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江戸川乱歩「心理試験」


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1

 蕗屋《ふきや》清一郎が、なぜ、これから記すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機についてはくわしいことはわからぬ。また、たといわかったとしても、このお話には、たいして関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通っていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼はまれに見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好ぎな読書や思索がじゅうぶんでぎないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく、彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。その聞、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やっつけることに決心したのだ。

 ある時、彼はふとしたことから、同級生の斎藤勇と親しくなった。それが事の起こりだった。はじめはむろん何の成心があったわけではなかった。しかし中途から、彼はあるおぼろげな目的をいだいて斎藤に接近して行った。そして、接近して行くにしたがって、そのおぼろげな目的が、だんだんはっきりして来た。

「斎藤は、一年ばかり前から、山の手のある寂しい屋敷町のしろうと屋に部屋を借りていた。その家のあるじは、官吏の未亡人で、といづても、もう六十に近い老婆だったが、亡夫の残して行った数軒の借家から上がる利益でじゅうぶん生活がでぎるにもかかわらず、子どもを恵まれなかった彼女は、「ただもうお金がたよりだ」といって、確実な知り合いに小金を貸したりして、少しずつ貯金をふやしていくのを、この上もない楽しみにしていた。斎藤に部屋を貸したのも、一つは女ばかりの暮らしでは無用心だからという理由もあっただろうが、一方では、部屋代だけでも、毎月の貯金額がふえることを勘定に入れていたに相違ない。そして、彼女は、今時あまり聞かぬ話だけれど、守銭奴《しゆせんど》の心理は、古今東西を通じて同じものとみえて、表面的な銀行預金のほかに、ばくだいな現金を自宅のある秘密な場所へ、隠しているといううわさだった。

 蕗屋はこの金に誘惑を感じたのだ。あのおいぼれが、そんな大金を持っているということに、なんの価値がある。それを、おれのような未来のある青年の学資に使用するのは、きわめて合理的なことではないか。簡単にいえば、これが彼の理論だった。そこで彼は、斎藤を通じてできるだけ老婆についての知識を得ようとした。その大金の秘密な隠し場所を探ろうとした。しかし彼は、ある時、斎藤が偶然その隠し場所を発見したということを聞くまでは、別に確定的な考えを持っていたわけでもなかった。

「きみ、あのばあさんにしては感心な思いつきだよ。たいてい、縁の下とか、天井裏とか、金の隠し場所なんてきまっているものだが、ばあさんのはちょっと意外なところなのだよ。あの奥座敷の床の間に、大きな松の植木バチが置いてあるだろう。あの植木バチの底なんだよ。その隠し場所がさ。どんなどろぼうだって、まさか植木バチに金が隠してあろうとは気づくまいからね。ばあさんは、まあ、いってみれば、守銭奴《しゆせんど》の天才なんだね」

 その時、斎藤はこう言っておもしろそうに笑った。

 それ以来、蕗屋の考えは少しずつ具体的になって行った。老婆の金を自分の学資に振り替える径路の一つ一つについて、あらゆる可能性を勘定に入れた上、最も安全な方法を考え出そうとした。それは予想以上に困難な仕事だった。これに比べれば、どんな複雑な数学の問題だって、なんでもなかった。彼は先にもいったように、その考えをまとめるだけのために半年をついやしたのだ。

 難点は、いうまでもなく、いかにして刑罰をまぬがれるかということにあった。倫理上の障害、すなわち、良心の呵責《かしやく》というようなことは、彼にはさして問題ではなかった。彼はナポレオンの大がかりな殺人を罪悪とは考えないで、むしろ賛美すると同じように、才能のある青年が、その才能を育てるために、棺桶《かんおけ》に片足ふみ込んだおいぼれを、犠牲に供することを、当然だと思った。

 老婆はめつたに外出しなかった。終日黙々として奥の座敷に丸くなっていた。たまに外出することがあっても、留守《るす》中は、いなか者の女中が彼女の命を受けて正直に見張り番を勤めた。蕗屋のあらゆる苦心にもかかわらず、老婆の用心には少しのすきもなかった。老婆と斎藤のいない時を見はからって、この女中をだまして使いに出すか何かして、そのすきに例の金を植木バチから盗み出したらと、蕗屋は最近そんなふうに考えてみた。しかし、それははなはだ無分別な考えだった。たとい少しのあいだでも、あの家にただ一人でいたことがわかっては、もうそれだけでじゅうぶん嫌疑《けんぎ》をかけられるではないか。彼はこの種のさまざまなおろかな方法を、考えては打ち消し、考えては打ち消すのに、たっぷり一ヵ月をついやした。それは、たとえば、斎藤か女中か、または普通のどろぼうが盗んだと見せかけるトリックだとか、女中ひとりの時に、少しも音を立てないで忍び込んで、彼女の目にふれないように盗み出す方法だとか、夜中、老婆の眠っている間に仕事をする方法だとか、そのほか考えうるあらゆる場合を彼は考えた。しかし、どれにもこれにも、発覚の可能性が多分に含まれていた。

 どうしても老婆をやっつけるほかはない。彼はついに、この恐ろしい結論に達した。老婆の金がどれほどあるかよくはわからぬけれど、いろいろの点から考えて、殺人の危険をおかしてまで執着するほどたいした金額だとは思われぬ。たかの知れた金のために、なんの罪もないひとりの人間を殺してしまうというのは、あまりに残酷すぎはしないか。しかし、たといそれが世間の標準から見ては、たいした金額でなくとも、貧乏な蕗屋にはじゅうぶん満足できるのだ。のみならず、彼の考えによれば、問題は金額の多少ではなくて、ただ犯罪の発覚を絶対に不可能ならしめることだった。そのためには、どんな大きな犠牲を払っても、少しもさしつかえないのだ。

 殺人は、一見、単なる窃盗よりは幾層倍も危険な仕事のように見える。だが、それは一種の錯覚にすぎないのだ。なるほど、発覚することを予想してやる仕事なれば、殺人はあらゆる犯罪の中で最も危険に相違ない。しかし、もし犯罪の軽重よりも、発覚の難易を目安《めやす》にして考えたならば、場合によっては、 (たとえば蕗屋の場合のごときは)むしろ窃盗のほうがあぶない仕事なのだ。これに反して、悪事の発見者をバラしてしまう方法は、残酷な代わりに心配がない。昔からえらい悪人は、平気でズバリズバリと人殺しをやっている。彼らがなかなかつかまらぬのは、かえってこの大胆な殺人のおかげなのではなかろうか。

 では、老婆をやっつけるとして、それにはたして危険がないか。この問題にぶっつかってから、蕗屋は数ヵ月のあいだ考え通した。この長いあいだに、彼がどんなふうに考えを育てて行ったか。それは物語が進むにしたがって、読者にわかることだから、ここにはぶくが、ともかく、彼は、とうてい普通人の考え及ぶこともできないほど、微に入り細をうがった分析ならびに総合の結果、ちり一筋の手抜かりもない、絶対に安全な方法を考え出したのだ。

 今はただ、時機の来るのを待つばかりだ。が、それは案外早く来た。ある日、斎藤は学校関係のことで、女中は使いに出されて、ふたりとも夕方まで決して帰宅しないことが確かめられた。それはちょうど蕗屋が最後の準備行為を終わった日から二日目だった。その最後の準備行為というのは(これだけは前もって説明しておく必要がある)かつて斎藤に例の隠し場所を聞いてから、もう半年も経過した今日《こんにち》、それがまだ当時のままであるかどうかを確かめるための、ある行為だった。彼はその日(すなわち老婆殺しの二日前)斎藤をたずねたついでに、はじめて老婆の部屋である奥座敷にはいって、彼女といろいろ世間話を取りかわした。彼はその世闇話を徐々に一つの方向へ落として行った。そして、しばしぼ老婆の財産のこと、それを彼女がどこかへ隠しているといううわさのあることなぞを口にした。彼は「隠す」ということばの出るごとに、それとなく老婆の目を注意した。すると、彼女の目は、彼の予期したとおり、そのつど、床の間の植木バチにそっとそそがれているのだ。蕗屋はそれを数回繰り返して、もはや少しも疑う余地のないことを確かめることができた。

2

 さて、いよいよ当日である。彼は大学の制服正帽の上に学生マントを着用し、ありふれた手袋をはめて目的の場所に向かった。彼は考えに考えた上、結局変装しないことにきめたのだ。もし変装をするとすれば、材料の買い入れ、着換えの場所、そのほかさまざまの点で、犯罪発覚の手がかりを残すことになる。それはただ物事を複雑にするばかりで、少しも効果がないのだ。犯罪の方法は、発覚のおそれのない範囲においては、できるかぎり単純に、かつ、あからさまにすべきだというのが、彼の一種の哲学だった。要は、目的の家にはいるところを見られさえしなければいいのだ。たといその家の前を通ったことがわかっても、それは少しもさしつかえない。彼はよくその辺を散歩することがあるのだから、当日も散歩をしたばかりだと言い抜けることができる。と同時に、一方において、彼が目的の家に行く途中で知り合いの人に見られた場合(これはどうしても勘定に入れておかねばならぬ)妙な変装をしているほうがいいか、ふだんのとおり制服正帽でいるほうがいいか、考えてみるまでもないことだ。犯罪の時間についても、待ちさえすればつこうよい夜がi斎藤も女中も不在の夜があることはわかっているのに、なぜ彼は危険な昼間を選んだか、これも服装の場合と同じく、犯罪から不必要な秘密性を除くためだった。

 しかし、目的の家の前に立った時だけは、さすがの彼も、普通のどろぼうのとおりに、いや、おそらく彼ら以上にビクビクして前後左右を見まわした。老婆の家は、両隣りとは生垣《いけがき》で境した一軒建ちで、向こう側には、ある富豪の邸宅の高いコンクリート塀《べい》が、ずっと一丁も続いていた。寂しい屋敷町だから、昼間でも時々はまるで人通りのないことがある。蕗屋がそこへたどりついた時も、いいあんばいに、通りには犬の子一匹見当たらなかった。彼は、普通に開けばばかにひどい金属性の音のする格子戸《こうしど》を、ソロリソロリと少しも音を立てないように開閉した。そして、玄関の土間から、ごく低い声で(これらは隣家への用心だ)案内を請うた。老婆が出て来ると、彼は、斎藤のことについて少し内密に話したいことがあるという口実で、奥の間に通った。

 座が定まると間もなく「あいにく女中がおりませんので」と断わりながら、老婆はお茶をくみに立った。蕗屋はそれを、今か今かと待ちかまえていたのだ。彼は者婆がフスマをあけるために少し身をかがめた時、やにわにうしろから抱きついて、両腕を使って(手袋ははめていたけれど、なるべく指のあとをつけまいとしてだ)力まかせに首をしめた。老婆はのどのところでグッというような音を出したばかりで、たいしてもがきもしなかった。ただ苦しまぎれに空《くう》をつかんだ指先が、そこに立ててあった屏風にふれて、少しばかり傷をこしらえた。それは二枚折りの時代のついた金屏風で、極彩色の六歌仙が描かれていたが、そのちょうど小野の小町の顔のところが、無残にも一寸ばかり破れたのだ。

 老婆の息が絶えたのを見定めると、彼は死骸をそこへ横にして、ちょっと気になる様子で、その屏風の破れをながめた。しかし、よく考えてみれば、少しも心配することはない。こんなものがなんの証拠になるはずもないのだ。そこで、彼は目的の床の間へ行って、例の松の木の根元を持って、土もろともスッポリと植木バチから引き抜いた。予期したとおり、その底には油紙で包んだものが入れてあった。彼は落ちつきはらって、その包みを解いて、右のポケットから一つの新しい大型のサイフを取り出し、紙幣を半分ばかり(じゅうぶん五千円〔註、今の二百万円ぐらい〕はあった)その中に入れると、サイフを元のポケットに納め、残った紙幣は油紙に包ゐで、前のとおりに植木バチの底へ隠した。むろん、これは金を盗んだという証跡をくらますためだ。老婆の貯金の高は、老婆自身が知っていたばかりだから、それが半分になったとて、だれも疑うはずはないのだ。

 それから、彼はそこにあった座ブトンを丸めて老婆の胸にあてがい(これは血潮の飛ばぬ用心だ)左のポケットから一丁のジャツクナイフを取り出して双を開くと、心臓をめがけてグサッと突き刺し、グイと一つえぐっておいて引き抜いた。そして、同じ座ブトンの布でナイフの血のりをきれいにふき取り、元のポケットへ納めた。彼は、絞め殺しただけでは、蘇生《そせい》のおそれがあると思ったのだ。つまり、昔のとどめを刺すというやつだ。では、なぜ最初から刃物を使用しなか.ったかというと、そうしては、ひょつとして自分の着物に血潮がかかるかもしれないことをおそれたのだ。

 ここでちょっと、彼が紙幣を入れたサイフと、今のジャックナイフについて説明しておかねばならぬ。彼は、それらを、この目的だけに使うために、ある縁日の露店で買い求めたのだ。彼はその縁日の最もにぎわう時分を見計らって、最も客のこんでいる店を選び、正札どおりの小銭を投げ出して、品物を取ると、商人はもちろん、たくさんの客たちも、彼の顔を記憶する暇がなかったほど、非常にすばやく姿をくらました。そして、この晶物は両方とも、ごくありふれた、なんの目印もありえないようなものだった。

 さて、蕗屋は、じゅうぶん注意して少しも手がかりが残っていないのを確かめた後、フスマのしまりも忘れないで、ゆっくりと玄関へ出て来た。彼はそこでクッのヒモを締めながら、足跡のことを考えてみた。だが、その点はさらに心配がなかった。玄関の土間は堅い漆喰《しつくい》だし、表の通りは天気続きでカラカラに乾いていた。あとにはもう、格子戸《こうしど》をあけて表へ出ることが残っているばかりだ。だが、ここでしくじるようなことがあっては、すぺての苦心が水のあわだ。彼はじっと耳を澄まして、しんぼう強く表通りの足音を聞こうとした。……しんとして何の気配もない。どこかの家で琴を弾じる音がコロリンシャンと、しごくのどかに聞こえているばかりだ。彼は思いきって、静かに格子戸をあけた。そして、なにげなく、今暇をつげたお客様だというような顔をして、往来へ出た。案の定、そこには人影もなかった。

 その一画はどの通りも寂しい屋敷町だった。老婆の家から四、五丁隔たったところに、何かの社《やしろ》の古い石垣が往来に面してずっと続いていた。蕗屋は、だれも見ていないのを確かめた上、そこの石垣のすきまから凶器のジャックナイフと血のついた手袋とを落とし込んだ。そして、いつも散歩の時には立ち寄ることにしていた、付近の小さい公園を目ざして、ブラブラと歩いて行った。彼は公園のベンチに腰をかけ、子どもたちがブランコに乗って遊んでいるのを、いかにものどかな顔をしてながめながら、長い時間を過ごした。

 帰りがけに、彼は警察署へ立ち寄った。そして、

「今しがた、このサイフを拾ったのです。百円札がいっぱいはいっているようですから、お届けします」

 といいながら、例のサイフをさし出した。彼は巡査の質問に答えて、拾った場所と時間と(もちろん、それは可能性のあるでたらめなのだ)自分の住所姓名と(これはほんとうの)を、答えた。そして、印刷した紙に彼の姓名や金額などを書き入れた受取証みたいなものを貰った。なるほど、これは非常に迂遠《うえん》な方法には相違ない。しかし、安全という点では最上だ。老婆の金は(半分になったことはだれも知らない)ちゃんと元の場所にあるのだから、このサイフの遺失主は絶対に出るはずがない。一年の後にはまちがいなく蕗屋の手に落ちるのだ。そして、だれはばからず大っぴらに使えるのだ。彼は考え抜いたあげく、この手段をとった。もし、これをどこかへ隠しておくとすると、どうした偶然から他人に横取りされないものでもない。自分で持っているか。それはもう考えるまでもなく危険なことだ。のみならず、この方法によれば、万一老婆が紙幣の番号を控えていたとしても、少しも心配がないのだ。 (もつとも、この点はできるだけ探って、だいたい安心はしていたけれど)

「まさか、自分の盗んだ品物を警察へ届けるやつがあろうとは、ほんとうにお釈迦様でもご存じあるまいよ」

 彼は笑いをかみ殺しながら、心の中でつぶやいた。

 翌日、蕗屋は、下宿の一室で、常と変わらぬ安眠から目ざめると、あくびをしながら、まくらもとに配達されていた新聞をひろげて、社会面を見渡した。彼はそこに意外な事実を発見して、らよつと驚いた。だが、それは決して心配するような事柄ではなく、かえって彼のためには、予期しないしあわせだった。というのは、友人の斎藤が嫌疑者《けんぎしや》としてあげられたのだ。嫌疑を受けた理由は、彼が身分不相応の大金を所持していたからだと記してある。

「おれは斎藤の最も親しい友だちなのだから、ここで警察へ出頭して、いろいろ問いただすのが自然だな」

 蕗屋はさっそく着物を着替えると、あわてて警察署へ出かけた。それは彼がきのうサイフを届けたのと同じ役所だ。なぜサイフを届けるのを管轄の違う警察にしなかったか。いや、それとてもまた、彼一流の無技巧主義でわざとしたことなのだ。彼は過不足のない程度に心配そうな顔をして、斎藤に会わせてくれと頼んだ。しかし、それは予期したとおり許されなかった。そこで、彼は斎藤が嫌疑を受けたわけをいろいろと問いただして、ある程度まで事実を明らかにすることができた。

 蕗屋は次のように想像した。

 きのう斎藤は女中よりも先に家へ帰った。それは蕗屋が目的を果たして立ち去るとまもなくだった。そして、当然老婆の死骸を発見した。しかし、ただちに警察に届ける前に、彼はあることを思いついたに相違ない。というのは、例の植木バチだ。もしこれが盗賊のしわざなれば、あるいはあの中の金がなくなっていはしないか。たぶんそれは、ちょっとした好奇心からだったろう。彼はそこをしらべてみた。ところが、案外にも金の包みがちゃんとあったのだ。それを見て斎藤が悪心を起こしたのは、実にあさはかな考えではあるが、無理もないことだ。その隠し場所はだれも知らないこと、老婆を殺した犯人が盗んだという解釈が下されるに違いないこと。こうした事情は、だれにしても避けがたい強い誘惑に相違ない。それから彼はどうしたか。警察の話では何食わぬ顔をして、人殺しのあったことを警察へ届け出たということだ。ところが、なんという無分別な男だ。彼は盗んだ金を腹巻きのあいだへ入れたまま、平気でいたのだ。まさかその場で身体検査をされようとは想像しなかったとみえる。

「だが、待てよ。斎藤はいったい、どういうふうに弁解するだろう。次第によっては危険なことになりはしないかな」蕗屋はそれをいろいろと考えてみた。「彼は金を見つけられた時、『自分のだ』と答えたかもしれない。なるほど、老婆の財産の多寡や隠し場所はだれも知らないのだから、一応はその弁明も成り立つであろう。しかし、金額があまり多すぎるではないか。で、結局彼は事実を申し立てることになるだろう。でも、裁判所がそれを承認するかな。ほかに嫌疑者が出ればともかく、それまでは彼を無罪にすることはまずあるまい。うまく行けば、彼が殺人罪に問われるかもしれたものではない。そうなればしめたものだが、……ところで、裁判官が彼を問い詰めて行くうちに、いろいろな事実がわかって来るだろうな。たとえば、彼が金の隠し場所を発見した時におれに話したことだとか、凶行の二日前におれが老婆の部屋にはいって話し込んだことだとか、はては、おれが貧乏で学資にも困っていることだとか」

 しかし、それらは皆、蕗屋がこの計画を立てる前に、あらかじめ勘定に入れておいたことばかりだった。そして、どんなに考えても、斎藤の口からそれ以ヒ彼にとって不利な事実が引き出されようとは考えられなかった。蕗屋は警察から帰ると、遅れた朝食をしたためて(その時食事を運んで来た女中に、事件について話して聞かせたりした)いつものとおり学校へ出た。学校では斎藤のうわさで持ちきりだった。彼はなかば得意げに、その話の中心になってしゃべった。

3

 さて読者諸君、探偵小説というものの性質に通曉せられる諸君は、お話は決してこれきりで終わらぬことを百もご承知であろう。いかにもそのとおりである。実をいえば、ここまではこの物語の前提にすぎないので、作者がぜひ、諸君に読んでもらいたいと思うのは、これからあとなのである。つまり、かくもたくらんだ蕗屋の犯罪がいかにして発覚したかという、そのいきさつについてである。

 この事件を担当した予審判事〔註、当時の制度〕は、有名な笠森氏であった。彼は普通の意味で名判官だったばかりでなく、ある多少ふう変わりな趣味を持っているのでいっそう有名だった。それは彼が一種のしろうと心理学者だったことで、彼は普通のやり方ではどうにも判断の下しようがない事件に対しては、最後に、その豊富な心理学上の知識を利用して、しばしば奏功した。彼は経歴こそ浅く、年こそ若かったけれど、地方裁判所の一予審判事としては、もったいないほどの、俊才だった。今度の老婆殺し事件も、笠森判事の手にかかれば、もうわけなく解決することと、だれしも考えていた。当の笠森氏自身も同じように考えた。いつものように、この事件も予審廷ですっかり調べ上げて、公判の場合にはいささかのめんどうも残らぬように処理してやろう、と思っていた。

 ところが、取り調べを進めるにしたがって、事件の困難なことがだんだんわかって来た。警察側は単純に、斎藤勇の有罪を主張した。笠森判事とても、その主張に一理あることを認めないではなかった。というのは、生前老婆の家に出入りした形跡のある者は、彼女の債務者であろうが、借家人であろうが、単なる知り合いであろうが、残らず召喚して綿密に取り調べたにもかかわらず、一人として疑わしい者はないのだ(蕗屋清一郎ももちろんそのうちの一人だった)。ほかに嫌疑者が現われぬ以上、さしずめ最も疑うぺき斎藤勇を犯人と判断するほかはない。のみならず、斎藤にとって最も不利だったのは、彼が生来気の弱いたちで、一も二もなく法廷の空気に恐れをなしてしまって、尋問に対してもハキハキ答弁のできなかったことだ。のぼせ上がった彼は、しばしば以前の陳述を取り消したり、当然知っているはずのことを忘れてしまったり、いわずともの不利な申し立てをしたり、あせればあせるほど、ますます嫌疑を深くするばかりだった。それというのも、彼には老婆の金を盗んだという弱味があったからで、それさえなければ、相当頭のいい斎藤のことだから、いかに気が弱いといって、あのようなヘマなまねはしなかったであろう。彼の立ち場は実際同情すべきものだった。しかし、それでは斎藤を殺人犯と認めるかというと、笠森氏にはどうもその自信がなかった。そこにはただ疑いがあるばかりなのだ。本人はもちろん自白せず、ほかにこれという確証もなかった。

 こうして、事件から一ヵ月が経過した。予審はまだ終結しない。判事は少しあせりだしていた。ちょうどその時、老婆殺しの管轄の警察署長から、彼のところへ一つの耳よりな報告がもたらされた。それは、事件の当日、五千二百何十円在中の一箇のサイフが、老婆の家からほど遠からぬ××町において拾得されたが、その届け主が、嫌疑者の斎藤の親友である蕗屋清一郎という学生だったことを、係りの疎漏《そろう》から今日まで気づかずにいた。が、その大金の遺失者が一ヵ月たっても現われぬところを見ると、そこに何か意味がありはしないか。念のために御報告する、ということだった。

 困り抜いていた笠森判事は、この報告を受け取って、一道の光明を認めたように思った。さっそく蕗屋清一郎召喚の手続きが取り運ばれた。ところが、蕗屋を尋問した結果は、判事の意気込みにもかかわらず、たいして得るところもないように見えた。なぜ事件の当時取り調べた際、その大金拾得の事実を申し立てなかったかという尋問に対して、彼は、それが殺人事件に関係あるとは思わなかったからだ、と答えた。この答弁にはじゅうぶん理由があった。老婆の財産は斎藤の腹巻きから発見されたのだから、それ以外の金が、ことに往来に遺失されていた金か、老婆の財産の一部だと、だれが想像しよう。

 しかし、これが偶然であろうか。事件の当日、現場からあまり遠くないところで、しかも第一の嫌疑者の親友である男が(斎藤の申し立てによれば、彼は植木バチの隠し場所をも知っているのだ)この大金を拾得したというのが、これがはたして偶然であろうか。判事はそこに何かの意味を発見しようとして、もだえた。判事の最も残念に思ったのは、老婆が紙幣の番号を控えておかなかったことだ。それさえあれば、この疑わしい金が事件に関係があるかないかも、ただちに判明するのだが、「どんな小さいことでも、何か一つ確かな手がかりをつかみさえすればなあ」

判事は全才能を傾けて考えた。現場の取り調べも…幾度となく繰り返された。老婆の親族関係もじゅうぶん調査した。しかし、なんの得るところもない。そうしてまた半月ばかりいたずらに経過した。

 たった一つの可能性は、と判事が考えた。蕗屋が老婆の貯金を半分盗んで、残りを元どおりに隠しておき、盗んだ金をサイフに入れて、往来で拾ったように見せかけた、と推定することだ。だが、そんなばかなことが、ありうるだろうか。そのサイフも、むろんしらべてみたけれど、これという手がかりもない。それに、蕗屋は平気で、当日散歩のみちすがら、老婆の家の前を通ったと申し立てているではないか。犯人にこんな大胆なことが言えるものだろうか。だいいち、最もたいせつな凶器のゆくえがわからぬ。蕗屋の下宿の家宅捜索の結果は、何物をももたらさなかったのだ。しかし、凶器のことをいえば、斎藤とても同じではないか。ではいったい、だれを疑ったらいいのだ。

 そこには確証というものが一つもなかった。署長らのいうように、斎藤を疑えば斎藤らしくもある。だが、また、蕗屋とても疑って疑えぬことはない。ただ、わかっているのは、この一ヵ月半のあらゆる捜索の結果、彼らふたりを除いては、ひとりの嫌疑者も存在しない、ということだった。万策尽きた笠森判事は、いよいよ奥の手を出す時だと思った。ふたりの嫌疑者に対して、彼の従来しばしば成功した心理試験を施そうと決心した。

4

 蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に、第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名なしろうと心理学者の笠森氏だということを知った。そして、当時すでにこの最後の場合を予想して、少なからずろうばいした。さすがの彼も、日本に、たとい一個人の道楽気からとはいえ、心理試験などというものが行なわれていようとは想像していなかった、彼は、種々の書物によって、心理試験の何物であるかを、知りすぎるほど知っていたのだ。

 この大打撃に、もはや平気を装って通学を続ける余裕を失った彼は、病気と称して下宿の一室にとじこもった。そして、ただ、いかにしてこの難関を切り抜けるべきかを考えた。ちょうど、殺人を実行する以前にやったと同じ、あるいはそれ以上の、綿密と熱心とをもって考え続けた。

 笠森判事は、はたしてどのような心理試験を行なうであろうか。それはとうてい予知することができない。で、蕗屋は、知っているかぎりの方法を思い出して、その一つ】つについて、なんとか対策がないものかと考えてみた。しかし、元来心理試験というものが、虚偽の申し立てをあばくためにできているのだから、それをさらに偽るということは、理論上不可能らしくもあった。

 蕗屋の考えによれば、心理試験はその性質によって二つに大別することができた。一つは純然たる生理上の反応によるもの、今一つはことばを通じて行なわれるものだ。前者は、試験者が犯罪に関連したさまざまの質問を発して、被験者の身体上の微細な反応を、適当な装置によって記録し、普通の尋問によってはとうてい知ることのできない真実をつかもうとする方法だ。それは、人間は、たといことばの上で、または顔面表情の上で、うそをついても、神経そのものの興奮は隠すことができず、それが微細な肉体上の徴候として現われるものだという理論に基くので、その方法としては、たとえば、automatographなどの力を借りて、手の微細な動きを発見する方法、ある手段によって眼球の動き方を確かめる方法、pneumographによって呼吸の深浅遅速を計る方法、sphygmographによって軈畿分高低遅速を計る方法、plehysmographによって四肢《しし》の血量を計る方法、galvanometerによって手のひらの微細なる発汗を発見する方法、ひざの関節を軽く打って生じる筋肉の収縮の多少を見る方法、その他これらに類した種々さまざまの方法がある。

 たとえば、不意に「おまえは老婆を殺した本人であろう」と問われた場合、彼は平気な顔で「何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」と言い返すだけの自信はある。だが、その時不自然に脈搏が高まったり、呼吸が早くなるようなことはないだろうか。それを防ぐことは絶対に不可能なのではあるまいか。彼はいろいろな場合を仮定して、心のうちで実験してみた。ところが、不思議なことには、自分自身で発した尋問は、それがどんなにきわどい、不意の思いつきであっても、肉体上に変化を及ぼすようには考えられなかった。むろん、微細な変化を計る道具があるわけではないから、確かなことは言えぬけれど、神経の興奮そのものが感じられない以上は、その結果である肉体上の変化も起こらぬはずだった。

 そうして、いろいろと実験や推量を続けているうちに、蕗屋はふとある考えにぶっつかった。それは、練習というものが心理試験の効果を妨げはしないか、言いかえれば、同じ質問に対しても、一回目よりは二回目が、二回目よりは三回目が、神経の反応が微弱になりはしないかということだった。つまり、慣れるということだった。これは他のいろいろの場合を考えてみてもわかるとおり、ずいぶん可能性がある。自分自身の尋問に対しては反応がないというのも、結局はこれと同じ理屈で、尋問が発せられる以前に、すでに予期があるために相違ない。

 そこで、彼は『辞林』の中の何万という単語を一つも残らず調べてみて、少しでも尋問されそうなことばを、すっかり書き抜いた。そして、一週間もかかって、それに対する神経の『練習』をやった。

 さて次には、ことばを通じて試験する方法だ。これとても恐れることはない。いや、むしろ、それがことばであるだけに、ごまかしやすいというものだ。これにはいろいろな方法があるけれど、最もよく行なわれるのは、あの精神分析家が病人を見る時に用いるのと同じ方法で、連想診断というやつだ。 「障子」だとか「机」だとか「インキ」だとか「ペン」だとか、なんでもない用語をいくつも順次に読み聞かせて、できるだけ早く、少しも考えないで、それらの単語について連想したことばをしゃべらせるのだ。たとえば、 「障子」に対しては「窓」とか「敷居」とか「紙」とか「戸」とか、いろいろの連想があるだろうが、どれでもかまわない。その時ふと浮かんだことばを言わせる。そして、それらの意昧のない単語の間へ「ナイフ」だとか「血」だとか「金《かね》」だとか「サイフ」だとか、犯罪に関係のある単語を、気づかれぬようにまぜておいて、それに対する連想をしらべるのだ。

 まず第一に、最も思慮の浅い者は、この老婆殺しの事件でいえば「植木バチ」という単語に対して、うっかり「金」と答えるかもしれない。すなわち「植木バチ」の底から「金」を盗んだことが最も深く印象されているからだ。そこで彼は罪状を自白したことになる。だが、少し考え深い者だったら、たとい「金」ということばが浮かんでも、それを押し殺して、たとえば「瀬戸物」と答えるだろう。

 かような偽りに対して二つの方法がある。一つは、一巡試験した単語を、少し時聞を置いて、もう一度繰り返すのだ。すると、自然に出た答えは多くの場合前後相違がないのに、故意に作った答えは、十中八九は、最初の時と違って来る。たとえば「植木バチ」に対して最初は「瀬戸物」と答え、二度目は「土」と答えるようなものだ。

 もう一つの方法は、問いを発してから答えを得るまでの時間を、ある装置によって精確に記録し、その遅速によって、たとえば「障子」に対して「戸」と答えた時間が一秒闇であったにもかかわらず、「植木バチ」に対して「瀬戸物」と答えた時間が三秒間もかかったとすれば、それは「植木バチ」について最初に現われた連想を押し殺すために時間を取ったので、その被験者はあやしいということになるのだ。この時間の遅延は、当面の単語に現われないで、その次の意味のない単語に現われることもある。また、犯罪当時の状況をくわしく話して聞かせて、それを暗唱させる方法もある。真実の犯人であったら、暗唱する場合に、微細な点で思わず話して聞かされたことと違った真実を口走ってしまうものなのだ。

 この種の試験に対しては、前の場合と同じく「練習」が必要なのはいうまでもないが、それよりももっとたいせつなのは、蕗屋にいわせると、むじゃきなことだ。つまらない技巧をろうしないことだ。「植木バチ」に対しては、むしろあからさまに「金」または「松」と答えるのが、いちばん安全な方法なのだ。というのは、蕗屋は、たとい彼が犯人でなかったにしても、判事の取り調べ浸の他によって、犯罪事実をある程度まで知っているのが当然だから、そして、植木バチの底に金《かね》があったという事実は、最近の、かつ最も深刻な印象に相違ないのだから、連想作用がそんなふうに働くのは、しごくあたりまえではないか。また、この手段によれば、現場のありさまを暗唱させられた場合にも安全なのだ。ただ、問題は時間の点だ。これにはやはり「練習」が必要であるつ 「植木バチ」と来たら、少しもまごつかないで「金」または「松」と答えうるように練習しておく必要がある。彼はさらにこの「練習」のために数日をついやした。かようにして、準備はまったく整った。

 彼はまた、一方において、ある一つの有利な事情を勘定に入れていた。それを考えると、たとい、予期しない尋問に接しても、さらに一歩を進めて、予期した尋問に対して不利な反応を示しても、ごうも恐れることはないのだった。というのは、試験されるのは、蕗屋ひとりではないからだ。あの神経過敏な斎藤勇が、いくら身に覚えがないといっても、さまざまの尋問に対して、はたして虚心平気でいることができるだろうか。おそらく彼とても、少なくとも蕗屋と同様くらいの反応を示すのが自然ではあるまいか。

 蕗屋は考えるにしたがって、だんだん安心して来た。なんだか鼻歌でも歌いだしたいような気持ちになって来た。彼は今は、かえって笠森判事の呼び出しを待ち構えるようにさえなった。

5


 笠森判事の心理試験がいかように行なわれたか。それに対して、神経家の斎藤がどんな反応を示したか、蕗屋が、いかに落ちつきはらって試験に応じたか、ここにそれらのくだくだしい敍述を並べ立てることを避けて、ただちにその結果に話を進めるこしぐにする。

 それは心理試験の行なわれた翌日のことである。笠森判事が、自宅の書斎で、試験の結果を書きとめた書類を前にして、小首を傾けているところへ、明智小五郎の名刺が通じられた。

『D坂の殺人事件』を読んだ人は、この明智小五郎がどんな男だかということを、いくぶんご存じであろう。彼はその後、しばしば困難な犯罪事件に関係して、その珍しい才能を現わし、専門家たちはもちろん、一般の世間からも、もうりっぱに認められていた。笠森氏とも、ある事件から心やすくなったのだ。

 女中の案内につれて、判事の書斎に、明智のニコニコした顔が現われた。このお話は『D坂の殺人事件』から数年後のことで、彼ももう昔の書生でなくなっていた。

「ご精が出ますね」

「例の老婆殺しの事件ですね。どうでした。心理試験の結果は」

 明智は判事の机の上をのぞきながらいった。

「いや、どうも、今度はまったく弱りましたよ」

 判事が、来客のほうにからだの向きを換えながら応じた。

 明智は、事件以来、たびたび笠森判事に会って、くわしい事情を聞いていたのだ。

「いや、結果は明白ですがね」と判事「それがどうも、ぼくにはなんだか得心できないのですよ。きのうは脈搏の試験と、連想診断をやってみたのですが、蕗屋のほうはほとんど反応がないのです。もっとも脈搏ではだいぶ疑わしいところもありましたが、しかし、斎藤に比べれば、問題にもならぬくらいわずかなんです。これをご覧なさい。ここに質問事項と、脈搏の記録がありますよ。斎藤のほうは実にいちじるしい反応を示しているでしょう。連想試験でも同じことです。この『植木バチ』という刺激語に対する反応時間を見てもわかりますよ。蕗屋のほうはほかの無意、味なことばよりも、かえって短い時間で答えているのに、斎藤のほうはどうです、六秒もかかっているではありませんか」

 判事が示した連想診断の記録は、左のようにしるされていた。


刺激語 蕗屋清一郎 斎藤勇
   反応語 所要時間 反応語 所要時間
頭  毛  0.9秒 1.2秒
緑  毒  0.7 1.1
水  湯  0.9 1.3
歌う 唱歌 1.1 1.5
長い 短い 1.0 ひも 1.2
○殺す ナイフ 0.8 犯罪 3.1
舟  川  0.9 2.2
窓  戸  0.8 ガラス 1.5
料理 洋食 1.O さしみ 1.3
○金 紙幣 0.7 3.5
冷たい 水  1.1 2.3
病気 カゼ 1.6 肺病 1.6
針  糸  1.0 1.2
○松 植木 0.8 2.3
山  高い 0.9 1.4
○血 流れる 1.0 赤い 3.9
新しい 古い 0.8 着物 2.1
きらい クモ 1.2 病気 1.1
植木バチ 松  0.6 6.2
鳥  飛ぶ 0.9 カナリヤ 3.6
本  丸善 1.0 丸善 1.3
○油紙 隠す 0.8 小包 4.0
友人 斎藤 1.1 話す 1.8
純粋 理性 1.2 ことば 1.7
箱  本箱 1.0 人形 1.2
○犯罪 人殺し 0.7 警察 3.7
満足 完成 0.8 家庭 2.0
女  政治 1.0 1.3
絵  ビョウブ 0.9 景色 1.3
○盗む 金  0.7 4.1


○印は犯罪に関係ある単語.実際は百ぐらいの単語が使われるし、さらに、それを二組も三組も用意して、つぎつぎと試験したのだが、右の表はわかりやすくするために簡単にしたものである。


「ね、非常に明瞭《めいりよう》でしょう」判事は明智が記録に目を通すのを待って続けた。 「これでみると、斎藤はいろいろ故意の細工をやっている。いちばんよくわかるのは反応時間がおそいことですが、それが問題の単語ばかりでなく、そのすぐあとのや、二つ目のにまで影響しているのです。それからまた、 『金』に対して『鉄』と言ったり『盗む』に対して『馬』といったり、かなり無理な連想をやってますよ。

『植木バチ』にいちばんながくかかったのは、おそらく『金』と『松』という二つの連想を押さえつけるために手間どったのでしょう。それに反して、蕗屋のほうはごく自然です。『植木バチ』に『松』だとか、『油紙』に『隠す』だとか、『犯罪』に『人殺し』だとか、もし犯人だったらぜひ隠さなければならないような連想を、平気で、しかも短い時間に答えています。彼が人殺しの本人でいて、こんな反応を示したとすれば、よほどの低能児に違いありません。ところが、実際は彼はー!大学の学生で、それになかなか秀才なのですからね」

「そんなふうにも取れますね」

 明智は何か考え考え言った。しかし判事は、彼の意味ありげな表情には少しも気づかないで、話を進めた。

「ところがですね、これでもう、蕗屋のほうは疑うところはないのだが、斎藤がはたして犯人かどうかという点になると、試験の結果はこんなにハッキリしているのに、どうもぼくは確信ができないのですよ。なにも予審で有罪にしたとて、それが最後の決定になるわけではなし、まあこのくらいでいいのですが、ご承知のように、ほくは例のまけぬ気でね。公判でぼくの考えをひっくり返されるのがしゃくなんですよ。そんなわけで、実はまだ迷っている始末です」

「これを見ると、実におもしろいですね」明智が記録を手にして始めた。「蕗屋も斎藤もなかなか勉強家だっていいますが、『本』いう単語に対して、両人とも『丸善』と答えたところなどは、よく性質が現われていますね。もつとおもしろいのは、蕗屋の答えは、皆どことなく物質的で、理知的なのに反して、斎藤のはいかにもやさしいところがあるじゃありませんか。敍情的ですね、たとえば『女』だとか『着物』だとか『花』だとか『人形』だとか『景色』だとか『妹』だとかという答えは、どちらかといえば、センチメンタルな弱女しい男を思わせますね。それから、斎藤はきっと病身ですよ。『きらい』に『病気』と答え、 『病気』に『肺病』と答えているじゃありませんか。平生から肺病になりゃしないかと恐れている証拠ですよ」

「そういう見方もありますね。連想診断てやつは、考えれば考えるだけ、いろいろおもしろい判断が出て来るものですよ」

「ところで」明智は少し口調を換えていった。 「あなたは、心理試験というものの弱点について考えられたことがありますかしら。デ・キロスは心理試験の提唱者ミュンスターベルヒの考えを批評して、この方法は拷問《ごうもん》に代わるべく考案されたものだけれど、その結果は、やはり拷問と同じように、無辜《むこ》のものを罪におとしいれ、有罪者を逸することがある、といっていますね。ミュンスターベルヒ自身も、心理試験の真の効能は、嫌疑《けんぎ》者が、ある場所とか人とか物について知っているか、どうかを見いだす場合にかぎって確定的だけれど、そのほかの場合には、いくぶん危険だというようなことを、どっかで書いていました。あなたにこんなことをお話しするのは釈迦《しやか》に説法かもしれませんね。でも、これは確かにたいせつな点だと思いますが、どうでしょう」

「それは悪い場合を考えれば、そうでしょうがね。むろん、ぼくもそれは知ってますよ」

 判事は少しいやな顔をして答えた。

「しかし、その悪い場合が、存外手近にないともかぎりませんからね。こういうことは言えないでしょうか。たとえば、非常に神経過敏な、無辜《むこ》の男が、ある犯罪の嫌疑を受けたと仮定しますね。その男は犯罪の現場で捕えられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、彼ははたして心理試験に対して平気でいることができるでしょうか。 『ア、これはぼくをためすのだな、どう答えたら疑われないだろう』などというふうに興奮するのが当然ではないでしょうか。ですから、そういう事情のもとに行なわれた心理試験な、デ・キロスのいわゆる『無辜《むこ》のものを罪におとしいれる』ことになりゃあしないでしょうか」

「きみは斎藤勇のことを言っているのですね。いや、それはぼくも、なんとなくそう感じたものだから、今もいったように、まだ迷っているのじゃありませんか」

 判事はますます苦い顔をした。

「では、そういうふうに、斎藤が無罪だとすれば(もっとも金を盗んだ罪はまぬがれませんけれど)いったい、だれが老婆を殺したのでしょう……」

 判事はこの明智のことばを中途から引き取って、荒々しく尋ねた。

「そんなら、きみは、ほかに犯人の目当てでもあるのですか」

「あります」明智がニコニコしながら答えた。 「ぼくはこの連想試験の結果から見て、蕗屋が犯人だと思うのですよ。しかし、まだ確実にそうだとは言えませんけれど、あの男はもううちへ帰したのでしょうね。どうでしょう。それとなく彼をここへ呼ぶわけにはいきませんかしら。そうすれば、ぼくはきっと真相をつき止めてお目にかけますがね」

「なんですって。それには何か確かな証拠でもあるのですか」

 判事が少なからず驚いて尋ねた。

 明智は別に得意らしい色もなく、くわしく彼の考えを述ぺた。そして、それが判事をすっかり感心させてしまった。明智の希望がいれられて、蕗屋の下宿へ使いが走った。

「ご友人の斎藤氏はいよいよ有罪と決した。それについてお話ししたいこともあるから、わたしの私宅までご足労をわずらわしたい」

 これが呼び出しの口上だった。蕗屋はちょうど学校から帰ったところで、それを聞くと早速やって来た。さすがの彼も、この吉報には少なからず興奮していた。うれしさのあまり、そこに恐ろしいワナのあることを、まるで気づかなかった。

6

 笠森判事は、一通り斎藤を有罪と決定した理由を説明したあとで、こう付け加えた。
「きみを疑ったりして、まったく相済まんと思っているのです。きょうは、実はそのおわびかたがた、事情をよくお話ししようと思って、来ていただいたわけですよ」

 そして、蕗屋のために紅茶を命じたりして、ごくうちくつろいだ様子で雑談を始めた。明智も話に加わった。判事は彼を知り合いの弁護士で、死んだ老婆の遺産相続者から、貸金の取り立てなどを依頼されている男だ、といって紹介した。むろん半分はうそだけれど、親族会議の結果、老婆のオイがいなかから出て来て、遺産を相続することになったのは事実だった。

 三人の間には、斎藤のうわさをはじめとして、いろいろの話題が話された。すっかり安心した蕗屋は、中でもいちばん雄弁な話し手だった。

 そうしているうちに、いつの間にか時間がたって、窓の外に夕やみが迫って来た。蕗屋はふとそれに気づくと、帰りじたくを始めながらいった。

「では、もう失礼しますが、別にご用はないでしょうか」

「おお、すっかり忘れてしまうところだった」明智が快活にいった。 「なあに、どうでもいいようなことですがね。ちょうどついでだから……ご承知かどうですか、あの殺人のあった部屋に、二枚折りの金ビョウブが立ててあったのですが、それにちょっと傷がついていたといって問題になっているのですよ。というのは、そのビョウブはばあさんのものではなく、貸金の抵当に預かってあった品で、持ち主のほうでは、殺人の際についた傷に相違ないから弁償しろというし、ばあさんのオイは、これがまたばあさんに似たけちんぼうでね、元からあった傷かもしれないといって、なかなか応じないのです。実際つまらない問題で、閉口してるんです。もっとも、そのビョウブはかなり値うちのある品物らしいのですけれど。ところで、あなたはよくあの家へ出入りされたのですから、そのビョウブもたぶんご存じでしょうが、以前に傷があったかどうか、ひょつとご記憶じゃないでしょうか。どうでしょう。ビョウブなんか別に注意しなかったでしょうね。実は、斎藤にも聞いてみたんですが、先生興奮しきっていて、よくわからないのです。それに、女中は国へ帰ってしまって、手紙で聞き合わせても要領を得ないし、ちょっと困っているのですが......」

 ビョウブが抵当物だったことはほんとうだが、そのほかの点は、むろん作り話にすぎなかった。蕗屋はビョウブということばに、思わずヒヤッとした。しかし、よく聞いてみるとなんでもないことなので、すっかり安心した。

「何をビクビクしているのだ。事件はもう落着してしまったのじゃないか」彼はどんなふうに答えてやろうかと、ちょっと思案したが、例によって、ありのままにやるのがいちばんいい方法のように考えられた。

「判事さんはよくご承知ですが、ぼくはあの部屋へはいったのはたった一度きりなんです。それも、事件の二日前にね」彼はニヤニヤ笑いながらいった。こうした言い方をするのが愉快でたまらないのだ。 「しかし、そのビョウブなら覚えてますよ。ぼくの見た時には確か傷なんかありませんでした」

「そうですか。まちがいないでしょうね。あの小野の小町の顔のところに、ほんのちょっとした傷があるだけなんですが」

「そうそう、思い出しましたよ」蕗屋はいかにも今思い出したふうを装って言った。「あれは六歌仙の絵でしたね。小野の小町も覚えてますよ。しかし、もレその傷がついていたとすれば、見落としたはずがありません。だって、極彩色の小野の小町の顔に傷があれば、一目でわかりますからね」

「じゃ、ご迷惑でも、証言をしていただくわけにはいきませんかしら。ビョウブの持ち主というのが実に欲の深いやつで、始末にいけないのですよ」

「ええ、よござんすとも、いつでもごつこうのいい時に」

 蕗屋はいささか得意になって、弁護士と信ずる男の頼みを承諾した.

「ありがとう」
 明智はモジャモジャと伸ばした頭を指でかきまわしながら、うれしそうにいった。これは彼が多少興奮した際にやる一種の癖なのだ。
「実は、ぼくは最初から、あなたがビョウブのことを知っておられるに相違ないと思ったのですよ。というのはね、このきのうの心理試験の記録の中で、『絵』という問いに対して、あなたは『ビョウブ』という特別の答え方をしていますね。これですよ。下宿屋にはあんまりビョウブなんて備えてありませんし、あなたは斎藤のほかには別段親しいお友だちもないようですから、これはさしずめ老婆の座敷のピョウブが、何かの理由で、特別に深い印象になって残っていたのだろう、と想像したのですよ」

 蕗屋はちょっと驚いた。それは確かにこの弁護士のいうとおりに相違なかった。でも、彼はきのう、どうしてピョウブなんて口走ったのだろう。そして、不思議にも、今までまるでそれに気づかないとは。これは危険じゃないかな。しかし、どういう点が危険なのだろう。あの時彼は、その傷跡をよくしらべて、何の手がかりにもならぬことを確かめておいたではないか。なあに、平気だ、平気だ。彼は一応考えてみて、やっと安心した。ところが、ほんとうは、彼は明白すぎるほど明白な大まちがいをやっていたことを、少しも気がつかなかったのだ。

「なるほど。ぼくはちっとも気づきませんでしたけれど、確かにおっしゃるとおりですよ。なかなか鋭いご観察ですね」

 蕗屋はあくまで、無技巧主義を忘れないで、平然として答えた。

「なあに、偶然気づいたのですよ」弁護士を装った明智が謙遜《けんそん》した。 「だが、気づいたといえば、実はもう一つあるのですが、いや、いや、決してご心配なさるようなことじゃありません。きのうの連想試験の中には、八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなたはそれを実に完全に、パスしましたね。実際完全すぎたほどですよ。少しでも後ろ暗いところがあれば、こうは行きませんからね。その八つの単語というのは、ここに丸が打ってあるでしょう。これですよ」といって明智は記録の紙片を示した。 「ところが、あなたのこれらに対する反応時間は、ほかの無意味なことばよりも、皆ほんのわずかずつではありますけれど、早くなってますね。たとえば『植木バチ』に対して『松』と答えるのに、たつた○・六秒しかかかってない。これは珍しいむじゃきさですよ。この三十個の単語の内で、いちばん連想しやすいのは、まず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ○・七秒かかってますからね」

 蕗屋は非常な不安を感じ始めた。この弁護士は、いったい何のためにこんな饒舌《じようぜつ》をろうしているのだろう。好意でか、それとも悪意でか、何か深い下心があるのじゃないかしら。彼は全力を傾けて、その意味を悟ろうとした。

「『植木バチ』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、そのほか、問題の八つの単語は、皆、決して『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものより、連想しやすいとは考えられません。それにもかかわらず、あなたは、そのむずかしい連想のほうを、かえって早く答えているのです。これはどういう意味でしょう。ぼくが気づいた点というのはここですよ。ひとつ、あなたの心持ちを当ててみましょうか。エ、どうです。何も一興ですからね。しかし、もしまちがっていたら、ごめんくださいよ」

 蕗屋はブルッと身ぶるいした。しかし、何がそうさせたかは、彼自身にもわからなかった。

「あなたは、心理試験の危険なことをよく知っていて、あらかじめ準備していたのでしょう。犯罪に関係のあることばについて、ああ言えばこうと、ちゃんと腹案ができていたんでしょう。いや、ぼくは決して、あなたのやり方を非難するのではありませんよ。実際、心理試験というやつは、場合によっては非常に危険なものですからね。有罪者を逸して無辜《むこ》のものを罪におとしいれることがないとは断言できないのですからね。ところが、準備があまり行き届きすぎていて、もちろん、別に早く答えるつもりはなかったのでしょうけれど、そのことばだけが早くなってしまったのです。これは確かにたいへんな失敗でしたね。あなたは、ただもう遅れることばかり心配して、それが早すぎるのも同じように危険だということを、少しも気づかなかったのです。もつとも、この時間の差は非常にわずかずつですから、よほど注意深い観察者でないと、うっかり見のがしてしまいますがね。ともかく、こしらえごとというものは、どっかに破綻《はたん》があるものですよL明智の蕗屋を疑った論拠は、ただこの一点にあったのだ。 「しかし、あなたはなぜ『金』だどか『人殺し』だとか『隠す』だとか、嫌疑を受けやすいことばを選んで答えたのでしょう。いうまでもない。そこがそれ、あなたのむじゃきなところですよ。もしあなたが犯人だったら、決して『油紙』と問われて『隠す』などとは答えませんからね。そんな危険なことばを平気で答えうるのは、なんらやましいところのない証拠ですよ。ね、そうでしょう。ぼくのいうとおりでしょう」

 蕗屋は話し手の目をじつと見っめていた。どういうわけか、そらすことができないのだ。そして、鼻から口の辺にかけて筋肉が硬直《こうちょく》して、笑うことも、泣くことも、驚くことも、いっさいの表情が不可能になったような気がした。むろん口はきけなかった。もし無理の口をきこうとすれば、それはただちに、恐怖の叫び声になったに相違ない。

「このむじゃきなこと、つまり小細工をろうしないということが、あなたのいちじるしい特徴ですよ。ほくはそれを知ったものだから、あのような質問をしたのです。エ、おわかりになりませんか。例のビョウブのことです。ぼくは、あなたがむろん、むじゃきに、ありのままにお答えくださることを信じて疑わなかったのですよ。実際そのとおりでしたがね。ところで、笠森さんに伺いますが、問題の六歌仙のビョウブは、いつあの老婆の家に持ち込まれたのですかしら」

 明智はとぼけた顔をして、判事に尋ねた。

「犯罪事件の前日ですよ。つまり、先月の四日です」

「エ、前日ですって。それはほんとうですか。妙じゃありませんか、今蕗屋君は、事件の前々目、すなわち三日に、それをあの部屋で見たと、ハッキリ言っているじゃありませんか。どうも不合理ですね。あなたがたのどちらかが、まちがっていないとしたら」

「蕗屋君は何か思い違いをしているのでしょう」判事がニヤニヤ笑いながらいった。「四日の夕方までは、あのピョウブが、そのほんとうの持ち主のところにあったことは、明白にわかっているのです」

 明智は深い興昧をもって、蕗屋の表情を観察した。それは、今にも泣きだそうとする小娘の顔のように、変なふうにくずれかけていた。これが明智の最初から計画したワナだった。彼は事件の二日前には、老婆の家にビョウブのなかったことを、判事から聞いて知っていたのだ。

「どうも困ったことになりましたね」明智はさも困ったような声音《こわね》でいった。 「これはもう、取り返しのつかぬ大失策ですよ。なぜあなたは、見もしないものを見たなどというのです。あなたは事件の二日前から、一度もあの家へ行っていないはずじゃありませんか。ことに、六歌仙の絵を覚えていたのは致命傷ですよ.おそらくあなたは、ほんとうのことを言おう、ほんとうのことを言おうとして、ついうそをついてしまったのでしょう。ね、そうでしょう。あなたは事件の二日前にあの座敷へはいった時、そこにビョウブがあるかないかというようなことを注意したでしょうか。むろん注意しなかったでしょう。実際それは、あなたの計画にはなんの関係もなかったのですし、もしビョウブがあったとしても、あれはご承知のとおり時代のついたくすんだ色合いで、ほかのいろいろの道具の中で、ことさら目立っていたわけでもありませんからね。で、あなたが今、事件の当目そこで見たビョウブが、二日前にも同じようにそこにあっただろうと考えたのは、ごく自然ですよ。それに、ぼくはそう思わせるような方法で問いかけたのですものね。これは一種の錯覚みたいなものですが、よく考えてみると、われわれには日常ザラにあることです。しかし、もし普通の犯罪者だったら、決してあなたのようには答えなかったでしょう。彼らは、なんでもかんでも、隠しさえすればいいと思っているのですからね。ところが、ぼくにとって好つこうだったのは、あなたが世間並みの裁判官や犯罪者より、十倍も二十倍も進んだ頭を持っていられたことです。つまり、急所にふれないかぎりは、できるだけあからさまにしゃべってしまうほうが、かえって安全だという信念を持っていられたことです。裏の裏を行くやり方ですね。そこで、ぼくはさらにその裏を行ってみたのですよ。まさか、あなたはこの事件に何の関係もない弁護士が、あなたを白状させるために、ワナを作っていようとは想像しなかったでしょうね。ハハハハ」

 蕗屋はまっさおになった顔の、額のところにビッショリ汗を浮かせて、じつと黙り込んでいた。彼はもうこうなったら、弁明すればするだけボロを出すばかりだ、と思った。彼は頭がいいだけに、自分の失言がどんなに雄弁な自白だったかということを、よくわきまえていた。彼の頭の中には、妙なことだが、子どもの時分からのさまざまのできごとが、走馬灯のように、めまぐるしく現われては消えた。長い沈黙が続いた。

「聞こえますか」明智がしばらくして、こう言った。「そら、サラサラ、サラサラという音がしているでしょう。あれはね、さっきから、隣りの部屋で、ほくたちの問答を書きとめているのですよ。……きみ、もうよござんすから、それをここへ持って来てくれませんか」

 すると、フスマが開いて、ひとりの書生|体《てい》の男が手に洋紙の束を持って出て来た。

「それを一度読み上げてください」

 明智の命令にしたがって、その男は最初から朗読した。

「では、蕗屋君、これに署名して、拇印《ぼいん》でけっこうですから、押してくれませんか。きみはまさか、いやだとは言いますまいね。だって、さっき、ビョウブのことはいつでも証言してやると約束したばかりじゃありませんか。もつとも、こんなふうな証言だろうとは、想像しなかったかもしれないけれど」

 蕗屋は、ここで署名を拒んだところで、なんのかいもないことを、じゅうぶん知っていた。彼は明智の驚くべき推理をもあわせて承認する意昧で、署名|捺印《なついん》した。そして、今はもうすっかりあきらめ果てた人のように、うなだれていた。

「先にも申し上げたとおり」明智は最後に説明した。「ミユンスターベルとは、心理試験の真の効能は、嫌疑《けんぎ》者が、ある場所、人または物について、知っているかどうかをためす場合にかぎって、確定的だといっています。今度の事件でいえば、蕗屋君がビョウブを見たかどうかという点が、それなんです。この点をほかにしては、百の心理試験も、おそらくむだでしょう。なにしろ、相手が蕗屋君のような、何もかも予想して、綿密な準備をしている男なのですからね。それから、もう一つ申し上げたいのは、心理試験というものは、必ずしも、書物に書いてあるとおり、一定の刺激語を使い、一定の機械を用意しなければできないものではなくて、今ぼくが実験してお目にかけたとおり、ごく日常的な会話によってでも、じゅうぶんやれるということです。昔からの名判官は、たとえば大岡越前守というような人は、皆自分でも気づかないで、最近の心理学が発明した方法を、ちゃんと応用していたのですよ」
                               (『新青年』大正十四年二月号)
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