なれるようしますからとまでいって来たのを、すくなくも子爵でなくてはと拒絶したといわれているのを、わたし自身が頷《うなず》くために、引いてみたのだ が、良致氏は前から男爵ではなく、武子さんを娶《めと》る前になったのだった。<br>  良致氏はお気の毒な方《かた》で、やったり、とったりされた人だった。ずっと前に他家へゆかれ、それから一条家の令嬢の婿金《むこがね》として、養われていたが帰されてーやっぱりこれも例をひいた方がよいから、山中氏の前のつづきを拝借すると、<br>    ――かつて一条公爵家の御養子として、暫《しばら》く同家に生活していられました。それは、元来一条家よりの懇《ねんこ》ろなお望みがありまして、御結 縁《ごけちえん》になったのでした。しかし、家風《かふう》の上から、その後《のち》、男爵は再び九条家へ、お復《かえ》りになったのでした。(前掲一七 四頁)<br>  なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の蒐集《しゆうしゆう》に、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近 かな人々からも指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよぼず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者 の序に、初校《しよこう》を終る机のそばに、武子さんが、近く来《きた》りていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔《けいけん》な著であるので、信 頼して読ませて頂いたからだ。その行間からわたしは何を見たかー<br>  籌子《かずこ》夫人のこのお婿さん工作も、愛弟だったときけば頷《うなず》ける し、実家の嫂《あによめ》は東本願寺からきた人で、例の御連枝《これんし》と縁のある方《かた》であり、それらの張合もないとはいえまいが、良致氏は、簿 子夫人の手許《てもと》へ引きとられていたというものがあるから、武子さんとも顔を合せていなくてはならないのに、この書では、結婚の日が初対面と記され てある。この初対面という方に従ってゆくと、これはまた、あれほど大切にしたお姫《ひい》さんを、なんと手軽にあつかったものだかー<br> もとより何も かも、知りすぎる位にわかってる方が進めてゆくのだから、誰にも安心はあったであろうが、いやしくも人生の最大事業をおこなう男女当事者が初対面とはー無 智|蒙昧《もうまい》な親に、売られてゆく、あわれな娘ならば知らず、一万円持参で、あの才色絶美、京都では、本願寺からはなすのはいやだと騒がれた美女 《ひと》なのに――<br>  籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の指図《さしず》だった。<br>  も一度。<br>     緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや<br>     三夜荘《さんやそう》父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし<br> 緋の房の襖の向うは、彼女の胸の隠家《おくが》でなくてなんであろう。<br>   結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へーけれども、御婚儀の日が、初対面の日なのでし た。ll昨日《きのう》までの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほか、 更に御承知はないのでした。<br>                              (『九条武子夫人』より抄)<br> i七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。<br>   性格も趣味も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主《ほつ す》夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、<br>  「よろしいように」<br> と静かに答えるだけだったという。<br>   印度では光瑞《こうずい》法主一行の、随行員も多く賑《にぎ》わしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、いつ も姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。<br>  船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、<br>  「では失礼します。」<br>  「どうぞ。」<br>  水の如き夫妻だ。<br>   武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっち かが軽蔑《けいべつ》しているのだ。どっちかがすく《、、》んでいるのだ、でなければもつと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀儡 《かいらい》になったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してしまっ た。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。<br>  シベリア線で、籌子夫人と武子さんが帰朝ときまったとき、訣別《けつべつ》の宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立《しゆつたつ》のおりもプラットホームに石の如く立って、<br>  「ごきげんよう」<br> と、別れの言葉は、この一言だけだとある。<br>   良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなか隅《すみ》におけ ない、白粉《おしろい》を袖《そで》や胸にもつけてくる人だというし、またある人も、気さくなよいサラリーマンだといった。新婚のころは、特別に、そんな ムッとした人にならざるを得ぬことがあったものとおもえる。世間からは花の嫁御《よめご》をもらって、日本一の果報男《かほうおとこ》といわれたが、他人 ではわからないものが、その人にとってないとはいえまい。<br>  また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。<br>  三年たった。ここいらから武子さんが、麗《うる》わしい武子だけでなく、同情と、人気とその人のもつ才能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。<br>  空閨《くうけい》を守らせるとは怪《け》しからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持《そうじ》高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。<br>   この間《あいだ》も、斎藤茂吉《さいとうもきち》博士の随筆中に、武子夫人が生《いき》ていられたうちは書かなかったがと、ある田舎《いなか》へいった ら、砂にとった武子さんのはいせき物《ぶつ》を見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということを記《しる》されたが、そんなばかげた事もおこるほ ど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。<br> <br> 三<br> <br>  武子さんの第一歌集『金鈴《きんれい》』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、<br>     ゆふがすみ西の山の端《は》つつむ頃ひとりの吾《われ》は悲しかりけり<br>     見渡せば西も東も霞《かす》むなり君はかへらず又春や来《こ》し<br>   作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人が 急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、桎梏《しつこく》の枷《かせ》 をはめられて残された武子さんの感慨は無量であったろう。全く運命というものは変なものだ。<br>  しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えす るが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡同宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆくばかりなので、九条武子となっても、本願寺に起臥 《おきふし》して、昔にもまさって本願寺の大切な人であった。そして、思い出したように、お美しい方が空閨に泣くとは、.なぞと、時々書いたりいわれたり したが、武子さんの場合だけは、それが不自然ではなく、なんとなくそれで好いような気がしていた。語らざる了解があるように思われた。そうしているほう が、お互が気楽なのではないかと思えた。<br>  遺稿和歌集の『白孔雀《しろくじやく》』をとって見ると、<br>     百人《ももたり》のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足《た》る<br>     その一歩かく隔りの末をだに誰《たれ》かは知りてあゆみそめむそ<br>     この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く<br>     この胸に人の涙をうけよとやわれみつからがくるしみの壺<br>     おもひでの翼《つばさ》よしばしやすらひて語れひとときその春のこと<br>     影ならば消《け》ぬべしさはれうつそ身のうつつに見てしおもかげゆゑに<br>     引く力|拒《こば》むちからもつかれはてて芥《あくた》のごとく棄《す》てられにしか<br>     たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり<br>     たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《こういん》かこれ<br>     執着も煩悩《ぽんのう》もなき世ならばと晴れわたる空の星にこと問ふ<br>     空《むな》しけれ百人千人讃《ももたりちたりたた》へてもわがよしとおもふ日のあらざれば<br>     夢寐《むび》の間《ま》も忘れずと云《い》へどわするるに似たらずやとまた歎けりこころ<br>     むしろわれ思はれ人《びと》のなくもがなあまりに病めばかなしきものを<br>                      1滞洛手帖十四首の中からー<br>     ふるさとはうれし散りゆく一葉《ひとは》さへわが思ふことを知るかのやうに<br>     ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉《ひとは》のわかれ告げゆく<br>     叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの詮《せん》なきつかれ<br>     岐《わか》れ路《じ》を遠く去り来《き》つ正しともあやまれりとも知らぬ痴人《しれびと》<br>     夕されば今日もかなしき悔《くい》の色|昨日《きそ》よりさらに濃さのまされる<br>     水のごとつめたう流れしたがひつ理《ことわ》りのままにただに生きゆく<br> 震 災後|下落合《しもおちあい》に家を求めてからを知っている人が、武子さんの日常を、バサバサしたなつかしみのない、親分の女房みたいだと評し、わざとら しいしな《、、》をつくるが、電話の声と地声とはちがい、外から帰ると寛袍《どてら》にくつろぎ、廊下は走りがちに歩く、女中にきいてみたら、京都へゆく 汽車の中では、ずっと身じろぎもしないで、座ったままだというのにIiと、良致さんとの夫妻生活を、およそ男性のもとめるイットのないものとくさ《、、》 したが、わたしは胸が苦しかった。武子さんはもうそのころ自分の表而的な職分と、自分の心だけでいるときとの、けじめ《、、、》がはっきりついて、卑近な 無理解など、どうでもよいとの決心がついていたにちがいない。なぜなら、その人がいったようなただ、あざ《、、》けた女《ひと》に、こんな心の声があろう か、<br>     さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも<br>     ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり<br>     さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷《おおたに》の山<br>     まぼろしやかの清滝《きよたき》に手をひたし夏をたのしむふるさとの人<br>     やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも<br>   これはみんな、世にない人を思い出した歌ではない。ふるさとの人とは、誰をさしていったものだろう、そんなことは言っては悪いと叱られるかもしれない。だ が、それだからこそ人間ではないか、それだからわたしは武子さんが悲しく、そして忘れないのだ。ただ、わたしはいう、あの豪気な、大きい心の人が、なぜそ の苦しみとひたむきに戦わなかったか、この人間の苦しみこそ、宗祖|親鸞《しんらん》も戦って戦いぬいて、苦悩の中に救いを見出《みいだ》し大成したので はなかろうか、良致氏が外国で家庭生活をもっていたことが、かえって武子さんを小乗的《しようじようてき》にしてしまったのかもしれない、仏教のことばな んかつかっておかしいが、そんなふうにもおもえる。さし詰《せま》った苦しさというものは、勇気を与えるが、それも長く忍んでいると詠歎的になってしまう ものだ。<br>  『白孔雀』の巻末に、柳原|白蓮《びやくれん》さんが書いているから、すこし引いて見よう、<br>   百人《ももたり》のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足《た》る<br> 第一この歌に私はもう涙ぐんでしまった。あのたあ様は本当に深い深い胸の底に涙の壺を抱いていた人だった。<br> 私 が今の生活に馴《な》れるまでの問を、たあ様はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、「貴女《あなた》は幸福よ。」この一言によって私は考 えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私は 何といってあの方に感謝していいかわからない。人こそ知らね私には深い思いがあるからである。<br>   美しき裸形《らぎよう》の身にも心にも幾夜かさねしいつはりの衣《きぬ》<br> 「ね え、私だって、ああなのよ、こうなのよ、ねえ、よう。」甘えるように私の手をとつてゆすぶったりした。私は、「そんなら御勝手になさいまし、ただ、くしや くしゃ語ったって、私がどうにもして上げられるもんじゃなし。」とつんと突き放したものいいをすると、その時、ほっとためいきをつきながら「もういわない から、かんにんよ。」あの時の少女のような身のこなしが、今も目に浮かんで来てしようがない。<br> 1たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。<br> 私の友よ、友の霊よ、<br> 生命《いのち》があるのだーー<br> この歌の一つ一つが、<br> 貴女《あなた》の息から生れたものなのだ、<br> それぞれに<br>  人生の裏も底も、涙も知りつくしたはずの歌人、吉井勇《よしいいさむ》さんが『白孔雀』巻末に書いた感想<br> をひいてみると、<br>   ー今その手録された詠草を見ると、「薫染《くんぜん》」に収められた歌以外のものに、かえって真実味に富んだ、哀婉《あいえん》痛切なる佳作が多いような気がする。私は先ず手録された詠草の最初にあった、<br>     百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る<br>   の一首に、これまでの武子夫人の歌に見られなかったような情熱を覚えると同時に、かなり感激した心持でこの新しい歌集『白孔雀』の編輯《へんしゆう》に従うことが出来たのであった。<br>   この十一月初旬、この遺稿の整理をしに往《い》った別所温泉は、信濃路《しなのじ》は冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて、部屋の中にいても落葉の降る音が雨のように聴えた。<br>   が、手録の詠草を一首々々読んでゆくうちに、私の耳にはだんだんそんなもの音も聴こえなくなった。私は真実味の深い歌が見出される度《たび》ごとに、若うして世を去った麗人を傷《いた》むの情に堪《た》えなかったのである。<br>   死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすちの路<br> そういう死をうたった歌や、<br>   この胸に人の涙もうけよとやわれみつからが苦しみの壺<br> といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでに潤《うる》んだ。<br>   たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり<br>   たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《こういん》かこれ<br>   うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女《おみな》は<br>   そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし<br>   まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと<br>   しかはあれど思ひあまりて往《ゆ》きゆかばおのがゆくべき道あらむかな<br>   何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや<br>   酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ<br> こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢《はか》なさを思わずにはいられなかった。――『白孔雀』からー<br> 吉井さんにしても、燁子《あきこ》さんにしても、入世の桎梏《しつこく》の道を切開《きりひら》いて、血みどろになってこられたかたたちだ、その人の心眼に何がうつったか2 ただ、寂しい心情とのみはいいきれない<br> も のではなかったろうか。白蓮さんの感想には、書かれない文字や、行間に、言いたいものがいっぱいにある気がする。遠慮、遠慮、遠慮! 昔だったらわたしな ど、下《げげ》々ものがこんなことを言ったら、慮外《りよがい》ものと、ポンとやられてしまうのであろうが、みんなが武子さんを愛《いと》しむ愛しみかた がわたしにはものたらない。こんな、生きた人間を、なんだって小さな枠《わく》に入れてしまうのだろう。<br>  iいや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。<br>   こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな売 女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、勘定《かんじよう》が細かいのといった。わたしはそれに答えてはこういう。<br>   武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする媚態《びたい》があるというが、それは、多くのものに、よろ こばせたい優しみを、とる方がそうとりちがえたのではないか。算当《さんとう》が細かいというのは、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのた めに、責《せめ》をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろ う。『無憂華《むゆうげ》』の中の、「父に別れるまで」の一節に、<br>   ー今思うとこんなこともあった。そのころの道具|掛《がかり》の者が知らな かったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金《かね》の水指《みずさし》を稽古《けいこ》用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀 毛織《オランダモウル》の抱桶《だきおけ》であったことや、また幾千金にかえられた堆朱《ついしゆ》のくり盆に、接待|煎餅《せんべい》を盛って給仕《き ゆうじ》が運んでおったのもその頃であった。<br>  そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳《たた》んでいられたのだと思う。<br>   武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その切《せつ》ないなかに生きぬいて、自分の苦しん だのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋は空《む な》しいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか――<br>  おせっかいな世 間は、武子さんが完全な人となろう、としているときにーー外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空閨《くうけい》を 十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰る人にも悩みは多 かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたということだ。<br>  死ぬる日の 半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく頷《うな》ずいて別れた東の御連枝《ごれんし》だった。だが、今度 はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけない病《やまい》が急に重《おも》って、それとなく人々が別れを告げに集《あつ ま》るとき、その人も病院を訪れたというが、武子さんは逢《あ》わなかったのだった。お別れはもう先日ので済んでおりますと、伝えさせたという。<br>  私が、戯曲的に考えれば、生母の円明院《えんみよういん》お藤の方が、手首にかけた水晶の数珠《じゆず》を、武子さんが見て、<br>                                ○<br>  おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。<br>  といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かい情《もの》が籠《こも》っているかもしれないと、思うことだった。<br>  君にききし勝鬘経《しようまんぎよう》のものがたりことばことばに光りありしか<br>  君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし<br>  この日ごろくしき鏡をニツもてばまさやかに物をうつし合ふなり<br> 勝 鬘経は・印度紮衡王騨麒と・摩秕餐との間に生れて・欝獻国王に嫁した勝纂栽が仏教に帰依《きえ》した、その説示だという、最も大乗《だいじよう》の尊さを 説いたもので、わが聖徳太子も、推古《すいこ》女帝に講したまいし御経《おんきよう》ときいたが、君とは、父|法主《ほつす》でも、兄法主でもない人を指 している。<br>  築地《つきじ》別院に遺骸《いがい》が安置され、お葬儀の前に、名残《なご》りをおしむものに、芳貌《ほうぼう》をおがむことを許された。<br>   二月八日の宵《よい》だった。梅の花がしきりに匂《にお》っていた。わたしは心ばかりの香《こう》を焚《た》いて、「秋の夜」と署名した武子さんからの手 紙を出して、机上においた。そこへ、安成二郎《やすなりじろう》さんが訪れられて、どうしてお別れにいって来ないのかといわれた。蘭燈《ぼんぼり》にてら されて、長い廊下を歩いていって、静《しずか》な、清らかな美しいお顔を見ると、全くこの世の人ではない気がしたといわれた。そして、どうしてゆかないの かと、再び問われた。<br>  あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはお厭《いや》だろうと思うと、答えたわたしの胸には、ちょっと言いあらわせないものが走った。<br>  震災|前《ぜん》、あの別院が焼けない前に、ある目の日かげを踏んで、足|許《もと》にあつまる鳩《はと》を避《よ》けて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたもの<br> は、あんなに麗《うらら》かな面《おも》ばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦《ゆうく》といおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。<br>  その時、<br>  「燁《あき》さまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」<br> と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮《びやくれん》さんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。<br>  二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶《くもん》をかくしているなと、思った。<br>  震災に、なんにも持たずに逃《のが》れ出たが、一束《ひとたば》の手紙だけは1後に焼きすてたというが、iあの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。1そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが1<br>   武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこう いう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もつと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを話《はなし》ても、あの方の苦節に 疵《きず》はつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚《めざ》めてきた働きは出来ない。本願寺という組織に操《あやつ》られてでも、それを承知で、 自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方にまで 進んで、かなり一ぽいの努力だったと思う。<br>  そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに 面白い逸話がある。ある美術家のうちの床《とこ》の間《ま》に、ブロンズのドラ猫があった。埃《ほこ》りまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好き だったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれの置物を、かあいい、かあいいと撫《な》で廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が 話して、君が逢えばきっと猫をつくらせられてしまうよといったらば、いや決して僕は魅惑されないといっていたのが、いつか銀の猫をつくって、呈上してし まって、そういったものへは内密にしていた。だが、それが縁で、デスマスクはその人がつくったということだ。<br> <br> あなかしこ神にしあらぬ人の身の誰《たれ》をしも誰《た》が裁くといふや<br> ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は<br> をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること<br>                            1歌集『薫染《くんぜん》』よりi<br>   はつ春の夜《よ》を荒るる風に歯のいたみまたおそひ来ぬー<br>  この最後の一首は、磯辺《いそべ》病院で失《う》せられた枕《まくら》もとの、手帳に書きのこされてあったというが、末の句をなさず逝《ゆ》かれたのだった。<br>  「嵯峨《さが》の秋」という脚本のなかで、蓮月尼《れんげつに》には、こう言わせている。<br>   みめよい娘《こ》じやとて、ほんに女は仕合せともかぎりませんわいな。<br>   おお、そうですそ、おまえさんの正直な美しい恋のまことが、やがてきっと、大きな御手にみちびかれてゆきまする。<br>   昭和三年一月十六日より箘痛、発熱は暮よりあった。十七日、磯辺病院へ入院、気管支炎も扁桃腺《みてへんとうせん》炎も同復したが、歯を抜いたあとの出血 が止まらず、敗血症になって、人々の輸血も甲斐《かい》なく、二月七日朝絶息、重態のうちにも『歎異鈔《たんにしよう》』を読みて、<br>   有碍《うげ》の相《そう》かなしくもあるか何を求め何を失ひ歎《なげ》くかわれの<br>  この人に寿《ことほぎ》あって、今すこし生きぬいたらば、自分から脱皮し、因襲をかなぐりすてて、大きな体得を、苦悩の解脱《げだつ》を、現《あき》らかに語ったかもしれないだろうにi-<br>                              i昭和十年九月<br> <br>

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