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三遊亭円朝 怪談乳房榎 三十二

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amizako

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三十二

 見違えるようになったから竹六も驚きましたが、
「へい、あなたが坊ちゃんかえ、まア大きく。」
「えゝ|坊《ぼつ》ちゃんという名じゃあねえよ。」
「これおとなしくなせえ。」
「それでもお坊ちゃんじゃアねえもの。」
「ねえとおっしゃって、あらそわれないよ、口許が先生に似ておいでだからね。」
「もうへい足かけ三年ばかりというものは、こんな草深えとこで育っただから、まるで|在郷者《ぜえごうもの》で、あれまたそこらへさ、小便しちゃア駄目だ、よさっせえ。」
「いえあのお前にあまえ、え、お|可愛《かわい》そうだよ、先生が御繁昌ならね、それこそ|絹布《けんぷ》ぐるめで、もし坊ちゃま。」
「またおれぼっちゃまだって、おれそんな名は知らねえ、ばかやい。」
 と竹っ切かなんどを持ちまして、田圃の方へすたすた逃げて行ってしまいました。
「どうもさっぱりしておいででいい、だが正介さん、お前ここにおいでのはどういう訳で。」
「さアおれが身の上を話せぼやっぱり長えだ、じつはこれこれの訳で。」
 と虚実を交ぜまして、これまでの家出をいたしたことを話しますから、竹六も気の毒に思いまして、
「そうかえ、それでお前が男の手一つで坊さまを養育したというわけ、なかなかそれはできない、お亡くなりなすった旦那がさぞ草葉の蔭でお喜びだろう、お前は感心だ、恐れ入った、竹六、感服……」
「お前様、今話したこと包まずにいうのだから、もし浪江さまが聞くと癇癪持ちだから、あの爺めふてえやつだ、と斬りかねねえから、どうか今日逢ったことは黙っていて……それもおれが命なんぞ一つや二ついらねえけれど、せっかく成人さしたあのお子を不憫だと思わば、のう竹六さん、お前さまも先の旦那には恩になっただ、それを忘れずば、どうかここでわしに逢ったことは、|一切《いつせつ》他言してくれるな、浪江さんへは云ってくれるな。」
 と頼みましたことで、竹六も真与太郎が今の姿を見まして、可哀そうだ、お気の毒だということが、肝に感じましたところでございますから、
「なにそんなことは案じねえが好い、けっして云わない、竹六請け合った上は、石を抱いても他言をしないから不思議だよ、それは、あゝべらぼうに暑い日だ、あゝ着物の汗でびっしょり、こいつは気昧がわるい、御免なせえ、ついでにちょっと帯を締めなおして、なに足は汚れたが足袋を穿いているから汚れないのはまた不思議だね。」
 と着物を着直しますつもりで、紙入れの中の金入れにはいっておりました金を残らず鼻紙の上へあけまして、こちらへまわりまして、
「正介どん。」
「あんだ、水でももう一杯上げようか。」
「なに水はよいが、これはね、失礼だよ、失礼だが、ここにたった二分二朱ある、これだけが今日の持ち合せ、と云うといつもはもっと沢山あるようだが、ないのも不思議さ、はなはだすくない、恥かしいが私の志、ああして何御不自由もない菱川先生の坊さまがあんな|形《なり》、いえそんなことをいっては失礼だがまことにおいたわしい、そこでこれは私が坊さまのことを思い出して、涙をこぼしたからその涙賃、いえどうかこれで、七月も近いから|単物《ひとえもの》の一枚も買って上げて下さい。」
「いやそれはおめえ様よしなさい。」
「いえそうものがたく出られると困るよ、まことに少し、たった二分二朱、竹六|先《せん》の旦那さまへ御恩返し、またお前の忠義はじつに不思議、それだから納めておいておくれ。」
「いやお前さま、金なんぞ貰ってはすまれえ。」
「まアまア取っておきなさい、それでは人の親切を無にするものだ。」
 と辞退をいたしますから、二分二朱無理におっつけました。
「もう片陰がだいぶできたから、それでは肝心の榎のお乳をおもらい申すのだ。」
 と、うがいなどをつかいまして、榎の下へいって見ますと、流行るとは申しますが、かかる辺土のことでございますから、お宮といったって小さな物で、杉かなどで拵えたお|札箱《ふだばこ》のようなお宮で、扉のうちに何か御札のような物があって前に|御幣《ごへい》が一本立っております。これ|御神体《こしんたい》で……竹六は|柏手《かしわで》を打ちまして、
「|南無白山大権現《なむはくさんだいこんげん》はらいたまえ清め、いやここは寺の境内だから、神道じゃアあるめえ、正介どんこのお寺は何宗旨だえ、え、なに、浄土宗、そんなら、オンガボキャアベエロシヤナア南無白山大権現様、南無白山大権現様、南無白山大権現様、真与島の御新造の|腫物《しゆもの》たちどころに平癒いたしますように、天下泰平《てんかたいへい》国土安穏《こくどあんおん》商売繁昌《しようばいはんじよう》息災延命《そくさいえんめい》家内安全《かないあんぜん》、|災難《さいへん》を|遁《のが》れ福をなにとぞ授かりますように、オンガボキャア……」
 なんどと一心に拝みまして、例の竹の筒へ榎の乳を受けまして、正介に|暇《いとま》を告げ、赤塚を出ましたのは八ツ頃でもござりましょうが、急いでやって来ましたから、ちょうど灯ともし頃に、柳島へ帰って参りました。
「へい、竹六只今帰りました。」

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