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外村繁「岩のある庭の風景」


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   岩のある庭の風景

 川合の|叔父《おじ》が死んだ。七十三、四にもなっていたろうか。この叔父は|色素欠乏症《しきそけつぼうしよう》ともいうべき、いわゆる白子で、生れるとすぐ川合の籍に入れられ、A市在の禅寺に預けられた。私たちの一族とは絶縁されていたが、この叔父のことを、私の母はひそかに「川合の」と呼んでいた。
 私の母を通じてわずかに交渉が保たれていたらしく、その母に代って、私がこの叔父をA市在の小庵に訪ねたことが二度あった。最初の時は祖母の遺物を持ち、二度目は本家の伯父の遺物を持って。
 
 
 旧制の高校生であった私は、白線の帽子をかむり、霜降りの制服を着て、バスを降りた。盛夏のことで、バスが白い|土埃《つちぼこり》を上げて走り去るのを、私は街道に立って、しばらく見送っていた。というより、前方に小高い|丘陵《きゆうりよう》が連り、|紺青《こんじよう》の空に際立って白い積雲が湧き上っている、そんな風景の中をバスがしだいに小さくなって行った、という方が正しいようであった。
 ちょうど、川合の叔父が長い放浪生活を清算し、ようやくA市在の小庵に住みついて間もないころのことであったので、自分がこの|薄倖《はつこう》な宿命を負うた叔父を訪ねるただ一人の肉親であるということが、私をひどくヒューマニスティックな気持にかりたてていた。
 私は教えられたように街道を折れ、白い埃を|浴《あ》びた夏草が生い|長《た》けている|小径《こみち》を歩いて行った。左手は段々畑になってい、右の方には青い稲の伸び|揃《そろ》った水田の風景が|展《ひら》けていた。径はいつか段々畑の間を縫って、爪先上りになってい、やがて私はあまり高くない山の|麓《ふもと》に出た。山裾に沿って小部落があり、|藁葺《わらぶ》きの屋根が貧しげに傾いていたが、照り輝く太陽の中に、|南瓜《かばちや》の花は開き、林間で鳴きしきっている嬋の声がかえってひどく|静謐《せいひつ》なものを感じさせた。
 私は両手に提げていた風呂敷包みと、酒壜の包みを地上に置き、顔の汗を拭いた。この一升壜は、私たちの家の者に強い反感を抱いているという、川合の叔父の機嫌を最初にとり結ぶため、私の母からむりに渡されたものである。この叔父もまた無類の酒好きの由であったが、このように人間の弱点に|露骨《ろこつ》につけ入って、少しも恥じるところのない母たちの|遣《や》り方に、若い私は|嫌悪《けんお》を感じたが、私にもやはりその壜を打ち割るだけの勇気はなかった。
 あたりは強烈な陽光の中に音を消し、人影もなかった。私は濃い影を路上に落して、|呆然《ぼうぜん》と立っていた。が、不意に、私の前へ一人の少年が走りでてきたので、ようやく私は林泉寺への道を聞き、ふたたび両手に荷物を持ち上げた。
 ところどころに丸木で土止めのしてある坂道を上って行くと、山の中腹のあたりに、それと思われる土塀の門があった。門を|潜《くぐ》ると、さして広くない前庭を|控《ひか》えて小さい|堂宇《どうう》があり、その傍の古びた|藁葺《わらぶ》きの小屋が住居のようであった。が、その瞬間、私は|凝然《ぎようぜん》と目を|据《す》えた。乱れた総髪のような藁屋根の下の上り|框《がまち》の上に白い僧衣の男が立って、こちらを|窺《うかが》っている姿が見えたからである。私は足早にその方へ進んで行った。
 川合の叔父に相違なかった。髪は黒く染めてい、|皮膚《ひふ》も想像していたほどではなかったが、顔面はやはり粉を吹いたように白かった。その上、額は広く、|鼻梁《びりよう》も高く、唇屯まん中に深いくびれのある受け口で、まぎれもない藤村の顔だった。蝉の鳴く声の中に、どこかで|筧《かけひ》の水が流れ落ちている音が聞こえている。私は一礼して言った。
「川合の叔父さんですか。藤村の者です。三保の息子です」
 川合の叔父はしばらく無言のまま、私を見下していたが、ようやく|怒気《どき》を含んだ声で言った。
「何、藤村の者だって」
 叔父は|居丈高《いたけだか》になって、私の前に立ちふさがっているかのようであったが、そのいかにも誇張した恰好は、やはり等しく小心な、藤村のもののようでもあった。
「まるで、仕合せをかき集めたような顔をしているじゃないか。帰ってくれ」
 叔父は口を|吊《つ》り曲げ、憎々しげに言った。瞬間、私はいきなり平手打ちに合ったような|衝撃《しようげき》を受けた。いわば、不意に運命とでもいったものの深淵を覗かされたようで、私は今までの気負いたった自分がいかにたわいないかを知った。この叔父が存在するということは、正義とか、愛などというものの及ばないところで決定されたのではないか。私にとって、それは恐怖に近い感情であった。
「しかし、いったい、何しに来たんだ」
「亡くなった祖母の遺物を持ってきたのです」
「そんなものが、このわしに、何の関係があるんだ」
 叔父は強情にそう言ったが、明らかに落ち着きを失っていた。ことさら、叔父が私の提げているものからその目を外そうとするので、叔父の意識が何に集中しているか、否応なしに知らされた。等しく恥しいことではあったが、これが藤村の血であった。
「でも、そればかりではないんです」
 私は、しかし、口を|噤《つぐ》んだ。
「じゃ、何のためだ」
「僕、叔父さんにお会いしたかったんです」
「何やと、このわしに、お前が会いたかった、というのか」
「そうです。今も叔父さんがおっしゃったように、私は今まで全然苦労というものを知らないのです。こんな恐しいことはないと思うんです」
「うん、上れよ」
 叔父は|唇《くちびる》ばかり異様に赤い、その口許にふと微笑とも、|羞恥《しゆうら》ともつかぬものを浮かべたが、すぐ背を向け、|隣《とな》りの部屋の方へ歩いて行った。私も靴を脱ぐと、その後からその部屋へ入った。
 隣室からは、裏山の大きな岩壁の迫っている、岩の多い庭が見えた。庭は狭かったが、岩と岩の間には砂が敷いてあり、岩壁の割れ目からは地下水が滲みでていたりして、|清楚《せいそ》な感じだった。|檐《ひさし》近く、一株の南天樹が丈高く伸び、小さい、青い実の房をつけていた。
 私は祖母の遺物をさしだした。そうして幾分の後めたさを感じながら、一升壜の首を握り、
「これ……」と、叔父の方へ顔を向けた時だった。すでに立ち上っていた叔父が、いきなり遺物の包みを足蹴にした。しかしそれはいたって弱々しい蹴り方であったのか、包みは|緩《ゆる》く畳の上を転がった。
「笑え」
 いかにも藤村の人間のすることらしく、|年甲斐《としがい》もなく、身ぶりばかりおおげさで、|笑止千万《しようしせんばん》なことだった。
しかし普通の者ならば、このような場合、その顔は|蒼白《そうはく》になっていたであろうに、|自嘲《じちよう》にゆがんだ、この叔父の顔の|皮膚《ひふ》は何の変化も起こさなかった。
「笑ってくれ」
「私には笑うことはできません」
「あんな者は親じゃない。ある晩、一組の夫婦が、たんまり楽しみやがったんだ。奴らにとっては、ただそれだけのことなんだ。ところが、その結果として、わしという、こんな人間ができてしまったんだ。わしこそたまったもんじゃないわい」
 祖母に代って|詫《わ》びたいとも思って。私はこの叔父を訪ねてきたのである。そんな私の幼い感傷が、叔父のいかなる暴言も責めることはできなかった。私は微笑を浮かべて言った。
「しかしそうおっしゃれば、そうでない人間は一人もいないじゃありませんか」
「違う。お前なんかに何が判るもんか。誰が、わしだけを、こんな体に産んだんだ。しかもそのわしをや、そのわしだけを踏みくちゃにしておきやがって、お前らは皆涼しい顔をしてやがるんだ。それが親といわれる者のすることか」
「それには、祖母もずいぶん苦しんでいたようです」
「あほう、そういう甘ったれたことを言うてるから、そんな気楽な顔がしてられるんだ。奴らはな、わしが生きていることを憎んでいたんだ」
 叔父の語気は荒々しかったが、もはやこのような会話を続ける気持のないことは、私の膝の横にある一升壜を、わざと見まいと努めていることで判った。私は自分の不愉快を|忍《しの》んで言った。
「でも、祖母は、叔父さんのために貯金を続けていたのですよ。ごくわずかずつでしたが、|亡《な》くなるまで。その包みの中にあるはずです。そして、これ、母がさしあげよと申しました」
「えっ、姉さんから、このわしに。まさか|醤油《しようゆ》じゃあるまいね」
 私はすっかり|落胆《らくたん》した。しかし私はみずから求めてこの叔父を訪問したことを|悔《く》いはしなかった。というのは、私は私の|再従姉妹《またいとこ》に当る少女に、ひそかに好意を抱いていたが、叔父のこの一言で、私の心は決まった。この自分の血を|濃《こ》くしてはならない。
「ちょっと、待っとってや」
 叔父の白い粉を吹いたような皮膚の下で、はっきりと血の揺れるのが見えた。が、叔父は|素早《すばや》く遣物の包みを取ると、台所と思われる方へ去って行った。
 遠く雷の音が聞こえた。しかし私の坐っているところからは濃い青空が見え、|黒褐色《こつかつしよく》の岩壁の|露出《ろしゆつ》した裏山は北西に当るのか、庭一面に強い陽がさしている、その一つの岩の上に、強い色彩のとかげが首を持ち上げていた。
 台所の方からは、何かを刻む庖丁の音が聞こえてきたり、|筧《かけひ》の水音がきゅうに乱れたりしていたが、やがて叔父がビールに|胡瓜《きゆうり》もみなどを添えて運んできた。
「暑い時や。|口濡《くちぬ》らしには、ビールもちょっとはいいもんだよ」
 こういう叔父の|遣《や》り方も、|吝嗇《けち》でありながら、いたって見えを張りたがる藤村家の性格そのままであるかと思われた。が、叔父は先刻までとは打って変り、機嫌は直ったようだった。
「さあ、ひとつ、冷えてるんだ」
 叔父の言葉のとおり、ビール壜にはこまかい露が結ばれていて、|筧《かけひ》の水の冷たさが想像された。
 しかし私は言った。
「僕は、まだお酒はいただきません」
「そんなことをいうもんじゃないよ。ほんとによく来てくれたね。さあ、|乾盃《かんばい》しよう」
 私はコップにビールを受けた。しかし私はコップを差し上げただけで、下に置いた。
「そんなのだめじゃないか。ぐっと飲んでくれよ」
「ほんとに一度も飲んだことがないんです。僕はお酒は飲まないつもりです」
「そんなことで、藤村の人間といえるかね。それとも、わしのような者の酒は、飲んでくれんのかね」
 私は少し面倒になり、また不意に好奇心も手伝って、コップを取り上げると、思いきって一口飲んだ。初めて飲んだビールはほろ苦かったが、|渇《かわ》いた喉に冷たく、|爽快《そうかい》な味を残した。
「へえ、ビールって、ほんとにおいしいものですね」
 私はそう言って、重ねてコップを口にあてた。叔父は忙しく目をしばたたきながら、そんな私を見ていたが、きゅうに弱々しい声で言った。
「ほんとに初めてだったのか。しかし藤村の人間は、遅かれ早かれ、どうせこいつからは逃げられんのやからね」
 叔父は二杯目のビールを飲み干すと、自然に筋肉がたるむような微笑を浮かべて、 一升壜を取り上げた。
「やっぱりわしはこっちにしよう」
 叔父は一升壜の首を片手に握り、 コップに酒を|注《つ》いだ。その叔父の手つきは|梟々《たけだけ》しいとさえ見えた。
「この音、どうだい。わしに、これが、なかったら、わしはどうなっていたか、わからんな」
 叔父は一口酒を飲むと、らっきょを|撮《つま》んで口に入れた。
「保夫君、わしがな、わしの体、というより、わしの運命に気がついたのは、変な話だが、陰毛が生えてきた時のことなんだよ。それまでは、考えてみると、気楽なものだったが」
 叔父はコップを口に含んでは、語り続けた。
「なかなかよい酒だね。京の南禅寺の金地院にいたんだがね、十五の時だった、風呂へ入ろうとして、ふと見ると、白いものが生えているんだ。それが陰毛だと知った時……L
 叔父はふっと|噤《つぐ》んだ口へ、コップを持って行った。私は叔父のきゅうに一変した態度を不思議に思わないでもなかったが、コップを片手に持ちながら、まるで自分の運命を何とかして|咀嚼《そしやく》しようとしているかのような話しぶりに、しだいに引き入れられて行った。
「わしは親を|恨《うら》んだよ。恨みながら、親が|飢《う》えるように恋しいんだよ。まだ十五だったからね。つまりせめて恨みだけでも言いたかったんだね」
 叔父はコップの酒を飲み干すと、右手で一升壜の首を|握《にぎ》り、酒をコップに注ぐと、いかに屯安心したようにゆったりとコップを左手に持った。
「ところが陰毛は|容赦《ようしや》なく伸びて、まっ白いのがふさふさと生え|揃《そろ》ったんだ。わしは|悔《くや》しくってね、ある日、便所へ入って、|白髪染《しらぶぞ》めで染めてみたんだよ。ところが、場所が場所だったからか、すっかりかぶれてしまってね。わしは|醜《みにく》く|脹《ふく》れ上ったわしの陰部を見て、とうとう声を上げて泣いてしまったんだよ」
 私はいつかビールを飲み干していた。
「それからは、わしは自分を、親を、|呪《のろ》ったんだ。師匠は自分の運命に甘えるな、って言ったけれど、そんなもん|糞喰《くそくら》えよ。その運命を負わされた者でなければ、この苦しみが判るか、とばかりにね。もっとも、師匠の言葉と思うから腹が立つので、仏の声と聞かなければならなかったんだろうが、そんなこと解らんわ」
「叔父さんの方が、本当です」
 叔父はまた一升壜の首を握って、 コップに酒を注いだ。が、不意に、叔父は顔を上げて言った。
「わしのような人間には、酒は、いや酒だけが生きる力になってくれた。しかし番のような、幸福で、善良な人間には、あるいは酒は苦しみとなるものかもしれない。先刻、君は苦労を知らないと言ったが、どうだね、このかわいい奴を飲んでみる勇気はないかね」
 自分などの思いも及ばないような苦しみに生き|堪《た》えてきたこの叔父が、若い私には人生の苦行者のように思われ、たとえ悪魔の誘いであろうとも、私はその言葉を|拒《こば》むことはできなかった。
「はい、飲みます」
 私はそう言って、コップをさしだした。叔父は|怒《おこ》ったように無言で、酒を注いだ。私は酒を口に入れた。最初私の舌端は生れて初めての味覚に、ちょっと不馴れなものを感じたが、すぐひどく甘美な味に溶けて、舌の上に染みた。
「うまいものなんですね。こんなうまいものとは知らなかった」
「こりゃ、驚いた。さすがに藤村の息子だけのことはある。まったく末恐るべきものがあるわい」
 叔父は|嬉《うれ》しそうにそう言って、またコップを口に当てた。
「わしが南禅寺を飛びだしたのは、十八の時だった。しかし親にも捨てられるような人間が他人に愛されるはずはなかろう。それからはもう破れかぶれ、酒だけが相手の生活だったよ。金に困ると、たとえぼ東京にいた時だと、静岡、浜松、岡崎、名古屋という風に兄貴に|宛《あ》てて無心の手紙を書いたもんだよ。無心といってもわしの金だがね。兄貴の奴、わしが『ちょいと、ごめん』とばかり、白子顔出されるの怖いくせに、けちなもんだから、大垣とか、北陸からだとか敦賀とか、中国筋からだと大津とか、ぎりぎりのところへ来ると、局留めにして送ってきやがったもんだよ。|癇癪持《かんしやく》ちの兄貴の奴、わしが近づいてくるにつれ、きっといらいらしてやがるだろうと思っては、せめて|憂《う》さを晴らしていたもんだがね」
 しかしこれはこの叔父の思い違いであった。伯父はいつも六甲の別荘にいたので、この叔父の手紙に目を通すようなことはなかった。手紙は番頭から母に渡され、母の手で送金されていた。祖父がこの叔父に遺した金は私の母が預かっていたのである。
「わしは田舎町の居酒屋などでひとり酒を飲みながら、よう考えたもんだがね」
 叔父はかなり酔いを発しているらしく、色素が欠乏しているせいか、頭髪の中の地肌まで異常に赤く、私は永くは正視することができなかった。二回に射精する数は何億というじゃないか。君、億などという数を人間が実感することができるだろうかね。しかも一回でだぜ。まさか一回でわしが産れたということもあるまいじゃないか。するとお母の胎内で、何十億もの|親爺《おやじ》のお玉じゃくしの中から、何もよりによってこんなお玉じゃくしがくっつかなくってもよいじゃないか。親爺がちょいと筒先をひねってでもいてくれたなら、こんなわしでないわしが生まれていたかもしれん。何十億の中の一つ、そんなばかなことがあるもんかい」
 何十億の中の一つ、しかも人間の力の及ぶ世界のことではない。もはや、運命というよりほかはなかろう。しかし酔った叔父の頭には、|不倫《ふりん》な妄想ばかりが|駆《か》け|廻《まわ》るらしく、その|論旨《うんし》は定かでない。
「わしの誕生日は二月十四日だがね、すると、四月中ごろの暖かい晩のことだったろうよ。お母までが、あんまりよくってきっと夢中になりやがったんだね。ふざけるない。こんなことで、わしという人間の不幸が作られた
かと思うと、わしは|悔《くや》しいんだ」
 叔父はひどく腹立たしげにそう言ったが、不意に、無気味な微笑を浮かべて、私の顔を|覗《のぞ》きこんだ。
「保夫君、しかしね、こんなわしのところへでも来てもよいという女があるんやぜ。もちろん金、こら抓めるぞよ」
 叔父はそう言って、まっ赤な軟体動物のような自分の唇を、自分の手で狐ねり上げた。
「違う。断然、違う。貧しいが、心は美しい女なんだ」
「叔父さん、それはまたよいお話を伺いました」
 「ばか、わしが、このわしが、そんなことができるかい。梅干婆とは違うんだぞ。丸ぽちゃの、ぼてぼての子宮を持った娘なんだぞ。もっとも二十九にはなるがね。もしも子供でもできたらどうするんだ。その悔しさを知りすぎているこのわしが、そんな無責任なことは断じてできん。何が『よいお話を伺いました』だ。だからお前なん
か苦労が足らんというんだよ」
 叔父はみずからの悔しさを、何者へともなく当り散らすことによって、さらにみずからを励ましているかのようだった。あるいは祖母の胎内を、まっ先に立
で行った、祖父のお玉じゃくしにも似た奴は、色素欠乏症の因子ばかりでなく、尋常とはいいがたい小心、好色等々の遺伝因子を|帯《語》びていたのかもしれぬ。とすれば、この叔父の苦悩は、私などの想像も及ぼぬほどの深いところに|胚胎《はいたい》しているに相違ない。
 藁屋根の下にくぎられた空はまだ明るく晴れていたが、太陽が山の向こうに廻ったのか、庭はいつの間にかすっかり|翳《かげ》っていた。光を、したがって先刻までの濃い影も消してしまった岩の風情は、ひどく閑楚に見えた。不意に、|筧《かけひ》の水音を消して、近く|蜩《せみ》の声が聞こえてきた。
 叔父はなぜかきゅうに口を|噤《つぐ》んで、じっとコップの中を見入っていた。私はそのコップを持った叔父の手が、かろうじて酒をこぼさぬ程度に、揺れ動いているのを眺めていた。
 土塀の門を潜ったとたんに、私は|危《あやう》く声を発するところだった。目の前に立っていた幼女が、やはり強度の色素欠乏症であったからである。幼女は三つか、四つばかりであろうが、髪はまっ白く、顔の|皮虞《ひふ》はもとより白濁していて、その下には血の色が透いて見えた。視刀も弱いのか、幼女はさも眩しそうに私の姿を見上げたが、すぐ|踵《きびす》を返して、走り去って行った。
「川合の」が結婚したことは、前に私は母から聞いたが、数年前、初めて川合の叔父を訪ねた時の、あの痛々しい叔父の姿を思いだし、あのような激語もやはり空言であったかと、むしろ人間というものが哀れだった。しかしそれにしても、どこか顔立も似た、幼女の姿には、私はあまりにも|惨酷《ざんこく》な、運命というものを思わないわけにはいかなかった。
「保夫君かい」
 白衣の叔父が立っていた。私はその方へ歩いて行った。やはり筧の水音が耳に入った。
「おや、今度は二本かい」
 意外にも明るい声で、叔父が言った。私は酒の|壜《びん》を二本提げていたのである。私は思わず苦笑を浮かべて言った。
「いや、一本は僕のです。あれから、すっかり酒飲みになってしまいましてね」
「そうか、そう来なくっちゃおもしろうない。それでこそ藤村だよ」
 私は隣りの座敷に通された。部屋の中央に|塗《ぬ》り机が置いてあった。庭には早春の陽があたり、灰白色の岩の上に赤い椿の花が落ちている。丈長けた|南天樹《なんてんじゆ》も赤いみごとな房を|垂《た》れていた。
「兄さんも、悪いことだったね。意外に早かった」
 叔父は上機嫌であるらしく、ひどく|殊勝気《しゆしようげ》でさえあった。私は急いで用件を切りだした。
「伯父も亡くなったことですし、この際、叔父さんのお預り金をお渡ししたいと母が申しますので、持参したのですが」
「えっ、このわしの、預り金だって。それ、本当かね」
 私は黙って、小切手の入った封筒をさしだした。叔父はひどく|緊張《きんちよう》した|面持《おももち》で、不意に、それを押し|戴《いただ》いた。
「どれ、ほんならひとつ、拝ましてもらおうかい」
「つきましては、少し申しにくいことですが、これでいっさいの関係がないという一書をいただきたいと、兄が申すのですが」
 本家の伯父には子供がなく、私の実兄がその後を継いだのである。
「そんなこと、申しにくいもないが、この判子、|贋《にせ》もんじゃないだろうね」
「たぶん、贋物ではないと思いますが」
「そんなら安心。一書でも、二書でも書きますからな」
 私は先刻から爽かな風の音に耳を傾けていた。風声は初めはきわめて微かに、はるかに遠くから響いてくるが、やがて風の波が盛り上るように押し寄せてきて、またしだいに遠くはるかに吹き去って行く。私の坐っているところからは松の木は見えないが、裏山の松に吹く風の音かと思われた。
「松風ですね」
「少しうるさいくらいでね」
 松風の中にも、絶えず筧の水音は聞こえている。
「どうしたか、少し遅いね」
 叔父はそう|呟《つぶや》いてから、|口籠《くちこも》りながら言った。
「聞いてくれたかもしれんが、わしも、先年、嫁を貰うてね」
 思わず、私は叔父の顔を見た。しかし、先年訪ねた時の、あの苦しみなどというものは跡形もなく消えてしまったような、この叔父の顔を見ていると、私は先刻の幼女については聞きかねた。
「おかげさんで、ぼんもできるし、わしもこれで、やっと一安心よ。わしはね、これで、まず田を買おうと思うんだ。食べ料さえあれば安心だからね。それから、果樹園だよ。最初に富有柿を栽培してやろうと思うんだがね」
「お子さんは、男だったんですか」
「そうよな。しかも、君、髪もちゃんと黒いんだよ」
「すると、さっき、表で、女の子に会ったんですが」
「君は知らなかったのかい。あれは謙三の子だよ」
「えっ、謙三って、謙三叔父ですか」
「そうともさ。あれはたしか従兄妹夫婦だったからね。当然のことだろうよ」
 そういえば、とさ叔母は私たちの祖母の弟の娘に当る。私は私たちの一族の者の無智に腹を立てるより、自分たちの血に|慄然《りつぜん》とした。
「わしは自分がこんな体に生まれついたことにずいぶん苦しんだものだ。でも、その苦しみのおかげで、今のわしの喜びは誰にも想像もつかないだろう。だから、わしはわしにあの苦しみと、この喜びとを与えてくださった仏さまの御恩に、少しでもお応えするつもりで、章子というのだが、あの子を育てて行きたいと思ってるんだよ。今はよい。まだ仏さまのようなものだからね。しかし大きくなってからの章子の気持を判ってやれるのは、このわしだけだろうからね」
 |潮騒《しおさい》のように吹き寄せてきて、また遠く吹き去って行く松風の音の中で、私は叔父の言葉を聞いた。しかし、その時、土塀の門を潜って、玄関の方へ入ってくる、子を負った婦人の姿が見えた。すぐ叔母とその一子であることが察しられた。叔父はその姿を見ると、急いで小切手を腹巻きの中にしまい、きゅうに落ちつきを失って言った。
「保夫君、これについては、ちょっと黙っとってや。いや、別になんでもないんだがね」
 叔母は玄関へ入ると、|框《かまち》の上に後向きに腰を下し、子供を負った|紐《ひも》を|解《と》いた。子供は母の背を離れると、心もとない足取りで駆け寄ってきたが、私のいることに気づいたからであろうか、両手を胸にあてて、立ち止まってしまった。その子の髪は黒く、|皮膚《ひふ》の色も|尋常《じんじよう》で、その上、額は広く、鼻筋も通り、いかにも藤村の顔立だった。
「どうだい。優秀だろうが。保夫君、どこか君に似ているじゃないか。さあ、おいで。お父ちゃんとこへおいで」
 子供は叔父の膝の上に腰を下し、私の顔を見上げた。その瞳がいかにも黒く、澄んでいた。そこへ叔母も入ってきた。叔母はさして美しいというほどではなかったが、先年の叔父の言葉を|藉《か》りれば「ぽてぽて」と太り、温厚な性格に見えた。叔父が二人を紹介した。叔母は手拭をあてた|項《うなじ》を低く下げて、|挨拶《あいさつ》をした。
「若い人には、長挨拶は苦手だよ。さあ、それよりお|燗《かん》だ。ずいぶん長いことお|預《あず》けを喰わされたんだからね」
「まあ、こんなにおびただしゅうちょうだいいたしまして。ほんまに……」
「いや、一本は、保夫君、自分用を御持参になったんだ。さあ急いだり、急いだり」
 叔母の後姿を見送りながら、叔父は好色的な笑いを浮かべて言った。
「どうだい、わしにはちょいと過ぎたるものだろう」
「どういう方なんです」
「ひどく貧乏な百姓の娘でね、五人姉妹の末っ子と来ちゃ、嫁に行くどころじゃないだろう。まあわしが買うたようなもんだがね。|曖昧屋《あいまいや》に売られようとしているところを、そこは坊主だ、親に説教してね……」
 叔母が盆を持って入ってきた。すると、叔父は言葉を切って、いきなり叔母のおいた盆の上から盃を|抓《つま》み上げると、嬉しそうに言った。
「さあ、お客さんから、酌してもらおう」
 叔母が赤味を帯びた手に徳利を持ち、二人の盃に不器用に酒を注いだ。
「いよう、保夫君、堂々と対等じゃないか。では乾杯をしよう」
 私は盃を上げて、酒を干した。
「これはみごと、さすが君も藤村じゃわい。飲みっぷりが違うよ。そうだ、|蕨《わらび》の塩漬でも持っておいで」
「ほんでも、ほんなもん……」
「いや、この連中はいつもうまいもん喰べ飽きているから、かえってそんなもんの方がいいんだよ」
「そんなわけでもありませんが、蕨はけっこうですね」
「ほうですやろか」
 叔母は部屋を出て行った。子供も叔父の膝から腰を上げて、その後を追った。
「君、あれでね、|生娘《きむすめ》だったんだよ。こればっかりは、思わぬ拾いものでね、ありがたかったよ。それに働くことだけは、馬ほど働いてくれるよ」
「叔父さん、お愉しそうですね」
「いや、人間なんてまったく情ないもんだよ。親を憎み、自分の出生を呪うて、全然救われようのないわしだったのに、あいつを貰ったとたんに、まるでうちょうてん、何もかもけろりと忘れたようになってしもうたんだ」
 叔母が蕨や、山芋や、そんな|山菜《ざんさい》の料理を運んできた。蕨は|採《と》ったばかりのように青々としていた。
「蕨はこの辺に多いのでしょうか」
「はい」
 叔母はなぜか血色のよい顔をさらに赤くした。その喉下のあたりに、意外にも|肌理《きめ》のこまかい、白い肌が覗いて見えた。叔父は徳利をいちいち振ってみて、その空になったのを叔母に渡した。
「苦しみ方があんまりひどかったので、この喜びもこんなに弱いのかもしれんが、どんなありがたい教気も救うてはくれなんだのに、あいつは、まるで手品使いのように、このわしを幸福にしてくれたんだ。つくづく考えてみると、人間なんてあほうなもんだ。口ではやけくそのようなことをいうていても、つまりは人肌が恋しかった
のだ。いや、人の情というものに、わしは|餓鬼《がき》のように飢えていたんだよ」
 叔父は私に酒を注いでは、自分の盃にもしきりに酒を満たした。日の丸の旗と朝日の旗とを交叉させた、当時はどこの家にも見られた除隊記念の大きな盃であったの
で、叔父はすでに幾分酔いを発したようであった。
「ねえ、君、女の体の一部の中へ、男の体の一部を入れる。こんなことが|赦《ゆる》される」
 叔母が子供を片手に抱き、新しい徳利を持って入ってきた。叔父ほ言葉を切って、叔母に言った。
「もう、一本、空いたかい」
「いんえ、まだですの」
「だめじゃないか。若いくせに、そんなことでは。ぐっと干したり」
 叔父はそう言ったが、ひどく嬉しそうに徳利を取って、自分の盃に酒を注いだ。
「わしはね、君のような人の前で、けっして|猥《みだ》りがましい話をしようというんじゃないんだ。わしはありがたかったんだ。もったいない言いぐさかもしれんが、わしはごいつを抱いて、初めて仏さまが拝まれたように思うんだよ。言い換えると仏さまのお|慈悲《じひ》に抱かれて、縁あって|同行二《どうぎよう》人、どうやらこの世を渡って行けるかと、やっとそんな安心を得られたように思うんだよ」
 叔父はぐっと酒を飲み干した。斜面に坐った叔母の膝の上では、先刻から子供が乳を求めているようだった。
「いかん、こないに大きいなって」
 叔母は小声で|窘《たしな》めた、子供はひどく気弱く、叔母の胸に顔をあてた。すると叔父はだだっ子のように言った。
「千代、そう言わないで、やってくれよ。わしらだって、好きなもん、飲んでるんだ。保だって、飲みたいもん飲みたいだろうよ。よしよしぼんよ、貰ってやろうな」
 叔母は無言のまま、しかしほとんど表情を変えることもなく、胸を開いて、乳房を出した。まっ白い乳牛のぞれのような乳房の先には、黒い、大きな|乳嘴《にゆうし》が突きでていた。欲望というものには無抵抗に近い叔父、その叔父のいうなりになっている叔母、私はそんな二人の生活をちらっと|覗《のぞ》き見たようで、あまり愉快なことではなかった。しかしかなり酔いを発した叔父は、その顔をだらしなく|緩《ゆる》めて、私に言った。
「じつはね、君の名前から、一字だけ拝借しましてね、これの名前にしたんだよ」
 叔父の藤村らしい善意とは判っていたが、私は肌を|擽《くすぐ》られるような|羞恥《しゆうち》を感じないではいられなかった。しかし保は叔母の膝の上に|跨《また》がった足を撥ね上げて、ひどく満足そうである。その|項《うなじ》の深い|窪《くぼ》みまでが、いかにも藤村の家の者らしかった。
「わしは、それまで、わしをこんな体に産んでくれた両親を恨んでいたよ。しかしまったく人間なんてたわいないものなんだね。わしがあれほど憎んでいた両親の|行為《こうい》と、同じことをしたとたんに、皮肉にも両親に対する恨みも、憎しみもすっ飛んでしまったんだからね」
 叔父はそう言って、まるでそれ以上の言葉を発するためにはより強い酔いを必要とするかのように、立て続けに酒を|呷《あお》った。
「親爺が悪いんじゃない。わしが悪いんじゃない。こればっかりは人間の力ではどうなるもんでもないんだ。こいつだって、初めはひどく恥しがっていたが、いったん覚えてみると、長い間知らなかっただけに、格別好きになってね。いや、これは、失敬」
 叔父はちらっと叔母の方に目をやり、その口許に猥らな笑いを浮かぺた。しかし叔母は叔父の話を聞いているのか、いないのか、伏目がちに乳を含ませていた。
「しかし、わしは、保夫君、これだけは信じてくれ、わしは子だけは、絶対につくらんつもりでいたんだよ。これだけはほんとだ。仏さまに誓ってもよい。千代、そうだろう」
 叔母は|怪訝《けげん》そうに顔を上げ、膝から保を下すと急いで胸をしまった。私はこの叔父が先刻から何を言おうとしているのか、ようやく|了解《りようかい》できた。
「こんな体に産まれて、わしがどんなに苦しんだか、このわしが知りすぎるほど知っているんだ。そのわしが、このわしの子、ほしいなんて、このわしが、絶対に、思ったはずなかったのに、あの時は、こいつがあんまり嬉しがりやがったもんで、つい、その、あれが、外れてしまったんやがな」
 叔母は初めてその意味するものが何であるかを知ったらしく、赤く顔を|染《そ》めて、膝を立てた。
「ほんな、嘘ばっかり、あほうなことを言わんときやす」
 とたんに、叔母の着物がはだけ、膝裏の赤味を帯びた、太った脚を覗かせたが、叔母はすぐ立ち上り部屋を出て行った。叔父は目的どおり、すっかり酔いが廻ったようであった。
「何、嘘だと。でっかい|穴《けつ》を振って、恥しがっていやがらあ。わしは、こればっかりは、わしは、嘘は言わん。けんど、わしは、親爺のように、へまはせんわい。とっさに、上手に、筒先ひねってやったもんだから、どうだい、こんなにかわいい奴が、飛びだしてきやがったじゃないかい。さあ、ぼん、ここへおいで。お父さんとこへおいで」
 叔父は保を膝の上に抱き寄せ、片手で|徳利《とくり》を傾けた。しかしどれも空になっていた。叔父は大きな声を発した。
「千代、お|燗《かん》を持ってきてくれ」
「いや、僕もすっかり廻りましたよ」
「あほう、藤村みたい、けちけちしたこというない。千代、じゃんじゃん持ってこい。なくなったら買うてこい」
 叔父は不意に思いだしたらしく、ちょうど、秘密を|窺《うかが》う少年のように、自分の懐中を覗いてから、首を縮めて言った。
「これ、きっと内緒やぜ。君、酔うてしゃべったらあかんぜ。あんな田舎もん、こんなもん見たら目を廻してしまうからね」
 叔母が新しい酒を運んできた。叔父は自分の|盃《さかずき》に注いでから、急いで私の盃に酒を注いだ。
「しかし、保夫君、わしは、あんな恐しいことはなかった。|産婆《さんば》さんにわけを言って、わしは、つききりについていたんだがね、わしは、わしは、もしもそうやったら、殺して、殺してやる……」
 一瞬、叔父の顔に兇悪な相が浮かんだ。あるいはこれさえも酔いのために|誇張《こちよう》された、藤村らしい思いつきにすぎなかったかもしれないが、むしろ|弛緩《しかん》したような叔父の表情に、思わず若い私は|戦慄《せんりつ》した。
「それだけに、黒い髪の毛の頭が出てきた時には、わしは、泣けて、泣けて、ぼうと|霞《かす》んだ中に、わしはたしかに観音さまのお姿を見たんだ」
 酒のために|弛《ゆる》んだ|涙腺《るいせん》からは、しきりに涙がにじみでるらしく、叔父は目を、鼻と何度ともなく押えた。
「ありがとうてな、わしは、ほんまに、あいつの胯ぐらに、手を合わせていたんだよ」
 私もすっかり酔いを発していた。その視線の中で、叔父は保を膝の上に抱いて、まるで|痴情《ちじよう》に|溺《おぼ》れきっているかのようである。
「引っついた、引っついた、|蛸《たこ》引っついた、離さんぞう……」
 私の頭には、あれから一度も顔を出さないあの章子の姿があった。いったい、章子はどこにいるのであろうか。しかし私がそれを言いだしてみても、どうなるものでもなかろう。
 庭はやはりもうすっかり|翳《かげ》っていた。私は今に松の葉を鳴らして吹き寄せてくるであろう、はるかに遠い風声に耳をすましていた。
 以後、私はこの叔父を訪ねる機会はなかったが、川合の叔父は晩年もまず幸福であったというべきであろう。戦後、母の許へ二三度ひどく|慇懃《いんぎん》な無心の手紙をよこしたりしたことはあったが、保も無事復員し、鉄道に出ている由であったし、断種法による手術を受けた章子も、|盲唖《もうあ》学校時代の男生徒と縁が結ばれ、今はS市にいると聞いた。
 しかし私は晩年の叔父や、叔母の姿は想像することもできないし、まして章子や、保の成人した姿は思い浮かべるすべもない。叔父の死は母の手紙で知ったが、叔母は健在なのであろうか。しかし、盛夏の日には|筧《かけひ》の水音が聞こえてい、早春の日には松風が吹き|頻《しき》っていた、あの岩の多い庭の風景は、今もはっきりと覚えている。たぶん、庭だけは少しも変っていないのではないだろうか。
 
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