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菊池寛「大雀天皇」

大雀天皇
 人間天皇と云う言葉が、この頃よく見られる。あたかも、敗戦に依って、天皇が初めて人間になられたように、説かれていた。
 が、古事記を読んで見ると、歴代の天皇は、みんな人間であることが、赤裸《せきらら》々に書かれている。
 古事記は政治史であると同時に、人間天皇の恋愛史であり、愛欲史であり、天皇情史である。
 次の物語は、古事記をそのまゝに、現代語に書き改めたのである。
 大和の国高市郡軽島の明《あきら》の宮に、天下を始められた品陀和気命《ほんだわけのみこと》(応神天皇)は、品陀真若《ほんだまわか》の王《みこ》の御娘三人を后《きさき》となされた。
 上の姫のお腹には、大山守《おおやまもり》の命の外、二人の若君と二人の姫君が、おありになった。
 中の姫のお腹には、大雀命《おおさざきのみこと》の外一人の若君と、一人の姫君があった。
 末の姫のお腹には、四人の姫君だけだった。
 この外にも、数多くの后《きさき》があった。宮主矢河枝比売《みやぬしやかわえひめ》と云う御后のお腹に、宇遅能和紀郎子《うじのわきいらつこ》、その妹の八田若郎女《やためわきいらつめ》、女鳥王《めどりのみこ》のお三方があった。
 数多《あまた》の皇子《みこ》達の中でも、大山守命、大雀命と宇遅能和紀郎子とが、才能風姿とも秀れて居られた。
 そのお三方のうち、誰が皇太子になられるだろうかと云うのが、宮廷の人達の関心の的であった。お三方の中、和紀郎子の君だけは、まだ二十になったばかりであった。
 ある時、天皇は大山守命と大雀命に向って、
「おみ達も、もう子を持っているが、親の身として年上の子と年下の子と、どちらが、愛《いと》しいものと思うか。」
 と、お訊ねになった。
 それは、天皇が一番年下の和紀郎子を寵愛して居られ、二人の兄達が承諾するならば、和紀郎子を帝位にづけよヶと云う思召があったからである。
 天皇のそう云うお気持を、普段からあきたらなく思って居られた大山守の命は、
「私は、年上の子が大切だと思います。」
 と、お答えになった。が、賢明で従順な大雀命は、早くも父天皇のお心持を推察して、
「年上の子は、もう大人でございますから、気懸りはございません。いたいけな年歯のゆかぬ者こそ、いとしく思われるものでございます。」
 と、お答え申し上げた。
 天皇は、その答にいたく満足なされて、
「雀《さざき》の君の申す通りだ。わしも、そう思うから、わしのわがまゝをゆるしてくれ。」
 と、仰せられて、大山守の命を国々の海や山の管治に、大雀命を今で云えば首相のような役に、そして宇遅能和紀郎子を皇太子になされたのである。
 こんなに、和紀郎子を愛せられたのは、やはりその母君である宮主矢河枝比売に対する御寵愛が深かったからである。宴席を共にせられた天皇が、山城の木幡《こぱた》で都へ矢河枝比売を、おめとりになった時に、御感興のあまり、次のような歌をお作りになった程である。
 木幡の道に遇はしゝ少女《おとめ》
 曁後手は 小楯うかも(後かち見ると小楯のように形がよい)
 歯|竝《なみ》はし 菱なす
 眉画き濃に かきたれ
 遇はしゝ女かもがもと(ああもしたいと)
 わが見し子ら 姫くもがと(こうもしたいと)
 わが見し子に 宴楽《うたげ》だに(宴席だけではあるが)
 対ひ居るかも い添ひ居るかも
大雀命は、父君に対して大切な点では、従順ではあったが、必ずしも、たゞ畏《かしこま》っているだけの息子ではなかった。
 ある年、天皇が、日向の国の諸県君《もろあがたきみ》の娘|髪長比売《かみながひめ》をお召しになることになった。それは、筑紫無双と云う美人であった。当時、難波の津に住んで居られた大雀命は、髪長比売の船が着いたと云う報《し》らせを聞くと、すぐ浜辺まで行かれた。
 皇子のお迎えに、恐縮して居られる姫に、
「自分は、どうにかして父天皇のお許しを得て、貴女を頂きたいと思っている。その時になって、嫌だなどとおっしゃらないように。」
 と、云われた。
 そして、引き返すと、姫の行列より先に、大和の明の宮へ行かれ、大臣《おとど》武内宿禰に、お頼みになって、天皇のお許しを願うた。
 天皇は、皇子のすばやい行動に、苦笑されたが、止むを得ず皇子の申出をお許しになったが、その時天皇は二つの歌を作られた。一つは、気持よく髪長比売を譲られる気持を歌って居られるが、他の一つは、
 水|渟《たま》る依網《よさみ》の池の
 堰杙打ち 菱殻の
 刺しける知らに
 蓴《ぬなは》くり 延《のば》へけく知らに
 わが心しそ いや愚《おこ》にして
 今ぞ悔しき
 堰杙を打とうとして、菱殻が足をさしているのも知らず、蓴の長い茎が足にからんでいるのも知らなかった。一杯喰わされていたと云う意味である。
 それだけに、この少女を獲られた大雀命のお欣《よろこ》びは次の歌で知られる。
 道の後古波陀《しりこはだ》少女を神の如《ごと》
  聞えしかども 相枕まく
 道の後は、道の果である。神の如くは、鳴る雷《いかずち》の如く名高いのである。相枕まくは、添伏をすることである。
 父天皇が、崩御になった時、大雀命は、天皇の御遺志に依って、天皇を宇遅能和紀郎子にお譲りになった。が、大山守の命は、父帝の詔《みことのり》を無視して、自分で帝位に即こうとされた。そして、御弟の皇子を、ひそかに襲撃しようと計って、軍勢を用意した。
 その事を知った大雀命は、すぐ宇治へお知らせになった。教科書に依ると、和紀郎子の皇子は、兄君の大雀命と皇位を譲り合って、遂に自殺されたと書かれて いるが、必ずしもそんな消極的な皇子ではなかった。自分に悪意を持ち、自分を倒そうとする御兄弟に対しては、すぐ反撃の用意をなされた。宇治川の岸辺に は、精鋭な軍勢をかくして置いたが、山の上にはあたかも皇子が、今日しも遊宴を催されているかのように美しい幕をはりめぐらし、百官や宮女達を、あちこち と往来させ、一人の舎人《とねり》に皇子の服装をさせて、一段高い座席に着かせて置いた。が、一方には宇治川の対岸に、数隻の舟を浮べて置かれた。そし て、船の中の船板に大山守の命がその船をきっとお使いになるような位置には油をぬって、それを踏むと滑って倒れるようにして置かれた。そして、お自ら賤し い船夫《かこ》に、身をやつしてかじを握って居られた。
 兄君の大山守の命は、山の上に遊宴のありさまを見て、多くの軍勢を率いて乗り込むよりか、数人で襲った方が、効果的であると思ったらしく、軍勢は、その 辺にかくして置き、鎧《よろい》の上に普段の衣をおつけになり、わずか数人の臣下と共に、その船にお乗りになった。が、船が中流に来たとき和紀郎子は、か ねての手筈の通り舟子どもに、その船を傾けさせた。油を塗ってあるので、一たまりもなく、大山守の命は、河中に顛落《てんらく》された。が、すぐ浮き上っ て、鎧を除《と》ろうとしたが、中々とれない。するどい水勢に、あれよあれよと流されて行った。この時、大山守の命のおよみになった歌は、
  ちはやぶる 宇治のわたりに棹《さお》取りに
    速けむ人し わがもとに来む
 かじを取るのが早い人よ、はやく助けに来てくれと云う歌である。
 この時、かくれていた和紀郎子の軍勢は、歓声をあげて、堤上にあらわれ、弓に矢をつがえながら、皇子の流れるのを見送ったが、さすがに溺れんとする皇子を射る人はなかった。
 そのお亡骸《なきがら》を引き上げた時に、弟の皇子は、次のように歌った。
 ちはや人 宇治の渡に
 渡瀬に立てる梓弓《あずさゆみ》真弓
 射切らむと心は思《も》へど
 射取らんと心は思へど
 末辺《うらぺ》は君を思ひ出
 末辺は妹《いも》を思ひ出
 いらけなくそこに思ひ出
 悲しけくこゝに思ひ出
 射切らずぞ来る
 梓弓 真弓
肉親の兄君を殺した苦悩が、しみぐと出ている.こうした皇位の争い俵って、兄君を殺した和紀郎子が、悶《もんもん》々として苦しまれた後、自分の位を兄上たる大雀命に譲ろうと決心されたのである。
 だから、大雀命と和紀郎子の皇位を譲り合われた話にはこうした血のにじんだ悲話の裏付けがあるのである。一方の話をかくしてしまうから、天皇が干からびた神さまになってしまわれるのである。
かくして、大雀命と和紀郎子の皇子とは、皇位をゆずり合われて、数年に及んだ。
 その頃、海人が供御の鮮魚を難波の宮に献上すると、兄御子は宇治へ持って行けと云われ、やっと淀川をこぎ上って宇治へ運ぶと、弟御子は難波へと仰せられた。
 そんな事が、いく度もあるので、海人は途方に呉れて泣き出した。だから、その頃世の諺《ことわざ》に「海人の身なれば自分の物で苦労する。」と云うのがあったほどである。
 かくて、弟の御子が早世されたので、兄御子が天下を治められることになったのである。弟御子の死も、自殺ではないだろう。大山守の命を反撃される事から考えても、それほど消極的な皇子でないことが分るであろう。
 大雀命こそ、上代の聖帝と称されている仁徳天皇である。


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