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江戸川乱歩「そろばんが恋を語る話」」(2016/01/30 (土) 23:18:21) の最新版変更点

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 ○○造船株式会社会計係のTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へはいると、がいとうと帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。  出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。  Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、かれの助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして、何かこう、盗みでもするような格好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一丁のそろばんを取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきで、その玉をパチパチはじきました。 「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭なりか。フフ」  かれはそこにおかれた非常に大きな金額を読みあげて、妙な笑い方をしました。そして、そのそろばんをそのままS子のデスクのなるべく目につきやすい場所へおいて、自分の席に帰ると、なにげなくその日の仕事に取りかかるのでした。  まもなく、ひとりの事務員がドアをあけてはいって来ました。 「やア、ばかに早いですね」  かれは驚いたように、Tにあいさつしました。 「おはよう」  Tは内気者らしく、のどへつまったような声で答えました。普通の事務員同士であったら、ここで何か景気のいい冗談の一つも取りかわすのでしょうが、Tのまじめな性質を知っている相手は、気づまりのように、そのままだまって自分の席に着くと、バタンバタン音をさせて、帳簿などを取り出すのでした。  やがて、次から次へと、事務員たちがはいって来ました。そして、その中には、もちろん、Tの助手のS子もまじっていたのです。彼女は隣席のTのほうへ丁寧にあいさつをしておいて、自分のデスクに着きました。  Tはいっしょうけんめいに仕事をしているような顔をして、そっと彼女の動作に注意していました。 「彼女は机の上のそろばんに気がつくだろうか」  かれはヒヤヒヤしながら横目でそれを見ていたのです。ところが、Tの失望したことは、彼女はそこにそろばんが出ていることを少しもあやしまないで、さっさとそれをわきへのけると、背皮に金文字で、 『原価計算簿』としるした大きな帳簿を取り出して、机の上にひろげるのでした。それを見たTは、がっかりしてしまいました。かれの計画はまんまと失敗に帰したのです。 「だが、いちどぐらい失敗したって失望することはない。S子が気づくまで、なんどだって繰り返せばいいのだ」  Tは心の中でそう思って、やっと気をとりなおしました。そして、いつものように、まじめくさって、あたえられた仕事にいそしむのでした。  ほかの事務員たちは、てんでに冗談をいいあったり、不平をこぼしあったり、一日ざわざわ騒いでいるのに、Tだけはその仲間にくわわらないで、退出時間がくるまでは、むっつりとして、こつこつ仕事をしていました。 「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」  Tはその翌日も、S子のそろばんに同じ金額をはじいて、机の上の目につく場所へおぎました。そして、きのうと同じように、S子が出勤して席に着くとぎの様子を熱心に見まもっていました。すると、彼女はやっぱりなんの気もつかないで、そのそろばんをわきへのけてしまうのです。  その次の日もまた次の日も、五日のあいだ同じことが繰り返されました。そして、六日めの朝のことです。その日はどうかしてS子がいつもより早く出勤してぎました。それはちょうど、例の金額を、S子のそろばんにおいて、やっと自分の席へもどったばかりのところだったものですから、Tは少なからずうろたえました。もしや今、そろばんをおいているところを見られはしなかったか。かれはビクビクしながら、S子の顔を見ました。しかし、しあわせにも、彼女は何も知らぬように、いつもの丁寧なあいさつをして自席に着ぎました。  事務室にはTとS子ただふたりきりでした。「こんどの××丸は、もうやがてボイラーを取りつける時分ですが、製造原価のほうもだいぶかさみましたろうね」  Tはてれかくしのように、こんなことを問いかけました。おくびょう者のかれは、こうした絶好の機会にも、とても仕事以外のことは口がぎけないのです。 「ええ、工賃をまぜると、もう八十万円(今の数億円に当たる)を越しましたわ」  S子はちらっとTの顔を見て答えました。「そうですか。こんどのはだいぶ大仕事ですね。でも、うまいもんですよ。そいつを倍にも売りつけるんですからね」  ああ、おれはとんでもない下品なことをいってしまった。Tはそれに気づくと、思わず顔を赤くしました。この普通の人々にはなんでもないようなことが、Tには非常に気になるのです。そして、その赤面したところを相手に見られたという意識が、かれのほおをいっそうほてらせます。かれは変なからせきをしながら、あらぬほうを向いて、それをごまかそうとしました。しかし、S子は、このりっぱな口ひげをはやした上役のTが、まさかそんなことでろうばいしていようとは気づぎませんから、なにげなく、かれのことばに相づちを打つのでした。  そうして二言三言話しあっているうちに、ふとS子は机の上の例のそろばんに目をつけました。Tは思わずハッとして、彼女の目つきに注意しましたが、彼女は、ただちょっとのあいだ、そのばかばかしく大ぎな金額を、不審そうに見たばかりで、すぐ目を上げて会話を続けるのです。Tはまたしても失望を繰り返さねばなりませんでした。  それからまた数日のあいだ、同じことがしつように続けられました。Tは毎朝、S子の席に着くときを、おそろしいような楽しいような気持ちで待ちました。でも、ふつか三日とたつうちには、S子も、帰るとぎには本立てへかたづけておくそろばんが、朝来てみると必ず机のまんなかにキチンとおいてあるのを、どうやら不審がっている様子でした。そこに、いつも同じ数字が示されているのにも気がついた様子です。あるとぎなぞは声を出して、その十二億四千うんぬんの金額を読んでいたくらいです。  そして、ある日、とうとうTの計画が成功しました。それは、最初から二週間もたった時分でしたが、その朝はS子がいつもより長いあいだ例のそろばんを見つめていました。小首をかたむけてなにか考え込んでいるのです。Tはもう胸をドキドキさせながら、彼女の表情を、どんなささいな変化も見のがすまいと、異常な熱心さでじっと見まもっていました。息づまるような数分間でした。が、しばらくすると、突然、何かハッとした様子で、S子がかれのほうをふり向ぎました。そして、ふたりの目がパッタリ出あってしまったのです。  Tはその瞬間、彼女が何もかも悟ったに相違ないと感じました。というのは、彼女はTの意昧ありげな凝視に気づくと、いぎなりまっかになって、あちらを向いてしまったからです。もっとも、とりようによっては、彼女はただ、男から見つめられていたのに気づいて、その恥ずかしさで赤面したのかもしれないのですが、のぼせ上がったそのときのTには、そこまで考える余裕はありません。かれは自分も赤くなりながら、しかし非常な満足をもって、紅のように染まった彼女の美しい耳たぶを、気もそぞろにながめたことです。  ここでちょっと、Tのこの不思議な行為について説明しておかねばなりません。  読む人はすでに推察されたことと思いますが、Tは世にも内気な男でした。そして、それが女に対しては、いっそうひどいのです。かれは学校を出てまだまもないのではありますけれど、それにしても、三十近い今日まで、なんと、いちども恋をしたことがない、いや、ろくろく若い女と口をきいたことすらないのです。むろん、機会がなかったわけではありません。ちょっと想像もでぎないほどおくびょうな、かれの性質が災いしたのです。それは、一つは、かれが自分の容貌に自信を持ちえないからでもありました。うっかり恋をうちあけて、もしはねつけられたら、それがこわいのでした。おくびょうでいながら人一倍自尊心の強いかれは、そうして恋を拒絶せられた場合の、気まずさ恥ずかしさが、何よりも恐ろしく感じられたのです。 「あんないけすかない人っちゃないわ」  そういったゾッとするようなことばが、容貌に自信のないかれの耳もとで絶えず聞こえていました。  ところが、さしものかれも、こんどばかりは、しんぼうしきれなかったとみえます。S子はそれほど、かれの心をとらえたのです。しかし、かれにはそれを正面から堂女と訴えるだけの勇気はもちろんありませんでした。なんとかして、拒絶された場合にも、少しも恥ずかしくないような方法はないものかしら。ひきょうにも、かれはそんなことを考えるようになりました。そして、こうした男に特有の異常なしつようさをもって、種々な方法を考えては打ち消し、脅えては打ち消しするのでした。  かれは会社で、当のS子と席をならべて事務をとりながらも、そして彼女にさりげなく仕事のうえの会話を取りかわしながらも、たえずそのことばかり考えていました。帳簿をつけるとぎも、そろばんをはじくとぎも、少しも忘れる暇はないのです。すると、ある日のことでした。かれはそろばんをはじきながら、ふと妙なことを考えつきました。 「少しわかりにくいかもしれぬが、これなら申しぶんがないな」  かれはニヤリと会心のえみを浮かべたことです。かれの会社では、数十人の職工たちに毎月二回にわけて賃銀を支払うことになっていて、会計部は、そのつど工場から回されるタイム・カードによって、各職工の賃銀を計算し、ひとりひとりの賃銀袋にそれを入れて、各部の職長に手渡すまでの仕事をやるのでした。そのためには、数名の賃銀計算係というものがいるのですけれど、非常にいそがしい仕事だものですから、多くの場合には、会計部の手すきのものが総出で、読み合わせからなにから、てつだうことになっていました。  その際に、記帳のつこう上、いつも何千というカードを、職工の姓名のかしら字で「いろは」順に仕分けをする必要があるのです。はじめのうちは、机をとりのけて広くした場所へ、それをただ「いろは」順にならべていくことにしていましたが、それでは手間どるというので、一度アカサタナハマヤラワと分類して、そのおのおのを、さらにアイウエオなりカキクケコなりに仕分ける方法をとることにしました。それを始終やっているものですから、会計部のものはアイウエオ五十音の位置を、もうそらんじているのです。たとえば、「野崎」といえば五行め(ナ行)の第五番というふうに、すぐ頭に浮かぶのです。  Tはこれを逆に適用して、そろばんにあらわした数字によって簡単な暗号通信をやろうとしたのです。つまり、ノの字を現わすためには五十五とそろばんをおけばよいのです。それがのべつに続いていては、ちょっとわかりにくいかもしれませんけれど、よく見ているうちには、日ごろおなじみの数ですから、いつか気づくとぎがあるに相違ありません。  ではかれはS子にどういうことばを通信したか、こころみにそれを解いてみましょうか。  十二億は一行め(ア行)の第二字という意味ですからイです。四千五百は四行め(タ行)の第五字ですからトです。同様にして三十二万はシ、二千二百はキ、二十二円もキ、七十二銭はミです。すなわち「いとしききみ」となります。「いとしききみ」もしこれを口にしたり、文章に書くのでしたら、Tには恥ずかしくて、とてもできなかったでしょうが、こういうふうにそろばんにおくのならば平気です。ほかのものに悟られた場合には、なに、偶然そろばんの玉がそんなふうにならんでいたんだ、といい抜けることができます。だいいち、手紙などと違って、証拠の残る憂いがないのです。実に、万全の策といわねばなりません。さいわいにして、S子がこれを解読して受け入れてくれればよし、万一そうでなかったとしても、彼女には、ことばや手紙で訴えたのと違って、あらわに拒絶することもできなければ、それを人にふいちょうするわけにもいかないのです。さて、この方法はどうやら成功したらしく思われます。 「あのS子のそぶりでは、まず十中八九はだいじょうぶだ」  これならいよいよだいじょうぶだと思ったTは、こんどは少し金額をかえて、 「六十二万五千五百八十一円七十一銭」  とおきました。それをまた数日のあいだ続けたのです。これも前と同じ方法であてはめてみれば、すーぐわかるのですが、「ヒノヤマ」となります。樋の山というのは、会社からあまり遠くない小山の上にある、その町の小さな遊園地でした。Tはこうして、あいびきの場所まで通信しはじめたのです。  そのある日のことでした。もうじゅうぶん暗黙の了解がなりたっていると確信していたにかかわらず、Tはまだ仕事以外のことばを話しかける勇気がなく、あいかわらず帳簿のことなぞを話題にして、S子と話していました。すると、ちょっと会話のとぎれたあとで、S子はTの顔をジロジロ見ながら、そのかわいい口もとにちょっとえみを浮かべて、こんなことをいうのです。  「ここへそろばんをお出しになるの、あなたでしょ。もうせんからね。あたし、どういうわけだろうと思っていましたわ」  Tはギックリしましたが、ここでそれを否定しては、せっかくの苦心が水のあわだと思ったものですから、満身の勇気をふるい起こして、こう答えました。  「ええ、ぼくですよ」  だが、なさけないことに、その声はおびただしくふるえていました。  「あら、やっぱりそうでしたの。ホホホホ」  そうして彼女は、すぐほかの話題に話をそら.してしまったことですが、TにはそのときのS子のことばが、いつまでも忘れられないのでした。彼女はどういうわけであんなことをいったのでしょう。肯定のようにもとれます。そうかと思えばまた、まるで無邪気になにごとも気づいていないようでもあります。  「女の心持ちなんて、おれにはとてもわからない」  かれはいまさらのように嘆息するのでした。 「だが、ともあれ、最後までやってみよう。たとえ、すっかり感づいていても、彼女もやっぱり恥ずかしいのだ」  かれにはそれが、まんざらうぬぼれのためばかりだとも考えられぬのでした。そこで、その翌日、こんどは思いきって、 「二二八五一三二一一四九二、五二」  とおきました。「キヨウカエリニ」すなわち「きょう帰りに」という意味です。これで一か八か、かたがつこうというものです。きょう社の帰りに、彼女が樋の山遊園地へ来ればよし、もし来なければ、こんどの計画は全然失敗なのです。 「きょう帰りに」その意味を悟ったとき、うぶな少女は、ひとかたならず胸騒ぎを覚えたに相違ありません。だが、あのとりすました平気らしい様子はどうしたことでしょう。ああ、吉か凶か、なんというもどかしさだ。Tはその日にかぎって退社時間が待ち遠しくてしかたがありませんでした。仕事なんかほとんど手につかないのです。  でも、やがて待ちに待った退社時間の四時がきました。事務室のそこごこにバタンバタンと帳簿などをかたづける音がして、気の早い連中は、もうがいとうを着ています。Tはじっとはやる心をおさえて、S子の様子を注意していました。もし、彼女がかれのさしずにしたがって指定の場所に来るつもりなら、いかに平気をよそおっていても、帰りのあいさつをするときには、どこか態度にそれが現われぬはずはないと考えたのです。  しかし、ああ、やっぱりダメなのかな。彼女がTにいつもとおなじ丁寧なあいさつを残して、そこの壁にかけてあったえり巻ぎをとり、ドアをあけて事務室を出ていってしまうまで、彼女の表情や態度からは、常にかわったなにものをも見いだすことができないのでした。  思いまよったTは、ぼんやりと彼女のあとを見送ったまま、席を立とうともしませんでした。 「ざまをみろ。おまえのような男は、年が年じゅう、コツコツと仕事さえしていればいいのだ。恋なんか柄にないのだ」  かれは、われとわが身をのろわないではいられませんでした。そして、光を失った悲しげな目で、じっと一つところを見つめたまま、いつまでもいつまでも、かいないもの思いにふけるのでした。  ところが、しばらくそうしているうちに、かれはふと、あるものを発見しました。今まで少しも気づかないでいた、S子のきれいにかたづけられた机の上に、これはどうしたというのでしょう。かれが毎朝やるとおりに、あのそろばんがチャンとおいてあるではありませんか。  思いがけぬ喜びが、ハッとかれの胸をおどらせました。かれはいきなりそのそばへ寄って、そこに示された数字を読んでみました。 「八三二二七一、三三」  スーッと熱いものが、かれの頭の中にひろがりました。そして、にわかにはやまった動気が、耳もとで、早鐘のように鳴り響きました。そのそろばんには、かれのとおなじ暗号で「ゆきます」とおかれてあったのです。S子がかれに残していった返事でなくてなんでしょう。  かれはやにわに、がいとうと帽子をとると、机の上をかたづけることさえ忘れてしまって、いきなり事務室を飛び出しました。そして、,そこにじっとたたずんで、かれの来るのを待ちわびているS子の姿を想像しながら、息せききって樋の山遊園地へと駆けつけました。  そこは遊園地といっても、小山のいただきにちょっとした広場があって、一、二軒の茶店が出ているきりの、見はらしがよいというほかにはとりえのない場所なのですが、見れば、もうその茶店も店をとじてしまって、ガランとした広場には、暮れるに間のない赤茶けた日光が、木立ちの影を長々と地上にしるしているばかりで、人っ子ひとりいないではありませんか。 「じゃ、きっと、彼女は着物でも着かえるために、いちど家に帰ったのだろう。なるほど、考えてみれば、あの古いエビ茶のはかまをはいた事務員姿では、まさか来られまいからな」  そろばんの返事に安心しきったかれは、そこにほうり出してあった茶店のしょうぎに腰かけて、タバコをふかしながら、この生まれてはじめての待つ身のつらさを、どうして、つらいどころか、はなはだ甘い気持ちで昧わうのでした。  しかし、S子はなかなかやって来ないのです。あたりはだんだん薄暗くなってきます。悲しげなカラスどもの鳴き声や、間近の停車場から聞こえてくる汽笛の音などが、広場のまん中にひとりぽつねんと腰をかけているTの心にさびしく響いてぎます。  やがて夜が来ました。広場のところどころに立てられた電灯が、寒く光りはじめます。こうなると、さすがのTも、不安を感じないではいられませんでした。 「ひょっとしたら、うちの首尾がわるくて出られないのかもしれない」  今では、それが唯一の望みでした。 「それともまた、おれの思い違いではないかしら。あれは暗号でもなんでもなかったのかもしれない」  かれはいらいらしながら、そのへんをあちらこちらと歩き回るのでした。心の中がまるでからっぼになってしまって、ただ頭だけがカッカとほてるのです。S子のいろいろの姿態が、表情が、ことばが、それからそれへと目先に浮かんできます。 「きっと、彼女も家でくよくよ、おれのことを心配しているのだ」  そう思うときには、かれの心臓は熱病のようにはげしく鳴るのです。しかし、またあるときは、身も世もあられぬ焦燥がおそってぎます。そして、この寒空に来ぬ人を待って、いつまでもこんなところにうろついているわが身が、腹だたしいほどおろかに思われるのです。  二時間以上もむなしく待ったでしょうか。もうしんぼうしきれなくなったかれは、やがてとぼとぼと力ない足どりで山を降りはじめました。  そして、山のなかばほどおりたときです。かれはハッとしたように、そこへ立ちすくみました。ふと、とんでもない考えが、かれの頭に浮かんだのです。 「だが、はたしてそんなことがありうるだろうか」  かれはそのばかばかしい考えを、一笑に付してしまおうとしました。しかし、いちど浮かんだ疑いは、容易に消し去るべくもありません。かれはもう、それを確かめてみないでは、じっとしていられないのでした。  かれは大急ぎで会社へ引き返しました。そして、小使に会計部の事務室のドアを開かせると、やにわにS子の机の前へいって、そこの本立てに立ててあった原価計算簿を取り出し、××丸の製造原価を記入した部分を開きました。 「八十三万二千二百七十一円三十三銭」  これはまあ、なんという奇跡でしょう。その帳じりの締め高は、偶然にも「ゆきます」というあの暗号に一致していたではありませんか。きょうS子は、その締め高を計算したまま、そろばんをかたづけるのを忘れて帰ったというにすぎないのです。そして、それは決して恋の通信などではなくて、ただ魂のない数字のられっだったのです。  あまりのことに、あっけにとられたかれは、一種異様な顔つぎで、ボンヤリとそののろわしい数字をながめていました。すべての思考力を失ったかれの頭の中には、かれの十数日にわたるさんたんたる焦慮などには少しも気づかないで、あの快活な笑い声をたてながら、暖かい家庭で無邪気に談笑しているS子の姿が、まざまざと浮かんでくるのでした。      (『写真報知』大正十四年四月ごろ)

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