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科学への道 part3


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<!-- 六 -->
<!-- タイトル -->
科学者と先入主
<!-- -->
 科学者というものは|偏《かたよ》らずして平静な心の持主であろうと想像するが、実は決し
てさようでなく、先入主の|凝《こ》り|固《かたま》りとしか見えぬ人にも接することがある。しかし、
この人達は決して大なる科学者とは思えないのである。
 科学者に|成《な》る資格の中には、先人が自然現象の中から苦心して取り上げた事実を
記憶していなくてはならない。またそれらの事実を根底として組み立てられた系統
--即ち法則とか定理とかと呼ばれるもの--を知っていなくてはならない。即ち
事実と系統とが教えられてしまうと、今度新しい事実が出て来ても両立しない場合
に於ては新事実の出現を知らぬことにするか、認めない態度に出る学者がいる。こ
れは全く先入主が心の中にあまり幅をきかしておる結果にほかならない。
 学校に在学中は極めて記憶力のよい|善良《ぜんりよう》な秀才であっても、いざ学校を出て自然
研究に携ると全く物事の受入れ方の悪い人があるが、これらはあまりに忠実に勉学
した結果とでもいえよう。頭の中に先入主が|横行《おうこう》して、もはや新しき事実が入り込
む余地がないのである。この意味では、いわゆる秀才が研究に携ると得て失敗を招
いて退場するのである。この点から見ると、学校での教育というものはだいたいの
外郭を教えて、新事実を見つけだすことおよび受け入れる余地を有して置きたいも
のである。|教《おそ》わる方も、教室で覚える定理、原理も真理と考えないで、何時でも変
更され、また発展されるものと観て、|剛直《ごうちよく》な態度を持ち続けないことである。筆者
はかつて、
<!-- ここから引用 -->
  先入主ほど人の心を偏執たらしむるものはない。恐ろしさを心に抱いてこそ、尾花も
  |幽霊《ゆうれい》として現われる。したがって自然研究者はいたずらに多読して心の主裁者を造る
  より、平静にして捉われざる心境を養い、自然に直面する心掛を常に持たねばならぬ。
<!-- ここまで引用 -->
 といったことがあるが、筆者も常に注意していわゆる|偏見《へんけん》に|陥《おちい》らざるよう注意を
しているのである。しかし、この点は至って|難《むず》かしい。
 自然現象の研究はあたかも、|人跡未踏《じんせきみとう》の森林中に道を|拓《ひら》くがごときものである。
道をつけぬ中はどこから入り込もうが勝手であるが、一度入る所を定めて道を作っ
てしまうと、楽であるからその道のみから入り込むようになる。|前人未踏《ぜんじんみとう》の地にか
ように道を作って人々の入り込むようにすることは|至極《しごく》適当なことには相違ない
が、見残しがないでもない。見残したところから|却《かえ》って|珠玉《しゆぎよく》を手に入れることも出
来るのである。
 かように考えるならば、いたずらに道を作って人々の出入を楽にするのもいかが
であって、その道からでなくては奥へ入り込むことが出来ないとするならば、これ
は考えものである。苦労をしてもよいから、人々が勝手な道を求めて前進するのが
よいのである。科学の大道はすでに出来ていると見てよいであろう。最先端は|籔《やぷ》を
切り開きながら小道を作りつつあるのである。小道を作るに於ても労力は易しいも
のではない。この道は各人勝手の道を開いているが、いつかは|消滅《しようめつ》する道もあろう
し、終には大道となって人々の通ずるものとなるのもあろう。初めから何の道でな
くては駄目だなどときめて働いていることは間違いである。さようなことには眼も
くれず、一心で道を開く気になって突進すべきである。他人の事は気に留めるとか
えって悪い。また|浅墓《あさはか》な先入主観念はさっばり捨てて進まなくてはならない。
 元来科学書というものは、すべて正しいことが書いてあると思うと大間違いであ
る。たいがいの本は早ければ十年、遅くとも二十年を経れば、その大半の頁は書き
直さなければならぬ運命に|逢着《ほうちやく》する。研究は日進月歩の勢いで進展しつつあるので
ある。この場合、先入主があっては十年もすれば劣敗者となるばかりである。なお
注意すべきことは未だ充分検討の足りない学問に於てはとくに|然《しか》りであって、大学
で習ったことを後生大事に覚えている者の方が後れ、全部忘れてしまったものの方
がかえって成功をするのである。これは要するに先入主の|齋《もた》らす悪い影響である。
もちろんこの成り行きは本人の批判力が足りないためもあって、かような結果に落
ち行くのでもあろうが、先入主的批判に|侯《ま》つことは全く禁物である。
 寺田博士はかつて筆者に「最近のつまらぬ論文は読まぬ方が|宜敷《よろし》い。それよりも
アリストテレスの書いたものでも読む方が|為《た》めになる」といわれたが、これは|至言《しげん》
である。確かに、これは先入主|悪癖《あくへき》に|染《そ》むなということに解し得ると思う。
  一体科学というものは、現象のすべて自然に備っているものを、各時代ある限定
された知識を以て説明せんとするものであるから、その時代に於てある現象が説明
し得たと思っても、新事実が出れば破壊されてしまうのである。即ち、今日の自然
現象は今日の知識を以て説明されるものであって、明日は当然明日の知識を以て、
再び説明さるべきものである。この結果として学説の生るべきは当然ながら、これ
を固守すれば飛んでもないことに|陥《おちい》ってしまうのである。今日の学説は明日の学説
ならざるものが多いのである。それは知識が増加する結果にほかならないからであ
る。
<!-- 七 -->
<!-- タイトル -->
事実と仮説
<!-- -->
 自然科学の構成は事実と仮説から出来ていることはすでに述べたところである
が、果して自然科学とは何かと間われることがある。筆者はただちに次のことをい
う。
<!-- ここから引用 -->
自然科学とは自然現象の中に事実を認め、
これら事実を理性的に統轄系統つけるもの
である。
<!-- ここまで引用 -->
 しかしながら、ここに質問されることは、事実とは何ぞやということである。即
ち事実とは、
<!-- ここから引用 -->
  人々の感覚に訴えて存在性の確認される事物。
<!-- ここまで引用 -->
 と答えるのである。たとえば机の上に|茶碗《ちやわん》があれば何人が見ても茶碗の存在は確
認されるから、その机の上に茶碗のあることは事実である。夜中に銃声が聞えたと
一人がいっても、多くの人が聞かないといえば事実とすることは出来ない。ただし
聞いたという人が一人だけ起きていて、他の人がすべて寝ていたというならば、こ
れは決定する限りではない。それは感覚の有無が問題であるから。いずれの場合に
おいても、器械を採用して記録するならば事実の認定に役立つことが多い。とくに
現象がある時間中にのみ介在して、その他の時間には消失するもの等に対しては、
もっばら器械の採用が必要となる。上述の銃声のごときも、常に音響記録装置を以
て音響を記録しておくならば、人々の|起臥《さが》には関係がないこととなる。夜銃声があっ
たことは朝になって起きてから記録を調べればよいのである。
 これと同様なことは地震の発生であって、地震計が常に運転されて地震動を記録
する故に、地震学者も夜中安眠して可なりである。邸ち我々の感覚の延長が記録装
置であるといえよう。
 次に起こる問題は直接感覚に訴えないで認め得た事物は事実といわないかという
ことである。たとえば電波のあること、分子、原子のあること等である。これらに
関しては我々は直接感覚によってその存在を|覚知《かくち》しないが、ある種の器械を以てす
れば、必然的にその存在を確認するものであるから、これも事実と称して差支えな
いと思う。この類に属するものとしては、地球の球形なること、電流の存在、気圧
の存在、|徽菌《ばいきん》の存在等は直接感覚に訴えることは不可能であるが、器械の採用によっ
て認知し得べきものである。
 次に仮説として我々の認めるものは、およその原理、あるいは法則等はすべて、
この部類に属するものである。世人の中には科学は真理を教えるもの、原理、法則
等はいずれも真理であるかのごとく考える人もあるかも知れぬが、筆者はいずれも
仮説としての価値を持つものとなす。仮説はある年代には永久不変に打ち立てられ
た真理のごとく|崇《あが》められたこともあるであろうが、人間の作るものはすべて仮説で
あり、仮説であるが故に進歩発達が|遂《と》げられる。即ち仮説の進歩によって、一歩一
歩真理に近づくのではあるが、真理には永久到達し得ないものである。ニュートン
の法則ももちろん仮説であり、その他著名な原理といえどもいずれも仮説ならざる
なしである。
 いずれの法則にしても|凡《すべ》ての場合を|尽《つく》して、その当否を決定したのではない。当
時の知識を以て現象に対すれば、その経験範囲に於て一定の法則ありという許りで
ある。即ち箇々の事実を覚えることの|煩雑《はんざつ》を妨ぐため、便宜上法則の形にして覚え
るに都合よくしたものに過ぎない。科学者は法則を神聖視して|仰《あお》がんばかりである
とある科学批判者はいったが、物の判る科学者は決してさような行為はしないのみ
か、ただ自然研究に都合よき|指針《インデクス》が出来たとしか見ていない。いたずらに科学の園
を棚外から見て、自己の誤れる思想から科学を曲視する行為は止めてもらいたいも
のである。
自然研究の結果がかくも不確かな仮説を以て|綴《つづ》られるのはいかにも不安であると
考える人もあるかも知れない。それは我々の経験が未だ|闊《ひろ》からず、深からざる|所以《ゆえん》
である。経験をますます積むことによって、打ち建てられた法則が確かならば長年
月の齢を保つのである。また科学法則は一般に場所と時とを|超越《ちようえつ》したものであるこ
とが必要である。ヨーロッパにて認められたことはまた日本においても認められな
ければ、一般的法則とはならぬ。即ち一度打ち建てられた仮説も時間的に、場所的
に諸々の検討に会うが、それでも同じく認められるにおいては、より確からしき、
あるいは疑い少なき仮説として永続性を示すのである。我々は大なる安心を以て、
信用してこれらの仮説を採用するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。
 |而《しこう》して、かかる形成された仮説を以て自然の構成を明らかになすのである。自然
そのもののその仮説の集合により代表せしめるといえるのである。
 即ち自然は我らの外界にあれども、その中より事実を|摘出《てきしゆつ》して、仮説の下に|統轄《とうかつ》
して科学となすならば、これはもはや人間の作った無縫の記念塔であって、人間の
心の動きが、その中に|躍如《やくじよ》としていることは争うべからざるものである。しかも人
間の心は自ら調和を貴ぶについては自然の中に調和あるものを見出し、これを系統
的に並べて科学として美しき自然像を作るに於てなんら疑うに当らないのである。
 即ち自然が調和的であり、また簡単を喜ぶと称しても「その中の本源は人心が調和、
簡単を愛するに外ならぬ結果であり、したがってかかる現象を取り上げて科学が作
り上げられつつあるのである。我らはかくて人々がいかにして自然の中に調和を認
め、単純さを認めんとするか、順次その心の働きについて述べてみたい。
<!-- 八 -->
<!-- タイトル -->
科学の拡張
<!-- -->
 自然を研究して科学の拡張を行なわんとする行為は、科学者の天職と信じている
ものであり、この点に努力をするのは当然である。努力と称しても、いわゆる世上
の努力と混同してはならぬ。およそ努力といえば嫌でも何でも意志の力を以て|遂行《すいこう》
するものを名付ける傾向があるが、良き科学者の努力はすき好んで行なう行為であ
り、外観的には努力と見えるであろうが、実はその点に大差があるのである。
 科学者は心の中に何事か|囁《ささや》くものを感じ、それに|示唆《しさ》されて自然を研究せずには
いられないのである。研究は全く天職と信じ、行動は至上のものと確信している。
世上の|繁雑《はんざつ》からは|脱却《だつきやく》して、|只管《ひたすら》に科学に身を|委《ゆだ》ねる。確かに学府を出でて初めて
研究に身を|托《たく》するものに、以上の信念に持ち来すところに指導者の任務があり、も
ちろん指導者も絶えずこの精神のために向上するものである。この点は精神的の|所
作《しよさ》においては、修道院における修行となんら変りなきように見える。彼においては
神に仕えて精神の|潔白《けつばく》を持せんと修養するに引替え、これにおいては自然の機構を
|窺《うかが》って、理性的に科学の構成を設立せんとするのである。心の|趨向《すうこう》は異なったもの
であるが、各々の行動に現われる点には数多の類似点が見出されるのである。
 信仰者が神の御前に|脆《ひざま》ずいて神の|加護《かご》のために心をくだくのも、科学者が自然現
象に直面して、科学を進展せんとする意気込みも|以通《にかよ》った点が大である。したがっ
て科学者は科学|尊重《そんちよう》のためには|敢然《かんぜん》として立った場合があるのである。ガリレオは
七十歳にして宗教裁判の法廷に立ったのであるが、敢然として科学の曲ぐべからざ
るを弁じ、その意気の|不撓《ふとう》を示したのである。
 幸い今日においては文化の発達とともに宗教との|葛藤《かつとう》も解消し、科学者がなんら
諸説を発表してもほとんど|咎《とが》む|筋合《すじあい》のないのは誠に喜ぶべきことである。しかしな
がら、今日といえども絶無ということは出来ない。アメリカ等にてはダーウィンの
進化説を学校に於て教授することは禁ぜられてあるとかいう。これは宗教の|教義《ドクトリン》と
|抵触《ていしよく》するからであるという。人間はアダム、イヴを祖先とすべきであって、動物の
進化によって人間が生じたとする説は正しくないという。
 日本においてはキリスト教の|浸潤《しんじゆん》少なく以上のごとき|蒙説《もうせつ》を社会的に持ち出す
人士のなきは誠に結構なことである。科学は全く仮説による構成である。諸説|紛々《ふんぷん》
としても、一向差支えないのである。自然現象を説明する上にもっとも適合した説
を各自に採用すればよいのであって、実体に対する考察は立場々々によって、|採択《さいたく》
は強制しているのではないのである。しかし、科学者は事実を認めることと理性の
下に判定を下す事だけは|遵守《じゆんしゆ》しているのである。ある科学者は、
<!-- ここから引用 -->
  証明せられざるものは信ぜず。
Non credo ci`o che non `e constatabile.
<!-- ここまで引用 -->
 といったごとく、理性に即することが、科学発展の原動力であることだけは確か
である。
 ここに科学を発展さすべき方法ありや否やの問題がある。物理学者--研究者--
のある会合があったことがある。筆者は若輩の故を以て末席に|控《ひか》え、諸先輩の
演説を|傾聴《けいちよう》したのであったが、今でも覚えていることは、演者は異口同音に「我ら
は研究して」とか、あるいは「努力をして」という文句が口からは迸り出でるのであっ
たが、筆者は実に不思議の感に打たれたのであった。それはいかなることが研究で
あり、またいかなることが努力であるか、少なくとも大本に沿うべき努力、研究は
いかなるものであるかを自ら深く考えるほかはなかったのである。
 確かに海岸で砂の粒の目方を一つ一つ測っても研究になる。停車場の出入口に出
入する人々の数を数えてもまた研究になる。またいわゆる物理学者の行なう種類の
実験も研究である。いかなれば前者が研究として価値少なく、学者が実験室で行な
うものが価値があるか、またその努力的立場からすれば彼も此れも同等であるに違
いないのになどと、かような問題を考えてみながら、演者の話を聞いていた時、自
身は何事か研究の中に階段を付けて考えねばならぬということを感ずるようになっ
た。これがもう二十年前のことである。
 即ち、自然研究の中には何やら価値多き研究と価値少なき研究とがあることは明
白であるが、それをいかにして区別するかということである。自然研究は当然価値
多き研究を|企図《きと》しなければならぬのは当然であるが、その価値判断に於ては人々の
思想に待つことであり、また研究の成果については研究者の|技巧《ぎこう》の上手、下手によっ
て成功するものもあり、しないものもある。これらは結局研究者の成し遂げた仕事
として現われるものであるから、研究者としての価値がまた判断されるのである。
 この故を以て研究者は思想と|機巧《きこう》とを兼ね具え持っていることが必要となるので
ある。研究者はその研究する対象が、科学の構成をよりよく、早く|進捗《しんちよく》せしむべき
ものであるや否やの判断をまず下さなければならぬ。もちろん思想は研究者、判定
者によって異なるものであるかも知れぬから、その判断も決して同一であることの
必要はないが、多人数が見て決定されたることは多く科学の発達に|寄与《きよ》するもので
あるといわなければならぬであろう。
 またある研究は今日進展しつつある科学の流れに沿うものにあらずして、根底は
全く単独にあって、なんら関係の薄きものである場合がある。かかる場合において
は本人は科学の最尖端のごとく|思惟《しい》するかも知れぬが、これは本人の判断違いで
あって、科学本道の発達には寄与することのほとんどないのである。
 これらはいずれも研究者の思想問題であって、かかる思想の存するに於ては科学
は|奈辺《なへん》に|放浪《ほうろう》するか、全く|寒心《かんしん》に|堪《た》えないものといわざるを得ない。即ち、思想が
一歩誤れば科学の正しき拡張は|覚束《おぼつか》ないのである。正しき科学の拡張の行なわれざ
る限り、科学は|停滞《ていたい》しているのである。而して天才科学者が出でるに及んで初めて
正しき方向が指示されるのである。これを思えば、一国に小天才は十年に一人、大
天才は五十年に一人現出する程度であればよろしい。これは科学史を|繕《ひもと》く者の直ち
に|首肯《しゆこう》し得ることである。
<!-- 九 -->
<!-- タイトル -->
科学と単純性
<!-- -->
 科学は自然現象中の事実を理性的に系統付けたものであるといったが、その系統
付けるにおいて、複雑化することは好まれないで、もっとも単純化されることが要
望される。即ちもし二つ以上の系統付ける方法がありとすれば、その中にてもっと
も単純なるものを採用すべきである。ただし自然現象の中には、複雑なものもある。
かかる現象に対してのみ、我らはやむをえず、複雑の系統を作るのであるが、これ
は好んでなすのでなく、やむをえない操作の結果である。また一面から考えて見れ
ば、複雑なものはむしろ我々の|将外《らちがい》に置いてしまって、簡単なものから手をつけて
いる。これがまた科学として系統付ける手法であるともいえるのである。
 科学者の中にはことさらに複雑なる自然現象を解析して、より深く進み得たと
得々たるものもいるが、科学の進展に対しては果していかなる|寄与《きよ》をなしたかは疑
問である。自然研究は簡単なるものを以て行なうべきものが、自己の手腕を人々に
見せんがために、ことさらに難解なる考察方法を採るものもある。科学の進歩は決
して事の轍邑て定まるものではない。同じく説明出来るならば、単純化せるもの
を採用するのが科学の根本原理である。以上は要するに人々の思想問題であって、
いかに自然を見、いかに自然を研究すべきか、心の中に画かれたるものの当否に帰
着されるものである。自然研究に携る人々の才能を越えてもその背後にある思想が
適当でなければ、いかに研究に|没頭《ぼつとう》しても|無駄《むだ》の結果を|齋《もたら》すのである。
 ニュートンが太陽系の説明として万有引力を提出する以前に、人々は太陽を中心
として|惑星《わくせい》がその周囲に公転運動を行なっておる現象は知っていたのである。コペ
ルニクスの地動説、同じくガリレオの賛同説はもとより、ケプラーはチホ、ブラヘ
の観測結果を基として三法則を提出し、太陽系の|全貌《ぜんぼう》はほとんど|明瞭《めいりよう》となっていた
のである。しかしながら、惑星の運動を説明するに当っては、ある人は|渦巻説《うずまきせつ》を採
用してあたかも水槽中における水の渦の場合のごとく、水面に浮んだ物体の運動が
渦巻の中心を中心として廻転する状況に類似を求めたのであった。
 かくてニュートン出ずるに及んでは、太陽に中心引力がある事を|提唱《ていしよう》し、その結
果として、各惑星の運動が説明され、ケプラーの三法則も同時に証明されることと
なり、渦巻説主張者の影も|消滅《しようめつ》するに至った。即ちニュートンの法則は中心引力の
作用によって簡単に一元的に現象が説明出来るのに反し、もし渦巻説を採用するな
らば、多くの仮説の導入を必要とする|拙劣《せつれつ》さを忍ばなければならなかったからであ
る。今日に於てはなお多くの事実が認められるに於て、万有引力の仮説は|確乎《かつこ》とし
て認められ、いささかも反対的立場の人はないのである。
 以上のごとき著名の問題に対しても、学説発達の進行には物語るべき歴史をもっ
ているのである。|況《いわ》んや一般の学説において論争の絶えざるはもちろんのことであ
ろう。アインシュタインは次のことをいう。
<!-- ここから引用 -->
  科学的知識における進歩が持ち来す結果から見ると、一方で理論の根本的仮説と、他
  方で直接に観測された事実との間の距離や瞬隙を大きくするような|犠牲《ぎせい》を|払《はら》わなくて
  は、形式的単純性を増すわけにはいかない。理論はどうしても段々に|帰納《きのう》的方法から
  |演繹《えんえき》的方法に移って行くように|余儀《よざ》なくされる。でもどんな科学的理論に対しても下
  されなければならないもっとも大切な命令--即ちそれが事実と適合するということ
  --だけは何時も|残存《ざんそん》するであろう。
<!-- ここまで引用 -->
 今日理論と事実とを協調するに当って単純化すべき努力は各研究者によって行な
われているに違いないが、自然の研究は全貌を見て事を下すのではなく、ある部分
--代表的と|見倣《みな》される--を見て判断するものであるから、人々によってその帰
着点の異なるはまた当然のことといわなければならない。即ち学説の相違の起こる
のも当然である。しかしながら、この相違も研究が進歩すれば氷解さるべきもので
あって、この場合いずれが勝ったとか、敗けたとかいうことはないのである。新事
実が見出されない前においてはいずれも同価値で、いずれの説を採用しようが優劣
は決して極められなかったのである。|然《しか》るに新事実が発見された結果として事が定
まるのであって、諸説の中、一つが新事実を説明するに適するというまでである。
この意味からすれば、諸説は多い程よいのであり、またそれと同時に新事実の発見
に努力すべきである。即ち学説多き現象は未だ研究が不充分であるからであり、単
純化せんとするも未だ支障があるものといわなければならぬものである。
 要するに、研究が進むにしたがって事態が単純化されるものもあれば、今一層単
元を|添加《てんか》しなければ説明の出来ない、いわば複雑性を増加しなければならないもの
もある。しかし、かようの行動は複雑性といってはならないと思う。何故ならば、
現象が新しく見出された以上、これを科学系統中に編入するためには、法則の一部
分を破壊してまでも、系統中に取り入れなければならないからである。
 この行為はむしろ現象の単純化とも考えられるので、いわゆる複雑化を恐れて、
自然現象に眼を|塞《ふさ》いでいるのではないのである。筆者のいわんとするところは、あ
くまで現象を追究する態度は保持して|而《しか》も単純に為し得るものはあくまで単純性を
失なわない態度であることが必要である。
 よくある事であるが、物理、化学の実験に於て温度の上昇に従って物質状態の変
るもの、磁気の変化するもの、あるいは容積の変化等を測定する実験に於て、しば
しば二、三の点がかけ離れて、線上に並ばないことがある。そうすると二、三の点
は捨てて|体裁《ていさい》よく線上に乗るものだけを採用する実験者を見受けるが、その心持の
中には二種の心理状態が含まれている事に気がつく。
 第一には実験者が怠けていて、あるいは実験の|拙《つたな》いことから点が散布したと考え
て線上にないものは取り去る。第二は事柄を簡単にしようと念願する。即ち自然の
現象にはそう複雑なものがないから、飛び散る点はあろうはずがないし、またその
現象を簡単に表わそうとするためには、散布した点は|目障《めざわ》りになるので消し去るの
である。前者は自己の欠点となすに引替え、後者は自然の単純性を信ずるからであ
る。また前者は|新発意《しんぼち》の心理であり、後者は研究老巧者の心理である。いずれにも
せよ、一つの実験に対しても単純化せんとする心持はおよその研究者が持っている
ものである。
 かくのごとく研究者は現象を単純視せんとする傾向は持っているにもかかわらず
どうしても単純に持ち来たせない現象があれば、これは統計的の研究に|委《ゆだ》ねてしま
うのである。たとえば人々の|寿命《じゆみよう》が極めてまちまちであって、その死去の年齢が一
人一人に対しては何事もいえないものであっても、これを統計的立場から見るなら
ば、人間の平均年齢であるとか、死亡率が何歳頃から急に進むとか、その外色々の
ことが判明するのである。これらはいずれも統計結果であって、個々の場合には当
てはまらないが、一般的状勢については充分の判断が下せることとなる。統計的研究
は一つ一つでは極めて不規則であり、何ら手の下しようもないものであっても、単
純化する一手法である事はもちろんである。
 確かに科学は単純性を|骨子《こつし》とするものであり、単純化することに科学者の頭は|馴《な》
らされているのである。このために自然現象も多く単純性を有するごとく見えるの
であるが、実は人間が単純性を欲する結果として、自然現象中に単純性を認めると
もいえるのである。
<!-- 十 -->
<!-- タイトル -->
研究と熱意
<!-- -->
『|碧巌録《へきがんろく》』(第九則)に次の文句がある。
<!-- ここから引用 -->
  明鏡在台研醜自弁  |明鏡台《めいきょうだい》に|在《あ》って、|研醜自《けんしゆうおのずか》ら|弁《べん》ず
  鎮錦在手殺活臨時  |鎮郷手《ばくやて》に|在《あ》りて、|殺活時《さつかつとき》に|臨《のぞ》む
<!-- ここまで引用 -->
<!--
  (○研醜ー--人と醜婦。○鎮郷-中国の名剣。呉の国の刀匠干将が妻の鎮椰と協力
  して、呉王のために作ったもの。日本の|正宗《まさむね》の|名刀《めいとう》というところ)
-->
 この句の禅意はおそらく|深遠《しんえん》なるものも含んでいるであろうが、我々に密接な境
地から解釈してみると極めて適切なものを感ずることが出来る。すなわち科学者が
自然に対する時、鏡のごとき|明澄《めいちよう》さを以て現象を|識別《しきべつ》し、研究の対象を選択するが、
その対象に向っては|刃《やいば》のごとき|鋭利《えいり》さを以て現象を純化し、その表現に努める。こ
れは正に科学者の常に考えていることであって、正しき思想の下に自然現象を捉え
て、科学構成を豊ならしめんとする行為にほかならない。
 我々が自然現象に対する場合、まず行なうべきことは現象の|熟視《じゆくし》であり、手を下
す前に実に注意深く|眺《なが》め入ることが必要である。この行為が大切であることを知ら
ないでいたずらに手を下してしまうと、多くは失敗に終るのである。筆者が研究を
始めた頃、多く考えもしないで--多く考えても致し方がなかったかも知れぬ
--手を下したために多くは辛き失敗の連続であった。この当時ある人に話したこ
とであるが、「実験というものは十回の中一回しか成功しないものだ」といったもの
である。これは要するに思慮が足りなかった結果でもあろう。
 しかしながら、年の経過とともに、次第にその成功率が多くなってきたことは事
実である。また以上の実験作業の中にも熱意の足りなかったことも認める。実験は
全く、|暗中模索《あんちゆうもさく》をつづけているごときものである。したがって自分には少しやって
みてうまくいかなければ、|直《じ》きにやめてしまう|癖《くせ》があった。もっと勇気のある人な
らば知らず、筆者のごとき気の弱きものであると、少時して気が|砕《くだ》け心がふさいで
中止するのが常習であったともいえる。しかしながら、時には当ることもあるので、
そうなると勇気が|湧《わ》いてきて、自然に仕事が|捗《はかど》り、仕事が捗れば勇気が増すという
調子で、結局レールに乗った汽車のごとくに進行する。十年ほど経って後は決して
さようのことはない。登山者が仰いで山頂を望むごとく、中腹は雲に|蔽《かく》れていても、
頂上に登りつく勇気は出でて、|遮二無二《しやにむに》に頂上に行きつこうとする。決して勇気の
|砕《くだ》けることもなければ、道を迷って中絶するごときこともない。即ち言葉を代えて
いえば、以前は|五里霧中《ごりむちゆう》に迷っていたものが、後には晴れた頂上を認めて道を開い
て進むごとき気持を覚えるのである。
 かくのごとき研究法は相当年功を積んでからでないと判らないらしい。ただ行き
着くところの|当《あて》が自ら判り、途中熱意を以て努力すれば目的地に達するという自念
を得るのである。この自念によって熱意は自ら|湧《わ》いて外観からは懸命に努力するよ
うに見えるが、研究者は山頂を極める嬉しさによって行動しているのである。あま
りに努力が続けられると、側からの観察によれば気違い|染《じ》みてくるのである。自分
の経験にもそれが自分から感ぜらる場合が屡々あった。
 実験、あるいは器械の製作等には熱意あることが要件である。ただし熱意はさよ
うに屡々かつ望む時に出てくるものではない。少なくとも自分には目的とする
到達地が見えて、初めて熱意も生じ|一気呵成《いつきかせい》に困難を排除して仕事が出来るのであ
る。目的地が見えぬ場合には、仕事は|遅々《ちち》としてなんら進歩がない。到達すべき目
標が自然に判るということは|理窟《りくつ》ではない、何だか心の中に|湧《わ》いてさような気がす
るまでである。これはおそらく直覚的判断によるらしい。直覚的判断というものは
ある人は極めて神秘的のもののごとく思うかも知れぬが、筆者は決してさようには
考えない。これは従来の経験を基とした綜合判断でなんら不思議とするには当らな
い。人間にはただちに思惟的判断を下すこともあろうが、直覚的判断も下せると自
分は信じている。火鉢を見て火鉢と判断するものは前者であり、ある人の顔を見て、
何時か|遇《あ》ったことのあると思うのは後者の類に当るのである。
 以上のごとく自然の研究は、研究者の経験によって容易に解決の可能、不可能が
決せられるのであって、研究をしてみなければ判らぬものはむしろ少ない。研究を
して見なければ判らぬものが、あるいは本当の研究ともいえるかも知れぬが、これ
はまた考え方によれば当て物類似の研究であるともいえる。とはいうものの、研究
手段はいかであってもよろしい。要は自然現象中に新事実を確立すればよいのであ
るから。
 研究遂行に当っては、常にその問題に即して離れぬことが肝要である。頭の中に
はその問題のみで一杯で、ふと思えばそのことのみが|脳裏《のうり》に浮んでくるほど思い|詰《つ》
めなければ決して出来上るものではない。|相当些細《そうとうささい》なことであっても、これだけの
行動は必要である。ある時には気狂になるのではないかと思うが、結局仕事が出来
上って後も、忘れる事が出来ないでそのことが常に頭に浮ぶ。およそ半歳位の間は
忘れることが出来ないではなはだ困ることがある。忘れてしまわなければ次の問題
は一心に考えることが出来ないからである。人々はこの行動は研究の熱意と呼ぶが、
これは熱愛と呼ぶ方がむしろ適切であるとも考える次第である。
 この熱意こそは研究の原動力であって、ある学者は研究はあたかも、山の中に洞
穴を穿って行くようなものである。柔かい土ならば進行も容易であるが、堅い岩に
ぶつかれば、それを切り開いて行くのはなかなか困難である。|鶴噌《つるはし》もたたない堅さ
においては|施《ほどこ》す術がないようであるが、堅い岩も氷のごときものであって、溶すも
のはただ熱意だけである、熱意あるところには必ず堅い岩も自ら|解消《かいしよう》する、といっ
たのであるが、この|比喩《ひゆ》は研究者にとっての一大教訓である。
 しかし、ここに残された問題はいかにして熱意ある研究者になれるかという問題
である。この問題に対しては先天的であるといえばそれまでであるが、筆者は全く
力量であるといいたい。研究者は力量を養うべきである。小問題から初めて次第に
大問題を取り扱う力量を備えなければならぬ。力ある者は必ず熱意が生ずる。力量
を養うことは即ち勉強をすることである。本を読むことも勉強の一つであろうが、
それ以上に大切なことは、現象をよく見て考えること、およびそれをいかに取り出
すべきかということである。
 古来大学者の生涯を知れば、いずれもかかる生涯を経ていることは|明瞭《めいりよう》となるであろう。
ローマは一日にして成るに非ず。学会の栄冠は絶えまざる学の修養に俟つて
初めて得られるのである。
 熱意が先天的であるという説に対して少しく論ずるならば、研究に|励《はげ》むことも先
天的といわなければならず、|頭脳《ずのう》の良否も先天的なりということになる。確かに頭
脳云々に到ってはおそらく先天的の要素が大部分であろうが、かく論じ来れば運命
節(Fatalisme)にも同意しなければならぬことになる。運命説が誤に陥っていると
いうことは誰しも指摘し得ないことであるが、また|然《しか》るが故に真理であるというこ
とを考える人間は一人もいないであろう。運命説に加擔せざる人ならば、正しく以
上の見解、即ち研究者の大成は先天的要素があるとはいわないであろう。後天的の
要素が彼をして大研究者に向上せしめたのである。
 ブッフォン Buffon は云う。
<!-- ここから引用 -->
天才は辛抱強いという最も大なる才能に他ならない。
Le genie n'est qu'une plus grande aptitude `a la patience.
<!-- ここまで引用 -->
 携学の徒よ、安心して可なりである、事は定まっているのではない。才能と呼ば
れるものも、結局心の持ち方一つである。|棺蔽《ひつぎおお》うて初めて功績が判明するにおいて
は、研究者は怠ることなく|励《はげ》めばよいのであって、熱意も生じて出来るであろうし、
この熱意を以て|障碍物《しようがいぷつ》を打ち|砕《くだ》いて進めばよいのである。
ムッソリーニも負けずに叫ぶ
<!-- ここから引用 -->
敢えて行うものは勝つ
Vincer`a chi sapr`a caare.
<!-- ここまで引用 -->
この句を口ずさむところ、研究者は何人も大学者になれる。人は常に若い、而して学は
永遠である。
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