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辰野隆「露伴先生の印象」


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 数年前の夏の一夜、「日本評論」の座談会に招かれて、僕は初めて幸田露伴先生の謦咳《けいがい》に接したのであった。少年時代から今に至るまで、一世の文豪、碩学《せきがく》、大通として仰望していた達人に親しく見《まみ》え、款語を交わし得た僕の歓びは極りなかった。殊にその夜は、一高以来の谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生を繞《めぐ》って閑談するのを沁々《しみじみ》悦《よろこ》ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み且つ語る一座には靄々《あいあい》たる和気が自ら醸し出された。斯《か》くて先生もいつもより酒量をすごされたらしく、座談の果てに、我等の請うがままに、酔余の雲烟《うんえん》を色紙に揮《ふる》われた。僕の頂戴した句は
 鯉つりや銀髯そよく春の風
 というのであった。句は素《もとよ》り、墨痕もあざやかに露伴と署《しる》された文字から、僕の記憶はいつしか、青年時代に愛誦《あいしよう》した『対髑髏』へ溯《さかのぼ》っていって、

 ……里遠しいざ露と寝ん草まくらとは一歳陸奥の独旅、夜更けて野末に疲れたる時の吟、それより吾が身を露の友として……

 という一節さえ新たに思い出された。真に思出の深い良夜の会合であった。

 今年四月の或夜、僕は革新社から招かれて、数年ぶりに再び露伴先生の清話を聴聞する好機を恵まれたのである。数日前から楽しかるべきそのタを想見して待ち遠しかった。対座して、酒盃を手にしつつ徐《おもむ》ろに語られるのを傾聴していると、僕の少年期に、祖父や親戚《しんせき》の老人達が閑談していた頃の江戸の語調が蘇《よみがえ》って来て、何とも云えぬ懐しさが心の底から油然《ゆうぜん》と湧きあがるのを覚えた。もの静かに談笑する先生の微醺《びくん》を帯びた温顔を眺めながら、僕は床しき翁の物語に聞き惚《ほ》れる児童《わらんべ》の楽しさを味到したのである。対談会とは云いながら、革新社の人々も数名加わっていたので、一同先生の深くして博《ひろ》い造詣《ぞうけい》と趣味とに触れて互に悦楽を分かった。
 その後数日を経て、対談の速記を閲読しながら僕は幾度か校正の筆を投じて、当夜の先生の風丰《ふうぽう》言語を想起して感慨に耽《ふけ》った。速記を読んでゆくうちに、如何にも先生らしい言葉とその調子とを如実に再現する文句に出会って、思わず微笑せずにはいられなかった。釣りの話の件《くだ》りで先生は云われる。
……自分で船を操縦しまして、錘《おもり》が川の底にぽんぽん当るようにするんです。そうすると河底の土砂がほだてられて濁りがするんです……これは錘の作り方に伝授がありましてね。こりゃどうも、釣りをなさらない方々には一寸合点がいかないんですが……

 古き江戸以来の、伝統的な都の話振りがこの文句の裡《うち》に悠々と活《い》きて呼吸している。その夜の先生は数年前の夜と同じく、如何にも和やかな気分で盃を重ねられた。
 ……どうも今日は時刻が早かったせいか何んだか、大変に飲んじまって、もうどうも
….・いつも私は晩酌をやると、から意気地がなくなっちまって……

 というような言辞に接すると、その昔、ほろ酔機嫌の祖父が同じ飲み仲間と交わしていた会話を、再《ま》たしても、まざまざと想い起して、ひどく佳い気持になってしまうのである。人間も、古風な滋味が自らにじみ出て来るようにならぬと、奥ゆきが浅くて、談話に灰汁《あく》がぬけない。何処から見ても覡代酌な奴等と話をしたり、酒を飲んだりするよりは寧《むし》ろ黙って渋茶でも啜《すす》っていた方が遥かに清々《すがすが》しい。
 その夜、談たまたま先生の近什《きんじゆう》『雪たたき」に及んだ時、僕は先生にその語義を質《ただ》した。初め、この語の意味が解《げ》せなかったので、僕は同僚の橋本教授に訊《たず》ねて見たが、教授は、雪たたきという語はあまり見かけぬが、恐らく俳句の季題ではなかろうか、という答であった。そこで歳時記や大言海を調べて見たところ、雪うち、雪おろし、などという言葉は見出でたが、雪たたきは見当らなかった。先生の話されたところに拠ると、雪たたきという語は畠山記という史伝の中に出て来るので、下駄の歯に挟まった雪塊《ゆきくれ》をとんとんと叩いて落すことだそうである。この言葉は仮令《たとい》歳時記には見えなくとも、季題として極めて適切であると僕は思った。そこで之を季題として戯れに句を作って見たのである。

 酒の香や応《こた》へぬ門の雪たたき

 甚だ月並で且つ拙《つたな》い句ではあるが、これでも徳利の別れを語る浪花節《なにわぶし》『南部坂」の枕ぐらいにはなるかも知れないと思った。然し少しく更《か》えて、

 離酒《りしゆ》今や門暮れかかる雪たたき

 とでもしたら多少新しくはなるだろう。但し句境は必しも脇坂公の御門前に低徊《ていかい》せずして、一足飛びに、二・二六事件前夜という事にならぬとも限るまい。
 小説『雪たたき』が畠山記から出ている事は上述の如くであるが、その点に関する先生の史眼の鋭さにも僕は打たれたのである。先生曰《いわ》く、「……あの通り畠山記にあるんです。私が新発明して製造したものではないんで……物語も無論潤色してありますが、大体あの時代には有りそうな事情に思えたんですから、書いてある通りにしたので、私が手製で変な言葉や変な物語を出したのではないんです。あの話の前のところ、畠山が没落するところは、本当に面白い戯曲的なとこがあるんですが、それは却《かえつ》て後の世にでもありそうなことで、あの『雪たたき」のところは丁度どうも足利あたりの事情だと思いましたので、使いましたのです。」
 先生の脳裡《のうり》には既に足利時代と云う時代観が明らかに輝いていて、畠山記そのものまで充分に批判され、整理されているのである。嘗《かつ》て『阿部一族』に就いて鴎外先生に質した時、「あれは僕の創作ではない。昔の記録そのまま写出しただけだ」と答えられたのを僕ははしなくも思い出した。両大家の謙遜《けんそん》には誇張がある。然し僕が今、この誇張の中に奥ゆかしさと同時に史家の矜持《きようじ》をも併せて認めても、必しも非礼ではあるまい。
 先日、久しぶりに吉江喬松《たかまつ》氏や日夏耿之介《ひなつこうのすけ》氏と会談した時、露伴先生の如き大先達に物を聴く会合を折々催すことが出来たなら、互に楽しみながら、如何ばかり啓発されることであろうと沁々《しみじみ》語り合ったのであった。
 先年の「日本評論」座談会の席上でも、同じく釣りや網打ちの面白い話が出たが、その時、露伴先生は興に乗じて、昔の芝浦芸者というものも、あれで仲々馬鹿に出来ませんでしたよと云われた。夜釣りなどにゆくと、芝浦芸者は船で用を便ずるのが頗《すこぶ》る器用で、船尾の俗にチリという凹型の場所を利用して、醜態を見せずに放尿するのだそうである。新橋や柳橋の芸者じゃ、ああ巧《うま》くはいきませんな、と先生は破顔一笑された。僕はこの挿話を東京風俗誌の一断片として面白く拝聴したのであった。然るに雑誌に出た座談会記事にはそれが省かれていたので、甚だ遺憾に思った。そこで、四月の対談会の時にも、僕はこの話を持ち出して、あれを記事から削られたのを惜しく思ったと述べたのであった。此度の速記者は僕の言葉通りを更に誌《しる》したので、速記にもこの話は改めて残されたのであるが、その原稿の縁《ふち》には、露伴先生の鉛筆書きで、斯《こ》のような話は省かれては如何、と注意してあった。併し僕は僕で、その注意書きの傍らに、風俗文献として如何にも捨てがたければ、割愛せられざらん事を、と更に書き加えて置いた。然るに、印刷に附した「革新」七月号では、先生の注意を尊重して、再びその項は削除してあった。
 ところで、僕が今こんな事を書いて、もしやそれが先生の目に留ったら、先生が何と考えられるだろうと思うと、いささか忸怩《じくじ》たらざるを得ない。余計な事をする奴だ、とお叱りを蒙《こうむ》るかも知れぬし、今後あんな弥次馬の飛びだす座談会はお断りだ、と苦い顔をされるかも知れない。万一そうなっては文学の為に正に一大事であるから、僕はこの拙文が徹頭徹尾露伴先生の目に触れざらん事をひたすら祈念する他はない。
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