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内藤湖南「慈雲尊者の学問について」


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慈雲尊者の学問について
 この慈雲尊者鑽仰会の方から私に出て何か話をするようにということで、この夏ごろからお話を承っておりました。ところが私は実はこういうところへ出まし て、慈雲尊者のことについてお話をするような、そういう自信のある研究をいたしておりませぬ。若いときから尊者に多少の因縁がありまして、『十善法語』な ども拝見したこともあります。しかし中年以後になりますと、自分の専門の学問が忙しいので、なかなか不断に尊者の著書を拝見しておることはできませぬ。そ れでも若いときからたいへん尊者に対して崇拝心をもちましたので、尊者の著述などは見当り次第集めるようにしておりました。そういうことから先年も長谷 〔宝秀〕僧正が尊者の全集を御編纂になりますときに、私のもっております本などが多少お役に立ったこともあります。そういうことで尊者に対する崇敬心は相 変わらずもっておりますけれども、尊者のことを研究して、何か世間に発表するというようなことはやっておりません。それでこのたびも、私に何か講演をする ようにという室谷さんからの御注文でありましたけれども、いっこう不断は何もやっておりませぬが、この夏ごろから尊者のことを勉強いたしましてお話し申し 上げましょうというておったのですが、折悪くこの夏病気をいたしまして、長い間京都で入院いたしておりましたので、その研究もできませぬ。それで今度も何 をお話ししたらいいかといろいろ思いましたが、何もお話しすることがありませぬので、演題についてもどういうようにしたらよいかと思っておりましたところ が、私の演題があまり遅くなりますから未定としておきましたが、今日ここへ出ますと、演題をどういうようにしたらよろしいかというので、「慈雲尊者の学問 について」というようにしていただきましょうということにしたのであります。
 私が慈雲尊者に因縁がありまして、そうしてその『十善法語』というような御著述を読むようになりましたのは、古いことは古いことであります。私は二十二 の年にはじめて自分の田舎から東京へ出ましたのですが、そのときは何か仕事をしながら学問をしなければならぬ境遇でありました。ちょうどそのとき紹介する 人があって大内|青巒《せいらん》先生のところへ参りました。そのとき大内さんが管理して書いておられた『明教新誌』という雑誌がありまして、それをお手 伝いするようにということでありました。その時分大内先生は非常に忙しいので、ときどきお筆をお執りになることができなかったのであります。翌年の正月の 初刊に、大内先生が忙しくて書かれないから、何か書けというので、私は何か書いたと思います。私はそれまでは仏教の本をそうたいして読んだことはないので あります。田舎に居りますときに、近くの寺で『碧巌《へきがん》集』とか『成唯識《じようゆいしき》論』というような本がありまして、それも誰の講義を書 いたというものでもなし、ただ版本でありましたが、仏教の本というものはどういうものかと思って、そういうものをひろげてみたことがあります。しかしとて も分かるはずがありませんでしたが、それでもいつの間にか仏教の意味が分かるようになっておったと見えまして、私の書いたのを大内先生が御覧になって、 「お前の書いたものは断・常二見を離れておるで仏教になるような頭をもっておる」ということをいわれました。私は、崗自分でどれだけ仏教になるような頭を もっておるか分かりませぬ」と申しますと、「慈雲尊者の『十善法語』というものを見たことがあるか」といわれます。「いいえ、見たことがありませぬ」と申 しますと、「それじゃこれをやろう、その中でいちばん終《しま》いに出ておる不邪見戒というものがある。それをまず第一番に読んだほうがお前たちに分かり やすいかも分からぬ」といわれたので、それを読んでみました。それは仮名書きであって、分かりよくお書きになっておるのでありましょうが、しかし本当はな かなか分からない。あれをお書きになるには、たくさんの本を読み、たくさんの理窟をもっておられますから、あれを読んで分かりましたといえば分かったとい うことにもなりましょうけれども、本当に分かったものでないのであります。とにかく拝見して慈雲尊者のえらい方であるということをはじめて知ったのであり ます。それから以来仏教のことには多少心が傾いておりまして、それでその後もいろいろなものを読みました。それから時としては世間では仏教を攻撃したよう に申しますが、研究法に新しい道を出しました富永仲基という人の本をたいへん喜んで読みました。これも初め仏教の悪口をいうた平田篤胤の書いた『出定笑 語』という本がありますので、それを読みましたが、富永仲基のことを非常にほめて書いてありますので、それから富永の本を買って読みました。それが私の二 十四、五歳のころであります。そのことを大内さんに申しましたところが、あれもなかなか面白い本だが、仏教の内らの人でも、あれに似た議論をもっておった 人があったということで、江戸の目黒の長泉院におりました普寂というえらい方の書いた『顕揚正法復古集』という本を大内先生がもっておられましたので、こ れを読んでみよということで貸してくれました。これも容易に分かる本ではありませぬが、しかしだいたいその意味は分かりました。
そのころからして徳川時代のそういうえらい仏教家の中には、今、村上老師のお話しになったような超宗派的の考えをもたれて、そうしてただちにお釈迦さんの とおりに帰ろうという考えをもっておられる人があるということを私は知りました。それでそのほうのことをだんだん研究したいとは思いましたけれども、中年 以後自分の専門の研究さえも十分にできませぬので、そういうことをやっておる時間は今日にいたるまでありませぬ。しかしその慈雲尊者とか普寂和上とかいう 人に対する尊敬心はそのころからもっておりました。それで時間があったら、ゆっくりそれらの方の本を拝見したいものだと思っておりました。幸い慈雲尊者の 全集は長谷僧正のお骨折りでできましたが、けれども私はそれを十分読んでおるということにはまいりかねます。それで今もって仏教については、私の若かった 二十代のときといくらも進歩しておりませぬ。仏教の尊いこと、慈雲尊者その他の人々の徳川時代においてなされました仕事の非常に立派なものであることは、 今もって考えておりますけれども、それについて十分な研究はどうもできませぬ。それで今日もこういうふうな演題は出しましたが、これはとても慈雲尊者の学 問の全体について申し上げるとか、批評をするとかいうことは、私にはできないと思います。本当から申せば、やはり最初たいへんにこの方はえらい方だと思っ て、その崇拝心が今でもあるのでありますから、みなさんといっしょに慈雲尊者に向かって礼拝しておればよいのであって、みなさんにお話し申し上げるのはは なはだ僭越の至りであります。
 慈雲尊者の本はそうたくさん読みませぬが、ただ私の専門は支那《シナ》のほうの学問でありまして、ことに支那の文化の発展、東洋文化の発展ということに ついてはいろいろ研究はしておるつもりでありますが、仏教に関したことは私は門外漢で分かりませぬ。その中で東洋文化というものが、支那文化の幹から枝が 出て、日本文化などもその一つで、だんだん今日にいたりまして、そうして支那文化と対立するのみならず、あるいはそれ以上に出ようかという歴史上の径路、 そういうことについては、何か本を読むときに注意をしておりますので、そういうほうの立場から、いささか自分の考えたことを申してみたいと思うのでありま す。その点から申しますと、慈雲尊者というお方の日本の仏教の学問上における地位は、私には十分分かりませぬけれども、仏教が日本の文化における位置、そ れから慈雲尊者がなさったお仕事、それが日本の文化における位置というようなことはだんだん考えられてきて、そこに多少私どもにも分かるような点があると 思います。さきほどからいろいろ村上老師のお話もありましたが、慈雲尊者のお骨折りになったのが、一面においては戒律を盛んにして、今お袈裟《けさ》のお 話もありましたが、慈雲尊者自身も「方服を復せ」といわれておるのでありますが、お釈迦さんの行われたとおりに方服を復すということは、その行もお釈迦さ んが行われたとおりにするという意味でありますから、そういう仏教における一つの復古思想というものが、日本文化にどういう関係をもっておるかということ が、よほど面白い点だと思われます。
 日本に仏教ができましてからずいぶん長い間でありますから、その間に盛衰もありましょうが、日本で仏教の非常に盛んであった時代、奈良朝・平安朝なんか の朝廷の御保護のあったときは申すまでもないことでありますが、これは朝廷の御保護のために、いろいろな仕事もでき、学者もできたのでありまして、日本の 国民としてその日本の国民の力からして、その仏教に対して真の働きをしたいという場合は、かえって帝室の御保護などのある奈良朝・平安朝のときでなく、鎌 倉以後であると思いますが、その鎌倉以後におきましても、一盛一衰はありますが、その中のもっとも盛んであったときは鎌倉時代であったと思います。その次 になって徳川時代がもっとも盛んであったと思いますが、そういうときに仏教がどういうような働きをしておるかと申しますと、鎌倉時代においては、一般の人 は仏教が盛んであると申しますと、そのときに新しい宗派が起こった、たとえば浄土宗が新たに起こってきた、門徒宗が新たに起こってきた、禅宗が新たに起 こってきた、日蓮宗が新たに起こってきたというようなことで、新宗派がだんだん出てきたのが、鎌倉時代における現象と思われますが、それも盛んになった現 象であるに違いありませぬ、それも皇室とか上の階級にとどまっておらずに、ごく下層の階級にまではいっていったので盛んになっていったのでありますが、鎌 倉時代にもそうでない考えをもった方があると思うのであります。その当時起こった新宗教に反対し、あるいはあからさまに反対をせんでも、新宗教を昔ながら の宗派から研究をして批判した人があるのであります。このあいだ栂尾《とがのお》の高山寺に明恵上人《みようえしようにん》の御|遠忌《おんき》がありま した。この明恵上人という方は、新しく起こった宗派に対して反対の意見をもっておった人であります。それは昔からあった本質の仏教を真に理解するというこ とが真の仏教だと考えてやられたのでありますが、そういうような考えはほかにもいろいろあって、その当時戒律の衰えておったのを復興に尽力し、あるいは学 問としてもさかんにやった方があります。笠置寺に解脱《げだつ》上人という人がおりましたが、その解脱上人も新宗派反対者の一人でありまして、仏教の真の 学問上の真理を明らかにするというふうに骨を折った人のようでありますが、そういうようにだんだん骨を折る人も、やはりその目的においては、新しい宗派を 起こして仏教を拡げるという以外に、本質的仏教を盛んにするということには、たいへんな尽力をしておるのであろうと思います。それらが当時の日本の文化に 影響を与えて、日本人の頭の発達については、たいへんな効果があったと考えております。
 その次になりますと徳川時代でありますが、足利時代のような乱世を通ってはじめて太平になった時代でありますが、そのときには日本の制度としては、いろ いろな関係から新宗派の起こることを、一種の政策上からして、ほとんど止められておったのであります。それでその新宗派を起こすようなほうに力を尽くすこ とももちろんできにくい。それから一つは日本の文化の大勢上そうなってきてもおりましょう。だんだん日本の文化も進んでまいりまして、つまり一般人民まで 文化のお蔭を蒙《こうむ》る教育がだんだん普及してきまして、下層の人まで、仏教を学ぶと申しましても、あるいは儒学を学ぶと申しましても、やはり真の深 い意味を研究しようということにだんだん日本全体の文化がなってきたように思います。鎌倉時代のように、お念仏申すそれが極楽へ往《ゆ》く早道だというよ うに、お念仏一方で極楽へ往こうという時代とは一般人民の文化が少し違ってきて、それで何かにつけて研究をしていこうという考えが起こってきておったから でもありましょう。徳川時代の仏教は新宗派というほうには発展をしませずに、内容の復興というようなことにだんだん傾いてきたように見えます。その中に著 しいのは、今の戒律の復興がもっとも大きな影響を与えておると思います。慈雲尊者も戒律復興のことについては、元祖とも申すべき槙尾《まきのお》の明忍 《みようにん》上人のことを特別にお書きになっておりまして、この明忍上人という方の出ましたことは、よほどこれが徳川時代の仏教の復興ということに関係 があろうと思うのであります。もっともそれでなくても、徳川時代の仏教は、政府の保護を受ける都合の好いことになりまして、そのほうから仏教者の生活の安 全ということは相当に行き届くようになってきたのでありますが、しかしそれはいくらか仏教者の境遇をよくするというだけでありまして、それのために仏教が 復興するかどうかということは、仏教者の心掛けしだいでありますが、だいたいに日本国民というものは、そういう都合の好い境遇にありましても努力を忘れな いという心があるものと見えまして、そういうように日本が戦乱から救われて、豊臣秀吉・徳川家康が出ると、ただちに仏教の復興ということができたのは、そ の端緒は槙尾の明忍上人の戒律の復興ということから出たと思うのであります。
 戒律の復興ということは、いわば仏教のほうの行いの復興でありますから、単に学問の修業ということとはいくらか違いますけれども、仏教には三学と申しま して、戒・定《じよう》・慧《え》であります。第一番にやるのは戒でありますから、それが復興するのはすなわち仏教の復興になりますので、その仏教者の生 活の姿をお釈迦さんのとおりにしようというのがいつでも先頭に立って、それから学問上の復興に及ぶらしいのです。徳川時代の仏教の復興についてはもちろん いろいろなことがありましょうが、とにかく慈雲尊者などは明忍上人の戒律復興に対して非常に重きを置いておられるようであります。それがまた実際日本の仏 教の復興にたいへん影響したのでありましょう。明忍上人がまだ在家の時分に書かれたものであろうと思うものを私がもっております。それが手に入ったのは偶 然でありますが、つまり当時の古い板本に博多板の『左伝』〔『春秋左氏伝』〕というものがありますが、その『左伝』を明忍上人が在家のときに読まれたとこ ろが、その『左伝』がいくらか足らなかったので、それを補写して読まれたと思うものを私はもっておりますが、それがちょうど慶長四、五年のころのものであ ります。そのためにことに明忍上人のことについては一種の親しみを覚えまして、機会があったら研究したいと思っておりますが、今にできませぬ。とにかく明 忍上人という方が、京都の朝廷に仕えておられたのが、仏門に入られて、朝鮮から支那へ渡ろうというつもりであったのであります。それが戒律の復興のためで ありまして、通受自誓の願は遂げたが、別受相承の望みを起こして対州〔対馬〕まで行かれた。そのときは朝鮮征伐のあった後で、対州から朝鮮に渡ることが禁 止になっておったので、そこでしばらく滞在しておられたときに、病気になられて遷化《せんげ》されたのであります。それで実際の仕事はできておりませぬけ れども、徳川時代の戒律復興という機運が明忍上人によって発しておるように慈雲尊者も申しておられます。いろいろな僧伝類を見ましてもそういうところが見 えます。そのほかにも私は深草の元政上人の書かれた『明忍上人行状記』というものを読みましたが、日蓮宗が当時だいぶだらしなくなっておったときに、元政 上人は非常に体の弱い方であったにもかかわらず、戒律の復興をなさったということは、他日仏教界に非常に感化を及ぼしたことでありまして、その元政上人も 明忍上人の志に感激して戒律復興の機運を作ったのであります。その戒律復興の機運はさきほど村上老師が仰せられるように、いわばお釈迦さんの当時の制度そ のままを今日実行するということでありますが、その制度を復興しようとなってきますと、それから続いて来るのは、お釈迦さん当時のままの仏教を興そう、そ の学問的の内容においてもそのままを興そうというのは、自然のことであります。この復興の意気が日本には充ち満ちておったのでありますから、それで徳川時 代の仏教というものはたいへん進歩したと思うのであります。
 以上申しますごとく、私は日本文化と戒律復興と非常に関係があると考えるのでありますが、その間にだんだん学問の発展の順序があるのでありまして、これ は仏教のみならず、儒学のほうにおいてもだんだん復興の機運ができてきまして、伊藤仁斎とか荻生徂徠《おぎうそらい》とかいう人がそういう機運を作ったの でありますが、これは仏教の影響でなく、自然にそういう方面に向いてきたのであろうと思うのであります。悉曇《しつたん》の学問にしても、ちょうど元禄時 代に儒教が伊藤仁斎というような人から復古的に興りましたころに、江戸の湯島の霊雲《りよううん》院の浄厳《じようごん》という方が悉曇を研究されたとい うことであります。慈雲尊者についても、慈雲尊者の講演集を拝見しますと、慈雲尊者が若いときに伊藤東涯のところへ漢学の稽古に行っておられたから、仁斎 の学問の風をいくらか受けられただろうということを、東京の辻〔善之助〕博士は考えられたようでありますが、私はそうは考えませぬので、それは慈雲尊者は 東涯のところで稽古はなさったのでありましょうけれども、東涯の親仁斎の気風を受けて慈雲尊者が考え出されたのではなかろうと思うのであります。ともかく 一般に日本の文化がそういう機運になってきたのだと思います。それで悉曇の学問でも、慈雲尊者が研究される前に浄厳とか寂厳《じやくごん》とかいう先輩も あって、その源はみなあるようでありますし、ことに戒律の復興は重要なことで、だんだん溯《さかのぼ》っていって明忍上人の時分にいたるまでの発達の径路 は、尊者もお書きになっておるようであります。さきほどの袈裟のことも、慈雲尊者はあとの人が研究の余地のないほど研究されたのでありますが、その前に華 厳の鳳潭《ほうたん》という人が袈裟のことを研究されたことがありまして、それを慈雲尊者が読まれまして、その著述を慈雲尊者が批評をされておられます。 またその鳳潭の著述を批評された中に、当時仏教の人ばかりでなく、漢学の人の著述も引いておられます。その中で尺度の研究は重要なことでありますが、慈雲 尊者は中根|元珪《げんけい》という人の書いた『律原発揮』という本をよく読まれておるのであります。この中根元珪という人は、当時非常に有名な人であり まして(京都の人)、すべて数学から割り出される音律・尺度、そういうほうの研究をしたのが『律原発揮』という本でありますが、そのほか、天文のことを非 常に研究されて、八代将軍吉宗のとき、支那から天文の本を取り寄せましたが、支那では当時西洋式の天文を研究しておったのであります。その西洋式天文を研 究した人に梅文鼎《ばいぶんてい》という人があります、この人に『暦算全書』という本があります、それが支那から参りました。幕府では八代将軍が天文のこ とをしきりにいわれたが、その本の読み手がないので、いろいろ探したところが、京都に中根元珪という人が居《お》るから、その人を呼んだら読めるだろうと いうので、その人を江戸へ呼び寄せました。中根元珪はその本に振り仮名と反《かえ》り点を附して誰にでも読めるようにいたしました。それが今宮内省の図書 《ずしよ》寮に遺っておりますので、私は非常に大事にしなさいといって、選り分けたことがあります。そういうことで中根元珪という人は、そういう方面に非 常な造詣《ぞうけい》をもった人であります。
『律原発揮』は薄い本でありますが、その研究は当時ではよくできておったので、慈雲尊者はその本をよく引いておられる。そういうところを見ると、慈雲尊者 はいろいろな方面のことを参考になさったことが分かります。私が考えるのに、慈雲尊者の学問は、一方においては、前人の研究を引き継いで、自分の力でそれ を大成されるという風があります。単に集めるというだけでなしに、その間に立派な批判をもっておられまして、短所は捨て長所を取っていく力量があったと思 います。慈雲尊者が書かれたのには、そういうふうに前の人の書いたのを参考にしていろいろ書いておられますが、その間に自分の新しく考えられたことがあ る。その考えられたことが非常に正確であるということが慈雲尊者の特別な長所でありましょうが、広くものを見られて前人の研究を資料にするということと、 一面にはそれを正確に批判をして、学問の研究を確かなものにするという両方の考えをもってその基礎とせられたことと思います。慈雲尊者の著述を私どもが ざっと通覧しましても、そういう点は十分に分かるようであります。まだ私は慈雲尊者の非常に骨折られた著述である『南海寄帰伝|解纜《かいらん》抄』につ いては、私の学問も足りませず、また時間もないので、十分に吟味してみることができないのであります。それを研究したらますます慈雲尊者のえらいことが分 かるのでありましょう。悉曇の上においても、慈雲尊者は江戸の浄厳律師とかまた宝島寺の寂厳|阿闍梨《あじやり》とかいう人たちの前人の著述を御覧なされ たようでありまして、これを読まれて批判され、さらに絶大の努力を加えられまして、その結果、『梵学津梁《ぼんがくしんりよう》』一千巻というような非常 な著述をなされ、単に大きいというばかりでなく、内容に深く立ち入られて「普賢行願賛」に対する解釈を書かれ、また弟子たちにもその学を授けられて、今日 出版されておりますのには、たとえば梵文『心経』〔『般若心経』〕、梵文『阿弥陀経』、梵文『金剛|般若《はんにや》経』の訳文の研究、解釈というような ものがみなつぎつぎにできました。こういう点で『梵学津梁』一千巻というものは、量において大きいのみならず、内容において非常に深いと思うのでありま す。また『般若理趣経』にいたりましては、漢文のほうから梵文に復してみようと考えられて、享和三年にその講義をなされた。もっともこれはそのときに考え つかれたのではありますまい、前から継続されておったのでありましょうが、講義の筆記に享和三年の奥書がありますから、これは尊者の亡くなられる前年であ りまして、八十六歳のときであります。そのときまで研究を続けられておったことが分かるのであります。
 また尊者のお仕事については、それが日本文化ばかりでなく、東洋文化においてどういう位置を占めておるかということに思い及ぶのであります。支那の清 《しん》朝は徳川時代よりは少しおそく開けたのでありますが、明《みん》末から清朝にかけて、いろいろの支那のすぐれた坊さんたちは、日本の仏教の学問に たいへんな裨益《ひえき》を与えておるようであります。たとえば浄土宗のほうでありますが、各宗にわたって非常に広く超宗派的に研究された雲棲《うんせ い》蓮池大師のような方の著述は、日本にたいへん影響を与えました。支那でもこの蓮池大師の学問は、非常に居士《こじ》の間に仏教が盛んになるような影響 を与えたのであります。この蓮池大師の影響は日本にも及んでおりますから、日本が支那から裨益を得たことも大きいのでありますが、私のことに考えますの は、日本の梵学は徳川時代における進歩によって、確かに支那よりも進んだと思うことであります。そのことを少し申してみたいと思うのでありますが、私は不 思議な因縁で、日露戦争のときに、奉天〔藩陽《しんよう》〕にありました蒙古《もうこ》文の「蔵経」と、乾隆《けんりゆう》帝が翻訳さして板《はん》にし ました満洲文の「蔵経」というものとを日本に持ってくるについて、私は特別な関係をもっております..幸いにして日本に持ってくることは持ってきたのです が、それは東京大学に置かれたために、先年の震災のときに一枚も残らずに焼けてしまいました。そのことを私は残念に思いまして、それが日本に来た由来なり とも遺そうと思いまして、それに関する始末と多少の研究を発表したことがあります。それがいくらか西洋の学者にも読まれて、仏・独の学術雑誌に引用されて おるのでありますが、その中のことで、慈雲尊者のお仕事と比較してみようと思うことがあります.
 北京に嵩祝《すうしゆく》寺という喇嘛《ラマ》寺があります。北清事変〔義和団事件〕以後荒らされて、今日では見る影もなくなっておりますが、住職は代 々|章嘉胡図克図《しようかフトクト》という活仏《かつぶつ》であります。その活仏の初代、二代目が非常な傑物であって、清朝の雍正《ようせい》・乾隆二 帝に信用されましたが、この二代目の章嘉胡図克図という人がたいへんえらい人で、西蔵《チベット》文をよく読むので、乾隆帝はその間にいろいろな翻訳事業 に着手をしたのであります。この人のやりました主な仕事は、いちばん初めは、日本にも伝わっておる『造像量度経』という仏像を造る規則を書いた本でありま して、それが乾隆七年ごろにできておりまして、これは蒙古人が西蔵文から翻訳したのを章嘉国師が直してやったのでありますけれども、それがともかく一つの 仕事のし始めであります。これが日本の寛保二年であります。寛保二年というと、慈雲尊者が『方服図儀』をお書きになる八、九年前であります。その次に乾隆 帝は『同文韻統』という本を作りました。これが清朝で語学に関する研究の初めといってもよいのであります。『同文韻統』という本は、清朝は非常に版図が大 きくなりまして、いろいろな国語を使う民族ができてきました。漢人はもとより、蒙古人・西蔵人・土耳古《トルコ》人、こういう民族が多くなりましたので、 それでいろいろな国語なりその国々の文字なりの研究をして、学問上統一してみたいというので、アルファベットの比較研究でありますが、それから入りまし て、昔からの仏教の梵語を漢字に充てたそのあて方を研究することになって、『同文韻統』という本ができました。それが乾隆十五年、日本の寛延三年でありま すから、慈雲尊者が『方服図儀』をお書きになっておるころであります。これができますと今度は乾隆十七年ごろからかかったろうということでありますが、十 二、三年間もかかってできたのは『首楞厳《しゆりようごん》経』を漢訳本から西蔵文に訳することであります。支那には漢訳の「一切経」ができてあるのはも ちろんでありますが、そのほかに西蔵文の「一切経」、蒙古文の二切経」があったのであります。それらを比較してみると、もちろん蒙古文の「一切経」は西蔵 文の「一切経」を翻訳したものでありまして、この両蔵は内容が同じでありますが、漢文にはあって西蔵文の「一切経」が欠けておる有名な経文が『首楞厳経』で ある、それは残念なことであるから、漢文から訳させようということになって、章嘉国師に命じて訳させることになりました。それが出来上がったのが乾隆二十 八年、日本の宝暦十三年でありますから、慈雲尊者が梵学を御研究になっておらるる最中だと思います。『首楞厳経』の復訳ができますと、その次にはいつから 始まったかはっきり分かりませぬが、乾隆三十
八年にてきましたのに『四体|合璧《がっぺき》大蔵|全咒《ぜんじゅ》』というものができました。これはたいへんな巻数でありまして八函八十冊もある大部 なものであります。これはだいたい西蔵文二切経」の中にあるすべての陀羅尼《ダラニ》を引き抜いたのでありますが、それに対して漢訳のほかに蒙古文・満洲 文もあるというように対訳を作ったのであります。そうして乾隆帝の考えでは、この音《おん》の学問というものは大事なもので、いろいろな言葉というものは 音から出るのである。漢字の「一切経」の対訳というものは、その代々の音、漢代なら漢代に翻訳した音の字、晋代なら晋代に翻訳した音の字というように、元 来同じ音であるのに、文字のあて方が違っておるために、今日ではもとの陀羅尼の音まで違ってくるというので、その上にその字を正確にあてはめておればよい が、どうかすれば音字の正確を欠いておる。それであるから今度はそれをひとつ正確にあてはめてみようというので、それで西蔵文・満洲文・蒙古文・漢文と、 この四通りの文字で陀羅尼を集めたのです。それがともかく四通りの文字を知っており、発音を知っておらなければできないことでありますから、博学な章嘉国 師に翻訳さしたのであります。そのとき荘親王という宗室《そうしつ》の人がおりまして、その人を総裁にしましてこういう本を作りました。これが乾隆三十八 年にできたのでありますが、乾隆三十八年は日本では安永二年に当たりまして、慈雲尊者はすでに明和二年ごろに、梵学の研究が一通り出来上がりまして、弟子 たちの護明《ごみよう》とか法護、諦濡《たいじゆ》とかいう人に講授したということであります。もう一つ乾隆帝のときにできました『集要』という本があり まして、これは仏教に関する語彙《ごい》の西蔵文・漢文・蒙古文・満洲文とこの四通りの対訳の本であります。慈雲尊者の『略詮《りやくせん》』・『広詮』 といわれる字引に似たものであります。これは序文のある本がありませぬので、いつできたものかはっきり分かりませぬが、乾隆の末年にできたものと思いま す。『合璧』が出来上がりますと、「一切経」の満洲訳に取りかかったのでありまして、これが大仕事でありまして、これが乾隆帝の一代のうちにできたとたい へん喜んでおられるのであります。
 従来支那においても仏教の研究は単に漢訳の内容について意見を出しておっただけでありますが、乾隆帝は直接にサンスクリットを読んだわけではありませぬ が、西蔵文を通じてでも研究をしようというので、当時章嘉国師にそれを朝廷の仕事としてやらしたのであります。その年数からいっても三、四十年もこれに費 やされたのであります。乾隆帝はあらゆる学問もして、あらゆる贅沢《ぜいたく》もしたのでありますが、それほど勢力のある人がやった仕事と、日本の慈雲尊 者のようなきわめてものさびた山寺で研究され、いよいよ出来上がったところで高貴寺で一生その研究をせられたという坊さんの仕事と比べてみると、たいへん 面白いと思います。それを考えますと、乾隆帝の仕事は単にうわべの仕事で、真にサンスクリットの研究はできていないのであります。乾隆帝は章嘉国師のいい なり次第でありまして、章嘉国師は西蔵文を通じて梵学を知っておったのでありまして、本当の梵学を知っておったのではないのであります。慈雲尊者のように 梵文の内容に立ち入った研究はしなかったのであります。それでいわば『同文韻統』でも、『四体合璧大蔵全咒』でも、単にうわつらの研究で、名義の上で西蔵 文で書いてある梵語に対して、漢字のあて方がどうであるかということを考え、多少直した点もありますが、それがいいか悪いか、今日でもたいへん問題であり まして、私はその研究はしませぬが、それらの点について研究した本で今日現存しておるものを見ますと、今日からはとても材料にして研究できないというほど お粗末なものであります。『同文韻統』というものはわれわれでも分かるものでありますが、これは昔あてた漢字は乾隆帝は違うというのでありますが、それは 今日の漢字の音で読んであてはめると、その梵語の音に合わないというだけでありまして、その文字の古音なり、またはその梵語の内容を研究してあてはめたの ではないのであります。それで支那の梵学の研究はうわつらだけでおしまいになったのであります。沿革なり内容なりまで立ち入って研究しなかったのでありま す。それに比べて研究材料も乏しい日本で、慈雲尊者が山寺で内容に立ち至って研究されたということはたいへんえらいところであると思うのであります。私は この日本の研究は、支那の研究に対して非常に誇りとしていいと思うのであります。辻博士が、慈雲尊者が梵語の研究では西洋人よりも一歩先んじておったとい われたということを私は承りましたが、支那のほうで比較してみますと、同時代でありますが、その出来ばえは非常に精細なものでありまして、これは慈雲尊者 がたいへんえらい人というばかりでなく、私どもはこれは日本人として支那人に対して非常に自慢のできるところであろうと思うのであります。そういうわけで 私は慈雲尊者に対して一種特別の尊敬の念を起こしておるのであります。最近に東方文化研究所の仕事の一部分として、清朝で作りました「四庫全書」に増補・ 続纂の目録を作って、批判をして出すことをしてみようじゃないかという話が出まして、私もその目録を書き出したりしましたが、ともかく日本の梵学の研究は 支那人より進んでおったので、私の出しました目録の中には慈雲尊者のものも出してあります。それができたら支那人に見せることができると思っております が、これは今進行中であります。私はサンスクリットも慈雲尊者の学問は分かりませぬが、とにかくそういうことを支那人ばかりでなく、世界の学界に発表する 機会が来つつあるのでないかと思っておるのであります。そういう点は、慈雲尊者がせられたことそれ自身非常に尊いのでありますが、それをまた日本文化とい う方面から見、これを東洋文化という全体から見て考えてみますと、非常に重大なことと思うのであります。どういうことでそれがいよいよ発表せられる機会が 来ますか、まだはっきりお約束できませぬけれども、そういう機運に向かいつつあるのであります。
 それについても慈雲尊者鑽仰会のほうでもお考えくださって将来やっていただきたいと思いますのは、今の『梵学津梁』の出版であります。これはもちろんな かなか容易なことではありますまい。容易なことではありますまいが、すでに慈雲尊者の全集でも、非常な困難を排して、長谷僧正があれだけのものを発行され たのでありますから、できないことはないと思います。私の関係したことでありますが、やはり梵学に関係したもので『阿叉羅帖《あしゃらじよう》』という本 がありまして、それが先年流布本が少いというので、本屋で聞いても非常に高いものになっておりましたが、私はこれが伊勢の津の西来寺という寺に板木がある ということを聞き出しまして、津の本屋にそれを出版するようにと勧めましたところが、それがまた刷り出されるようになりました。また静岡に山梨稲川という 人がありまして、支那の音韻を研究した人でありますが、それが稿本のままで出版にならずにおりました。それがちょうど昭和二年にその人の百年忌であるとい うので、その人を披露するために講演会が開かれました。私にも来てくれというので、私は行ってその人の学問のことを講演しまして、その人の遺稿を出版する ように勧めまして、とうとうそれが出版せられました。それは写真版ではありませぬが、一種の版で作りました。『梵学津梁』は全部は大量なものでありまし て、そういう小さい本とは比較にはなりませぬけれども、こういう鑽仰会のようなところで発起されて、そうしてこれの出版を完成する計画を樹《た》てられま したら、幸いに慈雲尊者は大阪で生まれられて、今日でも高貴寺は大阪府にあるのでありますから、そういう点で大阪で相当な人がみな賛成してやってくれるこ とになりましたら、この出版はできないことはなかろうと思うのであります。その点についてお考えを願いたいと思うのであります。私の慈雲尊者に関する考え というものは、いたって粗雑なものでありまして、こんなところでお話しするようなものでないのでありますが、ともかくも私が気のついたことだけを申し上げ た次第であります。
(昭和六年十二月五日講演、『慈雲尊者鑽仰会講演集』第参輯所載)

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