網迫の電子テキスト乞校正@Wiki

谷崎潤一郎「詩と文字と」

最終更新:

amizako

- view
だれでも歓迎! 編集
谷崎潤一郎
詩と文字と
大正六年四月號「中央文學」

詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。
人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述するに止まらしめば則ち已む。苟くも其れに依つて、或は其れ等の結合に依つて、思想以外の音樂的効果を所期せんと欲せぱ、誰か純日本語の語彙の貧弱なるに失望せざる者あらんや。
日本語以外の漢語と云ふも、何處迄が日本語的漢語にして、何處迄が外國語的漢語なりや明瞭ならず。平安朝時代の邦語の標準を以てせば、あらゆる漢語は外國語なり。既に一旦、鎌倉時代の日本人が、漢語を容れて邦文の缺を補ひ、一種の和漢混交體を創始したる以上、吾人は自由に大膽に、更に洽《あまね》く漢語の海を渉獵して、水底に秘められたる奇種珍寶を探集するに、何の憚る所あらんや。此れ實に貧弱なる日本語を豐富ならしむる捷徑ならずや。
こゝに ”bizarre” と云ふ言葉あり、その發音のみを單に片假名にて「ビザアル」と書き記さば、佛語或は英語を解する者に取りて、少くとも此の語の含有する妙味の一半は消失すべし。若し然らずとせば、彼等は恐らく片假名を讀むと同時に、 ”bizarre” の文字を腦底に描きたるに相違なし。音標文字たるアルフアベツトに於いてすら、猶且字體の組み合はせ其の者より生ずる幻影あり。形象文字たる漢字に於いて、其の傾向の顯著なること論を俟たず。漢字の音韻の豐饒なる、敢て歐洲の國語に劣らずして、而も眼に訴ふる所の多き、到底後者の比にあらず。漢字に多種多樣なる字劃あるは、恰も寶石に千態萬妝の結晶あるが如し。斷ち知るべし、實用的に最も不便なる漢字は、藝術的に最も便利なる事を。
吾人は實に漢字を愛惜す。その音響の妙なることピアノの如く、その形態の美しきこと錦繍《きんしう》の如き漢字を愛惜す。漢字はあらゆる文字中、最も官能的なるものなり。將來は兎もあれ、現在漢字を使用しつ製ある吾人は、斯かる貴重なる形象文字の特質を、何故に飽く迄も利用し活用せんとはせざるぞ。漢字の裝飾的、繪畫的方途を閑却するは、寶石を棄てゝ瓦礫に就くに等しと云ふべし。
云ふまでもなく、國語は此れを使用する國民と共に、絶えず成長し變遷するが故に、吾人は漢字の運命に關して、容易に將來をトする能はず。されど漢字は早晩滅亡すべきを以て、今より制限するに如かずと云ふ者あらば、少くとも藝術の上に於いては愚論なり。二千年の昔に今日のラテン語の運命を憂へたらんには、ヴエルギリユウスは詩を作ること能はざりしならん。ラテン語が Dead Language となりても、ヴエルギリユウスの藝術の死せざるが如く、漢字の葬らるゝ事ありとも、李太白の詩は永遠に生きん。詩人は文字の靈魂を把握せるが故に、彼等に使用せられたる文字は、國語の内に跡を絶ちながら、不朽に其の壽を伸ぶるを得べし。吾人何すれぞ、漢字の齢《よはひ》を數ふる事を須《もちひ》んや。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

記事メニュー
目安箱バナー