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嵯峨の屋おむろ「くされたまご」

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amizako

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    くされたまご(上)

一輛の鉄道馬車京朧の辺にて止りぬ、見れば狭き昇降口に乗る人下る人入まじりて悶着せり、最少しお詰なされて、と罵るは御者の声。しばしば込合《こみあ》ふ様子なりしが、やう〳〵にして静りしは}同よきほどに居並びしなるべし。最後に入来るは若さ女。黒縮緬のおこそ頭巾に顔は半かく糺て見えねど、色の白さうっくしさ、頭巾の蔭よりさし覗くしめりを帯びし目の清しさ、いづれか見る人の心を惹ざらん。いづこに坐るべきかと躊躇ふ様にて、すツきりとして佇立か姿、朝日口背く女郎花のくねらで立てる風情あり誠に心の銷こそ人の目口止まらずらめ、姿の花の引力の強弓、車上の人の夥多の目はたゞ、この花口集りぬ。彼方の一隅に腰を掛で、たyゝ外の方を見詰ゐたる、十六、七の少年ありしが、それだに傍のけはひに誘はれ覚えずこなたを見かへりし、その顔だちの愛らし、目を見合はせし件の女はつか〳〵と歩み寄り、その傍に腰を掛けぬ。腰を掛けつゝ小声にて、「あ窮屈な」と呟きながら眉を顰めて、うツとしさうに被ぶれる頭巾を脱ぎ棄て、初て見するその顔は十人並より美しがるべし。しだらなく合せたその襟附はともすれば洩《も》らすべし胸の羽二重《はぶたえ》、みだらがはしき下前《したまえ》は歩かば蹴出《けだ》さん白き脛《はぎ》、いきなりの束髪結に、見得を棄たる羽織の着こなし、黒人にしては不粋に過ぎ、娘にしてはみだらな粧姿。でもいかなる身分の女か、世なれて見ゆる七不思議なり。少年はまがひなき書生風、ごむ靴に朱糸の靴足袋、短き小倉の袴を穿き、活溌らしか扮装なり。まだをさなげの失かねし無心の風も憎からず。清しき目、朱き唇、翠の眉は桃色の頬に映じ、」層見まさる愛らしさ、飾らぬ粧はなかくに包める玉の光をますべ女は脱いだる頭巾をいぢり、折々その目に情を含み、少年の方を見かへれど、彼方はとんと気かっかず、た・ゝぽんち絵の広告に目を注ぎっヽ余念なし。その中に日本橋、と叫ぶは馬車のすてエしよん、またこゝにても幾人か、或は下り、或は乗り、以前に増りて込合ひたり。この雑沓と諸共に女はやをら腰を移し、少年の方へすり寄りたり、されば二人の間にはたゞ衣一重の垣あるのみ。車の物に打触れて傾くごとに、この女の懐にせる香水は馥郁たるその香を少年の鼻に送るなるべく、また少年のつく息は女の息と混ずるなるべし。とかくする聞に車は進みて万世橋に着くとそのまへ少年は急がはしく真先に飛び下る、女も周章て飛び下る、少年は頓着なく華族の邸に引添ふて彼方の高き坂に向ひっかくと往くほどに、女心同し方へと向ひ、往来まばらになりし時、「もし〳〵」と後より女は小声で呼かけぬ。ざれど彼方の耳には入らず、女はきざみ足にて前へ進み、
「もし〳〵
少年はふり向いて立止まり、
「私ですか。
「少々伺ひますが。
卜言ひて見る目に流す秋の波、情を籠たる口元の少し大き過ぎるは玉に瑕、それをかくすしめ笑ひ、
「西紅梅町と申すはどの辺でござんせう。
「西紅梅町?
少年は不審さうに女の貌を見て、
「西紅梅町は上ッて左の方へ往くのです。
つぎ穂なく言ひ捨て往かんとすれば、女は周章て呼び止め、
くされたまご
「あの、何んですか、まだよほどありますか。
「いゝえ、二、三町です。
少年はきまり悪そうに横を向き、正面の板犀心返答三昧、額にかゝる緑の髪、价悧さうなそのまなざし、愛らしい二重瞼、美しい頬の薄桃色、男が見ても見返るべし。女はつく〴〵と少年の貌を見つめ、心ツこりと笑みて笑凹を現はし、
「十八番地といふとどの辺になりませう。
「知りません。
問ふべき事も尽果ぬ。引止めん術もなければ別れんとせり。その時しも、「松村さん」と呼ぶは後へ来る人なり、見返れば一個の紳士。二人は同時に、
「おゝ宮川君。
「おや宮川さん、どちらへ。
「貴君の所へ、(少年に向ひ)お前、松村さんを知ツてるのか、
「いヽえ。
と膨れた声、女は口をさしばさみ、
「知ッてる方ではないんですが、今探す人がありますので、番地を伺ッてゐたんですよ、
 宮川さん、よく貴君御存じですねえ、この方を。
「知ツてますとも、親類です、そして妙だ、貴君と同姓だ、松村と言ひます。
「おやさう、貴君の御親類、私と同姓、おや嬉しい、どこに知ツてる人があるか知れない者ですねえ、どうかゝこれからお心昜く、貴君。
「往来に立ツてゐても仕方がないが、お前、全体どこへ往くので、なに我輩の家、さうか、
言葉をゆるめて、
「えゝと、それでは帰らうか。
と言ひながら女の方を向いて怪しい目附、相談をかけるやうな目附。女も意味の深い一瞥。甘へるやうな一瞥。じツと男を見詰ながら、いと打解けしいと優しき調子にて、宮川の傍へすり寄りながら、
「來て下さらないの、少しお願があるのですよ、貴君の力が借りたいの、來て下さいな。
舌たるき言葉、また少年の方へ向ひ、
「ねえ、貴君、御用がないのならいらツしやいな、宮川さんと一所に、私の所へ、直そこですから。いゝえ御遠慮には及びませんよ、誰もゐないのですから。
女は宮川には勿論の事、今遇ッたばかりの少年にさへ、あだかも十年の知己の如くいと打解けし話ぶり。この談判の結果として、少年は宮川と共に女の住居へ趣きぬ。
「さ、何卒ぞこちらへ。お敷きなすツて。
女は少年に蒲団を勧めて、火鉢に炭を積みゐたり。宮川は遠慮もなく蒲団の上へ箕坐《あぐら》をかき、机に臂をもたせかけ、くの字形に体をゆがめ、そのあたりに散ッてゐる二、三枚の紙をかきよせ、見れば、女主人が筆をふるひし鉛筆画。
「や、大部御上達だ、滅法に上りましたね。
「上りましてせう、ホヽヽヽ私は今に美術共進会へ出そうと思ツて、ハヽヽヽ、お、あつ、火の中へ目が這入ツて、
「え、火の中へ目が? 其奴は大変だ、目玉の黒焼だ。アハヽヽヽ
「何んですねえ、囗の悪い、貴君吹いて下さいよ、私はお茶を入れますから。さ、松村さん、こちらへ寄ツておあたんなさい、私はこの通りながさつ者ですからね、かしこまツてゐちやア厭ですよ。さ、袴をお取んなさいよ、そんな、窮屈袋だわ。ほゝゝゝ
訳もなき愛敬笑ひ、立上りて階子段の傍に寄り、下を覗いて大きな声、
「叔母さん、お湯を、叔母さん、叔母さあアん……つんぼだねえ……いゝえお湯、お湯だツてば……あ、早くよ。
舌打をしながら元の席へ立戻り、坐る格好のしだらなさ、
「耳が遠いから、ちよいと言ひつけるにも大変なの。口がすツぱくなツちまふの。
これより根村の通ふ学校の在所、その下宿の蟆様、松村と宮川との間柄、松村の故郷、その両親の事、さてまたゝ」の婦人は宮川の父の立てたる女旱校の教師といふ事、熱心なる耶蘇教信者といふ事、耶蘇教の宗旨の事、上これらの事が話の種にて、談笑およそ一時間。女主人は始終打解けたやうな、やさしいやうな磊落のやうな、気取ツたやうな、一種不思議の言語取なし。十七の少年にあらぬ者心聞く耳をたつる弁舌なり。

この時宮川は俄仁思ひ出したやうに、
「風教雑誌を読みましたが、昨日の。
「あゝ読みました。
「上村の道徳論はどうでした。
「さうさ、感心するほどでもないのねえ、知ッてる事ばかりです。どうも博士の議論だとは思へま廿んツ、どうして貴君。一体人間は汚れた罪のある心を以て、世の中に生れたんですものを、神の恵でなけりやア、幸になれますものか。
いつまで経ても話のきれる様子なければ、少年はやう〳〵倦み、「遅くなるから」と立かゝるを女主人は周章ておしとゞめ、
「おや、なぜ、よいぢゃありませんか、もツと遊んでらツしゃいよ、あの御膳をあげますから。いゝえ御膳を喫《たべ》ない中は帰しません、ほゝゝ貴君と一所に喫たいの、いゝえ真成《ほんと》に、さうなの、ほゝゝゝまアお坐んなさいよ、お神輿をお据ゑなさいよ。
少年は苦笑ひ。坐り直すのを見て、
「ほゝゝゝあんまり乱暴だから喫驚《びっくり》しましたか、私は新主義なの、ざツくばらん主義なの。
言ひ終ツて俄に静になり、じツと少年の貌を見る、情を含みし目元の愛敬、頬に見えたる笑凹の力。少年は引止めら糺、立掛し膝に面目なく、わざと小用に立つなるべし
跡を見送り宮川は女の傍へすり寄りつ匸最も低き声音にて毋きつぐる二言三言、人指指にて女主人の頬をちよいと突く。……さても無礼な……女主人はこの無礼を何とかする。
見れば、目元に運ぶ万斛の情、体を少し揺ぶツて舌ツたるい甘へた調子。
「人を……憎らしい


      同じく(中)

爽かに涼しか月は欄干の辺までもさし入りぬ。年まだ若さ一個の手弱女背を橡側の柱にもたせ、しどけなき立膝して、た。ゝ独りかなづるは月に縁ある四絃の琴。柔かき月光は朧に肩より下を照し、くっろげたる襟の間より著しく見えわたる乳のあたり白き肌膚もなまめかし。裳裾の端は風になびきてひらくと打ひらめき、そのたびに覗く爪はづれの尋常さ。あさ」れなんらの多情の妖物《ようぷっ》。忍音《しのびね》に唱《うた》ふ春雨は清楽《しんがく》に翻《ほん》したれど、さすがに調子色めきて鶯宿梅のゆかしさを風に語らふ風情あり。
折しも階子段に人の足音。
「松村さん。
「おや、晋さん、どうしたの、大変遅いねえ。
二階囗へ顔を出すはまだうら若さ少年。
「真暗ですネ、点ないの、灯火を?
「不風流なことを。まアこの月を御覧なさいよ、あ、ちょいと〳〵、坐らないで。憚り、らんぷを取て頂戴、床の間の。
「おや何んだ、やツぱり点るの。
「実は面倒だから点なかツたのさ。
「おや〳〵来ると早々使ふんだもの。
「だツて長者のためには枝を折れと、東洋の道徳でも言ひまさアね、まして立ツてる者は親でも使へと、ちゃんと聖書の中に書てあるもの。は丶丶丶丶
「馬鹿気きツてら。
「おや膨れて、それでも取ツてくれるから嬉しい。真個に君は柔順だよ、はいこれは憚りさま、七手を戴きたてまつります。ほ丶丶丶丶
笑ひながら火を点る、その顔を見れば前回の婦人なり。また晋といふはその時の少年。
「おやどこへ往くの。
「ちょいと失敬、いひ付る事があるんだから。
流し目に少年をちょいと見返り、しどけなき裳裾を蹴返しっへとツかツぱと階子段を下て往く、万事当世好み活溌なるものなり。少年は手持なさ、月琴を引よせて掻ならす独得の器用引、かけ撥 沢山の素人おどかし、技前は婦人と伯仲の間なり。いつの間にかは戻りし婦人、おやと言ッて立ッたるまへ目を細くしてつく〴〵と眺め、
「甘いこと、大層上手になりましたねえ、きツとどこかで習ッたんだよ、それだから学問が厭になるんだ。
言ひかけて急に真地目《まじめ》、
「真成に冗談ぢやアありませんよ、そんなに月琴ばかり上手になツて、どうなさるの、不可ま廿んねえ、この頃は貴君はなまけるツて、専ら評判ですよ、
「なまけるツて? 馬鹿な、迂詐ですよみんな。
「まア迂詐なら迂詐として、晋さん、私は貴君《あなた》に遇ッたら聞いて見やうと思ッてゐた事があるの。私がこの間、さう、いつだツけ、あれは、さう慥十九日、ちょいと貴君の下宿へ寄ッたら、貴君は昨夜《ゆうべ》出たぎりまだ帰らないツて、言ッてゐましたが、どこへ往ッたんですあの時は、え、どこヘ往たんですよ。
「どこヘッて? あの時は……あの時は朋友の所へ往ッたのさ、それで、その、遅くなツたから泊ッたのさ。
「うそを、知ッてますよ、そんな空をつかツて、小野出さんと一所に往ッたのでせう。さうでせう。あら、さうだもんだから笑ッてゐて、真成に憎らしいよこの人は。
言ひかけてまた真地目、
「不可ま廿んねえ今からそんな所へ往くやうでは、もウお廃なさいよ、あんな所へ往くものはどうせ碌な者にはなりませんよ、田舎でどんなに心配なさツてだか知やアしません。
折から皺がれだ咳払ひ、暫くしてやツとこさ、階子段のヒヘ現はるゝはこの家の老婆、蝠人はふり返ッて莞爾打笑み、
「あ、有難う、どうぞそこへ置いて、晋さん今日はめづらしく御馳走しますよ、君の好物を。
「なに、酒、酒は
「おや、不思議さうな顔して、厭ひ? え、私の所では飲まないの。何ですと私にすまないツて。なぜ、宗教家だから? 宗教家だツても私は飮むのさ、無論管はないのさ、お酒を禁ずるのは儀式上の事ですもの、儀式も無学の者には入要ですけれど、道理を刧ッてる者には要りやアしません。私はお酒を飲むと気が済々として来て、罪も報も忘れてしまツて、真個に清浄潔白になるやうですよ。そして、悪い気なんざア少しもなくなツて、世の中が面白くなるんですから、私はかヘッて飲む方が宜と思ひますわ。
この説敦の最中に下坐敷の方にて男の声。これ前回の宮川なり。
「ゐますか。
「ちょツ、うるさい、またやツて来たよ。
西施ぶりといふ眉の皺、ざれどさすがは女の持前、宮川の顔を見ては急に莞爾、
「お出なさい、ちやうど宜所、今晋さんか来たから御馳走しやうと思ツた所。
机の引出よりころツぷ抜を取出し、
「晋さん、失敬、ちょいと抜いて頂戴。
「宜しい、驚いたなア、せん抜きまで揃ツてるなア。
山海の珍羞とはまゐらぬも、肴屋醉屋を覆したる色々品々、二人前の注文を三分して内心恨しき婦人の顔、ほどなく桜色にはのめいたり。
宮川は婦人に向ひ、
「貴君は昨日の協会へ出ましたかえ。
「なんで出ますものか、人を面白くもない、町口夫人の演説なんざア聞いたツで有難はありませんもの、人を……父母に対する女子の心得ツ。女子の心得もないものだ、自分はどうでせう、あんな行ひで、よくあれで平気で演説が出来ますねえ。
「皆あんなのさ、今の奴は。
「真成ですねえ、愛するツても日本の者は人柄を見ずに愛するんですもの、だが一体愛するといふのは問題ですねえ、無論愛するのは悪くはないさ、ちやうど厭ひな人を愛事《すくこと》が出来ないと同じやうに愛らしい人は愛さない訳にはいきま廿ん、神は敵をも愛せと申しましたもの、だから愛、それ自身は高尚ですが。
また暫らくは愛の説教。間へはさまるは宮川のまぜかへしと晋の心理学、否変理学、婦人はやがて言葉をつき、
「しかし同じ愛するのでも、命をかけて愛するほどなら、実に、まだ頼みがありますが、日本の男女のやうに真実といふものは、薬にしたくも少ともなく、厭ならおよし他にあるからといふやうな浮気|一三昧《いっさんまい》の恋で、寄ると触ると一所になりツこでは、実に困りますねヱ、それといふが畢寛無宗教だからですよ。神の教なんといふと、頭からかツけなして相手にしないんですもの、道徳加地を払ッてないからですよ、それも宜《いい》が、自分たちがさうだものですから、それを標準にして人の事をとやかうといふのですもの、失敬ぢやありませんか。私の事などは妙な事を言ッてますとさ、貴君と怪しいツて、真成に人を馬鹿にした、私はこんな拳主義ですが、これでも神の教は奉じてますからねヱ、
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 いやに外部を飾ッて内々醜行を極めてる利口な人とは違ますからネ、それをそんな事を言ッてますとさ、失敬な面が憎いぢゃアありませんか。
宮川は口をはさみ、
「何とでも言ふなら言はせて置くさ、人は何と言はふと自分さへ正ければ良心に恥づる事はないさ、良心に恥づる事さへなければそれで宜さ、さア飲う〳〵、注いでくれたまヘー杯、もウそんな話はやめい〳〵。
これより盃の数重なりて三人は殆どどろんけん。婦人は流し目に晋を見て、「君はもウ酔ッてか意久地《いくじ》のない、なぜぐた〳〵してゐたまふ、妾《わらわ》はぐにゃつく人きつい厭ひ」とたしなめられて笑止にも晋は俄に元気を装ひ、大きな声にて歌を纈ふ、婦人は図に乗ッて宮川に向ひ、「貴君は拍子をとりたまへ」との命令、かしこみ奉りて手を打つ宮川。
暫くは大騒ぎにてありたるが、酒も大方尽たる頃、女は机に片手を突き、反身になツて大きな声、
「諸君! 神は月を造ツで我々にこの清夜を与へてゐます、かくの如き清夜を家の中で費やしますのは実に惜しかべき事ではありませんか。
こゝまでは真面目で言ひ、俄に大声で笑ひ出し、
「さアぶらつきませうよ、街を、街をさ、よう、ぶらつかうてばねえ。
婦人は宮川に手を引かれ、晋もそのうしろに附添ひつゝいづこへか出往きぬ。後にはさし入る真如の月、室内の空気も立かはれり。

     同じく(下)

ふけゆく夜半の鐘、数ふれば早十一時。一輛の人力車、轆々と鳴り渡りて突然表口に止りぬ。車上より転ぶ如くよろめきく現はれしは、洋服を着たる一個の男。酒気紛々として鼻を突ばかり、足元の定まらぬは十二分に酔たるものなるべし、何事かうめきながら格子戸口に立寄りしが、酔漢の癖とて荒々しく戸を開べきに、さはなくて静に開け、酔ふても本性たがはぬか、右左りを見返りっヽ中へ這入りて静に閉め、婆ア〳〵と小声で呼べど、寐人りしか留主か答なし。酔漢は浪々《ろうろう》とそのまゝ二階へ昇りたり。
二階の一問には六枚折の古屏風を立廻したれば、内の模様は見えざれど、内より射す灯火の光は、まともに彼方の壁にうっりて更にまた階子段の方へ反射せり。男は呂律のまはらぬ舌にて、ぶつ〳〵と独り呟きながら、屏風の内へよろめき入りぬ。内には一個の若き女背向になりて熟睡せり。女のしたる枕の外にならびたる括枕、知らず何人の枕か、枕上《まくらもと》には盃盤狼藉《はいばんろうぜき》たり。
「おゝ、おい、文子嬢、おい起たまへ、来たよ宮川が、おい、こら松村女史、おい、親愛なる人よちょいと起よ、おい、おい神だツて眠よと言やアしまい、おい、よく睡ツてるなア。
とたんに目に入る燗徳利、生酔の意址のきたな
「なゝなんだ、酒……失敬な失敬……眠酒なんぞ
どツかり枕上へあぐらをかき、右手に徳利を振動し得意顔に北見笑み、徳利の囗より我
ロヘ、さても無作法な口うっし。肴はなきかとぅろく隕、端なく目にっきし括枕
「何んだ枕……二ツたアなんだ……二ツ並べる枕橋、へん人を……畜生。
両手を拡げしまゝ、ぐた〳〵と頭をふり、
「や、あツた〳〵、なまたま、有難し好下物。
この時階子段のきしる音して二階へ昇り来るは一少年あやしき移香のする繻子の襟付たる袷を着て、その裾を長く引ずり、女の細帯を腰に捲付け、その結目をゆるませたれば、今にも下へずり落さうな乱らな姿。前も現はにならぬばかり、はんけちにて手を拭き〳〵漸やく階子を上り終る。小用にでも往しなるべし。屏風の内の酔漢は酒に心を奪れたれば、人来る人のありとも知らず右手に鶏卵を取あげて、頻りに小皿を求むる様子。
少年はかくとも知らず、これも酒に酔たるか、よろめきながらうツかりと屏風の中へすべり入る、思はず躓づく蒲団の端、臥したる上へどツさりと倒れかゝれば女は喫驚、
「おゝ痛い、痛いツてばねえ
ねぼれ声にて叫ぶ婦人。驚き見かへる以前の酔漢、目をすゑてきツとなり。
「だゝ誰だ……や晋か……
見る〳〵貌色かはり、「畜生」と言ふや否や持ツたる鶏卵を、晋の貌へ打付くれば、黄み汁ベツたり貌は狼籍、鶏卵は腐ツてありし者か、鼻持ならぬ悪臭汚穢、晋はそこへ打倒れる。宮川は立上ツて。
「くゝくさツてらア、腐敗鶏卵《くされたまご》め。
あゝ腐敗玉子、しかり真にくされ玉子なり。臥したる者も、倒れたる者も、はたまた罵る者も共に腐れり。彼らは皮相より見る時は頗る美しきものにして腐れざる鶏卵と異ならねど、一たびその皮を破ぶりその内を窺へば一身だ。こ』れ腐敗の塊……悲哉聖者の遺教さへ、軽薄者流の翫具となる今の世の中、あゝ案じらるゝ世の行末……さてもこの煬の結局は……さても文子はいかゞせしぞ。

**  **  **  **  *

松村文子は、
  宮川よりは白眼《しろめ》
  学校よりは背中に塩、
   知人《しりひと》からは爪はじき、
   身には宿す父《てて》なし子、
途方に暮糺てゐるも風の便。
 これが腐敗《くされ》たまごの因縁因果です。下手な落語《おとしばなし》をなが〳〵として、飛んだ失礼を致しました。これにてさし代はります、御退屈さま。

岩波文庫 日本近代短篇小説選 明治篇1

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