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大下宇陀児「石の下の記録」(3)」(2017/01/05 (木) 14:09:20) の最新版変更点

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血の部屋 一  夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透 明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあ たえた。  何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみ ても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、 午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎてい る。  二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだった が、驚きは、向うでも、大きい風だった。 「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」  そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の 先きまで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いてい た白いエナメル塗りのハンド。バッグから、白い小さなハン ケチを出した。  疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさ えている。 げ: 「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いた 、わ。 一時間もl」 「どこへ行ってらしたんですか」  と友杉が聞いたが、その時、向うもこっちも、何か。バカ バカしい間違いが起ったのだということが、頭の中へ閃め くようにしてわかってきた。 「こんなことじゃないかって、あたしもう、いくども考え ながら帰ってきたのよ。有吉ちゃん、どこも、怪我なんか してないわね」 「ええ、そんなことは。1いったい、母さん、どうした んですか」  と有吉が、心配な眼つきになった。 「パヵバカしいの。有吉ちゃんが、怪我したっていって電 話があったのよ」 「おかしいですね。誰からですか」 「男の声だったって、山岸さんがいっていたわ。あたし じゃなくて、山岸さんが電話へ出たものですからね」 「で、その男が?……」 「有吉ちゃんが、喧嘩で斬られて怪我している……有吉 ちゃんに頼まれて電話をかけるのだが、家の人にすぐ来て くれるようにっていってるのよ。所も番地もハッキリと          うけおいし いって、草野という請負師か何かの家で、そこの家の二階 へ、ともかく寝かしてあるから、というんだったわ。あた しは、友杉さんが有吉ちゃんをつれて、いまにも帰ってく るかと思って待っていたところなの。友杉さんのこと、電 話じゃ、何も言わなかったっていうから、なんだかわけが わからないけど、その時はまだ電車があったし、向うで病 院へ入れるなりどうなりしなくちゃと思って、あたし、す ぐに出かけてみると、おどろいたわ。その草野という家、 いくら探したってないんですもの。交番へ行って聞いてみ たり、番地違いか丁目違いかと思って、さんざんそこら ほっつきまわって、そのあげくがとうとうあきらめて帰っ てきたのよ。くたびれて、くたんくたんになっちゃった。 早稲田の近くの淋しい場所で、とてもあたしたいへんだっ たわ……」  友杉にも有吉にも、その電話の意味はわからない。悪戯 にしては念が入りすぎている。とすると、どんな目的があ ってのことであろうか。  有吉は、早稲田になど、行きはしなかった。神田で麻雀 やっていたのだと、友杉が話した。そして果物籠の金のこ とはあとで話す、そんなに心配したほどのことはないと、 眼で知らせた。 「そうなの。よかったわ。有吉ちゃんにまちがいさえなけ れば。……さア、家へ入りましょうよ。お父さまが、有吉 ちゃんのこと、とても気にして、待ってらつしゃるんだか ら」  門のくぐりは、戸締りがしてなく、面目なげな顔つき の、有吉が先きに立ってはいって行った。玄関までが、斜 めに右手へ十五六歩ほどで、砂利の道の両側に、松やひば やつつじの株が植えてあり、つつじは、おくれ咲きの白い 花をつけている。とつぜん、 「あら、いやだ1」  と、貴美子夫人が、叫ぶようにいった。 「山岸さん、どうしたんでしょ。用心が悪いから、あたし の出たあと、門のくぐりだけあけといて、玄関は、しめと くようにって、いっといたのよ。ーいいえ、そうだっ た。山岸さん、たしかに内から戸締りして、そして電燈を 消したはずだったわ……」  だのに、玄関は、明るみが、外まで流れだしている。そ れのみではない。格子にガラスの引戸が、誰か今、人が出 て行ったばかりというように、二尺ほどあいたままになっ ているのであった。  不安だった。  なにか、つめたくて、重量のあるものが、ドスンと腹の 底へ、おりて行った。 「ぼくが呼んでみましょう」  友杉が、先きに玄関へはいり、「山岸さん、山岸さん」 と呼んだが返事はない。  貴美子夫人は、靴をぬいだ。  あわてたので、ソックスがいっしょにぬげそうになり、 かかと 踵で折れたたまって踏み心地が悪かったが、それをなおし ているひまがなかった。廊下にも、奥の部屋にも、台所に も、電燈がついている。ふみやの姿は見えなかった。まっ さきに気にしたのは、お納戸の箪笥で、のぞくと、思った とおり、抽斗がいくつか引きだしてあって、衣類が乱雑に 投げちらしてあった。 「やられたわ。どろぼうよ!」  いったあとで、箪笥の角に、いや、角だけではない、そ こらに、ベタベタと、血がついているのに気がついた。  失神しそうになって、うしろへよろけてきた貴美子夫人 を、有吉が両腕で抱きとめた。そして、友杉が、廊下を走 りもどって二階への階段をあがると、書斎の入口まで来た ところで、身動きができなくなってしまった。  書斎は、血の部屋だった。  代議士藤井有太は、血みどろになり、惨殺されていた。 二  所轄K署で、事件発生の知らせをうけたのは、午前二時 を五分過ぎた時であった。  署長は、官舎で寝ていたが、叩き起された。署僚警部の 自宅へも通知が行った。むろん、本庁の捜査課鑑識課へも 連絡をとった。代議士が殺されたということは、大事件で ある。政治的に波及するものがあるかも知れない。現場臨 検もとくに慎重にやらないと、あとで何か思いもよらぬ問 題を起すことがないとはいえない。終戦後、管内で殺人事 件がいくつか起った。しかし、これは、最大の事件だとい うことを、誰もすぐに考えた。夜の明けるのを待つなどと                     おおぼり いう、悠長なことはできなかった。肥満した大堀捜査課長 が、じきに自動車で現場へやってきた。それにつづいて検 事の顔も見えた。たちまち藤井家は、係官の姿でいっぱい になった。ふいに、門のあたりで、なにかどなり合う声が したが、それは、記者クラブの連中が、現場を見せうとい うので、見張りの巡査と喧嘩になったからである。そっと 塀をのりこしてはいって来て、庭の桜の木によじのぼり、 フラッシュをたいた写真班の記者があった。その記者は、 三人の巡査が包囲して、じきに樹上から引きずりおろし た。  女中の山岸ふみが、ボンヤリした眼つきをして.大きな 青い風呂敷包みを背中にして帰ってきたのは、そういう騒 ぎのさい中である。風呂敷には、毛布と洗面器と氷枕と、 有吉の寝巻につかう浴衣が二枚、ほかにタオル石鹸などが はいっていた。巡査が、門の前で怪しんでふみやをつかま え、引きずるようにしてつれてきた。友杉が、ちょうどそ こにいて、この家の女中だと証言したが、ふみやは、旦那 様が殺されたのだと聞いて、へたへたと廊下へ膝をつい た。 「私は、早稲田まで、行ってきたのです。奥さまがお出か けになってから、一時間ばかりすると、また公衆電話がか かってきました。そうです、前のも同じ公衆電話でした。 そして、同じ男の人の声ですけれど、誰だかわかりませ ん。奥さまが、坊っちゃまを病院へお入れになった。だけ ど、病室に毛布もないし、寝巻もない。だから、それを 持って、すぐ早稲田まで来てくれっていうのでした。私、 お二階へ上って、旦那さまに、それを申上げたら、その時 は、旦那様は、ベッドのそばの台ランプをつけて、何か本 を読んでいらっしゃいました。そうか、よし、それじや 御苦労だが、行ってきてくれ、とおっしやって、私、戸締 りをし、出かけたのですけれども、もう電車はありません し、神楽坂から矢来へ出て参りまして、……」  それからあとは、貴美子夫人の場合と同じだったらし い。探しても探しても、電話で知らせてくれた病院は見つ からなかった。そして、また歩いて帰ってきたというので あった。  ふみやだけが、その時刻を、おぼえている。  有吉の入院に必要なものをかき集めて、出る時に台所の 戸棚の目ざましを見たら、もう十二時を二十分も過ぎてい たというのであったが、その時、藤井有太はまだ生きてい たはずであり、今はそれが、血みどろな死体になっている のであった。  二階の書斎は、四坪半の洋室である。  南と東へ向いた一部がガラス窓になっていて、東の窓に 近くデスクがあり、デスクにそなえつけの椅子のほかに、 来客用の椅子が二脚あった。北側に入口のドアと大きな書 棚、西の壁にそって、シングルのベッドがあり、このベッ ドの上で有太は殺されている。  頭部に、傷がアングリと口をあけている。  兇器は、まき割りの斧で、そのまき割りの斧が、デスク の横に、立てかけておいてある。それは友杉が、薪をつく る時につかうものだった。犯人は、それを、昔は自動車の ガレージであり、今は納屋にしてつかっている表の小屋か ら持ちだしてきているのである。眠っているところを、頭 上からいきなり兇器をふりおろしたのかも知れない。また は、眼がさめていても有太は、起き上ることができない身 体だったから、抵抗もせず、逃げもせず、やられたのだと も考えられる。血が、壁にまで飛び、また菊の花の模様が ついた青い絨毯のはしを、びっちょり濡らすまでに流れて いた。生前の有太は、血を見ることが極度に嫌いで、それ は病的なものに見えた。しかし、今は、その大嫌いな血の               ね なケ 海の中に、物も言わず、仰向けに寝長まっているのであっ た。  係官たちは、それぞれの部署に従って、死体をしらべ、 犯人の足あとや曳78留品をさがし、また家人を訊問して、事 件前後の事情を知ることに努めたが、最初にともかく明ら かだと思われたことは、この兇行が、単なる行きずりの強 盗などがやったことではなくて、ある程度藤井家の内情に 通じたものが、それもかなり計画的にやった仕業であると いうことであった。  有吉が怪我をしたという、公衆電話の意味が、いま、は じめてハヅキリしてきた。  それは、邸内への侵入を妨げるものを、できるだけ少な くするためだったのである。いったいが家人の少ない家だ った。代議士である。また藤井産業の社長である。だか ら、書生や女中がもっと多くいてもふしぎではないし、ガ レージもあるくらいだから、自動車をおいてあったり、そ の運転手がいてもいい。しかし有太は、戦時中に自動車を 軍へ取られて、それっきり自家用車を買わなかった。敗戦 国民は、敗戦国民らしい生活をしなくちゃならんといって いた。そのくらいだから、不便でも、人を多く置かなかっ た。有太夫妻に有吉、それに友杉とふみやとの五人だけで あった。そうして犯人は、少なくとも有吉が外出していた ことは、知っていたのにちがいない。もしかしたら、友杉 がやはり外出していたことも、知っていたのではあるまい か。あとは、貴美子夫人とふみやだけであった。そこで、 まず貴美子夫人をおびきだした。次に、適当な時間をおい て、ふみやをおびきだした。あとは、有太が一人だけであ る。有太を、一人だけにしておいて、さて犯行に着手した というわけであった。  死体の情況、血液のかたまりぐあい、そして電話のこと などからして、兇行は、午前一時前後だろうという推定が ついた。  そして、係官の頭の中では、次第にいろいろの考えが、 まとまりをつけてきていた。 「どうだろう。こいつは、この家へ出入りする人間を、 片っぱしから洗って行ったら、すぐに犯人がわかるんじや ないかな……」 「まず、そうだね。面識のあるやつだろう。顔を見られ ちゃぐあいが悪い。それで、家の者を外へ呼びだした。し かし、主人公の代議士だけ、呼びだすわけにいかなかっ た。そこで、殺してしまった……」 「待て、そこまで言うと、少し決定的になりすぎるね。コ ロシがシキのせいだとだけ考えると、はじめはコロシが目 的ではなくて、盗みが目的だったということになるだろう。 盗みも、なるほどやっている。簸笥をひっかきまわした跡 がある。衣類が、しかし、なくなってはいないんだよ」 「へえ、それは知らなかった。家の者がそういっているのか」 「しらべてもらった。すると、和服の方も洋服の方も、ど うやら、なくなったものはないらしいというのだ。但し、 服の生地が、これは昔の品で、背広二着分、しまってあっ たのが見えなくなっているのだそうだ。茶に青い縞がは いっているというが、ともかく、盗まれたのは、今のとこ ろ、それだけだからね」 「考えを変えなくちゃならんわけだな。現金とか、宝石と かは9」 「それも、無いというのだ。だから、盗みが目的だったと はいえなくなる。コロシが目的で、そのついでに、盗みを やろうと考えて、服の生地を二着分、盗んで行ったのかも 知れないし……イヤ、そうじゃないね。盗むなら、もっと たくさん盗めたはずじゃないのかな。この点は、なかなか 簡題だよ」 「コロシが目的で……コロシを目的だと見せないために、 盗みをやったということもないじゃないからね。イヤ、そ のくらいのことは、やりかねない奴だ。犯行が、ひどく兇 暴だ。斧で額をぶち割っている。野蛮なやり方だと思うん だが、一方じゃ、頭を使っているからね。家人を、呼びだ している。その口実が巧妙だ。こいつは、流しの強盗なん かじゃ、ぜったいやらないことだろう。電話は、公衆電話 だというんだったね」 「そうだ、公衆電話だ。どこの公衆電話だか、電話局でし らべたら、時刻も大体ハッキリしているし、わかるはずだ と思っている。電話をかけておいて、犯人は女中が出て行 くのを待っていた。それから、まきわりの斧を持ちだした ……」 「斧がどこにあるか、それも知っていたのかも知れない ね。入りと出のぐあいはどうなんだ」 「まだわからない。女中は、出かける時、戸締りをして行 ったという。玄関は内側から戸締りをした。それから、勝            ナンキンじよう 手口から出たが、外から南京錠をかけておいたのだそう で、この南京錠は、事件が発見された時も、そのままかけ てあった。だから犯人が、勝手口からはいったということ も考えられないわけだ。-出の方は、家の者が帰ってき た時、家の中に、消しておいたはずの電燈がついていて、 また玄関の戸があいていたというのだから、まずわかっ ている。玄関から出て行ったものにはちがいないのだがi」  出と入りとの問題は、重大であった。特に入りは、ガラ スを焼ききる、土台下を掘る、雨戸をはずす、錠前をこわ す、屋根をはがし、また汲取口からもぐりこむ、それぞれ 犯人常用の方法があって、その手口から、捜査の端緒をっ かむことが多い。しかし、この事件では、その点がまだま るっきりわからないのであった。  事件が発見されてから夜の明けるまでに、家人に対して の訊問が、何回となく繰返されていた。  その時、友杉や有吉が申立てたのは、彼らが帰る時に、 坂の途中で聞いたふしぎな足音のことである。あれこそ、 犯人だったのだろう。家で何が起っているのかを、その時 に知っていたら、足音を追いかけることもできたのであ る。今となっては、歯がみをして口惜しがっても取返しが つかない。友杉は、係官に向って告げた。 「足音の様子では、一人きりだったと思います。それに、 もしかしてあの坂に、土のやわらかいところでもあったと すると、そいつの足あとが残っているのじゃないでしよう か」  足あとは、ふみ荒されると、役に立たない。まだ暗かっ たが、刑事が二人、手提電燈を持って、坂をしらべに行っ たが、やがて、どうも、うまくない。坂の道路に砂利がは いっている。しかも、固く乾いている。足あとらしいもの は、発見できなかったという報告をもたらした。 三  貴美子夫人は、恐怖に圧倒され、また深い悲哀のうちに 沈みこんでいた。  はじめ、友杉が、有太の殺されていることを発見した直 後、彼女もおどろいて二階へかけ上ったが、書斎の入口に 立ち、血まみれな良人の死体を一目見ると、  「たいへんだ! 医者を……早く、医者を呼んでちょうだ い!」  わめくようにしてうしろをふりむいた。  すぐに眼が狂人のように輝き、部屋の中へとびこもうと したので、それは友杉が抱きとめたが、彼女は、有太がも う死んでいるのだとは信じない、どうしても医者を呼ぶの だといって頑張りつづけた。  悲鳴でもあげるかと思ったがそうではなくて、その代り に、非常に気が立っている。そうして、だまってほっとい たら、何かとんでもない、狂暴なことをでも、やりそうな 風が見える。  凄惨なこの部屋の様子を、長く見せておくのはよくない と気がつき、友杉と有吉と二人がかりで夫人を階下の室ま でつれ戻したが、すると、 「いったい、どうしたっていうのよ。なぜ、こんなことに なったのよ。1こんなことって、まるでわけがわからな い。ねえ、手を放してちょうだい。お願いよ。あたし、も ういっぺん行って見てくるわ。だめよ、だめよ、こんなバ カなことってないじゃないの。ねえ。あたしは、もうおち ついているわ。行かせてちょうだい、お願いだわ。ねえ ……」  夢にうなされたようにしていって、そのあと、はげしく 泣き伏してしまった。  有吉が、それまでのうちは、魂を引きぬかれたように、 キョトンとした眼つきをし、ただ途方にくれているという 風だったが、貴美子夫人の泣くのを見ると、急にこらえら れなくなったらしい。彼もその時、声を放って泣いた。 「ぼくが……悪いんだ。ぼくに、責任があるんだ。ぼくが 家へ帰らなかった。だから……ぼくのことで、みんなが外 へ出てしまって、その間にお父さんを殺した奴が、ノソノ ソとはいって来たんだ……」  くりかえし、そう叫んでいるのであった。  こういう混乱の中で、ただ一人友杉だけが、ともかく思 慮を失わずにいた。  警察へ電話をかけたのも彼である。  係官が来た時のことを思って、事件の起った屋部へ、家 の者をも、もう入れさせぬようにしていたのも彼である。  そうして彼は、係官が来る前に、貴美子夫人と有吉に、 一つだけ注意をあたえた。 「いいですか。有吉君については、有吉君が果物籠の金を 盗みだしたことを。なるべく警察へは知らせない方がいい と思いますからね。これは有吉君の恥です。知らせずにす むのだったら、知らせぬ方がいいんですからね。有吉君 は、麻雀で遅くなって、心配だったから、私が迎えに行っ たとだけ申立てておけばいいでしょう。1もしかして、 その金のことが、関係があるのだったら、私が警察へその ことを話します。まア、様子を見てからのことにしますか らね」  その金が、事件と関係があるとは思わなかった。だから 友杉としては、事件と切りはなし、有吉のために秘密に処 理してしまうつもりだったのである。金は、十五万円だけ 書棚の『日本史略』のケースに入っている。あとで五万円 尼じて諸内代議士に返してやる。それでょいのだと考・兄た わけであった。  係官の方では、金のことは知らずにいて、しかし有吉 が、麻雀で夜更かしをしたり、書生が心配して迎えに行く という点から、有吉の素行が、かなり不良なものであろう と推測した。 「息子が不良だとすると、その点で、何か問題がありゃし ないかねえ」 「そうさ。あるかも知れないな。殺された親父と仲が悪か ったとかなんとか……。そうだ、その点は調べておく必要 があるね」  係官は、相談をして、女中のふみやを呼ぶことにした が、ふみやは、何も気がつかずに、有太と有吉とが、あま り仲がよいとは思えなかったといった。親子でありなが ら、子は父を恐れ、父は子を憎んでいるように見える。最 近はそれほどでもないが、以前は、二人が口をきき合うの も珍らしいくらいであったと答えた。  係官は、ふみやを去らせたあとで、眼と眼を見合わして いる。  「ふしぎなのは、息子の態度が、われわれの前で、へんに オドオドしている点だよ。神田で麻雀をやっていたといっ ている。賭け麻雀だろう。賭博であげられるのを心配して いるのかとも思ったんだが……」 「犯人が、家の中の事情に通じている点から見ると、こい つは、も少し念入りにやる心要があるね。友杉という書生 と二人で神田から帰ってきた。しかし、友杉という男も、 態度が、へんだといえば、へんだからね。こいつは、ひど くしっかりしているんだ。一言一句、むだなことをいわな い。聞くことに応じて、実に要領よく答えている。ー待 でよ。兇器の斧は、あの書生がまき割りの時に使うやつだ づていうことだったね」  この上に、まだ不利なのは、時間の点が、あいまいにな っていることだった。  十二時をすぎるまで、神田の麻雀クラブ紅中軒にいたと いうが、何時何十分にクラブを出たのか、友杉も有吉もハ ヅキリ言えない。一方、兇行は午前一時前後だった。神田 にいたというのは嘘で、邸内へもっと早く帰っていたのか も知れない。それに、公衆電話が男の声であった。友杉か 有吉かが、その電話をかけたのだという疑いもわいてく る。 「よし!麻雀クラブを、夜が明けたら、すぐに当ってみ ることにしよう。二人の中立てと違っていたら、二人がホ シということになるかも知れんぞ。ー書生も息子も、家 へ帰る途中の坂で、犯人らしい者の足音を聞いたといって いる。ところが、足あとはありゃしないのだ。足あとの残 る場所でないことを知っていて、わざとそういうことを言 い、こっちの捜査方針を狂わせるつもりだったということ も十分考えられるのだからね」  誤解は誤解を生み、しかも係官は、誤解だと気がつかな いから、急にそこで元気づいてきていた。  1やがて、待ち設けていた朝がきた。  谷野という警部補が、さっそく神田の紅中軒へかけつけ たが、紅中軒では、昨夜麻雀を何時までうっていたのかと 訊かれると、主人が、取締り規則の違犯になっていること を心配したから、 「そうですね。十一時少し前に、店を閉めたと思います。 いえ、賭けなんか、ぜったいやらせませんよ。そして、規 則どおり、いつも十一時には、お客さまに、帰ってもらう ことにしておりますので……」  と嘘をついた。 「そうかね。これは、ある事件に関係したことで、非常に 重大な問題なんだよ。たしかに十一時以後麻雀をうってい た客はないのだね」 「まちがいなし、十一時でおしまいでした。事件てのは、 どういうことですか」 「新聞にも、いずれ出るだろうから、その時にわかるさ。 ついでに聞くが、昨夜の客のうちに、藤井有吉という男 と、友杉成人という男がきていたかね」  主人は、急に困った顔をしたが、そこまで嘘もつけなか ったと見える。 「ええと、その友杉っていう人は知りません。しかし、藤 井ってのなら、学生さんでしょう。藤井さんは、来ていま した」 「それで、藤井が帰ったのは?」 「十一時に少し前でしたろう。いえ、私は、奥にいました から、ハッキリしたことは知りません。しかし、十一時に 店をしめた時、藤井さんは、もういませんでしたから」  谷野警部補は凱歌をあげた。  まっしぐら、捜査本部のK署へ戻った。  これで、友杉と有吉とのアリバイが破れたことになるの である。昔のやり方だったら、すぐ二人をひっくくってし まってもよい。おとは、物的証拠を探すだけのことになっ たと考えてしまった。  ところが、その頃に、事件現場の藤井家では、有吉が、 もう一つ、係官の疑いを招くようなことをやってしまった のである。  有吉は、書棚の金のことが、気になってたまらなかっ た。  よせばよかったのに、自分の隠しておいた場所に、あの ままあるかどうかを、たしかめたくなった。  二階へ、一人で、上って行った。  すると、書斎の入口に、刑事が二人、まだ見張っている。 「ぼく、ちょっと、書斎へはいりたいんですが……」 「困りますね。死体を解剖へ送るまでは、なるべく、入っ でもらいたくないんですが」 「中をかきまわすんじゃないんです。調べたいことがあり ますから、辞書を見たいんです。一分間だけです。はいら せて下さい」  刑事は、眼と眼で相談した。そうしてよろしいと許可を して、しかし、じっと有吉のすることを眺めていた。  有吉は、書棚のガラス戸をあけ、辞書を探すふりをし て、そっと『日本史略』のケースを引っぱりだし、中をの ぞくと、思わず「あッ!」という声を立てた。『日本史 略』は二冊あり、はじめに見たのは上巻だったが、次に下 巻のヶースをのぞいても、やはり驚きの表情が、すぐ顔に 現われた。そうして、 「どうしたんです。何をびっくりしているんですか」  刑事が、目ざとく、そのケースのあるところへきたが、 「いえ、なんでもないんです。ただ、ちょっと……」  口をにごらして、赤い顔をして、有吉は書斎を出てきて しまった。  事情を知らぬ人から見ると、それは少なからず怪しい挙 動に見えた。  しかも、有吉が書斎を出て階下へ行こうとすると、友杉 は、有吉が二階へ何をしに行ったのかと心配し、階段を下 から上ってきたから、二人は、階段の踊り場で、バッタリ と顔をつき合した。 「友杉さん、たいへんですよ」 「どうしたの?」 「金が、なくなっているんです。隠しといた本のケース が、二冊ともからっぽになっているんですよ」 「え!」  声は低かったから、何を話したのか、刑事たちには、わ からなかった。  しかし、それは、十分に怪しい態度として見えたのであ る。 虚実  所轄K警察署の二階の、暗くてせまい廊下のつきたり のドアには、『藤井事件捜査本部』と、〆まりうまくない 字で大書した紙が貼りだされていた。  ドアは、ぐあいが悪いから、あけたてするたびに、ギギ イッという悲鳴をあげる。そのいやな音は、事件の起った 日、しきり問っきりなしに聞えていた。顔色のよくない若 い刑事が、藤井代議士邸へ出入していた人物について、新 しい聞込みがあったといって、眼つきを昂奮させて帰って くる。古参の見るからに老練らしい背の高い刑事が、すぐ にまた何かの命令をうけて外へとびだして行く。制服の巡 査が二人、事件現場見取図と附近略図の拡大したものを持 ってきて、ピンで壁に貼りつける。ー目まぐるしく係官 が、その室へ入れ代り立ち代りしているのであった。  午前十一時、代議士の死体を解剖した結果、やはり致命 傷は、斧で一撃された頭部の傷だと判明した旨の報告があ り、またべつに本庁鑑識課から事件現場階下の台所には、 犯人が血を洗い落して行った形跡があるのだと知らせてよ こした。そうしてそのあとへ、自動車で乗りつけてぎた刑 事部長が、この事件は、とくに迅速かつ慎重に処理しても らいたい、警視総監も心配しているのだからといって、捜 査課長以下の係官一同を激励して帰って行った。  署員が、食事の都合を聞きにくる。  新聞が、捜査経過を早く発表したらどうかといって催促 にくる。  卓上電話を二っ急設することになって、電気屋さんが、 コードをぐるぐると部屋中へひっばりまわしたが、する と、それができあがったとたんに、その二つの電話がいっ しょにジリジリ鳴りだしてしまった。 「被害者の息子……そうです、有吉についてです。学生 で、まだ十八歳だというんですが、情婦があるってことが わかりましたよ。相手の女も、H女学院の生徒で十七歳、                   なみぎ 会社重役の娘ですが……ええ、名前は、波木みはるってい うんです。好きで会ってるとか、手紙のやりとりをしてい るってんじゃなくて、もっと深いらしいですね。情婦です よ。二人で宜しくやってるんですよ」  という報告と、もう一つは、電話交換局を調べに行った 刑事からで、貴美子夫人とふみやをおびきだした電話が、 牛込公衆Bの八番であるとわかったことを知らせてきたも のである。その電話のボックスは、藤井家から約五〇〇メ ートルをへだてたT字型道路の角に立っていて、夜間は人 通りが淋れるから、利用者の数がきわめて少ない。前夜 は、十一時半ごろと十二時数分後との二回にわたって、そ こから藤井家を乎びだしたものがたしかにある。むろん、 それが犯人にちがいないというのでのった。  有吉について係長が、 「どうですか課長。おどろきましたね。議員さんの息子 も、これじゃすっかりもう与太もんですよ。麻雀ばくちは やる、ダンスホールへ行く、女もつくったというわけで す。ともかく、この女も洗ってみる心要があると思います が……」  やれやれといった顔でため息をつき、課長は、 「そうだね。見たとこは、おとなしい息子に見えるが意外 に悪くなってるんだね。まア、洗ってみなくちゃなるま い。ただ、息子が犯人だとはきまらないし、その娘の方も 事件と関係があるかどうかわからんだろう。若い者に、あ とで傷がつかないように注意してやることだ。ーぼくと しては、公衆電話の方が興味がある。現場と五〇〇メート ルの距離だ。歩いて五分あれば足りるだろう。犯人は電話 をかけておいて藤井家へ行った。そうして女中なり細君な りが、うその電話と知らないで外へ出て行くのを見てい た。それから、邸内へ侵入したという順序になるんじゃな いかね。くわしく地取りをしてみることだな。もしかし て、犯人が公衆電話のボックスにいる時、または、そこを 出て藤井家へ行く時……イヤ、待て。二度も電話をかけて いるんだよ。場合によると、被害者の家と電話との間を、 いくども往復しているかも知れないそ。その時に、犯人の 姿を、誰か見ていたものがあるとすると面白いじゃない か」  丸く肥った短い指で、買いたてのボールペンのカップ を、ぬいたりはめたりしながら答えていた。有吉や友杉に 怪しいふしがあることは、すでに本部へも報告があって知 っている。しかし、まだ的確な嫌疑をかけるという段階へ は進んでいない。捜査は、できるだけ網を大きくひろげ、 理詰めで一歩一歩進めたかった。願わくば、その公衆電話 の受話器にでも、犯人の指紋が残っているというようなこ とがないだろうか。犯人が電話をかけたのは、第二回目が 午後十二時数分過ぎだという。それなら、もしかすると、 今朝の夜明けまで、ほかには誰もその電話を使用したもの がなく、従って、もっと早くそのことがわかっていたら、 受話器の指紋を検出することができたのかも知れない。今 からでも遅くない、という流行語があったが、それは果し て、今からでも遅くないのであろうか。今日は、まだ誰も その公衆電話へはいったものがないというような、奇蹟が あると都合がよい。そうだ、ともかくこれは、手配を急い でみようと、課長も係長も、いっしょに考えているのであ った。  係官たちは、ゆうべの真夜中に、官舎や自宅から乎び出 されてきたものばかりで、昼の食事がすむと、少し眠くな った。  課長は、階下の署長室へ行って腕椅子を借り、よりかか るとすぐにいびきをかいた。  係長は、署僚警部と昔から親しい仲で、子供が大きくな って中学へ入ったが、靴を買わされて閉口したという話を した。  その時、だしぬけに署へ出頭したのが、友杉成人であっ た。  署の受付へきて彼は、 「内密でお話をしたいことがあります。なるべくなら、捜 査課長か係長さんにお目にかかりたいのですがー」  と、いつものおちついた調子でいったが、その眼のうち には、何かしっかり決心したものが出てきている。署内 は、急にまた緊張した。それから、課長と係長とが二人で いっしょに友杉に会ったが、するとすぐに友杉の話しだし たのが、例の果物籠の中の二十万円についてであった。  実は、友杉としては、それをいくどか考えてみたあげく に、当局へ知らせてしまうのが、最適の処置だときめたの である。十五万円残っているはずだったのに、意外にも、 全部なくなっている。それには有吉自身がびっくりし、友 杉もおどろいてしまった。そうして、もうこうなってから では、かくすことができないと感じた。かくしても、あと で知れて、そのために有吉が、どんな誤解を招くまいもの でもない。表面的に見ては、金も有吉が全部盗んだと思わ れてもしかたのないことであるし、一方には、金を盗まれ たのが、代議士の殺されたのと同時であるか、またそれ以 前のことであるか、それも問題になるのであろう。藤井代 議士を買収するために、諸内代議士が持ってぎた金で、政 治的に波及するところが大きいかも知れない。いずれにも せよ、うやむやで葬り去ろうとしたら間違いが起る。貴美 子夫人ともそれは相談してみた。有吉が困って泣き出しそ うな顔になり、しかし、はじめに盗んだ五万円を誰に与え たか、その友人の名前までハッキリと打明けて話した。有 吉は、平川や高橋や園江が、その前日強盗をやったこと を、今ではうすうす知っていて、それだけは、さすがに辛 うじて言わなかったが、ともかく警察へ、残り十五万円の 件を話すのは、やむを得ないことだと承服し、そこで友杉 が、向うから呼ばれぬ先きにというつもりで、とりいそぎ 捜査本部へ出頭したわけである。  友杉の申立ては、重大だと思われる。  課長も係長も、耳をかたむけてそれを聞いた。  そして、終ってからなお係長は、事件発生前の友杉や有 古の行動について、いくつかの鋭い質問をしたが、それは とくに、彼等が麻雀クラブ紅中軒を出た時間が問題だっ た。友杉が、クラブ主人の申立てとはちがって、ほとんど 十二時を過ぎてからクラブを出たと記憶しているから、記 憶のとおりに答えると、係長は、それを証明するものがあ るかと訊きかえす。友杉は、そうですね、と考えこんで、 いっしょに麻雀をうった平川と高橋とを思いだしたが、じ きにハッと明るい眼つきになった。有吉と帰る時、九段の 電車の曲り角で、巡査に見とがめられて不審訊問をうけて いる。その時、自分らは藤井代議士邸のものだということ を答えたのだから、それを巡査が忘れずにいてさえくれれ ばよい。時刻は、巡査が記憶していてくれるにちがいない のである。i係長は、鉛筆で頬杖をつき、友杉の話すの を聞いているうちに、やはり急に眼つきが明るくなってき ていた。そうして、そうですか、それはよかった、九段の 巡査だったら、調べるとすぐにわかることだからと、愉快 そうな口調でいうのであった。  一時間あまりいて、友杉が帰る。  そのあと、課長と係長とが、いっしょにたばこを口にく わえた。 「貝原君。君はどう思うかね、今の男を」 「感じがいいですね。会ってみているうちに、考えを少し 変えなきゃいかんという気がしてきましたよ」 「同じだな。ぼくと……」 「ある程度の嫌疑が、あの男にもかかっています。事実、 何かしら変なところがないじゃなかった。しかし、信頼が おけるのじゃないでしょうか」 「話した事実はオカしなことだよ。二十万円の金のうち、 五万円は被害者の息子が盗んだ。が、ほかに十五万円盗ん だやつもいるというのだ。ところが、申立ては信頼しても いいという感じを与える。捜査の資料を提供してくれただ けでもありがたい。1まア、しかし、九段の巡査を調べ なくちゃいけないがね」 「すぐやりましょう。それに事件が派生的にいろいろの面 を持ってきたようです。第一、諸内代議士というと、名前 は相当に知れている人物ですよ。こっちへも、すぐ手配な つけてみますか」 「むろんだ。やらんきゃならん。これはぼくから本庁へも 連絡をつけておく。ともかく、うまくやってくれたまえ。 ぼくは、ここで、ちょっとほかへ廻って来なくちゃならな いがー」  時間がたつにつれて、頭も身体も、忙しくなってくるの である。  課長は、べつの用件があって、その時いったん捜査本部 を出て行ったが、気になるからまた三時間ほどして帰って きた時、係長が、待ちかねた顔で報告した。 「わかりましたよ。九段の巡査は」 「ほう。どう った」 「友杉の申立てが正しいのだとわかりました。午前一時十 分、九段で不審訊問をうけています。一方、藤井代議士の 殺されたのが、やはりその一時に十分前か十分後というと ころで、その時刻には、友杉も有吉も、九段附近にいたと いうわけです」 「よかった。だいたいはアリバイが成立つじゃないか」 「だいたいどころじゃなく、りっぱなものですよ。それ に、まだお話ししなかったからいけないが、つまりは紅中 軒の親父が、でたらめをいっていたのです。ついさっき、 呼びつけて叱りつけました。すると、一も二もなく恐れ入 って、実は午前一時近くまで、客を遊ばせておいたという んです。その客というのが、有吉とその友だちで、そばで 友杉が麻雀を見ていたというのもほんとうだったそうでし てね。むろん、ずっと夢中で麻雀をやっていて、公衆電話 をかけるひまもなかったんですから、ぜったいに二人と も、嫌疑の余地はありませんね。二人だけじゃない、いっ しょに麻雀をうっていた有吉の不良の友だちも、前に有吉 から五万円もらった事実はあるが、それ以外べつに何もな いという見込みが立つのですし、もう一つ、有吉に問題が ないとすると、有吉の情婦だという少女についても、もう べつに大して調べを進める必要がなくなったように思うん ですが、ところで困ったのは、諸内代議士の問題でして ……」 コ一十万円の件だね。そっちはどんなあんばいだった?」 「てんで話にならないのです。そういう金については、ま ったく覚えがないというんでして、ひどく頑張りました」 「ふうん」 「仮にも、藤井を買収しようとしたなんて、外聞の悪いこ とを言ってくれるな。我輩、そんな愚劣な行動は決してと らない。警視庁ともあろうものが、実にべらぼうな話をす るもんじゃないか。とんでもない言いがかりだ。俯仰して 天地に恥じず、公明正大、誰の前でも断言する、そんな汚 いことをするおれではないそといって、大声に笑いとばし てしまったんです。諸内代議士の言葉を正しいとすると、 この点でだけ、友杉の申立てが、嘘だということになるの ですが……」  諸内代議士の、人を人とも思わぬ笑い顔が、目に見える ようである。  課長は、なるほどそうか、とうなずいて見せたが、眼尻 をかすかに笑わせている。何か考えていることがある風で あったが、べつに何も言わず、ドシンと椅子に腰を下ろす と、留守のうちに集まっていた報告書類に目を通しはじめ た。 二  友杉や有吉の身辺については、もう完全に、何も問題が ないように見えた。少なくともこの二人が、藤井代議士殺 しの犯人でないだけは確かだった。今や当局としては、そ のほかの方面へ、目を向けねばならぬ時期がきていたので ある。  係官たちは、血眼になって、捜査資料の蒐集につとめ た。  また、いくどかめいめいの意見を持ちよって議論を交 し、捜査方針の確立をいそいだ。  残念にもその時はまだ、事件現場たる藤井代議士邸で、 犯人の遺留品であるとか足跡であるとか、直接犯人を推定 するに足るような具体的物件が、何一つ発見されていな い。それに、一時ひどく有力視されたのが、牛込公衆B八 番の電話についての調査であって、これは、捜査課長も気 づいていたとおり、犯人を目撃したものがあったり、また 電話機に指紋でもついていたとすると、たいへん好都合で あるにはちがいなく、しかし物事は、そう思ったとおりに はならないのが常である。その電話は、一時使用禁止にし た。同時に、そこらかいわいの家を、刑事が軒なみ尋ねま                      かん わって、犯人目撃者を探してみたが、結果は甚だ香ばしく ない。指紋は一つだけ、ハッキリしたのがあったが、調べ てみると、電話のあるすぐ前の家の少女が、病気で学校を 休んだから、少女の母親が、学校へ電話をかけたのだそう で、つまりその母親の指紋が残っていたのだとわかってし まい、それもそこまでわからせただけが容易なことではな く、一方犯人を目撃したというものも出てこない。けっきょ く、絶望とは言えぬにしても、あとは根気ずくで、同じこ とを続けるよりほかないということになってしまった。  もっともここに、甚だ興味のある問題が一つ提出されて いる。  例の果物籠の金についてだった。  この金を、一方では、諸内代議士から無理押しつけで藤 井代議士に渡そうとした金であるといっているのに対し、 諸内代議士が、頭からそれを否定してしまったのは面白 い。多分それは、友杉の申立てが事実であり、しかも政治 的な意味に於て、諸内代議士としては、否定せざるを得な かったのではあるまいか。が、それだとすると、金の背後 にひそむ問題は、どうしてなかなか、 一朝一夕にはメスを 入れ難いほど大きなものになってくるのだし、といって、 それを藤井代議士殺害事件と切りはなして考えてよいかど うかにも疑問があり、また切りはなしてみたにしても、事 件発生直後に、残り十五万円の紛失がわかったというの が、どうやら全然無意味なことでもなさそうである。黒い モヤモヤした雲がかかっている。雲の向うには、どんなに 驚嘆すべき、そして恐ろしいことがあるのかもわからな い。不気味で大きな懸案だった。もちろん、いつかはそこ へぶつかるのだろう。が、焦っては失敗する、うかつに手 をつけられぬという気がしてくるのであった。  事件発生の日の翌日1。  藤井代議士邸は、たいへんな混雑状態に陥入った。  警察当局が、現場の調査を打切って、邸内への人の出入 りを許したので、有太が殺されたことを新聞で読んだ人々 が、どっと弔問に押しかけたのである。  さすがに代議士ではあるし、藤井産業の社長として、実 業界にもある程度名を成していたから、弔問客は、各層各 界にわたって多数であった。大臣の車が門の前へとまっ た。取引銀行の支店長がやってきた。学生時代からの友人            おかみ がくる。築地の某料亭の女将もきた。出入りの商人、区 長、通運会社や肥料会社の社長、そして貴美子夫人-今 は未亡人といった方がいいのであろう、未亡人と親しかっ た画家や音楽家、また洋裁店のデザイナーまでくるといっ た工合であった。  人々は、応接室や廊下や、すでに有太が遺骨になって祭 壇に安置されているサンルームの入口などで、くりか、兄し 生前の有太について語り合い、口をそろえてあのようにも 清廉潔白であった有太の死を残念がったが、それと同時 に、この敬愛すべき人物を、残酷にまき割りの斧で殺した 犯人が誰であるかということについても、いろいろと意見 を述べ合っていたようである。  その時に、そういう弔問客の中へ、生前の有太の知友で もないらしく、かといって、未亡人貴美子の姻戚らしくも 思われぬ人物が、あちらに一人こちらに一人、べつに話相 手があるでもなく、ボゾヤリした顔つきをしてまぎれこん でいたが、それは実は、捜査課から選りすぐってよこした 最も敏腕の刑事たちであった。刑事が、受付にもいた。台 所へも顔をのぞかせた。人々が語り合う雑談に、片言隻語 をも聞きのがすまじとして、じっと耳を傾けているのであ った。  有太が、若い頃は、なかなかの乱暴者で、しかし友情に 厚い男だったという話が出る。  先妻の節子をいかによく愛したかという話も、小さな声 で話し合うものがあり、しかし、今の貴美子未亡人とは、 年がいくつ違っていたのかと、それをひどく気にして人に 訊くものもあった。有太が、政治の問題で、近いうちに大 いに世間をびっくりさせることが起るぞ、と語ったことが あると話すものがあり、しかしそれがどんな問題であるの か、誰も知っているものがないようであった。酒量はそれ ほどでなかったが、酔うと下手な節廻しでおけさ節を歌っ たという話1。また、芝居を見ていてボロボロ涙をこぼ したという話ー。  どうやらまだ、捜査の助けになるような話を、誰も持ち だすものはなかったが、そのうちにふいに玄関で、 「やア、どうも、とんだことで……」  と大きな声がした。  それは、いかにもくったくのない明るい響きを伴ってい て、しかし、いささかこの場合としては、無遠慮にすぎる ような声だったので、そこにいた人々は、ハッとして声の した方をふり向いて見たほどだったが、その声の主は、中 正党代議士諸内達也であった。  彼は、鞄持ちの書生を供につれ、時期にしては少し早い 白いパナマ帽をかむり、自動車できていた。むろん、弔問 のためにきたのであったが、受付で名刺を出して玄関へ上 ると、そこですぐに知人にあった。そうしてその知人と、 玄関からとっつきになっている書生部屋の前で、立話をは じめたのであった。  彼は、それからあとは、はじめほどの大きな声でなく、 普通の調子で簡単な話をつづけた。そしておしまいに、 「イヤ、藤井君も、まったくえらいことになったものです よ。政治的意見では、わしと大分喰いちがいがある。だか ら議会では議論ばかりしましたが、そのくせ、忘れられん 男でしてね。なかなかよいところがあったが、こういう死 に方をするとは思わなかったですな。まア、不運というも のでしょう。世の中が混乱している。その犠牲ですな。政 治家としての前途も、大いに期待すべきものがあったの に、実際残念なことをしましたよ」  知人にそういって別れを告げ、それから奥へはいってき た。  藤井代議士買収の画策については、当局も慎重な態度を とり、新聞などにはいっさいそれを発表しないことにして いたから、来ていた一般の弔問客は、まだ何も知らないで いたことだろう。              つら  彼は、いつもに変らぬ剛愎な面がまえで、そこにいた 人々の顔を、一巡ずらりと見渡していた。  刑事が、この時ばかりは、きっと身を乗り出すようにし て、この代議士の一挙一動を見まもっている。  が、彼は、口を大きくへの字に結び、そのうすあばたの ある顔を昂然と上げて、祭壇のしつらえてあるサンルーム へ進んだ。そして、きゅうくつそうに、膝を折って坐って 礼拝し香を焚き、そのあと、壇の前にいる貴美子未亡人の 前へきた。 「驚ろきました。御愁傷さまです。奥さんとしては、いろ いろとお話もあることでしょうし、いずれ、日を改めて参 りますが、私も何かとお力になれるだけのことはしてみた いつもりでおりますから……よろしいですな。この際、十 分に考慮なすって、世間を無益に騒がせぬよう願います そ」  と最後の言葉を、ひどく低い声で、そして力をこめてい った。  未亡人は、この男が、金のことを否定したのだというこ とを、むろんもう聞いて知っている。十分に考慮せよとい うのは、いかなる意味であるかもよくわかる。しかし、こ こではロへ出すべき問題でないから、だまってただうなず いただけであった。 「御霊前へどうぞ……」 代議士は、紙に包んだかなり分厚なものを未亡人の前へ さし出し、そして席を立った。  あとは何も言わない。  それだけで、スッと帰って行ってしまった。 死んだ猫 一  日が暮れたばかりの銀座は、光や音に充ちあふれ、いつ にも増して、若い男や女の姿がいっぱいだった。                なま  女は、美しく生き生きとしていて嬌めかしく、男は元気で 愉しそうで、みんな苦しみや悲しみを持っていないように 見える。露店の前の人だかりが、ワッと笑い声を立てた。 閉店前の時計店の飾窓に、金やダイヤをちりばめた高価で 珍らしい時計が、ずらりと光って並んでいた。ビヤホール は、歩道まで客がはみだして"る。腕と肩と胸とを、むっ ちりむき出しにした女が、背の高い男に抱きささえられ て、横町から出たとたんに、つきあたりそうになった。 「こんど、どこへ行くのよ。どこへでも、あたし平気よ お!」  女の言葉が耳に入った。  そして高橋勇は、頭がぐらつくような気持がし、さ、兄ぎ る人波をぬけ、セルロイド人形の露店の前で、立って待っ ている平川洋一郎に追いついた。 「それでねえ、平川君。そん時ぼくは、藤井のおやじが殺 されたなんて、ちっとも知らなかったから、ドキッとした んだよ」 「同じだよ、ぼくも。ふいに刑事が来やがった。ちょう ど、ぼくのおやじが、アトリエで仕事をしていた、女中が おやじに知らせたんだ。おやじが、先きに刑事に会った。 ぼくの方は、あれがばれたのかと思っちゃった。藤井から 五万円もらった、あのことを確かめに来ただけとは知らな かったからね」 「ぼくの方は、もうだめだ、と思ってしまってね、すき があったら、刑事をつきたおし、表へ逃げ出そうかと思っ たくらいだよ。下宿のおかみさんがそばで見ていた。あと で聞いたら、ぼくの顔が病人のように青くなっていたって いうんだ。よかったよ。まったくよかったよ。心配なの は、やっぱりまだ園江のことだけどね。あいつ、それっき り、会わないんだよ」 「へまやらずにいてくれると、ありがたいね。ぼくは、毎 日、電話しているけど、まだ家へ帰らないっていうこと だ」 「帰っていても、ぼくらに会わせまいとして、家でうそつ いているんじゃないのかねえ」 「ちがうさ。そんなことはない、園江の家は、おふくろ が女中上りで、かぼちゃのように肥っているよ。おやじ は、ほかにお妾こしらえてるし、園江のことなんか冷淡 で、いく日家へ帰らなくても、まるっきり心配してないん だよ。まア、園江が、つかまらずにいさえしたらいいと思 う。園江のことより、こっちのことが心配さ。もうぼく は、もいっぺん、 『あれ』をやる気にはならないしね」  尾張町の角へ来ていた。  二人ともに咽喉がかわき、アイスキャンデーでもいいか ら食べたいと思ったが、がまんして向う側へ渡った。金が なくなっている。煙草を買うのがやっとこさである。『あ れ』をやる気がないのは本当で、しかし、うまく行く見込 みがつけば、『あれ』よりほかに金が手に入らないのだか ら、やはりやってもよいという気持がどこかでしている。 平川洋一郎は、画家の父親のアトリエから、額ぶちを盗み 出して売ってきた。高橋は、靴を質に入れた。が、明日の 朝は文無しになるにちがいない。こんな時、藤井に頼んだ ら、いくらかは役に立つのだろう。けれども、藤井は、父 親が殺されてからまだ一週間くらいにしかならないから、 そこへ金を借りに行くなんてわけにいかない。高橋は、立 ちどまり、ポケットへ手を入れたが、たばこがもう二本し かないと思いつくと、そのまま歩きだした。敏感に平川 が、たばこならあるよ、といって、光の箱を出した。 「中心附近の風速は四十メートル、毎時二十五キロの速度 で東北東に進行中……」  どこかでラジオが、今年で何番目かの台風のことをしゃ べっている。  しかし、誰もそんなことは、気にしていない。またビヤ ホールがあった。泡立つジョッキを白い服のボーイが配っ ていた。バタや肉の焼ける匂いがした。横町の屋台店から 煙が流れ出し、そのそばでリンタク屋が、ボンヤリとネオ ンサインの方を見ている。夏の着物に赤い帯の女が二人、 眼を輝かし、笑って、そばを通りすぎた。血が、うろたえ 騒ぐようで、胸のうちが苦しくなった。 「しかしねえ高橋。藤井ぱきっとしょげてるだろうな」 「うん。かあいそうだよ、あいつはね。あいつは、南条と 同じに少年だからな。ぼくらが告別式に行った時、何かぼ くらに話したいような顔つきだったよ」 「でも、ぼくはあとで考えたんだ。藤井は、もしかした ら、ぼくらを疑っているんじゃないかってね」 「ほう、どうしてだい?」 「ぼくらが、五万円もらった前の晩、荒仕事したってこ と、藤井はもう知っているからね。それと同じことを、ぼ くらが藤井の家へ行ってやったんじゃないかってことも考 えられるんだ。もちろん、ぼくらは藤井と麻雀をやってい た。だから、君やぼくが直接そんなことをやるはずはない が、ほかにぼくらの仲間があれば、藤井をぼくらが麻雀で 引きとめておいて、一方でその仲間が電話かけたりなんか して、藤井の名前で家の者を呼び出し、それから忍びこむ ことだってできるだろう。藤井も、そんなことを、一度は 考えてみるんじゃないのかねえ」 「考えたって、そうじゃないから、平気だよ。1しか し、犯人は誰だろう」 「わからないな。新聞にも、迷宮入りかって書いてあつ た。政治的陰謀の疑いがある、という記事もあったね。し かし、詳しいことは何も書いてない。某政治家ーってし てあって、名前も発表されなかった。おまけに、その某政 治家ってのは、アリバイがあったそうだからね」 「まアいいさ。どっちみち、ぼくらが藤井代議士殺しとは、 まったく無関係なことは事実だから、その点でぼくら心配 することはないわけだ。それよりも問題は、ぼくら自身の ことなんだよ。そこでこの際、とくにいやなのは、笠原だよ。 笠原のやつ、なぜぼくに、用があるから来いっていうのか」 「笠原を、いやだと思うのは、君だけじゃないね。みん な、あいっには、かなわないと思っている。でも、ぼく は、わりに平気だぜ。金はあいつから三度も借りた。利子 が高いから、借りるのはいやだけれど、今のような場合に は、けっきょく、まああいつから借りるよりほかないだろ うとも思っているんだ」 「うん、それはね平川。君は、池袋で『あれ』をやった金 で、ぼくが笠原に借金返しに行った時のこと、まだ詳しく 話さないから、そんな平気な顔をしているんだよ。ぼく は、その時に、笠原の眼で睨まれると、身動きができなく なるような気持だった。ぼくは、いいアルバイトを見つけ たから、それで金ができて借金を返せるのだといった。と ころがあいつは、アルバイトなんか信じてやしない。何か べつのことで金が入ったのだと思っている。高慢ちきな眼 つきでぼくの顔のぞいて、腹の中じゃ、エヘラエヘラ軽蔑 して笑っているんだ。そして、悪いことをすると親が心配 するっていう話をしたよ。チャリンコでつかまった川上の ことをいったり、小西や園江が低能児で、ことに園江は、 鼻が曲がっていて、先天的犯罪者型の顔だなんて、ひどい こといったんだ。ぼくは、怖くなっちゃった。長いうち笠 原と話してたら、池袋のこと、見ぬかれそうだと思ってし まった。あわてて帰ろうとしたら、ぼくが帽子を忘れそう になったから、笠原がニヤニヤして、その帽子をぞうきん ぶら下げるようにしてぼくに渡したが、ぼくは、笠原にと びついて、首をしめてやるか、でなきゃ、逃げるよりほか ないという気がしたものだよ。あいつは、きらいだ。恐ろ しい奴だよ。それだのに、いい話があるから会いに来いっ ていうんだからね」 「ぼくの方へも、いい話があるっていってきたんだよ。南 条と小西とは来ないそうだが、なにしろいい話だっていう のだから……」 「そこだよ。気味が悪いんだ。南条は子供だし、小西は低 能だときめていて、君とぼくだけを呼びつけるのだ。しか し、ろくなことじゃないね。藤井のおやじが殺された事に 関連して、五万円ぼくらがもらったことだって、あいつは もう知っているにちがいない。そして、池袋のことや、下 谷でぼくらが失敗して園江がいなくなってしまった、その ことも感づいているんじゃ、ないかと思う。警察へぼくらの こと、話す気になれば話せるのだ。それでいて、いい話だ なんて……」  サイレンが鳴り、ジープが走って行った。  が、歩道はべつに何事もなく、笑いさざめき昂奮して、 肩と肩とすれ合わせて人が歩いている。  平川は、ため息をつき、高橋は、ワイシャツの袖で汗を ふいた。  藤井や園江や笠原のことを、百ぺんでもくりかえして話 したかった。話して、話して、話してしまって、そうした ら、何か安心できるような気がした。  薬局があった。 「ぼくはね、催眠剤をのんでみたよ」と平川がいった。        アヘン 「催眠剤より、阿片かなんかがぼくは欲しいよ。そんなに いい気持じゃないともいうし、でも注射するやつがたくさ んいるからね」  と高橋は答えた。 「まるで、でたらめになっちゃいそうだね」 「しかたがないさ、池袋の『あれ』をやったんだから、あ とはますますそうなるよ。藤井のようなスヶがあるとまだ いいんだけど」 「女はいいね、女とねると、気が休まるとぼくも思うんだ よ。ほかのこと忘れてしまうことができるのだ。けれど も、ぼくの女は芸妓だから、金がかかってだめなんだ。金 が欲しいね」  平川は、またため息をし、洋品店の角を曲って横町へは いった。  笠原がダンスホール・オーロラへ来ている。そこへ来い という知らせであった。気は進まないが行くよりほかない のである。  ホールへ入るだけの金がないのに気がひけながら、二人 は、地下室の階段に立ち、笠原を呼び出してもらった。そ                      ぞうげ ぼ うして笠原は、十分ほども二人を待たせてから、象牙彫り のように顔の輪廓のととのった、しかし、笠原より年上の 女と、腕を組み合わせてそこへ出てきた。 「速達がとどいたんだね」 「うんー」 「平川君には電話だったから、来ると思っていたんだよ。 二人でいっしょに来てくれたのはありがたい。1が、今 夜は、急に予定が変ったのでね」  笠原はチラと女をふりむき、それからズボンのポケット へ手を入れると、厚い紙幣束をつかみ出していた。 「高橋君にもお気の毒だけれど、今夜はだめなんだ。明日 の午後、ぼくの下宿の方へ来てくれないか。その代り、ほ んとにいい話なんだよ。まア、今夜は、これをとっておい でくれたまえ」  二人はびっくりしていた。この男が、こんな風にして気 前を見せるとは思わなかった。平川の手へ押しつけられた 金は五千円近くあるだろう。なぜ笠原がこんなことをする のか、てんでわけがわからない。それに、機嫌よく陽気な 目つきで、二人を真実仲のよい親友のようにして取扱うで はないか。 「かまわないんだよ。その金は、君たちが使ってしまって いい金さ。じゃ、しっけい」 笠原は、もう、二人をふりむかない。女とまっすぐに行 ってしまった。 平川も高橋も、あっけにとられた。  笠原が、向うの明るい通りへ出るところでタクシーをひ ろい、女といっしょに乗りこむところを見てしまってか ら、急に泣きそうな声で高橋が叫んだ。 「オイ、平川、ぼくらも、どこかへ行こう。バカにしてや がる、笠原のやつ!」 「うん、あいつ、ぼくらを軽蔑して、女の前で優越感を味 わっているんだ。いいさ。したいようにさせておくさ。あ いつはあいつ、こっちはこっちだ。ほんとに、どこかへ行 こう。どこだっていいだろう。これだけあれば、どうにか なるからね」  と平川もいった。腹の立った声だった。そうして、もら った金を、そのままポケットへ押しこんだ。 二  その晩、高橋勇は、でろでうに酔った。キリスト教や共 産党や保守党のことを、でたらめに悪くいったりほめたり し、また道の上で人に喧嘩をふぎかけそうになった。そう して平川洋一郎は、迷惑し、貴様は馬鹿だと罵りつつ、け っきょく二人して少しも知らない家へ行った。  その女たちは、同じアパートの小さい部屋を二つ続けて 借りていて、自分たちは姉妹だといったが、なるほど顔が よく似ていて、服装も化粧もみすぼらしい代り、見た目に は健康そうであり、よく二人を歓待し、ことに平川の女は 平川を、芸術家にちがいない、あたいは芸術家が大好きだ といって、夜っぴてそばをはなさなかったから、平川は、 藤井のことも園江のことも、笠原のあの不思議な態度すら 忘れて、満足したくらいだった。  朝は、女たちが、トーストをこさえてくれた。しかし、 高橋が頭痛で起きていられぬくらいだといい、昨夜の屋台 で飲んだ酒にメチイルがはいっていたのではないかと心配 したが、二時間ほど寝ていると、高橋もやっと痛みがとれ たといった。 「ねえ、これからあんたたちはどうするの」 「帰るのさ。しかたがないよ。金がなくなってしまった」 「あら、お金なら、気にしなくてもいいわよ。夕方までい らっしゃい。その間は、ブリイタイムよ。お互いにサ!ビ スだわ」 「面白いんだな。お互いにって、どういうんだい」 「わかんない人ね。お金がないと、食べるものにだって困 るでしょう。それは、あたしたちが心配するわ。そうして あんたたちは、こっちのいうなりになっているの。あたし たちのような女でも、たまにはできるったけたんのうした いと思うものよ」  いつもこの女たちは、自分の気に入った客を取れずにい るのかも知れない。が、それにしても、平川や高橋にとっ て、.」んな女は予想外だった。そうして考えると、昨夜は ヤケになっていて、何かはずみがついたら、ついフラフラ と自殺でもしそうな気持だったが、笠原に会ってから、へ んにアヤがよくなってきたような気がした。この分だと笠 原の話もほんとに悪くないことのように思われる。とにか                    ふ て くさ く世の中は、そう悲観したものでもない。不貞腐れな、し かし図太い勇気が二人ともにわいてきた。  午後、台風は日本海にそれたらしいが、雨が一時はげし く降り、その雨がやんでから、二人は女の家を出た。  そうして、本郷の焼けのこり地区にある笠原の下宿へ行 ってみると、笠原は、 「ずいぶん待たせたじゃないか。しかたがないから、ぼく が一人で出かけてしまおうかと思っていたよ」  パリッとした夏の背広を着て、柱にかけた鏡に向い、ネ クタイを直していたところである。ふりむいて高橋を、頭 から爪の先きまで見下ろすと、 「学校の服、着て来ちゃったね。帽子も汚い。1しか し、今日はまアいいとしておこう。そのうちに、服を新調 させるぜ」  と笑いかけ、次に平川にも、 「ああ、そうだったな。平川君は、まだ借金がそのままに なっているだろう。が、これはあとで差引になるさ。ぼく は事業をはじめる。君たちに手つだってもらうのだからね」  もうそれを決定したという顔で言うのであった。  言葉が笑い声でも笠原は、瞳が冷たく澄んでいて、腹の 底を見透かし難いところがある。それに、事業をはじめる とは、どんなことなのか。ウカと口を利いたら、足をさら われるようなことがあるかも知れぬと感じ、この男に抵抗 したいと心のどこかで焦りつつ、しかし平川も高橋も、そ の抵抗心が、もろくも急に薄れて行くのを、くやしいが、 ハッキリと自分で意識した。 「夕飯には、少し早いね。事務的な問題を片づけてから、 レストランへでも行くことにしようか」  ひとり言のように笠原はいって、さて外へ出て、白線入 りのタクシーを拾ってから、だしぬけにしゃべりだした。 「早い話がね。ぼくは昔からある一つの言葉に疑いを持ち はじめたんだ。その古い言葉は、青年には未来の期待があ るとか、未来こそは青年のものだとか、そういう種類の教 訓なんだ。いいかい、なるほどわれわれ青年には未来があ る。そうしてその未来の輝かしさを思えばこそ、青年は現 在のあらゆる労苦に堪えることができるというんだよ。と ころが、未来ってものは、ほんとにそんなに輝かしく愉し いものかどうか、実際は誰にだってわからないものじゃな いだろうか。それはその未来になってみてわかることで、 イヤ、そもそもは、生命というものを、現在と未来とにわ けて、未来だけが値打ちがあり、現在はその値打ちのある 未来の為への準備時代だとする、この考え方が、ぼくは不 当だと思うのだ。一個の生命は、その生命全体を通じて、 価値を論すべきだと思う。つまり、現在には現在としての 価値があって、これは、必然的に未来と連続はするけれ ど、未来よりも低い価値だとは、どうしても言えないのだ よ。むしろ、現在の方が、あるかないかわからない未来よ りも、その現在を、享受している者にとっては、価値があ るといっていいのじゃないか。1むつかしく考えず、青 年と老年とを比較したまえ。老年は未来だが、肉体的にも 精神的にも、老年は青年に劣っている。そうして青年こそ は、生命のもっとも旺盛な時期だ。はげしい恋愛ができ る。食慾も十分だ。それでいてこの生きる力の充実した時 期を、しなびておとろえて、もう女を抱くことすらできな くなっている自分の老後のための犠牲にするなんて.まっ たく.バカバカしいことじゃないだろうか」  高橋も平川も、口をはさむことができなかった。笠原の しゃべることの意味はわかる。しかし、自分たちを呼びつ けて、昨夜はいきなり小づかい銭をくれ、さて今はなぜこ んな理窟をこねだしたか、動機がまったくわからないので あった。  二人が、眼をきょときょとさせて、合槌もうてずにいる のを見ると、笠原は、ふいにニヤリとした。  そして、笑いだした。 「アハハハ、平川君も高橋君も、びっくりしたみたいな顔 してるね」 「うん……どうも、ぼくは哲学の話はきらいだからね」と 亠咼橋が、顔を赧くして答えた。 「ウフフフ、哲学の話はよかったね。なに、哲学というほ どのものじゃあるまい。要するところは、ぼくらは青年で 学生だろう。そして、青年らしく学生らしくやれってこと 言われるだろう。その、青年らしく学生らしくやること を、今の時代では、新しい角度から決定したいという意味 なんだよ。ハッキリ言おうか、ぼくはぼくら学生のやるア ルバイトについて論じているのさ」 「へええ、アルバイトをね。アルバイトが、どうしたって いうのかね」  平川が、自分を馬鹿だと思われるのを気にしながら、や っとそこへ口を出したが、笠原の眼は明るく愉快そうに輝 いている。 「つまり、学生のアルバイトというものは、目的が学資を 稼ぐだけのものだろう。そいつがぼくは、ひどくつまらな いと思っているのだよ。君たちは、どんなバイトをやって いるのか、ぼくは知らない。おそらく、大していいバイト じゃなくて、あんまり人の前では、話せないようなものじゃ ないのかい。iぼくのバイトは、言葉を飾ってもしか たがない、君たちの考えている通りに学生高利貸しという やつさ。君たちのためにもずいぶん役に立ってやって、そ のくせ君たちに憎まれているのだから、世話はない。しか し、ぼくは、その高利貸しを、もっと盛大にやろうと考え たんだ。学資稼ぎじゃない。事業として発展させるのだ。 われわれが、学校へ通って勉強する。それは未来に於て、 政治家になったり事業家になったりする、その準備だとい うのが常識だが、そんな常識…は古いんだよ。学問は、生活 力の資材じゃなくて、生命の調味料と解すべきだ。つま り、生活力の根源は学問にはない。従って、学問しながら でも、できるだけは生活を充実させるのが本当だ。簡単に いうと、学生だからといって、事業をはじめるのを、学校 を卒業するまで待たなくちゃならんという規則はないこと になるのだ。わかったかい。ぼくは、金融会社を興す。ぼ くが社長で、君たちが専務だの支配人だのというわけだ」  平川にも高橋にも、はじめてハッキリとわかってきた。  金儲けをするのには、今は高利貸しが一番早いといわれ ている。それに笠原が、目をつけているのであった。 「こいつはね、世間じゃ、学生らしくないことだといっ て、非難するにちがいない。ところが、学生らしいという ことの意味が、さっきもいったように、昔と今とでは違う のだから、世間の非難は平気なんだ。ぼくらはぼくらの新 解釈に従って行動すればよろしい。ーしかも利益は莫大 だよ。十日に一割の利子で一月三割、担保をおさえとい て、天引きという場合もあるだろう。高橋君の見すぼらし い学生服なんか、オカしくて着ていられなくなる。五千や 一万の金は問題じゃない。資本が一年で百倍になり得ると いうわけだ。実はね、これは一年前からの計画だよ。最近 に、適当な事務所も見っけることができた。そこを、もう ちゃんと借りてあるのだ。君たちをこれからそこへ案内し てあげようと思っているのだよ」  タクシーは、いつの間にか牛込をぬけ、淀橋の新しくで きた道路を走っている。罹災あとの家が、まばらに立って いた。そうして笠原は、ふいに運転手に、ストップと元気 よく声をかけた。  なぜか、車を降りてから、二町も歩いた。  すると、罹災後に建てたものではあろうが、掘立小屋の ように小さくて粗末で、屋根のトントン葺きが、ところど ころはげている家が、道のはたにポツンと立っていた。 「ひどい家だろう。ひどい家だから、ぼくが格安の権利と 家賃で借りといたのさ。近所も賑かじゃないが、ナニ、こ れで、少し手を入れてお化粧したら、けっこうぼくらの会 社の事務所になるよ。さしずめ、平川君たちには、これを 事務所に改装する仕事をやってもらう。ま、ともかく入っ てみよう」  笠原は、その家の横にある勝手ロへ行き、鍵を出して錠 前をはずしたが、その錠前が、こんな家には似合わないほ ど大きく立派なのが、何か異様な感じである。  中へはいって、雨戸をあけた。  表の道路へ向いた部分が三坪ほどの土間になっていて、 外の光線が流れこむといっしょに、笠原が、 「あッ!」  と声を立てて、うしろへとび下った。  土間には、猫が一匹、死んでいる。  首に縄がかかっていて、毛には泥がこびりつき、それほ ど大きくはないが、いやらしくぐたりと曲げた胴のあたり に、刃物でえぐったらしい傷もついている。  笠原は、その三毛猫を見て、顔色を変えたのであった。 そうしてしかし、すぐに顔色を元へ戻すと、 「ああ、びっくりしたよ。ナニ、ぼくは猫については、迷 信を持っているのでね」  とこの男にしては、珍らしく気まりの悪そうな顔でいっ た。 迷信と恋愛 一 「つまりだね。こいつがぼくという人間の一断片なんだ。 べつに、このことをぼくは気まりが悪いとは思っていない さ。しかし、常識的には気まりがいいことじゃないのだろ う。猫について、ぼくが迷信家だということはね」  笠原は、土間の隅に横倒しになっていたポロ椅子をおこ すと、ほこりをバタバタ叩いて落して腰をかけた。そし て、改めて猫の死骸をのぞきこみ、さて口のはたを歪める ようにしてしゃべりだすのであった。 「迷信てもの、平川君はどうだね、信じることがあるか い」 「イヤ、ぼくは……ないね。高橋は?」 「うん、ぼくだって、べつにないが、大道の易者に手相を 見てもらったことはあるよ」  平川も高橋も、眼つきが戸惑いしていた。猫の死骸を見 て、笠原の顔色が変ったのは、それほど大したことでもな いはずで、しかし、笠原は自分だけでそれを、ひどく気に しているように見える。むきになって、何か弁解しようと しているようで、返事をするのにも当惑する。一日前の夕 方までは、いやな奴だと思っていたが、気前よくゴヅソリ と金をくれた。それから、事業をはじめ、自分たちを専務 とか理事とかにするのだという。いい友達が思いもよらず 見つかった。このいい友達と、仲違いしたらつまらない が、さて、猫の迷信とはどういうことか。迷信なんて、軽 蔑して笑ってやってもいいし、でも、笑ったら、機嫌が悪 くなるのであろう。機嫌を悪くさせたくはないー。  笠原は、平川と高橋との顔をキラリと等分に見ただけ で、もうこっちが何を考えているのかはわかったはずであ り、そのくせ、べつに機嫌が悪くもならず、外国煙草の箱 を、慣れた手つきで口を開け、二人に吸えといってさしだ した。 「平川君も高橋君も、こういうことは、深く考えたことが ないのかも知れんね。迷信てやつは、面白いんだ。物理学 の理論で原因を説明できない結果がある。こいつを偶然と 、呼んでるだろう。迷信は、それに似ているんだね。といっ て、ぼくは、鰯の頭を信心したり、キリストの予言や奇蹟 なんかを信じるという、そういうのとはちがうのだよ。君 たちがわかってくれるように、どういったらいいのかな。 つまり、ある一つの前兆なんだ。理由はない。偶然と同じ だ。が、前兆というものはある。その前兆が、ぼくの場合                        しんら には猫なんだ。猫だけが、ぼくにとっては、世の中の森羅 ぱんしよう 万象のうち、ただ一つの前兆であり偶然であり迷信だ。ぽ くの子供の時の話、平川君も高橋君も知らないだろうね」 「ああ、それは、聞いたことがないからね」  高橋は、興味を感じた眼つきでうなずいて見せ、平川 は、そうだ、それは不良の仲間で、アヤがいいとか悪いと かいう、そのアヤのことだと考えた。 「子供の頃のぼくは、田舎の百姓の末っ子で、小ちゃない じけた弱い子だったが、猫を魔物だと思っていてね。眼玉 が大きくなったり細くなったり、足音を立てずに歩いた り、高いところから逆さにして落しても、ちゃんと地べた へつく時は、四つの足をそろえて立っているだろう。怖か ったのはぼくの九十六になるおばあさんが死んで、すると おばあさんの墓を乞食が掘り起しゃがったんだ。ところ が、そのお墓へ行ってみたら、おばあさんの飼っていた猫 が、ふいに、お墓の穴から飛びだしてきたんだよ。ぼく は、猫ほど神秘的なものはないと思いこんだ。そうしてそ のうちに、猫がぼくのマスコットであるという、変た信念 にとりつかれてしまった。猫を見る。すると、きっといい ことがあるのだね。どんな場合でも、猫さえ見たら、ぼく は幸運に恵まれているということがわかった。一つだけ、    おきて 禁断の掟がある。それは、その猫の動くところを見たら、 このせっかくの幸運が、泡のように消えるということなん だ。ぼくの猫は、動いちゃいけない猫なんだ。屋根で日向 ぼっこをしている猫を見る。ぼくは、すぐに眼をつぶって 駈け出さないといけない。池の金魚をねらって猫がくる。 またぼくは、眼をつぶって猫の見えない所へ逃げてしま う。それだけは絶対にぼくが、守らなくちゃならん約束な んだ。どうだい、面白いだろう。ぼくは、誰にもこれは話 したことがない。話したら、笑われるにきまっている。し かし、前にもいっといたろう。これが、ぼくという人間の、 外部へは見せずにきた一断片さ。原子爆弾の世の中だね。 原子が開裂して、ピカドンていうんだろう。一つのピカド                ないそく ンで一瞬に、大きな都会と都会に棲息する数十万の人類が 灰になってしまう。けれどもぼくは、 一匹の猫をバカにで きないというわけだよ」  笠原の顔には、時々自嘲の色が動きながら、言葉には力 がこもっている。高橋と平川は、どこか胸のうちがもどか しく、耳に響く言葉の裏へつきぬけなくては、笠原が実は 何を言おうとしているのかわからぬ気がし、金のことか女 のことか事業のことかと疑いつつ、しかし、けっきょく猫 の話よりほかはわからなかった。そうして、猫のことな ら、べつに意見があるわけでもない。この冷徹で優れた頭 脳をもった男でも、女や子供と同じように幼稚なところ があるのだと知り、かえって安心したような気持になっ た。  気がつくと、土間は、土が十分に踏みかためてなく、 湿った赤土のかたまりが、そこらにぼろぼろこぼれ散って いる。  高橋は、 「しかし、も少し、明るくしようや。第一、かび臭いじゃ ないか」      グヲス  表へ出る硝子戸を開けようとしたが、ガタガタ音を立て るだけで戸が開かない。 「うん、その戸は、内から釘づけにしてあるんだ」笠原 が、ふりむいていった。 「釘づけって、どうしてだい、バヵに厳重にしてあるんだ ね」 「物騒だからだよ。借りたまま、放ったらかしてある。釘 づけにしといても、猫の死骸なんか持ちこんだからね。 「が、困ったねえ、この猫には」 「困ること、ないさ。ぼくが、どこかへ捨ててくる:::」 「イヤ、そうじゃない。捨てちゃいけない。猫を動かし ちゃいけないんだ。動かさずに、そっとしておいてくれた まえ」 「でも、ここが事務所になるのだろう」 「そうだよ。だから、困るといっているんじゃないか。前 兆がいいと思うけど、悪くしてしまうのかも知れない。さ っきからぼくが言ってるだろう。君たちも、智慧を貸して くれなくちゃ……猫が、一寸でも動いたら、事業は不成功 だと思うんだよ」  迷信の話が、その場の座興でもなく思いつきでもなく、 意外に真剣なものだったことが、やっとわかった。わかる と同時に、そういう笠原の思想は、再び急にひどく幼稚で 浅薄なものに見え、フンと笑いたくなったが、それはこら えた。こっちの腹の中を察して、笠原の顔が、怒りで染め られてくるように感じたからである。実にバヵパカしいこ とだったが、いっしょにそのバカバカしさに同化しないと いけない。金融会社をつくる。これは素敵なことだった。 新調の服ができる。ふんだんに金が儲かる。怖い思いをし て強盗をやる必要はないだろう。それなら、猫の迷信も、 バカバカしいことではなくなってくる。今が大切な出発点 だった。そうだ、一つの儀式として、猫の処置を笠原の気 に入るようにしてやらなければならない。  笠原は、明日は建築会社から来て、この家の模様変えに とりかかる予定だと話した。  すると、猫の死骸のある土間を、板敷きにするかコンク リートにするか、いずれにもせよ、このままでおけぬこと はたしかであり、その時猫をどうするのがよいであろう か。  まじめになって三人は相談した。  そしてけっきょく、猫の死骸は、一分一厘今ある位置か ら動かさない、死骸に、土をかぶせ、その上にコンクリー トを厚く敷いて事務所の床にしてしまう。それで猫がこの 会社の守護神になるだろうということに一決した。床は、 実際は、土をさらい取ってからコンクリートにしないと、 短い柱を使ってあるから、天井が低くなる恐れが多分にあ る。しかし、不便でも、また体裁が悪くても、やむを得な い。土をさらい取ったら、猫の位置が動くから、それ以外 に設計は立たないということになったのであった。  きまってしまうと、笠原は、安心した眼つきになった。 「よかったよ。君たちに来てもらってね。明日は、建築会 社が来たら、工事がやりにくいと言うかも知れない。が、 厳重に監督して、猫を動かせないようにするんだね。平川 君も高橋君も、いっしょに来てくれるね」 「いいとも、オーケーさ」 「それで決定だ。むろん、君たちに損をさせることはあ りゃしないさ。よかった、ほんとうによかった。じゃ、こ れから銀座へ行こう。すてきなコックのいる店を見つけて あるんだよ」  ふいに平川が気になったのは、猫の死骸に刃物でえぐつ た傷がついていることである。猫は病気で死んだのではな くて殺されたのであろう。なぜこの猫は殺されたのかわか らない。それに、幸運の前兆だといっている。しかし、殺 された猫でも、ほんとうに幸運の前兆になれるのであろう か? 「オイ、なに考えてるんだい?」  高橋が、小さな声で平川に訊ねた。 「うん、なんでもないさ。-腹が減ってきたね」  と平川は答えた。 二  工事は、その翌日から、予定どおりはじまった。  工事請負人がきて、土間の改造について話を聞くと、そ れでは床が高くなりすぎると文句を言いだしたのも予定ど おりで、それは誰よりも笠原が頑強につっぱって、こっち の設計に従わせることにした。請負人は、柱の根つぎをし たらいいという。根つぎはしなくて、はじめに、土間の工 事からかかってもらいたいと主張した。そうして、けっ きょく、砂利とセメントと砂とで、猫は夕方までに埋めら れてしまった。  高橋が、早くも今までいた下宿を引きはらい、寝具と机 を運んできた。腐ったような古畳には、土足であがった靴 のあとがいくつとなく入り乱れているし、炊事場の準備も まったくできていない始末だったが、彼は工事中ここに寝 泊りしていて、改装の監督をするというのである。平川 も、もう会社が成立したかのように大喜びで、電燈会社へ 行ったり水道の交渉をしたりしてくる。夜になって、しか たがないからろうそくをつけた。そして笠原が、二人に気 の毒だからといって、近くの屋台店から酒や肴を運ばせ た。その酒で、高橋はたちまち泥酔し、 「笠原君は、偉いよ。ぼくは、この尊敬すべき親友を誤解 し……イヤ、憎んでいたことさえあるんだよ。バイトの話 にゃ感心した。そうだね……まったく……学資稼ぎだけの バイトなんて、意味をなさんことだからなア。青年の未来 がどうしたっていうんだい。お伽話はたくさんさ。在るが 故に、我尊しとなすか。今日を大いに祝福せよだ。うん、 これでいいよ。愉快だね……ばんざいだなア……」  盛んに気焔をあげた末に、だらしなく倒れて眠ってしま い、それからあと平川と笠原は、どの青年にもあるように 女のことを話しはじめた。 「高橋のやつ、酒を飲むといつもこうなんだよ。しかし、 うまいこと言ったね。ぼくも笠原君に対しては、ハッキリ 考えを変えなくてはならんと気がついたよ」 「わかってるさ。誰にだってぼくは、憎まれるか、そねま れるかするだけだった。むろん君もその一人だったね」 「そうなんだ。よく君は知っている。今になってぼくも明 瞭になったが、憎んだのは、君にはかなわないと知ってい たからだね。つまり、そねみだよ」 「どういう点で、そねんだのかね」 「いろいろだな。頭がいい、そいつが癪にさわっていた よ。金を貸すっていうこともね。それから女のこともだ よ。女は、君はうまくやっている。ぼくは、高橋もだが、 商売の女しか経験がない。君は、無数の経験だね。しか も、商売女じゃない。セニョリータだろう。堂々たるレ ディがいるだろう。こいつは、ぼくらにゃ、手が出せない んだが……」  笠原は、大きな声で笑いだした。  平川の露骨なそねみが、滑稽に聞えたからである。 「平川君も高橋君も、自分で自分の値打を、落して考えて いるのが、いけないと思うね。自信をもつことだ。そうし て勇気をもたなくちゃ・:・:」 「自信がもてれば、勇気は出るさ。君は、どんな女の前で でも、自信をもつことができるのかい」 「それはそうだよ。ある女をぼくが欲しいと思う、すぐ に、向うの女も、ぼくを欲しがっているとわかるのだ。イ ヤ、欲しがらぬはずはないと考える……」 「おどろいたな。ぼくは、そうは考えられないよ。へまな ことして、軽蔑されたり、横っ面ひっぱたかれたり、世間 の笑いものにされたりするくらいなら、黙って我慢してい る方がいいと思うんだよ。一度だけ、ぼくもやってみた。 お医者さんの奥さんだよ。僕より二つ年が上で、とても肉 体がすばらしいとぼくは思ったんだ。映画のロードショウ の切符を持って行ったら、すぐいっしょに行こうというか ら、しめたと思った。映画見ていて、そっと手を握って も、だまっている。それから外へ出てね、ぼくが抱くよう に腕を出したとたん、ピシャリと頬っぺたをやられたん だ。まったく恥かしかったよ。日本の女も、男をひっぽた くようになったからね」                 あゆ  自分の失敗を話すことが、自然の阿諛になっているのを 平川は気がつかない。笠原は、面白そうに平川の話を聞い たが、その時、思い出したという顔になった。 「女で失敗といえば、君だけじゃないさ。ぼくも最近は一 つやりそくなっているよ」 「ふうん、君でもそういうことがあるのかねえ。おとつい の晩、銀座のホールからいっしょに出て来たレディかい」 「違う。あの女は、ある政治家の二号なんだ。そして失敗 も何もありゃしない。最も簡単な例の一つだよ」 「そうかねえ。とすると、失敗したという相手は、よほど 特別な例なんだね。どういう女だい」 「そうさ。そのことは、話そうかな、話すまいかな」  笠原は、また口のはたを歪めていた。思案してみて、そ のあと、明るい笑い顔になった。 「これは、秘密だよ。ほかの人には話せない。1ぼくが やりそくなった女というのは、君もよく知っているはずの 女なんだ。殺された藤井代議士の奥さんさ。藤井有吉のマ マだよ。びっくりしたかい?」 「へええ……」  平川は、びっくりしたとも、しないとも言わない。ちょっ とのうち、まるで困っているようだった。そして、とつぜ ん、不安の色を眼にうかべた。藤井代議士を殺した犯人が、 まだ逮捕されないでいる。深刻な恐ろしい事件で、それが 未解決である。だのに、あの美しい未亡人のことを、こん な風に平気であけすけに、笑い話のたねにすることが、何 かしら妥当なことではないと感じたからである。笠原は、 平川が何を考えているのか、気のつかぬ風だった。 「あの女はね、まったく、不思議な女なんだよ。すばらし               いんぽん く美しくてすばらしく利口で、泙奔のように見えるけれ ど、そのくせ、ちっとも淫奔じゃないんだね。ぼくは、実 は、ほかのどの女に会う時よりも、あの女といっしょにい て、ダンスしたり、歩いたり、話をしている時、夢中にな ることができた。つまり、とても惚れていたんだ。いたん じゃなくて、今でも惚れているのだろう。問題は、それだ のに、ぼくがあの女と、キスを一つしただけで、それ以上 には、一歩も進めないでいるということだ。キスして、し かも、それっぎりになった女なんて、はじめてなんだよ。 あの女から、会わない、とぼくに断わってきた。電話をか げると、電話を切ってしまう。訪ねて行っても、玄関から 追い帰される。まるでぼくは、嫌われてしまったみたいな んだ。どうしてこんなことになったのか、さすがのぼくに もわからない。i君は、あの女と、何か話をしたことが あるかい`7」 「ないよ。ほとんどね。こないだお葬式に行った。その 時、ぼくからはお悔みをいったけれど……」 「殺された代議士の葬式だね。それぱ、ぼくも、よそうか と思ったが、ともかく行ったよ。しかし、口をきけやしな い。そうして、ぼくの方を見向きもしないというわけだ。 ぼくは、失望して帰ってぎた。なぜぼくに、キスを許して おきながら、急にぼくをそんなにまで毛嫌いするようにな ったのか、その説明を聞きたいが聞くこともできない。そ れはね、キスしたあとだった。だしぬけに手紙がきた。そ して、もうダンスもやめる。会いに来ないでくれ、といっ てきたのさ。ぼくは腹を立てたが、そのあとすぐに女の魅        よみがえ 力が、倍も強く蘇ってきた。匂いがするような気がす る・甘い麟ざしが思い出される・とてもたまらないのだ。 そこへ、代議士が殺されたと聞いたのだが、殺されたあ と、あの女は一人きりだろう。一人きりでどんな風にして 日を暮すのかと考えると、じっとしているのが苦しくな る。ぼくが、こんなにも一人の女で、馬鹿みたいになるな んて、変なことだと思うのだよ。苦しいから、何かしよう と考えて、それからが実は、金融会社を早くはじめようと 決心したんだ。といっても、むろん会社は、女のことがな くったって、やるつもりではいたんだがねーうん、ほん とうに、ぼくが恋愛でこんなに夢中になれるとは思わな かったよ。猫の迷信だの女だの、ぼくも、やきがまわった のかも知れないね」  ドシンと音をさせて、高橋が寝返りをうったので、笠原 ば話をやめてしまった。高橋は、眼をさましている。ふい にむくむく起きなおると、アーンと大きな伸びをして、平 Hこ、つこo 丿セし  ≠ム 「なんだい。面白そうな話をしていたじゃないか。藤井が どうかしたっていうの?」 「ううん。ちがうよ。藤井のことだけど、もっとべつの話 だよ」 「そうかなア。おれ、聞いていたつもりなんだよ。有吉の ことかと思っていた。ほんとは、昨夜から、おれ、有吉の こと、ちょっと考えていたものだから」 「有吉のことって?」 「あいつ、可哀そうだと思ってるんだ。親父が殺された。 「ぼくら藤井と麻雀うっていて、藤井がバカづきしたか ら、何か悪いことが起るそっていって、君がおどかしたろ う。今思うと、言いあてたんだよ。その晩に、あいつの親 父が殺されたのだからねえ。昨夜、それを思い出したか ら、おれ、気味が悪くなったけれど、今度の会社へ、藤井 も仲間にして入れてやったらと思いついたのだ。あいつ、         しよげ きっと、喜ぶぜ。悄気ているにちがいないのだ」  寝ぼけて、見当違いの話を持ち出している。恋愛の話 が、ポツンと中断された形になったが、笠原はだまって、 高橋の話を聞いていて、とつぜん高橋に訊いた。 「いいね。賛成だよ。藤非有吉なら社員にしてやっても悪 くはないんじゃないか。すすめたら、会社に入るか知ら」 「入る、と思うね。あいつも、金儲けぱしたいのだから」 「だったら、君から話してみてくれたまえ。話して、ここ へ、つれて来た方がいい」  笠原の態度が、急に事務的になり、テキパキしてきた。  高橋は、自分の偶然の思いつきを、すぐ笠原に採用され たから、得意そうな眼つきになり、しかし頭をかいた。 「でもね、困ったことが、一つあるよ」 「なんだい」 「藤井の家へ行くのは、苦手だからね。誰かに叱られそう な気がする。まだ親父を殺した犯人がつかまっていないだ ろう。ノコノコ出かけて行って、デカにでも睨まれると怖 いみたいだぜ。おれよりも平川行ってくれないか」 「うん、ぼくがかい?」  平川も、首をふった。 「ぼくも、行きたくはないね。デカは、べつに怖くない さ。しかし、やっぱり苦手だよ。人殺しのあった家なんて ね」                      すね  どっちも尻込みしているのは、池袋のタタキで臑の傷が あるからである。  笠原が、 判,じゃ、二人ともに行くのはいやなんだね。いやなら、ぽ くが行ってもいいよ。ぼくだと、さっきも平川君に話した ように、追い帰されるかも知れないがね」  と口を出したが、その声は不機嫌で、さっきとまるっき り眼つきがちがっている。  平川も高橋も、気がついた。  社長の命令である。自分たちの都合ばかりを考えてはい られない。平川が、すぐに、 「うん、いやってんじゃないさ。行きにくいと思っただけ なんだ、そうだ、高橋。二人でいっしょに行こうじゃない か」  と言いなおした。  笠原は、むっつりと、だまりこんだままでいる。気分が 急に重いものになった。三人が三人、ちがったことを思っ ていて、まとまりがつかないといった感じである。  高橋は、てれがくしに、残っていた酒をガブリと飲ん だ。  平川は、ろうそくを新しいのにとりかえて、わざと土間 のコンクリートをのぞき、 「オヤオヤ、もうセメントが乾いてきているぜ。猫がどこ に埋めてあるか、わからなくなっちゃったね」  と高橋の方を向いて話しかけた。 「話は、早い方がいいよ。明日のうちに、藤井のところへ 行ってぎてくれたまえ。わかったね」  とその時笠原は、冷たく二人に命令した。 苦悶の少年 一  未亡人貴美子は、案内に立った巡査のあとにつぎ従い、 二階への階段を上りかけたとたんに、 「あ、待って……友杉さん……」  ふいにょうけて、友杉の右の肘で身を支え、ちょっとの うち眼を閉じた。  彼女は、黒い色調のスリム・スーツを着ている。そして              とヤもじ 白ピケのゆるいカラーと服に共地の短いボウとが、おとが いや首の線の美しさを、いっそう強く引立たせている。  友杉が、一瞬あわてた眼つきになり、しかし、すぐに落 着きを取戻した 「どうしました。奥さん」 「目まいがしたのよ。クラクラッとしたわ」 「きっと疲れていらっしゃるんですよ。大丈夫ですか」 「ええ……もう平気。歩けるわ」  そうして、友杉の肘から身をはなし、先きに立って階段 を上って行った。今日は、良人有太の初七日をすましてか ら二日目になる。彼女は、急に自分で言い出して、友杉を 伴につれ、K署の捜査本部を訪れたのであった。  本部には、ちょうど大堀捜査課長がきていたし、貝原係 長も、これは朝からやってきていて、二人はとつぜんの未 亡人の出頭で、少しびっくりしたような顔をしている。 「おお、これはいらっしゃい……」 「だしぬけに上りましたの。いろいろと御苦労をおかけし ておりますが……」 「いや……苦労なんて、そう言われると、困るですな。我 我は職務ですよ。それに何分にも事件が解決の域に達しま せんので」  課長が、好人物らしい小さな眼を、照れたようにしてま たたかせたが、ともかく給仕を呼んで茶をはこばせ、それ から話がすぐと本題に入った。 「あたくし、今日は、友杉さんと話し合った上で参ったの ですわ。実は、思いついたことがございました。それをこ ちらへ申上げた方がよいということを決心したのです。 が、その前に、話していただけたらよいと思うのですけれ ど、いかがでしょうか、諸内さんについて、あたくし、ど うしてもハッキリしないようなものがあって、頭の芯から 諸内さんのことがぬけ切らないでいるのですわ。その後、 あの方について、何か新しい事実でもなかったのでござい ましょうか」 「ああ、諸内代議士の件。そうですね・::.」  課長は、ちょっとのうち考えこんで、係長と眼で相談し ている。そして、まっすぐに未亡人へ顔を向けた。 「これはここだけの話ですよ。よろしいですか」 「はア、わかっておりますわ」 「諸内代議士については、もちろん我々も、考えているこ とがあるわけです。情況的には一応の嫌疑をかけてもいい でしょう。ところが、捜査を進めてみると、代議士自身に ついては、これを容疑者として見るわけには行きそうもな いのでして……」 「新聞で拝見しました。某代議士については確実なアリバ イがあったと書いてございましたが」 「その通りなんです。諸内氏については、ほかに例の買収 費二十万円の件がありましたね。これは、代議士が頑強に その事実を否定しているのでして、但し友杉君から最初に 詳しい事情の説明があったのですから、この件については 代議士の否定を、そのまま信用しているわけでもないので す。しかし、こういうことは多分に政治的な問題であっ て、もしかして、純粋に政治的な問題だけであったとする と、その捜査の担当は、我々でない、別の係りの者になっ てくるわけです。当捜査一課としては、とりあえず諸内代 議士が藤井代議士殺しの犯人であるかないか、その点を追 求する必要があるわけですが、さて捜査の結果によります と、諸内代議士には、たいへん確実なアリバイがありまし た。事件発生の当夜、諸内代議士は土木建築請負業者の会 合へ出晴し、そのあと大森の妾宅へ行って泊っています。 しかもその晩、妾宅の近くに放火事件が発生し、これが、 午前一時半という時刻です。ところが調べてみるとその時 刻に、諸内代議士が寝巻のまま妾宅の外へ出てきて火事を 眺めていた姿を、数名目撃したもののあることがわかりま して、だとすると、藤井代議士の殺されたのは午前一時前 後の.」と。放火事件の発生とは、.取大三+分の差があるの ですが、牛込から大森まで自動車で飛ばして行ったにして も、その間に妾宅から寝巻に着更えて、外へ出てくるとい うことは、まず不可能と見なければならないでしょう。一 方、同時刻に、牛込から大森までの間、諸内代議士の自動 車を見かけたものがあるかというと、これも目下の調査で は、無いということになっていまして、けっきょく諸内代 議士のアリバイは崩れません。つまり、少なくとも、諸内 代議士が直接手を下して藤井代議士を殺したのじゃない、 ということになってくるのでして……」  疑惑が完全に消えた、というのではない。けれども、そ れ以上には捜査の手を進められずにいる、ということの説 明である。  未亡人の瞳に、かすかな躊躇の色が浮んだ。そして、ふ り向いて友杉を見た。友杉の眼は、かまわないじゃないで すか、話すだけは話しておいた方がいいと思いますね、と 答えている。 「諸内さんのアリバイの話、よくわかりましたわ。でも、 あたくし、申上げたいのは、諸内さんが宅の主人を訪ねて 見えまして、その時に、あとで思うと、妙なことがあった ものですから……」 「というと、お待ち下さい。それはいつのことになります か。事件発生の前、つまりその日の昼のうちに、諸内代議士 がお宅へ行っていたはずでしたね。その時のことですか」 「ええ、そうですわ。諸内さんには、あの果物籠を引取っ ていただきたいと思って、いくどか交渉しましたけれど、 なかなかお見えになってくれません。こちらは、籠の中の 金がなくなっているのは少しも知らないでいたのですが、 その時、ふいに諸内さんが見えたものですから、そこで主 人はベッドに寝たままで、果物籠のことを話しはじめたの です。すると、籠の中の金がなくなっていることがわか り、誰かが盗んだのではないかという話が出たのですけれ ど、主人の寝ている書斎の窓に、二ヵ所だけ挿込錠の壊れ ているところがあるのを、あたくしが気がついて申したも のですから、諸内さんも、立ち上ってその壊れた挿込錠の 工合など、調べてごらんになったのです。考えてみて、あ たくし、意味のないことではないと思いました。その窓か らでしたら、誰でも外部から侵入することができるのです わ。そして、挿込錠の壊れていることは、家の中の者を除 くと、諸内さんだけが御存じだったのじゃないか、という 気がするのですもの」 「なるほど……」  と思わず、課長も係長も、うなずく言葉に力が入った。 事件現場の最初の調査では、犯人の『出』がわかっていて 『入』がわからなかった。其の後に、.二階の書斎で、窓の 瑛れている部分を発見したものがないでもない。従って、 『入』がその窓であるかも知れぬという意見も出ていた が、その窓のことを諸内代議士が知っていたとすると、問 題はまた改めて検討をする必要が生じてくる。これは重大 な証言であると考えられるのであった。 「挿込錠の壊れたのは、いつ頃からですか」  と係長が、手帳を開き、エバシャープの芯を押し出しな がら尋ねた。 「さア、記憶が確かではございませんけど、今年の春以来 ーいえ、正月以来だったのじゃないでしょうか。不用心 じゃないかなって思ったこともありますの。建具屋さんを 頼んだ方がいいと知っていて、つい、そのままになってい たものですから……」 「恐らくは、それがいけなかったのだと思いますよ。犯人 が誰だかという点は二の次にしても、そこから犯人が侵入 したということだけは、まず、間違いはないでしょう。そ れで、問題を諸内代議士に戻します。窓の壊れているの を、諸内代議士も調べてみたというお話でしたね。その 時、代議士の表情とか態度とかで、特に何か印象に残るよ うなものはなかったのですか」 「はア、それは、べつにあたくし、気のついたことはなか ったのです。諸内さんは、すぐにニヤニヤ笑いました。そ して主人に向って、冗談はよせ、金は盗まれたのじゃある まい、自分で取っておいて、盗まれたことにし、別になお 大きな金額を要求しているのだろう、と申しました。主人 は潔白な性格ですから、そんなことをする筈もありません し、腹を立てたあげくが、二十万円の金は小切手でなら、 すぐに返してしまうのだと言い出しまして、しかし諸内さ んの方では、小切手では困るというお話でしたから、あと で現金で返すということにきまったのですけれど、そうで すわ、そのあとで、もう一っ、変なことが起ったのです。 その話、つづけて申しましょうか」 「どうぞ……」 「主人から、二十万円を返すときめてしまったあとのこと です。だしぬけに主人が、あたくしの知らない人の名前を そこへ持ち出しました。それは、あたくしが主人に呼ばれ て書斎へ行く前、諸内さんと主人と二人きりで話していた ことの続きらしく、だからあたくしには、ハッキリした意 味がわからなかったのですけれど、加東明という人のこと についてでしたの」  課長の眼の底が、キラリと光ったようであった。そして 課長は、すぐに口をはさんだ。 「ああ、ちょっと、待って下さいよ。加東明ーというん ですね。そうですか。加東明なら、まんざら知らないじゃ ありませんね。我々としては、ある程度、知っている人物 の名前ですよ」 「そうでしょうか知ら。……いえ、そうじゃないか、とあ たくしも、こちらへ参る決心をしてからは、半ば予期して 参ったんですわ。でも、その時ではあたくし、まったく初 耳だったものですから」 「よろしい。わかりました。それであとを続けて下さい。 加東明について、どんな話が出たのですか」 「主人は、諸内さんに向って、加東明の問題を、そのうち に詳しく調査するというようなことを言い、それに対して 諸内さんの方は、平気だねそんなことは。調べたけりゃ、 物好きにもいろいろあるのだから、得心の行くまで調べる がいい。まアしかし、加東明なんて、全然関係はないのだ から、労して効なしというところだね、などと答えていら つしゃったようです。iけれども、あとで思ってみてあ たくしとしては、どうも変だったと気がついたのは、その 時の主人と諸内さんとが、表面は大声に笑って、冗談を言 い言いしながら、その実何か眼に見えぬ荒々しさで、お互 いにとても辛辣な皮肉をぶつけ合っていたことなのです。 日がたつにつれ、そのことが強く頭の中へ蘇ってまいりま した。一人で思い出していると、ドキドキ胸が躍ってきて 苦しいくらいでした。それで、主人の初七日もすみました し、友杉さんに相談をしてみたのでございます。すると友 杉さんは、びっくりした顔で、加東明なら、知っている。 先生の命令で、その人物についての新聞記事を探し、切抜 きにして先生にお渡ししたと申しまして、ねえ、そうで しょう、友杉さん……あなたから、あとのこと、お話しし てちょうだい」  友杉成人はうなずいている。  未亡人に代って、いつもと同じむだのない言葉で答え た。 「詳しいことは、ぼくも知らないのですよ。ただ切抜きだ けについてなら、話すことができるのです。亡くなられた 藤井先生からは、事件の起る一週間前に、その記事を探せ という命令がありました。そして、去年の八月二十五日の 東洋新報の社会欄から、それを切抜いたというわけです。 なぜその記事が必要であったか、理由を先生は言われなか ったから、私にもわけがわかりません。しかし、記事の内 容は、記憶しているつもりです。要するに、加東明という のは、追放になった元陸軍少将で、それが行方不明になっ たということを知らせたものです。記事によると、八月上 旬、行先きも告げずに外出し、そのまま自宅へ戻らない。 遺書も発見されないが、恐らくは、生活苦からして自殺し たものではないだろうか、ということでした。警察でも行 方を探したということが、簡単に書いてありましたから、 それについての御記憶もあるのではないでしょうか。な お、その記事には遺族があり、その遺族は娘さんが二人、 男の子が一人であると書いてありました」  課長も係長も息をするのを忘れていた。  はじめから、その予想は十分にあったことであるが、事 件の性質は、複雑である。裏に裏があり、底に底があるも のに見えてきた。友杉がいったとおりに、なるほど加東明 の行方不明事件は、今から一年前警視庁でも手がけたこと のある問題だった。それを言い出されると、今でもいろい ろ思いだすことができる。元陸軍少将加東明は、政治の好 きな人物であって、もっとも追放者だから、表向き政治に は関与できない立場にあり、しかしながら、真に政治と絶 縁していたかどうかは疑わしい。政治的暗躍または政治的 陰謀に、喜んで加担しそうな人物だったことは確かであ る。遺族だという娘の一人が戦争未亡人であって、父親の 失踪を届けて出た。当局としては、かなり綿密に行方を捜 査してみたが、結果は一向に思わしくなく、大体に於て、 自殺したのであろうと推測はされたが、死体が発見された わけではない。けっきょく謎の失踪ということになってい たもので、それを生前の藤井代議士が、改めて調査にかか るつもりだと語ったという。しかも藤井代議士は、某政党 についての醜事実を摘発することによって、政界の浄化を 志していたというではないか。藤非代議士が、いかなる事 実を掴んでいたのかわからない。しかし、諸内代議士、ま たは諸内代議士の所属する政党は、藤井代議士の掴んだ事 実を恐れたが故に、果物籠へ買収費を入れて持ちこんでき た。そうして藤井代議士は、福島で怪我をして帰ってき て、さて外出できずに寝ているうちに、加東明のことを思 いだしたから、そこで友杉に命じて、新聞記事を探させた という順序になるのである。藤井代議士の意図する政界浄 化と加東明の失踪とは、何か関係があるにちがいない。そ の上に、藤井代議士の殺されたのは、藤井代議士が諸内代 議士に、加東明のことを話した日の夜だった。そうして諸 内代議士は、あの書斎の窓が、一ヵ所だけ容易に外部から 侵入できることを知っていたということになるのであっ た。ー 「新聞の切抜きのことは、奥さんも前から御存知だった でしょうか。生前に御主人から、それについて何か話でも ・:…?.」 「いえ、それが、主人はあたくしを、政治嫌いだとしてき めていましたの。新聞の切抜きのことなど、一度も話して くれたことがございません」 「とすると、友杉君はどうですか」 「ぼくは、さっき言ったとおりです。その記事が必要なわ けを、先生が説明して下さいませんでした。言いおとしま したが、記事を探しだして先生のところへ持って行くと、 先生はそれをお読みになってから、ぼくに、机の上にあっ た青い表紙の紙ばさみへはさんでおけと言われました。ぼ くは、命じられたとおりにしたのですが」 「そうですか。記事について藤井代議士が何を考えておら れたか、その点がわからぬのは残念ですね。切抜きを、そ の紙ばさみごと、持ってきてもらえるとよかったですが」 「ええ、それは、ぼくも考えたことです。奥さんに話した あと、いっしょに書斎へいって紙ばさみを見ました。とこ ろが、切抜きがなくなっていたものですから」 「ふーん」  うなり声が出た。  重大な証拠品とも見るべきものが紛失している。それ は、いつ紛失したのであろうか。藤非代議士が殺されたと 同時に紛失したものとすれば、犯人がそれを奪い去ったと 見てよいのであろう。そしてまた、犯人が奪い去ったので あったなら、もはや確実に、藤井代議士殺しは、少なくと もその裏面に、政治的陰謀の黒い糸が張り廻されていると 考えてもよいのであろう。もちろん、諸内代議士にはアリ バイがあった。だとすれば、諸内代議士が直接の犯人でな いことだけは確かである。そうしてしかし、藤井邸は牛 込にあり、諸内代議士の妾宅は大森にあった。時間として は最大三十分間の余裕がないではない。その時問で、牛込 から大森に赴き、近所の火事で、驚いて外へ出てくるとい うことは、ぜったい不可能なのであろうか。火事は放火で あった。その放火が、ことさらにその時刻に起るように計 画されていたということも、有り得ぬことではないであろ う。1疑惑は疑惑を呼び、止め度がなくなってくる。 係長は、課長の耳へ口をよせて、 「諸内代議士のアリバイを、もう一度、追究してみまし.低 うか」  と囁き、課長は、 「そうだね。それも必要だ。そして、加東明の事件を、根 本から洗いなおすのだね」  と、やはり小さな、しかし力を入れた声で答えていた。 二  未亡人貴美子と友杉とが、藤井家へ戻ったのは夕方だっ た。  未亡人が自動車を降りて邸内へはいってしまったあと、 友杉が自動車賃を支払っていると、そこへやってきたの が、平川洋一郎と高橋勇である。高橋が、先きに友杉の姿 を見っけた。そして、足をとめ、平川の腕をおさえるよう にした。 「だめだよ。友杉さんがいるぜ」 「うん、そうかーしかし、いたって、かまわないだろう」 「でもヨオ。おれ、あの人は少し苦手だよ。怖いみたいな 気がするんだ」  そうして、そこで二人はためらって、コソコソと塀の角 へでも身をかくそうと考えたが、その時、 「ああ、なんだ。平川君と高橋君じゃないか。何か用な の」  逆にふりむいた友杉から、声をかけられてしまった。  しかたがない。二人は門の前へ来た。 「藤井君、家にいるでしょうか」 「有吉君だね。いるはずですよ」 「ちょっと話があってきたんです」 「そうですか。じゃ、取次いであげよう。ーしかし、麻 雀やなんかじゃないだろうね。そういうことで誘うんだっ たら、ぼくが断わる。遠慮してもらいたいな」 「ちがいますよ。まじめな話です。笠原君から、使いを頼 まれたものですから」 「ほう……」  チラリと友杉の顔を影が走って過ぎた。 「なるほどね。笠原君なら、ぼくもよく知っているんだ。 iよろしい。はいりたまえ。有吉君に知らせてあげま す」と彼はいってから思案し、「しかし、君たちと有吉君 との話、ぼくも聞かせておいてもらいたいなア。まじめな 話だっていうんだから、いいでしょう。ぼくもいっしょに いることにするからね」とつけ加えていった。  平川も高橋も、困ったことになったと感じ、しかしいや だとは言えない。自分たちは不良として警戒されているの だから、これもしかたがないのだとあきらめた。  二人が通されたのは、玄関わきの応接室である。二人と も、今日は学生服を着ている。そこへ通されて、友杉がい ないちょっとの間に、弱ったな、どうも、と二人は眼を見 合わした。そうしてじきに友杉が有吉をつれてきた。  有吉は、青く神経質な顔になり、眼の光が鋭く深く考え ごとをしているようで、わずか十日とたたぬうちに、こん なにも顔が変ったのかと、二人をびっくりさせるほどであ った。ショートパンツに、クリーニングしたてのワイシャ ツを着ていて、腕や足まで、白く痩せたように見えるので ある。それでも、懐しい二人の友だちを見て、ニッと口の はたを笑わせたが、はじめ何も言わず、椅子のところへ来 てじっと立っているうちに、たちまち眼のうちへ、涙がた まってきた。特徴のあるはしっこでめくれ上った唇を、き っと強く結んでいるが、それは胸いっぱいにこみ上げてき た悲痛なものを、溢れ出ぬように噛みしめて、自分をでき るだけしゃんと見せるための努力だとわかる。十八歳の少 年にとって、あの悲惨な父親の死が、いかに大きな打撃だ ったろうか。友杉が、 「さア、有吉君……」  と、眼で椅子にかけさせようとしたが、肩を張り、息を つめ、立ったままでいる。不良ではあっても感動家の高橋 が、ふいに自分も悲しくなって、有吉の手をしっかり握り しめた。そして、 門ぼく、来たかったんだよ。君を慰さめにゃならんて知っ ていたんだ。だけど、なんだか……来にくかったものだか らね……」  と正直にいって、とうとう自分も、涙声になってしまっ た。 「うん、いいんだよ。高橋君……」  と有吉も、遠慮したのだろう。友杉の方をちょっとふり むいたが、ようやく口がきけるようになった。 「ぼくもね、君たちが、かげでぼくのことを心配したり、 いろいろ噂をしてるだろうってこと、しょっちゅう思って みたんだよ。麻雀うっていて、ぼくがあの晩、バカづきし たね」 「そうそう。そうだったね」 「友杉さんもおぼえてるでしょう。そん時、平川君がぼく のこと、そんなにバヵづきしたら、あとでろくなこと起ら んていって、からかったんだ。時々ぼく思いだすのさ」 「うん、ぼくらもこないだ、その話をしたよ、悪いことい ってしまった……」 「いいや、悪いことないさ。謝まってもらわなくったって いいけれど、ぼくはとてもこりちゃった。麻雀のこと、考 えるだけで、怖くなるんだ。夢見るよ。血のついた麻雀の パイ                 チンイーソー 牌が、血だらけの清一色で並んでいたり、ピンポンみたい に飛びまわって、遠くの方へ逃げていったりするんだよ。 ーだけど、ともかく、よくきてくれたね。ぼくの方か ら、君たちんとこへ、会いに、行こうっていくども思った んだ。とてもぼく、嬉しいんだよ。おやじがあんな工合で 殺されちゃった。それを恐ろしいと思ったり、また悲しい と思ったりするだけじゃない。ほかにぼくは、うんと心配 なことがあるからね」  再び友杉をふりむいたが、有吉の表情には、微妙な変化 が起っている。瞳に力がこもってきた。悲しみが少し薄れ たようで、そのくせまた、今までとちがった不安の色が浮 いて出た。友杉が言いつけておいたのだろう、そこへふみ やがつめたいコーヒーを運んできた。そして有吉の表情 を、友杉が注意深く見守っているのであった。  平川が、話しかけた。 「有吉君。ぼくら、君に同情しているんだよ。小西だっ て、南条だって、同じことさ。君のためには、どんなこと だってしてあげるよ。うんと心配なことがあるっていった ね。それはどういうことだい」 「ああ、それはね、ぼく、言っていいかどうか、わからな いことだよ。1うん、むろん君たちには、いつかきっと 話す時があると思うけど……そうだなア……ぼく、心配し ていることは、五万円の金、君たちにぼくからあげただろ う。あれにも関係があるんだよ。……困っちゃったな。ど う言ったらいいのかなア。ともかくぼく、あの金のこと で、君たちが迷惑したんじゃないかって思ってんのさ。ど うだったの、君たちの方は?」 「わりに平気さ。警察から調べに来たけれどね、もらった ことを正直に言ったら、すんじゃったよ。それでおしま い。君が心配しなくってもいいんだよ」 「そう。それじゃよかった」  表情が、また変化している。  何か気おくれがし、ためらっているようであった。  そして、だまって考えこんでから、わざとのように、明 るい眼つきに戻った。 「バカかも知れないよ、ぼくはね」 「どうしてさ」 「きっとね、くだらないこと、ぼくが心配しすぎているん だろう。もうよすよ、そして、もっと元気だすよ」 「そうかい。そりゃ、その方がいいな」 「元気だせば、も少したってから、学校へも行けるし、君 たちと遊ぶことだって、できるんだからね。……うん、そ うだった……君たちと遊ぶっていえば、思いだしたよ。 …:.いま平川君は、小西や南条のこと言ったっけ。みん な、変りはないのかい」 「ああ、いつもの通りだよ」 「……そして、園江は?」 「え?」 「園江は、どうしているの。園江は、お葬式の時も、来て くれなかったんだよ」  友だちのことを訊く眼つきが、燃えるように熱心であ り、しかも、平川も高橋も、すぐに答えることができなか った。  園江は、どうしているか、彼等も知らない。あの時以 来、ずっと気になっている。笠原に会ってから少し忘れて いた。しかし、鳩の街まで園江を探しに行った時以来、い や、その前に二度目の強盗をやろうとして失敗し、ちりち りばらばらで逃げてしまって以来、会いもしないし噂も聞 かない。それに、園江のことを訊かれると、胸をチクリと 刺されるように感ずるのであった。  高橋が、変だと思われるのが気になって、むりに笑って みせた。 「園江か。あいつは、低能だから……」 「低能って、なぜなの?」 「なぜでも、低能だね。お葬式のお悔みを言いに来ないっ てのなら、なおのこと低能さ。うん、ほんとは、ぼくらも あいつのこと、まるで知らないんだ。ええと、あれはちょ うど君のパパの事件が起る前だったね。ぼくと平川とで、 君の学校へ行って、園江が来たかどうだかって聞いたろ う。そのあと紅中軒へ行って麻雀うったんだ。けれども園 江のやつ、あれっきりなのさ。ぼくらも、あいつには会わ ないよ」 「ふうん。じゃ、どこにいるか、わからないの、君たちに も9.」 「わからないね。探したこともある。しかし放ったらかし ておくことにきめちゃったよ。いいんだ、あいつはね。あ いつのことなんか、そう心配してやらなくたって平気なん だ。……それより、ぼくらは、まだ肝心な話をしなかった ね。その話をしてしまおうよ。ぼくたち、今日は笠原君に 頼まれてきたんだ。笠原君が、君に会いたがっているのだ よ」  高橋が、急に笠原のことを言いだしたのは、園江新六の 話が、いやだったからである。彼は、平川を見て、 「オイ、笠原のこと、君から話せよ。君の方が話はうまい から」  と応援を求め、無意味に手をあげて、頭をかいた。  友杉が、眼を放さず、彼等を見ている。  平川も、友杉がいては話しにくいと感じ、しかし、きっ かけがついたので、話しはじめた。  笠原が、ある種の事業をやろうとしていること。淀橋 に、もう事務所ができかけていて、有吉をもその事業に参 加させたいと思っていること。そうして笠原という男は、 自分たちが考えていたより愉快なよい友人であること。だ から、有吉も、父親の死でしょげていないで、笠原のとこ ろへ来た方がよいではないかということー。  有吉は、見るも明らかに、不愉快そうな顔に変った。笠 原なんて、名前を聞くだけでもいやだとハッキリ言い、ど んな事業か知らないが、笠原といっしょに事業をやるなん て、ぜったいお断わりすると言い張った。  不思議にも、だまって聞いていた友杉が、ニコリと笑っ たようだった。  彼は、はじめて、口をはさんだ。 「ああ、平川君も高橋君も、有吉君に対する友情で来てくれ たんですね。有吉君も、ありがたいと思った方がいいじゃ ないんですか。……そうだな平川君。君たちの話、ぼくに はよくわかっているよ。有吉君のために、いいことかも知 れないね。よろしい。ぼくがあとで有吉君には、ゆっくり と話してあげよう、笠原君への返事は、断わってしまった ことにしないで、少し考えさせてくれるようにしてくれた まえ。今日はこれで帰ってもらう。もしかしたら、明日に でも、こっちが出かけて行くよ。i実は、ぼくも笠原君 には、用があるしね。なアに、笠原君にぼくが、失敬なこ とをしたことがある。奥さんを訪ねてきていたのを、ぼく が脅迫して追い返したんだ。電話がかかってきても、ぼく が自分勝手に取次ぎを断わったりなんかしてね。悪かった よ。ぼくから謝まらなくちゃならないと思っていたんだ。 ねえ、有吉君。これはぼくに、任せて下さいね」  有吉が、おどろいた眼で、友杉の顔を見ていたが、平川 と高橋とは、意外な仲裁で、これもびっくりしながら、急 に元気づいてきた。 「そうなんだよ。ねえ、藤井。ぼくら、君を悪いようには 決してしないよ。大丈夫だ。頑張ったって、ほめられやし ないさ。それより、向うで来てくれっていうんだから、と もかく会ってみるだけだっていいじゃないか。友杉さん、 よろしくお願いしますよ」と高橋は言い、平川も、 「それにだな。笠原君のこと、ぼくらだって誤解していた さ。いやな奴だと思っていた。だけどあいつも、芯は淋し がっていたんだぜ。ぼくらから憎まれて、いろいろ煩悶し たと思うね。話し合ってみると、いい人間だったよ。君 も、つきあえば、だんだんわかるにちがいないのだ。ねえ、 強情張らずに、会ってみたまえ。頭はいいし、啓発される ことだってずいぶんあるぜ。ぼく、嘘をいっているんじゃ ない。ぼくらを信用したまえ。そうして、せっかく来たぼ くらの顔も立てるようにしてくれたまえLくりかえし、笠 原をほめて聞かせるのであった。 三  友杉が有吉を、少し外の空気を吸わないかといって散歩 につれだしたのは、その夜の夕食が終ってから一時間ほど 後だった。  二人は、事件の夜、あの奇妙な足音を聞きつけた坂を下 りた。それから電車道を神楽坂の方へ歩いたが、途中のお 濠には貸ボートが浮かんでいたので、ああ、あれがいい、 と友杉はすぐにボートを借りて漕ぎだした。  お濠の重みのある水が、時々ピシャリと音を立て、水面 には、走る電車の燈影が線を引いて映った。若い男女や女 ばかりのボートの間を、しばらく漕ぎぬけてから、オール を有吉が代ったが、すぐに疲れて手を休め、煙草に火をつ けると仰向けになって、夜の深い空を、じっとだまって見 上げている。 「有吉君i」 「なんですか」 「散歩に君をつれだしたのは、どうしてだかわかってい る?」 「わかっていますよ。むろん……」  腹を立てた声だったが、むっくり顔を持ち上げると、思 いついたように、煙草の箱を友杉の前へさし出している。 「ありがとう。一本、もらうかな」  そうして友杉も、うまそうに煙を吐きだし、しばらくの うちは、また二人ともにだまりこんでしまった。  向うのボートで、少女が何か叫び、それから笑い声を立 てた。明るいこだわりのない笑い方だった。中央線の電車 が、またはげしい響きとともに走り去った。 「ぼくは、友杉さんの気持が、わからないんですよ。ぼ く、びっくりしていた」 「そうですか。笠原のところへ、有吉君が行った方がいい って言いだしたからですね」 「そうですよ。あの男を、ぼくは憎んでいます。それは友 杉さんも知ってますね。ずっとせんに病院で、友杉さんは ぼくの書いた手帳を読んだのだから」 「そうだったな。笠原という名前は、あの時にぼくは、 はじめて知ったんですよ。1しかし、どうですか。せっ かく平川君や高橋君が来たのだから、行ってみた方がよい とぼくは思いますがね」 「それは……ぼくは、友杉さんを信頼しています。友杉さ んがそうしろってのなら、その通りにしてもいいんです。 だけど、なぜ友杉さんが、ぼくの気持知っていて、むりに ぼくをあいつのところへ行かせるのか、その理由がわかり ませんから」 「理由は、大してないんですよ」 「ひどいなア。それじゃ、まるでぼくの気持を無視してし まって……」 「無視しやしない。それは考えているんです。しかし、あ とできっと役に立つと思うんですよ。ぼくには、そういう 気がする。笠原という男は、ぼくも好きじゃなかったです ね。ところが、たいへんな秀才ですよ。特異な性格を持っ ている。それに人間は、どこかによいとこはあるもので、 そのことをぼくは思ってみました。平川君や高橋君が、今 はすっかり笠原に敬服してるでしょう。何かあの人たちも 発見したのにちがいない。だから、有吉君も、行って見れ ば、案外気持が変るかも知れないじゃないですか」 「まるでアヤフヤですねえ、友杉さんも。アハハハ、おか しいや」 「有吉君の笑うの、久しぶりに見たな。アハハハ、ぼく も、おかしくなってきた。いや、いいですよ、ぼくを笑っ てもね。まったく、ぼくもアヤフヤなこと、いってしまっ たんでしょう。1が、どう。ほんとに行く9」 「ええ、行きますよQそれは……」 「よかった。有吉君は、すなおだから、ぼくは好きなんで すよ。そうですね、場合によったら、ぼくがいっしょにつ いて行きますよ。それでもいいでしょう。ここで、ほんと のこと、ぼくがもう一つ言う。それはね、ぼくは有吉君 を、一人でおいちゃいけないって、いつもこの頃考えてい るんですよ」 「信用ないんですね。アハハハ・:・.・」  有吉が、また笑ったが、おかしくって笑う声ではなかっ た。投げた煙草の火が、水面でシュッと音を立てて消え た。そして友杉は、鋭いまっすぐな視線で、有吉の眼をの ぞいていた。 「信用の問題じゃないんだが、有吉君には解らないのか な」 「わかりませんね。信用の問題じゃなくて、では、どうい うんですか」 「つまり、ぼくは、有吉君が、いつもひどく何か苦しんで いるのに気づいているのですよ。考えていることがある。 しかも、それを誰にも言わない。自分だけで、不安を感 じ、いらいらし、だしぬけに泣きだしそうになっている。 ねえ、そうじゃないですか」 「   」 「お父さんがあんなことになった。それを悲しがっている のはわかるが、それだけじゃ決してないですね。そのこと は、平川君たちの前でも、有吉君自身で言ったでしょう。 あの事件を、恐ろしがったり悲しんだりするだけじゃな い。ほかにうんと大きな心配があるってね。それなんだ。 ぼくが気にしているのは。それがあるから、ぼくは有吉君 に、いつもついていてやらないと、いけないことが起るの だと思っています。どうですか。ぼくにいっそ話してしま いませんか。その心配なことはどんなことだか……」  有吉は、顔を上げると、友杉の視線を、あわてて横へそ らしてしまった。しばらく、返事をしない。また煙草に火 をつけた。 「いやだなア、ぼくは……」 「え、どうして9」 「相手が友杉さんでも、そうしちくどく、ぼくのことを疑 ぐられるの、いやなんですよ」 「疑うんじゃありませんね。そうだと観察しているんです よ」 「同じことですよ、それは、友杉さん。1第一、心配な ことっての、あの時にやはりぼくが平川君たちに言ったで しょう。友杉さん流に言えば、大したことじゃないんで す。ぼくがバカかも知れない、くだらないことを考えすぎ てるんだってね。それで解答はおしまいですよ。何もあり ません。バカバカしいんですー・」 「君が一人きりで考えていることは、べつにないっていう んですね」 「そうですよ。その通りですよ。もういい、友杉さん。何 もぼくに訊かないで下さい。ほんとうに、ぼくがバカだと いうことだけです。それ以外に何もないんですよ!」  声が痛ましい響きを帯びている。あと一歩というところ を、命がけの力で踏みこたえている。友杉が、しかし、や はり視線をはなさなかった。無慈悲にまた一つえぐった。 「有吉君。ぼくはね、君をいじめたいんじゃないんだ。反 対に、君の味方なんだ。いいね。そこで君がどこまでも君 の考えていることを話さないのなら、ぼくの見たこと話し てあげよう。四日前だった。ぼくは庭へ出て、草むしりし ていた。そしたら、有吉君が二階のバルコニーへ上り、へ んなことしているのに気がついたんだよ。バルコニーは、 お父さんの書斎へ続いているでしょう。そして書斎の窓が あるでしょう。その窓は挿込錠が壊れていて、バルコニー から、夜中でも侵入できるようになっている。ところがど うだ、君は、その窓を、そっと開けたり閉めたりしてい る。それから、バルコニーへ腹ん這いになって出て、何か 探すような恰好をしている。じきに、階下でふみやさん が、湯殿の戸を外からあけた。その音がすると、君はびっ くりして立ち上り、バルコニーから姿を消したね。:…・ね え、どうなの? そこまでぼくに言わせたら、あとはもう 強情張らなくてもいいんじゃないですか。あの窓は、今の ところ、犯人が侵入した口だということになっているので すよ。少なくとも君は、そのことを前から知っていたので すね」  有吉の瞳が、大きく見開かれていた。  それは驚きの表情であり、しかし、恐怖の表情に近かっ た。 「友杉さん1 ……」  と彼は叫んで、あとの言葉が続けられず、ふいにオール を掴みよせると、その手の上へ顔を重ね、はげしく声を立 てて泣きだしてしまった。  ボートがグラリとゆれ、光る波があたりに散って行っ た。友杉は、ため息をつき、身を動かして有吉のそばへよ った。 「君は弱いんだね有吉君。なにも泣くほどのことはないん だよ。え?」  そして有吉は、手のひらで涙をこすりあげ、ようやくオ ールから顔をはなした。 「ぼくは……ぼくは、ほんとは……苦しいんです。友杉さ んの言うとおりです。しかし……もう少しのうち、ぼくの 気ままにさせて、ただぼくを見ていて下さい。お願いです 友杉さん。それだったらぼくは、笠原のところへも行きま すよ。そうです、行くことがぼくにも必要なんですから。 一つだけ言えば、ぼくはぼくの責任を考えているだけで、 これ以上友杉さんに迷惑なんかかけません。信じて下さ い。そしてもう何も訊かないで下さい」  兄に甘える弟の声だった。  友杉は、有吉の肩を抱きしめるようにして、じっとこの おえつ 嗚咽の言葉を聞くのみであった。 愛の書簡 一  有吉が、友杉といっしょで、淀橋にある笠原昇の事務所 を訪ねたのは、平川と高橋とが有吉にそれを勧めにきた、 その翌々日のことであった。  ボートの中で泣いた有吉は、友杉と肩を並ぺて帰る道す がら、ふっと遠く空を見上げて、ああ、ぎれいだなア、今 夜の星は、まるで生きているみたいに動いていますよ、と 大人っぼくしみじみした声で言い、その星を眺める目つき が、思いのほか清く明るく澄んでいたが、これは彼が、胸 のうちの秘密と苦しみとを、友杉に鋭く指摘されたので、 かえってその苦しみや秘密は、これから後のいざという場 合、友杉になら打明けて話すことができるのだという、ひ そかな安心感が生れてきたせいだったろう。  友杉の方は、帰るとすぐに未亡人の部屋へ行って、長い うち未亡人と話しこんでいたが、それは藤井家に於ける友 杉の存在が、あの事件後すっかりと重味のあるものになっ てぎている。未亡人一人だけでは、内外の家事一切を処置 しきれず、自然友杉が、唯一の相談相手になっていたから であるが、さてしかしその晩の二人の話は、かなり重大な 問題についてであったにちがいない。未亡人は、次の日一 日、何かじっと考えに沈んでいた。そして翌日の昼ごろ、 ようやく決心がついたという顔になって、 「ねえ、友杉さん。あたしも、同じような気がしてきた わ。あなたの意見に賛成なの。有吉ちゃんを、つれて行っ てみてちょうだい。……それから、笠原さんに軽蔑された ら口惜しいじゃないの。身なりを、できるだけキチンとしー て行ってね」  と女らしく気を配り、友杉のために、藤井代議士の服を・ 出して与えたのであった。  行ってみると笠原の事務所へは、折よく笠原が来ていた し、平川と高橋も顔をそろえている。そして、事務所の工 事は、たいへんに早く進んだらしい。あの貧弱なバラック が、もう見ちがえるほどになっているー。  表の硝子戸に、ペンキが塗ってあった。  壁はベニヤ板で、天井がテックス。その天井いっぱいの 高さに書類入れの戸棚が立ててある。ニスの匂いの新しい テ!ブル。安ものの灰皿や紙屑籠。そして奥の部屋では、 畳替えがはじまっているところだった。 「あ、藤井か。よく来たね。もう来ないのかと思っていた よ」  顔を見て、はじめに声をかけたのは高橋だったが、今日 も友杉がいっしょなので、ふりむいて笠原と平川とに、て れくさくパチパチと目ばたきをして見せている。  笠原と友杉との視線が合った。  とたんに、友杉の顔には静かな微笑が浮かび上ってきた し、すぐ笠原も、 「やア、こりゃ、あなたが来てくれたのは意外ですよ。し fらくでした。歓迎しますよ」  と思いのほかおちついた声でいった。  かつて藤非家のサンルームで、貴美子夫人にダンスを教 えにきていた笠原を、友杉が容赦なく追い払おうとした 時、彼等は擱み合いの喧嘩でもはじめそうであった。それ 以来、どちらも、相手を憎悪しているはずであり、しかし 二人とも、それを忘れたような顔をしているのである。平 川や高橋は、深いことを何も知らなかっただろう。気をき かして高橋が、脚を上にして重ねてあった椅子を床へおろ し、入口のテーブルのそばへ、有吉と友杉との席をつくっ た。そうして平川に、 「オイ、お前、自慢してたじゃないか。コーヒーいれろ よ。茶碗、買ってきてあるぜ」  と言いつけた。  女の事務員がまだ来ないので、キャンプ生活の学生のよ うに、自炊をしているのだと、高橋、平川が言いわけして いる。そのあとで笠原が有吉に、殺された有太のお悔みを 言い、すると笠原と友杉との間で、話が有太の殺害事件の ことにはいってしまった。 「どうですか友杉さん。あなたは直接に事件の渦中にいる のだから、いろいろと詳しいことが、ぼくらよりもわかっ ているはずですね。犯人の目星は、もう大体のところっい ているのじゃないですか」 「そうですね。警察じゃ、ある程度わかってきているかも 知れません。少し政治的な問題がからんできているようで すが」 「政治的って……そうですか。じゃ、それは、諸内達也と いう代議士のことですね」 「ほう、よく知っていますね。どうしてですか」 「どうしてでもないんです。ぼくは、実はこの事件には、 興味をもっているんです。藤井君の前で興味だなんていう のは気の毒だけれど、ともかく変った事件ですからね。ぼ くが新聞記者とか探偵とかであったら、夢中になったかも 知れません。ぼくは新聞で事件を知ったのですが、事件発 生以来の新聞の切抜きを、全部集めて持っているくらいで す。1その新聞に、某代議士のアリバイのことが書いて あったでしょう。それを読むと、すぐにぼくは諸内代議士 だと気がついたんです」 「新聞には、詣内代議士の名前は、出ていなかったはずで すが……」 「出ていなくても、わかったんですよ。諸内代議士が、藤 井君のお父さんを買収しようとしたんですね。政治的な何 かの秘密を、藤井君のお父さんに擱まれていて、その暴露 を恐れたからのことでしょう。諸内代議士は、果物籠へ莫 大な金を入れて持ってきた。しかし、清廉潔白な藤井代議 士が、最後までその買収に応じなかった。そうして、そん なことでモタモタしているうちに、とうとう殺人事件にな ってしまったという順序です。警察じゃ、どういう見解な んです。つまり藤井代議士は、中正党の秘密を握り、その 秘密のため、殺されたというんじゃないのですか」  友杉よりも、平川と高橋とが、おどろいた眼つきになっ ていた。これまでに笠原は、事件についての特別な興味を もっていることなど、おくびにもロへ出さなかった。むろ ん、それについての意見を、述べるというようなこともな かったし、果物籠のことも、平川や高橋が、話して聞かせ た覚えはない。だのにこの男は、平川も高橋も及ぼぬほ ど、詳しい事情に通じているらしい。いつのまに、どうし てそんなことを知ったのかと、不思議な気がするのであっ た。  友杉の顔に、一筋、血の色が浮いたようである。ふい に、ニスのテーブルについていた肘をはなし、上体をまっ す6、に起したから、何か反対意見をでも述べるのかと思わ れ、しかし、べつに何も言わなかった。ポケットの扇子を 出し、パチリと音をさせて、またそれをもとのポケットに 入れてしまった。そうして、簡単な言葉で笠原に答えて、 諸内代議士の件は、多分警察でも笠原と同じ着眼点で捜査 にかかっているのではなかろうか、といっただけであっ た。  有吉が、急に椅子をはなれ、せまいテーブルと壁との問 をぬけて、疂屋の職人の仕事を見ている平川のそばへ行っ てしまった。やせ細った横顔が、透きとおって青い色をし ている。友杉と笠原とが、事件の話ばかりしているのを、 不平に思っている顔つきだった。  友杉は気がついて、 「まアしかし、犯人を探すことは、警察へ任せておいた方 がいいと思っているのですよ。それよりも今日は有吉君の ことですが……」  と有吉をこっちへ手招きして言い、笠原も笑いながら、 「そうでしたね、iこれは、実は、高橋君が言いだした のです。ぼくも賛成で、有吉君にしても、ここへきてぼく らの仕事を手伝っていたら、気がまぎれるんじゃないかと 思ったんです。学校の余暇を利用して、まア、バイトとい うわけですが、学生のバイトとしては、かなり面白いつも りですから……」  といって、事業の説明をはじめた。金融会社ではある が、合法的にうまくやる。名前は企業会社ということにし て、小資本の企業家に対し、資金を貸したり企業の計画を 立ててやったりする。名目は、貸金の利子をとるのでな く、その企業を合同にし、利潤を分け合う形式になるのだ から、世間ていも悪くはないし、出資金に対しては担保を ちゃんととっておく、そうすれば、企業が失敗してもこち らは損失にならず、成功すると、それだけやはり儲かる、 というような説明であった。  友杉が、ふりむいて、心配そうに有古の眼をのぞいた が、有吉は、思ったよりハッキリした口調で答えた。 「ぼくは、どっちでもいいんですよ。高利貸しって言われ るんじゃなかったら、バイトしたってかまいません。しか し、その前に笠原さんに、一つだけ聞きたいんですが」 「ほう、どういうこと?」 「仕事の話じゃないんですよ。ぼく、気になっているか ら、こないだも平川君たちに訊いてみたんです。……とい うのは、園江が、どこにいるのか、笠原さんは知ってない でしょうか。ぼく、園江に、どうしても会ってみたいんで す」  胸のうちにためていたことを、がまんできず、ロへ吐き 出したという感じだった。  なぜ、ここでだしぬけに園江新六のことなどを言い出し たか、それは誰にもわけがわからない。友杉が、ハッとし て有吉の顔を見なおした。笠原も、表情に変化が起り、眼 が輝いたようであったが、ガタンと音をさせて、椅子の上 の膝を組みなおした。 「おかしいね。藤井君。どうしてだい、園江のことなど、 なぜぼくに訊くの9」 「わけがあるんです。平川君も高橋君も、園江のことは、 知らないんだそうです。でも、笠原さんなら、知っている かと思って……」 「だからさ。だから、なぜぼくなら、園江のことがわかる のかねえ。ぼくが、あいつのこと、知っているはずはない じゃないか」 「そうですか。じゃ、園江は、笠原さんのところへ、最近 来たことはなかったんですか。1最近といっても、十日 ほど前、イヤニ週間にもなるでしょう。その時園江は、笠 原さんのところへ行くといっていたんですよ」 「ほう……」 「園江はぼくに、金を借りに来たんです。ぼくは都合が悪 くて断わりました。そしたら園江は、それじゃしかたがな い、困ったなアといって考えこんで、それから、笠原さん のところに、金を借りに行くって言ったんです。ほんとに 来なかったんですか」 「そうか。ー金を借りる話なら、園江が来たこともない じゃない。しかし、二週間前だというんじゃ話がちがう ね。こっちは、もう二た月も三月も前のことだからね」 「ぼくの家で事件が起った、その四日前のことですよ」 「ふーん……」  奥にいる畳屋さんのそばで平川が、ふっと顔を上げ、こ ちらへ耳を澄ましている。  それは、誰の胸にも、ある微妙な感じが起ってきていた からであった。その感じは、海の底の流れのように力が強 く、同時に大きな不安や恐れを伴っているものである。そ の原因は、甚だしく不確かであり、そうして不確かなくせ に、ぼんやりと何かの映像が見えてくるようなものである のであった。  友杉が、まっさきに冷静な表情に戻った。  つづいて笠原も、たばこを出し、ライターで火をつけ、 それから、 「まア、いいじゃないか藤井君。t園江のことなんか問 題じゃないよ。少なくとも、ぼくの事業とは関係がないと 思うね。君は、急ぐわけじゃないから、ゆっくり考えてみ てからでかまわないんだよ。いっしょにやる気があった ら、ここの事務所へ出てくるんだね。なアに、心配なこと はありゃしない。君のために、決して悪いようにはしない からね」  と有吉に、いかにも親切に聞えるような、やさしい口調 ですすめるのであった。 二  はじめからその予想はあったことだが、こうして有吉と 笠原との会見には、息苦しく不安定な気分がつきまとって いて、しかしともかくも、当面の用件だけは、事無くして すんだのであった。  帰りを、友杉と有吉は新宿駅へ出るつもりで、すると平 川が、会社のゴム印を頼むのだといって、いっしょについ てきたが、その途中友杉と平川との間で、事務所の床のこ とが話題にのぼった。それは友杉には、あそこにいた時か ら気になっていたことである。椅子に腰かけていて、天井 がひどく低くて頭がつかえるようだと思い、つまり、コン クリで塗りかためた床が、高すぎるのだと気がついた。バ ラックを改造したのではあろう。でも、なぜ、あんなぶざ まな設計をしたのかと、まったく何気なく平川に訊いたの である。  平川は、これも何気なく説明した。  要するに、猫の死骸があったせいだった。そして、笠原  がら が柄にもなく、猫についての迷信をもっていたせいだっ た。 「ぼくは、反対したかったんですよ。しかし、仮にも社長 の意見ですからね、ハハハハ」 「なるほどね。社長さんじゃ、かなわない。アハハハ」  友杉は、つりこまれて笑い声を立て、それから間もなく 平川とは別れた。  邸へ帰って友杉は、有吉と笠原との会見顧末を、詳しく 未亡人に報告していた。  一方有吉は、留守中にきていた郵便物のうちから、雑誌 の包みらしいものを見っけると、急にすばやい手つきでそ れを抜きとり、自分の部屋へ持って行ってしまった。  その包みは、表の宛名が有吉になっているし、中身もな るほど科学雑誌である。  しかし、秘密があった。  包み紙の裏に、字がぎっしりと書きこまれた、薄いレタ ーペーパーが貼りつけてあった。そうしてそれは有吉の情 婦波木みはるからの手紙だった。あの青い石の私設郵便局 はもう不便になっていたし、ペン画の表紙がついた記念帳 も使えない。今は新しく案出したこの方法で、彼等はすで に数回の通信を取交している。その前後数同の通信は、次 のごときものであった。       ×      × (波木みはるより……)  お手紙、無事につきました。とても悲しかったり腹が立 ったりしました。あんまり腹が立ったから、あたしは、あ なたを苦しませることをこれから書くのです。あなたに は、こんなこと知らせたくない。でも、あなたは、無責任 ですね。お父様が亡くなったから、もうあたしのこと忘れ るのだといってるでしょう。ずいぶん身勝手な言分だと思 います。だから、あなたを苦しませてやるのですよ。ほん とは、あたしは、たいへんなんです。警察から調べがき て、あなたと私のこと、何もかも知られてしまったのは、 この前の手紙で書きました。ところが、あたしは一つだ け、秘密にしておきました。それはあたしが、父や母にも ないしょで、医者に診てもらったことです。その医者は、 耳の大きい、赤い顔の肥った男でした。あたしは、いくど も躊躇したけれど、パンバンだと嘘をついて、その医者の ところへ行きました。とても煩悶したあとです。生理的に 変だと気づいていたからでした。  肥った医者は、ニヤニヤして私の頬ぺたを指でつつき、 そしてたいそう長い時間をかけてあたしの身体をしらべま・ した。診察のとちゅうであたしは、よして下さい、失礼な ことしないで下さいって、よっぽど叫ぽうかと思ったくら、 いです。でも、パンバンだって嘘ついてあるから、軽蔑さ れてもしかたがなかったのでしょう。医者は、やっとこさ 診療を終りました。貧弱な水道のカランのところで、ピ チャピチャ音を立てて指を洗って、それから私の方へ向き ました。君の心配したとおりだよ、赤ん坊ができているっ て言ったんです!  あたしの頭の中では、ガン、ガン、ガーンと鐘が鳴るよ うでした。そこで泣きだしてしまいました。医者が、また ニヤニヤして、泣かなくてもいい。簡単な手術でどうにで もなる。困ったら、いつでもくるがいい、手術の費用なん か、あたりまえなら、うんと高いのだけれど、君はとくべ つにやるよって言って、あたしの肩を両腕でおさ、兄るの を、あたしはふりはなして逃げてきたのです。あたしは今 の今まで、誰にもこの話はしたことがありません。父も母 も、そして警察でも知らずにいることなのです。いつかあ たしは、あの赤い顔の耳の大きい好色な医者の所へ、もう 一度行くことになるのでしょう。しかも、このことは、あ なたにも永久の秘密にしておくつもりだったのですけれど ……。ああ、しかし、こんなこと書いてしまっていいので しょうか。  腹立ちまぎれに書いたのですけれど、この手紙は、やぶ いてしまった方がいいのでしょうか。  いいえ、やぶきません。あ.なたに読んでもらいます。あ たしは、そんなに考えなしではないのだから、書いた以 上、この手紙はあなたに読まサ'6のです.  ではさようなら。       ×      × (有吉より……)  ぼくは、息がつけない気がした。まったくうちのめされ た。内憂外患こもごも至るという形になった。そして、み んなぼく自身の責任なのだ!  ぼくは、改めて君に謝罪しよう。君のこと忘れるといっ たのは悪かった。忘れやしない、決して決して……。  だから、無責任だという非難だけはしないでくれ。ぼく は、以前君が、自分たちが何をしようと、責任さえ持てば いいのだと言ったことを思い出す。勇気が必要だ。責任を 逃げるようなことは決してしない。ただ、困るのは、君に 対してだけの責任が、ぼくに重くのしかかっているのでは なくて、ほかにも、もう一つの重い責任があることだ。そ の責任を果したい。そのあとで、君への責任を果すつもり だ。  しかし、変だね。ぼくは、自分が今、ひどくえらそうな .」とを書いてしまったのに気がついて、顔を恥で、真赤に しているのだよ。  二つの責任を、事務的に、順々に果すなんて、ぼくに可 能なことか知ら、考えてみると、それはむつかしいことだ とわかってくる。二つどこじゃない、その一つだけでも、 ぼくの背負いきれる責任じゃないと思う。一つはぼくの愛 人に対して、一つはぼくの父親に対してー。  苦しい、苦しい、苦しい、苦しい!  君は君のことだけを考えているが、ぼくだったら、君の 立場になった方がまだましなような気がするよ  イヤこ れはやはり君から身勝手な言分だといって非難されること だろう。そうだ、女としては最大の事件が起ったのだ。君 が苦しいのは無理もない。そうして、ぼくも、君と同じよ うに苦しいのだと言いなおそう。どうしたら、この苦痛か ら脱却できるのだろうか。いちばん容易な方法は、昔から 多くの人々が実行してきた方法だ。その方法を選ぶなら、 事はまことに簡単であり、ぼくにも、それだけの勇気は残.                        こら っている。けれども、卑怯だね。もう少し、ぼくは泳えて いてみよう。君にも、もう一度、会ってからだ。  とにかく悪かった、ぼくの敗北だ。  そのうちに、なんとかする。赤い顔の耳の大きな医者は 憎い奴だ。そいつには、ぼくはいつか、十分な復讐をして やりたい。  サウザンドキスを君におくるー。       ×       × (波木みはるより……)  ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい!  あたし、とても悪いことしました。あなたにこの前の手 紙を出したあとで、あんなこと書かねばよかったと後悔 し、ム,度はまたもっとうんと後悔してしまいました。  お詫びしたら、あなたは許して下さるでしょうか。私 は、嘘をついたのです。あなたが、私のこと忘れるといっ たのが口惜しかったから、あなたを困らせたくて、嘘つき ました。耳の大きい肥った医者の話、あたしが作ったお話 です。いいえ、それもただの作り話ではありません。あた しのお友だちのズベ公が、私に話してくれたことで、それ を私のことのようにして書いたのです。ほんとうに、ごめ んなさいね。  心配かけて、それもほかの場合じゃなくて、あなたにほ かの大きな心配がある時なのに、すまないことをしたと思 っています。そうして、今度は、あたしが心配になってき たのです。あなたが、何かとりかえしのつかないことしや しないかと思い、お手紙を読んでいるうちに、胸がドキド キしてきてしまいました。  二つの責任があるってこと。  そのうちの一つは、耳の大きな医者のことが作り話だか ら、もう解消したことになるでしょう。その残りの一つ、 あなたの亡くなったお父様に対しての責任とは、どんなこ とですか。  あの時、あたしはお葬式に行くこともできず、どうした らあなたを慰さめてあげられるかと考えて、そのあげく に、雑誌の手紙を思いついたのでしたわね。だけど、あな たがお父様のことでそんなに苦しんでいらっしゃるとは知 りませんでした。お手紙では、お父様があんな風にして亡 ・くなったのを、ただ悲しんでいらっしゃるだけではないよ うに見えます。責任があるというのは、お父様に対して申 訳がないという意味でしょう。  そのわけを聞かして下さい。なにか異様な感じがしてな らないのです。  苦痛を脱却するのにいちばん安易な方法なんて、考えな いようにしていて下さい。  それは、あなたが一人でやることではなくて、万一の場 合には、あたしと二人でやることです。あたしは、二人で だったら少しも怖いと思いませんし、でも、あなたが一人 でそんなことをして、あとにあたしだけを残すのだった ら、それこそあなたを、身勝手だと思ってしまうでしょ う。死ぬなら、いっしょですよ。そうして、死ぬ前に、あ たしにわからないことがないようにしておいて下さい。  お願い!  あなたの秘密を話して下さい。そして、ほんとにどうに もならないような問題だったら、その時、二人で死んだっ ていいでしょうもの。あたしは、本気に死のことを考えて います。死ぬのは、そんなに悲しいことじゃないのです。 少し早く死ぬか遅く死ぬかだけの違いです。そうして、今 の世界では、若くて健康な人たちが、あたしたちよりもっ と正直で善良で、そのくせ無理に死なされました。それを 思えば、あたしにはあなたがあり、はげしい愛の言葉があ り、この一瞬の命こそは、輝く幸福に充ちているのですか ら、もう十分に満足して死んでもいいのですわ。  ママが、奥であたしを呼んでいます。見つけられないう ちに、ではこれで。       ×       × (有吉より……)  ぼくは、笑いだしてしまった。はじめ、くそッ!と思 って腹が立ったが、そのうちにおかしくてたまらなくなっ た。耳の大きな医者の話。よくうまくぼくをだましたね。 これは覚えておくよ。いつか、きっとしかえしをしてやる から。  ところで、死についての君の言葉は、ぼくに大きな慰さ めや力を与えてくれた。これは感謝しなくてはなるまい。 自分が苦しくて、死と向き合っているような気持のとき、 それが孤独ではなく、いっしょに死ぬつもりでいる人のあ ることが、死ぬほど苦しい時に、こんなにも嬉しいものだ とは思わなかった。ありがとう。もしかしたら、ほんとに ぼくは、死んだ方がいいと思うようになるかも知れない。 その時は、よく相談をしよう。そして、世界でいちばん美 しい、誰にも真似のできない方法で死ぬことにしよう。  なぜ死ぬことを考えるのか。  その話を、ぼくは君への感謝の念から、打明けてもよい と思うようになった。ほかの誰にもまだ話してはない。ぽ くが最も信頼している友杉さんにさえ、この恐怖すべき真 実をぼくはかくしているのだ。友杉さんは、ぼくを危ぶん でそっと見守っている。そうして、ある程度、ぼくの秘密 に気づいている。しかし、ぼくは意地になって、口を閉じ てしまった。それをぼくは、君にだけ打明けるのだ。  結論から先きにいうが、ぼくの父、代議士藤井有太氏 は、その一人息子である不良少年藤井有吉によって殺され たといってもよいくらいだ。直接犯人は、有吉の友人の園 江新六であり、しかし新六は、有吉に教唆されて、この犯 行を敢てしたというわけだ。  君は、園江を知っているだろうか。たしかどこかで、ぼ くといっしょに、コーヒーぐらい飲んだことがあっただろ う。園江は、中野のわりに裕福な家具店の息子でS大専門 部の学生で、年はぼくより一つ上の十九歳だが、鼻が曲っ     そつぱ ているし反歯だし、おまけにニキビがいっぱいあって、色 が黒くてたいへん醜悪な顔つきをしている。ところがこの 園江は、ある日ぼくの家へやってきて、金を貸してくれと いう相談をもちかけたのだ。奴にはぼくは、ぼくの家の二 階の書斎に、誰も受取人がない、そして持主もない金が十 数万あり、あのまま放っておくのは惜しいものだと話した ことがある。その金を借りるつもりでやって来たのだっ た。ところが、ぼくは、その時もう、二階の書斎から、金 を持ち出すことがでぎないようになっていた。父が、福島 から帰ってきて、その部屋のベッドへ寝こんでしまったか らだが、そこでぼくは園江に、そういうわけだから、金を 貸すことができないといって断わり、しかし、あとで、と んでもないことをしゃべってしまった。つまり、金は、『日 本史略』という書籍のケースに入れてかくしてあると話し、 なお、その部屋には、窓の挿込錠のこわれているところが あって、泥棒するつもりなら、そこからたやすく忍びこん で、あの金を盗み出せるのだということを、ウッカリ話し て聞かせたのだ。むろんぼくは、そうしろといって園江に 教えたのではない。泥棒ならそうするが、ぼくはこの家の 子供だから、まさかそれもできないという意味で、笑いな がら、園江に話しただけだが、あとで思うと、これは教唆 になっている。園江も、その時は笑っていた。そうして、 金を借りることはあきらめて帰っていった。ところが、そ れから四日目に、ぼくの父は殺されてしまった。しかし、 ぼくと園江以外には、本のケ!スに金がかくしてあること を知っている者はないはずなのに、その金が影も形も見え なくなってしまったのだ。  事件直後、まだ血みどろの父の惨死体が横たわっている 部屋へ、ぼくが警官の許しを得てはいって、ヶiスの金が 消え失せているのを発見した時のぼくの驚きを察してもら いたい。立っている部屋の床が、ずしんと暗黒の底へ沈ん で行く思いだった。息がつまり、脳貧血を起しそうだっ た。そしてもうすぐに、そのことを警官に話そうかと思 い、それを怺えているのが苦痛だった。気が少しおちつい てきてから、ぼくがひそかに考えたのは、せめてもの父へ の責任で、園江新六をぼくの手でひっつかまえて、警察へ つき出してやろうということや、また反対に、園江がうま く逃げてくれて、一生涯つかまらずにいてくれたら、ぼく が彼を教唆したことは、世の中へ知れずにすむだろうとい うような、たいへん卑劣な利己的な希望についてだった。 ぼくの煩悶がはじまった。死んでしまってから、ぼくは父 の善良な性格を思い起した。その善良な父を、一人息子の ぼくが、園江の手で殺さしたことになるのだ。  気まりが悪くて、日の光へ顔を向けていることができな いくらいだ。  たった一つ、ぼくを救ってくれる道は、園江以外に犯人 があって、その犯人が逮捕されるということだが、そんな うまい工合にはならないことを、ほかの誰よりもぼくはよ く知っている。  なぜなら、園江は、事件後、どこかへ逃亡してしまっ て、父の葬儀にさえ、顔を見せなかった。彼が犯人でなか ったら、姿をかくす必要はないではないか。彼は低能だか ら、お悔みを言いにくることを知らないのだと、平川君や 高橋がいった。が、そうではない。低能だから、何喰わぬ 顔をして、ぼくの前へ姿を現わし、疑いのかからぬように するだけの智慧がわかないのだ。却ってそれは図太くなく て小心なせいかも知れない。が、ともかくも、彼は、顔を 見せただけで、ぼくが、ほかの誰が知らなくても、彼に金 を盗み出す方法を教えたことを思い出すと考えた。そうし て、ぜったいにどこへも立ち現われない。もしかしたら、 今は彼も後悔しているだろう。ぼくという親友の父を殺し てしまった。その罪の苛責に苦しみつつ、逃げ廻っている のかも知れない。しかし、誰にも彼は消息を絶ってしまっ たのだ。  ある代議士に疑いがかかっている。  ところが、この疑いは、すぐ晴れるにきまっている。  けっきょく園江が逮捕されるのであろうが、ここに一 つ、矛盾したぼくの気持が働くのは、ぼくが園江を憎むこ とができないでいるということだ。それも、つけ加えて言 っておく方がいいだろう。ぼくは、どうしたものか、あの 醜悪な顔をした園江が、犯した罪に脅えつつ、狩りたてら れた獣のようにして、あちこち逃げ廻っている姿を想像す ると、彼が可哀そうに思えてくる。彼も不倖せな奴だ。今 の時代が生んだ一つの犠牲者だ。何が正しいか、何が善良 か、イヤ何が幸福かということを今のぼくたちはハッキリ 判断し見定めることができない。本能的な欲望だけに忠実 であることが、いちばん強くて正しい生き方だという議論                    はちゆうるい がある。が、そうだったら、人間は、獣類や爬虫類と同じ 生物になってしまうし、ではほかに、どれが真実の人間の 生き方かというと、世界で最高の権力者たちがしているよ うに、一挙にして巨万の人の命を奪う原子爆弾の製造に努 力することが、その正しいあり方だとも言えないだろう。 すべては混乱している。わからないことだらけだ。園江 は、そのわからない世の中で、もがいたり、はねたり、 しゃべり、わらい、泣いている一人の少年に過ぎない。 しょせんは、場合によったら、ぼくでもやりかねないこと を、思い切ってやっただけだ。それを、ぼくは許してやり たい気さえする。  下らない屁理窟を並べてしまったね。  笑ってくれ。  要するに、ぼくは、こういう状態で苦しんでいるのだ。  いちばんいいのは、園江に、ぼくが会うことだ。わずか に一縷の望みを抱いているのは、会ってみたら、案外園江 は犯人でなかったという場合だが、まア、それはあり得な いことであろう。ぼくは園江をつかまえ、彼と一晩語り明 かし、それから彼を警察へ自首させたいと思っている。セ ンチメンタルで空想的だと言われるだろうけれど、そうい う風にすれば、ぼくは少しでも気が休まるのだ。長い手紙 になってしまった。それでも、ぼくは、ぼくの微細な感情 を、そのまま書き現わすことができなかったから、ぼくの 苦しみを十分に理解してもらえなかったかも知れない。 が、推察し感じ取るのは愛の力だ。これだけでぼくのこと 解ってもらいたいと思う。書いてしまったら、ぼくは不思 議に頭の中が明るくなってきた。苦しみを訴えるのは、そ れだけで大きな慰安になるのだね。では、これで失敬。       X      ×  手紙には、若さのための、思慮の足りなさが見えてい る。が、それはともかく、偶然にも、平川や高橋と同じよ うに、有吉も、園江新六の行方を気にしていることがわか る。ただ、平川や高橋と有吉とでは、園江を探す意味が違 っているのであった。 (つづく)

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