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久生十蘭「平賀源内捕物帳 牡丹亭還魂記」


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久生十蘭「平賀源内捕物帳 牡丹亭還魂記」

   嫦娥様のお迎い

「……いよう、源内先生、これは、いいところでお眼にかかりました。ちょうど通りがけだから、神楽坂の兜市《かぶといち》でものぞいて見ようじゃありませんか。なんでも、人形清の店に和蘭陀人形が出ていて、それがたいへんな評判だということです」
「そんなものは、もう見飽きている。わしは物産会の支度もあるでな、さような暇つぶしをしてはいられない。……わしは帰るよ。見たかったら、お前ひとりで見ておいで」
 鳩渓、平賀源内先生、相変らず、あまり機嫌がよくない。
 今では、江戸の年中行事の一つになっている源内先生主催の湯島の物産会。または、本草会ともいって、江戸第一流の医者や本草学者が和漢洋の異物を持ち寄って、「これは何に、これは何に」と衆議判をする博物の研究会。
 長崎はもとより、日本全国三十余ケ国から千五百種あまりの異草異石がこの日のために送られてくるという盛況ぶり。
 今日は、その支度のために、目黒の薬草園へと本草採集に行った帰り路。
 三年前の昭和四年に、恒例参府の甲比丹《かぴたん》ヘルマン・クリステイアーンから秘かに貰い受けた五粒の鬱金香《チユウリツブ》の種。
 源内先生、こっそりとそいつを薬草園の隅に植え、わが児でも大事にするように三年がかりで丹精した甲斐あって、ようやく一本だけが紅い花をつけた。
 実にもう、手の舞い足の踏むところを知らずといった恐悦ぶり。こいつを、今度の本草会へ出品して満座を驚倒させてやろうという計略。
 早く持って帰って、人眼につかぬ庭先に移し植え、あやまちのないようにしなければならぬと思っているもんだから、とても人形市どころの騒ぎではない。盲籠《めくらかご》へ入れた鬱金香を風にも当てぬように袖で囲い、心はもう神田白壁町の自宅の方へ飛んでいる。
 出尻伝兵衛《でつちりでんべえ》も大体そんなこととは察しているが、どうでも源内先生の智慧を借りなければならぬことがあるので、何とかうまく誤魔化して、その辺の小料理屋へでも引き込もうという魂胆。ああでもない、こうでもないと言いながら、神楽坂の方へ引き寄せようとするんだが、いま言ったような訳だから、源内先生、うんという筈がない。素気なく振り切って行ってしまおうとするので、伝兵衛は一生懸命。両手で袖を引きとめて、
「先生、まアちょっと待ってください。最近、実に奇妙なことがおっぱじまって、どうでも先生の智慧をお借りしなくてはならねえ寸法なんで、お手間はとらせませんから、その辺まで……」
 源内先生は、頬を膨らして、
「お前に会っちゃ扁蚕《スコルピョン》に取っつかれたも同然で、わしもホトホト手を焼くて。……一体何だ、何を訊きたいのだ、早く言え」
 伝兵衛は、四辺を見廻してから、
「……実は、この頃御牢内で無閭に人が死にます」
「死んだっていいじゃないか、定命が尽きれば誰だって死ぬ。不思議はなかろう」
「落着いていちゃいけません。まだ後があるんです。……それが、不思議なことには選りに選んでどえらいやつばかりバタバタと死んでしまうのです」
「ほほう」
「……この四日には、中田屋十人殺しのケレンの甚兵衛。……七日には、御廟所荒しの須崎内記。……十一日には、糠味噌の四斗樽へ甥を足で踏み込んで殺した、例の大悪人、笠森お仙の親父の山本忠右衛門……お処刑間近のこういう大盗賊《おおぬすつと》ばかりがコロリコロリと参ってしまうンです」
「それは、奇態だな」
「尤も、死ぬのはそういう奴等ばかりと限ったことはない。名題下ぐらいなところも死にます。……この月の二日にはじまって、今日までに大小締めて十一人とは、どんなもンです」
「どうも、いかんな」
 伝兵衛は、うなずいて、
「……ところで弱ったことには、江戸で誰れ知らぬものもない稲葉小僧新助。こいつが昨日の朝から弱りかけて、何とも危ッかしいようすになっているんです。……ご承知の通り大物も大物、しかも一ツ橋さまからお預かりした大切な身柄なんで、こいつにポックリ死なれでもしたら、お奉行所としちゃア立つ瀬がない。……この月は、曲淵甲斐守《まがりぶちかいのかみ》さまの月番なんですが、そのご心痛ときたら並み大抵じゃない。お役所医者を三人もくっつけて何とか繋ぎとめようと懸命にやっていらっしゃるンですが、これがどうも覚束ない。昨夜あたりから頼りないようすになって、妙なことを口走るんです」
「妙とは、どんなことだ」
「……遠い空の方でも眺めるような眼つきをして、『もう間もなく嫦娥《じようが》さまが迎いにくる』と、こんなことを言うんです」
 源内先生、首をひねって、
「嫦娥と言えぱ月の中に住んでいる女神のことだが、何でそんなことを言うんだろう。伝兵衛、お前、何か心当りはないか」
「冗談いっちゃいけません。わたしに心当りがあるくらいなら、あなたのようなウンテレガンにものを訊ねやしません」
「ウンテレガンとは失礼なことを言うやつだ。……ま、それはそれとして、いかにも奇妙な話だが」
 気紛れな源内先生、急に面白くなってきたとみえて、いがみの権太が首桶でも抱えているようなまとまりのつかぬ恰好で突っ立っていたが、何を思ったか、唐突《だしぬけ》に、
「よかろう、あまり長時間では困るが半刻ぐらいなら話を聞いてやってもいい。実のところ、最近、甲斐守に是非とも売りつけたいものがあるでな、少々恩に着せておく必要もある。いや、これはこっちの話だが」
 キョロリと伝兵衛の方へ振返って、
「そうときまったら早い方がいい。通寺町の飯塚屋へ行って芋棒でも食いながら話をきこう」
「いよウ、有難山《ありがたやま》のほととぎす」
 源内先生、先に立って、牛込見附を左に折れ、右手に鬱金香の籠をかばいながら神楽坂の雑沓を縫って肴町の方へ歩いてゆく。
 、坂の両側に小屋構え。一戸ずつ家定紋を染め出した幔幕を張り、店じるしには七尺もある大きな青竜刀を押し立て、甲冑、上り冑、幟、旗挿物、馬印やら菖蒲刀《しようぶがたな》、鎗長刀|弓箭鉄炮《ゆみやてっぽう》、鍾馗の像に武者人形。ところも狭《せ》に置き並べ、これに燈燭が映じて眼もうばわれるほどの美しさ。
 買手は押しあい、見物はぞめき、たがいの肩が擦り合うほどの混雑である。
 源内先生は、東側の小屋の軒下づたい、押され揉まれながら瓢々乎と歩いていたが、そのうちに何を見かけたのか、
「おッ、これは意外!」
 と叫びながら人形店の檐下《のきした》で棒立ちになった。

   腑に落ちぬ写生画

 人形の数も少なく、燈燭の影も薄い。しょんぼりした景気の悪い店で、店先に足をとめている客もほんの二三人、お義理のように気のなさそうな値定めしをしている。
 ところで、源内先生の方はたいへんな熱しかた。まるで親の敵にでも邂逅《めぐりあ》ったような眼つきで店の中を覗き込んでいる。
 丸太組に酒菰《さかごも》を張りつけた小屋境の蓆壁《むしろかべ》に、ざっかけない様子で二三枚の捲絵《まくり》が吊るされ、源内先生の灼けつくような視線がその上にピタリと吸いつけられている。
 伝兵衛がさしのぞいて見ると、茶懸巾《ちやかけはば》の絹に秋の七草のようなものをゴタゴタと描き込んであるのだが、絵柄も月並だし、色彩も冴えているとは言いにくい。一見、平凡な写生風な絵で、どう見たって意外などというしろものではない。
 伝兵衛は、腹を立て、
「先生のいうことは相変らず大袈裟ですね。……秋の七草かと見ればそうでもない。真菰だの車前草《おんばこ》だのをとりとめなく描き散らしただけのもの。こんなヘッポコ絵を何を大形《おおぎよう》らしく眺めていらっしゃるんです。こんなところに衝立になっていないで、早く行きましょう」
 と、袖を引くと、源内先生は、なおも絵から眼を離さず、
「実に、意外とも意外なこともあるものだ」
 と、もう一度唸るように言ってからようやく伝兵衛の方へ振返り、
「無学の徒というものは実に度し難いものだ。眼があっても、ただ漫然と物象の上側を撫るだけ。覯俗の区別もつかぬとは情けない」
 伝兵衛、弱ってしまって、
「無学でも提燈でもかまいませんが、こんなところで講釈なんかはじめちゃいけません。ひとが気狂いだと思って先生の顔を見ています」
「うるさい、もうすこし聞いていろ。……お前には車前草や真菰としか見えない、あの草は、実のところ、嘗つてわれわれの眼に触れたこともない異草なのだぞ」
 伝兵衛は頬をふくらし、
「だから、それがどうしたというんです」
「どうしたとは緩怠至極。あの二草は和蘭陀の本草図会にも載っていないものだ」
「へへえ」
「つらつら観察するところ、あの二草は確かに生態を写生したもの。とすれば、これは大椿事。お前にはこの不思議がわからんか」
 伝兵衛、頑固に首を振って、
「一向、わかりませんな」
「どうも困った奴だ。自分で言うのも気がさすが、江戸第一流の本草学者でさえまだお眼にかかったことのない異草を、どこかでひそかに栽培しているものがあると思われる」
 憑かれたようになって何かブツブツ言いながら、蓆壁の方へ近づいて行き、明いた方の手で捲りあげて下掛になっているのを眺めていたが、急にサッと顔色を変え、
「これは、油断のならぬことになってきた」
 と、口走りながら、あわただしく店の亭主に向い、
「おい、亭主亭主、ここに掛っているこの捲絵《まくり》は売品かな」
 源内先生の剣幕があまりにひどいので、亭主は、おどおどと揉み手をしながら、
「如何にもさようでございますが、何か、ご不審の筋でも……」
「いやいや、不審というのではないが、これを描いた画家の名が判っていたら知らせて貰いたいと思ってな」
 亭主は、うなずいて、
「そんなことならお安い御用でございます。これを描いたのは章信という貧乏画家で、ついこの先の袋町の裏長屋に住んでいるんでございますが、途方もない酒飲で、酒手に詰ると、こうして役にも立たぬ絵を持ってきて預けて行くのでございます」
 源内先生は、すこし落着いたようになって、
「狩野素川なら、矢の倉の書画会で三四度会ったことがある。浅草の親元をぐれ出して行方不明になっているということだったが、こんなところにとぐろを巻いていたのか。そんならば話は早い。では、これからすぐ出掛けて行って……」
 礼も述べずに檐下を飛び出すと、無闇な早足で坂を左に、袋町の方へ折れ込んでゆく。
 伝兵衛は置き去りを喰って、一時、ポカンと眺めていたが、気がついて慌てて先生のあとを追いかける。
 人波を押し分けるようにして、ようやく袋町のトバ口まで駈け込むと、二十間ばかり先を、源内先生がスタコラと歩いてゆく。
 伝兵衛は、息せき切って追いついて、
「置き去りはないでしょう。それじゃ約束が違いますよ、源内先生」
 と敦圉《いきまく》と、源内先生はどうした訳かひどく下手に出て、
「立腹してくれては困る。……実はな、伝兵衛。何とも奇々怪怪な事態に立ちいたったでな、鬱金香の、稲葉小僧のと言っているどころの騒ぎではなくなった。……これから素川に会って是非とも訊ねなければならないことがあるから、お前も一緒に来てくれ。……お前には何もわかるまいが、江戸のどこかで何ともえらいことが始まりかけているのだ。いま、ここでくわしいことは言っていられないが想像にも何にも絶したことで、わしの半生を通じて、今夜の如く卒然たる感情にうたれたことはない。マゴマゴしないで、早く素川の家を捜してくれ」
 憎まれ口こそきくが、源内先生にたいする伝兵衛の傾倒の仕方は仇やおろそかなことではない。
 奇才明識、四通八達の源内先生がこうまで眼の色を変えて騒ぎ立てられるからには、何かそれ相当の大事件に相違ない。
 伝兵衛も共々に逆上したようになり、自分が持ちかけたことも忘れて、
「へえ、ようございます」
 と、闇雲に間近の路地へ飛び込んで行った。

   突然息絶えた娘

 溝板づたいに路地のどんづまり。
 近くに長屋厠《ながやかわや》があるとみえ、なんともひどい匂いが漂ってくる。
 減込《めりこ》みそうになっている古井戸があって、その右側、穴だらけの煤け障子にぼんやりと燈火がさしているのがその家。
 かたちばかりの格子戸を引きあけて案内を乞うと、古畳を踏みながら、上り口ヘヌウと顔を出した狩野章信。
 後には、深川の扇橋に高楼を構え、素川風と呼ばれて、伊川院に匹敵する名手と持て囃された天才も、この当時はまだ見る影もない貧乏画家。
 鶴と言いたいところだが、義理にもそうはいわれない。秋の蟋蟀《いとど》のように痩せ細り、手も足も垢だらけで髯ぼうぼう。貧乏窶れがして毛の薄くなった頭に、何のつもりか、手拭をニツに折って載せている。後年、「素川の米屋かぶり」といって大流行になったこのかぶり手拭も、この当時はただ可笑しいだけのもの。
 眼ばかりいやにギョロつかせて上り口へ出て来たが、源内の顔を見ると、勢のない声で、
「いよウ、これはこれは、源内先生。如何なる風の吹き廻しで、手前どもの茅屋へ……」
 源内先生は、性急にうなずいて、
「いつぞやの矢の倉以来、御健勝でなにより。今日、突然清閑を驚かせ奉ったゆえんはな、実は、チト折り入ってお訊ねしたいことがあって……」
「ほほう、どういう御用か存じませんが、そこはまだ道路のうち。往来の立話というわけにも行きますまい。眼も当てられぬ貧居ですが、なにとぞ、こちらへ膝をお入れください」
 大狼狽《おおあわて》にあわてながら参差落雑《しんさらくざつ》する紙本やら筆洗やらを押しのけ掻きのけ、ようやく三人が膝を入れるほどの座をつくり、
「して、やつがれにお訊ねになりたい件とおっしゃるのは?」
 源内先生は、神楽坂の人形店で不思議な写生画を見て吃驚した次第を述べ、あの異草図はどういうところで写生したものかと訊ねると、どうしたものか、素川は真蒼《まつさお》になって声を顫わせながら、
「あれは写生したものではありません。実は、和蘭陀本草図会の挿入絵から模写したものです」
 源内先生は笑い出し、
「素川さん、揶揄《からか》っちゃいけません。いやしくも本草の学を専攻しているわたしの前で、そんな出任せは通らない。……大きなことを言うようだが、わしが一と眼見たら、挿入絵の引き写しか生態を写生したものか、明白に区別がつきます」
 と言って、つくづくと素川の顔を眺め、
「見受けるところ、面色蒼白となって呼吸も並々ならず逼迫しているようす。素川さん、あなたは何か隠していることがありますね」
 素川は、ハッと顔をあげて、
「……こうなったら止むを得ない、真実のところを申しあげますが、あの絵には少々仔細があるのです」
 呼吸を整えるように、ちょっと言葉を切って、
「その前に、ざっと道筋をお話しなければお判りになりますまいが、やつがれつらつら惟《おもんみ》るところ、狩野の画風というものは典型に陥って、如何にも浮薄粗拡。一般もまた狩野風に飽きて清新な画風を求めること頻りです。……荘重の画趣、卓落の筆致、破筆破墨も畢竟写生の道を通って始めて到り得るのだとこう思いまして、だんまりで親父の家を飛び出し、それからは足を擂粉木《すりこぎ》にして、あちらの一草、こちらの一花という工合に、狂気のようになって写して歩いて居りました」
「なるほど……」
「……ちょうど今から十日ほど以前、向島の関屋の里をぶらぶら歩いていますと、柵板塀を廻した一構えがあって、門の《ひさし》に『牡丹亭』と彫りつけた自然木の額がかかっている。……如何にも風雅な名だと思ってフト心をひかれ、どのような住いがあるのかと節穴から差覗いて見ますと、その内部は手広い本草畑になっていて、先生があの捲絵《まくり》でごらんになったような、なんともどうも、生れてからまだ一度も見たこともないような異花珍草が夥だしく栽培してあります。……やつがれ急に逆上《のぼせあ》がったようになり、何とかして花の側へ寄り、せめて一花だけでも写し取りたいと思いましたが、門は厳重に閉されているばかりか、『入門不許』という貼札までしてある。……さア、そうなると、いよいよ以って見たくなる。どうぞして畑の中へ入り込む方法はないものかと柵板塀の周りをグルグル廻って歩いているうちに、一ケ所だけ朽ち穴があいているところを見つけた。これぞ天の与えと思ってそこから首を差入れ、手近にあるやつから丹精をこめて写生をはじめました。……見咎められて穴を塞がれでもしたらそれッきりですから、日数をかけてやるに如《しく》はないと思い、一日一草と定めて七日ばかり通い、ようやく六種だけ写し取りました」
 素川は、唾で咽を湿し、
「……七日目の日、八ツ頃までかかって紅殻色の花を沢山つけた、馬酔木に似た、何とも形容しかねる異形の草を写し終え、やれやれと息をつきました。……ところでその日は、朝から照りつけてやりきれんような暑さ。二刻あまりも日向にしゃがんでいたもんだから、咽喉がカラカラに乾いて、はやもう眼も眩むばかり。凌ぎがつかなくって、無我夢中の態で井戸のある裏手の方へ廻り込んで行くと、ついぞ無い事に裏木戸が明いている。忝ないとばかりに、だんまりで忍び込み、井戸車の音を忍ばせて水を汲み上げ、いやもうガブガブガブガブ、鱈腹飲みこんでふうッと息をついた」
「だいぶ面白くなってきましたな」
 素川は、手でおさえて、
「いや、面白いどころの段じゃない、これからが、大変なんです。まあ、聞いていてください。……そういう訳で、渇きの方はおさまったが、今度は別な慾が出てきた。……この七日の間、毎日二刻あまりずつ囲いの中を見ているんですが、ただの一度も人の姿というものを見かけたことがない。一体どんな人間が、人里離れたこんなところで、こういう珍草ばかり蒐めて楽しんでいるのか、この園の主の姿をたった一眼でいいから見たくなった。……こう、焦れたようにフラフラと住いの裏手の方へ歩いて行った。……歩くと言ったって井戸端からどれほどもないんです。ものの三十歩ばかりのところに勝手の木戸がある。ずいぶん無茶な話ですが、こっちはもう憑れたようになっているんだから、前後の境もなく木戸の方へ寄って行つて猿に手をかけようとすると……源内先生……」
 源内先生膝を乗り出して、
「大切なところで撓《た》めちゃいけない、焦らさずに早くお話しなさい」
「……と、その途端木戸は向うからスウッと開いて、十七八になる美しい娘が雲でも踏むような足どりで出て来ました。……南無三宝、何しろ出逢い頭なもンだから、逃げも退くもなりゃしない、うヘッ、といきなりあやまってしまった。……ところで、その娘の美しいことときたら、それこそ何に譬えるものもない。上品な瓜実顔で、口元にすこし力みがあり、鼻はすんなりとして、眼などはまるで絵に描いたよう。強いて譬えれば、月宮殿から嫦娥でも舞い下りてきて、仮りに島田を結って立ち現われたかと思うばかり。やつがれは吃驚敗亡《びつくりはいもう》、魂を宙に飛ばしてアッケラカンと眺めていると、その娘は、鈴でもころがすような美しい声でこんなことを言った。……一体、何を言ったと思います、源内先生」
「そんなことが、わしにわかるもんか」
「やつがれの手に縋って……『どうぞね、あなた、あたくしを連れて逃げてくださいまし。ねえ、一生ご恩に着ますから……』
と、ここまで言ったと思うと、突然、眼の中が白くなって、足の方から崩れるようにヘタヘタと地面へ倒れてしまいました。
……急々|如律令《にょりつれい》、これアどうしたもんだと鼻孔へ手を当てて見ますと、もう、すっかり呼吸が絶えている。……人声もきこえなければ鳥も鳴かず、カッと陽ばかり照りつけて、花やら草やらが一面にギラギラと輝いている、妙に、しんとした真昼間。水の垂れるような美しい娘が、こう膝を折り曲げるようにして草の中で死んでいる。……見ているうちに、突然、ゾッとばかり恐しくなって、薄情な話ですが、後も見ずに雲霞。どこをどう走ったか途中のことはまるっきり記憶にはない。橋場の一朱椀、……川口屋の石焼豆腐の前まですッ飛んで来て、そこでようやく人心地がつきました」
 ここまで一気に物語って、素川がホッと息をついた。

   総髪にした猿田彦

 綾瀬橋の袂を右にダラダラと土堤下へ。
 田圃の中の一本道を五町ほどやって行くと、多聞寺の牛ノ松の傍までつく。
 夏も始め、正午に近いので、陽射《ひざし》は暑い。
 源内先生、伝兵衛、狩野章信の三人連れ。前後になってものも言わずにスタスタと急ぐ。
 水神の森つづきで、胡頽子《ぐみ》、皀莢《さいかち》、椋《むく》、樗《おうち》などという珍らしい古木が繁り合い、多聞寺の池に杜若《かきつばた》が美しく咲いているが、そんなものに眼をくれている暇がない。
 大急ぎに急いで、ようやく牡丹亭が見えるところまでやって来た。
 唐扉《からど》をつけた埋門《うずめもん》があり、草深い土地柄には不似合な冠木《かぶぎ》つきの物々しい柵板塀を廻している。
 素川に導かれて塀の横手へ廻ると、なるほど、留柱《とめばしら》と板塀の間が朽ちて、人間の頭が楽に入るほどの穴が明いていて、そこから本草畑の一部と住居の裏手を差しのぞくことが出来るようになっている。
 空気の中には、甘い澱んだような、何とも異様な匂いがムッと籠っていて、どういうものか小鳥の翔《かけり》さえきこえず、森閑とひそまりかえっている。
 源内先生は、塀の傍に突っ立って、しきりに鼻をうごめかしていたが、やがて押し出すような声で、
「いや、何とも不思議な匂いがする。この中で栽培している本草からくる匂いであろうが、薫香というのでもなければ、悪香というのでもない、何とも奇異な香り。天堂《パライソ》に遍満する忘憂香《ネーベンチー》というのはこのようなものであろうか。この齢になるが、わしの鼻はまだこんな匂いを嗅いだことがない。してみると、この中にあるのは何か余程の異草にちがいない」
 と、呟きながら、穴から首をさし入れるより早く、おうッ、と異様な叫び声をあげ、
「やア、これは、奇妙、奇妙」
 と、一切夢中の態で連呼する。
 伝兵衛は、狼狽て源内先生を引き戻し、
「源内先生、そんなところで大騒ぎをなすっちゃいけません。感づかれたら虻蜂取らずになってしまう。葉ッぱなんか眺めるのは後でいいから、ちょっとわたしに覗かせてください」
 狐憑きのようにボンヤリしている源内先生を押し退け、伝兵衛が穴から首をさし入れて眺めていたが、そのうちに、何を見たのか、おやッ、と奇声を発し、急いで穴から首を抜きとると、素川の耳のそばに口を持って行き、
「素川さん、ちょっと覗いてごらんなさい。十七八の、抜けるような美しい娘が手桶をさげて水を汲みに来ました」
 素川は、そんなことはない筈だが、と呟きながら、穴に顔をよせて一眼見ると、
「うわッ」
 と叫んで尻餅をついた。
 伝兵衛は驚いて助け起し、
「あなたまでが、そう騒いじゃしようがない。一体、どうしたというのです」
 素川は、舌を縺《もつ》らせながら、
「た、た、たいへんだ。幽霊が水を汲んでいる」
 伝兵衛は、腹を立て、
「何を恍けたことを言っているんです。あなた方のような酔狂人にかかっちゃまったくやりきれない、ふざけるのもいい加減にして下さい」
「いや、洒落でも冗談でもない、真実の話です。あれは、この間死んだ娘です」
「そんな莫迦なことがあるものではない。それは、あなたの見違いだ。たぶん、死んだ娘の妹かなんかでしょう」
 素川は、開き直って、
「見違いとは聞き捨てならんことを仰っしゃる。いやしくも狩野章信をつかまえて、見違いの見誤りのとは怪しからん。痩せても枯れても、物の象を活写することに精魂を涸らしている人間。一度見た娘を見誤るような粗雑粗笨《そざつそほん》な眼は持って居りません」
 源内先生は、素川の方へ近寄り、
「すると、素川さん、それア本当の話か」
 素川は、幾度も頷いて、
「髪容《かみかたち》もそのままなら、着物も十日前と同じ。紛れもなく死んだ娘です。嘘でない証拠をお目にかけますから、あなた方は塀の穴からよく見ていてください」
 と言って、小石を拾って袂へ入れ、身軽に塀に取りついて冠木の上まで昇ってゆき、手桶を下げて家へ入ろうとする娘の足元へ頃合を計ってポンと石を投げてやった。
 源内先生が覗いて見ると、なるほど素川の言う通り、スラリとした様子のいい、絵に描かせたいような美しい娘。
 不審そうに塀の方へ振り返って、塀の上の素川の顔を見ると、ホンノリと頬を染めて軽く会釈した。
 素川は、樗《おうち》の枝の間から手を出して、夢中になって娘を手招きをすると娘は急に暗い顔つきになり、淋しそうに首を振ってから、見返りがちに家の中へ入ってしまった。
 素川は、ポンと塀から飛びおりてきて、
「どうです、ニッコリ笑ったのをごらんになったでしょう。確かに、あれはいつぞやの娘です」
 源内先生も伝兵衛も、只々、うむ、と唸るばかり。あまりの意外に言葉もないようすである。
 三人が鼎立《かなえだち》になって腕組をしていると、塀越しに紙玉のようなものが飛んできて、ハタと源内先生の肩にあたった。
 驚いて拾いあげて見ると、小石を包んだ投げ文。
 その中に、忙がしい草書きで、
(牡丹亭、望《もち》の夜)
 と、ただそれだけ書いてある。
 源内先生、首を捻って、
「……牡丹亭は、牡丹亭。望の夜とは満月の夜。……これだけでは何のことやら一向わからぬ。一体これはどういう意味かしらん」
 投げ文を、と見こう見しながら、ブツブツ言っていたが、何を思いついたか二人に向い、
「甚だ相済まんことだが、二人で馬になって、わしに本草畑を眺めさせてもらいたい」
 二人が馬になって源内先生を塀の上へ押上げると、源内先生はあちらこちらと隈なく本草畑を眺めていたが、やがて、如何にも不審気な口調で、
「見渡すところ、妙な草ばかりで牡丹などはただの一本もない。牡丹もないのに『牡丹亭』というのはどういう訳だろう」
 と、言っていたが、急に声をひそめ、
「おい、見ろ、見ろ、妙な男が出て来た」
 二人が狼狽て穴から差覗くと、いま縁から庭へ下りようとしている齢の頃五十五六の、猿田彦の面そのままの異相の男。頭を総髪にして肩まで垂らし、綸子《りんず》かなにかの白無垢の着物に枳殻色《からたちいろ》の陣羽織を羽織り、天正時代の軍学者のような奇妙な風態をしている。
 身の丈は五尺そこそこで、両手の先が膝小僧のずっと下まで届き、すこし前屈みになって両手を振って歩くようすときたら、さながら猿猴《さる》。
 沓脱石の下までおりて来て、そういう異相を振りあげ、円ら眼でキョロリと空を眺めていたが、井戸端に立竦んでいる娘を見ると、何やら切れ切れなことを叫びながらピョンピョンと飛ぶように娘の方へ駈けてゆき、手頸をつかまえて荒々しく家の方へ曳きずり始めた。
 まるで鷲に捉えられた小雀のよう。足元を乱して地面ヘベッタリ膝をついたまま、見るも憐れなようすで引擦られて行く。
 猿面の男は総髪をふり乱しながら凄まじい形相で娘を家中に曳きずり込むと、いきなりハタと障子を立て切ってしまった。
 思わず顔を見合せているうちに、素川は、嘆息を洩らし、
「ああ、気の毒なものだ。……宛ら『西遊記』の山節を眼で見るよう。美女が猿妖に虐られるといった体で、如何にも無惨な気がいたします。何とか助けてやる法はないものでしょうか」
 伝兵衛は、腕を組んで、
「娘が変死したというのなら兎も角、生き返ってピンピンしているというんじゃ、踏み込んで糺明するというわけにもゆきません。死んだ筈の娘が生き返ったなどというのには何か曰くがありそうだが、、さればと言って、どうすることも出来ない。このアヤはひとつトックリと考えるとして、今日はこの辺で一と先ず引上げようじゃありませんか」
 源内先生は、うなずいて、
「そうそう、軽率に運んでは事を破る。一応引上げて熟考することにしよう」
 先刻の道を戻りかけて門の前まで差しかかる。
 源内先生は門の楯に掛けられた牡丹亭の扁額を見上げながら、牡丹亭……望の夜……と口の中で幾度も繰返していたが、突然、眼を輝やかして、
「読めたッ。『牡丹亭』の謎が解けたぞッ」
「えッ」
「おい、伝兵衛、マゴマゴしないであの猿面を召捕ってしまえ」
「冗談仰言っちゃいけません。いかに役儀でも、理由もなくひとを引ッ括ることは出来ません」
 源内先生は、 一種凛然たる声で、
「心配はいらん。鳩渓、平賀源内の一命にかけて奉行所の顔にかかわるようなことはせぬ。構わないから召捕ってしまいなさい。後のところは、源内、確かに引受けた」
 と、言いながら甲斐甲斐しくジンジン端折りをし、
「さあ、素川さん、そんな間抜けた顔をして突っ立っていないで、あなたも尻端折をなさい。草履なんかも脱いでしまって。……これから伝兵衛に加勢して猿田彦を召捕りに行くんです」
 素川は、俄かに勇み立って、
「いよウ、大賛成。……実は、先刻から腕がムズムズしていたところなんです。貧乏窶れがして身体こそヒョロヒョロだが、意気だけは衰えない。猿蟹合戦の石臼じゃないが、精神の重みであいつの背中にのしかかり、ギュウとも言わせずに圧えつけて見せます。そうときまったら早速乗込みましょう」
 伝兵衛も、急に顔を引緊めて、
「先生がそう言われるからには、何かそれだけのお見込みがあっての事なのでしょうが、一体どういう訳柄《わけがら》であの猿面を召捕るのですか」
 源内先生は、首を振って、
「それは、ここで言うわけにはいかん、黙ってわしを信用して貰いたい」
「よろしゅうございます。では、何もお訊ねせずに仰言る通りにいたします」
 キッパリと言って、忙しく門のあちこちに目測をくれ、
「先生、ここからじゃ歩が悪い、裏門から踏込みましょう」
 伝兵衛を先に立て、三人、一列になって裏門の方へ廻り込んで行く。

   大爼の上の獄死人

 三日おいてその次の日が本草会の当日。
 名に負う本郷湯島の本草会。聖堂寄りの道端にズラリと置かれた塗棒の供駕籠の列は蜿蜒三町もつづき、参会の諸衆は踵をついで東西から集まってくる。
 物産館の大玄関には梅鉢の定紋のついた紫幕を掛け、式台には七人ばかりの門弟が控えていて一人ずつ出迎い、記名帖へ記名させてから、奥へ案内する。
 定刻間近くなれば、百五十畳敷の大広間に居流れる日本一流の儒者、医者、学者、凡そ百二十人。
「今回の本草会には、破格の珍物が出品されますにつき、何卒、まげて参会の栄を賜度」という急仕立の廻状が廻ったので、いよいよ以て大方の好学心を煽り、讃州高松の藩主、定例参府中の和蘭陀の甲比丹、北町奉行、並に与力、添役などという珍らしい顔が見える。
 別席上座には、松平讃岐守、すこし下って北町奉行曲淵甲斐守、つづいて甲比丹オルフェルト・エリアス、外科医イカリウス・ヤゴブス、大通詞《だいつうじ》楢林重右衛門、小通詞堀儀右衛門。
 学者側の席には「解体新書《ターヘル・アナトミア》」の翻訳で有名な杉田玄白、中川淳庵、前野良沢、桂川甫周、甘薯先生青木昆陽、心学者中沢道二、天文学の西川忠次郎、深見久太夫、物産学の丹羽正伯、長尾全庵など。
 友人側の席には、蜀山人太田南畝、大槻茂質、円山応挙などいずれも錚々たる顔触ればかり。
 末座には百八十人の門弟が膝を正して居並び、その中に伝兵衛と素川が交っている。
 今日の源内先生の男ッぷりは、また一段。総髪の先を切って茶筅髪にし、黒の五つ紋の羽織に仙台平の袴、紫の打紐を胸高に結び、小肥りした体躯をゆったりと寛うがせて下座寄りの大柱の前に坐っている。
 程なく、衆議判開始合図の拍子木。源内先生は、静かに判座に進み出で、物産本草会の趣旨を述べて挨拶が終わると、徐《おもむろ》に咳払いをし、
「これより直ちに衆議判に移りますが、その前に、異草異石とは言いがたい、チト面妖な物体について、諸賢のこ判定を煩したいのでございます」
 と言って、下座へ合図すると、奥の方から五人掛りで四尺に七尺ばかりの大爼を担ぎ出して来て座敷の真中に据える。
 列座の一同は、何事が始まるかと眼を欹《そばだ》てているうちに、つづいて運び出されてきたのは、思いもかけぬ水浅黄の獄衣を着た一個の死体。
 それを静かに爼の上に横たえると、門弟どもは一礼してひき退る。
 源内先生は、面を振りあげ、上手から下手ヘズーッと一座を見廻し、
「さて、方々、ここに差し置きましたこの死体は、去る月、神田一ツ橋邸にて捕えられ、一昨日朝、伝馬町牢内にて死亡いたした、各位もお聞及びの稀代の大賊、武蔵国新井方村百姓市兵衛の伜、稲葉小僧新助の死体……」
 期せずして、満座、異口同音に、おうッという驚異の叫び声をあげる。
 源内先生は、手で制し、
「かような不浄な死体を、この席に持ち出したゆえんにつきましては、後程くわしく申しあげますが、それに先立って、杉田玄白、前野良沢先生に、この者が全く死亡しおるや否や御検定をお願い申したいのでございます」
 杉田玄白、前野良沢の両人は軽く頷いて前後して座を立ち、静かに稲葉小僧新助の死体の傍に進み寄って、脈をひき、心音を聴き、眼瞼《がんけん》、口腔、肛門、手足の先まで入念に検め終ると、低声に意見を交したのち、前野良沢は、判座に会釈をし、
「只今、診察いたしますところ、爪は悉く死紫色を呈し、四肢の末端に既に軽微なる腐敗が始まって居ります故、この者は全く死亡しているものと認めるほかはありません」
 源内先生は、丁寧に会釈をかえし、
「死因は、如何なるものでございましょうか」
「病中に臨床いたしませぬ故、的確なことは申されませんが、全身黄疽様の色彩を呈して居りまする故、肝臓及び腎臓の脂肪変性がその原因かとも思われます」
「このものを回生せしむることは可能でございましょうか」
「先程も申します如く、既に屍蝕が始まって居ります故、百年後のことは知らず、現今の医術では、この者を回生せしめることは至難のことと思われます」
 源内先生は、一座の方へ向き直り、
「日本に並びない西洋方の両大家が慎重に診察されました結果は只今お聞きの通りでございますが、然るにこの者を、この場において起生せしめる秘術を心得ておる者がございます」
 満座の口から再び深い驚異の叫び声が洩れる。
 源内先生は、一座のざわめきがおさまるのを待って、
「天命が尽きて死亡いたした者であれば、如何なる医術を以ってもこれを起生せしめることは困難でございます。然し、これは他日蘇生せしめる目的で巧妙に仮死せしめたものであります」
 源内先生の口調は愈々流暢の趣きで、
「この月の始めより伝馬町御牢内に於て御処刑間近の大賊が次次に死亡いたし、僅か一と月の間に既に十二人を数えて居ります。……これは如何なる次第であるかと申しますと、さる薬学者が、それらの者を仮死の状態にいたして牢内から死体として運び出させ、一日以内に他の解毒薬を与えて蘇生せしめる……つまるところ、処刑を遁れしむる目的で、さようなる毒薬を巨額の金子で頒売して居ったのでございます」
 前野良沢は、膝を進め、
「これは奇異なことを承わるものでござる。……西洋方におけるわれわれの知識は至って浅く、和蘭陀薬学の知識もいまだ微細なものでございますが、われわれの診察いたしたところによりますと、毒死に類似した如何なる徴候も呈して居りません。平賀先生の只今のお言葉が真実といたしますれば、それは如何なる薬方、また如何なる方法によってなされたものでございましょうか。……ご承知の通り、伝馬町御牢には食味医師という者が居りまして、獄囚の飲食物は勿論、飲水、薬湯の果にいたるまで一々食味して差し入れる例になって居ります、右のような次第で差入物にさような毒が混じてあれば、これは至って容易に看破されるわけ。……この方は如何でございましょうか」
 源内先生は、頷いて、
「そのご不審はこ尤も。……それに就てはこれより仔細に申しあげます。……それは、かような巧妙な方法で行われたのでございます。ご承知でもございましょうが、牢内に病人又は衰弱はげしき者がありますれば、補強の料として毎日一定量の蜂蜜を与えることになって居ります。そのさる薬学者は己れの本草畑にマンドレーク、毒人参《ヘメロツク》、ハッシッシュというが如き、珍奇なる毒草を夥しく栽培する傍ら蜂を飼い、それらの花の蜜を吸って作られた蜂蜜を採り蒐め、これを滋強料として差入れて居ったのでございます。……この蜂蜜の中にはマンドラゴラの毒成分アトロピンが微量微妙に混成されているのでありまして、一二度の食味では何等の作用も成し得ませぬが、これを定量連服いたしますと、追々に身体の諸機能を退行せられ、その極限に於て死亡したると聊かも変らぬ仮死状態に陥るのでございます」
 あまりの意外に、満座の一同は声もなく水を打ったようになってひそまり返っているうちに、源内先生は、言葉を継ぎ、
「さる薬学者と申しますのは、琉球、八重山の本草学者で宇留満察波《うるまんさつば》と申す者。宝暦十二年の春、八重山に漂着いたした和蘭陀人ヘンドリック・ハーステルという者より毒薬学の薬方と毒草の種子を貰い受け、巨利を博そうために向島関屋の里に於てこれを栽培し、獄囚の親族知合に高価なる金額を以って頒売して居ったのでございます」
 杉田玄白は、口を挾み、
「それが事実といたしますれば実以って驚き入った次第。しかし、死せしめて置いてまた蘇生せしめるなどというのは中々容易ならぬ事柄。余程の信頼がかけられなければそれを処用することはなりかねると思いますが、この辺のところは如何なものでございますか」
「これには、実に気の毒なことがござって、お話し申すさえ不憫な心持がいたすのでございますが、宇留満察波はその辺のところを予期いたし、目黒村の百姓加太郎の娘おみよという者を十歳のときに貰い受け、買手の信頼を贏《かちう》るため、必要ある度に自在に仮死させ蘇生させ、恣《ほしいまま》に実験の具にいたしておったのでございます」
 ここまで言い来って、 一段と厳格な口調になって、
「此度、曲淵甲斐守殿の特別なる御斡旋により、宇留満察波氏の身柄を暫時拝借いたし、如何なる方法によって、完く絶命したるこの死体を回生せしめるか、その技をとくと諸賢の御高見に供するつもりなのでございます。わたくしが、今日の本草会に於てかような奇異を行いまするのは、我が国の西洋方医の発達に聊かの資といたさんためでありまして、意図はいかがあれ、知らざるを識り、足らざるを追求して倦むことなきこそ我等学究の採るべき態度と思います故、奇矯の誹謗《そしり》も怖れず敢てかようなことを企てました次第。何奉、平賀鳩渓の微意をおくみ取りくださるよう、偏に願いあげます」
 源内先生の合図に従い、左右から同心に袂をとられて宇留満察波が現われ来る。
 どのような形容の人間が、かような稀代な悪事を企んだかと、満座膝立上りに伸びあがって察波を注視する。
 察波が大爼の前にひき据えられると、源内先生は、丁寧に一礼して、
「さて、宇留満先生、ここに御出座願いましたのは、日本本草会の判長として、ひとつお願いいたしたいことがあるからでございます」
 察波は、背伸びをするように陣羽織の襟を押し立て、キョロりとした猿眼で源内先生の顔を打ち戍《まも》りながら、
「お願いとはどのような筋。手前に叶うことなら、如何にも聞きとどけて進ぜよう」
「早速の御承知で有難う存じます。お願いと申すのは他ではない、このとこに横たわって居ります稲葉小僧新助を回起蘇生させて頂きたいのでございます」
 察波は、爼の上の死体をつくづくと打ち眺めてから、横着なようすで空嘯き、
「わしは一介の薬師でな、かような腐肉のような死体を回生せしめるほどの腕は持って居らんよ。そんなことならば、ここにおいでの前野先生か、杉田先生にお頼みになるが至当であろうて」
「宇留満先生、さような逃口上を仰言らず、遁れぬところと思召してわれわれ後学のために、何卒蘊蓄を傾けてください」
 察波は、セセラ笑って、
「遁れぬところとは聞き捨てならん。それは、一体、どういう意味でござる」
「然らば伺いますが、向島関屋の里に厳重な高塀を廻らし、専ら奇異な毒草を栽培して居られるのは何のためですか」
「そんな愚問に答えるのは真ッ平ご免。手前は薬草学を専攻する者であってみれば、薬草を栽培しようと毒草を栽培しようと、何の不思議もない筈」
「然らば『牡丹亭』というあの庵名はどういう意味なのでございますか」
「何をくだらぬ。牡丹亭は牡丹亭、読んで字の如しさ」
「お答えがなければ、わたくしから申しましょう。……『牡丹亭』とは支那の稗史小説『牡丹亭還魂記』をもじったもので『還魂』の隠し言葉と察しましたが如何でございます」
 察波は、グッと詰まって、円ら眼をキョロつかせているうちに、源内先生は浴せかけるように、
「あなたが毒草の花の蜜を吸わせた蜂蜜によって獄囚を徐々に涸渇仮死せしめ、一旦葬らせた上、これを掘り出して解毒薬を与えて回生させること。毒薬の方を『朔』と名づけ、解毒薬の方には『望』と名づけていることまでちゃんと証拠が挙っております。朔とは即ち死、望とは即ち生。……和蘭陀の俗語にも解毒薬を『|月の涙《モンドブルト》』といい、満月の夜に製した毒薬は、同じ毒薬の毒を消すという伝説もあるとか。……獄囚が、『嫦娥様が間もなくお迎いに来る』などと口走ったのは、天網の疎ならざるゆえん。実は、私は、 『牡丹亭』の扁額と『嫦娥の迎い』という言葉を思い合せ、容易にあなたのなさっていられる意図を察することが出来たわけです」
 と、言って、言葉を改め、
「宇留満先生、あなたも本草の学に精魂を傾けられた秀抜なお方。ここに集まって居ります者は、あなたと等しく学問を愛し、その発達によって国家に裨益することに身命を捧げているものばかり。……われわれ後学の好学心を諒とせられ、解毒起生の秘法をわれわれに残して行って頂きたいと存じます」
 察波は、膝を崩して大胡坐をかき、
「冗談いっちゃいけねえよ。馬鹿にするな。……十年の長い年月、寝る眼も寝ずに研究した秘法をノメノメとお前達に教えて堪るものか。これは、俺が冥土の土産に持って行く。さア、取れるなら取ってみろ」
 と、凄い形相で絶叫すると、白綸子の着物の縫目から粟粒ほどの丸薬を取り出し、遮ぎる間もなくこれを口に含むと、鼻口からおびただしく吐血し、前のめりにガッパとうち伏して縡《ことき》れてしまった。
 末座の方に、ウッという女の泣声がした。素川の腕に免れて泣いているのは、いつぞやの美しい娘のおみよだった。さまざまな思いが胸にせき上げてくる風で、素川に背を撫でられながら、いつまでも泣いていた。

 

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