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江戸川乱歩「灰神楽」


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1

 アッと思う間に、相手は、まるでどうでこしらえた人形がくずれでもするように、グナリと、前の机の上に平たくなった。顔は鼻柱がくだけはしないかと思われるほど、ベッタリとまっ正面に、机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚と、机掛けの青い織り物とのあいだから、ツバキのようにまっかな液体が、ドクドクと吹き出していた。

 今の騒ぎでテツビンがくつがえり、大きなキリの角ヒバチからは、噴火山のように灰神楽《はいかぐら》が立ち昇って、それがピストルの煙といっしょに、まるで濃霧のように部屋の中をとじ込めていた。

 のぞき・からくりの絵板が、カタリと落ちたように、一せつなに世界が変わってしまった。庄太郎はいっそう不思議な気がした。

「こりゃ まあ、どうしたことだ」

 彼は胸の中で、さものんきそうに、そんなことを言っていた。

 しかし、数秒の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見ると、芳、こには、相手の奥村一郎所有の小型ピストルが光っていた。 「おれが殺したんだ」ギョクンと、のどがつかえたような気がした。胸のところがガランドウになって、心臓がいやに上のほうへ浮き上がって来た。そして、あごの筋肉がツーンとしびれて、やがて歯の根がガクガクと動きはじめた。

 意識の回復した彼が第一に考えたことは、いうまでもなく、「銃声」についてであった。彼自身には、ただ変な手ごたえのほか、なんの物音も聞こえなかったけれど、ピストルが発射された以上、「銃声」が響かぬはずはなく、それを聞きつけて、だけかがここへやって来はしないかという心配であった。

 彼はいきなり立ち上がって、グルグルと部屋の中を歩きまわった。時々立ち止まっては、耳をすました。

 隣りの部屋には階段の降り口があった。だが庄太郎には、そこへ近づく勇気がなかった。今にもヌッと人の頭が、そこへ現われそうな気がした。彼は階段のほうへ行きかけては引き返した。しかし、しばらくそうしていても、だれも来る気配がなかった。一方では、時間がたつにつれて、庄太郎の記憶力がよみがえって来た。「何をこわがっているのだ。階下《した》にはだれもいなかったはずじゃないか」奥村の細君は里へ帰っているのだし、ばあやは彼の来る以前に、かなり遠方へ使いに出されたというではないか。

「だが、待てよ、もしや近所の人が……」

 ようやく冷静を取り返した庄太郎は、死人のすぐ前にあけ放された障子から、そっと半面を出してのぞいて見た。広い庭を隔てて左右に、隣家の二階が見えた。一方は不在らしく、雨戸がしまっているし、もう一方はガランとあけ放した座敷に、人影もなかった。正面は茂った木立《こだち》ちを通して塀の向こうに広っぱがあり、そこに、数名の青年が球投《たまな》げをやっているのがチラチラと見えていた。彼らは何も知らないらしく、夢中になって遊んでいた。秋の空に、球《たま》を打つバットの音がさえて響いた。

 彼は、これほどの大事件を知らぬ顔に、静まり返っている世間が、不思議でたまらなかった。

「ひょっとしたら、おれは夢を見ているのではないか」そんなことを考えてみたりした。しかし振りかえると、拓、こには血に染まった死人が、不気味《ぶきみ》な人形のように黙していた。その様子が明ぎらかに夢ではなかった。

 やがて、彼はふと、あることに気づいた。ちょうど稲の取入れ時で、付近の田畑には、烏おどしから鉄砲《てつぽ》があちこちで鳴り響いていた。さっき奥村との対談中、あんなに激している際にも、彼は時々その音を聞いた。今彼が奥村を撃ち殺した銃声も、遠方の人々には、その鳥おどしの銃声と区別がつかなかったに相違ない。

 家にはだれもいない、銃声は疑われなかった、とすると、うまく行けば彼は助かるかもしれないのである。

「早く、早く、早く」

 耳の奥で半鐘《はんしよう》のようなものが、ガンガンと鳴りだした。

 彼はその時まだ手にしていたピストルを、死人のそばへ投げ出すと、ソロソロと階段のほうへ行こうとした。そして、一歩足を踏み出した時である。庭のほうでバサッというひどい音がして、木の枝がザワザワと鳴った。

「人?」


 彼は吐《は》き気《け》のようなものを感じて、そのほうを振り向いた。だが、そこには彼の予期したようた人影はなかった。今の物音はいったい何事であったろう。彼は判断を下しかねて、むしろ判断なしようともせず、一瞬間そこに立往生《たちおうじよう》していた。

「庭の中だよ」

 すると、外《そと》の広っぱのほうから、そんな声が聞こえて来た。

「中かい。じゃ、おれが取って来よう」

 それは聞き覚えのある、奥村の弟の中学生の声であった。彼はさっき広っぱのほうをのぞいた時に、その奥村二郎がバヅトを振りまわしているのを、頭のすみで認めていたことを思い出した。

 やがて、快活な足音と、バタンと裏木戸のあく音とが聞こえ、それから、ガサガサと植込みのあのいだを歩きまわる様子が、二郎の激しい息づかいまで、手に取るように感じられるのであった。庄太郎にはことさらそう思われたのかもしれぬけれど、ボールを捜すのはかなり手間取った。二郎は、さものんきそうに口笛など吹きながら、いつまでもゴソゴソという音をやめなかった。

「あったよう」

 やっとしてから、二郎の突拍子《とつぴようし》もない大声が、庄太郎を飛び上がらせた。そして、彼はそのまま、二階のほうなど見向きもしないで、外《そと》の広っぱへと駆け出して行く様子であった。

「あいつは、きっと知っているのだ。この部屋で何かがあったことを知っているのだ。それを、わざとそしらぬ振りでボールを捜すような顔をして、その実は、二階の様子をうかがいに来たのだ」

 庄太郎はふと、そんなことを考えた。

「だが、あいつは、たとい銃声を疑ったとしても、おれがこの家《うち》へ来ていることは知るはずがない。あいつはおれが来る以前から、あすこで遊んでいたのだ。この部屋の様子は広っぱのほうからは杉の木立ちがじゃまになって、よくは見えないし、たとい見えたところで、遠方のことだから、おれの顔まで見分けられるはずはない」

 彼は一方では、そんなふうにも考えた。そして、その疑いを確かめるために、障子から半面を出して、広っぱのほうをのぞいてみた。そこには木立ちのすきまから、パットを振り振り走って行く、二郎のうしろ姿がながめられた。彼は元の位置に帰ると、すぐなにごともなかったように打球《だきゆう》の遊戯を始めるのであった。

 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あいつはなんにも知らないのだ」

 庄太郎は、さっきのおろかな邪推を笑うどころではなく、しいて自分自身を安心させるように、だいじょうぶ、だいじょうぶと繰り返した。

 しかし、もうぐずぐずしてはいられない。第二の難関が待っているのだ。彼が無事に門の外へ出るまでに、使いに出されたばあやが帰って来るか、それともほかの来客とぶつかるか、そんなことがないと、どうして断言できよう。彼は今さらそこへ気がついたように、あわてふためいて階段をおりかけた。途中で足がいうことをきかなくなって、ひどい音を立ててすべり落ちたけれど、彼はそんなことをほとんど意識しなかった。そして、まるでわざとのように、玄関の格子《こう 》をガタピシいわせて、やっとのことで門のところまでたどることができた。

 が、門を出ようとして、彼はハッと立ち止まった。ある重大な手抜かりに気づいたのだ。あのような際に、よくもそこまで考えまわすことができたと、彼はあとになって、しばしば不思議に思った。

 仮は日ごろ、新聞の三面記事などで、指紋というものの重大さを学んでいた。むしろ実際以上に誇張して考えていたほどである。今まで握っていたあのピストルには、彼の指紋が残っているに相違ない。ほかの万事が好つこうに運んでも、あの指紋たった一つによって、犯罪が露見するのだ。そう思うと、彼はどうしても、そのまま立ち去ることはできなかった。もう一度二階へもどるというのは、その際の彼にとって、ほとんど不可能に近い事柄ではあったサれど、彼は死にもの狂いの気力をふるって、さらに家の中へ取って返した。両足が義足のようにしびれて、歩くたびごとに、ひざがしらがガクリガクリと折れた。

 どうして二階へ上がったか、どうしてピストルをふき清めたか、それからどうして門前へ出て来たか、あとで考えると少しも記憶に残っていなかった。

 門の外にはさいわい人通りがなかった。その辺は郊外のことで、住宅といっては、庭の広い一軒がまばらに建っているばかりで、昼間でも往来はとだえがちなのだ。,ほとんど思考力を失った庄太郎ほ、そのいなか道をフラフラと歩いて行った。早く、早く、早く、という声が、時計のセコンドのように、絶え間なく耳もとに聞こえていた。それにもかかわらず、彼の歩調はいっこう速くな弘川った。外見《そとみ》はのんきな郊外散歩者とも見えたであろう。その実、彼はまるで夢遊病者《むゆうぴようしや》のように、今歩いているということすら、ほとんど意識していないのであった。

2

 どうしてピストルを撃つようなことになったのか、時のはずみとはいえ、あまりに意外なできごとであった。庄太郎は、彼自身が恐ろしい人殺しなどとは、まるでうそのような話で、ほとんど信じかねるほどであった。

 庄太郎と奥村一郎とが、ひとりの女性を中心に、激しい反感を抱き合っていたことは事実である。その感情が互いに反発《はんぱつ》して、加速度に高まりつつあったことも事実である。そして、おりにつけ、つまらないほかの議論が、ふたりを異常に興奮せしめた。彼らは双方とも、決して問題の中心に触れようとはしなかった。

 そのかわりに、問題外のごくささいな事柄が、いつも議論の対象となり、ほとんど狂的にまでいがみ合うのであった。

 その上、いっそういけないのは、庄太郎にとっては、一郎がある意味のバトロンであったことだ。貧乏絵かきの庄太郎は、一郎の補助なしには生きて行くことができなかった。彼は、言いがたき不快をおさえて、しばしば恋敵《こいがたき》の門をくぐることを余儀なくされた。

 今度の事件も、事の起こりはやはりそれであった。その時、一郎はいつになくキッパリと、庄太郎の借金の申し込みを拒絶した。このあからさまな敵意に会って、庄太郎はカッとのぼせ上がった。恋敵の前に頭を下げて、物請いをしている自分自身が、この上もなくみじめに見えた。それと同時に、その心持ちをじゅうぶん知っていながら、自己の有利な立ち場を利用して、あらゆるところに敵意を見せる相手が、ジリジリするほどしゃくにさわった。一郎のほうでは、何も借金の申し込みに応ずる義理はない、と言い張った。庄太郎のほうでは、これまでパトロンのようにふるまっておきながら、そして暗黙のうちに物質的援助を予期させておきながら、今さら金が貸せないといわれては困る、と主張した。

 争いはだんだん激しくなって行った。問題が焦点《しようてん》をそれていることが、そのかわりに、野卑《やひ》な侖立銭上の事柄にまで、こうしていがみ合わなければならぬという意識が、いっそう二人をたまらなくした。しかし、もしその時、一郎の机の上にあのピストルが出ていなかったら、まさかこんなことにもならなかったであろうが、悪《わる》いことには、一郎は日ごろから銃器類に興味を持っていて、ちょうど当時・その付近にしばしば強盗ザ灘があったものだから、護身の意味で瀞寿まで込めて、机の上に置いてあったのである。それを庄太郎が手に取って、つい相手を撃ち殺してしまったのだ。

 それにしても、どうしてあのピストルを取ったか、そして、ひきがねに指をかけたか、庄太郎にはそのきっかけが、少しも思い出せないのだった。ふだんの庄太郎であったら、いかに口論をすればとて、相手を撃ち殺そうなどとは、考えさえもしなかったであろう。時のはずみというか、魔がさしたというか、ほとんど常識では判断もできないような事件である。

 だが、庄太郎が人殺しだということは、もはやどうすることもできない事実であった。この上はいさぎよく自首して出るか、それとも、あくまでそ知らぬ振りをしているか、二つの方法しかない。そして、庄太郎はそのいずれの道をとったか。彼は、読者もすでに推察されたように、いうまでもなく後者を選んだのである。これがもし、彼が犯人だと知れるような証拠が、少しでも残っているのだったら、まさか、彼とてもそんな野望《やぼう》を抱きはしなかったであろう。だが、そこにはなん川の証拠もないのだ。指紋すらも残ってはいないのだ。彼は下宿に帰ってから、一晩じゆうそのことばかりを繰り返し考え続けた。そして結局、あくまでも知らぬ体《てい》を装うことに決心した。

 うまくいけば、一郎は自殺したものと判断されるかもしれない。かりに一歩を譲って、他殺の疑いがかかったとしても、何を証拠に庄太郎を犯人だときめることができるのだ。現場にはなんの証跡も残ってはいない。そればかりか、その時分庄太郎が一郎の部屋にいたということすら、だれも知らないではないか。

「なに、心配することがあるものか。おれはいつでも運がいいのだ。これまでとても、犯罪に近い悪事を、しばしばやっているではないか、そしてそれが少しも発覚しなかったではないか」


 やがて彼はそんな気安めを考えうるほどになっていた。そうして一安心すると、そこへ、人殺しとはまるで違ったはなやかな人生が浮き上がって来た。考えてみれば、彼はあの殺人によって、はからずも二人で争っていた恋人を独占したわけであった。社会的地位と物質とのために、いくらか一郎のほうへ傾いていた彼女も、もはやその対象を失ったのである。

 「おお、おれはなんという幸運児であろう」

 夜、寝床の中では、昼間とは打って変わって楽天的になる庄太郎であった。彼はせんべいぶと.んにくるまって、天井《てんじよう》の節穴《ふしあな》をながめながら、恋しい人の上を思った。なんとも形容のできない、はなやかな色彩と、快いかおりと、やわらかな音響が、彼の心をしめた。

3

 だが、彼のこの安心も、ひっきょう寝床の中だけのものであった。翌朝、ほとんど一睡もしなかった彼の前に第一に来たものは、恐ろしい記事をのせた新聞であった。そして、その記事の内容は、たちまち彼の心臓を軽くした。そこには二段抜きの大見出しで、奥村一郎の残死が報道さーれていた。検死の模様も簡単にしるされてあった。

「……前額《ぜんがく》の中央に弾痕《だんこん》のある点、ピストルの落ちていた位置などをもって見るも、自殺とは考えられぬ。その筋では他殺の見込みをもって、すでに犯人捜索に着手した」

 そういう意味の二、三行が、ギラギラと、庄太郎の目に焼きついた。彼はそれを読むと、何か急用でも)思いついたかのように、いきなりガバと、ふとんから起き上がった。だが、起き上がってどうしようというのだ。彼は思いなおして、また、ふとんの中へもぐり込んだ。そして、すぐそばにこわいものでもあるように、頭からふとんをかぶると、身を縮めてじっとしていた。

 一時間ばかりの後(そのあいだ彼がどんな地獄を味わったかは読者の想像に任せる)彼はそそくさと起き上がると、着物を着替えて外《そと》へ出た。茶の間を通る時、宿のおかみが声をかけたけれど、彼は聞こえぬのか返事もしなかった。

 彼は何かに引きつけられるように、恋人のところへ急いだ。今会っておかなければ、もう永久に顔を見る機会がないような気がするのだ。ところが、一里の道を電車にゆられて、彼女をたずねた結果はどうであったか。そこにもまた、恐ろしい疑いの目が彼を待っていたのだ。彼女はむろん事件を知っていた。そして、日ごろの事情から推して、当然庄太郎に一種の疑いを抱いていた。実はそうではなかったのかもしれないけれど、すねに傷持つ庄太郎には、そうとしか考えられなかつた。第一に、追いつめられた野獣のような庄太郎の様子が、相手を驚かせた。それを見ると、彼女のほうでも青ざめた。

 せっかく会いは会いながら、二人はろくろく話をかわすこともできなかった。庄太郎は相手の目に疑惑の色を読むと、その上じっとしてはいられなかった。座敷に通ったかと思うと、もういとまを告げていた。そして今度はどこという当てもなく、フラフラと街《まち》から街をさまよった。どこまで逃げても、たった五尺のからだを隠す場所がなかった。

4


 日の暮れがたになって、ヘトヘトに疲れきった庄太郎は、やっぱり自分の宿へ帰るほかはなかった。宿の主婦はわずか一日のあいだに、大病人のようにやせ衰えた彼を、不思議そうにながめた。そして、気違いのような彼の目つきに、おずおずしながら、一枚の名刺を差し出した。その名刺の主《ぬし》が、彼の不在中にたずねて来たというのだ。そこには『○○警察署刑事○○○○』と印刷されてあった。

 「ああ、刑事ですね。ぼくのところへ刑事がたずねて来るなんて、こいつは大笑いですね、ハハハ」

 思わずそんな無意味なことばが、彼の口をついて出た。彼はそうしてゲラゲラと笑いだした。だが、口だけバカ笑いをしても、彼の顔つきは少しもおかしそうには見えなかった。その異様な態度が、さらに主婦を驚かせた。

 その晩おそくまで、彼はほとんど放心状態でいた。考えようにも考えることがないような、あるいはあまりにありすぎて、どれを考えていいのかわからないような、一種異様の気持ちであった。が、やがて、いつもの『夜の楽観』が、彼をおとずれた。そして、いくらか思考力を取り返すことができた。

 「おれはいったい、何を恐れていたのだろう」

 考えてみれば、昼間の焦燥は無意味であった。たとい奥村一郎の死が他殺と断定されようと、恋人が彼に疑惑の目を向けようと、あるいはまた刑事探偵がたずねて来ようと、なにも彼が有罪ときまったわけではないのだ。彼らには一つも証拠というものがないではないか。それは単に疑惑にすぎぬ。いや、ひょっとしたら彼自身の疑心暗鬼《ぎしんあんき》かもしれないのだ。

 だが、 決して安心することはできぬ。なるほど、額《ひたい》のまん中を撃って自殺するやつもなかろうから、警察が他殺と判断したのは無理はない。とすると、そこには下手人《げしゆにん》が必要だ。現場になんの証拠もなければ、警察は被害者の死を願うような立ち場にある人物を捜すに相違ない。奥村一郎は日ごろ敵を持たぬ男だった。庄太郎をほかにして.そんな立ち場の人物が存在するであろうか。それに悪いことには、弟の奥村二郎が、彼らのあいだの恋の葛藤《かつとう》をよく知っていたことである。二郎の口から、それが警察にもれないと、どうしていえよう。現にきょうの刑事とても、二郎の話を聞いた上で、じゅうぶん疑いを持ってやって来たのかもしれないではないか。

 考えるにしたがって、やっぱりのがれるみちはないような気がする。だが、はたして絶体絶命であろうか。何かしらこの難関を切り抜ける方法がないものであろうか。それから一晩のあいだ、庄太郎は知恵をしぼり尽して考えた。異常の興奮が、彼の頭脳をこの上もなく鋭敏にした。ありとあらゆる場合が、彼の目の前に浮かんでは消えた。

 あるせつな、彼は殺人現場の幻《まぼろし》を描いていた。そこには額《ひたい》の穴から血膿《ちうみ》を流して倒れている奥村一郎の姿があった。キラキラ光るピストルがあった。煙があった。キリのヒバチの五徳の上に半ば湯をこぼした鉄ビンがあった。もうもうと立ちこめた灰神楽《はいかぐら》があった。

「灰神楽、灰神楽」

 彼は心の中でこんなことばを繰り返した。そこに何かの暗示を含んでいるような気がするのだ。

「灰神楽……キリの大ヒバチ……ヒバチの中の灰」

 そして、彼はハタとあることに思い及んだ。あんたんたるやみの中に一縷《る》の光明が燃えはじめた。それは、犯罪者のしばしば陥るばかばかしい妄想《もうそう》であったかもしれない。第三者から見れば一顧の価値もない愚挙であったかもしれない。しかし、この際の庄太郎にとっては、その考えが、天来《てんらい》の福音《ふくいん》のごとくありがたいものに思われるのだった。そして、考えに考えたあげく、結局彼はその計画を実行してみることに腹をきめた。

 そう事がきまると、二昼夜にわたる不眠が、彼を恐ろしい熟睡に誘った。翌日の昼ごろまで、彼は何も知らないで、どろのように眠った。

        4

 さて、その翌日、いよいよ実行となると、彼はまたしても二の足を踏まなければならなかった。.表の往来から聞こえて来る威勢のいい玄米パンの呼び声、自動車の警笛、自転車のベル、そして、障子を照らすまぶしい白日の光り、どれもこれも、彼のあんたんたる計画に比べては、なん.ど健康にさえわたっていることであろう。この快活な、あけっぱなしな世界で、はたしてあの異様な考えが実現できるものであろうか。

 「だが、へこたれてはいけない。ゆうべあんなにも考えたあげく、堅く堅く決心した計画ではないか。そのほかにどんな方法があるというのだ。ちゅうちょしている時ではない。これを実行しなかったら、おまえには絞首台《こうしゆだい》があるばかりだ。たとい失敗したところで、もともとではないか。実行だ、実行だ」

 彼は奮然として起き上がった。ゆっくりと手水《ちようず》を使って食事を済ませると、わざとのんきらしく、ひとわたり新聞に目を通し、ふだん散歩に出るのと同じ調子で、口笛さえ吹きながら、ブラブラと宿を出た。

 それから一時間ばかりのあいだ、彼がどこへ行って何をしたか、それは後になって自然読者にわかることだから、ここには説明をはぶいて、彼が奥村二郎を訪問したところから話を進めるのが便宜である。

 さて、奥村二郎の家の、殺人の行なわれたその同じ部屋で、庄太郎と死者の弟の二郎とが相対、していた。

「で、讐察では加害者の見当がついているのかい」

 ひとわたり悔《くや》みのあいさつが取りかわされてから、庄太郎はこんなふうに切り出すのであった。

「さあ、どうだか」中学上級生の二郎は、あらわなる敵意をもって、相手の顔をじろじろながめながら答えた。「たぶんだめだろうと思う。だって、証拠が一つもないんだからね。たとい疑わしい人間があるとしても、どうすることもできないさ」

「他殺は疑う余地がないらしいね」

「警察ではそういっている」

「証拠が残っていないという話だが、この部屋はじゅうぶん調べたのかしら」

「そりゃむろんだよ」

「だれかの本で読んだことがあるが、証拠というものは、どんな場合にでも残らないはずはないそうだ。ただ、それが人間の目で発見できるかできないかが問題なのだ。たとえば、一人の男がこの部屋へはいって、何一つ品物を動かさないで出て行ったとする。そんな場合にも、少なくと・も畳の上のほこりには、なんらかの変化が起こっていたはずだ。だから、とその本の著者がいうのだよ、綿密《めんみつ》なる科学的検査によれば、どのような巧妙な犯罪をも発見するてとができるって」「       」「それからまた、こういうこともある。人間というものは、何かを捜す場合、なるべく目につかいようなところ、部屋のすみずみとか、物の陰とかに注意を奪われて、すぐ鼻の先にほうり出してある大きな品物なぞを、見のがすことがある。これはおもしろい心理だよ。だから、最もじようずな隠し場所は、ある場合には、最も人目につきやすいところへ露出しておくことなんだよ」

「だからどうだっていうのだい。ぼくらにしてみれば、そんなのんきらしい理屈をいっている場合ではないんだが」

「だからさ、たとえばだね」庄太郎は考え深そうに続けた。「このヒパチだってそうだ。こいつは部屋の中で最も目につきやすい中央にある。このヒバチを、だれかが調べたかね。ことに、中の灰に注意した人があるかね」

「そんな物を調べた人はないようだね」

「そうだろう。ヒバチの灰なんてことは、だれしも閑却《かんきやく》しやすいものだ。ところで、きみはさっ.き、にいさんが殺された時には、このヒバチのところに一面に灰がこぼれていたといったね。む'うんそれは、ここにかけてあった鉄ビンが傾いて、灰神楽が立ったからだろう。問題は何がその鉄ビンを傾けたか、という点だよ。実はね、ぼくはさっき、きみがここへ来るまでに、変なものを発見したのだ。ソラ、これを見たまえ」

 庄太郎はそういうと、火パシを持って、グルグル灰の中をかぎ捜していたが、やがて、一つのよごれたボールをつまみ出した。

「これだよ。この球《たま》がどうして灰の中に隠れていたか。きみは変だとは思わないかね」

 それーを見ると、二郎は驚きの目を見張った。そして、彼の額《ひたい》には、少しばかり不安らしい色が浮かん蹄だ。

「変だね。どうしてそんなところヘボールがはいったのだろう」

「変だろう。ぼくはさっきから、一つの推理を組み立ててみたのだがね。にいさんの死んだ時、、ここの障子はすっかりしまっていたかしら」

「いや、ちょうどこの机の前のところが一枚開いていたよ」

「ではね、こういうことは言えないかしら。にいさんを殺した犯人──そんなものがあったと仮定すればだよーその犯人の手が触れて鉄ビンの湯がこぼれたと見るζとができるけれど、またもう一つは、そこの障子の外から何かが飛んで来て、この鉄ビンにぶっつかったと考えることもできそうだね。そして、あとの場合のほうが、なんとなく自然に見えやしないかい」

「じゃ、このボールが外《そと》から飛んで来たというのか」

「そうだよ。灰の中にボールが落ちていた以上、そう考えるのが当然ではないだろうか。ところで、きみはよくこの裏の広っぱで球《たま》投げをやるね。その日はどうだったい。にいさんの死んだ日には」

「やっていたよ」二郎はますます不安を感じながら答えた。「だが、ここまでボールを飛ばしたはずはない。もっとも、一度そこの塀を越したことはあるけれど、杉の木に当たって、下へ落ちたよ。ぼくはちゃんとそれを拾ったのだから、まちがいはない。たまは一つもなくなってやしないんだよ」「そうかい、塀を越したことがあるのかい。むろんバットで打ったのだろうね。だが、その時下人落ちたと思ったのはまちがいで、実は杉の木をかすって、ここまで飛んで来たのではないだろうか。きみは何か思い違いをしてやしないかい」

 「そんなことはないよ。ちゃんと、そこのいちばん大きい杉の木の根元のところで、たまを拾ったんだもの。そのほかには、一度だって塀を越したことなぞありゃしない」

「じゃ、そのボールに何か目印でもつけてあったのかい」

「いや、そんなものはないけれど、たまが塀を越して、捜してみると庭の中に落ちていたんだから、まちがいっこないよ」

「しかし、こういうことも考えうるね.きみが拾ったボールは、実燮、の時打ったやつではなくて、以削からそこに落ちていたボールであった、ということもね」

「そりゃそうだけれど、だっておかしいよ」

「でも、そう考えるほかに方法がないじゃないか。このヒパチの中にボールがある以上は、そして、ちようどその時鉄ビンのくつがえったという一致がある以上は。きみは時々この庭の中ヘボールを打月ち込みはしないかい。そして、ひょっとして、その時捜しても、植込みが茂っていたりして、わからないままになってしまったようなことはないだろうか」

「それけはわからないけれど……」

「で、これが最も肝要な点なのだが、そのボールが塀を越したという時間だね、それがもしや、にいさんの死んだ時と一致してやしないかい?」

 その瞬間、二郎はハッとしたように、顔の色を変えた。そして、しばらく言いしぶったあとで、やっとこう答えた。

「考えてみると、それが偶然一致しているんだ。変だな、変だな」

 そうしで、彼はにわかにそわそわと落ちつかぬ様子を示した。

「偶然ではないよ。そんなに偶然がいくつも重なるということはないよ」庄太郎は勝ちほこって言った。「まず灰神楽だ。灰の中のボールだ。それから、きみたちの打ったたまが塀を越した時間だ。それがことごとく、にいさんの死んだ時と前後しているじゃないか。偶然にしては、あまり'そろいすぎているよ」

 二郎はじっと一つところを見つめて、何かに考えふけっていた。顔は青ざめ、鼻の頭にはアワ粒のような汗の玉が浮かんでいた。庄太郎はひそかに計画の奏効を喜んだ。彼はその問題のボールの打者が、ほかならぬ二郎自身であったことを知っていたのだ。

「きみはもう、ぼくが何を言おうとしているかを推察しただろう。その時ボールが、杉の木を通り越してここの障子のあいだから、にいさんの前へ飛んで来たのだよ。そして、ちょうどその時にいさんは、きみも知っているとおり、ピストルをいじることの好きなにいさんは、たまを込め,たそれを、顔の前でもてあそんでいたのだよ。偶然指がひきがねにかかっていたのだね。ボールがにいさんの手を打った拍子に、ピストルを発射したのだ。そして、にいさんは自分の手で自分の額を打ったのだよ。ぼくはそれに似た事件を、外国の雑誌で読んだことがある。それから、そとで一度はずんだボールは、その余勢で鉄ビンをくつがえして、灰の中へ落ち込んだのだ。勢いがついているから、ボールはむろん灰の中へもぐってしまう。これはすべて仮定にすぎない。だが、非常にプロバビリティのある仮定ではないだろうか。先にも言ったとおり、偶然としてはあまりそろいすぎたさまざまの一致が、この解釈を裏書きしてはいないだろうか。警察のいうように、これから先、犯人が出ればともかく、いつまでもそれがわからないようなら、ぼくのこの推定を事実と見るほかはないのだ。ネ、きみはそうば思わないかい」

 二郎は返事をしようともしなかった。さっきからの姿勢を少しもくずさないで、じつと一つところを見つめていた。彼の顔には恐ろしい苦悶《くもん》の色が現われていた。

「とこうで、二郎君」庄太郎はここぞと、取って置きの質問を発した。「その時、塀を越したボールを打つたのは、いったいだれだい。ぎみの友だちかい。その男は、考えてみれば、罪の深いことをしたものだね」

 二郎はそれでも答えなかった。見ると、彼の大きく見張った目じりから、ギラギラと涙がわき上がっていた。

「だがきみ、何もそう心配することはないよ」庄太郎はもうこれでじゅうぶんだと思った。「もし、ぼくの考えが当たっていたとしても、それは過失にすぎないのだ。ひょっとして、あのボールを打ったのがきみ自身であったところが、それはどうもしかたのないことだ。決してその人がにいさんを殺したわけではない。ああ、ぼくはつまらないことを言い出したね。きみ、気をわるくしてはいけないよ。じゃね、ぼくはこれから下へ行って、ねえさんにお悔みをいって来るから、もうきみは何も考えないことにしたまえ」

 そして彼は、かつてぶざまにすべり落ちたあの梯子段《はしごだん》を、意気揚々と下って行くのであった。


5

 庄太郎の突拍子《とつぴようし》もない計画は、まんまと成功したのである。あの調子なら、二郎は今にたまらなくなって、彼が事実だと信じている事柄を、警察に申し出るに相違ない。よしその以前に、庄太郎が嫌疑者として捕われるようなことがあっても、二郎の申し出さえあれば、わけなく疑いを晴らすことができる。彼の捏造《ねつぞう》した推理には、単なる事情推定による嫌疑者を釈放するには、じゅうぶんすぎるほどの真実味があるのだ。のみならず、それが自分の過失から兄を殺したと信じている二郎の口によって述べられる時は、いっそうの迫真性が加わるわけでもあった。

 庄太郎はもはやじゅうぶん安心することができた。そして、きのうの刑事が、いずれまたやって来るであろうが、彼が来た時にはああしてこうしてと、手落ちなくはかりごとをめぐらすのであのった。

 その次ぎの日の昼過ぎに、案の定○○警察署刑事○○○○氏が庄太郎の下宿をおとずれた。宿の主婦がささやき声で、

「また、このあいだの人が来ましたよ」

といって、その名剌を彼の机の上に置いた時にも、彼は決してさわがなかった。

「そうですか。なに、いいんですよ、ここへ通してください」

 すると、やがて階段に刑事の上がって来る足音が聞こえた。だが、妙なことには、それが一人の足音で昏はなく、二人、三人のそれらしく感じられるのだ。「おかしいな」と思いながら待っている目の辿削に、まず刑事らしい男の顔が現われ、そのうしろから、意外にも奥村二郎の顔がひょいとのぞいた。

「さては、先生もうあのことを警察に知らせたのだな」

 庄太郎はふとほほえみそうになったのを、やっとこらえた。

 だが、あれはいったい何者であろう、二郎の次ぎに現われた商人体の男は。庄太郎はその男を、どっかで見たような気がした。しかし、いくら考えてみても、どうした知り合いであるか、少しも思りい出せないのだ。

「きみが河合庄太郎か」刑事がおおへいな調子でいった。「オイ、番頭さん、この人だろうね」

 すると、番頭さんと呼ばれた商人体の男は、即座にうなずいて見せて、

「ええ、まちがいございません」

 というのだ。それを聞くと、庄太郎はハッとして、思わず立ち上がった。彼には一瞬間に、いっさいの事情がわかった.もはや運のつきなのだ。それにしても、どうしてこうも手早く彼の計画が破れたのであろう。二郎がそれを見破ろうとは、どうしても考えられない。彼はボールを打った本人である。時間も一致すれば、おあつらえ向きに障子があいていたばかりか、鉄ビンさえくつがえっていたのだ。この真に迫ったトリックを、どうして彼が気づくものか。それはきっと何か庄太郎自身に、錯誤《さくご》があったものに相違ない。だが、それはいったいどのような錯誤であったろう。

「きみは実際ひどい男だね。ぼくはうっかり、だまされてしまうところだった」二郎が腹立たしげにどなった。「だが、きのどくだけれど、きみはあんな小刀細工をやったばかりに、もう動きのとれない証拠を作ってしまったのだよ。あの時には、ぼくも気がつかなかったけれど、あすこにあったヒバチは、あれは兄が殺された時に、同じ場所に置いてあったのとは、別のヒバチなのだよ。きみは灰神楽のことをやかましく言っていたが、どうしてそこへ気づかなかったのだろうね。これが天罰というものだよ。灰神楽のために灰がすっかり固まってしまって、使えなくなったものだから、ばあやが別の新しいヒバチと、取り替えておいたのだよ。それは灰を入れてから一度も使わぬ分だから、ボールなんぞ落ち込む道理がないのだ。きみはぼくの家に、同じキリのヒバチが一つしかないとでも思っているのかい。ゆうべはじめて、そのことがわかった。ぼくはきみの悪だくみに、ほとほと感心してしまったよ。よくもあんな空ごとを考え出したもんだね。ぼくは当時あの部屋になかったヒバチに、ボールが落ちているとはおかしいと思って、よく考えてみると、どうも、きみの話し方に腑《ふ》に落ちないところがある。で、とにかく、きょう早朝刑事さんに話してみたのだ」

「運動具を売つている家はこの町にもたくさんはないから、すぐわかったよ。きみはこの番頭さんを覚えていないかね。きのうの昼ごろ、きみはこの人からボールを一個買い取ったではないか。そして、それをどろでよごして、さも古い品のように見せかけて、奥村さんのところのヒバチへ入れたのじゃないか」

 刑事が吐き出すようにいった。

「自分で入れておいて、自分で捜し出すのだから、わけないや」

 二郎が大きな声で笑いだした。

 庄太郎こそは、まさに御念の入った『犯罪者の愚挙』を演じたものに相違なかった。
                             (『大衆文芸』大正十五年三月号)
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