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亀井勝一郎「飛鳥路」

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amizako

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                    みささぎ
 飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、
礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢
の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り
の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を
背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に
歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ
こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝
より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血
の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。
 現在の畝傍町につづく石川地方を中心に、孝元天皇陵のある剣池から飛鳥川にかけては、蘇我
家の本拠であった。武内宿禰時代から経営に傾倒したと伝えられる。剣池は即ち灌漑水利の源で
あり、これを中心に農業が営まれ、蘇我家の奴婢と帰化人技術者の群がこの周辺に住んでいたわ
けだ。むろん遺跡として伝わるものは一つもない。今は民家と田畑だけである。
 この春の一日、橿原神宮駅でおりて、東の方飛鳥路へ入ってみた。これは飛鳥地方だけではな
いが、今年の春の大和路は、平原はもとより山麓地帯まで、菜畑が例年の;二倍もふえているの
に驚いた。どこへ行っても黄色い花の咲きみだれた菜畑が相当の面積を占めている。麦を作るよ
りも得策だという農家の経済的理由によるそうだが、おかげで菜の花の目のさめるような鮮かさ
を満喫した。
□神宮駅から東ぺ二一二町やや登り路になったところに、周囲三四町と思われる剣池がある。水の

少い飛鳥では、この平明な池の光りは眼のためにも一つの救いだ。化けかかったような孝元陵の
樹影をうつして、千数百年も経た池はむしろ古沼の感じである。さざ波ひとつない鏡のような水
面を、時々かいつぶりが一条のすじをひいて走って行く。あとはもの音ひとつ聞えない静けさ
だ。かすかな春風に吹かれながら立っていると、歴史の匂いがしてくるようだ。日奎日紀や万葉
の思い出が、風景に匂いをもたらすのかもしれない。書物の上だけでなくその場に臨んでみる
と、現実の人間よりも歴史の人間の方が妙に人臭く感じられてくるからふしぎだ。たとえば万葉
集巻士二恋歌(読人不知)などが、生ま生ましく、或る体温を以て迫ってくるのである。
 みはかし    はちすば              せ
 御佩を剣の池の 蓮葉に たまれる水の 行方なみ 我が為し時に 逢ふべしと相ひたる
         きこ    こころ きよす              ただ
 君を な寝そと 母聞せども わが情 清隅の池の 池の底 吾は忘れじ 正に逢ふまでに
 一息に歌いあげたようで、そこにまつわる気持はなかなかしつこく翳が深い。分厚い胸を感じ
させる歌である。上代にはこの池に蓮の花が数多く咲いていたそうだ。附近灌漑の利とともに、
一種の霊池とされていたらしい。蓮がいつ頃わが国に伝わったか不明だが、欽明朝前後、仏教の
興隆に伴い、遠く印度から大陸を経てもち来らされたのであろう。云うまでもなく仏教的理念の
象徴であるが、また異国への夢を唆る最新の花であった。恋する乙女が、「蓮葉にたまれる水の
行方なみ」といった表現をとったとき、当時の人にひどくハイカラに感じられたと思う。また微
妙にエロティックなところもある。
 菜種の栽培が普及したのは江戸時代からで、上代の風景に菜の花を考えることは出来ない。春
の野の花としては、薄紅の蓮華草、紫のすみれ草等である。この繊細可憐な花に比べたとき、蓮
の花の肉質の華麗さは驚異であったろう。ついでに云えば、当時大陸から献上された駱駝、驢、
羊、孔雀、白雉などが、やはりこの飛鳥路を通った筈である。異国の禽獣草木の伝来は、国のひ
らけ行くときのしるしである。それは上代人の大陸への夢を激しくそそったであろう。
 いま私の立っている土は、千二百年以前から開墾されたり、踏みしめられてきた実に古い土
だ。上代の貴人がここを彷徨い、氏族争闘の折は血刀をひっさげた兵どもが走り、或は相逢う情
人の佇んだところだ。誰かの居宅があったかもしれない。一塊の土にすら歴史がしみこんでいる
といった風だ。人間の様々の運命を千年にわたって吸いこんだ土というものは重い。それは悉く
墓の断片にちがいないのだから。平らかに清澄な池の周囲には、今は菜の花が無心に咲いている。
*
                              とよら
 飛鳥路で私のかねてから訪れたいと思っていたのは、推古天皇の豊浦宮址であった。剣池を過
ぎて四五町すすむと、古の向原寺の跡に出る。今も寺名は残り、後世建立の寺はあるが、むろん
昔日の面影はない。欽明天皇十三年、百済の聖明王が仏像と経典を献上したが、これを礼拝すべ
きか否かで、蘇我稲目と物部尾輿、中臣鎌子が争ったのは有名な史実である。稲目は物部中臣の
反対を斥けて、仏像を自宅に安置したが、それを向原の寺と称した。これに隣接した一帯は、後
          おはりだ
に推古天皇の豊浦宮、小墾田宮の建てられたところである。向原寺から一町ほど、竹林の細道を
行くと、民家の厨のすぐ傍に、周囲数尺と思われる礎石が、ただ一つ露出している。これが豊浦
宮の址と伝えられる。天皇は後に近くの小墾田宮に移られるまで十年間、ここに在したわけだ
が、現在遺跡と云えばこの一つの礎石だけだ。
 推古天皇は周知のごとくわが国最初の女帝である。日本書紀巻二十二のはじめに、「姿色端麗、
進止軌制」としるされてあるのを思い出す。「みかほきらきらしく、みふるまひをさをさし。」と
訓じてあるが、「みかほきらきらしく」という言葉がへんに印象的で、巻二十二を読んでいる問
いつもその御面影を想像したものである。その後多くの女帝があらわれるが、こういう形容はみ
あたらない。お若いときは額田部皇女と申された。十八歳にして敏達天皇の皇后となられ、崩御
後、用明崇峻二帝を経て皇位に即かれたのである。時に御年三十九歳と伝う。
 治世二十六年間は、この時代として比較的平穏であったが、政治の実権は云うまでもなく蘇我
                                  きたしひめ
馬子の掌中にあった。この頃の天皇家とは蘇我家のことである。蘇我稲目の娘堅塩媛は欽明天皇
                        こあねきみ
に入内して、用明推古の両帝を生み、いまひとりの娘小姉君も欽明帝妃として崇峻帝と間人女王
(用明帝妃、聖徳太子生母)を生んだ。推古天皇にとって、馬子は叔父にあたり、蝦夷とは従姉
弟の間柄となる。この複雑な血縁の裡に、推古帝の云いしれぬ御不幸のあったことは、史を熟視
すれば、明らかである。
 わが史上、馬子ほど奇怪な人物はない。実権を掌握するまでに、彼は幾多の殺人を犯した。す
でに物部中臣との争いにおいて二皇子を謀殺し、二氏族を倒し、崇峻帝を暗殺し、更に彼の命に
よって直接崇峻帝に刃を擬した一帰化人を虐殺している。非命に倒れたこれらの人々の殆んどは
血族であった。血族殺戮の陰惨な点は、史上類をみないところだが、彼は謀殺の張本人であり、
しかも他方において熱烈な崇仏家であった。
 帰化人の最大の保護者として、大陸文明摂取の先登に立ったことは云うまでもない。政治軍事
上の卓越せる指導者であり、奸智にたけた政治家であるが、同時に仏殿の前に恐怖に戦き、或は
鷹揚な和歌を詠じたりした。この奇怪な分裂性は、当時として最も新しい知識人のタイプを意味
したのではあるまいか。武内宿禰以来の伝統を継いで三韓に勢力をのばし、大陸の血を真向から
浴びた国際的な逞しさもある。蘇我家の血の中には、すでに大陸人の血が混じていた筈だ。一種
独特の混血児であったかもしれない。在来の伝統と、大陸文明との接木によってわが上代の古典
芸術は開花したが、馬子はその接木の混沌に生きた典型的人物のように思われる。伎楽面のよう
に高い顴骨と肉慾的な唇をもった風貌が想像される。彼の体内に息づいていたのはアジアの血で
あった。
                   そうらん
 推古天皇の摂政として、聖徳太子が万機を総攬されたことは事実だが、従来伝えられたごと
く、太子が馬子を政治的に屈服せしめたとはとうてい考えられない。十七条憲法は、馬子のみな
らず、当時の氏族制に対する道徳的プロテストであった。しかしこれは当時の秘密文書であった
か、さもなければ尊ばれつつ事実上は無視された形跡がある。十七条憲法など微塵も実行されな
かった。太子は内心ひそかに馬子に抗しつつ、次第に政治的には無抵抗の状態におちいり、宗教
的隠遁へとその御晩年を進まれたように思われる。
 推古紀と太子の三経義疏を読むと、太子の政治的生涯とは政治的敗北の生涯とも云える。政治
に対する深い失望と諦念が推察されるのだ。宗教の当然の要請たる自己否定は、おそらく摂政王
族の否定にまで到ったと云えまいか。斑鳩宮に退かれたことを、私はその端緒と考える。そして
太子の深き信仰は、偉大なる犯罪者としての馬子との対決なくしてはありえなかったことも認め
なければならない。
 推古朝の十三年、太子は飛鳥の地を去る。数里を隔てた斑鳩宮に移られたのだが、単なる遷居
でなく、生涯における或る転機であり、ことによると蘇我馬子一党によってなかば強いられた隠
遁であったかもしれない。十七条憲法は前年公布されたことになっているが、その政治的波紋と
も考えられる。藤原兼輔の「聖徳太子伝暦」は、このときの推古天皇の悲しみを次のように伝え
ている。
「天皇涙を垂れて宣ふ。朕、人主なりと雖も、唯皇太子を憑みて、天下の万機を日夕に下し行な
                 こころよ
ふ。而して、子、遠く斑鳩に別る、朕の快からざる所なり云々。」
 太子は斑鳩に去られたとは云え、飛鳥の宮に通って摂政の任に当ることを約束申し上げたが、
すでに政治放棄の下心が感じられるのだ。この別離は蘇我との別離の第一歩であった。書紀をみ
れば、爾後太子の宗教的行為は記されてあるが政治上の事蹟は一つも記してない。推古天皇御自
      たの
身は、太子を憑まれたものの、馬子の権勢を如何とも為し難かった。後に馬子が葛城県の土地割
               わ                わ   をぢ
譲を願ったときの帝の御言葉に、「朕れ則ち蘇我より出でたり、大臣亦朕が舅なり。故に大臣の
                         くら          こと
言をば、夜に言はば則ち夜も明さず、日に言はば則ち日も晩さず、何の辞か用ゐざらむ。」(書紀)
とある。葛城県の割譲は退けられたが、この言葉にみられるような感情は、おそらく治世三十六
年を通して常に抱いておられたであろう。そして馬子と太子の二者間に、絶えず動揺されていた
のが女帝のかなしい御心ではなかったかと想像される。
 当時の時勢を概観すれば平穏だが、これは蘇我専権下における平穏である。彼を覆えすべき他
氏族の実力は着々として養われていた。推古啻朋御後の政情をみれば明らかだ。太子の遺族は悉
く入鹿に殺され、入鹿また中大兄皇子と鎌足によって暗殺されている。現在の飛鳥はのどかに菜
の花が咲いているが、上代は血族氏族の殺しあった流血の修羅場だ。この間、無数の帰化人が政
治的経済的に動いたことも見のがしえない。むしろ当時の最も重要な要素と云っていい。異質的
な大陸文明をうけいれたときの混乱は当然予想されるであろう。大寺も宮廷も上流の風習も、今
日想像するように淡々として素朴なものではなく、大陸的などぎつさが濃厚に漂っていたかもし
れない。極彩色のこってりした装飾、それを背景とした執拗な人事関係、陰惨な謀略、すべてが
脂濃く、大陸の体臭は飛鳥路にみちていたのではあるまいか。それは日本がアジアの理想を体現
する前夜の苦悶のすがただと云ってもいいであろう。
 礎石というものはふしぎなものだ。人間も建築も有限なものすべてが滅びて、これ以上滅びる
ものがなくなった最後に、無限のような顔をして土中に埋れている。眺めていると、無限なるも
のとはまことに淋しいものだが、また淋しさの極みの一種の安心感を与える。推古天皇や聖徳太
子の御生涯に心を寄せなかったならば、単なる路傍の石だ。奇もないただの、石だ。しかし歴史に
深入りするにつれてこの石はたしかな生命を得る。歴史の重量がのしかかっている感じだ。まぎ
                                      かたりべ
れもない実証物としての無気味さが、見るものに沈黙を強いるのである。或は無言の語部と云っ
てもよい。「みかほきらきらしく」としるされた美貌の女帝が幻のごとく礎石の上に立ちあらわ
れるお姿を想像した。
*
 豊浦宮址を出て数十歩のところに飛鳥川が流れている。往時は少くとも現在の二倍の川幅は
あったろうが、それにしても狭い川だ。万葉の歌で想像していた方がいい。川に沿うて暫く歩み、
                      きよみがはら
小さな橋を渡るとその前面の畑地に、天武天皇の浄御原宮址がある。碑によってそれと推察され
る以外何もない。相変らず菜の花が咲き乱れている陽気な墓場だ。この辺りの道は日本でもおそ
らく最古の道の一つであろう。
 ほぼ一直線の村道を数町東寄りに行って、飛鳥坐神社の境内に登ってみた。飛鳥の神奈備とし
て古来有名な霊地である。二十メートルほどの小高い丘だが、ここから飛鳥一帯が望見出来る。
小雨が降ってきて、この日は展望がよくきかなかったが、晴れた日ならば平原から向う側の二上
山まで一望のもとに見渡せるであろう。
 飛鳥坐神社の荒廃ぶりには驚いた。方二間ほどの一つの神殿など、塀は倒れ、屋根は朽ちて穴
だらけである。風雨の入るままに放置してあるわけで、欝蒼たる杉の巨木にかこまれたまま、も
はや倒壊の直前にある。私は今までも荒廃した神社をいくつか見たが、これほどひどいのははじ
めてだ。廃仏棄釈の叫ばれた維新直後、かような運命に遭った寺院は多かったであろうが、今は
廃神道とも云うべき機運がある。二三の例外はあろうが、神社はどこでも最も悲惨な状態におか
れているようである。
 古寺古社の荒廃のおもむきは、必ずしも捨てたものではない。だがそれは自然の長い歳月にお
いて見たときだ。自然死の状態のときだ。飛鳥坐神社の荒廃も自然にはちがいないが、数年前な
らば何を措いても修理したであろうし、その可能性もはっきりしているものを、今は冷淡に傍観
している。無関心のもつ冷酷さが痛感されるのだ。何か石を以て病体を撃っているような、受難
のすがたとして映る。戦時中、神社の前を通れば必ず礼拝したあの信仰とは、強いられた擬態で
あったのか。荒廃は擬態の復讐であるのか。人心の無常がこれほど露骨に感ぜられる場所はな
い。焼失でもしたら世間は騒ぐかもしれない。しかしふりかえってみると、飛鳥路は過去千何百
年にわたって、この種の残酷に幾たびも堪えてきた筈だ。こうして一切は自然に帰るのかもしれ
ない。
                          こうそう
 境内の裏道をおりて、更に数町、大原の里に向う。次第に高燥な丘陵地帯に入る。平坦で明る
い飛鳥平原から、樹木の繁ったこの地帯へ来ると、周囲は急に暗く、何か隠者の世界といった感
じさえうける。民家は、私が大和路でみた民家の中で最もゆたかにすがた美しいものであった。
登りつめて行くと、狭い山間に麦畑がある。菜畑がある。突然うずらが羽ばたきして低く飛び
                                  いにしえ
去った。丘陵の曲りくねった間から、飛鳥の平原が右や左にみえる。香久山、古の藤原京址も
みえる。雨ですべりがちな細道を、あちこち歩いてみた。上代の大原は中臣家の領地であったと
いう。鎌足もここで生れた。天智天武両帝と中臣家の因縁は深いが、そういう貴人達のお屋敷町
といった感じだ。
        いつ      も いも こよひ
 大原のこの市柴の何時しかと吾が念ふ妹に今夜逢へるかも
             われい
 大原の古りにし里に妹を置きて吾寝ねかねつ夢に見えこそ
 この地に来てみれば、平生は見のがしがちな万葉のこういう歌もよみがえってくるし、この土
    いにしえ                           しきのみこ
地もまた古さながらの息吹をつづけているようにみえる。前の歌は巻四にある志貴皇子(天智
帝の皇子)の作、後のは巻十一「正に心緒を述ぶ」に記載された読人不知のものだが、やはり志
貴皇子の歌かもしれない。大原の里に情人のいたことは明らかだが、この里の起伏にとむ樹木の
繁った風情は、そういう入を隠すにも逢うにも好適の地であったように思われる。
*
 大原を出て再び平原にもどり、飛鳥寺(安居院)を訪れた。ここも荒れている。後世のみすぼ
らしい建造だが、寺の由緒は深い。崇峻天皇の元年、蘇我馬子の発願によって創始された法興寺
の跡だ。飛鳥時代の寺の中でも、おそらく最古のものであろう。完成をみたのは推古朝四年であ
る。ほぼ八年を費したわけだ。推古朝十四年の紀には、鳥仏師が丈六の仏像を金堂に安置したと
ある。
 現在飛鳥大仏と云われる高さ八尺の坐像が一体残っているが、補修に補修をかさねて、辛うじ
て原形をとどめる程度だ。岩石を積、みかさねたように無細工な胴体の上に、お顔だけがどうやら
飛鳥仏らしい。以前から写真で知っていて、グロテスクな感じをうけていたが、実際にその仏顔
を仰ぐとそうでもない。薄暗い御堂なので、蝋燭をともして貰って、のびあがるように仏顔を照
らしながら拝観した。炎のゆらぐ裡にみる眼のあたりには、一抹の優美さがある。頬のおおらか
な微笑が、炎のひとゆれのうちにちらと感ぜられた。蝋燭を消すと、あとはただ黒々として奇怪
な容姿があるだけである。数多いわが国の仏像の中でも最も大陸性を帯びたものではなかろうか。
 法興寺は推古朝から鎌倉期の建長七年まで、およそ六百六十年間存続していた。同年六月、雷
火のため炎上し、寺塔悉く焼失しわずかに仏頭と手のみを残したと伝う。現在の安居院の境内は
   かつ
狭い。嘗て皇極天皇の時、中大兄皇子と中臣鎌足は、この寺庭の槻の木のもとに会して、蘇我入
鹿の誅伐を議したと云われる。むろんその木はない。境内の裏側は一面の麦畑だが、畑中に入鹿
の首塚と称する一基の石塔があった。伝説によって後世作ったものにちがいないが、苔むした高
さ三尺ほどの石塔は、何となく悪人の首を埋めたと云わんばかりの薄気味わるいみすぼらしさを
示している。死刑囚の墓のような感じであった。
 入鹿の殺されたのは、ここから十数町離れた藤原宮の大極殿である。屍はそのまま父の蝦夷に
送ったと書紀は伝えている。しかし中大兄皇子の行動は純然たるクーデターで、蘇我一党の反撃
は当然予想されたであろう。皇子は鎌足以下軍勢をととのえて、この法興寺に防塁をつくって備
えたと云われる。内乱にはならなかったが、小規模の戦闘はあったであろう。首塚の辺りに、流
血の惨事が起ったかもしれない。法興寺は蘇我家にとっては運命の寺である。馬子はこの寺を建
立中に、一方で崇峻天皇を殺した。寺を建てながらの殺人である。その子蝦夷、孫の入鹿は、自
家の菩提寺において中大兄皇子等に暗殺を企てられた。
 飛鳥寺を後にして、丘陵沿いに畑地を通りぬけ、もとの道を藤原京址に沿うて歩いてみた。人
家と畑だけである。藤原宮址は近年発掘されて、礎石はかなり明白になっている。霧のような小
雨が降りつづき、夕暮も迫ってきたが、ぬかるみの道を急いで香久山へ登ってみた。藤原京址を
眼下に、飛鳥の大半から、耳梨山を経て北方平城京へつづく平原が広々と見渡せる。向う側の山
なみは雨にけむって見えない。夕闇が迫ってきて視界は充分ではなかったが、国見の気持はいさ
さか味うことが出来た。秋ここに立ったならば、黄金の波うつ稲田を眼前一面に俯瞰出来るであ
ろう。
     むらやま            くにみ         くにばら
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち
   うなばら
 立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は

 舒明天皇の有名な御製である。平穏無事、心満ち足りた日の大らかな頌歌だ。喜びの心の躍動
                  ちなまぐさ
するリズムが伝ってくる。飛鳥路の歴史は血腥いが、他面にはこのような心浮きたたせる豊饒と
平安のあったことも見のがせない。香久山は周知のごとく標高わずか百四十八メートルの低い山
          ていりつ
だ。畝傍、耳梨と三山鼎立しているわけだが、国見には絶好の処である。国見は風光への愛のみ
ならず、治世と生産の安泰を嘉する一種の祝祭でもあったろう。天香久山ははじめ天上に在り、
それが大和のこの地に天降りしたという信仰が古くからある。上代から神聖な山として崇められ
ていたわけだが、また親しく人間化されていたところから察すると、上代における神と人との結
び目であり、神と人との和解の山ではなかったかと想像される。様々の生業にいそしむ飛鳥の平
原に接触して、神は人臭くなり、人は神性を自己の裡に感じたのかもしれない。
 山麓の林と藪の小道を巡りながら、再び平坦な道に降り着いたときは、日はすでに暮れてい
た。星ひとつない夜空であった。耳梨の駅の方へ歩きながらふりかえると、茫漠たる飛鳥路の村
  ともしぴ
村の燈が点々と輝いているのがみえた。

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