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兼常清佐「音楽の合理化」


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兼常清佐「音楽の合理化」

 1 音楽は誰のためのものか

 音楽の歴史は極めて古い。この三千年の間にいろいろな音楽がいろいろな人々のために作られた。彼らはみなその音楽によって心を慰めた。音楽の歴史は一面では人間の享楽の歴史である。
 音楽の歴史は人間の享楽の歴史ではあるが、しかしその享楽のしかたは音楽を聞く人々の間で必ずしも一致していない。また時代々々で必ずしも一致していないようである。
 私は今ベートーヴェンを例にとって見る。ベートーヴェンは大きなジンフォニーを九つも作った。そしてそれは今日まで音楽の世界の最大な宝とされている。大芸術だと言われている。そして今日まで多くの批評家や学者が、それについてたくさんの論文を書いた。そしてそれはあるいは人間の運命の闘争を描いたり、あるいは英雄の悲劇的な生涯を描いたり、あるいは自然を讃美したりした誠に意味の深い大芸術だと言った。それで私共はそれを聞く時には、いつも深い尊敬の感情をもって予言者の宣託でも聞くように、畏《おそ》れ謹んで聞かなくてはならないようになっている。
 しかしこれがはたしてベートーヴェンの音楽の本当の意味であったであろうか。ベートーヴェンを保護してその音楽を作らせたものはりヒノフスキーやロブコーウィッツのようなウィーンの貴族である。ベートーヴェンの音楽は大部分このような貴族のために作られたものである。ベートーヴェンのジンフォニーをまず最初に聞いて享楽した人はこのようなウィーンの貴族たちである。そうするとウィーンの貴族は、今ロマン・ローランが聞くようにベートーヴェンを聞いたであろうか。
 もちろん、そのような事は考えられない。彼らはただその心を楽しませ、耳を楽しませるためにこそベートーヴェンに註文してそのジンフォニーを作らせた。そしてそれを聞いてのどかな数時間を費した。当時の音楽界の状況は今日からでは正確にはわからないが、今私共が非常な尊敬の感情をもって、畏れ謹んで彼のジンフォニーを聞いているのとは、かなり様子が違っていたであろう。それは当時のプログラムなどから容易に想像がつく。今私共はベートーヴェンの曲には非常に深い思想的な内容をおいて、何か一貫した哲学の説教ででもあるかのように聞いているから、もし今或る指揮者が第五ジンフォニーの第一楽章を指揮して、そしてその間に休みの時間をおいて、聴衆に一杯のビールを御馳走し、その後で息ぬきに『島の娘』を独唱させ、さてその後に第二楽章を演奏させたとしたら、今の批評家は芸術の冒涜だと言って青筋を立てて怒るに相違ない。それは今ではほとんど考えられない音楽の演奏の仕方である。しかしベートーヴェンが自分の耳で聞いた自分の音楽は、おそらくそんなものであったであろう。それに対して、あれほど怒りぽかったといわれているベートーヴェンは、自分の芸術を冒涜したといって怒ったという話はまだあまり知られていない。音楽の演奏の仕方や音楽の聴き方については、ベートーヴェンは別に非常な不平を言った様子はない。
 ベートーヴェンの音楽は、いつから私共が今教えられているようなすばらしい芸術的の意味をもって来たか、これは芸術史上の一問題である。しかしともかく今日ではベートーヴェンの音楽はただ私共の耳を楽しませるというだけのものでなくなってきた事は事実である。ワーグネルやローランなどのベートーヴェン論は恐らくその代表的なものであろう。ベートーヴェンの音楽にはこの百年の間に、彼自身も彼の保護者も知らなかった或るものがそれに附け加わっているように見える。
 その附け加わったものは、甚だ悲劇的である。あるいは英雄的とも言われるかもしれないが、とにかく決して楽天的な、朗かなものでない。人間は運命と戦って行くものだとか、高い理想を追うものだとか、神は最後に人間を救うものだとか、すべて人間はこの世の快楽以外に何か高い精神的な生活をすべきものであるように説かれている。そしてそのような精神的なものこそ誠にベートーヴェンの音楽の輝いた内容であるようにも説かれている。
 聞きようによっては、それは一種のあきらめの声とも聞かれる。この世の生活の優勝者はそんな雲を掴むようなことは決して言わない。朗かに酒を飲み、女を愛し、目では風景を喜び、耳では音楽を楽しみ、何不足ない日を送る。そして十分生活に満足して死ぬる。しかし生活の劣敗者にはそうは行かない。思う事は何一つ出来ない。からだが悪くともあらゆる治療を試みる事は出来ない。その日その日の食うものにも飲むものにも事を欠いていたのでは、それ以上の目や耳の快楽を求めるのは決して容易でない。そうなると、その一生は甚だ不幸である。それを慰めるものが精神的な生活であろう。自分は芸術がわかる、芸術の清浄な世界に精神的な幸福を求める、自分は神を信じ、来世に必ず祝福される、そして自分こそかえって精神的な勝利者である、物質的な生活は誠に卑しむべきものである。──このような事でこの世の不幸な生活を慰める。しかし見方によれば、これは明かに生活の劣敗者の哀れな諦めである。
 つまり生活の優勝者が今朗かに美酒に酔うて我が世の春を唄っている時に、哀れなる劣敗者が水を飲みながら、運命との闘争のジンフォニーを襟を正して聞いているのが、恐らく今までの芸術的な音楽の世界の意味であったようである。
 私共には「運命のジンフォニー」はもうたくさんである。物質的な生活は卑しむべきものかもしれないが、神や芸術の救いなどいうものも雲を掴むようなものである。私共はまず安楽な生活を送りたい。ロブコーウィッツやリヒノフスキーが酒を飲んで陶然として音楽を楽しむものならば、私共も同じように陶然として同じ音楽を楽しみたい。私共に限って、何故にその音楽を特に精神的に、むずかしく解釈して、あらゆる真面目さをもって聞かなくてはならないだろうか。もし世の人々がすべてリヒノフスキーと同じような安楽な生活を送ることが出来る世の中になったとしたら、ベートーヴェンの音楽に後世附け加えた精神的な解釈も大部分は無駄になりはしないだろうか。そしてその方が遥かに私共にとっては幸福ではあるまいか。
 私は音楽に附け加えられた芸術的な解釈や精神的な意義というものに、或る一種の不安を感じる。そんなものを一切無くして見たら、音楽はも少し変った形で私共に親しみやすいものになりはしないだろうか。あるいは世の中をそのような状態にすることが、私共の幸福ではあるまいか。
 音楽は一様に、同じような意味で、全人間のためのものであっていい。音楽にウィーンの貴族の聞き方とロマン・ローランの聞き方があっては、物事甚だ不公平である。私共だけが独りロマン・ローランのようにベートーヴェンを聞いていなければならぬという理窟はない。私共もウィーンの貴族のようにも音楽を聞きたい。

 2 音楽は合理化出来ないか

 音楽は甚だ不経済な社会現象である。音楽の大部分は人間の勢力の浪費であったとも考えられる。そしてそれは音楽家にとっても、音楽の聴衆にとっても一様にそう言われる。そして今の世の中はいろいろなものについて合理化という事が頻に試みられている。もし音楽にも不合理な浪費があるならば、それを合理化しようとしてもいいはずである。
 音楽家にとって、何が不合理であるか。どこに勢力の浪費があるか。──これが第一の問題である。言うまでもなく、私がここで音楽家として考えるのは、自分で自分の音楽を作り出す人だけである。人に音楽を作ってもらって、自分ではただそれを演奏する演奏家は、たとえば人の言った言葉を口真似するようなもので、その事それ自身がすでに人聞の勢力の浪費のように見える。私はそんなものを問題にしょうとは思わない。私が問題にして見たいのは本当の音楽家だけである。
 まず音楽家と私共とでは、物を表現する材料が違う。そこに越すに越されない大きな溝がある。音楽家は音でその心の中のものを表現しようとする。しかし私共は音をそんなものには使わない。私共にとっては、音はただ耳に聞いて気持のいいものである。別にそれに何の表現も感じない。例えばピアノの音を聞くにしても、ヴィオリーネの音を聞くにしても、普通それを思想的には聞いていない。たださわやかな、きれいな音だと思っているだけである。もし強いてそれに何かの表情を求めたとしても、低い音は高い音に比べて多少荘重な気持がするとか、あるいは高い音は低い音にくらべて快活な気持がするとかいうようなものである。しかし、それだけの事でも明瞭に意識するには、多少注意して音を聞き慣れなくてはならない。これだけの事にしても、音から感じようと思えば、或る程度の訓練がいる。決して十人が十人そのような精神的な経験が得られるものでない。
 私共は普通私共の心の中の事を音では言わない。言葉で言う。言葉は誰にも通じる。赤いと言えば赤いし、白いと言えば白い。悲しいと言っても、嬉しいと言ってもその意味は相違なくよくわかる。そして詩人はその言葉にさらにいろいろの技術を加え、いろいろの技巧を弄してその嬉しさや悲しさの細かい陰影を明瞭に描写しようとする。その詩人の描写は、言葉の意味がわかるという点でも、遥かに音の描写よりも私共に親しみやすい。この点で何かを描写したり、心の中の事を人に伝えようというつもりならば、詩人の仕事の方が音楽家の仕事よりも遥かに合理的である。その仕事はよくその目的にかなっている。
 それに比べると、例えばリストやシュトラウスの「ジンフォニーの詩」などは遥かにその目的に遠い。例えばリストの『前奏曲』をとってみる。私共は音で物を考える経験がないから、この曲がはたしてどれほどよくうマルチーヌの詩を描写しているか、それを判断することは出来ない。そしてこの音楽のどこがラマルチーヌの詩のどこに当るか、少しもわからない。詩と音楽を比較する事は、ちょうど一グラムの重さと一メートルの長さとではどちらが重いかというようなもので、そんな考え方にはほとんど意味はない。ただわずかにそう思って聞けば、そんな気もするというぐらいのものである。しかしそう思って聞くという事がすでに非常にむずかしい事で、決して誰にも出来るというものではない。大抵の場合はこの音楽の処々に出る美しいメロディを聞いて喜んだり、いろいろな管絃の楽器の豊富な音色を聞いて楽しんだりするぐらいのものである。そしてその上に、大家リストの名曲を聞いたという、ただ何とない心の興奮も加わっている。このような事が私共が音楽を聞く時の心の中の有様の大部分を占めている。しかしこれでは音楽家と聴衆との間にあまりに距離があり過ぎる。
 この場合に音楽家のすることは、おそらくただ一つであろう。それは音に対して十分の訓練があって、音楽家の心の中の動きを十分理解する事の出来る仲間に限って、音を通して自分の心の中の事全体を描写してみようとする事である。それもたしかに或る一種の試みであろう。しかしそれは一般の人々には通用しない。ちょうど、梵語で書かれた真言秘密は梵語のわかる人だけに通用するのと全く同じである.、私共が普通の手紙に梵語を使って、それを理解しろと言っても、それは全く無理である。このような音楽は一種の真言秘密の梵語のようなものである。
 音楽も社会現象の一つであるからには、今の社会の経済組織の外に超然としていることは出来ない。この社会に音楽の真言秘密を理解する人はそう多くはない。その人たちの経済の力だけで、はたしてそのような音楽が成立するものであるかどうか、私はその事について少しも予想を持つことは出来ない。しかし今の世の中に、その真言秘密の音楽を維持してゆこうという人は、必ずそれだけの覚悟はしていなくてはならない。私共一般の人々は出来るだけ無駄を省き、出来るだけ音楽も合理化しようとする。到底わけのわからない梵語の真言秘密などを私共は努力してまで学んで見ようとは思わない。
 音楽の合理化は、また音楽の簡単化である。今の音楽は普通私共の心を標準として全く不必要に複雑している。私共の頭や耳では、どんなに努力して見ても、決して今の音楽をそのまま受け入れることは出来ない。今の音楽を或る程度まで聞き甲斐があるほど聞くには、そのことのために、専門に教育された耳がいる。しかし言うまでもなくそのような耳は、普通の私共では決して持つことの出来ないものである。
 今の音楽は、まずその音の量で、遥かに私共が聞く事の出来る範囲を越えている。今私はピアノを例にとってみる。極く簡単なモーツァルトのゾナーテでも、平均一秒間に八箇から九箇ぐらいの音を聞かなくてはならない。もしそれがベートーヴェンのゾナーテとなれば、一秒間に聞く音の数は平均一二箇から一五箇ぐらいまでになる。これが近代のシューマンやショパン、あるいはリストなどになれば、この数はますますふえて来る。
 しかし私共普通の耳には、音を聞くには大体限度がある。いかに多くの音を出されたからと言って、それがことごとく耳で聞きわけられるものでない。普通の人では一秒間に四箇の音を正確に聞く事はかなり困難である。モーツァルトやベートーヴェンのゾナーテは私共の心の能力に余ったものである。ちょうど私共の胃に限度があって、非常に優れた料理人が腕にまかせて多くの料理を作ったからといっても、或る程度以上にそれをみなみな消化することの出来ないのと同じことである。
 モーツァルトのゾナーテのような簡単な曲でも、すでに私共の耳には遥かに音が多過ぎる。そしてその上に、またその音がむずかしすぎる。音程だけは相当咽喉では唄える人でも、耳で聞くとなれば、五分間続けて一秒三箇の割合で音を聞けば、音程の判断の間違う率は相当高くなる。それは私は実験的にそういう事が出来る。モーツァルトのゾナーテにしても私共は明かにその音の全体を正しく聞く事は出来ない。それが近代の音の多い音楽になれば、なおさらのことである。
 これは音を次から次へと一つずつメロディとして聞いてゆく場合のことであるが、しかしそれは今の西洋音楽の一部分であって、決してそれが全体ではない。メロディより外に、まだ和声という非常に大きな領分がある。それはいくつかの音を同時に聞く事である。それはちょうど一皿の料理を喰うのに、その味の中から醤油の味、塩の味、味淋の味、かつおぶしの味、野菜の味などを或る程度まで量的にかみわけるようなものである。到底普通の人ではそのような事の出来るものでない。
 毎日少なくも三度ずつ味っている料理にしても、すでにそのようなものである。それがそれよりはるかに経験する度数の少ない耳の和声の感覚となったら、その困難さは、ほとんど比較にもならぬぐらいなものである。私共普通の人では、少し速い曲で、その曲の終りが6-4の和絃からVの和絃を使って一の和絃に解決されたか、あるいはVを使って一に解決されたか、そのような極めて簡単な事でさえも、いつも誤りなくそれを聞きわけることは非常にむずかしい。従って或る一曲の中の和声の運用の巧妙さを完全に耳からだけ鑑賞しようということは、批評家は筆のさきではどうと言うかは知らないが、普通の教育を受けた人には全く望む事の出来ない仕事である。遥かに、遥かに私共の心の働きを越えたむずかしい仕事である。
 ピアノの演奏家のまず第一の仕事は、音を間違えずに正しく弾く事である。そしてそれは非常に困難な仕事である。そのような技術を手に入れるためには、ほとんど半生の努力がいる。そして、その半生の努力の結果、或る程度にその技術の正確さという事を学び得て、さて私共聴衆の前で演奏会をした時には、よく知られた曲のメロディぐらいを間違えずに弾きさえずれば、和絃などはどのぐらい間違っても、本当のところはわからないという事になる。およそ演奏家の努力ぐらいおめでたい、馬鹿々々しいものは世の中にあまりあるまい。もちろん合理化ということからは甚だ縁の遠いものである。実質的には一生涯の浪費である。
 しかし演奏家は作曲家の口真似をするに過ぎないもので、初めから浪費という事はわかっている。それでまだ外の点でも浪費であろうとあるまいと、それは別に多くの問題でない。気の毒なのは音楽を作り出す人の事である。或る音楽家が、自分の音楽の意識が許す限り、自分の持っている技巧のすべてを傾けて、音楽を作ったとしても、それはやはり結局は一人よがりに過ぎないものであることは明瞭にわかる。私共一般の聴衆には、その音楽それ自身としては、その十分の一の音も耳にはいらない。その音の大部分は理解されない。これはおかゆを漸く消化することの出来る人のために、料理人があらん限りの腕前を振ってビフテキを料理するようなものである。そうなるとその仕事の大半は全く無駄骨折である。
 もしそれを無駄骨折でないとする理由があるならば、よし音一つ一つは、私共には聞きとれなくとも、その全体が何となくぼんやりした或る感じを与えるとか、あるいはそれだけ色々な音を使ったからこそ、音楽に相当な威権が出るとかいうぐらいの事である。そうなれば、それは或るちょっとした気休めで、いうまでもなく合理化とは相当距離のあることである。
 このことも結局前のと同じ結論に達する。音楽家はその社会的な経済の許すかぎりで、音の多い、高級な芸術的な音楽を作って見るべきものである。それを私共一般の聴衆に訴えて、お前たちもこれがわかるように努力して、そして私たち音楽家を支持しろと言ってみても、私共は今さらそのような命令を畏れかしこんで聞いていない。私共は私共の役に立つかぎりで音楽を聞き、それに対して相当な経済的な援助を与えて、その音楽を支持しているだけである。
 今日まで世界の音楽の歴史を飾って来た多くの音楽家は、人間の世界に稀に現われた非常に特別な例である。昔の人は一体に英雄を崇拝する事を好んだ。このような特別な人間を英雄とあがめた。そして一般の人々も力の限り勉強して、その英雄の仕事を理解しなくてはならぬもののように考えた。そしてその努力を尊いもののように考えた。しかしそれには誤算がないとは言えない。私共の心理では、初めからどうしてもそんな事は出来ないという事がわかっていても、それでも強いてそれを努力しなくてはならぬという義理はどこにもない。またそのような努力に強いてむずかしい理窟をつけて尊敬してみなくてはならぬという義理もどこにもない。私共普通一般の人は、出来るだけの事を出来るだけにしてゆくのが一番あたりまえの事ではあるまいか。人々はその心や頭のゆるすかぎりで音楽を聞き、その音楽に対して相当の代価を払うのが一番合理的であるまいか。
 この事は、音楽の程度を甚だ下落させ、音楽を『島の娘』のようなものにばかりしてしまうように見える。そして古い音楽の鑑賞家や批評家は、これこそ音楽の外道であって、全く物を破壊する見方であるというかも知れない。しかし昔の音楽が非常にむずかしすぎて、遥かに私共の心の能力を越えているという事には少しの疑いもない。それでもまだそのわからない音楽を主張しようとするのは、一つは昔の夢を捨てたくないという気持からである。もし或る人がその気持を何よりも大切だと思うならば、それはその気持を満足させるという事に対して昔のむずかしい音楽を丁寧に保存させるだけの援助を与えてもいいかも知れない。しかしそれにしても非常に高価すぎる夢の保存である。
 また音楽には批評家というものがある。批評家はどれほど私共と違った心と頭と耳を持っていればいいか、私はすでに別なところで論じた。批評家が私共と同じように、ただ普通におもしろい音楽をおもしろがっていたのでは、どこにも批評家のありがたさがなくなってしまう。批評家は批評家の存在を示すためには、何か常人と変った仕事をして見せなくてはならない。そのためには、私共によくわからない音楽をいろいろ論じて見せるのは一番簡便な方法である。音楽がみな私共にもよくわかる『島の娘』のようなものになってしまったのでは、批評家はどうにも仕事のしょうがない。批評家はその存在を主張するために、むずかしい昔の音楽を保存しようとするのは、甚だあたり前の事である。ただそれは私共の生活と非常に関係のある事ではない。それは私共とはまた別の世界の事である。
 この私の話は甚だ殺風景である。この話の中には詩もなければ夢もない。ただあるものをあるように言っただけである。あるものをあるように言えば、おそらく音楽というものはこのようなものであろう。本当の事を言えば、音楽には合理化されなければならぬ事はまだまだたくさんあるかも知れない。
 私のここに言った事はただ音楽は本質的にどういうものであるかという事についてである。必ずしもこの合理化が令すぐ実現されなければならぬかどうかは、それはまた別の問題である。人は誰でもみなその心の中に多少の夢を持っているものである。そしてその夢は案外貴重な生活の要素で、その夢のためには、私共はわかりもしないむずかしいジンフォニーを、さもわかったような顔をして、あるいは少なくともわかったそうな顔をして、相当高い入場券でも喜んで買う事のあるものである。音楽の合理化とは、ただ一つの議論の遊戯かも知れない。

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