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江戸川乱歩「何者」


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奇妙な盗賊

「この話は、あなたが小説にお書きなさるのが当然です。ぜひ書いてください」

 ある人がわたしにその話をしたあとで、こんなことをいった。四、五年以前のできごとだけれど、事件の主人公が現存していたので、はばかって話さなかった。その人が最近病死したのだということであった。

 わたしはそれを聞いて、なるほど、当然わたしが書く材料だ、と思った。なにが当然だかは、ここに説明せずとも、この小説を終わりまで読めば、自然にわかることである。

 以下「わたし」とあるのは、この話をわたしに聞かせてくれた「ある人」をさすわけである。

 ある夏のこと、わたしは甲田伸太郎《こうだしんたろう》という友人にさそわれて、甲田ほどは親しくなかったけれど、やはりわたしの友だちである結城弘《ゆうきひろかず》一の家に、半月ばかり逗留《とうりゆう》したことがある。そのあいだのできごとなのだ。

 弘一君は陸軍省軍務局に重要な地位をしめている、結城少将のむすごで、父の屋敷が鎌倉《かまくら》の少し呵こうの海近くにあって、夏休みをすごすにはもってこいの場所だったからである。

 三人はその年大学を出たばかりの同窓であった。結城君は英文科、わたしと甲田君とは経済科であったが、高等学校時代同じへやに寝たことがあるので、科は違っても、非常に親しい遊び仲間であった。

 わたしたちには、いよいよのんきな学生生活にお別れの夏であった。甲田君は九月から東京のある商事会社へ勤めることになっていたし、弘一君とわたしとは兵隊にとられて、年末には入営である。いずれにしても、わたしたちは来年からはこんな自由な気持ちの夏休みをふたたび味わえぬ身のうえであった。そこで、この夏こそは心残りのないように、じゅうぶん遊び暮らそうというので、弘一君のさそいに応じたのである。

 弘一君はひとりむすこなので、広い屋敷をわがもの顔に、ぜいたくざんまいに暮らしていた。おやじは陸軍少将だけれど、先祖がある大名の重臣だったので、かれの家はなかなかのお金持ちである。したがって、お客様のわたしたちも、いごこちが悪くなかった。そこへもってきて、結城家には、わたしたちの遊び友だちになってくれるひとりの美しい女性がいた。志摩子《しまこ》さんといって、弘一君のいとこで、ずっと以前に両親を失ってかぢ、少将邸に引き取られて育てられた人だ。女学校をすませて、当時は音楽のけいこに熱中していた。バイオリンはちょっと聞けるくらいひけた。

 わたしたちは、天気さえよければ海岸で遊んだ。結城邸は由比ガ浜《ゆい はま》と片瀬《かたせ》との中間ぐらいのところにあったが、わたしたちは、多くは、はでな由此ガ浜をえらんだ。海には、わたしたち四人のほかに、たくさん男女の友だちがあったので、あきることがなかった。紅白碁盤じまのなみより大きいビーチ・パラソルの下で、わたしたちは志摩子さんやそのお友だちの娘さんたちと、まっ黒な肩をならべてキヤッキヤッと笑い興じた。

 わたしたちは、また、海にあきると、結城邸の池でコイつりをやった。その大きな池には、少将の道楽で、つりぼりみたいに、たくさんコイが放ってあったので、しろうとにもよくつれた。わたしたちは将軍に、つりのこつをおそわったりした。

 実に自由で、明るくて、のびやかな日々であった。だが、不幸という魔物は、どんな明るいところへでも、明るければ明るいほど、それをねたんで、とっぴょうしもなくやってくるものである。

 ある日少将邸に、ときならぬ銃声が響いた。この物語は、その銃声を合い図に、幕があくのである。

 ある晩、主人の少将の誕生祝《たんじよういわ》いだというので、知人を呼んでごちそうがあった。甲田君とわたしも、そのおしょうばんをした。

 おもやの二階の十五、六畳も敷ける日本間が、その席にあてられた。主客一同ゆかたがけの気のおけぬ宴会であった。酔った結城氏が柄になく義太夫《ぎだゆう》のさわりをうなったり、志摩子さんが一同に懇望《こんもう》されて、バイオリンをひいたりした。

 宴は別状なく終わって、十時ごろには客はたいてい帰ってしまい、主人側の人たちと二、三の客が、夏の夜の興を惜しんで座に残っていた。結城氏、同夫人、弘一君、志摩子さん、わたしのほかに、退役将校の北川という老人、志摩子さんの友だちの琴野《ことの》さんという娘の七人であった。

 主人少将は北川老人と碁をかこみ、ほかの人人は志摩子さんをせびって、またバイオリンをひかせていた。

「さあ、ぼくはまたこれから仕事だ」

 バイオリンの切れめに、弘一君がわたしにそうことわって座を立った。仕事というのは、当時かれはある地方新聞の小説を引き受けていて、毎晩十時になると、それを書くために、別むねの洋館の父少将の書斎へこもる例になっていたのだ。かれは在学中は東京に一軒家を借りて住んでいて、中学時代の書斎は、現在では志摩子さんが使っているので、まだ本宅には書斎がないのである。

 階段をおりて、廊下を通って、弘一君が洋館旧についたと思われる時分、突然何かをたたきつけるような物音が、わたしたちをビクッとさせた。あとで考えると、それが問題のピストルの音だったのである。

「何だろう」

 と思っているところへ、洋館のほうからけたたましいさけび声が聞こえてきた。

「だれか来てください。大変です。弘一君が大変です」

 先ほどから座にいなかった甲田伸太郎君の声であった。

 そのとき一座の人々が、だれがどんな表情をしたか記憶がない。一同総立ちになって、はしごだんのところへ殺到した。

 洋館へ行ってみると、少将の書斎の中に(のちに見取り図を掲げる)弘一君が血に染まって倒れ、そのそばに甲田君が青い顔をして立っていた。

「どうしたんだ」

 父将軍が不必要に大きな、まるで号令をかけるような声でどなった。

「あすこから、あすこから」

 甲田君が、激動のために口もきけないというふうで、庭に面した南側のガラス窓を指さした。

 見るとガラス戸はいっぱいに開かれ、ガラスの一部にポッカリと不規則な円形の穴があいている。何者かが、外部からガラスを切ってとめ金をはずし、窓をあけてしのび込んだのであろう。現にジュウタンの上に、点々《てんてん》と無気昧などろ足のあとがついている。

 母夫人は倒れている弘一君にはせより、わたしは開いた窓のところへかけつけた。だが、窓の外には何者の影もなかった。むろん、くせ者がその時分まで、ぐずぐずしているはずはないのだ。

 その同じ瞬間に、父少将は、どうしたかというと、かれは不思議なことに、むすこの傷を見ようともせず、まず第一に、へやのすみにあった小金庫の前へ飛んで行って、文字盤を合わせてとびらを開き、その中をしらべたのである。これを見て、わたしは妙に思った。この家に金庫があるさえ心得ぬに、手負《てお》いのむすごをほっておいて、まず財産をしらべるなんて、軍人にもあるまじきしぐさである。

 やがて、少将のいいつけで、書生が警察と病院へ電話をかけた。

 母夫人は、気を失った結城君のからだにすがって、オロオロ声で名を呼んでいた。わたしはハンカチを出して、出血を止めるために、弘一君の足をしばってやった。弾丸が足首をむごたらしく射ぬいていたのだ。志摩子さんは気をきかして、台所からコップに水を入れて持って来た。だが、妙なことには、彼女は夫人のようには悲しんでいない。珍事に驚いているばかりだ。どこやら冷淡なふうが見える。彼女はいずれ弘一君と結婚するのだと思いこんでいたわたしは、それがなんとなく不思議に思われた。

 しかし、不思議といえば、金庫をしらべた少将や、妙に冷淡な志摩子さんより、もっともっと不思議なことがあった。

 それは結城家の下男の、常さんという老人のそぶりである。かれも騒ぎを聞いて、われわれより少しおくれて書斎へかけつけたのだが、はいって来るなり、何を思ったのか、弘一君のまわりを囲んでいたわたしたちのうしろを、例の開いた窓のほうへ走っていって、その窓ぎわへベチャンとすわってしまった。騒ぎのさいちゅうでだれも老僕の挙動など注意していなかったけれど、わたしはふとそれを見て、おやじ気でも違ったのではないか、と驚いた。かれはそうして、一同のたち騒ぐのをキョロキョロ見回しながら、いつまでも行儀よくすわっていた。腰が抜けたわけでもあるまいに。

 そうこうするうちに、医者がやって来る。まもなく鎌倉の敬言察署から、司法主任の波多野《はたの》警部が部下を連れて到着した。

 弘一君は母夫人と志摩子さんがつきそって、担架で鎌倉外科病院へはこばれた。その時分には意識を取りもどしていたけれど、気の弱いかれは、苦痛と恐怖のために、赤ん坊みたいに顔をしかめ、ポロポロと涙をこぼして、半狂乱の体《てい》で泣きわめいていたので、波多野警部が賊の風体《ふうてい》をたずねても、むろん返事なぞできなかった。かれの傷は命にかかわるほどではなかったけれど、足首の骨をグチャグチャにくだいた、なかなかの重傷であった。

 取りしらべの結果、この凶行は盗賊のしわざであることが明らかになった。賊は裏庭から忍び込んで、品物を盗み集めているところへ、ヒョッコリ弘一君がはいって行ったので(たぶん賊を追いかけたのであろう。倒れていた位置が入り口ではなかった)恐怖のあまり、所持のピストルを発射したものに相違なかった。

 大きな事務デスクのひきだしが残らず引き出され、中の書類などが、そこいら一面に散乱していた。だが、少将のことばによれば、ひきだしの中には別段たいせつなものは入れてなかった。

 同じデスクの上に、少将の大型の札入《さつい》れが投げ出してあった。不思議なことに、中にはかなりの額の紙幣がはいっていたのだが、それには少しも手をつけたあとがない。では、何が盗まれたかというと、実に奇妙な盗賊である。まず、デスクの上に(しかも、札入れのすぐそばに)置いてあった、小型の金製置きどけい、それから同じ机の上の、金の万年ペン、金側懐中どけい(金鎖とも)、いちばん金目《かねめ》なのは、室の中央の丸テープルの上にあった、金製のタバコ・セット(タバコ入れと灰ザラだけで、盆は残っていた。盆は赤銅製《しやくどうせい》である)の品女であった。これが盗難品の全部なのだ。いくらしらべてみても、ほかになくなった品はない。金庫の中も別状はなかった。

 つまり、この賊はほかのものには見向きもせず、書斎にあっだことごとくの金製品を奪い去ったのである。

「気違いかもしれませんな。黄金収集狂とでもいう」

 波多野警部が妙な顔をしていった。

   消えた足跡

 実に変などろぼうであった。紙幣在中の札入れをそのままにしておいて、それほどの値うちもない万年筆や懐中どけいに執着したという、賊の気持ちが理解できなかった。

 警部は少将に、それらの金製品のうち、高価というほかに、何か特別の値うちをもったものはなかったか、と尋ねた。

 だが、少将は、別にそういう心あたりもない、と答えた。ただ、金製万年筆は、かれがある師団の連隊長を勤めていたころ、同じ隊にぞくしていられた高貴のおかたから拝領したもので、少将にとっては金銭に替えがたい値うちがあったのと、金製置きどけいは、二寸四方くらいの小さなものだけれど、洋行記念に親しくパリで買って帰ったので、あんな精巧な機械は二度と手にはいらぬと、惜しまれるくらいのことであった。両方とも、どろぼうにとって、別段の値うちがあろうとも思われぬ。

 さて、波多野警部は室内から屋外へと、順序をおって、綿密な現場調査にとりかかった。かれが現場へ来着したのは、ピストルが発射されてから二十分もたっていたので、あわてて賊のあとを追うような愚はしなかった。

 あとでわかったことだが、この司法主任は、犯罪捜査学の信者で、科学的綿密ということを最上のモットーとしている、ふうがわりな警官であった。かれがまだ片いなかの平刑事であった時分、地上にこぼれていた一滴の血痕《けつこん》を、検事や上官が来着するまで完全に保存するために、その上におわんをふせて、おわんのまわりの地面を、ひと晩じゅう棒切れでたたいていた、というひとつ話さえあった。かれはそうして、血痕《けつこん》をミミズがたべてしまうのをふせいでいたのである。

 こんなふうな綿密周到によって地位を作った人だけに、かれの取り調べには毛筋ほどのすぎもなく、検事でも予審判事でも、かれの報告とあれば、全然信用がおけるのであった。

 ところが、その綿密警部の綿密周到な捜査にもかかわらず、室内には、一本の毛髪さえも発見されなかった。このうえは、ガラス窓の指紋と、屋外の足跡とが唯一の頼みである。

 窓ガラスは最初想像したとおり、掛けがねをはずすために、賊がガラス切りと吸盤とを使って、丸く切り抜いたものであった。指紋のほうはその係りのものが来るのを待つことにして、警部は用意の懐中電灯で窓の外の地面を照らしてみた。

 さいわいにも、雨上がりだったので、窓の外にはハッキリ足跡が残っていた。労働者などのはくクツタビの跡で、ゴム裏の模様が型で押したように浮き出している。それが裏の土塀《どべい》のところまで二列に続いているのは、賊の往復したあとだ。

「女みたいに、うちわに歩くやつだな」

 警部のひとりごとに気づくと、なるほど、その足跡はみなつま先のほうが、かかとよりもうちわになっている。ガニまたの男には、こんなうちわの足癖がよくあるものだ。

 そこで、警部は部下にクツを持ってこさせて、それをはくと、無作法ながら窓をまたいで外の地面に降り、懐中電灯をたよりに、クツタビのあとをたどっていった。

 それを見ると、人一倍好奇心の強いわたしは、じゃまになるとは知りながら、もうじっとしてはいられず、いきなり日本座敷の縁側から回って、警部のあとを追ったものである。むろん、賊の足跡を見るためだ。

 ところが、行ってみると、足跡検分のじゃま者はわたしひとりでないことがわかった。もうちゃんと先客がある。やはり誕生祝いに呼ばれていた赤井さんであった。いつの間に出て来たのか、実にすばしこい人だ。

 赤井さんがどういう素性の人だか、結城家とどんな関係があるのか、わたしは何も知らなかった。弘一君さえハッキリしたことは知らぬらしい。二十七、八の、頭の毛をモジャモジャさせたやせ形の男で、非常に無口なくせに、いつもニヤニヤと微笑を浮かべているえたいの知れぬ人物であった。

 かれはよく結城家へ碁をうちに来た。そして、いつも夜ふかしをして、ちょいちょい泊まり込んで行くこともあった。

 少将はかれをあるクラブで見つけた碁のほうの好敵手だといっていた。その晩は招かれて宴会の席に列したのだが、事件の起こったときには、二階の大広間には見えなかった。どこか下座敷にでもいたのであろう。

 だが、わたしはある偶然のことから、この人が探偵好きであることを知っていた。わたしが結城家に泊まり込んだ二日めであったか、赤井さんと弘一君とが、今度事件の起こった書斎で話しているところへ行き合わせた。赤井さんは、その少将の書斎に持ち込んであった弘一君の本ダナを見て、何かいっていた。弘一君は大の探偵好きであったから(それは、この事件で、のちに被害者のかれ自身が探偵の役目を勤めたほどである)そこには犯罪学や探偵談の書物がたくさん並んでいるのだ。

 かれらは内外の名探偵について、論じあっているらしかった。ヴィドック以来の実際の探偵や、デュパン以来の小説上の探偵が話題に上った。また、弘一君はそこにあった『明智小五郎探偵談』という書物を指さして、この男はいやに理屈っぽいばかりだ、とけなした。赤井さんもしきりに同感していた。かれらはいずれおとらぬ探偵通で、そのほうでは非常に話が合うらしかった。

 そういう赤井さんが、この犯罪事件に興味をもち、わたしの先《せん》を越して、足跡を見に来たのは、まことに無理もないことである。

 余談はさておき、波多野司法主任は、

「足跡をふまぬように気をつけてください」

 と、ふたりのじゃま者に注意をしながら、無言で足跡を調べていった。賊が低い土塀《どべい》を乗り越えて逃げたらしいことがわかると、土塀の外を調べる前に、一度洋館のほうへ引き返して、何か邸内の人に頼んでいる様子だったが、まもなく炊事用のスリバチをかかえて来て、もっともハッキリした一つの足跡の上にそれをふせた。あとで型をとるときまで、原型をくずさぬ用心である。

 やたらにふせたがる探偵だ。

 それから、わたしたち三人は裏木戸をあけて、塀《へい》の外に回ったが、そのあたり一帯だれかの屋敷跡のあき地で、人通りなぞないものだから、まぎらわしい足跡もなく、賊のそれだけが、どこまでもハッキリとわかった。

 ところが、懐中電灯を振りふり、あぎ地を半丁ほども進んだときである。波多野氏は突然立ち止まって、当惑したようにさけんだ。

「おやおや、犯人は井戸の中へ飛び込んだのかしら」

 わたしは警部のとっぴなことばに、あっけにとられたが、よく調べてみると、なるほど、かれのいうのがもっともであった。足跡はあき地のまんなかの一つの古井戸のそばで終わっている。出発点もそこだ。いくら電灯で照らしてみても、井戸のまわり五、六間のあいだ、ほかに一つの足跡もない。しかも、そのへんは、決して足跡のつかぬような堅い土ではないのだ。また、足跡を隠すほどの草もはえてはいない。

 それは、しっくいの丸い井戸側が、ほとんどかけてしまって、なんとなく無気味な古井戸であった。電灯の光で中をのぞいて見ると、ひどくひびわれたしっくいが、ずっと下のほうまで続いていて、その底ににぶく光って見えるのは腐り水であろう。ブヨブヨと|物の怪《もの け》でも泳いでいそうな感じがした。

 賊が井戸から現われて、また井戸の中へ消えたなどとは、いかにも信じがたいことであった。お菊の幽霊ではあるまいし。だが、かれがそこから風船にでも乗って天上しなかったかぎり、この足跡は賊が井戸の中へはいったとしか解釈できないものである。

 さすがの科学探偵波多野警部も、ここでハタと行きづまったていに見えた。かれは入念にも、部下の刑事に竹ざおを持って来させて、井戸の中をかぎ回してみたが、むろん、なんの手ごたえもなかった。といって、井戸側のしっくいに仕かけがあって、地下に抜け穴が通じているなどは、あまりに荒唐無稽《とうとうむけい》な想像である。

「こう暗くては、こまかいことがわからん。あすの朝、もういちど調べてみるとしよう」

 波多野氏はブツブツとひとりごとをいいながら、屋敷のほうへ引き返した。

 それから、裁判所の一行の来着を待つ間に、勤勉な波多野氏は、屋敷内の人々の陳述を聞きとり、現場の見取り図を作製した。便宜上、見取り図のほうから説明すると、

A 少将書斎
B 志摩子書斎
C この付近に台所あり
D 来た足跡
E 帰った足跡
F 樹木
☆へいと井戸の間、図では近いけれども約半丁あり

おもや
土ベい


 かれは用意周到に、いつも携帯している巻尺を取り出して、負傷者の倒れていた地位(それは血痕などでわかった)、足跡の歩幅、来るときと帰るときの足跡の間隔、洋館の間取り、窓の位置、庭の樹木や池や塀《へい》の位置などを、不必要だと思われるほど入念《にゆうねん》にはかって、手帳にその見取り図を書きつけた。

 だが、警部のこの努力は、決してむだではなかった。しろうと考えに不必要だと思われたことも、あとにははなはだ必要であったことがわかった。

 当時の警部の見取り図をまねて、読者諸君のために、ここにそれを掲げておく。これは事件が解決したあとで、結果から割り出してわたしが作った図であるから、警部のほど正確ではないが、そのかわり、事件解決に重大な関係のあった点は、まちがいなく、むしろいくぶん誇張して現わしてある。

 のちに至ってわかることだが、この図面は、犯罪事件について、存外いろいろなことを物語っているのである。ごく卑近な一例を上げると、賊の往復の足跡の図だ。それはかれが女のようにうちわであったことをしめすばかりではない。Dのほうは歩幅がせまく、Eのほうはその倍も広くなっているが、これはDは来るときのオズオズした足取りを意味し、Eはピストルをうって、いちもくさんに逃げ去るときのあわただしい足取りを現わすものである。つまり、Dが往、Eが復の足跡であることがわかる。(波多野氏はこの両方の歩幅を精密にはかり、賊の身長計算の基礎として、その数字を書きとめたが、ここではあまりくだくだしくなるから省いておく)

 だが、これは一例にすぎないのだ。この足跡の図には、もっと別の意味がある。また、負傷者の位置.その他二、三の点について、のちに重大な意味を生じてくる部分がある。わたしは順序を追って話すために、ここではその点に言及《げんきゆう》しないが、読者諸君は、よくよくこの図を記憶にとめておいていただぎたい。

 つぎに、屋敷内の人々の取り調べについて一言すると、第一に質問を受けたのは、凶行の最初の目撃者甲田伸太郎君であった。

 かれは弘一君よりも二十分ばかり前に、おもやの二階をおりて、階下の手洗い所にはいり、用をすませてからも玄関に出て、酒にほてったほおをひやしていたが、もう一度二階の宴席へもどるために廊下を引き返して来ると(突然の銃声に続いて弘一君のうめき声が聞こえた。

 いきなり洋館にかけつけると、書斎のドアは半開きになって、中は電灯もつかずまっくらだった。かれがそこまで陳述してきたとき、警部は、

「電灯がついてなかったのですね」

 と、なぜか念を押して聞き返した。

「ええ、弘一君はたぶんスイッチを押す間がなかったのでしょう」

 甲田君が答えた。

「わたしは書斎へかけつけると、まず壁のスイッチを押して電灯をつけました。すると、へやのまん中に弘一君が血に染まって気を失って倒れていたのです。わたしはすぐ、おもやのほうへ走っていって、大声で家の人を呼びたてました」

「そのとき、きみは賊の姿を見なかったのですね」

 警部が最初に聞きとったことを、もういちどたずねた。

「見ませんでした。もう窓の外へ出てしまっていたのでしょう。窓の外はまっくらですから…...」

「そのほかに、何か変わったことはなかったですか。ほんのささいなことでも」

「ええ、別に……ああ、そうそう、つまらないことですけれど、わたしがかけつけたとき、書斎の中からネコが飛び出して来て、びっくりしたのをおぼえています。久松のやつが鉄砲玉のように飛びだして来ました」

「久松ってネコの名ですか」

「ええ、ここの家のネコです。志摩子さんの愛猫《あいびよう》です」

 警部はそれを聞いて変な顔をした。ここに暗い中でもハッキリと賊の顔を見たものがあるのだ。だが、ネコはものをいうことができない。

 それから結城家の人々(召使いもい)、赤井さん、わたし、そのほか来客一同が質問を受けたが、だれも別段変わった答えをしなかった。病院へつき添って行って、その場に居合わせなかった夫人と志摩子さんは、翌日取り調べを受けたが、そのときの志摩子さんの返事が少し変わっていたのを、あとで伝聞したので、ついでにここにしるしておく。

 警部の「どんなささいなことでも」という例の調子にさそわれて、彼女は次のようなことを申し述べた。

「わたしの思い違いかもしれませんけれど、わたしの書斎へも、だれかはいった者があるらしいのでございます」

 前回の図面にしるしたとおり、彼女の書斎は問題の少将の書斎の隣室である。

「別に、なくなったものはございませんが、わたしの机のひきだしを、だれかあけたものがあるのです。きのうの夕方たしかにそこへ入れておいたわたしの日記帳が、けさ見ますと、机の上にひろげたまま、乱暴にほうり出してありました。ひきだしも開いたままなんです。家の人は、女中でもだれでも、わたしのひきだしなんか、あけるようなものはございませんのに、なんだか変だと存じましたので。……でも、つまらないことですわ」

 警部はこの志摩子さんの話を、そのまま聞き流してしまったが、あとで考えると、この日記帳の一件にも、なかなか意味があったのである。

 話は元にもどる。それからしばらくして、やっと裁判所の一行がやって来た。また、専門家が来て、指紋をしらべたりした。しかし、その結果は、波多野警部のしらべあげた以上の収穫は何もなかった。問題の窓ガラスは布でふきとった形跡があり、指紋は一つも出なかった。窓外の地上に落ち散っていたガラスの破片にさえ、一つの指紋もなかった。この一事をもってしても、賊がなみたいていのやつでないことがわかるのだ。

 最後に、警部は部下に命じて、さっきスリバチでふせておいた足跡の型をとらせ、たいせつそうに警察署へ持ち帰った。

 騒ぎがすんで、一同ともかくも床についたのは二時ごろであった。わたしは甲田君と床をならべて寝たが、両人とも興奮のため寝っかれず、ほとんど一晩じゅう寝返りばかりうっていた。そのくせ、わたしたちは、なぜか事件についてはひと言も話をしなかった。

   金ピカの赤井さん

 翌朝、寝坊なわたしが五時に床を出た。例の不可解な足跡を朝の光で見直そうというのだ。わたしもなかなかの猟奇者《りようぎしや》であった。

 甲田君はよく眠っていたので、なるべく音をたてぬように、縁側の雨戸をあけ、庭ゲタで洋館の外へ回っていった。

 ところが、驚いたことには、またしてもわたしの先客がいる。やっぱり赤井さんである。いつもわたしの先へ先へと回る男だ。しかし、かれは足跡を見てはいなかった。なんだか知らぬが、もっとほかのものを見ている。

 かれは洋館の南側(足跡のついていた側)の西のはずれに立って、建物に身をかくして、首だけで西側の北よりの方角をのぞいているのだ。そんなところに何があるのだろう。その方角には、洋館のうしろがわにおもやの台所口があって、その前に、常じいさんがなぐさみに作っている花壇があるばかりだ。別に美しい花が咲いているわけでもない。

 わたしは先手《せんて》を打たれて、少女こしゃくにさわっていたものだから、ひとつ驚かせてやろうと思って、足音を忍ばせてかれのうしろに近寄り、だしぬけにポンと肩をたたいたものである。すると、相手は予期以上に驚いて、ビクッとしてふり向いたが、なぜかばかげて大きな声で、

「やア、松村さんでしたか」

 と、どなった。その声に、わたしのほうがどぎもを抜かれたくらいである。そして、赤井さんは、わたしをおし返すようにして、つまらない天気の話などをはじめるのだ。

 こいつ、いよいよおかしいと思うと、わたしはもうたまらなくなり、赤井さんの感情を害してもかまわぬと思って、じゃまするかれをつきのけるようにして、建物のはずれに出て北のほうをながめたが、別に変わったものも見えぬ。ただ、早起きの常じいさんが、もう花壇いじりをはじめていたばかりだ。赤井さんはいったいぜんたい、何をあんなに熱心にのぞいていたのだろう。

 不審に思って赤井さんの顔をながめると、かれは不得要領に、ニヤニヤ笑っているばかりだ。

「今、何をのぞいていらっしゃったのです」

 わたしは思いきって尋ねてみた。すると、かれは、

「何ものぞいてなんかいやしませんよ。それはそうと、あなたは、ゆうべの足跡を調べに出ていらしったのでしょう。え、違いますか」

 と紛らせてしまった。わたしがしかたなく、そうだと答えると、

「じゃ、いっしょに見に行きましょう。わたしも実は、これからそれを見に行こうと思っていたところなんですよ」

 と、さそいかける。だが、そういうかれのことばも、うそっぱちであったことが、じきわかった。塀《へい》の外へ出ると、赤井さんの足跡が四本ついている。つまり、二往復の跡だ。一往復はわたしの先回りをして、けさ見に行った足跡に相違ない。何が「これから」なものか。もうちゃんと見てしまっているのだ。

 井戸のそばに着いて、しばらくそのへんをしらべてみたが、別段昨夜と違ったところもなかった。足跡は確かに井戸から発し、井戸で終わっている。ほかには、昨夜調べに来たわたしたち三人の足跡と、もっとくわしくいえば、そのへんを歩き回った大きなのらイヌの足跡とがあるきりだ。

「このイヌの足跡が、クツタビの跡だったらなあ」

 わたしはふとそんなひとりごとをいった。なぜといって、そのイヌの足跡はクツタビとは反対の方角から井戸のところへ来て、そのへんを歩き回ったすえ、またもとの方角へ帰っていたからである。

 そのときわたしは、ふと、外国のある犯罪実話を思い出した。古いストランド誌で読んだものだ。

 野原の一軒家で人殺しがおこなわれた。被害者はひとり住まいの独身者だった。犯人は外部から来たものにぎまっている。ところが、不思議なことに、凶行以前に降りやんだ雪の上に、人間の足跡というものが全然なかった。犯人は人殺しをやっておいて、そのまま天上したとでも考えるほかはないのだ。

 だが、人間の足跡こそなかったけれど、ほかのものの足跡はあった。一匹のウマがその家まで来て、また帰って行った蹄鉄《ていてつ》の跡であった。

 そこで、いちじは被害者はウマに蹴殺《けころ》されたのではないかと疑われたが、だんだん調べていくと、けっきょく、犯人が足跡を隠すために、自分のクツの裏に蹄鉄を打ちつけて歩いたことがわかった、という話である。

 わたしは、このイヌの足跡も、もしやそれと同じ性質のものではなかろうか、と思ったのだ。

 なかなか大きなイヌらしい足跡だから、人間が四つんばいになって、イヌの足を模《も》した型で、こんな跡をつけたと考えることも不可能ではない。また、その跡のついた時間も、土のかわきぐあいなんかで見ると、ちょうどクツタビの男の歩いたのと同時刻らしいのだ。

 わたしがその考えを話すと、赤井さんはなんだか皮肉な調子で、

 「あなたはなかなか名探偵ですね」

 といったまま、ムッツリとだまり込んでしまった。妙な男だ。

 わたしは念のために、イヌの足跡を追って荒れ地の向こうの道路まで行ってみたが、道路が石ころ道だものだから、それから先はまったく不明であった。 「イヌ」はその道路を右へか左へか曲がって行ったものに相違ない。

 しかし、わたしは探偵ではないので、足跡が消えると、それから先どうすればよいのか、見当がつかず、せっかくの思いつきも、そこまでで打ち切ってしまったが、あとになって、なゐほど、ほんとうの探偵というものは、そうしたものか、と思いあたるところがあった。

 それから一時間もして、約束どおり、波多野警部が再調べにやって来たが、ここにつけ加えるほどの、別段の発見もなかったようすだ。

 朝食後、この騒ぎに逗留《とうりゆう》でもあるまいというので、甲田君とわたしは、ひとまず結城邸にいとまを告げることにした。わたしは内心事件のなりゆきに未練があったけれど、ひとり居残るわけにもいかぬ。いずれ東京からまた出かけて来ればよいことだ。

 帰りみちに、弘一君の病院を見舞ったことはいうまでもない。それには、結城少将も、赤井さんもいっし、よだった。結城夫人と志摩子さんは、病院に泊まっていたが、昨夜は一睡もしなかったといって、まっさおな顔をしていた。当《とう》の弘一君には、とても会えなかった。父少将だけが、やっと病室へはいることをゆるされた。思ったよりも重態である。

 それから中ふつかおいて三日めに、わたしは弘一君の見舞いかたがた、その後のようすを見るために、鎌倉へ出かけて行った。

 弘一君は手術後の高熱もとれ、もう危険はないとのことであったが、ひどく衰弱して、ものをいう元気もなかった。ちょうどその日、波多野警部が来て、弘一君に、犯人の風体を見おぼえていないか、とたずねたところ、同君は、

「懐中電灯の光と黒い影のような姿のほか、何も見おぼえがない」

 と、答えたよしである。それを、わたしは結城夫人から聞いた。

 病院を出ると、わたしは少将にあいさつするために、ちょっと結城邸に立ち寄ったが、その帰途、実に不思議なものを見た。なんともわたしの力では解釈のつかないできごとである。

 結城邸を辞したわたしは、猟奇者《りょうきしや》の常として、なんとなく例の古井戸が気にかかるものだから、そこのあき地を通って、存分井戸のそばをながめ回し、それからあのイヌの足跡が消えていた小じゃりの多い道路に出て、大回りをして停車場へと向かったのであるが、その途中、あき地から一丁とはへだたぬ往来で、バッタリと赤井さんに出会った。ヤレヤレ、またしても赤井さんである。

 かれは往来に面した、裕福らしい一軒のしもた家の格子《こうし》をあけて出て来たが、遠方にわたしの姿をみとめると、なぜか顔をそむけて、逃げるようにスタスタと向こうへ歩いて行く。

 そうされると、わたしもいじになって、足をはやめて赤井さんのあとを追った。かれの出てきた家の前を通るとき、表札を見ると『琴野三右衛門《ことのさんえもん》』とあった。わたしはそれをよくおぼえておいて、なおも赤井さんの跡を追い、一丁ばかりで、とうとう、かれに追いついた。

「赤井さんじゃありませんか」

 と、声をかけると、かれは観念したらしくふり向いて、

「やア、あなたもこちらへおいででしたか。ほくも、きょうは結城さんをおたずねしたのですよ」

 と、弁解がましくいった。琴野三右衛門をたずねたことはいわなかった。

 ところが、そうしてこちらを向いた赤井さんの姿を見ると、わたしはビックリしてしまった。かれはカザリ屋の小僧か表具屋のでしみたいに、からだじゅう金粉だらけだ。両手から胸ひざにかけて、梨地《なしじ》のように金色の粉がくっついている。それが夏の太陽に照らされて、美しくキラキラ光っているのだ。よく見ると、鼻の頭まで、仏像のように金色だ。わけをたずねても、

「なに、ちょっと」

 と、あいまいな返事をしている。

 当時のわたしたちにとって「金」というものは、特別の意味を持っていた。弘一君を撃った賊は、金製品にかぎって盗み去ったのである。かれは波多野氏のいわゆる「黄金収集狂《おうごんしゆうしゆうぎよう》」なのだ。その犯罪当夜、結城邸に居合わせたえたいの知れぬ人物赤井さんが、今、金ピカの姿をしてわたしの前から逃げようとした。実に異様な事柄である。まさか、赤井さんが犯人ではなかろうが、しかし、このあいだからの不思議な挙動といい、この金ピカ姿といい、なんともがてんのできないことだ。

 わたしたちは双方奥歯に物のはさまった形で、ことば少なに駅のほうへ歩いたが、わたしは前々から気にかかりながら尋ねかねていたことを、思いきってたずねてみた。

「先夜ピストルの音がした少し前から、あなたは二階の客間にいらっしゃらなかったようですが、あのとき、あなたはどこにおいでになったのですか」

 「わたしは酒に弱いので」

 赤井さんは待ちかまえていたように答えた。

「少し苦しくなったものですから、外の空気を吸いたくもあったし、ちょうどタバコが切れたので、それを自分で買いに出かけていたのですよ」

「そうでしたか。それじゃ、ピストルの音はお聞きにならなかったわけですね」

「ええ」

 と、いうようなことで、わたしたちは、またプッツリだまり込んでしまったが、しばらく歩くと、今度は赤井さんが妙なことをいいだした。

「あの古井戸の向こう側のあき地にね、事件のあったふつか前まで、近所の古木屋の古材木がいっぱい置いてあったのです。もし、その材木が売れてしまわなかったら、それがじゃまをしているので、ぼくたちの見た例のイヌの足跡なんかも、っかなかったわけです。ね、そうじゃありませんか。ぼくはそのことを、つい今しがた聞いたばかりですが」

 赤井さんはつまらないことを、さも意味ありげにいうのだ。

 てれ隠しか、そうでなければ、かれはやっぱり利口ぶった薄バカである。なぜといって、事件のふつか前にそこに材木が置いてあろうがなかろうが、事件にはなんの関係もないことだ。そのために足跡がさまたげられるわけもない。まったく無意味なことである。わたしがそれをいうと、赤井さんは、

「そういってしまえば、それまでですがね」

 と、まだもったいぶっている。実に変な男だ。

   病床のしろうと探偵

 その日は、ほかに別段のできごともなく帰宅したが、それからまた一週間ばかりたって、わたしは三度めの鎌倉行きをした。弘一君はまだ入院していたけれど、気分はすっかり回復したから、話しに来い、という通知を受け取ったからである。その一週間のあいだに、警察のほうの犯人捜査がどんなふうになっていたかは、結城家の人から通知もなく、新聞にもいっこう記事が出なかったので、わたしは何も知るところがなかった。むろん、まだ犯人は発見されないのであろう。

 病室にはいってみると、弘一君は、まだ青白くはあるが、なかなか元気な様子で、諸方から送られた花束と、母夫人と、看護婦にとりまかれていた。

「ああ、松村君、よく来てくれたね」

 かれはわたしの顔を見ると、うれしそうに手を差し出した。わたしはそれをにぎって、回復の喜びを述べた。

「だが、ぼくは一生びっこは直らないのだよ。醜いかたわ者だ」

 弘一君が暗然としていった。わたしは答えるすべを知らなかった。母夫人はわき見をして、目をしばたたいていた。

 しばらく雑談をかわしていると、夫人は外に買い物があるからといって、あとをわたしに頼んでおいて、席をはずしてくれた。弘一君はそのうえに看護婦も遠ざけてしまったので、わたしたちはもう何を話してもさしつかえなかった。そこで、まず話題にのぼったのは事件のことである。

 弘一君の語るところによると、警察では、あれから例の古井戸をさらってみたり、足跡のクツタビと同じ品を売った店をしらべたりしたが、古井戸の底からは何も出ず、クツタビはごくありふれた品で、どこのタビ屋でも日に何足と売っていることがわかった。つまり、何の得るところもなかったわけである。

 波多野警部は、被害者の父が陸軍省の重要な人物なので、土地の有力者として敬意を表し、たびたび弘一君の病室を見舞い、弘一君が犯罪捜査に興味を持っていることがわかると、捜査の状況を逐一話して聞かせてさえくれたのである。

「そういうわけで、警察で知っているだけのことは、ぼくにもわかっているんだが、実に不思議な事件だね。賊の足跡が、広場のまんなかでポッツリ消えていたなんて、まるで探偵小説みたいだね。それに、金製品にかぎって盗んだというのもおかしい。きみは何かほかに聞き込んだことはないかね」

 弘一君は、当の被害者であったうえに、日ごろの探偵好きから、この事件に非常に興味を感じている様子だった。

 そこでわたしは、かれのまだ知らない事柄、すなわち赤井さんのかずかずの異様な挙動、イヌの足跡のこと、事件当夜、常じいさんが窓ぎわにすわった妙なしぐさのことなどを、すべて話して聞かせた。

 弘一君はわたしの話を「フンフン」とうなずいて、緊張して聞いていたが、わたしが話し終わると、ひどく考え込んでしまった。からだにさわりはしないかと心配になるほど、じっと目をつむって考え込んでいた。が、やがて目を開くと、非常にまじめな調子でつぶやいた。

「ことによると、これは皆が考えているよりも、ずっと恐ろしい犯罪だよ」

「恐ろしいといって、ただのどろぼうではない、というのかね」

 弘一君の恐怖の表情にうたれて、わたしは思わず真剣な調子になった。

「ウム、ぼくが今ふと想像したのは、非常な事柄だ。どろぼうなんてなまやさしい犯罪ではない。ゾッとするような陰謀だ。恐ろしいと同時に、唾棄《だき》すべき悪魔の所業《しよぎよう》だ」

 弘一君のやせた青ざめた顔が、まっ白なベッドの中にうずまって、天井を凝視しながら、低い声でなそのようなことをいっている。夏の真昼、セミの声がバッタリやんで、夢の中の砂漠《さばく》みたいに静かである。

「きみはいったい何を考えているのだ」

 わたしは少しこわくなって尋ねた。

「いや、それはいえない」弘一君はやっぱり天井を見つめたままで答える。

「まだぼくの白昼の夢でしかないからだ。それに、あんまり恐ろしい事柄だ。まずゆっくり考えてみよう。材料は豊富にそろっている。この事件には、奇怪な事実がみちみちている。が、表面奇怪なだけに、その裏にひそんでいる真理は、存外単純かもしれない」

 弘一君は自分自身にいい聞かせる調子でそこまでしゃべると、また目をとじてだまり込んでしまった。

 かれの頭の中で、なにごとかある恐ろしい真実が、徐々に形作られているのであろう。だが、わたしはそれがなんであるか、想像することもできなかった。

「第一の不思議は、古井戸から発して、古井戸で終わっている足跡だね」

 弘一君は考え考えしゃべりはじめた。

「古井戸というものに、何か意味があるのかしら。……いやいや、その考え方がいけないのだ。もっと別の解釈があるはずだ。松村君、きみは覚えているかね。ぼくはこのあいだ波多野さんに現場の見取り図を見せてもらって、要点だけは記憶しているつもりだが、あの足跡には変なところがあったね。賊が女みたいにうちわに歩くやつだということも一つだが、これもむろん非常にたいせつな点だが、そのほかに、もっと変なところがあった。波多野さんは、ぼくがそれを注意しても、いっこう気にもとめなかったようだ。たぶん、きみも気づかないでいるだろう。それはね、行きの足跡と帰りの足跡とが、不自然に離れていたことだよ。ああした場合、だれしもいちばん早い道をえらぶのが自然ではないだろうか。っまり、二点間の最短距離を歩くはずではないだろうか。それが、行きと帰りの足跡が、非戸と洋館の窓とを基点にして外にふくらんだ二つの弧をえがいている。その間に大きな樹木がはさまれていたほどだ。ぼくにはこれが、ひどく変に思われるのだよ」

 これが弘一君のもののいい方である。かれは探偵小説が好きなほどあって、はなはだしく論理の遊戯をこのむ男であった。

「だって、きみ、あの晩はやみ夜だぜ。それに、賊は人を撃ってあわてているのだ。来たときと違った道を通るくらい、別に不自然でもないじゃないか」

 わたしはかれの論理いってんばりが不服であった。

「いや、やみ夜だったからこそ、あんな足跡になったのだ。きみは少し見当違いをしているようだが、ぼくのいう意味はね、ただ通った道が違っていたということではないのだよ。二つの足跡が、故意に(確かに故意にだ)離してあったということはね、賊が自分の来たときの足跡を踏むまいとしたからではないかと、ぼくは思うのだ。それには、やみ夜だから、用心深く、よほど離れたところを歩かなくてはならない。ね、そこに意昧があるのだよ。念のため、波多野さんに、行き帰りの足跡の重なったところはなかったかと確かめてみたが、むろん一ヵ所もない、ということだった。あのやみ夜に、同じ二点間を歩いた行き帰りの足跡が、一つも重なっていなかったなんて、偶然にしては少し変だとは思わないかね」

「なるほど、そういえば少し変だね。しかし、なぜ賊が足跡を重ねまいと、そんな苦労をしなければならなかったのだね。およそ意味がないじゃないか」

「いや、あるんだよ。が、まあ、そのつぎを考えてみよう」

 弘一君はシャーロック・ホームズみたいに、結論をかくしたがる。これもかれの日ごろの癖である。

 顔は青ざめ、息づかいは荒く、かさだかく包帯を巻きつけた患部が、まだ痛むとみえて、ときどきまゆをしかめるような状態でいて、探偵談となると、弘一君は特殊の情熱を示すのだ。それに、こんどの事件は、かれ自身被害者であるばかりか、事件の裏に何かしら恐ろしい陰謀を感じているらしい。かれが真剣なのも無理ではない。

「第二の不思議は、盗難品が金製品にかぎられていた点だ。賊がなぜ現金に目をくれなかったかという点だ。それを聞いたとき、ぼくはすぐ思いあたった人物がある。この土地でもごく少数の人しか知らない秘密なんだ。現に、波多野さんなんかも、その人物には気づかないでいるらしい」

「ぼくの知らない人かね」

「ウン、むろん知らないだろう。ぼくの友だちでは、甲田君が知っているだけだ。いつか話したことがあるんでね」

「いったい、だれのことだい。そして、その人物が犯人だというのかい」

 「いや、そうじゃないと思うのだ。だから、ぼくは波多野さんにも、その人物のことを話さなかった。きみにもまるで知らない人のことを話したってしかたがない。いちじちょっと疑っただけで、ぼくの思い違いなんだ。その人だとすると、ほかの点がどうも一致しないからね」

 そういったまま、かれはまた目をつむってしまった。いやに人をじらす男だ。だが、かれはこういう推理ごとにかけては、確かにわたしより一枚うわてなんだから、どうもいたしかたがない。

 わたしは病人のおとぎをするつもりで、根気よく待っていると、やがて、かれはバッチリと目を開いた。そのひとみが喜ばしげな光を放っている。

「きみ、盗まれた金製品のうちでいちばん大きいのは、なんだと思う。おそらく、あの置きどけいだね。どのくらいの寸法だったかしら、縦が三寸、幅と奥行きが二寸、だいたいそんなものだね。それから目方だ。三百メ、そんなものじゃなかろうか」

「ぼくはそれをよく見覚えてはいないけれど、おとうさんが話されたのを聞くと、ちょうどそんなものらしいね。だが、置きどけいの寸法や目方が、事件とどんな関係があるんだね。きみも変なことをいいだすじゃないか」

 わたしは弘一君が熱に浮かされているのではないかと思って、実際かれのひたいへ手を持っていきそうにした。だが、顔色を見ると、興奮こそしているが、べつだん高熱らしくもない。

「いや、それがいちばんたいせつだ。ぼくは今やっと、そこへ気がついたのだが、盗難晶の大きさなり目方なりが、非常に重大な意味を持っているのだよ」

「賊が持ち運びできたかどうかをいっているの?」

 だが、あとで考えると、なんとおろかなわたしの質問であったことか。かれはそれには答えず、またしてもとっぴなことを口走るのだ。

「きみ、そのうしろの花ビンの花を抜いて、花ビンだけをね、この窓から外の塀《へい》を目がけて力いっぱい投げてくれないか」

 気違いのさたである。弘一君はその病室に飾ってあった花ビンを、窓の外の塀《へい》に投げつけよというのだ。花ビンというのは高さ五寸ほどの瀬戸物で、べつだん変わった品ではない。

「何をいっているのだ。そんなことをすれば、花ビンがこわれるじゃないか。気違いだっていわれてもしかたがない」

 わたしはほんとうに、弘一君の頭がどうかしたのではないか、と思った。

「いいんだよ、われたって、それはぼくのうちから持ってきた花ビンなんだから。さあ、早く投げてくれたまえ」

 それでもわたしがちゅうちょしていると、かれはじれて、ベッドの上に起き上がりそうになる。そんなことされては大変だ。身動きさえ禁じられているからだではないか。

 気違いじみているけれど、病人にさからうでもないと観念して、わたしはとうとう、かれのばかばかしい頼みを承知した。ひらいた窓から、その花ビンを三間ばかり向こうのコンクリート塀へ、力いっぱい投げつけたのだ。花ビンは塀《へい》にあたって、こなごなにくだけイしまった。

 弘一君は首を上げて花ビンの最後を見届けると、やっと安心したていで、グッタリと、またもとの姿勢にかえった。

「よし、よし、それでいいんだよ。ありがとう」

 のんきなあいさつだ。わたしは、今の物音を聞きつけて、だれか来やしないかと、ビクビクものでいたのに。

「ところで、常じいやの妙な挙動だがね」

 弘一君が突然、また別のことをいいだした。どうも、かれの思考力は統一を失ってしまっているようだ。わたしは少々心配になってきた。

「これがこんどの犯罪事件の、もっとも有力な手がかりになるのではないかと思うよ」

 かれはわたしの顔色などには無関心で話しつづける。

「皆が書斎へかけつけたとき、常じいやだけが窓ぎわへ行って、すわりこんでしまった。おもしろいね。きみ、わかるかね。それには何か理由がなくてはならない。気違いではあるまいし、理由なしで、そんなばかなまねをするはずはないからね」

「むろん、理由はあったろうさ。だが、それがわからないから、妙に思うのだ」

 わたしは少しカンにさわって、荒っぽい口をきいた。

「ぼくにはわかるような気がするんだがね」

 弘一君はニヤニヤして、

「ほら、その翌朝、常じいやが何をしていたかということを考えてみたまえ」

 「翌朝? 常じいさんが?」

 わたしはかれの意味をさとりかねた。

 「なんだね。きみはちゃんと見ていたじゃないか。きみはね、赤井さんのことばかり考えているものだから、そこへ気がつかぬのだよ。ほら、きみがさっき話したじゃないか。赤井さんが洋館の向こう側をのぞいていたって」

「ウン、それもおかしいのだよ」

「いやサ、きみは別々に考えるからいけない。赤井さんがのぞいていたのは、ほかのものではない、常じいやだったとは考えられないかね」

「ああ、そうか」

 そこへ気がつかぬとは、わたしはなんというボンヤリ者であったろう。

「じいやは、花壇いじりをしていたんだね。だが、あすごには今、花なんてないし、種をまく時節でもない。花壇いじりは変じゃないか。もっと別のことをしていた、と考えるほうが自然だ」

「別のことというと?」

「考えてみたまえ。あの晩、じいやは書斎の中の不自然な場所に、しばらくすわっていた。その翌早朝、花壇いじりだ。この二つを結び合わせると、そこから出て来る結論はたった一つしかない。ね、そうだろう。じいやは何か品物をかくしたのだ。

「何をかくしたか、なぜかくしたか、それはわからない。しかし、常じいやが何かをかくさなければならなかったということだけは、まちがいがないと思う。窓ぎわへすわったのは、その品物をひざの下に敷いて隠すためだったに違いない。それから、じいやが何かかくそうとすれば、台所からいちばん手近で、いちばん自然な場所は、あの花壇だ。花壇いじりと見せかける便宜もあるんだからね。ところで、きみにお願いだが、これからすぐぼくの家へ行って、ソッとあの花壇を掘り返して、その品物を持ってきてくれないだろうか。うずめた場所は、上の色でじきわかるはずだよ」

 わたしは弘一君の明察に一言もなかった。わたしが目撃しながら理解しえなかった事柄を、かれはとっさの間に解決した。

「それは行ってもいいがね。きみはさっき、ただのどろぼうのしわざではなくて、悪魔の所業だといったね。それには、何か確かな根拠があるのかい。もう一つわからないのは、今の花ビンの一件だ。行く前に、そいつを説明してくれないか」

「いや、すべてはぼくの想像にすぎないのだ。それに、うかつにしゃべれない性質の事柄なんだ。今は聞かないでくれたまえ。ただ、ぼくの想像がまちがいでなかったら、この事件は表面に現われているよりも、ずっとずっと恐ろしい犯罪だということを、頭に入れておいてくれたまえ。そうでなくて、病人のぼくが、こんなに騒いだりするものかね」

 そこで、わたしは看護婦にあとを頼んでおいて、ひとまず病院を辞したのであるが、わたしが病院を出ようとしたとき、弘一君が鼻歌をうたうような調子で、ドイツ語で、

「女をさがせ、女をさがせ」

 と、つぶやいているのを耳にとめた。

 結城家をおとずれたのは、もうたそがれどきであった。少将は不在だったので、書生にあいさつしておいて、すきを見て、なにげなく庭に出た。そして、問題の花壇を掘り返した結果を簡単にいえば、弘一君の推察は的中したのだ。そこから妙な品物が出てきたのだ。それは古びた安物のアルミニューム製めがねサックで、最近うずめたものに相違なかった。わたしは常さんに感づかれぬように、ソッとそのサックをひとりの女中に見せて、持ち主を尋ねてみたところが、意外にも、それは常さん自身の老眼鏡のサックであることがわかった。女申は、目印があるからまちがいはない、といった。

 常さんは、かれ自身の持ち物をかくしたのだ。妙なこともあるものだ。たといそれが犯罪現場に落ちていたにもせよ、常さん自身の持ち物なれば、なにも花壇へうずめたりしないで、だまって使用していればよいではないか。日常使用していたサックが突然なくなったら、そのほうがよっぽど変ではあるまいか。

 いくら考えても、わかりそうもないので、わたしはともかくも、それを病院へ持って行くことにして、女中にはかたく口どめをしておいて、おもやのほうへ引き返したが、その途中、またしても、わけのわからぬことにぶつかった。

 そのころはほとんど日が暮れきって、足もともおぼつかないほど暗くなっていた。おもやの雨戸はすっかり締めてあったし、主人は不在なので、洋館の窓にもあかりは見えぬ。その薄暗い庭を、一つの影法師がこちらへ歩いて来るのだ。

 近づいたのを見ると、シャツ一枚の赤井さんだ。この人は主人もいない家へ、しかも今時分、このなりで、何をしに来たのであろう。

 かれはわたしの姿に気づくと、ギョッとしたように立ち止まったが、見ると、どうしたというのであろう、シャツ一枚で、はだしのうえに、腰から下がびっしょりぬれて、どうまみれだ。

「どうしたんです」

 と聞くと、かれはきまりわるそうに、

「コイをつっていて、つい、足をすべらしたんです。あの池はどう深くってね」

 と、弁解がましくいった。

逮捕された黄金狂

 まもなく、わたしは、ふたたび弘一君の病室にいた。母夫人はわたしと行き違いに帰邸し、かれのまくらもとには、付き添いの看護婦がたいくつそうにしているばかりだった。わたしの姿を見ると、弘一君はその看護婦を立ち去らせた。

「これだ、きみの推察どおり、花壇にこれがうずめてあった」

 わたしはそういって、例のサックをベッドの上に置いた。弘一君はひと目それを見ると、非常に驚いた様子で、

「ああ、やっぱり……」

 と、つぶやいた。

「やっぱりって、きみはこれがうずめてあることを知っていたのかい。だが、女中に聞いてみると、常さんの老眼鏡のサックだということだが、常さんがなぜ自分の持ち物をうずめなければならなかったのか、ぼくにはサッパリわからないのだが」

「それは、じいやの持ち物には相違ないけれど、もっと別の意味があるんだよ。きみはあれを知らなかったのかなあ」

「あれっていうと?」

「これでもう疑う余地はなくなった。恐ろしいことだ。……あいつがそんなことを……し

 弘一君はわたしの問いに答えようともせず、ひどく興奮して、ひとりごとをいっている。かれは確かに、犯人をさとったのだ。 「あいつ」とは、いったい、だれのことなんだろう。で、わたしがそれを聞きただそうとしていたとき、ドアにノックの音が聞こえた。

 波多野警部が見舞いに来たのだ。入院以来、何度めかのお見舞いである。かれは結城家に対して、職務以外の好意を持っているのだ。

「だいぶん元気のようですね」

「ええ、おかげさまで順調にいってます」と、ひととおりのあいさつがすむと、警部は少し改まって、

「夜分やって来たのは、実は、急いでお知らせしたいことが起こったものだから」

 と、ジロジロわたしを見る。

「ご存じの松村君です。ぼくの親しい友人ですから、おかまいなく」

 弘一君がうながすと、、

「いや、秘密というわけではないのだから、ではお話ししますが、犯人がわかったのです。きょう午後逮捕しました」

「エ、犯人が捕縛されましたか」

 弘一君とわたしとが同時に叫んだ。

「して、それはなにものです」

「結城さん。あなた琴野三右衛門という、あのへんの地主を知っていますか」'

 はたして、琴野三右衛門に関係があったのだ。

 読者は記憶されるであろう。前日、疑問の男赤井さんが、その三右衛門の家から、金箔《きんはく》だらけになって出て来たことを。

「ええ、知ってます。では……」

「そのむすごに光雄《みつお》っていう気違いがある。 一問《ひとま》に監禁《かんぎん》してめったに外出させないというから、たぶんご存じないでしょう。わたしもきょう、やっと知ったくらいです」

「いや、知ってます。それが犯人だとおっしゃるのですか」

「そうです。すでに逮捕して、一応は取り調べもすみました。なにぶん気違いのことで、めいりょうに自白はしていませんけれど。かれは珍しい気違いなんです。黄金狂とでもいいますかね。金色のものに非常な執着を持っている。わたしはその男のへやを見て、びっくりしました。へやじゅうが仏壇みたいに金ピカなんです。メッキであろうが、しんちゅうの粉や箔《はく》であろうが、金目《かねめ》には関係なく、ともかくも、金色をしたものなら、額縁から金紙からヤスリくずにいたるまで、めったむしょうに収集しているのです」

「それも聞いています。で、そういう黄金狂だから、わたしの家の金製品ばかりを盗み出した、とおっしゃるのでしょうね」

「むろん、そうです。札入れをそのままにして、金製品ばかりを、しかも、たいした値うちもない万年筆まで、もれなく集めていく之いうのは、常識では判断のできないことです。わたしも最初から、この事件には何かしら気違いめいたにおいがすると直覚していましたが、はたして気違いでした。しかも、黄金狂です。ピッタリとあてはまるじゃありませんか」

「で、盗難品は出てきたでしょうね」

 どうしたわけか、弘一君のことばには、わからぬほどではあったが、妙に皮肉な調子がこもっていた。

「いや、それはまだです。一応は調べましたが、その男のへやにはないのです。しかし、気違いのことだから、どんな非常識なとごろへ隠しているかわかりませんよ。なお、じゅうぶん調べさせるつもりですが」

「それから、あの事件のあった夜、その気違いがへやを抜け出したという点も、確かめられたのでしょうね。家族のものは、それに気づかなかったのですか」

 弘一君が根掘り葉掘り聞きただすので、波多野氏はいやな顔をした。

「家族のものは、だれも知らなかった様子です。しかし、気違いは裏の離れ座敷にいたのだから、窓から出て塀《へい》をのり越せば、だれにも知られず外に出ることができるのですよ」

「なるほどなるほど」と、弘一君はますます皮肉である。

「ところで、例の足跡ですがね。井戸から発して井戸で終わっているのを、なんとこ解釈になりました。これは非常にたいせつな事柄だと思うのですが」

「まるで、わたしが尋問されているようですね」

 警部はチラとわたしの顔を見て、さも磊落《らいらく》に笑って見せたが、その実、腹の中では、ひどく不快に思っている様子だった。

「何もそんなことを、あなたがご心配なさるには及びませんよ。それにはちゃんと、警察なり裁判所なりの機関があるのですから」

「いや、ご立腹なすっちゃ困りますが、ぼくは当《とう》の被害者なんだから、参考までに聞かせてくだすってもいいじゃありませんか」

「お聞かせすることができないのです。というのは、あなたは、まだめいりょうになっていない点ばかりお尋ねなさるから」警部はしかたなく笑いだして、

「足跡のほうも、目下取り調べ中なんですよ」

「すると、確かな証拠は一つもないことになりますね。ただ黄金狂と金製盗難品の偶然の一致のほかには」

 弘一君は無遠慮にいってのける。わたしはそばで聞いていてヒヤヒヤした。

「偶然の一致ですって?」しんぼう強い波多野氏も、これにはさすがにムッとしたらしく、

「あなたはどうして、そんなもののいい方をするのです。警察が見当違いをやっているとでもいわれるのですか」

「そうです」弘一君がズバリととどめをさした。

「警察が琴野光雄を逮捕したのは、とんでもない見当違いです」

「なんですって」警部はあっけにとられたが、しかし、聞きずてにならぬという調子で、

「きみは証拠でもあっていうのですか。でなければ、うかつに口にすべきことではありませんよ」

「証拠はありあまるほどあります」

 弘一君は平然としていった。

「ばかばかしい。事件以来ずっとそこに寝ていたきみに、どうして証拠の収集ができます。あなたはまだ、からだがほんとうでないのだ。妄想《もうそう》ですよ。麻酔の夢ですよ」

「ハハハハハ、あなたはこわいのですか。あなたの失策を確かめられるのが、こわいのですか」

 弘一君はとうとう波多野氏をおこらせてしま、った。そうまでいわれては、相手が若年者であろうと、病人であろうと、そのまま引き下がるわけにはいかぬ。警部は顔を筋ばらせて、ガタリとイスを進めた。

「では、聞きましょう。きみはいったい、だれが犯人だとおっしゃるのです」

 波多野警部はえらいけんまくでつめよった。だが、弘一君はなかなか返事をしない。考えをまとめるためか、天井を向いて目をふさいでしまった。

 かれはさっき、わたしに、疑われやすいある人物を知っているが、それは真犯人でない、と語った。その人物というのが、黄金狂の琴野光雄であったに相違ない。なるほど、非常に疑われやすい人物だ。で、その琴野光雄が真犯人でないとすると、弘一君はいったい全体、なにものを犯人に擬しているのであろう。ほかにも・.・ひとり黄金狂があるとでもいうのかしら。も」や、それは赤井さんではないか。事件以来、赤井さんの挙動は、どれもこれも疑わしいことばかりだ。それに、琴野三右衛門の家から、金箔にまみれて出て来たことさえある。かれこそ、別の意味の「黄金狂」ではないのか。

 だが、わたしが花壇を調べるため結城家へ出かけるとき、弘一君は妙なことを口走った。「女を捜せ」というドイツ語の文句だ。この犯罪の裏にも「女」がいるという意味かもしれない。ハテな? 女といえば、すぐ頭に浮かぶのは志摩子さんだが、彼女が何かこの事件に関係を持っているのかしら。オオ、そういえば、賊の足跡は、女みたいにうちわだった。それから、ピストルの音のすぐあとで、書斎から「久松」と.いうネコが飛び出して来た。あの「久松」は、志摩子さんの愛猫《あいびよう》だ。では、彼女が? まさか、まさか。

 そのほかに、もうひとり疑わしい人物がいる。老僕《ううぼく》常さんだ。かれのめがねサックは、確かに犯罪現場に落ちていたし、かれはそれをわざわざ花壇へうめたではないか。

 わたしがそんなことを考えているうちに、やがて弘一君がバッチリと目を開いて、待ちかまえた波多野氏のほうに向きなおると、低い声で、ゆっくりゆっくり、し噸べりはじめた。

 「琴野のむすこは、家内のものに知られぬように、家を抜け出すことはできたかもしれません。だが、いくら気違いだからといって、足跡なしで歩くことは全然不可能です。井戸のところで消えていた足跡をいかに解釈すべきか。これが事件全体を左右するところの、根本的な問題です。これをそのままソッとしておいて犯人を捜そうなんて、あんまりムシがいいというものです」

 弘一君はそこまで話すと、息をととのえるために、ちょっと休んだ。傷が痛むのか、ひどくまゆをしかめている。

 警部は、かれのしゃべり方がなかなか論理的で、しかも自信にみちているので、やや圧倒された形で、.静かに次のことばを待っている。

「ここにいる松村君が」と、弘一君はまた始める。

「それについて、実におもしろい仮説を組み立てました。というのは、ご存じかどうか、あの井戸の向こう側にイヌの足跡があった。それがクツタビのあとを引き継いだ形で、反対側の道路まで続いていたそうですが、これは、もしや

犯人がイヌの足跡を模《も》した型を手足にはめ、四つんばいになって歩いたのではないか、という説です。だが、この説はおもしろいことはおもしろいけれど、ひどく非実際的だ。なぜって、きみ」と、わたしを見て

「イヌの足跡というトリックを考えついた犯人なら、なぜ井戸のところまで、ほんとうの足跡を残したのか。それじゃ、せっかくの名案がオジャンになるわけじゃないか。わざわざ半分だけイヌの足跡にしたなんて、たとい気違いのしわざにもしろ、考えられぬことだよ。それに、気違いが、そんな手のこんだトリックを案出でぎるはずもないしね。で、いかんながら、この仮説は落第だ。とすると、足跡の不思議は依然として残されたことになる。ところで、波多野さん。先日見せてくだすった、例の現場見取り図,を書いた手帳をお持ちでしょうか。実は、あの中に、この足跡の不思議を解決するカギが隠されているんじゃないかと思うのですが」

 波多野氏は、さいわい、ポケットの申にその手帳を持っていたので、見取り図のところを開いて、弘一君のまくらもとに置いた。弘一君は推理を続ける。

「ごらんなさい。さっき松村君にも話したことですが、この行きの足跡と帰りの足跡との間隔が、不自然に開ぎすぎている。あなたは、犯罪者が大急ぎで歩く場合に、こんな回り道をするとお考えですか。もう一つ、往復の足跡が一つも重なっていないのも、非常な不自然です。というぼくの意味がおわかりになりますか。この二つの不自然は、ある一つの事柄を語っているのです。つまり、犯人が故意に足跡を重ねまいと、綿密な注意を払ったことを語っているのです。ね。やみの中で足跡を重ねないためには、犯人は用心深く、このくらい離れたところを歩かねばならなかったのですよ」

「なるほど、足跡の重なっていなかった点は、いかにも不自然ですね。あるいは、お説のとおり、故意にそうしたのかもしれん。だが、それにどういう意味が含まれているのですかね」

 波多野警部が愚問を発した。弘一君はもどかしそうに、

「これがわからないなんて。あなたは救い難い心理的錯覚におちいっていらっしゃるのです。つまりね、歩福の狭いほうが来た跡、広いほうが急いで逃げた跡という考え、したがって、足跡は井戸に発し井戸に終わったというがんこな迷信です」

「おお、では、きみは、あの足跡は井戸から井戸へではなくて、反対に書斎から書斎へ帰った跡だ、というのですか」

「そうです。ぼくは最初から、そう思っていたのです」

「いや、いけない」警部はやっきとなって、
「一応はもっともだが、きみの説にも非常な欠陥がある。それほど用意周到な犯人なれば、少しのことで、なぜ向こう側の道路まで歩かなかったか。中途で足跡が消えたんでは、せっかくのトリックがなんにもならない。それほどの犯人が、どうして、そんなばかばかしい手ぬかりをやったか。これをどう解釈しますね」

「それはね、ごくつまらない理由なんですし

 弘一君はスラスラと答えるのだ。

「あの晩は非常に暗いやみ夜だったからです」

「やみ夜? なにも、やみ夜だからって、井戸まで歩けたものが、それから道路までホンのわずかの距離を歩けなかったという理屈はありますまい」

「いや、そういう意昧じヤないのです。犯人は、井戸から向こうは足跡をつける必要がない、と誤解したのです。こっけいな心理的錯誤ですよ。あなたはご存じありますまいが、あの事件の二、三日前まで一月《ひとつき》あまりの間、井戸から向こうのあき地に、古材木がいっぱい置き並べてあった。犯人はそれを見慣れていたものだから、つい、誤解をしたのです。かれはそれの運び去られたのを知らず、あの晩もそこに材木がある、材木があれば、犯人はその上を歩くから足跡はつかない、つけなくてもよい、と考えたのです。つまり、やみ夜ゆえのとんだ思い違いなんです。もしかしたら、犯人の足が井戸側のしっくいにぶつかって、それが材木だと思い込んでしまったのかもしれませんよ」

 ああ、なんとあっけないほどに簡単めいりょうな解釈であろう。わたしとても、その古材木の山を見たことがある。いや、見たばかりではない。先日、赤井さんが意味ありげに、古材木の話をしたのを聞いてさえいる。それでいて、病床の弘一君に解釈のできることが、わたしにはできなかったのだ。

「すると、きみは、あの足跡は犯人が外部から来たと見せかけるトリックにすぎない、というのですね。つまり、犯人は結城邸の内部にかくれていた、と考えるのですね」

 さすがの波多野警部も、今はカブトをぬいだ形で、弘一君の口から、はやく真犯人の名まえを聞きたそうに見えた。

「算術の問題です」

「足跡がにせ物だとすると、犯人が宙を飛ばなかったかぎり、かれは邸内にいた、と考えるほかはありません」弘一君は推理を進める。

「つぎに、やつはなぜ金製品ばかりを目がけたか。この点が、実におもしろいのです。これは、一つには、賊が琴野光雄という黄金狂のいることを知っていて、その気違いのしわざらしくよそおうためだったでしょう。足跡をつけたのも同じ意味です。だが、ほかに、もう一つ妙な理由があった。それはね、あの金製晶類の大きさと目方に関係があるのですよ」

 わたしは二度めだったからさほどでないが、波多野氏は、この奇妙な説にあっけにとられたとみえ、だまり込んで、弘一君の顔をながめるばかりだ。病床のしろうと探偵は、かまわず続ける。

「この見取り図が、ちゃんとそれを語っています。波多野さん、あなたは、この洋館の外まで延びてきている池の図を、ただ意味もなく書きとめておかれたのですか」

「というと?……ああ、きみは……」と、警部は非常に驚いた様子であったが、やがて、

「まさか。そんなことが」

 と、半信半疑である。

「高価な金製品なれば、賊がそれを目がけたとしても不自然ではありません。と、同時に、みな形が小さく、しかもじゅうぶん目方があります。賊が盗み去ったと見せかけて、その実、池へ投げ込むには、おあつらえ向きじゃありませんか。松村君、さっききみに花ビンを投げてもらったのはね、あの花ビンが盗まれた置きどけいと同じくらいの重さだと思ったので、どれほど遠くまで投げられるものか、ためしてみたのだよ。つまり、池のどのへんに盗難品が沈んでいるかということをね」

「しかし、犯人はなせ、そんな手数のかかるまねをしなければならなかったのです。きみは、盗賊のしわざと見せかけるためだ、といわれますが、それじゃ、いったい、何を盗賊のしわざと見せかけるのです。金製品のほかに、盗まれた品でもあるのですか。ぜんたい何が犯人の真の目的だったとおっしゃるのですか」

 と、警部。

「わかりきっているじゃありませんか。このぼくを殺すのが、やつの目的だったのです」

「エ、あなたを殺す? それはいったい、だれです。なんの理由によってです」

「まあ、待ってください。ぼくがなぜ、そんなふうに考えるかといいますとね、あの場合、賊はぼくに向かって発砲する必要は少しもなかったのです。やみにまぎれて逃げてしまえば、じゅうぶん逃げられたのです。ピストル強盗だって、ピストルはおどかしに使うばかりで、めったに発射するものではありません。それに、たかが金製品くらいを盗んで、人を殺したり傷つけたりしちゃ、どろぼうのほうで引き合いませんよ。窃盗罪と殺人罪とでは、刑罰が非常な違いですからね。と、考えてみると、あの発砲は非常に不自然です。ね、そうじゃありませんか。ぼくの疑いは、ここから出発しているのですよ。どうほうのほうは見せかけで、真の目的は殺人だったのじゃないかとね」

「で、きみはいったい、だれを疑っているのです。きみをうらんでいた人物でもあるのですか」

 波多野氏はもどかしそうだ。

「ごく簡単な算術の問題です。……ぼくはあらかじめだれも疑っていたわけではありません。種々の材料の関係を理論的に吟味して、当然の結論に到達したまでです。で、その結論があたっているかどうかは、あなたが実地に調べてくださればわかることです。たとえば、池の中に盗難晶が沈んでいるかどうか、という点をですね。……算術の問題というのは、二から一を引くと一残るという、ごくめいりょうな事柄です。簡単すぎるほど簡単なことです」

 弘一君は続ける。

「庭の唯一の足跡がにせ物だとしたら、賊は廊下伝いにおもやのほうへ逃げるしか道はありません。ところが、その廊下には、ピストル発射のせつなに、甲田君が通りかかっていたのです。ご承知のとおり、洋館の廊下は一方口だし、電灯もついている。甲田君の目をかすめて逃げることは、まったく不可能です。隣室の志摩子さんのへやも、すぐあなたがたが調べたのですから、とてもかくれ場所にはならない。つまり、理論で押していくと、この事件には犯人の存在する余地が全然ないわけです」

「むろん、わたしだって、そこへ気のつかぬはずはない。賊はおもやのほうへ逃げることはでぎなかった。したがって、犯人は外部から、という結論になったわけですよ」

 と、波多野氏がいう。

「犯人が外部にも内部にもいなかった。とすると、あとに残るのは、被害者のぼくと、最初の発見者の甲田君のふたりです。だが、被害者が犯人であるはずはない。どこの世界に、自分で自分に発砲するバカがありましょう。そこで、最後にのこるのは甲田君です。二から一引くという算術の問題はここですよ。ふたりのうちから被害者を引き去れば、あとに残るのは加害者でなければなりません」

「では、きみは……」

 警部とわたしが同時に叫んだ。

「そうです。われわれは錯覚におちいっていたのです。ひとりの人物が、われわれの盲点にかくれていたのです。かれは不思議な隠れみのーー被害者の親友で、事件の最初の発見者という隠れみのにかくれていたのです」

「じゃ、きみは、それをはじめから知っていたのですか」

「いや、きょうになってわかったのです。あの晩は、ただ黒い人影を見ただけです」

「理屈はそうかもしらぬが、まさか、あの甲田君が……」

 わたしは、かれの意外な結論を信じかねて、口をはさんだ。

「さあ、そこだ。ぼくも友だちを罪人にしたくはない。だが、黙っていたら、あのきのどくな狂人が無実の罪を着なければならないのだ。それに、甲田君は決してぼくらが考えていたような善良な男でない。今度のやり口を見たまえ。奸佞邪智《かんねいじやち》のかぎりをつくしているではないか。常人の考え出せることではない。悪魔だ。悪魔の所業だ」

「何か確かな証拠でもありますか」

 警部はさすがに実際的である。

「かれのほかに犯罪を行ないうる者がなかったから、かれだというのです。これが何よりの証拠じゃないでしょうか。しかし、お望みとあれば、ほかにもないではありません。松村君、きみは甲田君の歩き癖が思い出せるかい」

 と、聞かれて、わたしはハッと思いあたることがあった。甲田が犯人だなどとは夢にも思わぬものだから、ついそれを度忘れしていたが、かれは確かに女みたいなうちわの歩き癖だ。

「そういえば、甲田君はうちわだったね」

「それも一つの証拠です。だが、もっと確かなものがあります」

 と、副一君は例のめがねサックをシーツの下から取り出して警部に渡し、常じいさんがそれをかくしたてんまつを語ったのち、

「このサックは、本来じいやの持ち物です。だが、じいやがもし犯人だったと仮定したら、かれは何もこれを花壇にうめる必要はない。そしらぬ顔をして、使用していればよいわけです。だれも現場にサックが落ちていたことは知らないのですからね。つまり、サックをかくしたのは、かれが犯人でない証拠ですよ。では、なぜかくしたか。わけがあるのです。松村君はどうしてあれに気がつかなかったかなあ。毎日いっしょに海へはいっていたくせに」

 と、弘一君が説明したところによると……

 甲田伸太郎は近眼鏡をかけていたが、結城家へ来るときサックを用意しなかった。サックというものは常に必要はないが、海水浴などでは、あれがないと、はずしためがねの置き場に困るものだ。それを見かねて、常じいさんが自分の老眼鏡のサックを甲田君に貸しあたえた。このことは(わたしはうかつにも気づかなかったが)弘一君ばかりでなく、志摩子さんも結城家の書生などもよく知っていた。そこで、常さんは現場のサックを見るとハッとして、甲田君をかばうために、それをかくした次第である。

 では、なぜじいさんは甲田君にサックを貸したり、甲田君の罪をかくしたりしたかというに、この常じいさんは、甲田君のおとうさんに非常に世話になった男で、結城家に雇われたのも甲田君のおとうさんの紹介であった。したがって、その恩人の子の甲田君になみなみならぬ好意を示すわけである。これらの事情は、わたしもかねて知らぬではなかった。「だが、あのじいさんは、ただサックが落ちていたからといって、どうしてそう簡単に甲田を疑ってしまったのでしょう。少し変ですね」

 波多野氏はさすがに急所をつく。

「いや.それには理由があるのです。その理由をお話しすれば、自然甲田君の殺人未遂の動機も明らかになるのですが」

 と、弘一君は少しいいにくそうに話しはじめる。

 それは、一口にいえば、弘一君、志摩子さん、甲田君のいわゆる恋愛三角関係なのだ。ずっと以前から、美しい志摩子さんを対象として、弘一君と甲田君との問に、暗黙《あんもく》の闘争が行なわれていたのである。この物語の最初にも述べたとおり、ふたりはわたしなどよりもよほど親しい間柄だった。それというのが、父結城と父甲田とに久しい友人関係が結ばれていたからで、したがって、かれら両人の心の中のはげしい闘争については、わたしはほとんど無知であった。弘一君と志摩子さんがいいなずけであること、その志摩子さんに対して甲田君が決して無関心でないことぐらいは、わたしにもおぼろげにわかっていたけれど、まさか相手を殺さねばならぬほどのせっぱつまった気持ちになっていようとは、夢にも知らなかった。弘一君はいう。

「恥ずかしい話をすると、ぼくらはだれもいないところでは、それとはいわず、ささいなことでよく口論した。いや、子どもみたいに、取っ組みあいさえやった。そうして、どうの上をころがりながら、志摩子さんはおれのものだ、おれのものだと、お互いの心の中で叫んでいたのだ。いちばんいけないのは、志摩子さんの態度のあいまいなことだった。ほくらのどちらへも失恋を感じるほどキッパリした態度を見せなかったことだ。そこで、甲田君にすれば、いいなずけという非常な強みを持っているぼくを、殺してしまえば、という気になったのかもしれませんね。このぼくらのいがみ合いを、常じいやはちゃんと知っていたのです。事件のあった日にも、ぼくらは庭でむきになって口論をした。それもじいやの耳にはいっていたに違いない。そこで、甲田君所持のサックを見ると、忠義な家来の直覚で、じいやは恐ろしい意昧をさとったのでしょう。なぜといって、あの書斎は、甲田君など、めったにはいったことがないのだし、ピストルの音でかれが駆けつけたときには、ただドアを開いて倒れているぼくを見ると、すぐおもやのほうへ駆けだしたわけですから、いちばん奥の窓のそばにサックを落とすはずがないからです」

 これでいっさいが明白になった。弘一君の理路整然たる推理には、さすがの波多野警部も異議をさしはさむ余地がないように見えた。このうえは、池の底の盗難品を確かめることが残っているばかりだ。

 しばらくすると、偶然のしあわせにも、警察署から波多野警部に電話で吉報をもたらした。その夜、結城家の池の底の盗難品を警察へ届け出たものがあった。池の底には、例の金製品のほかに、凶器のピストルもイヌの足跡のクツタビも、ガラス切りの道具まで沈めてあったことがわかった。

 読者もすでに想像されたであろうように、それらの品を池の底から捜し出したのは、例の赤井さんであった。かれがその夕方どろまみれになって結城邸の庭をうろついていたのは、池へ落ちたのではなくて、盗難品を取り出すために、そこへはいったのであった。

 わたしはかれを犯人ではないかと疑ったりしたが、とんだ思い違いで、反対に、かれもまた優秀なる一個のしろうと探偵だったのである。

 わたしがそれを話すと、弘一君は、

「そうとも、ほくは最初から気づいていたよ。常じいやがサックをうずめるところをのぞいていたのも、琴野三右衛門の家から金ピカになって出て来たのも、みな事件を探偵していたのだ。あの人の行動が、ぼくの推理には非常に参考になった。現にこのサックを発見することができたのも、つまり、赤井さんのおかげだからね。さっききみが、赤井さんが池に落ちたと話したときには、サテはもうそこへ気がついたかと、びっくりしたほどだよ」

 と語った。

 さて、以下の事柄は、直接見聞したわけではないが、便宜上順序を追ってしるしておくと.池から出た品物のうち、例のクツタビは、浮き上がることを恐れてか、重い灰ザラといっしょにハンカチに包んで沈めてあった。それがなんと、甲田伸太郎のハンカチに相違ないことがわかったのだ。というのは、そのハンカチの端にS・Kとかれのかしら字が墨で書き込んであったからだ。かれもまさか池の底の品物が取り出されようとは思わず、ハンカチの目印まで注意が行き届かなかったのであろう。

 翌日、甲田伸太郎が殺人被疑者として引致《いんち》されたのは申すまでもない。だが、かれはあんなおとなしそうな様子でいて、しんは非常な強情者であった。いかにせめられても、なかなか実を吐かぬのだ。では、事件の直前どこにいたかと問いつめられると、かれはだまり込んで何もいわぬ。つまり、ピストル発射までのアリバイも成立しないのだ。最初は、ほおを冷やすために玄関に出ていた、などと申し立てたけれど、それは結城家の書生の証言で、たちまちくつがえされてしまった。あの晩、ひとりの書生はずっと玄関わぎのへやにいたのだ。赤井さんがタバコを買いに出たのがほんとうだったことも、その書生の口からわかった。しかし、いくら強情を張ったところで、証拠がそろいすぎているのだからしかたがない。そのうえ、アリバイさえなりたたぬのだ。いうまでもなく、かれは起訴《きそ》され、正式の裁判を受けることになった。未決入りである。

   砂丘の陰

 それから一週間ほどして九わたしは結城家をおとずれた。いよいよ弘一君が退院したという通知に接したからだ。

 まだ邸内にしめっぽい空気がただよっていた。無理もない、ひとりむすこの弘一君が、退院したとはいえ、生まれもつかぬかたわ者になってしまったのだから。父少将も母夫人も、それぞれのしかたで、わたしに愚痴《ぐち》を聞かせた。中にもいちばんつらい立場は志摩子さんである。彼女はせめてものわび心か、まるで親切な妻のように、不自由な弘一君につききって世話をしていると、母夫人の話であった。

 弘一君は思ったよりも元気で、血なまぐさい事件は忘れてしまったかのように、小説の腹案などを話して聞かせた。夕方、例の赤井さんがたずねて来た。わたしはこの人には、とんだ疑いをかけて済まなく思っていたので、以前よりは親しく話しかけた。弘一君もしろうと探偵の来訪を喜んでいる様子だった。

 夕食後、わたしたちは志摩子さんをさそって、四人連れで海岸へ散歩に出た。

「松葉づえって、案外便利なものだね。ホラ、見たまえ、こんなに走ることだってできるから」

 弘一君はゆかたのすそをひるがえして、変な格好で飛んで見せた。新しい松葉づえの先が地面につくたびに、コトコトと寂しい音をたてる。

「あぶないわ、あぶないわ」

 志摩子さんは、かれにつきまとって走りながら、ハラハラして叫んだ。

「諸君、これから由比ガ浜の余興を見に行こう』

 と、弘一君が大はしゃぎで動議を出した。

「歩けますか」

 赤井さんがあやぶむ。

「だいじょうぶ、一里だって。余興場は十丁もありやしない」

 新米《しんまい》の不具者は、歩きはじめの子どもみたいに、歩くことを享楽している。わたしたちは冗談を投げ合いながら、月夜のいなか道を、涼しい浜風にたもとを吹かせて歩いた。'道のなかばで、話がとぎれて、四人ともだまり込んで歩いていたとき、何を思い出したのか、赤井さんがクツクツ笑いだした。非常におもしろいことらしく、いつまでも笑いが止まらぬ。

「赤井さん、何をそんなに笑っていらっしゃいますめよ」

 志摩子さんがたまらなくなってたずねた。

「いえね、つまらないことなんですよ」赤井さんはまだ笑い続けながら答える。

「あのね、わたしは今、人間の足っていうものについて、変なことを考えていたんですよ。からだの小さい人の足はからだに相当して小さいはずだとお思いでしょう。ところがね、からだは小作りなくせに、足だけはひどく大きい人間もあることがわかったのですよ。こっけいじゃありませんか、足だけ大きいのですよ」

 赤井さんはそういって、またクツクツと笑いだした。志摩子さんはお義理に「まあ」と笑って見せたが、むろん、どこがおもしろいのだかわからぬ様子だった。赤井さんのいったりしたりすることは、なんとなく異様である。妙な男だ。

 夏の夜の由比ガ浜は、お祭りみたいに明るくにぎやかであった。浜の舞台では、おかぐらめいた余興がはじまっていた。黒山の人だかりだ。舞台をかこんで、よしず張りの市街ができている。喫茶店、レストラン、雑貨屋、水菓子屋。そして百燭光《しよつこう》の電灯と、蓄音器と、おしろいの濃い少女たち。

 わたしたちはとある明るい喫茶店に腰をかけて、冷たいものを飲んだが、そこで赤井さんが、また、礼儀を無視した変な挙動をした。かれは先日池の底を探ったとき、ガラスのかけらで指を傷つけたといって包帯をしていた。それが喫茶店にいる問にほどけたものだから、口を使って結ぼうとするのだが、なかなか結べない。志摩子さんが見かねて、

「あたし、結んであげましょうか」

 と、手を出すと、赤井さんは無作法にも、その申し出を無視して、別の側に腰かけていた弘一君の前へ指をつき出し、

「結城さんすみませんが」

 と、とうとう弘一君に結ばせてしまった。この男は、やっぱり根が非常識なのであろうか、それとも、あまのじゃくというやつかしら。

 やがて、主として弘一君と赤井さんの間に探偵談がはじまった。両人とも、こんどの事件では、警察をだしぬいて非常なてがらをたてたのだから、話がはずむのも道理である。話がはずむにつれて、かれらは例によって、内外の、現実の、あるいは小説上の名探偵たちをけなしはじめた。弘一君が日ごろ目のかたきにしている「明智小五郎物語」の主人公が、一やりだまに上がったのは申すまでもない。

「あの男なんか、まだほんとうにかしこい犯人を、扱ったことがないのですよ。普通ありきたりの犯人をとらえて得意になっているんじゃ、名探偵とはいえませんからね」

 弘一君はそんなふうないい方をした。

 喫茶店を出てからも、両人の探偵談はなかなか尽きぬ。自然わたしたちは二組にわかれ、志摩子さんとわたしとは、話に夢中のふたりを追い越して、ずっと先を歩いていた。

 志摩子さんは人なき波打ちぎわを、高らかに歌いつつ歩く。わたしも、知っている曲は合唱した。月は、いく億の銀粉と化して波頭に踊り、涼しい浜風が、たもとを、すそを、合唱の声を、はるかかなたの松林へと吹いて通る。

「あの人たち、びっくりさせてやりましょうよ」

 突然立ち上がった志摩子さんが、ちゃめらしくわたしにささやいた。ふり向くと、ふたりのしろうと探偵は、まだ熱心に語らいつつ、一丁もおくれて歩いて来る。

 志摩子さんが、かたわらの大きな砂丘をさして、

「ね、ね」

 と、しきりにうながすものだから、わたしもついその気になり、かくれんぼうの子どもみたいに、ふたりしてその砂丘のかげに身をかくした。

「どこへ行っちまったんだろう」

 しばらくすると、あとのふたりの足音が近づぎ、弘一君のこういう声が聞こえた。かれらは、わたしたちのかくれるのを知らないでいたのだ。

「まさか、まい子にもなりますまい。それよりも、わたしたちは、ここで一休みしようじゃありませんか。砂地に松葉づえでは疲れるでしょう」

 赤井さんの声がいって、ふたりはそこへ腰をおろした様子である。偶然にも、砂丘をはさんで、わたしたちと背中合わせの位置だ。

「ここならだれも聞く者はありますまい。実はね、内密であなたにお話ししたいことがあったのですよ」

 赤井さんの声である。今にも「ワッ」と飛び出そうかと身構えていたわたしたちは、その声にまた腰をおちつけた。盗み聞きは悪いとは知りながら、気まずいハメになって、つい出るにも出られぬ気持ちだった。

「あなたは、甲田君が真犯人だと、ほんとうに信じていらっしゃるのですか」

 赤井さんの沈んだ重々しい声が聞こえた。いまさら変なことをいいだしたものである。だが、なぜかわたしは、その声にギョッとして聞き耳を立てないではいられなかった。

「信じるも信じないもありません」と、弘一君。

「現場付近にふたりの人間しかいなくて、ひとりが被害者であったら、他のひとりは犯人と答えるほかないじゃありませんか。それに、ハンカチだとかサックだとか、証拠がそろいすぎているし。しかし、あなたは、それでもまだ疑わしい点があるとお考えなんですか」

「実はね、甲田君がとうとうアリバイを申し立てたのですよ。ぼくはある事情で、係りの予審判事と懇意でしてね、世間のまだ知らないことを知っているのです。甲田君はピストルの音を聞いたとき、廊下にいたというのも、その前に玄関へほおを冷やしに出たというのも、みなうそなんだそうです。なぜそんなうそをついたかというと、あのとき甲田君は、どろぼうよりももっと恥ずかしいことを──志摩子さんの日記帳を盗み読みしていたからなんです。この申し立ては、よくつじつまが合っています。ピストルの音で驚いて飛び出したから、目記帳がそのまま机の上にほうり出してあったのです。そうでなければ、日記帳を盗み読んだとすれば、疑われないようにもとの引き出しへしまっておくのが当然ですからね。とすると、甲田君がピストルの音に驚いたのもほんとうらしい。つまり、かれがそれを発射したのではないことになります」

「なんのために日記帳を読んでいたというのでしょう」

「おや、あなたはわかりませんか。かれは恋人の志摩子さんのほんとうの心を判じかねたのです。日記帳を見たら、もしやそれがわかりはしないか、と思ったのです。かわいそうな甲田君が、どんなにイライラしていたかがわかるではありませんか」

 「で、予審判事はその申し立てを信じたのでしようか」

「いや、信じなかったのです。あなたもおっしゃるとおり、甲田君に不利な証拠がそろいすぎていますからね」

「そうでしょうとも。そんな薄弱な申し立てが、なんになるものですか」

「ところが、ぼくは、甲田君に不利な証拠がそろっている反面には、有利な証拠もいくらかあるような気がするのです。第二に、あなたを殺すのが目的なら、なぜ生死を確かめもしないで人を呼んだか、という点です。いくらあわてていたからといって、一方では、前もってにせの足跡をつけておいたりした周到さにくらべて、あんまりつじつまが合わないじゃありませんか。第二には、にせの足跡をつける場合、往復の逆であることを看破されないために、足跡の重なることを避けたほど綿密なかれが、自分の足癖をそのまま、うちわにつけておいたというのも信じ難いことです」

 赤井さんの声が続く。

「簡単に考えれば、殺人とは、ただ人を殺す、ピストルを発射する、という一つの行動にすぎませんけれど、複雑に考えると、幾百幾千というささい.な行動の集合からなりたっているものです。ことに罪を他に転嫁《てんか》するための欺瞭《ぎまん》が行なわれた場合は、いっそうそれがはなはだしい。こんどの事件でも、めがねサック、クツタビ、にせの足跡、机上にほうり出してあった日記帳、池の底の金製品と、ごく大きな要素をあげただけでも十ぐらいはある。その各要素について、犯人の一挙手一投足《 きよしゆ とうそく》を綿密にたどっていくならば、そこに幾百幾千の特殊なる小行動が存在するわけです。そこで、探偵が映画フィルムの一コマ一コマを検査するように、その小さな行動のいちいちを推理することができたならば、どれほど頭脳明晰《ずのうめいせき》で用意周到の犯人でも、とうてい処罰をまぬがれることはできないはずです。しかし、そこまでの推理は、残念ながら人間力では不可能ですから、せめてわれわれは、どんな微細なつまらない点にも、たえず注意を払って、犯罪フィルムのある重要な一コマにぶつかることを僥倖《ぎようこう》するほかはありません。その意昧で、ぼくは、幼児からの幾億回ともしれぬ反復で、一種の反射運動と化しているような事柄、たとえば、ある人は歩くとき右足からはじめるか左足からはじめるか、手ぬぐいをしぼるとき右にねじるか左にねじるか、服を着るとき右手から通すか左手から通すか、というような、ごくごくささいな点に、つねに注意を払っています。これらの一見つまらない事柄が、犯罪捜査にあたって、非常に重大な決定要素となることがないともかぎらぬからです。

「さて、甲田君にとっての第三の反証ですが、それは例のクツタビとおもりの灰ザラとを包んであったハンカチの結び目なのです。わたしはその結び目をくずさぬように中の品を抜き出し、ハンカチは結んだまま波多野警部に渡しておきました。非常にたいせつな証拠品だと思ったからです。では、それはどんな結び方かというと、わたしどもの地方で俗に立て結びという、二つの結び端が結び目の下部と直角をなして十文字に見えるような、つまり、子どものよくやるまちがった結び方なのです。普通のおとなでは、非常にまれにしかそんな結び方をする人はありません。やろうと思ってもできないのです。そこで、ぼくはさっそく甲田君の家を訪問して、おかあさんにお願いして、何か甲田君が結んだものがないか捜してもらったところ、さいわい、甲田君が自分で結んだ帳面のとじ糸や、書斎の電灯をつってある太い打ちひもで、そのほか三つも四つも結び癖のわかるものが出て来ました。ところが、例外なく普通の結び方なのです。まさ,か、甲田君があのハンカチの結び方にまで欺瞞《ぎまん》をやったとは考えられない。結び目なんかよりもずっと危険な、かしら字のはいったハンカチを平気で使ったくらいですからね。で、それが、甲田君にとっては、一つの有力な反証になるわけです」

 赤井さんの声がちょっと切れた。弘一君は何もいわぬ。相手の微細な観察に感じ入っているのであろう。盗み聞くわたしたちも、真剣に聞ぎ入っていた。ことに、志摩子さんは、息づかいもはげしく、からだが小さく震えている。敏感な少女は、すでにある恐ろしい事実を察していたのであろうか。

THOU ARTE THE MAN

 しばらくすると、赤井さんがクスクス笑う声が聞こえてきた。かれは気味わるくいつまでも笑っていたが、やがてはじめる。

「それから、第四の、そしてもっともたいせつな反証はね、ウフフフフフフ、実にこっけいなことなんです。それはね、例のクツタビについて、とんでもない錯誤があったのですよ。池の底から出たクツタビはなるほど地面の足跡とは一致します。そこまでは申しぶんないのです。水にぬれたとはいえ、ゴム底は収縮しませんから、ちゃんともとの形がわかります。ぼくはこころみに、その文数をはかってみましたが、十文のタビと同じ大きさでした。ところがね」

 と、いって赤井さんは、またちょっとだまった。次のことばを出すのが惜しい様子である。

「ところがね」と、赤井さんはのどの奥でクスクス笑っている調子で続ける。

「こっけいなことには、あのクツタビは、甲田君の足には小さすぎて合わないのですよ。さっぎのハンカチの一件で甲田家をたずねたとき、おかあさんに聞いてみると、甲田君は去年の冬でさえ、すでに十一文のタビをはいていたじゃありませんか。これだけで甲田君の無罪は確定的です。なぜといって、自分の足に合わないクツタビならば、決して不利な証拠ではないのです。何をくるしんで重りをつけて沈めたりしましょう。

「このこっけいな事実は、警察でも裁判所でも、まだ気づいていないらしい。あんまり予想外なばかばかしいまちがいですからね。取り調べが進むうちに、まちがいがわかるかもしれません。それとも、あのタビを嫌疑者《けんぎしや》にはかせてみるような機会が起こらなかったら、あるいはだれも気づかぬまま済んでしまうかもしれません。

「おかあさんもいってましたが、甲田君は身長のわりに非常に足が大きいのです。これがまちがいのもとなんです。想像するに、真犯人は甲田君より少し背の高いやつですね。やつは自分のタビの文数から考えて、自分より背の低い甲田君が、まさかそれより大きいタビをはくはずがない、と信じきっていたために、このこっけい千万な錯誤が生じたのかもしれませんね」

「証拠のられつは、もうたくさんです」弘一君が突然、イライラした調子で叫ぶのが聞こえた。

「結論をいってください。あなたはいったい、だれが犯人だとおっしゃるのですか」

「それは、あなたです」

 赤井さんの落ちついた声が、真正面から人さし指をつきつけるような調子でいった。

「アハハハハ、おどかしちゃいけません。冗談はよしてください。どこの世界に、父親のたいせつにしている品物を池に投げ込んだり、自分で自分に発砲したりするやつがありましょう。びっくりさせないでください」

 弘一君がとんきょうな声で否定した。

「犯人は、あなたです」

 赤井さんは同じ調子でくり返す。

「あなた、本気でいっているのですか。何を証拠に? 何の理由で?」

「ごく明白なことです。あなたのいい方を借りると、簡単な算術の問題にすぎません。二から一引く一。ふたりのうちの甲田君が犯人でなかったら、どんなに不自然に見えようとも、残るあなたが犯人です。あなたご自分の帯の結び目に手をやってごらんなさい。結び端がピョコンと縦になってますよ。あなたは子どもの時分のまちがった結び癖を、おとなになっても続けているのです。その点だけは、珍しく無器用ですね。しかし、帯はうしろで結ぶものですから例外かもしれないと思って、ぼくはさっき、あなたにこの包帯を結んでもらいました。ごらんなさい。やっぱり十字型のまちがった結び方です。これも一つの有力な証拠にはなりませんかね」

 赤井さんは沈んだ声で、あくまで丁重なことばつかいをする。それがいっそう無気味な感じをあたえた。

「だが、ぼくはなぜ自分自身を撃たなければならなかったのです。ぼくは臆病《おくびよう》だし、見え坊です。ただ甲田君をおとしいれるくらいのために、痛い思いをしたり、しょうがい不具者で暮らすようなバカなまねはしません。ほかにいくらだって方法があるはずです」

 弘一君の声には確信がこもっていた。なるほど、なるほど、いかに甲田君をにくんだからといって、弘一君自身が命にもかかわる大傷をおったのでは引き合わないはずだ。被害者が、すなわち加害者だなんて、そんなバカな話があるものか。赤井さんは、とんだ思い違いをしているのかもしれない。

「さあ、そこです。その信じ難い点に、この犯罪の大きな欺瞞《ぎまん》がかくされている。この事件ではすべての人が催眠術にかかっています。根本的な一大錯誤におちいっています。それは『被害者は同時に加害者ではありえない』という迷信です。それから、この犯罪が単に甲田君を無実の罪におとすために行なわれたと考えることも、たいへんなまちがいです。そんなことは実に小さな副産物にすぎません」

 赤井さんはゆっくりゆっくり、丁重なことば、で続ける。

「実に考えた犯罪です。しかし、ほんとうの悪人の考えではなくて、むしろ小説家の空想ですね。あなたはひとりで被害者と犯人と探偵とひとり三役を演じるという蒲想に、有頂天になってしまったのでしょう。甲田君のサックを盗み出して、現場に捨てておいたのもあなたです。金製品を池に投げ込んだのも、窓ガラスを切ったのも、にせの足跡をつけたのも、いうまでもなくあなたです。そうしておいて、隣の志摩子さんの書斎で甲田君が日記帳を読んでいる機会を利用して(この日記帳を読ませたのも、あなたがそれとなく暗示をあたえたのではありませんか)煙硝《えんしよう》の焼けこげがつかぬようにピストルの手を高く上げて、いちばん離れた足首を撃ったのです。あなたはちゃんと、その物音で隣室の甲田君が飛んで来ることを予知していた。同時に、恋人の日記の盗み読みという恥ずかしい行為のため、甲田君がアリバイの申し立てについて、あいまいな、疑われやすい態度を示すに相違ない、と見込んでいたのです。

 撃ってしまうど、あなたは傷の痛さをこらえて、最後の証拠品であるピストルを、開いた窓越しに池の中へ投げ込みました。あなたの倒れていた足の位置が、窓と池との一直線上にあるのが一つの証拠です。これは、波多野氏の見取り図にもちゃんと現われています。そして、すべての仕事が終わると、あなたは気を失って倒れた。あるいは、そのていをよそおったというほうが正しいかもしれません。足首の傷は決して軽いものではなかったけれど、命にかかわる気づかいはない。あなたの目的にとっては、ちょうど過不足のない程度の傷でした」

「アハハハハハ、なるほどなるほど、一応は筋の通った考えですね」と、弘一君の声は、気のせいかうわずっていた。

「だが、それだけの目的をはたすために、生まれもつかぬ不具者になるというのは、少し変ですね。どんなに証拠がそろっていても、ただこの一点で、ぼくは無罪放免かもしれませんよ」

「さあ、そこです。さっきもいったではありませんか。甲田君を罪におとすのも一つの目的には相違なかった。だが、ほんとうの目的は、もっと別にあったのです。あなたはご自分でおくびょう者だとおっしゃった。なるほど、そのとおりです。自分で自分を撃ったのは、あなたが極度のおくびょう者であったからです。あめ、あなたはまだ、ごまかそうとしていますね、ぼくがそれを知らないとでも思っているのですか。では、いいましょう。あなたは極端な軍隊恐怖病者なのです。わたしはあなたが学生時代、近眼鏡をかけて目を悪くしようとこころみたことを探り出しました。また、あなたの小説を読んで、あなたの意識下にひそんでいる、軍隊恐怖の幽霊を発見しました。ことに、あなたは軍人の子です。こそくな手段はかえって発覚のおそれがある。そこであなたは、内臓を害するとか、指を切るというような常套手段《じようとうしゆだん》を排して、思いきった方法を選んだ。しかも、それは一石にして二烏をおとす名案でもあったのです。……おや、どうかしましたか。しっかりなさい。まだお話しすることがあります。 (弘一君の入隊がその年末にせまっていたことは、この物語の最初にしるしておいた)

「気を失うのではないかと、びっくりしましたよ。しっかりしてください。ぼくは、きみを警察へつぎ出す気はありません。ただ、ぼくの推理が正しいかどうかを確かめたかったのです。しかし、きみはまさか、このままだまっている気ではありますまいね。それに、きみはもう、きみにとって何より恐ろしい処罰を受けてしまったのです。この砂丘のうしろに、きみのいちばん聞かれたくない女性が、今の一部始終を聞いていたのです。

「では、ぼくこれでお別れします。きみはひとりで静かに考える時間が必要です。ただ、お別れするまえに、ぼくの本名を申し上げておきましょう。ぼくはね、きみが日ごろけいべつしていたあの明智小五郎なのです。おとうさんのご依頼を受けて、陸軍のある秘密な盗難事件を調べるために、変名でお宅へ出入りしていたのです。あなたは明智小五郎は理屈っぽいばかりだとおっしゃった。だが、そのわたしでも、小説家の空想よりは実際的だということがおわかりになりましたか……では、さようなら」

 そして、驚愕《きようがく》と当惑のためにうわの空のわたしの耳へ、赤井さんが砂を踏んで遠ざかる静かな足音が聞こえてきた。

   (『時事新報』昭和四年末より翌年一月)
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