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長谷川時雨「朱絃舎浜子」


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朱絃舎浜子
 木橋《もくきよう》の相生橋《あいおいばし》に潮がさしてくると、座敷ごと浮きあがって見えて、この家だけが、新佃島《しま》全体ででもあるような感じに、庭の芝草までが青んで生々してくる、大川口《おおかわぐち》の水ぎわに近い家の初夏だった。
 「ここが好《え》いそ、いや、敷《しき》ものはいらん、いらん。」
 広い室内の隅《すみ》の方へ、背後《うしろ》に三角の空《くう》を残して、ドカリと、傍床《わきどこ》の前に安坐《あんざ》を組んだのは、
箏《こと》の、京極《きようごく》流を創造した鈴木|鼓村《こそん》だった。
 「此処《ここ》は反響が好《い》い、素晴しく好《え》いね。」
 も一度立って、廻り椽《えん》の障子《しようじ》も、次の間《ま》への襖《ふすま》も、丸窓の障子もみんな明けて来た。
 「ええね、ええね、なんか嬉しい気がするぞ、今日は良《よ》う弾《ひ》けるかも知れんなあ。あれ、あんなに潮が高くなった。わしゃ、厳島《いつくしま》に行ってること思出しています。ホ!」
 また大きな体を、椽のさきまで運んでいった。
 「ほう、ほう、見る間《ま》に、中洲《なかす》の葭《よし》がかくれた。あれ、庭の池で小禽《なに》か鳴いているわい。」
 「翡翠《かわせみ》でしょう。」
 わたしは早く「橘媛《たちばなひめ》」が聴きたかった。
 「まあ、すぐじゃ、すぐじゃ。」
 鼓村氏は閉口した時にする、頭の尖《さき》の方より、頸《くびすじ》の方が太いのを縮めて、それが、わざと押込みでもするかのように、広い額に手をあて ながら座についた。外で演奏する時には、ゆったりした王朝式の服装と、被《かぶ》りものであるが、今日のように平服のときは、便《べんべん》々たる太鼓腹 の下の方に、裾《すそ》の広がらない無地の木綿《もめん》のような袴をつけている。
 寛《らくらく》々と組んだ安坐の上に、私たちの稽古琴《けいこごと》を乗せて、ばらんと十三本の絃《いと》を解いた。
 「山の手におると、乾《かわ》くような気がすると、入千代《やちよ》さんはいうているなあ。此家《ここ》へくると、ジユウっと、水が滲《し》みわたるようじゃというてたが、わしもそう思います。」
 「岡《や》田|八《ち》千|代《よ》さんは、水がすきで、御飯へもかけて食べますもの、夏は氷で冷たくしたのを。」
 「や、そか?」
 鼓村師の、大きな体と、ひろびうした頬《ほお》をもつ顔に似合わない、小いさな眼が、箏《こと》の上に顔
ごとつきだされた。
 「水は好《え》いもんじゃなあ、麹町《わし》の家《うち》の産《がけ》に、山吹《やまぶき》が良《よ》う咲いているが、下に水があると好《え》えのじゃがー」
 椽《えん》に栗山桶《くりゃまおけ》がおいてあって、御簾《みす》のかかっている家《うち》の話に移っていった。
 そういううちにも大きな掌《てのひら》は、むずと、十三本の絃《いと》をいちどきに握って、ギユンと音をさせて締めあげた。
 それから一絃ずつ、右の片手の、親指と人差指に唾《つば》をつけては絃をくぐらせて、しっかり止める始末をしてゆくのだった。その扱いかたの見事さに、うっかり見とれていると、
 「あの、何じゃね、話が先刻《さつき》飛んでしまったのじゃけど、妙な、不思議な女子《おなご》でー」
と、指を湿らせる合間《あいま》に、水をほめる前に、先刻話しかけたつづきを、思出したようにいうのだった。
 「わしも、いろんな弟子《でし》をもったが、その女子《おなご》ほどの名手は、実際会ったことがないほどで、それが、こっちから訊《き》かなければ何も 知らんふりをしているが、なんでも弾けるのでなあ、忘れてしまうと、わしのものを、わしが教えてもらうので――いや、ほんのこっちゃ。」
 鼓村師は、自分の作曲したものでも、自分で忘れた部分は、爪音《つまおと》をとめて、絃《いと》の上に手を伏せたまま唄《うた》っていることがある。感興が横溢《おういつ》すれば、十三弦からはみ出してしまうほどの、無碍《むげ》の芸術境に遊ぶ人だった。
 「では、河内《かわち》の国、富田林《とんだばやし》の、石《いそ》の上露子《かみつゆこ》さんとどっちがー」
 かつて、雑誌『明星《みようじよう》』の五人の女詩人、鳳晶子《おおとりあきこ》、山川登美子、玉野花子、茅野雅子《ちのまさこ》と並んで秀麗《うつく》しい女《ひと》であって、玉琴《たまごと》の名手と聞いていた人の名をいって見た。
  ゆきずりの、我小板橋《わがこいたばし》しらくと、
  一重《ひとえ》のうばら、いつくより流れかよりし、君まつと、ふみし夕べにいひ知らず、しみて匂ひきー
と、私は口のうちで、石《いそ》の上《かみ》露子の詩をうたって見ていた。
 それを、大きな掌《てのひら》は、遠くからおさえるように動かされて、
 「あれは美人じゃからなあi石河《いしかわ》の夕千鳥には、彼女の趣味から来る風《ふ》.情《ぜい》が添うがーわしが、今感心しておる女子《ひと》は、箏《こと》のこととなると、横浜から、箏を抱いてくる。小《コ》いさな体《からだ》をして。」
 ちいさな、というのにカを入れて、丁度.絃《いと》の締まった箏を、軽《かるがる》々と坐ったまま、ぐるりと筆規《ぶんまわし》のように振りかえた便次《ついで》に、抱《かか》えるようにして見せた。
 「こんなようにしてじゃぞ。」
 私の顔は笑っていたに違いない。鼓村師は割合、細心なところもあるので、箏を振り廻したのを、乱暴したように笑っているのだとでも思いもしたように、豪放のような、照れたような笑いに、また首をちぢめてまぎらわした。
 水の清い、石川河の磧《かわら》に近く庵室《あんしつ》をしつらえさせて、昔物語の姫君のように、下げ髪に几帳《きちよう》を立て、そこに冥想《めいそ う》し、読書するという富家《ふうか》の女《ひと》は、石の上露子とも石河の夕千鳥とも名乗って、一人静かに箏を掻《か》きならす上手《じようず》の名が あった。それからまた、横浜から箏を持って習《まな》びにゆくという女《ひと》にもわたしには心あたりがあるので、思わず破顔したのだった。
 「土ハ通なところがあるのでしょ。」
と私は言った。それは、たしかに、二女に共通したものがあるのだったが、鼓村師には解《げ》せなかった。安坐の上に乗せた箏に、柱《じ》をたてながら、
 「その小《ち》いっこい女《ひと》は、几帳面《きちようめん》で几帳面で、譜をとるのに、これっぽっちの間違いもない。ありゃどうしたことじゃろうかね。箏の音はまた、それとは違うて、渺々《びようびょう》としておるので
ー――真の、玉琴というのはああした音色《ねいろ》と、余韻とでなければ――此
 だが、その玉琴の名手が、なんとしたことか、正午というと、何処でもお弁当を食べだすと、溜息《ためいき》のように、
 「それがなあ、汽車のなかででもでi汽車じゃというたところが四十分そこそこの横浜と東京の間で、それも買って食べるのではないのだから、ちゃんと、弁 当箱を出すのだからわしの方が恥かしくって、顔見られるようで愁《つら》かったが、すまあしてやっとる。見とるとわしも腹が空《す》くが、横浜までは何も 売ってはおらんのでー⊥
 鼓村師は、大きな口と、小さな眼で笑った。
 そう言ううちに膝《ひざ》の上で、箏の調子はあっていた。大きな、厚い、角爪《かくづめ》が指に嵌《は》められると、身つくろいして首が下げられた。
 私も、ずっと離れて、聴くにほどよい席につき、お辞儀をすると、膝の王に手を重ねた。
 渡り廊の方に、聴きに寄っているものたちがいる様子で、父は向うの居間《いま》で聴いている気配だった。襖《ふすま》の横には妹たちが来た。
 荘重なる音色、これが箏かと思われるほど、他の流とは異なる大きやかな、深みのある、そして幅広い弾奏だった。十三弦は暴風雨《あらし》を招《よ》ん で、相模《さがみ》の海に荒ぶる、洋《うみ》のうなりと、風雨の雄叫《おた》けびを目の前に耳にするのであった。切々たる哀音は、尊《みこと》を守って海 神《かいじん》に身を贄《にえ》と捧《ささ》ぐる乙橘媛《おとたちばなひめ》の思いを伝えるのだった。
 唄い終ってしまってからも、最後の音が残されていた。心ゆくばかりに弾じたのであろう心|足《た》らいに、暫時《しばし》の余韻をもって絃《いと》の上から手はおろされた。
 恍惚《こうこつ》とした聴者たちは息をつくものもなかった。薄くにじむ涙を、そっと拭《ふ》きとると、鼻をおさえているものもあった。少時《しばらく》口をきくものもないでいると、鼓村師も満足げに、水の面《おも》の方へ眼をやっていた。
 五月の潮の、ふくれきった水面は、小松の枝振りの面白い、波|除《よ》けの土手に邪魔もされず、白帆《しらほ》をかけた押送《おしおく》り船《ぷね》が、すぐ眼の前を櫓《ろ》拍子いさましく通ってゆくのが見える。
 「ああ、よかった。」
 誰いうとなく呟《つぶ》やきかわすと、
 「あの船も、あっちゃから来たんじゃね。」
 鼓村師は、庭へ出れば、安房上総《あわかずさ》の山脈が、紫青く見えるのを知っているので、ふと、そんなことを言っている。
 曲からうけた感銘に、ほろほろとしている主客を、救ってくれたのは、鼓村師の好きな素麺《そうめん》だった。古くからいる、年とった女中は、弾奏のあと で、冷たいものを悦ばれるのを知っているので、大きな鉢へ蕗《ふき》の葉を敷いて、透き通るように洗った素麺を盛ったのを、そのまま鼓村師の膝の前へ押し つけた。
 「これを、みな食べたら、恥かしいがな。」
 そう言いながら、一鉢はすぐになくなってしまった。それと同時に、
 「あなた様の分は、もう一鉢ございます。」
と、代りの、前のよりも大きい鉢が運ばれて来た。
 大きな人が、舞妓《まいこ》でもするようにはにかんで、口をつまんで、スッ、へ、スッ、へ、と中へ笑いながら、その鉢も引きよせたが、素麪を、するりと咽喉《のど》にすべり入れると、先刻《さつき》の、正午《おひる》のお弁当の話がまたつづけられることになって、
 「その女子《ひと》が断わっていうのには、先生には、誠に済まないのだが、どんなおりにも、正午《おひる》の時計と、キチンとおなじに食べつけているので、そうしないと、お腹《なか》の具合が悪いというて
-ー何処か悪いところがあるのじゃろうがーf」
 「お腹《なか》に病気がありますの。」
 わたしは誠に手軽く答えた。
 「なにしろ、お医者に言われると、ちゃんと、もう十年にもなりますでしょう、家《うち》にいれば、お午飯《ひる》は、ビフテキ一皿と、葡萄《ぶどう》が六顆《むつつ》ばかり。お母ざんが、ちゃんと拵《こし》らえて、食べる娘《ひと》は机の上の時計を見ていてi」
 「なんじゃ、あんた、知っとるのか? その女子《ひと》。」
 素麺を滝のように口にしたまま、眼を剥《む》いたのが、黒い顔に、いかにもびっくらしたというふうだった。
 「ええ。」
 お腹《なか》から押し出てくる笑《え》まいを、わたしは呆《あき》れている、素麺の上にあるその顔にむけた。
 「横浜といえばーそうでなくったって、あんな人は、まあないでしょう、浜子でなければi」
 「そうじやとも。」
 鼓村師は、一飲込《ひとのみこ》みしてから大きく頷《うなず》いて、
 「あんた友達か?」
 今度はわたしが説明する番に廻って、ええと言った。
 「横浜の家《うち》へ着くと、お母さんという人が、御馳走《ごちそう》をしたのなんのと、わしでも、どうにもならんかった。可愛いんじゃね、一人娘のようじやったが。」
 「おばさんは、浜子さんのお友達なら、どんな奉仕もするのです。彼処《あすこ》のうちの台所は、とても立派な、調理用ストーブが並んでいるし、井戸は 坐っていて酌《く》めるように、台所の中央《まんなか》にあるし、料理は赤堀先生の高弟で、洋食は、グランド・ホテルのクック長が来ていたから、おばさん の腕前は一流です。それに、山谷《さんや》の八百善《やおぜん》は妹の家《うち》ですからー」
 江戸《えど》の味覚は、浅草山谷に止《とど》めを差すように、会席料理八百善の名は、沽券《こけん》が高かったのだった。
 「浜子さんが、ムッと黙っているので、おばさんが、その代りにニコニコ、ニコニコして、
阿亀《おかめ》さんがわらっているように、例《いつ》も笑い顔をしてるでしょう。」
 「そうや、そうや。」
 鼓村氏禄、浜子が体が弱いので、転地ばかりしているから、その時持ってゆくのに具合の好い、寸づまりで、幅の広い箏を、正倉院《しようそういん》の御物《ぎよぶつ》の形《かた》ちを模して造らせた話をした。
 「箏の裏板へ大きな扉《とびら》をつけて、あの開閉で、響きや、音色《ねいろ》の具合を見ようという試みね、巧《うま》くいってくれればようござんすね。」
 あの箏の、裏板のバネを鼓村師が考えていることも、わたしは知っていた。
 「あれは、わしも期待しています。わしゃあ、日清《につしん》戦争に琵琶《びわ》を背負っていって、偉く働らいたり琵琶少尉の名も貰《もろ》うたりした が、なんやらそれで徹したものがあって、京極流も出来上ったが、あの人は、なんであんなに、箏にはいっていったものかなあ。」
 わたしの眼に、ふっと、一文字国俊《いちもんじくにとし》の刀《かたな》が見えた。と同時に、横浜の家《うち》の、土蔵《くら》の二階一ぱいの書籍の集積が思い出された。
 わたしが、知りたいものがあるとき、我儘《わがまま》なわたしは、自分で図書館へ行かずに、かくのこときものがほしく候《そうろう》と書いて手紙を出せ ば、たちどころに、何の中にかくありましたと、それは明細に、一字一点の落ちもなく奇麗に写してよこしてくれるのが彼女だった。あんまりそれがキチンとし ているので、わたしは彼女の芸術が面白くなくなる憂いがありはしないかと、余計な憎まれ口を叩《たた》いて、漢方医者の薬味簟笥《やくみだんす》のよう に、沢山の引出しがあり、一々、書附けが張りつけてでもあるような頭脳《あたま》だといったりした。たまには間違えて引出しをあけると、毒薬や、笑い薬な ども出て来て楽しいだろうにといった。そんなことも、こと細かに、下書きをした上で、その日の日記帳に書き止められ、しかも彼女の批判がつけられてあるの が、浜子の仕方だった。
 しかし、彼女には、彼女らしいユ;モアが計《たく》らまれ、静かに実行にうつされることもあるのだった。言って見ればある時、年長者や、年下の者や、とにかく浜子の箏に心酔する、友達であり門弟である女人《ひと》たちが集められた会食の席で、わたしに、
 「おやっちゃん、ニャアといってごらんなさい。」
と、並んでホークをとっている浜子がいった。わたしはなんの遅疑もなく、早速《さつそく》ニャアンと彼女の言葉の下にやった。わたしの眼はお皿からはなれ てもいないし、四辺《あたり》の眼なんぞ考えにも入れていなかった。ただ、しかし、可愛らしい小猫の柔《やさ》しみがなかったので、
 「まるでドラ猫だ。」
と、呟《つぶ》やきながら、もいちど、せいぜい小猫らしくやって見た。
 と、浜子は、下をむいて、クックッと笑いを噛《か》み殺している。それがとても嬉しそうなのだ。で、お皿を下げに来た給仕人《きゆうじにん》の笑い顔を 感じて、わたしは卓《テ ブル》の人たちを見ると、みんな、呆《あき》れきった眼を丸くしてわたしにそそいでいるのだった。
 あッはッははは。とわたしは男のように声を出してしまった。これが計画で御馳走があったのかと、見破ったからだった。浜子は、あたしのニャアンと言うこ となど、あたりまえのことで、なんとも思いはしないことは知りきっているのだが、ただ、浜子の友達のなかに、こんなことを、平気でするものがあることを、 吃驚《びつくり》するであろうみんなの前で披露して、呆《あき》れかたが見たかったのだ。それが思い通りだったので、楽しかったのに違いない。お景物《け いぶつ》に、わたしが、それがなんなの?といった顔をして、呆れている友達たちの顔を見たことまでが、予期した通りの好結果であったのだ。
 「おかしな人でー」
 わたしはそんなことを思出しながら、笑うとなおと、穿《ま`》き好《い》いからといって、太いふとい、まむしのような下駄《げた》の鼻緒《はなお》をこ しらえさせて穿《は》いたり、丸髷《まるまげ》のシンをぬいて、向う側がくりぬけて見えるような髷にゆったりするので、この部屋に来て坐ると、わたしが こっち側からのぞいて、安房上総《あわかずさ》が見えるといったことなどを、とりとめもなく言って、
 「お父さんは、信州の小県郡《ちいさがたこおり》の、二百年も連綿としたお庄屋様の家督とりで、廿五歳の青年お庄屋様は横浜へ飛んで来て、野惣《のそ う》という生糸問屋《きいとどんや》へはいってしまったんで、横浜が大きくなり、野沢屋が大きくなると、総支配人で店を掴《にぎ》る人になったのですが ――その利《き》かない気性と、強いものがあるところへ、お母さんは江戸っ児《こ》ですの。前川という有名な資産家の、太物《ふともの》問屋のお嫁御《よ めご》になって、連合《つれあい》に別れたので、気苦労のないところへと再嫁して、浜子さんを生んだ時に、女の子だったらば、琴が上手《じようず》になる ようにと、箏をつるした下で産んだのだときいています。お稽古《けいこ》のことで面白いことがあるのです。」
 あたしは聴いているままを、話した。両親の秘蔵ッ子には違いないが、母の教えたがるものと、父親の教えたがるものとは、すこしちがっていることや、お母 さんは、浜子が小さすぎる生れだちで、弱いのを気にして、運動にもなるからと、踊の稽古をはじめさせたが、次の目、乳母《ばあや》だけがお供をしていっ て、帰ってくると浜子は、
 「踊のおけいこ厭《いや》だから、やめてください。」
と、母親にいった。そんなに気がむかないのなら、また、そのうちに行きたくなるまで休ませようと、乳母《ばあや》を師匠のところへ断わりにやろうとすると、
 「いいえ、好いの、もうちゃんと来ませんと断わって来ました。」
と、六歳《むつつ》の彼女は言ったものだった。
 箏の稽古の方は、箏を父親が好かないので、内《ない》しょで弟子入りしたのだった。
 師匠の大出勾当《おおでこうとう》は、江戸で名の知れた常磐津《ときわず》の岸沢文左衛門《きしざわもんざえもん》の息子だった。開港地の横浜が日の出 の勢いなので、早くから移って来ていたが、野沢屋の主人《あるじ》の囲い者で、栄華をきわめ贅沢《ぜいたく》をしつくしていた、お蝶さんという権妻《ごん さい》のひっかかりだったのだが、そんな縁引《えんび》きがありながら、盲目のこととて、新入門の弟子の体に触《さわ》って見たらば、あんまり小さいの で、
 「これでは仕方がない、大きくなったらまたお出《いで》なさい。」
と断わった。
 それを、傍らで見ていた大出勾当の母親は、
 「なにを馬鹿なことをいうんだ。稽古というものは、教えて見て、弾けるか弾けないかで断わりもするが、小さいから大きいからっていうことはない。大人《おとな》だって覚えない奴もある。子供だって、覚えようって来たものを、手筋も見ないで帰す馬鹿があるかッ。」
|のの《けんまく》
と、巻舌で息子を罵しった。その見幕に、泣き出すかと思った子は、ちょこちょこといって箏の前へ坐ったのだった。
 「大出さんは、手ほどきのお弟子ですけれど、浜子さんには敬意をもっていました。いつか、横浜で、その勾当さんの会があったとき、箏を抱《かか》えてゆ く浜子さんに附いていったらば、行くとすぐ、あの人の番にして、誰も彼も謹聴です。箏のお師匠さんのお盲目さんたちが、コチコチに堅くなって、背中を丸く して聴いていました。ある時、お父さんが、浚《さら》っている音色《ねいろ》をきいて、待ってくれと、坐り直してから、その後《のち》は、間《ま》をへだ てても、キチンと正坐して聴いたものだといいます。で、そのお父さんが、何かにつけて、御褒美《ごほうび》をくださるのに、女の子の、浜子が望むのは、刀 なのでi」
 「刀? これは妙だ。」
 鼓村さんはますます興ありげに聴いている。
 「ええ、あの人は、幾振りか持っています。そのなかで、思いがけない、今では、国宝級の国俊も、お父さんが東京から買って来て、御褒美に貰ったものだといいます。」
 「面白いなあ。当時の横浜は、金がうなるようにあったのだと見える。」
 「貿易商が、儲《もう》かってしようがなかったのは、弗相場《ドルそうば》だったといいます。なんにしろ、十六の子に百円の小遣いをもたせて、東京へ遊びによこすi」
 「百円? なんでー」
 鼓村さんは信じられない顔つきだ。
 「東京へ、とまりに来たことがあるのだそうで、四十日ばかり泊っていたのですが、なにしろ、山谷八百善という派手な家業の家《うち》ではあり、九代目団 十郎のおかみさんは、八百善が実家《さと》になっているという親類たちなので、時代は、丁度、明治二十四、五年ごろでしたでしょうから、鹿鳴館《ろくめい かん》時代の直後ですわねえ。でも、・浜子さんはそういっていました。父は、あたしが、小遣いをどんなふうにつかうだろうと思っていたのだって。」
 「何を買ったかなあ、刀? だが、子供では、他《はた》が買わせやしなかったろうが!え、なに、本?」
 茶箱に何ばいかの書籍、それを担《かつ》がせて、意気揚々とおちび少女は帰っていったのだ。
 「親馬鹿は感心したろうがにえ。」
 鼓村さんは自分も感心したように言った。
 「島田に結ってたころ、髭《ひげ》が今に生《は》えてくるでしょ、なんて、からかったけれどーそうそう、こんな話もありましたっけ、佐佐木|信綱《のぶ つな》先生の所へいって、あたくしの友達の、こういう入を連れて来ますと言ったとき、その人ならば、思い違いをしたおかしい話があると、なんでも浜子さん が十五、六の時分ではなかったのでしょうか、錚《そうそう》々たる歌人たちを歌会を開いて招いたときの話で、佐佐木先生も招《よ》ばれていったが、どう も、その婦人は、年をとった偉い人なのだろうと出かけてゆくと、立派な家《うち》で、集まっている人たちも、浜子|刀自《とじ》とは、どんな人かとみんな が堅くなっていると、現われたのは、紫の振袖《ふりそで》を着て竪矢《たてや》の字に結んだ、小《ち》っこい小娘だったので、唖然《あぜん》としてしまっ たが、その態度は落ちつきはらっていたとー」
 あははと、笑いだした鼓村さんは、突然、
 「あれ、あれ。」
と、わたしに指差して教えた。家《うち》のものたちが、土手のはずれの方へいって、ワイワイ騒いでいるのだった。老父《ちぢ》も座敷の前の庭を横ぎっていった。
 「どうしたのですか?」
 鼓村さんは立っていって、挨拶《あいさつ》をしながら聴いた。
  「いや、家鴨《あひる》が河へ出て、沖の方へゆくそうでー」
  「やあ、じいやさんが船を出した。」
と、言いながら、鼓村さんは庭下駄をつッかけて、老父《ちぢ》のあとへ附いていった。
 椽《えん》へ立って見ると、どうやら、河口へ出た家鴨《あひる》を、通りがかりの小舟が、網を投げかけたので、驚ろいて橋の下を越して、沖へ出ていったものらしかった。
 白い大きな鳥が、青い潮にういているのがくっきりと見えている。対岸の商船学校から、オールを揃《そろ》えて短艇《ボ ト》を漕《こ》ぎ出してくるの が、家鴨とは反対に隅田川《すみだがわ》の上流の方へむかって辷《すべ》るように行く。ベカ舟《ぶね》に乗って、コイコイコイコイと、家鴨を呼んでいるじ いやに、土手の上で、危いから帰って来いと呼んでいるのを、橋の上の人が、大声で伝えているものも見える。
 庭へおりて見ると、小篠《ござさ》の芽が、芝にまじって、健《すこ》やかな青さで出ていた。そのかげを赤い小蟹《こがに》が、横走りに駈《か》けたり、鋏《はさみ》で草を摘んで食べている。
 浜子さんの噂をあんまりしたが、あれで、鼓村さんに浜子という人の並々でない気性がわかってもらえたかしらと、かいなでの弟子と見てもらいたくない気で、よけいなおしゃべりをしたのが、軽い憂鬱《ゆううつ》でもあった。
 彼女の家《うち》は、横浜の、太田|初音町《はつねちよう》の高台にあって、彼女の書斎の二階からも、下の広間の椽側からも、関内《かんない》のいらかを越して、海が遠くまで見えるのを思ったりしながら、わたしは、蟹を下駄のさきでおどろかしていた。



 新富町《しんとみちよう》の新富座の芝居茶屋《おちやや》にーと、いっても、震災後の今日《こんにち》では、何処《どこ》のことか解りようがない。
 銀座から行って、歌舞伎座の次の橋を越して、も一ツさきに築地橋《つきじばし》という電車の止まるところがある。
 この、築地橋の下を流れる川の両岸は、どっちから行っても佃島《つくだじま》へむかう、明石町河岸《あかしちようがし》へ出た。浜方《はまかた》の魚揚 《いさば》気分と、新設された外人居留地という、特種の部落を控えて、築地橋|橋畔《きようはん》の両岸は、三味線の響き、粋《いき》な家《うち》が並ん でいた。夕汐《ゆうしお》の高い、靄《もや》のしめっぽい宵《よい》など、どっち河岸を通っても、どの家の二階の灯も艶《なまめ》かしく、川水に照りそい 流れていた。咽《むせ》ぶような闇《やみ》のなかを、ギイと櫓《ろ》の音がしたりして、道路《おうらい》より高いかと思うような水の上を、金髪娘を乗せた ボートが櫂《かい》をあげて、水を断《き》ってゆくのだった。
 その、橋の向う角の一角を、東京の者は島原《しまばら》といった。そこにある新富座という劇場のことも、島原という代名詞でいった。
 あたくしが幽《かす》かに覚えているのだから、明治も中期のことであったろうが、この劇場と、芝居茶屋の前に、道路に桜が植えられ、燈籠《とうろう》が たったほどこの一角は、緋《ひ》もうせんと、花暖簾《はなのれん》と、役者の紋ちらしの提燈《ちようちん》との世界であった。尤《もっと》も、演劇改良の 趣意で建設当時には、花暖簾も提燈もやめさせ、板の看板だけにしたというがー
 芝居の裏通りや附近には、有名な役者たちが住み、音曲《おんぎよく》の方の人たちも、その一角のなかかその近間《ちかま》にいた。櫓下芸妓《やぐらしたげいしや》もあるといったふうで、四囲の雰囲気は、すべてが歌舞伎国領土であった。
 新島原という名は、京都で有名な、島原遊廓から来たものであったろう。あまり短命だったので、知れていないが、明治二年に、あの土地へ遊廓が許されて、 新島原が出来かかったのだが、次の年の秋に大暴風雨があって、中万字《なかまんじ》という妓楼が吹き倒され、遊女が八人も怪我《けが》をしたので、遊廓の 未完成のまま立退《たちの》きを命じられた。
 新富座の前名の守田座は、その島原へ建った。もともと、遊廓と芝居は離れない因縁をもっていてi歌舞伎の創業時代に遊女が小屋がけをしたことなどをいっ ていると、それだけでも長くなるがi江戸開府のころ、日本橋区人形町附近の、葭《よし》の生《は》えているような土地を埋めたてたりして、葭原《よしわ ら》という廓《くるわ》が出来、住吉町《すみよしちよう》、浪花町《なにわちよう》などと、出身地の地名をかたどった盛り場となり、その近くへ芝居小屋が 建築されたそれが、いわゆる三座と称せられた江戸|大劇場《しばい》の濫觴《らんしよう》で(中村座、市村座、山村座。そのうち山村座は、奥女中|江島 《えしま》と、俳優|生島新五郎《いくしましんごろう》のことで取りつぶされた)、堺町《さかいちよう》、葺屋町《ふきやちよう》にあった。大火後、遊廓 は浅草|田圃《たんぽ》へ移され、新吉原となり、芝居だけ元の土地に残っていたが、ずっと下《くだ》って天保《てんぽう》十三年に、勤倹令を布《し》いた 幕府の老中、水野|越前守《えちぜんのかみ》が、中央に芝居小屋などのあるのはもってのほかのこと、御趣意に反《そむ》くというわけで、浅草|猿若町《さ るわかちよう》へ転地させられた。
 そのころ、京橋|木挽町《こびきちよう》にあった守田座が、猿若町に立並んで三座となったが、この、守田座は、委《くわ》しくいえば、もとから、芝居は 四座あって、守田座だけが別の土地に離れていたので、これも古い名ではあるが、十一代目を継いだー下総《しもうさ》あたりのお百姓から出て、中村|翫右 《がんえ》衛|門《もん》と名のった、あまり上手でない役者が座元の養子になり、その子の十二代目|守田勘弥《もりたかんや》を、子供の時分からその道に 暁通《ぎようつう》するように育てた。
 その人が、演劇道に有名な守田勘弥という策士で、明治維新後の情勢を見て、帝都の中心地となる京橋へ劇場進出を目論《もくろ》んだ。元来木挽町は、以前 の土地ではあるし、木挽町へ劇揚を建てようという運動は、それよりも一足さきに、これもおなじ土地にあった河原崎座《かわらざきざ》が采女《うねめ》が原 《はら》へ新築許可を願い出ていた。これはたぶん、目下《いま》の歌舞伎座の辺《あたり》であったろう。i河原崎座主、河原崎|権之助《ごんのすけ》は、 九世団十郎が、市川|宗家《そうけ》に復帰しない、養子にいっていた時の名-現今《いま》でもあのあたりは、歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場が鼎立《てい りつ》している。
 守田座移転は明治四年だというが、新富町新富座という、堂々たるものになったのは、九年|霜月末《しもつきすえ》に焼けてから再築し、十一年春に、西南戦争を上演して大入《おおいり》をとってからだ。
 明治十年の西南戦争は、明治政府の功臣たちの間の争いであり、兵の組織も新式になってからであるから、薩南《さつなん》の地であったとはいえ、朝野《ち ようや》を挙げて関心をもっていた。西郷隆盛《さいこうたかもり》は、江戸人が恩人として尊敬し、愛していた大人物だった。その人の最後を知ろうとするも のが殺到したのだから、大入りだったわけだ。しかも、この戦争劇が、守田勘弥を上流人に接近させる便宜を得させたのだった。
 芝居人と紳士、学者との交際が対等になった。それは明治の諸政一新という御思召《おぼしめし》により、四民平等の恩典に浴したためではあるが、西南戦争 劇上演のために、薩南の事情を明らかにするには、当時の顕官に接近せざるを得ない。もとよりその機を望んでいた勘弥が、取り逃すようなことはしない。新富 座主の豪遊する、木挽町の待合《まちあい》は、明治顕官の遊ぶところで、当時の待合のおかみ、芸妓《げいしや》たちは、お客の顕官を友達のように思ってい たりするので、勘弥とその人たちを結びつかせた。
 時は、洋行帰りの新人や、学者たちの間に、丁度演劇改良熱の勃興《ぼつこう》しつつあったおりで、勘弥はその機運をいちはやくも掴《つか》んだのだ。 で、新富座本建築のときは、四十二軒あった附属茶屋を、大《おお》茶屋の十六軒だけ残して、あとは中《ちゆう》茶屋も廃した。間口《まぐち》の広い、建築 も立派な茶屋だけ残したのだから、華やかなはずだった。
 つい十年ほど前の、旧幕時代には、芝居者は河原乞食と賤《いや》しめられ、編笠《あみがさ》をかぶらなければ、市中を歩かせなかったという。差別待遇が甚《はなはだ》しかったため、七代目団十郎(隠居して海老蔵《えびぞう》、自猿《はくえん》と号す)は、
    錦《にしき》着て畳の上の乞食かな
と白《もう》したほどのばからしさが、新富座開場式には、俳優の頭領市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎、市川左団次から以下、劇場関係者一同、フロックコー トで整列し、来賓には、三条|太政大臣《だじようだいじん》を筆頭に、高級官吏、民間名士、外国使臣たちまで招待したのだった。
 それからの新富座は、外賓接待には洩《も》らされない場処《ところ》となって、ドイッ皇孫ヘンリー親王の来朝の時から、我国の宮殿下方《みやでんかが た》もお揃《そろ》いにて成らせられ、その時の接待係は、鍋島《なべしま》、伊達《だて》の大華族であり、そのあとへは香港《ホンコン》の太守《たいし ゆ》、その次へは米国前大統領グラント将軍という順に、国賓たちを迎えた。
 欧風熱は沸騰して、十二年の九月には、外国役者の一座、英、米、仏人混合の一座をかけたりしたが、言葉がわからないので一般には不向きで不入りだったと いう、種《いろいろ》々の経緯はあったが、新富座は劇道人の向上にはたいした役割をもった。その後、麻布鳥居坂《あざぶとりいざか》の井上邸で、天覧芝居 という、破天荒の悦びをもつことになったのだ。
 読者は、本文と、関係もなさそうなことを、なんで長々と書いているのだと、お思いになるかもしれない。この辺で、閑話休題と書くところなのだろうか、実はなかなか閑話休題どころではない。
 明治十二、三年から、浜子の生れた十四年以降の、劇界の開展は、こんな時代だったのだが、すべての世の中も、またこんなふうな発展進歩の途《みち》を とっていた。新富座主が新機運を掴《つか》んだ機智と並んで、劇界の大明星であった、九世市川団十郎の人格、識見i伝統的|大立物《おおだてもの》の風格 が、当時の学者、識者、貴顕たちに、自分たちの埒外《らちがい》の分野から同格者を見出《みいだ》した欣《よろこ》びを以《もつ》て、尊敬し迎えいれられ たことが見|逃《のが》せない。団洲とよび、三升《さんしよう》とよび、堀越《ほりこし》と呼び、友達づきあいの交わりを求め許した。そして、団十郎以外 にも、彼にならんで名人菊五郎のあることも知った。
 「勧進帳」その他が、明治天皇陛下、皇后宮《あきのみや》、皇太后の宮と、天覧につづき台覧《たいらん》になったことは、劇界ばかりではない、諸芸の刺 戟《しげき》になったのだ。ことに、堀越家とは姻戚《いんせき》に、荻原《おぎわら》浜子の母方はなっている。浜子が八歳の明治十一年には、末松青萍《す えまつせいひよう》氏たちの演劇改良の会が(末松氏は伊藤|博文《ひろぶみ》の婿)「演芸矯風会」に転身して、七月八日に発会式を、鹿鳴館《ろくめいか ん》で催し、来賓は皇族方をはじめ一千余名の盛会で、団十郎氏令嬢の、実子《じつこ》と扶貴子《ふきこ》が、浜子とあまりちがわない年齢で、税所敦子《さ いしよあつこ》i宮中女官|楓《かえで》の内侍《ないし》  の作詞を乞《こ》い、杵屋正次郎《きねやしようじろう》夫妻の節《ふし》附け、父団十郎の振 附けで踊っている。
 ここに、見逃せない事実は、女性進展の機運が、著るしくみなぎって、こうした方面にも、立《たて》ものの娘だからということばかりではなしに、女優というのが、なくてはならないと、たとえ泰西《たいせい》の模倣そのままでも、論じられていもしたのだ。
 そんなことを細かく言っていたらば、一篇の、風俗史的な女性発展史になってしまうから、それこそ閑話休題であるが、面白いのは、新富座が越して来て問もない、明治八年ごろの、築地《つきじ》風俗に、こんな日常時|小話《しようわ》がある。
 当時の新聞からとって見ると、
  雪の肌《はだえ》に滴《てぎてき》々たる水は白蓮《びやくれん》の露をおびたる有《あり》さま。
  艶《つやつや》々したる島田髷《しまだまげ》も少しとけかかり、自由自在に行きつもどりつして泳ぐさまは、竜《たつ》の都の乙姫《おとひめ》が、光氏 《みつうじ》を慕って河に現じたり。また清姫《きよひめ》が旦咼川《ひだかがわ》へ飛びこんで、安珍《あんちん》を追ったときはこんなものか、十七や十八 で豪気なもの。
と、合引橋《あいびきばし》の泳ぎ場《ば》で、新富町の寄席《よせ》、内川《うちかわ》亭にいる娘が泳いでいたのを、別品《べつぴん》女中を連れて游《およ》ぎに行くと出ている。
 それも無理のないのは、その辺、紅毛人《こうもうじん》の散歩場なのでもあるし、つい先ごろまでは、人中で肌などあらわすようなことは、死んでもしないというふうに女はしつけられていたのだから、白昼衆目の見る前で、島田の娘の水泳ぶりには、記者も驚いたのであろう。
 だが、また、佃島《つくだじま》から、渡舟《わたし》でわたって来た盆踊りは、この界隈《かいわい》の名物で、異境にある外国人たちを悦ばせもした。そ うかと思えば、島原の芝居は炎暑で不入り、元金七千円金が、昨日の上《とつくにじんあが》り高《だか》では千五百円の大損、それに引きかえて、同所の、火 除《ひよ》け地へ、毎夜出る麦湯《むぎゆ》の店は百五十軒に過ぎ、氷水売は七十軒、その他の水菓子、甘酒、諸商人の出ること、晴夜《せいや》には、半宵 《はんしよう》の物成高《うりあげだか》五百円位、きわめて景気よしともある。
 なんと、蝦夷錦《えぞにしき》のように、さまざまな色彩の錯合ではないか…それらの人々の頭の上を照らすのに、美なるかな、明《めい》なる哉《かな》、街頭に瓦斯《ガス》ランプ立つ。これで西洋の市街に負けぬという見出しで、
  美なるかなランプ、明《あきらか》なるかなガズランプ、一度《ひとたび》点じ来て、我々の街頭に建列するに及びてや、満街白昼の観をなさしむ。これに 次ぐものはオイルランプなり、これまた一行人《いちこうじん》をして、手に提燈《ちようちん》を…携ふの煩《はん》とわかれしむ。
といっている。新富座はもとより新設備を誇りにしている。当時流行の尖《せん》たん花ガスは、花の形《かた》ちをした鉄の輪の器具の上で、丁度|現今《いま》、台所用のガス焜炉《こんろ》のような具合に、青紫の火を吐いて、美観を添え、見物をおったまげさせていたのだ。
 そこで、この間《かん》、明治四十年に至るまでには、新富座興亡史があり、歌舞伎座が出来上り、晩年は借財に苦しめられた守田勘弥《もりたかんや》が歿《な》くなってしまうと、新富座は子供芝居などで、からくも繋《つな》いでいるような時もあった。
 その新富座の茶屋|丸五《まるこ》の二階。盛時を偲《しの》ばせる大きな間口《まぐち》と、広い二階をもったお茶屋が懇意なので、わたしは自作の「空華《くうげ》」という踊りの地方《じかた》の稽古所《けいこじよ》に、この二階をかりてあてた。
 試演は歌舞伎座で催すのだが、沢山の人を集めた和楽オーケストラなので、広い場所でなくっては稽古が出来ない。この丸五の二階で、幾日も幾日も、みんながお弁当を食べた。
 主として箏《こと》をもって、この歌劇風の「空華」の気分を出そうという最初の試みなので、作曲者の鈴木鼓村氏は、私の母がいる箱根へいって、頭を冷し、気分を統一して、そして漸《ようや》く出来あがったのだった。
 それを創意のまま鼓村さんが弾《ひ》くのを、受取ってくれるのが浜子であった。彼女は、一度聴いていて、膝《ひざ》の上で右の薬指を軽く打っているが、 直《じき》に正確な譜にうつした。鼓村さんは弾いてしまうと、その次には、例の、気分によって弾奏の手がちがうのだった。
 末《すそ》の方へいって伴奏に三味線がはいるのを、長唄《ながうた》研精会の稀音家和三郎《きねやわさぶろう》が引きうけていた。少壮気鋭だった三味線 楽家は、この試みが愉快でならないのだが、そんなふうで、鼓村さんとは合せるたびに、ぴったりしていたのがそう行かなくなる。
 箏《こと》の方の弾手《ひきて》も多い。長唄三味線の方も多い。歌は、音蔵《おとぞう》という立唄《たてうた》いの人の妹で、おかねちゃんという、それ は実に好い声の娘とーその人は惜しくも亡くなったがーその姉さんとが主であった。岡田八千代さんも箏の方を助けてくれた。
 とにかく、私の友達は、この仕事にみんな手つだってくれた。踊りの方は市川猿之助が主役、女の方の主役は、堀越|実子《じつこ》ーー市川|翠扇《すいせ ん》という女優の名で出演し、七人《ななたり》の舞女《ぶじよ》は、そのころの新橋七人組といわれた、小夜子《さよこ》、老松《おいまつ》、秀千代《ひで ちよ》、太郎、音丸《おとまる》、栄竜《えいりゆう》、たちだ。この組はこの組で、浅草|千束町《せんぞくちよう》の市川段四郎氏自宅の舞台と、歌舞伎座 案内所の表二階とで稽古《けいこ》していた。
 楽座の方は、曲の打合せが重なるほど、面白い出来ごとがあった。とうとう、ある日、箏と三味線の正面衝突となって、和三郎がカンカンに怒り出す。鼓村さ んは、幾杯もコップの水を呑《の》んだが、それでも熱して、そら豆のゆでたのを盛った大どんぶりのからになったのに、これに水をくれといって、水が運ばれ た来たのも知らずに弾いていたが、
 ーそんなこというて、わしゃあ!
と、言うが早いか、どんぶりの水を口にもってゆかずに、一、二|分苅《ぶが》りの赤い熱頭《にえあたま》の上へ、こごんだまま、ザブッとぶっかけてしまった。
 箏の上である。夕立ちのように水は落ちた。それも知らないで彼は熱中している。和三郎は小腕をまくって、ブルブル慄《ふる》えながら、冷静をとりもどそうとして、煙管《キセル》に火を点《つ》けたが、のぼせているので火皿《ほざら》の方を口へもっていった。
 みんな、座中のものは、びっくりしたように、おかしさもおかししではあるが、気の毒さで押だまってしまっていた。
 と、その時、その騒ぎと引き離れて、膝《ひざ》の上に箏尻《ことじり》を乗せ、片手で懐紙に書いた譜を見ながら弾きだしたのは浜子だった。彼女は、喧嘩 《けんか》には捲《ま》きこまれず、両方の言い分をきいて、両方の譜を、その争いのなかからうつしとって、合うように接合してしまっていた。
 浜子が弾きだすと、和三郎は煙草を止《や》め、鼓村も弾く手を伏せて聴いた。
 「あ! それなら好い」
 そう叫んだのは和三郎だ。
 「ああ、そや、そや。なんじゃ、それじゃったわい。」
と、鼓村さんも叫んだ。
 みんなの顔に、ホッとしたくつろぎが浮び、同時に誰も彼もの笑いが爆発した。
 「なんのこった。」
と、呟《つぶや》きながら、和三郎は三味線をとって、浜子の方へ、せわしなくむき直った。鼓村さんは、例の首をひっこめて、きまりわるそうに、箏にかかった水の始末を、弟子たちにしてもらった。
 みんなが、急に景気よく、しゃべったり笑ったり、揶揄《やゆ》したりするなかで、浜子だけは、別天地にいる人のように、すこしも動揺されず、直《じぎ》に最後《しまい》まで完全につくりあげてしまった。
 「ほんのこというと、まだよう、まとまっていなかったのじゃ。」
 鼓村さんは、自分だけでなら、どんなふうにも弾けるので、癖になってしまってて、困ると自分でこぼして、気持ちが軽《かるがる》々したように、
 「浜子さん、有…難う有難う、助かったわい。」
と…機嫌よく言った。
 その時、わたしは、浜子は、ひっこみ思案なのだが、大きなものの作曲も出来ると信じた。
 千束町の喜熨斗《きのし》氏の舞台へ、私と、浜子と鼓村さんと翠扇さんとが集った時、猿之助役の大臣《おとど》の夢の賤夫《しずのお》と、翠扇役の夢に 王妃となる奴婢《みずしめ》とが、水辺《みずのほとり》に出逢うところの打合せをした。猿之助の父は段四郎で踊りで名の知れた入、母のこと女《じよ》は花 柳《はなやぎ》初代の名取《なとり》で、厳しくしこまれた踊りの上手《じようず》。この二人が息子のために舞台前に頑張《がんば》っている。鼓村さんは息 子が踊りで叱《しか》られるのまでハラハラして、その方へ気をつかうので、琴柱《ことじ》をはねとばしたりした。
 「おや、おや、どうも。この方が乱れてー」
と、温厚な段四郎は、微笑しながら飛んだ琴柱を拾いに立った。可愛らしい鼓村は、大きな、入道《にゆうどう》のような体で恐縮し、間違えると子供が石盤《せきばん》の字を消すように、箏の絃《いと》の上を掌《てのひら》で拭《ふ》き消すようにする。
 浜子の方に狂いはない。その日の帰りに、千束町を出ると夜暗《よやみ》の空に、真赤な靄《もや》がたちこめて、兀然《こつぜん》と立ちそびえている塔が見えた。
 「あれは、なんだろう。」
 私は、すこしぼんやりしていて、見詰めて立ちどまった。
 「公園裏の方にあたるからー十二階でしょうよ。」
 「ああ、凌雲閣《りよううんかく》?」
 まあ、なんて綺麗なのだろうと、二人は夜の、浅草公園の裏から見る、思いがけない美観に見とれた。
 li楽劇「浦島《うらしま》」!
 私の頭のなかに、いつか手をつけて見たい、大きな望みがその時、かすめて過ぎた。
 楽劇「浦島」の一部分上演を、坪内先生から許されたのは、それから二、三年|後《のち》だった。
 浦島は六代目菊五郎、狂言座第一回を帝劇で開催するときだった。
 作には、箏《こと》の指定はないのだ。各種の三味線楽と、雅楽類だったのだが、私は、おゆるしをうけて、浜子の箏を主にして、三味線は一中節《いつちゆうぶし》の新人西山|吟平《ぎんぺい》、雅楽は山之井《やまのい》氏の一派にお願いしようとした。
 だが、なんといっても箏の浜子を説きおとすことが一番の難関なのだ。
 わたしはぶらりと行って、なんでもないような顔をして、彼女を散歩に引き出した。伊勢山《いせやま》の太神宮《だいじんぐう》の見晴しに腰をかけた。
 「何をそんなに眺めているの。」
 「海を。」
 彼女は、何かわたしが計画《たくら》んでいるなと見破っていた。わたしが突然に行って、歩こうなぞということから例外すぎるのだったから。
 「海なら、佃《つくだ》からでも、あたしの宅《うち》の座敷からも見えるのに。」
 「うん、でも、歩いて見たかったの、芒村《のげむら》から、横浜|新田《しんでん》を眺めた、昔の絵が実によかったものだから。」
 そんなことつけたりで、先刻《さつき》、横浜駅前の(現今の桜木町《さくらぎちよう》駅)鉄《かね》の橋を横に見て、いつもの通り、尾上町《おのえちよ う》の方へ出ようとする河岸《かし》っぶちを通ると、薄荷《はつか》を製造している薄荷の香《にお》いが、爽快《そうかい》に鼻をひっこすった、あのスッ とした香《か》を思いだして、私は一気に言った。
 「坪内先生の浦島ね、竜宮のところだけ、作曲してもらいたいの。」
 「だめ、だめ。」
 浜子は強い近眼鏡を光らして、呆《あき》れたように、
 「あなたは、あたしを買いかぶりすぎている。」
 「いいえ、臆病だとさえ思っている。他《ほか》の人は、七、八|分《ぶ》もった才能を、十二分にまで見せ
ている。浜子さんは、十二分にもっているものを、一、二|分《ぶ》しか見せない。それも、よんどころない時だけにね、けちんぼ。」
 それっきりで、二人は黙りあって、いつまでも腰をかけていた。日が暮れかかると、どっちからともなく立って歩きだしたが、口はきかない。



 日はすっかり暮れかけていた。黙ってさきへ立って、浜子が導びいた広間のうちは、一層たそがれの色が濃かった。
 浜子は、壁によせて立ててある「吹上《ふきあ》げ」という銘《な》のある箏《こと》に手をかけていた。「吹上げ」の十三本の絃《いと》の白いのが、ほのかに、滝が懸かったように見えている。
  吹上げの浜の白《しら》ぎく
  さしぐしの夕月に――
 とか、なんとか、わたしが即興詩を与えたことがあったが、その、朝と夕べとの小曲の作曲が.どうも気に入らないといって、どうしても聴かせてくれないので、わたしも、その歌を忘れてしまっている箏だった。
 浜子は言った。
 「調子はp」
 それは、やるともやらないとも、返事を口にしないが、たしかに「浦島」の作曲についていっているに違いなかった。
 「変えなければいけないでしょう、今までになかったのでもよろしい。そして、音を複雑にするために、高いのと低いのがほしい。以前《もと》からある替手《かえで》というものとは違った意味でーー」
 箏の調子を低くしろということは、これは凡手《ぽんしゆ》には言えないことだ。限りのある柱《じ》のおきかたであるから、低くするには、絃《いと》の張 りかたをゆるめるよりほか手はない。してまた、ゆるめた絃は最も弾《ひ》きにくいのだ。第一、爪音《つまおと》が出ない、下手《へた》に強く爪《つめ》を あてれば柱《じ》が動き出す。
 「荘重な音《ね》を出す工夫は  」
 鼓村師の独特の爪でなければーだが、鼓村師のはまた格別な品《もの》だ。象牙《ぞうげ》の、丸味のある、外側を利用して、裂断《さい》た而の方に、幾分 のくぼみを入れ、外側は、ほとんど丸味のあるままで、そして、爪《つま》さきの厚味は四分《しぶ》もあるかと思われる、厚い、大きな爪だ。それなればこ そ、撫《な》でるような、柔らかな、霰《あられ》のたばしるような、怒濤《どとう》のくるような響きーあの幽玄さはちょつと、再び耳にし得ない音色《ねい ろ》だった。
 「あああれは、あの人でなければ出来ない。」
 そうはいったが、浜子も、その事も考えてもいたのだ。
 「この音色で、非力《ひりき》なわたくしの爪音《つまおと》が、どこまで達しるかしら。」
 充分に、絃《いと》と、柱《じ》との融合を計ったうえ、浜子は研究の態度でいった。やれるかやれないかは、この、音の響きひとつであるという真剣さが溢《あふ》れていた。
 私は、縁側の障子を開いた。高みから見る横浜|関内《かんない》の、街《まちまち》々の灯は華《はな》のようにちらめいて、海の方にも碇泊船《ていはく せん》の燈影《ほかげ》が星のようにあった。次の間《ま》の境をあけると、家《うち》の入たちは、二人でむっつり帰って来て、燈もつけない室で、箏をとり 出して、弾くのでもなく、何かもずもずやっているので、何ごとかと案じていたように、そっと来て様子を見ていた。
 「こんど、菊五郎と、狂言座という研《も》究劇|団《の》を組織して、帝劇で、坪内先生の楽劇『浦島』をやらせて頂けるので、浜子さんに、箏を引受けてもらいたいのでー」
と、私は説明して、
 「やってもらえるか、もらえないか。この音が、何処《どこ》まで響くか1出来る出来ないより、きこえないようなものが弾いたってしようがないというのです。」
 そう言い足すと、浜子は、その通りというように、絃に触れながら、頷《うなず》いた。
 浜子のお母さんほど好《い》い人はない。そして、浜子の養子さんの賢吾《けんご》さんもまた、それに劣らずよい人で、浜子の芸術に尊敬をもっている。
 お母さんは奥深い土蔵《くら》前に陣どり、賢吾さんや、女中たちは、外《おもて》へ飛出した。坂の下へいった夢、邸の裏へ廻ったり、ずっとさきの角《かど》まで行ったりして、只今《ただいま》は低く、只今のはハッキリと聴えたと、幾返りか報告した。
 聴えないというものはない。箏の音とは、はッきりわかりませぬが、響きはきこえましたと、ずっと、さきの方へいったものまでが知らせた。浜子は、ほ、ほ、とそれが例の、こごむようにして笑って、
 「あなたへの同情は、素晴らしいものだ。」
 それが、では、やりましょうという、返事のかわりなのである。
 「まあ、まあ、まあ。そうでございますか、浜さんが、やると申しましたか?」
 顔中が、笑《え》まいでくずれそうにいう母|御《ご》へむかって、
 「あなた方は、おやっちゃんが来たとき.から、気持に縛《しば》られてしまっていたのですよ。」
と、もう彼女は、楽劇「浦島」の初版本を出して来て、わたしのと突きあわしている。
 改めて私は、もう一度、一番低い音をきかせてもらった。
 「この絃《いと》を、もう三本か五本足して、箏の丈《たけ》を、もう一尺ばかり長くして見ようか。」
 私の空想は飛拍子《とつぴようし》もないことを言い出す。と、浜子は咄嗟《とつさ》に、
 「わたしというものを、生み直させなければ、それは不可能でしょう。」
 彼女はクックッ、おかしそうに、機嫌よく笑っている。わたしは、人並より小さな彼女を見直していった。
 「しようがないな。」
 「ほんとにしようがない。これで勘弁しといてもらいましょう。」
 大正三年の二月、狂言座は、夏目漱石、佐佐木|信綱《のぶつな》、森鴎外、坪内|逍遥《しようよう》、という大先輩の御後援をいただいて、鴎外先生は新 たに「曾我兄弟《そがきようだい》」をお書き下さるし、坪内.先生は、「浦島」の中之段だけ、めちゃくちゃにいじ
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