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怪談牡丹燈籠 第十五回


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第十五回
|一封凶音托二後事《いつぶうのきよういんにたくすこうじを》一
|半宵吉筵祝二前途《はんしようのきツえんにしゆくすぜんとを》…㌘

 相川新五兵衛は眼鏡を掛け、飯島の書置をば取る手遅しと読み下しまするに、孝助とはいったん主従の契りを結びしなれども|仇《かたき》同士であったること、孝助の忠実に|愛《め》で、孝心の深きに感じ、|主殺《しゆうころ》しの罪に落さずして彼が本懐を遂げさせんがため、わざと宮野辺源次郎と見違えさせ討たれしこと、孝助を急ぎ|門外《もんそと》に出だしやり、自身に源次郎の寝間に忍び入り、あれが刀の鬼となる覚悟、さすれば飯島の家は滅亡いたすこと、彼ら両人われを討って立ち退く先きは|必定《ひつじよう》お国の親元なる越後の村上ならん。ついては、汝孝助時を移さず後追いかけ、わが|仇《あだ》たる両人の生首ひっさげて立ち帰り、|主《しゆう》の|仇《かたき》を討ちたるかどをもってわが飯島の家名再興の義を|頭《かしら》に届けくれ。その時は相川様にもお心添えのほどひとえに願いたいとのこと、また汝は相川へ養子に参る約束を結びたれば、娘お徳殿と互いに睦ましく暮し、二人の間にできた子供は|男女《なんによ》にかかわらず、孝助の血筋をもって飯島の相続人と定めくれ、後はこうこうしかじかと、実に細かに届く飯島の家来思いの切なる情に、孝助は相川の書置を読む|間《ま》、息をもつかず聞いていながら、膝の上ヘポタリポタリと大粒な熱い涙をこぼしておりましたが、いきなり権幕を変えて表の方へ飛び出そうとするを、
「コレ孝助殿、|血相《きつそう》かえてどこへ行きなさる。」
 と云われて孝助は泣き声をふるわせ、
「ただいまお書置の御様子にては、主人は私を急いで出し、後で客聞へ踏み込んで源次郎と闘うとのことですが、いかに源次郎が剣術を知らないでも、殿様があんな|深傷《ふかで》にてお立合いなされては、彼が無残の刃の下にはかなくおなりなされるは知れたこと、みすみす仇を目の前におきながら、恩あり義理ある御主人を彼らにむごく討たせますは実に残念でござりますから、すぐに取って返し、お助太刀をいたす所存でございます。」
「分らないことをいわっしゃるナ。御主人様がこれだけの書置をおつかわしなさるは何のためだと思わっしゃる。そんなことをしなさると、飯島の家が潰れるから、邸へ行くことは明朝までお待ち。このお書置のことを心得て、これを反古にしてはならんぜ。」
 と亀の甲より年の功、さすが老功の親身の意見に、孝助は返す言葉もありませんで、くやしがり、ただ身を震わして泣き伏しました。
 話かわって飯島平左衛門は孝助を|門外《もんそと》に出し、急ぎ血潮|滴《した》たる槍を杖とし、蟹のようになってようように縁側に這い上り、よろめく足を踏みしめ踏みしめ、だんだんと廊下を伝い、そっと客間の障子を開き中へ入り、十二畳いっばいに釣ってある蚊帳の釣手を切り払い、あなたヘはねのけ、グウグウとばかり高鼾であとさきも知らずねている源次郎の頬の辺りを、血に染みた槍の穂先にてペタリペタリと叩きながら、
「起きろ起きろ。」
 と云われ、源次郎は頬が冷やりとしたにふと目を覚し、とみれば飯島が|元結《もとゆい》はじけて散し髪で、眼は血走り、顔色は土気色になり、血の滴たる手槍をピタリッとつけ立っていたる有様を見るより、源次郎は早くも|推《すい》し、アヽヽこりゃさすが飯島は知恵者だけある。おれと妾のお園と不義していることを覚られたか。さなくば例の悪計を孝助めが告げ口したに相違なし。なにしろよほどの腹立だ。飯島は真影流の奥儀を極めた剣術の銘人で、旗本八万騎のその中に、肩を並ぶるものなき達人の聞えある人に槍をつけられたことだから、源次郎は、ぎょっとして枕元の刀を手早く手元に引き付けながら、慄える声を出して、
「伯父様、何をなさいます。」
 と一生懸命面色|土気色《つちけいろ》に磨わり、眼色血走りました。飯島も面色土気色で眼が血走りているから、あいこでせえでございます。源次郎は一刀の|鍔前《つばまえ》に手をかけてはいるものの、気臆れがいたし、刃向かうことはできませんですくんでしまいました。
「伯父様、私をどうなさるおつもりで。」
 飯島は|深傷《ふかで》を負いたることなれば、ふるえる足を踏み止めながら、
「何事とは不埓なやつだ。手前がとくよりわが召使国と不義いたずらをしているのみならず、明日中川にて漁船よりわれを突きおとし、命を取った暁に、うまうまこの飯島の家を乗っ取らんとの悪だくみ、恩を仇なる手前が不所存、言おうようなき人非人、この場において槍玉にあげてくれるからさよう心得ろ。」
 と云い放たれて、源次郎は、剣術はからっぺたにて、放蕩を働き、大塚の親類に預けられるほどた未熟不鍛錬な者なれども、飯島はこの|深傷《ふかで》にては彼の刃に討たれて死するに相違なし。しかし討たれて死ぬまでもこの槍にてしたたかに足を突くか手を突いて、てんぼうかびっこにでもして
おかば、|後日《こにち》孝助の|仇討《かたきうち》をする時幾分かの助けになることもあるだろうから、どっかを突かんと狙い詰められ、
「伯父さま、私は何も槍で突かれるような覚えはございません。」
「黙れ。」
 と怒りの声を振り立てながら、ひとあし進んで繰り出す槍先鋭く突きかける。源次郎はアッと驚き、身をかわしたが受け損じ、太股へかけブッツリと突き貫き、今一本突こうとしましたが、孝助に突かれた|深傷《ふかで》に堪えかね、ひょろひょろとするところを、源次郎は一本突かれて死物狂いになり、一刀を抜くより早く飛び込みさま飯島目がけて切りつける。切りつけられてアッと云ってひょうめくところへ、また一太刀深く肩先へ切り込まれ、アッと叫んで倒れるところへのしかかって、まるで河岸で|鮪《まぐろ》でもこなすように切ってしまいました。お国は中二階に寝ていましたが、この物音を聞きつけ、ねまきのままに梯子を降り、そっと来て様子を窺うと、このていたらくに驚き、あわてて二階へ上ったり下へ下りたりしていると、源次郎が飯島に止めを刺したようだから、お国は側へ駆けつけて、
「源さま、あなたにお怪我はございませんか。」
 源次郎は肩息をつきフウフウとばかりで返辞もいたしません。
「あなた黙っていては分りませんヨ。お怪我はありませんか。」
 といわれて、源次郎はフウフウといいながら、
「怪我はないヨ。誰だ、お国さんか。」
「あなたのお足からたいそう血が出ますヨ。」
「これは槍で突かれました、手強いやつと思いのほか、なアにわけはなかった。しかしここにいつまでこうしてはいられないから、二人で一緒にいずくへなりとも落ち延びようから、早く支度をしな。」
 といわれてお国はなるほどそうだと急ぎ奥へ駆け戻り、手早く身支度をなし、用意の金子や結構な品々を持ち来り、
「源さま、この|印籠《いんろう》をおさげなさいヨ。この召物を召せ。」
 と勧められ、源次郎は着物を幾枚も着て、印籠を七つ提げて、大小を六本挿し、帯を三本締めるなどたいへんな騒ぎで、ようよう支度が整ったから、お国と共に手を取って忍び出でようとするところを、中働きの女中お竹が、先ほどより騒々しい物音を聞きつけ、来て見ればこの有様に驚いて、
「アレ人殺し。」
 というやつを、源次郎が驚いて、この声人に聞かれてはと、一刀抜くより飛び込んで、デップリ肥っている身体を、肩口より背びらへかけて切りつける。切られてお竹はキャッと声を挙げてそのまま息は絶えました。ほかの女どもも驚いて|下流《したなが》しへ這い込むやら、または薪箱の中へ潜り込むやら騒いでいる中に、源次郎お国の二人はここを忍び出て、いずくともなく落ちて行く。後で源助は奥の騒ぎをききつけて、いきなり自分の部屋をとびだし、拳を振って隣りの塀をうち叩き、破れるような声を出して、
「狼藉者がはいりました、狼藉者がはいりました。」
 と騒ぎ立てるに、隣りの宮野辺源之進はこれを聞きつけ思うよう、飯島のごとき|手者《てしや》のところへ押し入る狼籍者だから、大勢徒党したに相違ないから、なるだけ遅くなって、
夜が明けてゆく方がいいと思い、まず一同を呼び起こし、蔵へ参って|着込《きご》みを持って参れの、|小手脛当《こてすねあて》の用意のといっているうちに、夜はほのぼのと明けわたりたれば、もう狼藉者はいる気遣いはなかろうと、源之進は家来一、二人を召し連れ来てみればこの始末。いかがしたることならんと思うところへ、一人の女中が下流しから這い上り、源之
進の前に両手をつかえ、実は昨晩の狼藉者は、あなた様のお舎弟源次郎様とお国さんと、とうから密通しておいでになって、昨夜殿様を殺し、金子衣類を盗みとり、いずくともなく逃げました。と聞いて源之進は大いに驚き、早速に邸へ立ち帰り、急ぎお頭へ向け源次郎が出奔の趣きの届けを出す。
 飯島の方へはお目付が御検死に到来して、だんだん死骸をあらため見るに、脇腹に槍の突き傷がありましたから、源次郎ごとき鈍き腕前にてはとても飯島を討つことはかなうまじ、されば必ず飯島の寝室に忍び入り、熟睡の油断に付け入りて槍をもって欺し計ちにしたその後に、刀をもって斬り殺したに相違なしということで、源次郎はお尋ね者となりましたけれども、飯鳥の家は改易と決まり、飯島の死骸は谷中新幡随院へ送り、こっそりと野辺送りをしてしまいました。
 こちらは孝助、御主人が私の為に一命をお捨てなされたことなるかと思えば、いとど気もふさぎ、欝々としていますと、相川はお頭から帰って、
「婆アや、少し孝助殿と相談があるからこっちへ来てはいかんヨ。首などを出すな。」
「何か御用で。」
「用じゃないのだヨ。そっちへ引っ込んでいろ。コレコレ茶を入れて来い。それから仏様へ線香を上げな。さて孝助殿少し話したいこともあるから、マアマアこっちへこっちへ。誰れにもいわれんが、ますもって御主人様の書置通りになるから心配するには及ばん。お前は親の仇は討ったから、これからは御主人は御主人としてその仇をかえし、飯島のお家再興だヨ。」
「仰せに及ばず、もとより仇討の覚悟でございます。この後万事につきよろしくお心添えのほどを願います。」
「この相川は年老いたれども、そのことは命にかけて飯島様のお家の立つように計らいます。そこでお前はいつ仇討に出立なさるえ。」
「もはや一刻も猶予いたす時でございませんゆえ、|明早天《みようそうてん》出立いたす了簡です。」
「明日すぐに、さようかえ、あまり早過ぎるじゃないか。よろしい、このことばかりは留められない。もう一日々々と引き広ぐことはできないが、お前の|出立前《しゆつたつぜん》にわしが折り入って頼みたいことがあるが、どうか叶えては下さるまいか。」
「どのようなことでもよろしゅうございます。」
「お前の出立前に娘お徳と婚礼の盃だけをして下さい。ほかに望みは何もない。どうか聞きすんで下さい。」
「いったんお約束申したことゆえ、婚礼をいたしましてもよろしいようなれど、主人よりのお約束申したは来年の二月、ことに目の前にて主人があの通りになられましたのに、只今婚礼をいたしましては、主人の位牌へ対してすみません。仇討の本懐を遂げ、立ち帰りめでたく婚礼をいたしますれば、どうぞそれまでお待ちくださるように願います。」
「それはお前のことだから、遠からず本懐をとげて御帰宅になるだろうが、仇の行方が知れない時は、五年で帰るか、十年でお帰りになるか、幾年かかるか知れず、それにわたしはもうとる年、明日をも知れぬ身の上なれば、この喜びを見ぬうち帰らぬ旅に赴くことがあっては|冥途《よみじ》の|障《さわ》り、ことに娘もわずらうほどお前を思っていたのだから、どうか|家内《かない》がけで、|盃事《さかずきごと》を済ませておいて、安心させて下さいな。それにお前も飯島の家来では真鍮巻の木刀を挿して行かなければならん。それより相川の養子となり、その筋へ養子の届をして、|一人前《ひとりまえ》の立派な侍に出で立って往来すれば、途中で人足などにばかにもされず、よかろうから、どうぞ家内だけの祝言を聞きすんでください。」
「しごくごもっともなる仰せです。家内だけなれば違背はございません。」
「御承知くだすったか。千万忝けない。ア丶ありがたい。相川は貧乏なれども婚礼の入費の備えとして五、六十両はかかると見込んで別にしておいたが、これはお前の餞別に上げるから持って行っておくれ。」
「金子は主人から貰いましたのが、百両ございますから、もういりません。」
「アレサいくらあってもよいのは金、ことに長旅のことなれば、邪魔でもあろうが、そう云わずに持っで有ってください。そこで私が細かい金をよって襦袢の中へ縫い込んでおくつもりだから、|膚身《はだみ》離さず身につけておきなさい。道中にはごまの灰というやつがあるから随分気をおつけなさい。それにこの矢立をさしてお出で、またこれなる一刀はかねて約束しておいた藤四郎吉光の太刀、重くもあろうが挿しておくれ。これと御主人のおかたみ天正助定を挿して行けば、舅と主人がお前の後影に付き添っているも同様、勇しき働きをなさいまし。」
「ありがとうございます。」
「どうか今夜ふつつかな娘だが婚礼をしてくだされ。コレ婆ア、明日は孝助殿がめでたく御出立だ。そこでめでたついでに今夜婚礼をするつもりだから、徳に髣でもとりあげさせ、お化粧でもさせておいてくれ。その前に仕事がある。この金を襦袢へ縫い込んでくれ。善蔵や、手前はすぐに水道町の花屋へ行って、めでたく何か|頭付《かしらつ》きの魚を三枚ばかり取って来い。ついでに酒屋へ行って酒を二升、|味淋《みりん》を一升ばかり、それから帰りに半紙を十帖ばかりに、|煙草《たばこ》を二|玉《たま》に、|草鞋《わらじ》のよいのを取って参れ。」
 と云いつけ、そうこうするうちに支度も整いましたから、酒肴を座敷に取り並べ、|媒妁《なこうど》なり親なり兼帯にて相川が|四海浪静《しかいなみしず》かにとうたい、三々九度の盃事、祝言の礼も果て、まずお開きということになる。
「アヽアヽ婆ア、まことにめでたかった。」
「まことにおめでとう存じます。わたくしはお嬢様のお小さい時分からお付き申して御婚礼をなさるまで御奉公いたしましたかと存じますと、まことに嬉しゅうございます。あなたさぞ御安心でございましょう。」
「婆アいいかえ。頼むよ。おいらは明日の朝早く起きるから、お前飯をたかして、孝助殿に尾頭付きでポッポッと湯気の立つ飯を食べさして立たせてやりたいから、いいかえ。ゆるりとお休み。まずお開きといたしましょう。孝助殿どうか幾久しく願います。娘はまだ年もいかず、世間知らずのふつつかものだから何分よろしくお頼み申す。仲人は宵のうちだから、婆アいいかえ、頼んだぜ。」
「あなたは頼む頼むとおっしゃってなんでございます。」
「わからない婆アだな。嬢のことをサ、あすごへちょっと屏風を立て廻して、恥かしくないように、よろしいか。それがサ、まことにあいつが恥かしがって、もじもじとしているだろうからうまくソレ。」
「旦那様、なんのお手付きでございますヨ。」
「こいつわからぬやつだナ。手前だって亭主を持ったから子供ができたのだろう。子供ができたのち乳が出て、乳母に出たのだろう。ホレ、娘は年がいかないからいいあんばいにホレ、いいか。」
「あなたはほんとうにいつまでもお嬢様をお小さいように思し召していらっしゃいますヨ。大丈夫でございますヨ。」
「なるほどめでたい。いいかえ頼むヨ。」
「旦那様、お嬢様お休みあそばせ。」
 と云っても、孝助はお国源次郎の後を追いかけ、とやこうといろいろ心配などして腕こまぬき、床の上に坐り込んでいろから、お徳も寝るわけにもいかず坐っているから、
婆「さようなれば旦那様御機嫌さまよろしく、お嬢様先ほど申しましたことはよろしゅうございますか。」
「あなた少しお静まりおそばせな。」
「私は少し考えごとがありますから、あなたお構いなくお先へお休みなすって下さいまし。」
「|婆《ばあ》やアちょっと来ておくれ。」
「ハイ、なんでございます。」
「旦那様がお休みなさらなくって。」
 といいさして口ごもる。
「あなたお静まりあそばせ。それではお嬢様がお休みなさることができませんヨ。」
「只今寝ます。どうかお構いなく。」
「まことにどうもお堅過ぎてお気が詰りましょう。御機嫌さまよろしゅう。」
「あなた少しお横におなりあそばしまし。」
「どうかお先へお休みなさい。」
「婆やア。」
「困りますねえ。あなた少しお休みあそばせ。」
「婆アやア。」
 とのべつに呼んでいるから孝助も気の毒に思い、横になって枕をつけ、玉椿八千代までと思い思った夫婦中、初めての語らい、まことにおめでたいおはなしでございます。あしたになると、暗いうちから孝助は支度をいたし、
相「これこれ婆アや、支度はできたかえ。御膳をあげたか。湯気は立ったかい。善蔵に板橋まで送らせてやるつもりだから、荷物は玄関の敷台まで出しておきな。孝助殿御膳を上がれ。」
「おとっさま御機嫌よろしゅう。長い旅ですからつどつど書面を上げるわけにもまいりません。ただ心配になるはおとっさまのお身体、どうか私が本懐をとげ帰宅いたすまでお丈夫においであそばせよ。仇の首を提げてお目にかけ、お喜びのお顔が見とうございます。」
「お前も随分身体を大事にして下さい。どうか立派に出立して下さい。いろいろと云いたいこともあるが、キョトキョトして云えないから何も云いません。娘なんで袖を引つ張るのだ。」
「おとっさま、旦那さまは今日お立ちになりましたら、いつ頃御帰宅になるのでございますのでしょう。」
「まだ分らぬことをいう。いつまでも小さい子供のような気でいちゃアいけないぜ。旦那様は御主人の仇討に御出立なさるので、伊勢参宮や物見遊山に行くのではない。仇を討ち終うせねばお帰りにはならない。何だ泣っ面をして。」
「デモたいがいいつ頃お帰りになりましょうか。」
「おれにも五年かかるか十年かかるか分らない。」
「そんなら五年も十年もお帰りあそばさないの。」
 と云いながらさめざめと泣きしおれる。
「コレ、何が悲しい。|主《しゆう》の仇を討つなどということは、侍の中にも立派なことだ。かかる立派な亭主を持ったのはありがたいと思え。めでたい出立だ。なぜ笑い顔をして立たせない。手前が未練を残せば少禄の娘だから未練だ。意気地がないと孝助殿に愛想をつかされたらどうする。孝助殿、年がいかない子供のような娘だから、気にかけてくださるな。婆アなにを泣く。」
「わたしだってお名残りが惜しいから泣きます。あなたも泣いていらっしゃるではございませんか。」
「おれは年寄だからよろしい。」
 と云い訳をしながら泣いていると、孝助は、
「さようならば御機嫌よろしゅう。」
 と玄関の敷台を下り草鞋をはこうとする。その側へお徳はすり寄り袂をひかえ、涙に目もとをうるましながら、
「御機嫌さまよろしく。」
 と縋りつくを孝助はなだめ、善蔵に送られ出立しました。

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