網迫の電子テキスト乞校正@Wiki

谷崎潤一郎「「カリガリ博士」を見る」

最終更新:

amizako

- view
だれでも歓迎! 編集
谷崎潤一郎
「カリガリ博士」を見る

大正十年八月號「活動雜誌」


淺草のキネマ倶樂部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が餘りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の數年來見たものゝうちでは傑出した寫眞であつた、純藝術的とか高級映畫とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく當て篏まるのは恐らくあの映畫位なものであらう。
第一に話の筋がいゝ。狂人の幻想をあゝ云ふ風に取り扱ふと云ふこと、それは私なども始終考へて居たことであるが、單なる一場の思ひつきでなくあれまでに纒めるには多大の努力を要したであらう、さうして幻想の世界と現實の世界との關係が大變面白く出來て居る。
作者は先づ物語りの始めにフランシスと云ふ狂人の收容されて居る癲狂院を置き、それからそのフランシスの妄想の世界に移つて奇怪なる事件の發展を描き、最後に再び癲狂院の光景を見せて終つて居る。その終りめが殊にいゝ。狂人の腦裡に存在する幻想の中に生きて居た人々、ドクトルカリガリや、夢遊病者のツエザーレや愛人のジエーンやそれらの人々が現實の世界に戻つた後にも猶殘つて居て、フランシスの周圍を彷徨して居る。即ち妄想の中のカリガリ博士は實はその病院の院長でありツエザーレやジエーン等は矢張りフランシスと同じく其處に收容されて居た狂人の仲間であつて、フランシスはいつの間にか彼等に自己の空想を加へて勝手な人物を作り上げて居たのである。彼の幻想の原となつた所の人物が現實にも生きて居る人々であり、而もそれらの多くが等しく狂人である所に、此の物語りは一層の餘韻と含蓄とを持つて居る。なぜなら、觀客はあの不思議なフランシスの夢が終りを告げて場面が再び病院の庭へ戻つて來た時さうしてそこに夢の中の種々なる人物が狂人として徘徊するのを見せられた時、その一つ一つの狂人の頭の中にも亦フランシスのそれのやうな幾つもの奇怪なる世界があるであらうことを連想せずには居られないからである。觀客の見たのは或る一人の狂人の幻覺であるが、同時に無數の狂人の幻覺を考へさせられる。たとへばジエーンは自分を女王だと信じて居る狂人である。彼女が終りの場面で、「朕、女王たる者は戀愛の爲めに結婚すべきにあらず」と勿體ぶつた樣子でフランシスを斥けるところなど、此の一語に依つて此の妙齢の狂婦人の腦裡に、如何に荒唐にして絢爛なる天國があるかを想はざるを得ない。人は此の寫眞を見て現實の世の息苦しさを感じ同時に人間の魂の生き得る世界が無限に廣いものであるのを感ずる。さすがに、物質的な亞米利加人などの思ひも及ぼぬプロツトである。アマデウス、ホフマン等の流れを汲む獨逸浪漫派の藝術が、こゝに血筋を引いて居ることがそれとなく看取される。


次ぎに此の映畫は、文學的價値を充分に持つて居るが、しかしどうしても映畫でなければ表はせない所を掴まへて居る、惡く云へば所謂表現派の繪畫を展開した一幅の繪卷物に過ぎないと云へるけれども、矢張り繪だけではあれ程に表はせないに違ひない。恐らく此の種類の物語ほど映書に適したものはなく、他により以上効果のある表現の形式はあるまいと思ふ。そこに着眼したのは偉いには偉いが日本の如き現状ならば知らぬこと、西洋に於て今迄誰も此の方面を開拓しなかつたのが不思議のやうに思はれる。新しき試みとしては已むを得ないことだけれども、まだーあれでは突っ込み方が足りない、所謂表現派の主張が、果して遺憾なく大膽に發揮されて居るかどうかは大いに疑問である。
舞臺裝置は大體に於て成功して居る。作者の表さんとする感情があの不規則な直線や曲線の組み立てに依つて可なりよく出て居る。が、茲に一考すべき事はあの不自然な背景の世界に出演する俳優の動作である。私にはどうも、あの裝置とあの俳優等の演技との問には、或る不調和があるやうに思はれる。どうせ彼處まで行くのなら俳優の動作をもつとあの裝置と一致するやうに即ち其の演技をもつと不自然に、もつと繪畫的にさせた方がいゝ。背景の方では影を描いたり遠近法を用ひたりして相當の距離を見せてあるのに、そこを人間が通り過ぎる爲めに折角のイリユウジヨンが破れてしまふなどは、何とかして救ふ方法はないものだらうか、たとへば町の祭りの雜沓の場面、カリガリ博士の逃げて行く山路、病院の中庭などそこへ人間が出て來ると、何となくせせこましい感じがする。あれなどは構圖の上でも今一と工夫して欲しいし、俳優のしぐさにも大いに研究の餘地がある。


私の考へでは、俳優がもつと大膽に實演劇の要領を離れて象徴的の演出を試みなければいけないと思ふ。第一に服裝などもあの舞臺裝置のデザインと調和するやうな、もつと現代離れのした人工的な樣式を選ぶ必要があつたらうし顏の作りなどももつと單純に、毒々しくやつた方がいゝ。さうして凡ての俳優が人間としてでなく傀儡として動いて居るやうな感じを起させなければいけない。一つ一つの俳優の動作をもつと機械的にして、それに伴ふ姿態の曲線が、悉くあの背景の中に融け込むやうにして欲しい。でなければあの背景とあの人物とは、全く流派を異にする二人の畫工に依つて描かれた畫面のやうな感じを與へる。兎に角俳優があまり在來の芝居をし過ぎて居る。あまり動き過ぎる。此の意味で私は舞臺監督のやり方に最も多くの不滿を感ずる。全體としての俳優の動きの少い場面の方が、より強い効果を見せて居る。カリガリ博士がキヤビネツトの側に侍して、馬車の中で靜かに眠つて居るところなど非常にいゝ。私には彼處が一番印象が深かつた。
それから、撮影や現像の技術の方面にも、もつと新機軸を出し幻想を豐かにする手段があつたらうと思ふ。不規則なアイリスくらゐではまだ飽き足りない。もつとクツキリした拔けのいゝ場面だの、もつとボンヤリした不鮮明な場面だのが、亂雜に入り交つて居る方がよくはなかつたか。最初にフランシスの生れた町が現はれた所など、もつと度強くあつて欲しかつた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

記事メニュー
目安箱バナー