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森鴎外「助六は下劣か」


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助六は下劣か
 「助六は何故に下劣といふ感を伴ふか。
作者が遊廓と云ひ遊女と云ふものに尊敬、羨望の意を捧げた気味の、明かに其中に読まるゝからである。若し作者が揚巻助《あげまきすけ》六を藉《か》つて、如此《かくのごとき》人生の裡にも、尚高大なる道徳あることを示すとか、深奥の真理なることを示すといふ意義であつたら、如上《ちよじやう》の道徳的批難は蒙らぬであらう。」
 右抱月君の説「劇文概観」によりて拝見す。
 助六を藉つて、高い道徳、深い真理を示すといふは、傾向なるべし、かういふ作は問題文学なるべし。
 現在の助六劇は、いかにも遊廓、遊女に尊敬、羨望の意を捧げた気昧がある。併しこれは遊廓、遊女を敬するを道徳とし、真理として書いたものにあらず、さる意図あるにあらず、しか着意せるにあらず、かゝる傾向あるにあらず、随て問題文学にあらざること論なし。
 現在の助六劇に、遊廓遊女に敬意を捧げた気味があるのは、此作の出た時と所と、此作を産した境界、此作者皆無邪気に、理路によらずに、これに敬意を捧げたりしによる。おいらん気質《かたぎ》、侠客気質を敬せしによる。而して許多《きよた》の疑問はこゝに生ず。
 遊廓、遊女を敬するを道徳とし、真理とする如き問題戯曲出でば、これに下劣といふ感を伴ふは必然なるか。当然なるか。此疑問は、例せば現在のヱデキンド(Wedekind)の作などを下劣とするも必然なるか、当然なるかといふ疑問と一つになるべし。
 無邪気においらんに敬意を表した作即現在の助六劇のやうなものに、下劣の感を伴ふは必然か、当然か。此疑問は、ペリクレエス(Perikles)時代のアスパジャ(Aspasia)を始として、あらゆる時代の遊女風の女の全盛を写した作品、例せば先頃のパウル、ハイゼ(Paul Heyse)のマグダレナ(Magdalena)のやうな一戯曲、我現時の露伴、紅葉、鏡花のある小説を下劣とするも必然か当然かといふ疑問と、一つにならぬまでも、若干の濃淡を持たせて、比べて見るべきものとなるべし。
 其外、無邪気においらんを敬した作にも、自ら高い道徳、深い真理があらはれて居るといふことは、あり得べき事か、あり得べからざる事かといふも、一疑問なるべし。
 望蜀《ばうしよく》かも知れぬが、ついでにこんな疑問にも論及してもらひたきものなり。
 抱月君の説は一々最の事にして、以上毫もこれに反対するものにあらず。現在の助六劇を下劣と見る個人若くは社会の存在を事実として承認し、助六劇の作者においらんを敬する意ありし為めに、下劣と見らるゝことあるをも事実として承認したる上、思ひ寄りたるところを打ち出した迄なれば、読者幸に誤解することなかれ。


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