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太宰治「津軽」一二三(新仮名)

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amizako

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だれでも歓迎! 編集
青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html



津軽
太宰治


【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)業《わざ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白髪|逓《たがい》




[#ページの左右中央]


[#ここから8字下げ]
津軽の雪
 こな雪
 つぶ雪
 わた雪
 みず雪
 かた雪
 ざらめ雪
 こおり雪
  (東奥年鑑より)
[#ここで字下げ終わり]


[#改丁]

[#大見出し]序編[#大見出し終わり]


 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かったのである。
 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原という町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるようだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、さわがしい町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらいの小さい町にも既に幽かに忍びいっている模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところでもあろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい。やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それは、わずか三、四時間の旅であった筈なのに、私にとっては非常な大旅行の感じで、その時の興奮を私は少し脚色して小説にも書いた事があって、その描写は必ずしも事実そのままではなく、かなしいお道化の虚構に満ちてはいるが、けれども、感じは、だいたいあんなものだったと思っている。すなわち、
「誰にも知られぬ、このような佗びしいおしゃれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あわれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツには蝶々の翅のような大きい襟がついていて、その襟を、夏の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見えるだろうと思っていたのです。久留米絣に、白っぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆえ、少年の身のまわり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシャツの襟を大きくしてもらって、嫂が笑うと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思うのでした。『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きていました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きていました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小粋な業《わざ》だと信じていました。どこから、そんなことを覚えたのでしょう。おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝った身なりであったわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年の言葉つきまで一変してしまっていたほどでした。かねて少年雑誌で習い覚えてあった東京弁を使いました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやっぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れていないのでした。」
 この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざっと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらいあったという。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依って青森県の誕生すると共に、県庁所在地となっていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到っては知らぬ人もあるまい。現在戸数は二万以上、人口十万を越えている様子であるが、旅人にとっては、あまり感じのいい町では無いようである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になってしまったのは致し方が無いとしても、旅人にとって、市の中心部はどこか、さっぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人に呼びかけようとはしないようである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年いた。そうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあったようである。その頃の私の生活に就いては、「思い出」という私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。
「いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんのさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。
 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである。
 それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したのである。
 私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷つけられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので職員室で評判である、とも言われた。私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。
 私と同じ町から来ている一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなに殴られてばかりいると落第するにちがいない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いていたら、鼠色のびっくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととおって行った。」
 この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園というのは、合浦《がっぽ》公園の事である。そうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言ってもいいほど、中学校と密着していた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩いた。謂わば裏路である。あまり生徒が歩いていない。私には、この裏路が、すがすがしく思われた。初夏の朝は、殊によかった。なおまた、私の世話になった呉服店というのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森市屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にされた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行ったが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまいりして、そうして必ず豊田家に宿泊させてもらうならわしである。
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰か見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。
 (中略)
 なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になってからは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席となることは困難であったが、私はそのような嘲りを受けなかった許りか、級友を手ならす術まで心得ていた。蛸というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった。教室の隅に紙屑入の大きな壺があって、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへはいらないかと言えば、蛸はその壺へ頭をいれて笑うのだ。笑い声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついていた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかった程なのである。
 私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまわしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買ってつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買いに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかって、と他人から頼まれたふうにして言わなければいけなかったのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥しかった。いっそ死んでやったらと思うことさえあった。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達していた。他家へとついでいた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言っていたそうである。私はせっせと薬をつけた。
 弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買いに行って呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願ったほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判って来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になっていた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出していたが、みんな気の弱々した文章であった。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしていて、私がなぐさめでもするとかえって不気嫌になった。また、自分の額の生えぎわが富士のかたちになって女みたいなのをいまいましがっていた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了うか、みんなさらけ出して了うか、どちらかであったのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである。ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢っても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい庭下駄をはいて、団扇をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。」
 この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行った。深い港の海に、雪がひそひそ降っているのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋って景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川というのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとって忘れがたい期間であったとも言えるであろう。青森に就いての思い出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思い出」という小説の中に次のような一節がある。
「秋になって、私はその都会から汽車で三十分くらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである。」
 いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言ってやりたいところでもあろうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言えない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでいて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであろうか。自分の故郷の温泉であるから、思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせに、どこか、すれているような、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊った事はないけれども、宿賃が、おやと思うほど高くなかったら幸いである。これは明らかに私の言いすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、そうして貧しい芸術家の小さい勘《かん》でものを言っているだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないほうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直しているに違いないと思われる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にいて浅墓の幻影に酔わせた事があるのではあるまいかという疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思い出の温泉地を汽車で通過しながら、敢えて下車しなかったというだけの話なのである。
 津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉という事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在って、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにおいが幽かに残っていた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行ったが、浅虫ほど鮮明な思い出は残っていない。けれども、浅虫のかずかずの思い出は、鮮やかであると同時に、その思い出のことごとくが必ずしも愉快とは言えないのに較べて、大鰐の思い出は霞んではいても懐しい。海と山の差異であろうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のように都会の残杯冷炙に宿酔してあれている感じがするであろうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まず、私にとってたのみの綱である。また、この温泉のすぐ近くに碇ヶ関というところがあって、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがってこの辺には史蹟も多く、昔の津軽人の生活が根強く残っているに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思われぬ。さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなお天守閣をそっくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇っている事である。この弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔いするなどの事はあるまいと私は思い込んでいたいのである。
 弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見たのが、この弘前城であるという。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたわれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到ってからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したという経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思い出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。
 私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。甚だ異様なものであった。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄って、さいしょは朝顔日記であったろうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまったけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とおり当時は覚え込んでいたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負わせようとは思わないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思っている。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。私も、いちど聞きに行ったが、まちの旦那たちが、ちゃんと裃《かみしも》を着て、真面目に義太夫を唸っている。いずれもあまり、上手ではなかったが、少しも気障《きざ》なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸っている。青森市にも昔から粋人が少くなかったようであるが、芸者たちから、兄さんうまいわね、と言われたいばかりの端唄の稽古、または、自分の粋人振りを政策やら商策やらの武器として用いている抜け目のない人さえあるらしく、つまらない芸事に何という事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強致しているこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるように思われる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残っているらしいのである。永慶軍記という古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随う事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わず。」という言葉が記されているそうだが、弘前の人には、そのような、ほんものの馬鹿意地があって、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑いになるという傾向があるようだ。私もまた、ここに三年いたおかげで、ひどく懐古的になって、義太夫に熱中してみたり、また、次のような浪曼性を発揮するような男になった。次の文章は、私の昔の小説の一節であって、やはりおどけた虚構には違いないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いては、まずこんなものであった、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。
「喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思いませんでした。粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行っているうちに、少年のお洒落の本能はまたもむっくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、きょうはめっぽう、きれえじゃねえか、などと言ってみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはいりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐手して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げるときゅっと鳴る博多の帯です。唐桟《とうざん》の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店《たな》ものだか、わけのわからぬ服装になってしまいました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかったのですが、ふと少年は妙なことを考えました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買い求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、とうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行ってお聞きになると、ひょっとしたらわかるかも知れません、といいこと教えられ、なるほど消防とは気がつかなかった。鳶の者と言えば、火消しのことで、いまで言えば消防だ、なるほど道理だ、と勢い附いて、その教えられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏《まとい》もあります。なんだか心細くなって、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答えて持って来たものは、紺の木綿の股引には、ちがい無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれていました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかったのです。」
 さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらいの馬鹿は少かったかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になった。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎《えのき》小路、とは言わなかったかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなってはっきりしないが、お宮の坂の下の、榎《えのき》小路、というところだったと覚えている。また、紺の股引を買いに汗だくで歩き廻ったところは、土手《どて》町という城下に於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないように思われる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれている。これも同様のように思われる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はっきりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などというのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のようなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。
 けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思っているのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限った町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にこう言って教えている。「自惚れちゃいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行ってみろ。あれくらいの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちゃいけないぜ。」
 歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言ってよいくらいにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしているのだろう。ひらき直って言うまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言ってもいいくらいのものなのだ。全国に誇り得るどのような歴史を有しているのか。近くは明治御維新の時だって、この藩からどのような勤皇家が出たか。藩の態度はどうであったか。露骨に言えば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかったか。どこにいったい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしている。そうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わぬのである。この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であったという話を聞いている。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすぐさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言うのがわかっていたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたというような話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このような伝説が起るのも無理がないと思われるほど、弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるようだ。何を隠そう、実は、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あって、そのためばかりでもなかろうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにいるのだ。数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
 汝を愛し、汝を憎む。
 だいぶ弘前の悪口を言ったが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。なんと言っても、私は津軽を愛しているのだから。
 弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれているそうだ。弘前師団の司令部がある。お山参詣と言って、毎年陰暦七月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながらこのまちを通過し、まちは殷賑を極める。旅行案内記には、まずざっとそのような事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当って、それだけでは、どうしても不服なのである。それゆえ、あれこれと年少の頃の記憶をたどり、何か一つ、弘前の面目を躍如たらしむるものを描写したかったのであるが、どれもこれも、たわい無い思い出ばかりで、うまくゆかず、とうとう自分にも思いがけなかったひどい悪口など出て来て、作者みずから途方に暮れるばかりである。私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだわりすぎているのだ。ここは私たち津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限った事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれているではないか。その桜花に包まれた天守閣が傍に控えているからとて、大鰐温泉が津軽の匂いを保守できるとは、きまっていないではないか。弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するなどの事はあるまい、とついさっき、ばかに調子づいて書いた筈だが、いろいろ考えて、考えつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎないような気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。いったいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪われている。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持って行かざるを得なかったところに、青森県の不幸があったとさえ私は思っている。私は決して青森市を特にきらっているわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けていながら、のほほん顔でいるのが歯がゆいのである。負けているものに、加勢したいのは自然の人情である。私は何とかして弘前市の肩を持ってやりたく、まったく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はついに出来なかった。重ねて言う。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感しているのであるが、それが何であるか、形にあらわして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。
 あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立しているものだとばかり思っていたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼《こもりぬ》」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思った。とは言っても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持っているから稀代の名城なのだ、といまになっては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、そうして白壁の天守閣が無言で立っているとしたら、その城は必ず天下の名城にちがいない。そうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失う事は無いであろうと、ちかごろの言葉で言えば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。思えば、おのれの肉親を語る事が至難な業であると同様に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けなしていいのか、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思い出を展開しながら、また、身のほど知らぬ冒涜の批評の蕪辞をつらねたが、果して私はこの六つの町を的確に語り得たか、どうか、それを考えると、おのずから憂鬱にならざるを得ない。罪万死に当るべき暴言を吐いているかも知れない。この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、かえって私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当って、私は決して適任者ではなかったという事を、いま、はっきり自覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語ろう。
 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、という序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依って、まったく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかったのである。小学校の頃、遠足に行ったり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあったが、それは現在の私に、なつかしい思い出として色濃く残ってはいないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラッパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかったし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでいたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行ったし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それっきり十年も故郷へ帰らなかったのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとって、なかなか重大の事件であったと言わざるを得ない。
 私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金《めっき》である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。
[#改丁]

[#大見出し]本編[#大見出し終わり]


[#5字下げ][#中見出し]一 巡礼[#中見出し終わり]

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で、」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障《きざ》になる。おい、おれは旅に出るよ。」
 私もいい加減にとしをとったせいか、自分の気持の説明などは、気障な事のように思われて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言いたくないのである。
 津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言われていたし、私も生きているうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のような姿で東京を出発した。
 五月中旬の事である。乞食のような、という形容は、多分に主観的の意味で使用したのであるが、しかし、客観的に言ったって、あまり立派な姿ではなかった。私には背広服が一着も無い。勤労奉仕の作業服があるだけである。それも仕立屋に特別に注文して作らせたものではなかった。有り合せの木綿の布切を、家の者が紺色に染めて、ジャンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでっち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服なのである。染めた直後は、布地の色もたしかに紺であった筈だが、一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になった。むらさきの洋装は、女でも、よほどの美人でなければ似合わない。私はそのむらさきの作業服に緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズックの靴をはいた。帽子は、スフのテニス帽。あの洒落者が、こんな姿で旅に出るのは、生れてはじめての事であった。けれども流石に背中のリュックサックには、母の形見を縫い直して仕立てた縫紋の一重羽織と大島の袷、それから仙台平の袴を忍ばせていた。いつ、どんな事があるかもわからない。
 十七時三十分上野発の急行列車に乗ったのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなって来た。私は、そのジャンパーみたいなものの下に、薄いシャツを二枚着ているだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来ている人さえ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでいる。私にも、この寒さは意外であった。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いている気早やな人もあったのである。私は、東北の寒さを失念していた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言い聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となった。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎えに来ていた。私が前もって手紙で知らせて置いたのである。
「和服でおいでになると思っていました。」
「そんな時代じゃありません。」私は努めて冗談めかしてそう言った。
 T君は、女のお子さんを連れて来ていた。ああ、このお子さんにお土産を持って来ればよかったと、その時すぐに思った。
「とにかく、私の家へちょっとお寄りになってお休みになったら?」
「ありがとう。きょうおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行こうと思っているんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになっているようです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、という私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこって、そうして鉄瓶には一本お銚子がいれられていた。
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまって私にお辞儀をして、「ビールのほうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が。」私は低く咳ばらいした。
 T君は昔、私の家にいた事がある。おもに鶏舎の世話をしていた。私と同じとしだったので、仲良く遊んだ。「女中たちを呶鳴り散らすところが、あれの悪いような善いようなところだ。」とその頃、祖母がT君を批評して言ったのを私は聞いて覚えている。のちT君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり信頼されていた様子である。先年出征して、南方の孤島で戦い、病気になって昨年帰還し、病気をなおしてまた以前の病院につとめているのである。
「戦地で一ばん、うれしかった事は何かね。」
「それは、」T君は言下に答えた。「戦地で配給のビールをコップに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しずつ吸い込んで、途中でコップを唇から離して一息つこうと思ったのですが、どうしてもコップが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」
 T君もお酒の好きな人であった。けれども、いまは、少しも飲まない。そうして時々、軽く咳をしている。
「どうだね、からだのほうは。」T君はずっと以前に一度、肋膜を病んだ事があって、こんどそれが戦地で再発したのである。
「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
「さすがに人間ができて来たようだね。じっさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔って来たので、おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまえば、なおるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
「ええ、まあ、ほどよくやっています。」と言って、笑った。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないようであった。
「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなって。」
「いや、ありがとう。」私は傍のお膳をぼんやり眺めながら、「おいしそうなものばかりじゃないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」
 こんど津軽へ出掛けるに当って、心にきめた事が一つあった。それは、食い物に淡泊なれ、という事であった。私は別に聖者でもなし、こんな事を言うのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食い物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせいか、武士は食わねど高楊枝などという、ちょっとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思いながらも愛しているのである。何もことさらに楊枝まで使ってみせなくてもよさそうに思われるのだが、そこが男の意地である。男の意地というものは、とかく滑稽な形であらわれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行って、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴え、そうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従たらたら、何かもっと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でしょう、ついでに少し家へ持って帰りたいのですけれども、わけていただけませんでしょうかしら、などと満面に卑屈の笑いを浮べて歎願する人がたまにあるとかいう噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けている筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。或いは胃拡張なのかも知れないが、とにかく食べ物の哀訴歎願は、みっともない。お国のため、などと開き直った事は言わずとも、いつの世だって、人間としての誇りは持ち堪えていたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行って、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴えるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑して取扱うようになったという噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似ているが、私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない! と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切ってやりたいくらいの決意をひめて津軽へ来たのだ。もし、誰か私に向って、さあさ、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいって話じゃありませんか、としんからの好意を以て言ってくれても、私は軽く一ぱいだけ食べて、そうしてこう言おうと思っていた。「なれたせいか、東京のごはんのほうがおいしい。副食物だって、ちょうど無くなったと思った頃に、ちゃんと配給があります。いつのまにやら胃腑が撤収して小さくなっているので、少したべると満腹します。よくしたもんですよ。」
 けれども私のそんなひねくれた用心は、まったく無駄であった。私は津軽のあちこちの知合いの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんですよ、腹の破れるほど食い溜めなさいなどと言ってくれた人は無かった。殊にも、私の生家の八十八歳の祖母などに至っては、「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思っても困ってしまうな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとんと無いてば。」と面目なさそうに言うので、私は実に幸福な気がした。謂わば私は、食べ物などの事にはあまり敏感でないおっとりした人たちとばかり逢ったのである。私は自分の幸運を神に感謝した。あれも持って行け、これも持って行け、と私に食料品のお土産をしつこく押しつけた人も無かった。おかげで私は軽いリュックサックを背負って気楽に旅をつづける事が出来たのであるが、けれども帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私よりもさきに一ぱいとどいていたので呆然とした。それは余談だが、とにかく、T君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかったし、東京の食べ物はどんな工合であるかなどという事は、一ぺんも話題にのぼらなかった、おもな話題は、やはり、むかし二人が金木の家で一緒に遊んだ頃の思い出であった。
「僕は、しかし君を、親友だと思っているんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみったらしく気障《きざ》ったらしい芝居気たっぷりの、思い上った言葉である。私は言ってしまって身悶えした。他に言いかたが無いものか。
「それは、かえって愉快じゃないんです。」T君も敏感に察したようである。「私は金木のあなたの家に仕えた者です。そうして、あなたは御主人です。そう思っていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経っていますけれども、いまでもしょっちゅう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまった! と思って、はっと夢から醒める事があります。」
 バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじみ出て来た。合浦公園の桜は、いま、満開だという話であった。青森市の街路は白っぽく乾いて、いや、酔眼に映った出鱈目な印象を述べる事は慎しもう。青森市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になった豊田のお父さんのお墓におまいりして、バスの発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言えたのでもあろうが、私も流石にとしをとって少しは遠慮という事を覚えて来たせいか、それとも、いや、気持のややこしい説明はよそう。つまり、お互い、大人《おとな》になったのであろう。大人《おとな》というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙って歩いていた。突然、T君のほうから言い出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢いましょう。」
「病院のほうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、そうか。早く言えばいいのに。」
 私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残っていた。

[#5字下げ][#中見出し]二 蟹田[#中見出し終わり]

 津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だったところである。青森市からバスに乗って、この東海岸を北上すると、後潟《うしろがた》、蓬田《よもぎた》、蟹田、平館《たいらだて》、一本木、今別《いまべつ》、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩《みまや》に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛《たっぴ》の部落にたどりつく。文字どおり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いっさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。そうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言ってもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えている様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであろう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になっている。竹内運平という弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であったとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用いたそうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知った事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、そうして私の中学時代の唯一の友人のN君がいるという事だけしか知らなかったのである。私がこんど津軽を行脚するに当って、N君のところへも立寄ってごやくかいになりたく、前もってN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまい下さるな。あなたは、知らん振りをしていて下さい。お出迎えなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」というような事を書いてやった筈で、食べものには淡泊なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しゃこ、何の養分にもならないような食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かった筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到って、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちゃった。
 蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた。
「リンゴ酒でなくちゃいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言いにくそうにして言うのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまっているのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人《おとな》」の私は知っているので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のように、リンゴ酒が割合い豊富だという噂を聞いていたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 N君は、ほっとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きじゃないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂いのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、こう手紙にも書いているのに相違ないから、リンゴ酒を出しましょうと言うのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらいになった筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしているのに違いないと言ったんだ。」
「でも、奥さんの言も当っていない事はないんだ。」
「何を言ってる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのほうがいい。」私も少し図々しくなって来た。
「僕もそのほうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまわないから、すぐ持って来てくれ。」
[#ここから2字下げ]
何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪|逓《たがい》に相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時|一盞《いっさん》無くんば、何を以てか平生を叙せん。  (白居易)
[#ここで字下げ終わり]
 私は、中学時代には、よその家へ遊びに行った事は絶無であったが、どういうわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行った。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿していた。私たちは毎朝、誘ひ合って一緒に登校した。そうして、帰りには裏路の、海岸伝いにぶらぶら歩いて、雨が降っても、あわてて走ったりなどはせず、全身濡れ鼠になっても平気で、ゆっくり歩いた。いま思えば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたようなところのある子であった。そこが二人の友情の鍵かも知れなかった。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持って近くの山へ遊びに行った。「思い出」という私の初期の小説の中に出て来る「友人」というのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたようである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であったが、しかし、私たちはほとんど毎日のように逢って遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかった。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりいたようである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しずつ暗い卑屈な男になって行ったが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になって行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思うより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服していた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちょいちょい遊びに来て、そうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなって帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になっている模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であった。芭蕉翁の行脚掟として世に伝えられているものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、という一箇条があったようであるが、あの、論語の酒無量不及乱という言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞いをするな、という意味に私は解しているので、敢えて翁の教えに従おうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思われる。よその家でごちそうになって、そうして乱に及ぶなどという、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なおまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出ずれば居眠りして労を養うべし、という条項もあったようであるが、私はこの掟にも従わなかった。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑いたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらえて歩いている。俳諸の聴講生に取りまかれている講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、そうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であろうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらえるための旅ではなし、N君だってまさか私から、文学の講義を聞こうと思って酒席をもうけたわけじゃあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだって、私がN君の昔からの親友であるという理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしているというような実情なのだから、私が開き直って、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しこうして、雑談いずれば床柱を背にして狸寝入りをするというのは、あまりおだやかな仕草ではないように思われる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかった。東京の言葉さえ使わなかった。かえって気障なくらいに努力して、純粋の津軽弁で話をした。そうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違いないと思われるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治というのは、私の生れた時からの戸籍名であって、また、オズカスというのは叔父糟という漢字でもあてはめたらいいのであろうか、三男坊や四男坊をいやしめて言う時に、この地方ではその言葉を使うのである。)こんどの旅に依って、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私に無いわけではなかったのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなものであったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。そうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうというのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思い上った批評はゆるされない。それこそ、失礼きわまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見しているのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしていなかったつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものを囁かれる事が実にしばしばあったのである。私はそれを信じた。私の発見というのは、そのように、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおっしゃったとか、私はそれには、ほとんど何もこだわるところが無かったのである。それは当然の事で、私などには、それにこだわる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かった。「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた。
 慎しもうと思いながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言っているのか、わからない場合が多い。嘘を言っている事さえある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまずい虚飾を行っているようで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知っていながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言い出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさえ起させてしまうのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
 その夜は、しかし、私はそのような下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいているようだったけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでいるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がっているのに違いないとお思いになった様子で、ご自分でせっせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかという、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがったばかりの蟹なのであろう。もぎたての果実のように新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれという自戒を平気で破って、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさえ、そのお膳の料理の豊潤に驚いていたくらいであった。顔役のお客さんたちが帰ってしまうと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキというのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあった場合、お客が皆かえった後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であって、或いは「後引《あとひ》き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂いは無かったが、
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
 僕に酒を教えたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、そうなのである。
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だって、ずいぶんその事に就いては考えているんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかったよ。でもね、このごろは、こう考え直そうと努めているんだ。あいつは、僕が教えなくたって、ひとりで、酒飲みになった奴に違いない。僕の知った事ではないと。」
「ああ、そうなんだ。そのとおりなんだ。君に責任なんかありゃしないよ。全く、そのとおりなんだ。」
 やがて奥さんも加り、お互いの子供の事など語り合って、しんみり、アトフキをやっているうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。
 翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どおり、朝の一番のバスでやって来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がいてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来ていた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしているSさんという人も一緒に来ていた。私が顔を洗っている間に、三厩の近くの今別から、Mさんという小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いていたらしく、はにかんで笑いながらやって来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のようである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行こうという相談が、まとまった様子である。
 観瀾山《かんらんざん》。私はれいのむらさきのジャンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのようなものものしい身支度をする必要は全然なかった。その山は、蟹田の町はずれにあって、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかった。その日は、まぶしいくらいの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言えば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感ぜられ、磯の香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似ている。深さなどに就いては、国防上、言わぬほうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲っている。そうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられていて、蟹をはじめ、イカ、カレヒ、サバ、イワシ、鱈、アンカウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだじゃあ、アンカウにアオバだじゃあ、スズキにホッケだじゃあ、と怒っているような大声で叫んで、売り歩いているのである。そうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱わないようである。よそへ送ってしまうのかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べているわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたった一日でも漁の無かった時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしている。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれているところのようである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫っているので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾しているところも少くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでいる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰《かげ》の意)と呼んで、多少、あわれんでいる傾向が無いわけでもないように思われる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持っているのだ。西部の人たちに、あわれまれていると知ったら、蟹田の人たちは、くすぐったく思うだろう。蟹田地方には、蟹田川という水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れていて、その流域に田畑が広く展開しているのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないようであるが、しかし、西部の人たちが想像しているほど、土地が痩せてはいないのである。観瀾山から見下すと、水量たっぷりの蟹田川が長蛇の如くうねって、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払って控えていて、ゆたかな、たのもしい景観をなしている。山は奥羽山脈の支脈の梵珠《ぼんじゅ》山脈である。この山脈は津軽半島の根元《ねもと》から起ってまっすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走って海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらいの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまっすぐ西に青く聳えている大倉岳は、この山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらいのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハッキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢えてその山脈の低きを恥じる必要もあるまい。この山脈は、全国有数の扁柏《ひば》の産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかじゃないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、それから明治二十年代に到ってフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教わって、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはいってからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言えばすぐに林檎を思い出し、そうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないように見受けられる。青森県という名もそこから起ったのではないかと思われるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合って冬もなお青く繁っている。昔から、日本三大森林地の一つとして数えられているようであって、昭和四年版の日本地理風俗大系にも、「そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なおその鬱蒼をつづけ、そうしてわが国の模範林制と呼ばれている。はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行い、もって潮風を防ぎ、またもって岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲い、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいわゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依って耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到った。それより、藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到っても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐える特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもって重宝がられ、年産額八十万石。」と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらいになっていると思われる。けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であって、これを以って特別に蟹田地方だけの自慢となす事は出来ないが、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁った山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出ていて、そうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質でしかも安価なので知られている。」という説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山毛欅《ぶな》、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られているのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。このように蟹田町は、田あり畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓腹撃壌の別天地のように読者には思われるだろうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言ったって、蟹田の人たちはまさか私を殴りゃしないだろうと思われる。蟹田の人たちは温和である。温和というのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとっては心細い。天然の恵みが多いという事は、町勢にとって、かえって悪い事ではあるまいかと思わせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかえっている。河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したような形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それっきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちゃなどを植えている。観瀾山から、それが全部見えるというわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるように思われる。町政の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがいるんじゃないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言った。つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しゃばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの馬鹿らしい結果に終った。それに就いて、すぐ思い出される話はドガの失敗談である。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐していた高邁の政治談をこの大政治家に向って開陳した。「私が、もし、宰相となったならば、ですね、その責任の重大を思い、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲うと共に、服も靴もぬがずに、そのままベッドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立って、立ったまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかえて役所へ行くという工合の生活をするに違いない!」と情熱をこめて語ったのであるが、クレマンソオは一言も答えず、ただ、なんだか全く呆れはてたような軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであったという。ドガ氏も、その眼つきには参ったらしい。よっぽど恥かしかったと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経ってから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだったらしいヴァレリイ氏にだけ、こっそり打ち明けたのである。十五年というひどく永い年月、ひた隠しに隠していたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたえたものがあったのであろうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本である。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語っているほうが、どうやら無難のようである。
 その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田ってのは、風の町だね。」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしていたものだが、きょうの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑うかのような、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いている。爛漫という形容は、当っていない。花弁も薄くすきとおるようで、心細く、いかにも雪に洗われて咲いたという感じである。違った種類の桜かも知れないと思わせる程である。ノヴァリスの青い花も、こんな花を空想して言ったのではあるまいかと思わせるほど、幽かな花だ。私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて坐って、重箱をひろげた。これは、やはり、N君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシャコが、大きい竹の籠に一ぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シャコの皮をむき、蟹の脚をしゃぶり、重箱のお料理にも箸をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの胴にヤリイカの透明な卵をぎゆうぎゆうつめ込んで、そのままお醤油の附焼きにして輪切りにしてあったのが、私にはひどくおいしかった。帰還兵のT君は、暑い暑いと言って上衣を脱ぎ半裸体になって立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭いで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちょっとビルマのバーモオ長官に似ていた。その日、集った人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しずつ相違があったようであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいような素振りを見せた。私は問われただけの事は、ハッキリ答えた。「問に答えざるはよろしからず。」というれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがったわけであるが、しかし、他のもっと重大な箇条には見事にそむいてしまった。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やっちゃった。芭蕉だって、他門の俳諸の悪口は、チクチク言ったに違いないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどというあさましい事はしなかったであろう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振舞いをしてしまったのである。日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問われて、私は、そんなによくはない、とつい、うっかり答えてしまったのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういうわけか、畏敬に近いくらいの感情で東京の読書人にも迎えられている様子で、神様、という妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになるというへんな風潮さえ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引きだおしと言うもので、その作家は大いに迷惑して苦笑しているのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従う事は出来なかった。そうして、このごろに到って、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思ったが、格別、趣味の高尚は感じなかった。かえって、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思ったくらいであった。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取った一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないほうがよいと思われるくらいで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かえって、それにはまってしまっているようなミミッチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けているらしい箇所も、意外なほどたくさんあったが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きているので読者は素直に笑えない。貴族的、という幼い批評を耳にした事もあったが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたおしである。貴族というものは、だらしないくらい闊達なものではないかと思われる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑って矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪いとり、自分でそれをひょいとかぶって、フランス万歳、と叫んだ。血に飢えたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思わず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このような無邪気なつくろわぬ気品があるものだ。口をひきしめて襟元をかき合せてすましているのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あわれな言葉を使っちゃいけない。
 その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、とうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破って、そのような悪口を言い、言いはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になって、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまった。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかった。「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言ってはいません。」と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのようにして言った。酔漢の放言に閉口し切っているというようなふうに見えた。他の人たちも、互いに顔を見合せてにやにや笑っている。
「要するに、」私の声は悲鳴に似ていた。ああ、先輩作家の悪口は言うものでない。「男振りにだまされちゃいかんという事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だったんだ。」いよいよ脱線するばかりである。
「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはっきり宣言する。
「日本じゃ、あの人の作品など、いいほうなんでしょう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言う。
 私の立場は、いけなくなるばかりだ。
「そりゃ、いいほうかも知れない。まあ、いいほうだろう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか。」私は笑いながら本音《ほんね》を吐いた。
 みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、
「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いているんだ。その大望が重すぎて、よろめいているのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだろうが、しかし僕は本当の気品というものを知っている。松葉の形の干菓子《ひがし》を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたって、僕はちっともそれを上品だとは思わない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちゃ駄目なもんだ。それが本当の上品というものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支えられたカーネーションをコップに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思っていやがる。」
 暴言であった。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似ている。じっさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与え、薄汚い馬鹿者として遠ざけられているのである。「まあ、仕様が無いや。」と私は、うしろに両手をついて仰向き、「僕の作品なんか、まったく、ひどいんだからな。何を言ったって、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらいは、僕の仕事をみとめてくれてもいいじゃないか。君たちは、僕の仕事をさっぱりみとめてくれないから、僕だって、あらぬ事を口走りたくなって来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」
 みんな、ひどく笑った。笑われて、私も、気持がたすかった。蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、
「どうです。この辺で、席を変えませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるような口調で言った。蟹田町で一ばん大きいEという旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるという。いいのか、と私はT君に眼でたずねた。
「いいんです。ごちそうになりましょう。」T君は立ち上って上衣を着ながら、「僕たちが前から計画していたのです。Sさんが配給の上等酒をとって置いたそうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きましょう。Nさんのごちそうにばかりなっていては、いけません。」
 私はT君の言う事におとなしく従った。だから、T君が傍についていてくれると、心強いのである。
 Eという旅館は、なかなか綺麗だった。部屋の床の間も、ちゃんとしていたし、便所も清潔だった。ひとりでやって来て泊っても、わびしくない宿だと思った。いったいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎えした伝統のあらわれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になっていたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎していたのである。旅館のお膳にも蟹が附いていた。
「やっぱり、蟹田だなあ。」と誰か言った。
 T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔うに従ってSさんは、上機嫌になって来た。
「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家ってやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思っているんです。名前も、文男と附けました。文《ぶん》の男《おとこ》と書きます。頭の恰好が、どうも、あなたに似ているようです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開いているような形なのです。」
 私の頭が、鉢が開いているとは初耳であった。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉しているつもりであったが、頭の形までへんだとは気がつかなかった。自分で気の附かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言った直後でもあったし、ひどく不安になって来た。Sさんは、いよいよ上機嫌で、
「どうです。お酒もそろそろ無くなったようですし、これから私の家へみんなでいらっしゃいませんか。ね。ちょっとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢ってやって下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかったが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くN君の家へ引上げて、一寝入りしたかった。Sさんのお家へ行って、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるような結果になるのではあるまいかと思えばなおさら気が重かった。私は、れいに依ってT君の顔色を伺った。T君が行けと言えば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟していた。T君は、真面目な顔をしてちょっと考え、
「行っておやりになったら? Sさんは、きょうは珍らしくひどく酔っているようですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待っていたのです。」
 私は行く事にした。頭の鉢にこだわる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおっしゃったのに違いないと思い直した。どうも、容貌に自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けているものは「自信」かも知れない。
 Sさんのお家へ行って、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさえ少しめんくらった。Sさんは、お家へはいるなり、たてつづけに奥さんに用事を言いつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買って来い。待て。その縁側にかけてある干鱈《ひだら》をむしって、待て、それは金槌《かなづち》でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合いに、こんな工合いに、あ、痛え、まあ、こんな工合いだ。おい、醤油を持って来い。干鱈には醤油をつけなくちゃ駄目だ。コップが一つ、いや二つ足りない。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買って来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらうんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいているというんでしょう。あなたの頭の形に似ていると思うんですがね。しめたものです。おい、坊やをあっちへ連れて行け。うるさくてかなわない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬じゃないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまうじゃないか。待て、お前はここにいてサアヴィスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのおばさんに頼んで買って来てもらえ。おばさんは、砂糖をほしがっていたから少しわけてやれ。待て、おばさんにやっちゃいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちゃいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆはへて差し上げろ。子供を泣かせちゃ、いかん。失敬じゃないか。成金趣味だぞ。貴族ってのはそんなものじゃないんだ。待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだってば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シューベルト、ショパン、バッハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バッハか。やめろ。うるさくてかなわん。話も何も出来やしない。もっと静かなレコードを掛けろ、待て、食うものが無くなった。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来ている。果してお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」
 私は決して誇張法を用みて描写しているのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈《ひだら》というのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびそうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあって、Sさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひったくって、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這ふようにして皆にリンゴ酒を注いで廻り、頭の鉢の一件も、決してSさんは私をからかうつもりで言ったのではなく、また、ユウモアのつもりで言ったのでもなかったのだという事が私にはっきりわかって来た。Sさんは、鉢のひらいた頭というものを、真剣に尊敬しているらしいのである。いいものだと思っているらしいのである。津軽人の愚直可憐、見るべしである。そうして、ついには、卵味噌、卵味噌と連呼するに到ったのであるが、この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少しく説明が要るように思われる。津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキという工合に呼ぶのである。貝焼《かいやき》の訛りであろうと思われる。いまはそうでもないようだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用いていた。貝殻から幾分ダシが出ると盲信しているところも無いわけではないようであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなかろうかと思われる。私たちは皆、このカヤキを食べて育ったのである。卵味噌のカヤキというのは、その貝の鍋を使い、味噌に鰹節をけずって入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。病気になって食がすすまなくなった時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがいなかった。Sさんは、それを思いつき、私に食べさせようとして連呼しているのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むように頼んでSさんの家を辞去した。読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋《きっすい》の津軽人のそれである。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言う事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、そうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割ったりなどした経験さえ私にはある。食事中に珍客があらわれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かえってお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどという芸当は私には出来ないのである。そうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかいをして、そうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になって、かえって後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどという事になるのである。ちぎっては投げ、むしっては投げ、取って投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかえって無礼な暴力的なもののように思われ、ついには敬遠という事になるのではあるまいか、と私はSさんに依って私自身の宿命を知らされたような気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもったいぶって、チョッピリずつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸《ひらたけ》ではないけれど、私も木曾殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆえに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給え、かい給えや。」とぞ責めたりける、である。
 後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずには居られなかったという。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情に依って、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう。」といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さくなって酒を飲み、そこへ一友人がたずねて行って、
「どう? あれから奥さんに叱られたでしょう?」と笑いながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答えたという。
 叱られるつもりでいるらしい。

[#5字下げ][#中見出し]三 外ヶ浜[#中見出し終わり]

 Sさんの家を辞去してN君の家へ引上げ、N君と私は、さらにまたビールを飲み、その夜はT君も引きとめられてN君の家へ泊る事になった。三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、T君は翌朝早々、私たちのまだ眠っているうちにバスで青森へ帰った。勤めがいそがしい様子である。
「咳をしていたね。」T君が起きて身支度をしながらコンコンと軽い咳をしていたのを、私は眠っていながらも耳ざとく聞いてへんに悲しかったので、起きるとすぐにN君にそう言った。N君も起きてズボンをはきながら、
「うん、咳をしていた。」と厳粛な顔をして言った。酒飲みというものは、酒を飲んでいない時にはひどく厳粛な顔をしているものである。いや、顔ばかりではないかも知れない。心も、きびしくなっているものである。「あまり、いい咳じゃなかったね。」N君も、さすがに、眠っているようではあっても、ちゃんとそれを聞き取っていたのである。
「気で押すさ。」とN君は突き放すような口調で言って、ズボンのバンドをしめ上げ、「僕たちだって、なおしたんじゃないか。」
 N君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘って来たのである。N君はひどい喘息だったが、いまはそれを完全に克服してしまった様子である。
 この旅行に出る前に、満洲の兵隊たちのために発行されている或る雑誌に短篇小説を一つ送る事を約束していて、その締切がきょうあすに迫っていたので、私はその日一日と、それから翌る日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。N君も、その間、別棟の精米工場で働いていた。二日目の夕刻、N君は私の仕事をしている部屋へやって来て、
「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のほうは、もう一時間経ったら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやってしまった。あとでまた遊ぼうと思うと気持に張合いが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言って、すぐ工場のほうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやって来て、
「書けたかね。僕のほうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだろう。汚い工場だよ。見ないほうがいいかも知れない。まあ、精を出そう。僕は工場のほうにいるからね。」と言って帰って行くのである。鈍感な私も、やっと、その時、気がついた。N君は私に、工場で働いている彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違いない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、という謎であったのだ。私はそれに気が附いて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になっている精米工場に出かけた。N君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目まぐるしく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまわし、仔細らしい顔をして立っていた。
「さかんだね。」と私は大声で言った。
 N君は振りかえり、それは嬉しそうに笑って、
「仕事は、すんだか。よかったな。僕のほうも、もうすぐなんだ。はいり給え。下駄のままでいい。」と言うのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはいるほど無神経な男ではない。N君だって、清潔な藁草履とはきかえている。そこらを見廻しても、上草履のようなものも無かったし、私は、工場の門口に立って、ただ、にやにや、笑っていた。裸足《はだし》になってはいろうかとも思ったが、それはN君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似ているようにも思われて、裸足にもなれなかった。私には、常識的な善事を行うに当って、甚だてれる悪癖がある。
「ずいぶん大がかりな機械じゃないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。」お世辞では無かった。N君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかったのである。
「いや、簡単なものなんだ。このスイッチをこうすると、」などと言いながら、あちこちのスイッチをひねって、モーターをぴたりと止めて見せたり、また籾殻の吹雪を現出させて見せたり、出来上りの米を瀑布のようにざっと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつって見せるのである。
 ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちょこんと載っていて、そうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」という説明の文句が印刷されてあった。私は、そのポスターを永い事、見つめていたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑った。私もにやりと笑った。同罪の士である。「どうもねえ。」という感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張って置くN君を、いじらしく思った。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載っているという按配なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言うべきところであろう。
 工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでいる。あれは何? とN君に聞いたら、N君は幽かな溜息をついて、
「あれは、なあ、縄を作る機械と、筵《むしろ》を作る機械なんだが、なかなか操作がむずかしくて、どうも僕の手には負えないんだ。四、五年前、この辺一帯ひどい不作で、精米の依頼もばったり無くなって、いや、困ってねえ、毎日毎日、炉傍に坐って煙草をふかして、いろいろ考えた末、こんな機械を買って、この工場の隅で、ばったんばったんやってみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。淋しいもんだったよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食いさ。あの頃は、もう、どうなる事かと思ったね。」
 N君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あずかっているのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさったので、N君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がっているのだ。奥さんの言に依れば、N君は可愛がりすぎる傾きさえあるそうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはいっているのだそうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言って玄関の戸を叩き、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言ってものも言えず、そうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろと、矢継早に用事を言いつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでしょうから、と言いかけたら、「な、なにい!」と言って頗る大袈裟に奥さんに向ってこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷっと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑い出し、奥さんも笑って、何が何やら、うやむやになったという事などもあったそうで、それもまた、N君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。
「七転び八起きだね。いろんな事がある。」と言って私は、自分の身の上とも思い合せ、ふっと涙ぐましくなった。この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばったんばったん筵を織っている侘しい姿が、ありありと眼前に見えるような気がして来た。私は、この友人を愛している。
 その夜はまた、お互い一仕事すんだのだから、などと言いわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合った。N君は青森県郷土史研究会の会員だったので、郷土史の文献をかなり持っていた。
「何せ、こんなだからなあ。」と言ってN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のような、津軽凶作の年表とでもいうべき不吉な一覧表が載っていた。
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元和一年    大凶
元和二年    大凶
寛永十七年   大凶
寛永十八年   大凶
寛永十九年    凶
明暦二年     凶
寛文六年     凶
寛文十一年    凶
延宝二年     凶
延宝三年     凶
延宝七年     凶
天和一年    大凶
貞享一年     凶
元禄五年    大凶
元禄七年    大凶
元禄八年    大凶
元禄九年     凶
元禄十五年   半凶
宝永二年     凶
宝永三年     凶
宝永四年    大凶
享保一年     凶
享保五年     凶
元文二年     凶
元文五年     凶
延享二年    大凶
延享四年     凶
寛延二年    大凶
宝暦五年    大凶
明和四年     凶
安永五年    半凶
天明二年    大凶
天明三年    大凶
天明六年    大凶
天明七年    半凶
寛政一年     凶
寛政五年     凶
寛政十一年    凶
文化十年     凶
天保三年    半凶
天保四年    大凶
天保六年    大凶
天保七年    大凶
天保八年     凶
天保九年    大凶
天保十年     凶
慶応二年     凶
明治二年     凶
明治六年     凶
明治二十二年   凶
明治二十四年   凶
明治三十年    凶
明治三十五年  大凶
明治三十八年  大凶
大正二年     凶
昭和六年     凶
昭和九年     凶
昭和十年     凶
昭和十五年   半凶
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 津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだろう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があったのである。まず五年に一度ずつ凶作に見舞われているという勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用いたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月|佞武多《ねぶた》(作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このような大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なお信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車《だし》と思わば大過なからん歟。)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」という、あわれと言うより他には全く言いようのない有様が記されてあって、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ(津軽では、凶作の事をケガヅと言う。飢渇《きかつ》の訛りかも知れない。)の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になって泣きべそをかいてしまったものだが、久し振りで故郷に帰り、このような記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さえ感ぜられて、
「これは、いかん。」と言った。「科学の世の中とか何とか偉そうな事を言ってたって、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教えてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしているのだ。冷害に堪えるように品種が改良されてもいるし、植附けの時期にも工夫が加えられて、今では、昔のように徹底した不作など無くなったけれども、でも、それでも、やっぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしった。
 N君は笑って、
「沙漠の中で生きている人もあるんだからね。怒ったって仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だって言われているじゃないか。」
 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はっていないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違いないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるように努力するより他には仕方がないようだ。いたずらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇っているほうがいいのかも知れない。しかも津軽だって、いつまでも昔のように酸鼻の地獄絵を繰り返しているわけではない。その翌日、私はN君に案内してもらって、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行ったのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索莫たる各部落でさえ、烈風に抗し、怒濤に屈せず、懸命に一家を支え、津軽人の健在を可憐に誇示していたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到っては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払った生活を展開して見せてくれていたのである。ああ、いたずらにケガヅの影におびえる事なかれである。以下は佐藤弘という理学士の快文章であるが、私のこの書の読者の憂鬱を消すために、なおまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちょっと借用して見よう。佐藤理学士の奥州産業総説に曰く、「撃てば則ち草に匿れ、追えば即ち山に入った蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害している奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさえぎられて発達しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたという奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わずかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されているその奥州は、さて、六百三十万の人口を養うに、今日いかなる産業に拠っているであろうか。
 どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いずれも粗樸、とある。古来からの茅葺、柾葺、杉皮葺は、とにかくとして、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被って、もんぺいをはき、中流以下悉く粗食に甘んじている、という。真偽や如何。それほど奥州の地は、産業に恵まれていないのであろうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達していないのであろうか。否、それは既に過去の奥州であって、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与え、而して、いまや見よ、開発また開拓、膏田沃野の刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむく事を。まして況んや、住民の分布薄疎にして、将来の発展の余裕、また大いにこの地にありというに於いてをや。
 むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよい歩くが如く、膨脹時代にあった大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或いは山に猟し、或いは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよい歩いた。かくして数代経過し、ここに人々は、思い思いの地に定著して、或いは秋田、荘内、津軽の平野に米を植え、或いは北奥の山地に殖林を試み、或いは平原に馬を飼い、或いは海辺の漁業に専心して以て今日に於ける隆盛なる産業の基礎を作ったのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかにせず、益々これが発達の途を講じ、渡り鳥は永遠にさまよえども、素朴なる東北の民は最早や動かず、米を作って林檎を売り、鬱蒼たる美林につづく緑の大平原には毛並輝く見事な若駒を走らせ、出漁の船は躍る銀鱗を満載して港にはいるのである。」
 まことに有難い祝辞で、思わず駈け寄ってお礼の握手でもしたくなるくらいのものだ。さて私はその翌日、N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まず問題は酒であった。
「お酒は、どうします? リュックサックに、ビールの二、三本も入れて置きましょうか?」と、奥さんに言われて、私は、まったく、冷汗三斗の思いであった。なぜ、酒飲みなどという不面目な種族の男に生れて来たか、と思った。
「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言いながらリュックサックを背負い、逃げるが如く家を出て、後からやって来たN君に、
「いや、どうも。酒、と聞くとひやっとするよ。針の筵《むしろ》だ。」と実感をそのまま言った。N君も同じ思いと見えて、顔を赤くし、うふふと笑い、
「僕もね、ひとりじゃ我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しずつ集めて置くって言っていたから、今別にちょっと立寄ろうじゃないか。」
 私は複雑な溜息をついて、
「みんなに苦労をかけるわい。」と言った。
 はじめは蟹田から船でまっすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスという計画であったのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といっていいくらいの天候で、乗って行く筈の定期船は欠航になってしまったので、予定をかえて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、空《す》いていて、二人とも楽に腰かける事が出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなかろうかと思われた。とにかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るようだったら、お酒をもらってすぐ今別の港から船に乗ろうという事にした。往きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらない事のように思われた。N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいているのだから、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであろう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の栖家《すみか》の面影は少しも見受けられず、お天気のよくなって来たせいか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。寛政年間に出版せられた京の名医橘南谿の東遊記には、「天地《あめつち》ひらけしよりこのかた今の時ほど太平なる事はあらじ、西は鬼界屋玖の嶋より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざるもなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のように聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりしと見えて南部、津軽辺の地名には変名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタッピ、ホロヅキ、内マッペ、外マッペ、イマベツ、ウテツなどいう所有り。是皆蝦夷詞なり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といいて、いやしむるなり。余思うにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくいいなし居る事とぞ思わる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもっともの事なり。」と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日この坦々たるコンクリート道路をバスに乗せて通らせたならば、呆然たるさまにて首をひねり、或いは、こぞの雪いまいずこなどという嘆を発するかも知れない。南谿の東遊記西遊記は江戸時代の名著の一つに数えられているようであるが、その凡例にも、「予が漫遊もと医学の為なれば医事にかかれることは雑談といえども別に記録して同志の人にも示す。只此書は旅中見聞せる事を筆のついでにしるせるものにして、強て其事の虚実を正さず、誤りしるせる事も多かるべし。」とみずから告白している如く、読者の好奇心を刺戟すれば足るというような荒唐無稽に似た記事も少しとしないと言ってよい。他の地方の事は言わず、例をこの外ヶ浜近辺に就いての記事だけに限って言っても、「奥州三馬屋(作者註。三厩の古称。)は、松前渡海の津にて、津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたえかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かわり恙なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音という。又波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給いし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」と、何の疑いもさしはさまずに記してあるし、また、「奥州津軽の外ヶ浜に平館という所あり。此所の北にあたり巌石海に突出たる所あり、是を石崎の鼻という。其所を越えて暫く行けば朱谷《しゅだに》あり。山々高く聳えたる間より細き谷川流れ出て海に落る。此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、ぬれたる石の朝日に映ずるいろ誠に花やかにして目さむる心地す。其落る所の海の小石までも多く朱色なり。北辺の海中の魚皆赤しと云。谷にある所の朱の気によりて、海中の魚、或は石までも朱色なること無情有情ともに是に感ずる事ふしぎなり。」と言ってすましているかと思うと、また、おきなと称する怪魚が北海に住んでいて、「其大きさ二里三里にも及べるにや、ついに其魚の全身を見たる人はなし。稀れに海上に浮たるを見るに大なる島いくつも出来たるごとくなり、是おきなの背中尾鰭などの少しずつ見ゆるなりとぞ。二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑むがごとくなるゆえ、此魚来れば鯨東西に逃走るなり。」などと言っておどかしたり、また、「此三馬屋に逗留せし頃、一夜、此家の近きあたりの老人来りぬれば、家内の祖父祖母《じじばば》など打集り、囲炉裏にまといして四方山の物語せしに彼者共語りしは、扨も此二三十年以前松前の津波程おそろしかりしことはあらず、其頃風も静に雨も遠かりしが、只何となく空の気色打くもりたるようなりしに、夜々折々光り物して東西に虚空を飛行するものあり、漸々に甚敷、其四五日前に到れば白昼にもいろいろの神々虚空を飛行し給う。衣冠にて馬上に見ゆるもあり、或は竜に乗り雲に乗り、或は犀象のたぐひに打乗り、白き装束なるもあり、赤き青き色々の出立にて、其姿も亦大なるもあり小きもあり、異類異形の仏神空中にみちみちて東西に飛行し玉う。我々も皆外へ出て毎日々々いと有難くをがみたり。不思議なる事にてまのあたり拝み奉ることよと四五日が程もいいくらすうちに、ある夕暮、沖の方を見やりたるに、真白にして雪の山の如きもの遥に見ゆ。あれ見よ、又ふしぎなるものの海中に出来たれといううちに、だんだんに近く寄り来りて、近く見えし嶋山の上を打越して来るを見るに大浪の打来るなり。すは津波こそ、はや逃げよ、と老若男女われさきにと逃迷いしかど、しばしが間に打寄て、民屋田畑草木禽獣まで少しも残らず海底のみくずと成れば、生残る人民、海辺の村里には一人もなし、扨こそ初に神々の雲中を飛行し給いけるは此大変ある事をしろしめして此地を逃去り給いしなるべしといい合て恐れ侍りぬと語りぬ。」などという、もったいないような、また夢のような事も、平易の文章でさらさらと書き記されているのである。現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり具体的に書かぬほうがよいと思われるし、荒唐無稽とは言っても、せめて古人の旅行記など書き写し、そのお伽噺みたいな雰囲気にひたってみるのも一興と思われて、実は、東遊記の二三の記事をここに抜書きしたというわけでもあったのだが、ついでにもう一つ、小説の好きな人には殊にも面白く感ぜられるのではあるまいかと思われる記事があるから紹介しよう。
「奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやと頻りに吟味せし事あり。いかなるゆえぞと尋ぬるに、津軽の岩城山《いわきやま》の神はなはだ丹後の人を忌嫌う、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽領はなはだ難儀に及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いいならわしにて忌嫌うのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌う。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいう事ぞと委敷尋ね問うに、当国岩城山の神と云うは、安寿姫《あんじゅひめ》出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよいて、三庄《さんしょう》太夫にくるしめられしゆえ、今に至り、其国の人といえば忌嫌いて風雨を起し岩城の神荒れ玉ふとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願う。然るに、差当りたる天気にさわりあることなれば、一国こぞって丹後の人を忌嫌う事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多くは丹後人を忌みて送り出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。」
 へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめに遭わなければならなかったわけである。安寿姫と厨子王《ずしおう》の話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされているし、また鴎外の傑作「山椒大夫」の事は、小説の好きな人なら誰でも知っている。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、そうして死後岩木山に祭られているという事は、あまり知られていないようであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思っているのである。義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでいるとか、石の色が溶けて川の水も魚の鱗も赤いとかということを、平気で書いている南谿氏の事だから、これも或いはれいの「強いて其事の虚実を正さず」式の無責任な記事かも知れない。もっとも、この安寿厨子王津軽人説は、和漢三才図会の岩城山権現《いわきさんごんげん》の条にも出ている。三才図会は漢文で少し読みにくいが、「相伝う、昔、当国(津軽)の領主、岩城判官正氏という者あり。永保元年の冬、在京中、讒者の為に西海に謫せらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよい、出羽を過ぎ、越後に到り直江の浦云々。」などと自信ありげに書き出しているが、おしまいのほうに到って、「岩城と津軽の岩城山とは南北百余里を隔て之を祭るはいぶかし。」とおのずから語るに落ちるような工合になってしまっている。鴎外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いている。つまりこれは、岩城という字を、「いわき」と読んだり「いわしろ」と読んだりして、ごちゃまぜになって、とうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になったのではないかと思われる。しかし、昔の津軽の人たちは、安寿厨子王が津軽の子供である事を堅く信じ、にっくき山椒大夫を呪うあまりに、丹後の人が入込めば津軽の天候が悪化するとまで思いつめていたとは、私たち安寿厨子王の同情者にとっては、痛快でない事もないのである。
 外ヶ浜の昔噺は、これ位にしてやめて、さて、私たちのバスはお昼頃、Mさんのいる今別に着いた。今別は前にも言ったように、明るく、近代的とさえ言いたいくらいの港町である。人口も、四千に近いようである。N君に案内されて、Mさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守です、とおっしゃる。ちょっとお元気が無いように見受けられた。よその家庭のこのような様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんじゃないかな? と思ってしまう癖がある。当っている事もあるし、当っていない事もある。作家や新聞記者等の出現は、善良の家庭に、とかく不安の感を起させ易いものである。その事は、作家にとっても、かなりの苦痛になっている筈である。この苦痛を体験した事のない作家は、馬鹿である。
「どちらへ、いらっしゃったのですか?」とN君はのんびりしている。リュックサックをおろして、「とにかく、ちょっと休ませていただきます。」玄関の式台に腰をおろした。
「呼んでまいります。」
「はあ、すみませんですな。」N君は泰然たるものである。「病院のほうですか?」
「え、そうかと思います。」美しく内気そうな奥さんは、小さい声で言って下駄をつっかけ外へ出て行った。Mさんは、今別の或る病院に勤めているのである。
 私もN君と並んで式台に腰をおろし、Mさんを待った。
「よく、打合せて置いたのかね。」
「うん、まあね。」N君は、落ちついて煙草をふかしている。
「あいにく昼飯時で、いけなかったね。」私は何かと気をもんでいた。
「いや、僕たちもお弁当を持って来たんだから。」と言って澄ましている。西郷隆盛もかくやと思われるくらいであった。
 Mさんが来た。はにかんで笑いながら、
「さ、どうぞ。」と言う。
「いや、そうしても居られないんです。」とN君は腰をあげて、「船が出るようだったら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思っているのです。」
「そう。」Mさんは軽く首肯き、「じゃあ、出るかどうか、ちょっと聞いて来ます。」
 Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行ってくれたのだが、船はやはり欠航という事であった。
「仕方が無い。」たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、「それじゃ、ここでちょっと休ませてもらって弁当を食べるか。」
「うん、ここで腰かけたままでいい。」私はいやらしく遠慮した。
「あがりませんか。」Mさんは気弱そうに言う。
「あがらしてもらおうじゃないか。」N君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆっくり、次の旅程を考えましょう。」
 私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があって、炭火がパチパチ言っておこっていた。書棚には本がぎっしりつまっていて、ヴァレリイ全集や鏡花全集も揃えられてあった。「礼儀文華のいまだ開けざるはもっともの事なり。」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到って或いは失神するかも知れない。
「お酒は、あります。」上品なMさんは、かえってご自分のほうで顔を赤くしてそう言った。「飲みましょう。」
「いやいや、ここで飲んでは、」と言いかけて、N君は、うふふと笑ってごまかした。
「それは大丈夫。」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取って置いてありますから。」
「ほほ、」とN君は、はしゃいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、きょうのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも、」などと言っているうちに、奥さんが黙ってお銚子を持って来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのでは無いかも知れない、と私は自分に都合のいいように考え直し、
「それじゃ酔わない程度に、少し飲もうか。」とN君に向って提案した。
「飲んだら酔うよ。」N君は先輩顔で言って、「きょうは、これあ、三厩泊りかな?」
「それがいいでしょう。きょうは今別でゆっくり遊んで、三厩までだったら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔ってたって楽に行けます。」とMさんもすすめる。きょうは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。
 私には、この部屋へはいった時から、こだわっていたものが一つあった。それは私が蟹田でつい悪口を言ってしまったあの五十年配の作家の随筆集が、Mさんの机の上にきちんと置かれている事であった。愛読者というものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家を罵倒しても、この作家に対するMさんの信頼はいささかも動揺しなかったものと見える。
「ちょっと、その本を貸して。」どうも気になって落ちつかないので、とうとう私は、Mさんからその本を借りて、いい加減にぱっと開いて、その箇所を鵜の目鷹の目で読みはじめた。何かアラを拾って凱歌を挙げたかったのであるが、私の読んだ箇所は、その作家も特別に緊張して書いたところらしく、さすがに打ち込むすきが無いのである。私は、黙って読んだ。一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、とうとう五ページ読んで、それから、本を投げ出した。
「いま読んだところは、少しよかった。しかし、他の作品には悪いところもある。」と私は負け惜しみを言った。
 Mさんは、うれしそうにしていた。
「装釘が豪華だからなあ。」と私は小さい声で、さらに負け惜しみを言った。「こんな上等の紙に、こんな大きな活字で印刷されたら、たいていの文章は、立派に見えるよ。」
 Mさんは相手にせず、ただ黙って笑っている。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかったのである。いい文章を読んで、ほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。
 今別には本覚寺という有名なお寺がある。貞伝和尚という偉い坊主が、ここの住職だったので知られているのである。貞伝和尚の事は、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなわち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、専称寺に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となって、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た。」というような事が記されてある。そのお寺を、これから一つ見に行こうじゃないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言い出した。
「文学談もいいが、どうも、君の文学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経っても有名にならん。貞伝和尚なんかはね、」とN君は、かなり酔っていた。「貞伝和尚なんかはね、仏の教えを説くのは後まわしにして、まず民衆の生活の福利増進を図ってやった。そうでもなくちゃ、民衆なんか、仏の教えも何も聞きゃしないんだ。貞伝和尚は、或いは産業を興し、或いは、」と言いかけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行って見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちゃ恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。そう言いながら、実は、僕もまだ見ていないんだ。いい機会だから、きょうは見に行きたい。みんなで一緒に見に行こうじゃないか。」
 私は、ここで飲みながらMさんと、所謂ヘンテコなところのある文学談をしていたかった。Mさんも、そうらしかった。けれども、N君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、とうとう私たちの重い尻を上げさせてしまった。
「それじゃ、その本覚寺に立寄って、それからまっすぐに三厩まで歩いて行ってしまおう。」私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き附けながら、「どうです、あなたも。」と、Mさんを誘った。
「はあ、三厩までお供させていただきます。」
「そいつあ有難い。この勢いじゃ、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんじゃないかと思って、実は、憂鬱だったんです。あなたが附合ってくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」
「はあ。」とだけ言って、微笑する。少しは慣れた様子であった。いや、あきらめたのかも知れない。
 私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらって、大陽気で出発した。そうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言い、頗るうるさかったのである。お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢った。曳いているリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれている。私は二尺くらいの鯛を見つけて、
「その鯛は、いくらです。」まるっきり見当が、つかなかった。
「一円七十銭です。」安いものだと思った。
 私は、つい、買ってしまった。けれども、買ってしまってから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。
「つまらんものを買ったねえ。」とN君は、口をゆがめて私を軽蔑した。「そんなものを買ってどうするの?」
「いや、三厩の宿へ行って、これを一枚のままで塩焼きにしてもらって、大きいお皿に載せて三人でつつこうと思ってね。」
「どうも、君は、ヘンテコな事を考える。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。」
「でも、一円七十銭で、ちょっと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いじゃないか。」
「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買い物をした。」
「そうかねえ。」私は、しょげた。
 とうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはいってしまった。
「どうしましょう。」と私は小声でMさんに相談した。「弱りました。」
「そうですね。」Mさんは真面目な顔して考えて、「お寺へ行って新聞紙か何かもらって来ましょう。ちょっと、ここで待っていて下さい。」
 Mさんはお寺の庫裏のほうに行き、やがて新聞紙と紐を持って来て、問題の鯛を包んで私のリュックサックにいれてくれた。私は、ほっとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかった。
「たいしたお寺でもないじゃないか。」と私は小声でN君に言った。
「いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはいって坊さんの説明でも聞きましょう。」
 私は気が重かった。しぶしぶN君の後について行ったが、それから、実にひどいめに逢った。お寺の坊さんはお留守のようで、五十年配のおかみさんらしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまった。私たちは、きちんと膝を折って、かしこまって拝聴していなければならぬのである。説明がちょっと一区切っいて、やれうれしやと立上ろうとすると、N君は膝をすすめて、
「しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、」と言うのである。「いったい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになったものなのでしょうか。」
「何をおっしゃっているのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさったのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、——」と、またもや長い説明が続く。
「そうでしたかな。」とN君は、きょとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言った。まったく滅茶苦茶である。
 N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、ついにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらいのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなって来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなって来た。
「あそこにありまする大きな見事な額《がく》は、その大野九郎兵衛様のお書きになった額でございます。」
「さようでございますか。」とN君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、——」
「ご存じでございましょう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言ったようである。「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになったのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたそうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、——」
 Mさんはこの時とうとう立ち上り、おかみさんの前に行って、内ポケットから白紙に包んだものを差出し、黙って丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向って、
「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言った。
「はあ、いや、帰りましょう。」とN君は鷹揚に言い、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言って、ようやく立ち上ったのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶していないという。私たちは呆れて、
「あんなに情熱的にいろんな質問を発していたじゃないか。」と言うと、
「いや、すべて、うわのそらだった。何せ、ひどく酔ってたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだろうと思って、がまんして、あのおかみの話相手になってやっていたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。
 三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけていた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらい上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでいる。
「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆっくり飲もう。」私はリュックサックから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持って来て下さい。」
 この女中さんは、あまり悧巧でないような顔をしていて、ただ、はあ、とだけ言って、ぼんやりその包を受取って部屋から出て行った。
「わかりましたか。」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであろう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言って、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。」N君の説明も、あまり上手とは言えなかった。女中さんは、やっぱり、はあ、と頼りないような返辞をしただけであった。
 やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしています、お酒はきょうは無いそうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧そうでない女中さんが言う。
「仕方が無い。持参の酒を飲もう。」
「そういう事になるね。」とN君は気早く、水筒を引寄せ、「すみませんがお銚子を二本と盃を三つばかり。」
 ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言っているうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいというN君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になっていたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載っているのである。私は決して、たべものにこだわっているのではない。食いたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者は、わかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらって、そうしてそれを大皿に載せて眺めたかったのである。食う食わないは主要な問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、癪にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。
「つまらねえ事をしてくれた。」お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな(それはもう鯛では無い、単なる、やきざかなだ)を眺めて、私は、泣きたく思った。せめて、刺身にでもしてもらったのなら、まだ、あきらめもつくと思った。頭や骨はどうしたろう。大きい見事な頭だったのに、捨てちゃったのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かえって、さかなに鈍感になって、料理法も何も知りゃしない。
「怒るなよ、おいしいぜ。」人格円満のN君は、平気でそのやきざかなに箸をつけて、そう言った。
「そうかね。それじゃ、君がひとりで全部たべたらいい。食えよ。僕は、食わん。こんなもの、馬鹿々々しくって食えるか。だいたい、君が悪いんだ。ことさらに三等分の必要は無い、なんて、そんな蟹田町会の予算総会で使うような気取った言葉で註釈を加えるから、あの間抜けの女中が、まごついてしまったんだ。君が悪いんだ。僕は、君を、うらむよ。」
 N君はのんきに、うふふと笑い、
「しかし、また、愉快じゃないか。三つに切ったりなどしないように、と言ったら、五つに切った。しゃれている。しゃれているよ、ここの人は。さあ、乾盃。乾盃、乾盃。」
 私は、わけのわからぬ乾盃を強いられ、鯛の鬱憤のせいか、ひどく酩酊して、あやうく乱に及びそうになったので、ひとりでさっさと寝てしまった。いま思い出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。
 翌る朝、起きたら、まだ雨が降っていた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、きょうも船は欠航らしいという事であった。竜飛まで海岸伝いに歩いて行くより他は無い。雨のはれ次第、思い切って、すぐ出発しようという事になり、私たちは、また蒲団にもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待った。
「姉と妹とがあってね、」私は、ふいとそんなお伽噺をはじめた。姉と妹が、母親から同じ分量の松毬《まつかさ》を与えられ、これでもって、ごはんとおみおつけを作って見よと言いつけられ、ケチで用心深い妹は、松毬を大事にして一個ずつ竈《かまど》にほうり込んで燃やし、おみおつけどころか、ごはんさえ満足に煮ることが出来なかった。姉はおっとりして、こだわらぬ性格だったので、与えられた松毬をいちどにどっと惜しげも無く竈にくべたところが、その火で楽にごはんが出来、そうして、あとに燠《おき》が残ったので、その燠でおみおつけも出来た。「そんな話、知ってる? ね、飲もうよ。竜飛へ持って行くんだって、ゆうべ、もう一つの水筒のお酒、残して置いたろう? あれ、飲もうよ。ケチケチしてたって仕様が無いよ。こだわらずに、いちどにどっとやろうじゃないか。そうすると、あとに燠が残るかも知れない。いや、残らなくてもいい。竜飛へ行ったら、また、何とかなるさ。何も竜飛でお酒を飲まなくたって、いいじゃないか。死ぬわけじゃあるまいし。お酒を飲まずに寝て、静かに、来しかた行く末を考えるのも、わるくないものだよ。」
「わかった、わかった。」N君は、がばと起きて、「万事、姉娘式で行こう。いちどにどっと、やってしまおう。」
 私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶にお燗をして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまった。
 お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身仕度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向って発足した。
「登って見ようか。」N君は、義経寺《ぎけいじ》の石の鳥居の前で立ちどまった。松前の何某という鳥居の寄進者の名が、その鳥居の柱に刻み込まれていた。
「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。石段の両側の樹々の梢から雨のしずくが落ちて来る。
「これか。」
 石段を登り切った小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立っている。堂の扉には、笹竜胆《ささりんどう》の源家の紋が附いている。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、
「これか。」と、また言った。
「これだ。」N君は間抜けた声で答えた。
 むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたえかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かわり恙なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音という。
 れいの「東遊記」で紹介せられているのは、この寺である。
 私たちは無言で石段を降りた。
「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだろう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいう話だ。」N君はそう言って、力無く笑った。私は信じたいと思ったが、駄目であった。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給いし所となり。是によりて此地を三馬屋《みまや》と称するなりとぞ。」
 私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのような伝説は、奇妙に恥ずかしいものである。
「これは、きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろついていたのかも知れない。」
「しかし、弁慶の役は、つまらなかったろうね。」N君は私よりも更に鬚が濃いので、或いは弁慶の役を押しつけられるのではなかろうかという不安を感じたらしかった。「七つ道具という重いものを背負って歩かなくちゃいけないのだから、やくかいだ。」
 話しているうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかったもののように空想せられ、うらやましくさえなって来た。
「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言った。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふっと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざっぱりして、気品があった。手足が荒れていない感じなのである。
「そうかね。そう言えば、そうだね。」N君ほど、女にあっさりしている人も少い。ただ、もっぱら、酒である。
「まさか、いま、義経だと言って名乗ったって、信じないだろうしね。」私は馬鹿な事を空想してみた。
 はじめは、そんなたわいない事を言い合って、ぶらぶら歩いていたのだが、だんだん二人の歩調が早くなって来た。まるで二人で足早《あしばや》を競っているみたいな形になって、そうして、めっきり無口になった。三厩の酒の酔いが醒めて来たのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛な顔になって、せっせと歩いた。浜風が次第に勁くなって来た。私は帽子を幾度も吹き飛ばされそうになって、その度毎に、帽子の鍔をぐっと下にひっぱり、とうとうスフの帽子の鍔の附根が、びりりと破れてしまった。雨が時々、ぱらぱら降る。真黒い雲が低く空を覆っている。波のうねりも大きくなって来て、海岸伝いの細い路を歩いている私たちの頬にしぶきがかかる。
「これでも、道がずいぶんよくなったのだよ。六、七年前は、こうではなかった。波のひくのを待って素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあったのだからね。」
「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」
「そう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」
 私たちは真面目な顔をしてそんな事を言い、尚もせっせと歩いた。
「疲れないか。」N君は振返って言った。「案外、健脚だね。」
「うん、未だ老いずだ。」
 二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなって来た。凄愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景でなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。強いて、点景人物を置こうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジャンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかえされてしまう。絵にも歌にもなりゃしない。ただ岩石と、水である。ゴンチャロフであったか、大洋を航海して時化《しけ》に遭った時、老練の船長が、「まあちょっと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでしょう。あなたがた文学者は、きっとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与えて下さるに違いない。」ゴンチャロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」
 大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思い浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらいで竜飛に着くという頃に、私は幽かに笑い、
「こりゃどうも、やっぱりお酒を残して置いたほうがよかったね。竜飛の宿に、お酒があるとは思えないし、どうもこう寒くてはね。」と思ばず愚痴をこぼした。
「いや、僕もいまその事を考えていたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合いの家があるんだが、ひょっとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」
「当ってみてくれ。」
「うん、やっぱり酒が無くちゃいけない。」
 竜飛の一つ手前の部落に、その知合いの家があった。N君は帽子を脱いでその家へはいり、しばらくして、笑いを噛み殺しているような顔をして出て来て、
「悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらって来た。五合以上はある。」
「燠《おき》が残っていたわけだ。行こう。」
 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛に向って突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。
「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはいってしまった、と思ってひやりとしたからね。」とN君も言っていた。
 けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。露路をとおって私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、そうして普請も決して薄っぺらでない。まず、どてらに着換えて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やっと、どうやら、人心地を取かえした。
「ええと、お酒はありますか。」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答えは、案外であった。
「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。そう答えて、平然としている。N君は苦笑して、
「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」
「どうぞ、ナンボでも。」と言って微笑んでいる。
 私たちは顔を見合せた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になっているという事実を、知らないのではなかろうかとさえ疑われた。
「きょう配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言って、集めるような手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかえるように腕をひろげて、「さっき内の者が、こんなに一ぱい持ってまいりました。」
「それくらいあれば、たくさんだ。」と私は、やっと安心して、「この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんどうくさい、六本、すぐに持って来て下さい。」お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたほうがいいと思った。「お膳は、あとでもいいから。」
 お婆さんは、言われたとおりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持って来た。一、二本、飲んでいるうちにお膳も出た。
「どうぞ、まあ、ごゆっくり。」
「ありがとう。」
 六本のお酒が、またたく間に無くなった。
「もう無くなった。」私は驚いた。「ばかに早いね。早すぎるよ。」
「そんなに飲んだかね。」とN君も、いぶかしそうな顔をして、からのお銚子を一本ずつ振って見て、「無い。何せ寒かったもので、無我夢中で飲んだらしいね。」
「どのお銚子にも、こぼれるくらい一ぱいお酒がはいっていたんだぜ。こんなに早く飲んでしまって、もう六本なんて言ったら、お婆さんは僕たちを化物じゃないかと思って警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言われてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少し間《ま》をもたせて、それから、もう六本ばかりと言ったほうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かそうじゃないか。」と、へんな策略を案出したのが失敗の基であった。
 私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆっくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔って来た。
「こりゃいかん。今夜は僕は酔うかも知れない。」酔うかも知れないじゃない。既にひどく酔ってしまった様子である。「こりゃ、いかん。今夜は、僕は酔うぞ。いいか。酔ってもいいか。」
「かまわないとも。僕も今夜は酔うつもりだ。ま、ゆっくりやろう。」
「歌を一つやらかそうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだろう。めったにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌いたい。ね、君、歌ってもいいだろう。」
「仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。
 いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶって低く吟じはじめた。想像していたほどは、ひどくない。黙って聞いていると、身にしみるものがあった。
「どう? へんかね。」
「いや、ちょっと、ほろりとした。」
「それじゃ、もう一つ。」
 こんどは、ひどかった。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になったのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。
 とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまったほどであった。
「ひどいなあ。」と言ったら、
「ひどいか。それじゃ、やり直し。」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違って歌ったり、また、どういうわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おらぶが如く、実にまずい事になってしまった。私は、奥のお婆さんに聞えなければいいが、とはらはらしていたのだが、果せる哉、襖がすっとあいて、お婆さんが出て来て、
「さ、歌コも出たようだし、そろそろ、お休みになりせえ。」と言って、お膳をさげ、さっさと蒲団をひいてしまった。さすがに、N君の気宇広大の蛮声には、度胆を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲もうと思っていたのに、実に、馬鹿らしい事になってしまった。
「まずかった。歌は、まずかった。一つか二つでよせばよかったのだ。あれじゃあ、誰だっておどろくよ。」と私は、ぶつぶつ不平を言いながら、泣寝入りの形であった。
 翌る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もおさまり、部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路で手毬歌を歌っているのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。
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せッせッせ
夏もちかづく
八十八夜
野にも山にも
新緑の
風に藤波
さわぐ時
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 私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思い込まれて軽蔑されている本州の北端で、このような美しい発音の爽やかな歌を聞こうとは思わなかった。かの佐藤理学士の言説の如く、「人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与え、而して、いまや見よ云々。」というような、希望に満ちた曙光に似たものを、その可憐な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であった。

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