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谷崎潤一郎「「少年世界」への論文」

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amizako

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谷崎潤一郎
「少年世界」への論文
大正六年五月號「文章倶樂部」(文壇諸家立志の動機)

私は日本橋の小學校、府立の第一中學校、それから司高の英法科を經て大學の國文科へ入つたのであるが、いよ〳〵文筆で立たうと思ひ定めたのは、一高を出て大學へ入つた時である。
小學校にゐる時、漢學塾へ通つてゐたので、漢文のクラシックは大概その頃に讀み、和文の方も大抵讀んだ。中學では、私と黒田鵬心君と土岐哀果君とが文藝部委員をやつてゐた。そして私は中々の勉強家であつた。多分三年位までは首席でゐた。私の上級に故恒川陽一郎君がゐたが、一級飛び越したので一緒になつた。眞面目な勉強が主で、學校の雜誌にも論文のやうなものばかり書いてゐた。投書時代といふやうなものもなかつた。たつた一度「少年世界」へ論文めいたものを出して、三等賞を得たことがあつた。
高等學校でも成績は可成りよくて、入學した次學期には二番になつてゐた。その頃三年に安倍能成氏や故魚住影雄氏がゐた。安倍氏の事はそれまで知らなかつたが、一度學校で「クオブヂス」の演説をしたのを聽いて感心してしまひ、それから氏の名が記憶に殘るやうになつた。そして演説を聽いて歸つてから、學校の書物はそつち除けにして、一週間ばかりといふもの、「クオヷヂス」に讀み耽つてゐた。
二年になると、次へ入つて來たのが和辻哲郎君や故大貫晶川君であつた。大貫君とは中學時代から一緒でもあり、又一番の親友であつた。よく喧嘩をしたが、死ぬまで仲よしであつた。
私は一高でも文藝部の委員になつた。二年の時初めて小説のやうなものを書いた。それは子規の寫生文を模倣したやうなものであつたが、今見てもそんなに拙いものではないと思ふ。讀んだものは、矢張りその頃流行したイプセンやモウパツサンなどであつた。モウパツサンの短篇集を買つて來て机の上に並べて置くと、友達が面白がつて順々に借りて行つて囘讀した。
その頃戀をした。そんな事が原因になつて、二年から三年にかけて怠け出した。そして種々な遊びを覺えた。
高等學校を出る時の成績は、中から二三番下だつたと思ふ。
大學へ入つて、廿五の時に和辻君、大貫君、後藤末雄君、小泉鐵君、木村莊太君等と一緒に「新思潮」を始めた。初號が發賣禁止を食つて、隨分手痛い目に會つた。それでもお互に自分達の作物を、悉く傑作の積りで自慢し合つた。その時の私の處女作は脚本の「誕生」であつた。それは帝國文學へ出さうと思つて書いたものであつたが、帝國文學で握りつぶされたので、恰度「新思潮」の創刊號に、.他に何も間に合はない爲めに責ふさぎに出したのであつた。所が發賣禁止の傍杖を喰つたので、途に世に出ないでしまつた。次いで「刺青」を「新思潮」の第三號へ出した。發費禁止が怖しさに、原作と違へて大分削り取つた。
その後「信西」を「スバル」に出した。これが原稿料をとつた最初であつた。この頃に、授業料未納の廉で大學へ出られなくなつた。「新思潮」は七八月つゞいて倒れてしまつたが、もう其の頃は、創作家として立たうと云ふ私の決心も定まつて居た。それで大學の方も、その儘構はずに置いた。

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