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尾崎士郎「夏草」


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 いよいよ番付編制ということになるとたちまち大へんな騒ぎになった。
 ー朝に酒、夕に酒、というと甚だ威勢がいいが、欝結した気もちをまぎらすものは酒のほかにはなかったのである。それほど、誰も彼も貧乏だ、退屈をまぎらす時間を持てあましきっていた。酒の余勢が此処まで延長してしまったと言えばそれまでのはなしになるが、しかし考えようによっては理屈はどうにでもつく。当時、相撲協会は天竜脱退事件の余波をうけて、その成立さえも覚束なくなるのではないかと思われるほどの悲境時代にあった。雛壇も二階桟敷もがら空きで、どんな名勝負があったところで熱狂して湧きたつ空気などは薬にしたくもない。新聞の社会面の片隅にやっとその日の勝負だけ六号活字で報道されるという時代である。銀座の雑踏の申にのそのそ歩いている力士の姿があらわれると、その頃時代色の中からあざやかにうきだした有閑婦人やモダンボーイたちは、まるで牛か馬がとびこんできたように顔をしかめた。群衆の波の上にそびえ立つ大たぶさの形さえもいかに佗《わ》びしく物哀れであったかということはわざわざ説明する必要もあるまい。
 されば大森在住の義に勇む貧乏な小説家、洋画家、ジャーナリストのあいだに汪然《おうぜん》として相撲熱の高まったことは故あるかなとも言えるであろう。必ずしも世に容れられぬ力士の姿を見て、わが身につまされたわけではない。ーつまり、それほどみんな退屈をまぎらす時間がないほど不遇だったのである。
 いずれにしても「大森相撲協会」は昭和六年七月某日、ついに時代の要求に従って成立するの余儀なきに立ちいたった。(後世の歴史家はもちろんこう書くであろう)
 各自名前をつけることになったが、さすがに文字を使うことは本職だけあって、飛竜山、天神山、女夫波《みようとなみ》、六ノ花、伊豆ケ嶽、夕凪《ゆうなぎ》、朝立、馬錦、若鮎《わかあゆ》、玄海、松ノ音、本牧山《ほんもくざん》、江戸嵐、椰子《やし》ノ花、高麗山、丸ノ内、猫柳、蝉ケ峰、響洋、鳳来《ほうらい》、  とならべ立ててくるとまことに絢爛《けんらん》眼をあざむくに足るものがあった。噂はたちまち尾に鰭《ひれ》がついて、人気と勢力はたちまち侮《あなど》るべからざるものとなり、力十としての出場は覚束ないから、せめて四本柱の検査役として名前だけでも登録したいという年寄まで出てくる始末になった。ところで、この光栄ある力士諸君の名誉のために彼等の生活状況について一言することは必ずしも無駄ではあるまい、-1飛竜山彦八は協会設立の功労者であるが、名詮自性《みようせんししよう》彼はまことに池にひそむ竜、!というと語弊があるが、鰻《うなぎ》となって池に埋れるかそれとも雨を呼んで天に上るか、どうにも決しかねる心境のなかをうろついていた。砕けた言葉でいうと純文学の決死隊に加わって護国の鬼になるか、それと竜大衆文学に走って生活を全うするか、二にして一、一にして二、ー仇討美談、「流す拍子木|北廓《ほくかく》哀話」の執筆さえもこの鉄案を前にしては遅々として進まず、明日の月末をどう処置する術《すべ》もなく、かつて北国の名花として謳《うた》われた恋女房の生活にやつれた肩をおさえ暗然として涙にくれていたのである。もとより一滴の酒も飲めない男であったが、ある夜、同輩の夕凪八郎兵衛にだまされて冷酒を水だといってひと口|呷《あお》ったのが機縁となり、これなら飲めるぞ、と言いながら到頭一升酒をぺろりと平げた上に、満座|呆然《ぼうぜん》としている中を真裸体になって踊りだした。身長五尺四寸、体重十九貫八百。協会の重鎮として押しも押されもせぬ大関である。
 続いて、天神山丙太郎であるが、彼は年歯すでに四十を越え、長いあいだの文壇下積の生活にはすっかり業を煮やしていた。文壇がその気ならこっちから綺麗にわかれてやる。しかし、かりにも牛追村の村長と言われた天神山だ。別れると決めた上からは唯で別れるわけにはゆかぬ、ーと思ったかどうかは知らないが、彼はたちまち××大学の文芸科教授の職におさまり、今まで舐《な》めに舐めた原稿持込の欝憤を、こんどは逆に強欲非道なジャーナリストを養成して若い作家たちをいじめ抜くことによって晴らしてやろうと、ふかき決意をかためたばかりのところであった。それが、伊豆ケ嶽疳吉になるともうヤケのやん八である。見よ往年デモクラシーさかんなりし頃は天下の人気を一身にあつめた論客であった彼が、何時の時にか時勢の波から遠ざかり、政治家として立てば一党領袖たる貫禄を持ちながら陋巷《ろうこう》にかくれて酒を食《くら》い女に戯《たわむ》れて余生を送っているのである。いや、いるように見せかけてはいるが、しかし、袂《たもと》の中は野心と山気と勘定書でふくれあがっているのだ。一代の英雄も壮図|徒《いたず》らに空《むな》しく、台所に酒の絶えたる日は無くとも電灯線と瓦斯《ガス》線は半年以上切断されたままになっている。夜になっても電灯の点《つ》かない家、fと言えば三歳の竜子も知っている。人格識見、共に協会の長老として申分はない。力士夕凪は五流の小説家で伊豆ケ嶽部屋所属の力士であるが、二夜地蔵」というあだ名があるくらいで、女についてのだらしなさとくると大抵の仲間が見切をつけている。その癖自分のことは棚にあげて人のアラばかり探しては愚にもつかぬゴシップを売り歩いているので鼻つまみにされているが、これも強いて善意に解釈すればまた不遇の然らしむるところであろうか。これに加えて馬錦、松ノ音、若鮎、等、等、等、ーと数え立ててくると何《いず》れも闘志満々たる不平人物揃いで、相撲協会成立すると聞くや退屈のあまり声の響に応ずるごとくあつまってきた殊勝な人たちばかりである。さればこそこの連中が寄りあってちびりちびりやりながら番付編制に口角泡を飛ばしている格好は察するに余りあるものがあろう。
「若鮎が小結ならおれは何だ」
 とひらき直ったのは馬錦である。.
「そうだな」
 と、天神山が困ったように顔をしかめた。
「仕方がねえからお前は関脇にしよう」
「すると、おれの役がなくなるじゃないか」
 女夫波が太い髭をしごいた。(所属力士の中でまともな生活をしているのは、帝展系の洋画家である女夫波くらいのものであるが、恐れ多くも宮内省お買上の光栄に浴したこの老大家が雰囲気に煽られて自ら乗りだしてきたことをもってしても彼等がいかに青春を愛惜するの情に苦しんでいたかということを知ることが出来よう)
「おい、冗談じゃないよ、1iiおれは子供の頃に二枚腰と言われたんだぜ、探してみたらその頃の馬簾《ばれん》や締込がまだ何処かにあるかも知れぬ」
 若鮎が不服そうに口をゆがめると、
「馬鹿!」
 と馬錦が怒鳴りつけた。「子供の頃の締込なんかが役に立つかい!」
「しかし」
 飛竜山が皮肉そうた限で骨張った若鮎の顔を見た。
「案外役に立つかも知れねえな」
「止せよ、お前が二枚腰ならおれは何枚腰だ」
 と、夕凪がいうと、朝立がふふんとせせら笑った。
「何か勘ちがいをしていやしねえか、i相撲の話をしているんだぜ」
 こんな相談に涯しのつく筈もないのである。とにかく、先ず稽古をしようということになったが、どうしても適当な場所が見つからぬ。いかに力士諸君の意気さかんなりとは言え、萎《しな》びて生気を失った肉体を仲間以外の人間に見せるだけの勇気はない。ーなるべく人通りのすくないところで、その上投げられても痛くないところはなかろうかと探しあぐんだ末に女夫波高右衛門の斡旋で彼の画のパトロンである何の某という相場師の庭園を借用することになったのである。中庭のまん中に芝生があり、その上でやれば投げられたところで痛くはない。協会の規則によれば帯芯をもって締込の代用とすること、但し帯芯の無いものは六尺|褌《ふんどし》をもって問に合せるということになっているが、しかし褌の締め方をほんとうに心得ている力士はほとんどなく、いいかげんに締めて土俵へのぼるとすぐずるずるとほどける。
「おい、やっとこさで身体にくっついているんだから褌に手をさわるだけは止せよ」
「何を言っていやがる、褌をおさえないで相撲がとれるかい、そんならおれはもうやめる」
 芝生の土俵の上で喧嘩をしているのは大衆作家の蝉ケ峰とジャーナリストの猫柳である。稽古は数日間続いたが、勝っても負けても、力を出してしまったあとは心の欝《うさ》を一時に発散したように気もちがいい。へとへとに疲れているせいもあるが、浴衣がけのまま帯芯の褌を肩にしてゆったりゆったりと牛追村の坂を下ってくる姿は、文字どおり稽古もどりの乱れ髪と言うべきか、われ人ともに惚れぼれとするほどであったという。
 いっそこうなったら、もう鈴木君とか吉田君とか呼ぶことをやめて、道で会っても、「よう、関取、1いい天気でごんすのう」と大がかりな物の言い方をすることにしようじゃないかと言いだすものがあり、稽古を一心に励んでいるうちに何処からどう伝わったものか、新弟子たちがぞろぞろとあつまってきた。そうかと思うと、画かきと小説家と両方にわけて対抗試合をやろうじゃないかという申込があるし、本当の相撲協会からも土俵を拝見したいと言ってくる。土俵は目下準備中で、と生返事をしながら事がだんだん大きくなってくると、何時までも芝生の土俵で稽古を続けているわけにもゆかぬ。そこへ、折あしく  と言いたいところであるが実は折よく、庭園の持主から庭の芝が根こそぎ駄目になってしまうから残念ですが、と女夫波を通じて体よく断わってきた。芝生が傷ついたこともたしかであるし、庭園の持主もこれほどどやどやと人が入り込んで来るとは思わなかったであろうが、しかしそれよりも、後年、女夫波親方のひそかに語るところによると、この芝生のすぐ横にある離室の二階が女学校へ通っている娘たちの部屋になっているので、彼等の土俵姿は甚だしく、風致を害すると思ったらしい。こうなったらいよいよ本場所を開いて相撲協会の存在を明かにしなければならぬ。よし、やろうということになった。しかし、やる以上は鉄則を守って堂々と本格的にやろう。鉄則に反するものはどしどし処罰すべしということになって協会員は俄《にわ》かに色めき立ってきたのである。国技館の元老春日野(旧栃木山)も何処からかこのことを洩れ聞いて、土俵はこっちから人を派遣してつくってもいいし、何よりも当日は必ず出席しようと言ってくれたが、このことが伝わると自信のないものは一人二人と引退を決意し、向後は役員として陰に陽に協会に尽力することを誓った。当時の協会がいかに風俗の統制について肝胆《かんたん》を砕いたかということを思い出すために毎日謄写版で発行していた会報の人事報告を抜萃することにしよう。
 △七月二十日。伊豆ケ嶽、女夫波、天神山ノ三力士ハ引退ノ意志アルモ協会ノ興行成績二影響スルトコロ 嬲甚大ナルヲ以テ特二今場所ダケ出場ヲ懇請スル筈。
 △七月二十一日。小田ノ里ハ行状ニ於テ警戒スベキ点アリ、カクノ如キハ力士ノ本分ニ悖《もと》ルノミナラズ、ヒイテハ全力士ノ士気ニ影響スルトコロ甚大ナルヲ以テ当力士ガ改悛《かいしゆん》ノ志アル日マデ出場ヲ停止スルコトニ決シタリ。△同日、六郷川、××性関節炎ノタメ休場。
△六ノ花、稽古中腰部ヲ痛メタルヲ以テ休場。
 △七月二十五日。女夫波ハ試合中対手方ノ睾丸《こうがん》ヲ掴ム癖アリ、同力士ハ協会ノ功労者ナルヲ以テ今回ダケハ寛大ノ処置ヲトルトハイエドモ将来カクノ如キコトアルトキハ遺憾ナガラ適当ノ処置二任ズルモノトス。
 △七月二十六日。眠リ藤、夜長島、ルーター電ノ三力士ヨリ参加ノ申込アリ、許可ス。△伊豆ケ嶽、神経痛ノタメ休場。
 大体こんな工合であるが、一日一日と協会の空気が厳正の度を加えてきたことは人事の移動報告の中にも現われている。例えば、最初、伊豆ケ嶽、天神山、女夫波の三元老の引退を極力防止しようと努めた協会が五日と経たぬうちに、女夫波の悪癖を指摘して自決を迫ったことや、伊豆ケ嶽の引退を無条件で承認したことのごときはそれであろう。ところが、いよいよ本場所をひらくという段どりになってみると肝腎の土俵をつくる場所がない。ある日飛竜山宅に集まった数名の力士(その中一人は年寄)が凝議をかさねているところへひょっこり顔を出した帝展系の洋画家、六ノ花八甲が、「いい考えがある」といって膝を敲いた。池上本門寺の裏に、山本虎大尽の旧邸がある。それが六ノ花の意見によると何番抵当かになって債権者たちにも手がつけられず、数千坪の屋敷は荒れるにまかしたまま放りだされているのだ。
「よかろう」
 と響洋が勢いこんで言った。「虎大尽なら相手にとって不足はないが、しかし、大丈夫だろうか?」
「大丈夫だとも、  否応なしに乗込んでも文句をいうものはあるまい」
「いっそのこと虎大尽の慰霊祭ということにしたらどうだ?」
 と、虫のいい相談がまとまって早速検分に行ってみると、ありし日の虎大尽が乗馬の稽古をしたという高台が土俵を築くにもっとも格好な場所だということがわかった。それに都合のいいことには六ノ花の友人であろ洋画家の腰ケ嶽が一年有半にわたる部屋代を払うによしなく、このニタ月あまり、この邸内の奥ふかき森の中にある壊れかかったあずま家に身をひそめて暮しているという。直ちに彼を所属の力+として迎えることに談一決した。そうと決まれば、早い方がいいというので、その日のうちに各力士へ通告し、七月三十日、触太鼓《ふれだいこ》、本場所は三十一日の午前十時。(外来の観客を防ぐためにも朝早い方がいいのである)1こうなれば雑誌の締切も月末の窮乏も、もはや問題にはならぬ。前夜は飛竜山の二階で、直ちに仮番付を編制し、五日間の取組が決定した。
「ああ、二日夕凪、三日目が馬錦か、滅多に負けることもあるまいがi」
 酒を運んできた女房が不安そうに机の取組みを覗き込むと大関飛竜山はもったいぶった声で言った。とたんに天神山はうしろの窓によりかかり茹《ゆ》であがった蟹《かに》の甲羅《こうら》のような顔を横へ外らし、
「相撲にゃ負けても  」
 と、悩ましそうな眼を夜空の星に向けて声をはりあげたのである。

2

 牛追村の朝霞をやぶって櫓太鼓《やぐらだいこ》が鳴りひびいた。ーと、先ずそう書かねばなるまい。何しろ土俵よりも口の先だけやかましい連中が揃っているのでたちまち大へんな評判になり、各力士が行きつけの酒屋や質屋からも次々と酒やビールの寄贈があるし、優勝力士には玩具《おもちや》の銀盃を出そうという申込もあって大森相撲協会の勢威はまことにあたるべからざるものがあったのである。
 その日、力+夕凪は何時になく早朝、眼をさましたが、折柄足音高く露地を入ってきた郵便配達が投げこんでいった桃色のほそ長い手紙を手にすると、みるみるうちに顔色が変ってきた。本場所の土俵を前にする力士がいかにその日の運命に対して神経質であるかということは今更説明の必要もあるまい。国技館の土俵に向う大抵の力士は歩いてゆく道の四つ角に紙屑が一つころがっていても、もう一度引っ返さないではいられないほど敏感になりきっている。1夕凪はその手紙を手にした瞬問、もう駄目だと思った。手紙は、一夜ふとしたきまぐれで馴れあった女から、身の振り方をどうしてくれると最後の膝詰談判をしてきたものにちがいないのである。彼は封を開いて読む勇気もなくそっと袂の中へねじこんだ。まるで全身の力がすうっと抜けてしまうようである。朝の食膳を前にして、箸をとる手も顫えがちに、黙って眼をしょぼしょぼさせている関取を見ると女房はだんだん気が気でなくなってきた。彼女は亭主がその日の勝負を案じていると思ったのであろう。
「いいじゃないの、あなた、1-勝(、たって、負けたって」
「そうはゆかんよ、何しろおれは東の小結だ、ー」
 彼は帯芯の締込を肩にしてぶらりと外へ出た。天神山の家の前ではもう力士がほとんど全部あつまって彼の来るのを待っていた。
「関取どうなすった、  いやに顔の色が悪いじゃないか?」
 と、飛竜山に声をかけられると、小結夕凪は取的のように肩をすぼめた。「親方、ちょっと御相談があるんですがね?」
「御相談たあ何でえ?」
「女のことで、とんだ大失策をやらかしてしまったんで」
「野郎、また女か、ー今に始まったことじゃあるめえ、仕様のねえ野郎だな」
「申訳ありません、へえ、  もうこれきりできっと心を入れ替えますから」
 飛竜山はわざとらしく両肩を張ってから、片手をはだけた襟の中へ突っこんだ。「だらしのねえやつだ、また金が要るんだろう」
 顔を見合したとたんに二人ともどっと笑いだした。こういう物の言い方をしていると大抵の問題がケロリと片づいてしまう。輝くような夏の空を見あげて夕凪はほっとひと息ついた。
 二十数人の力士は褌を肩にして池上街道を狭しとばかりに歩きだしたのである。青葉のふかい虎大尽の旧邸はしいんとし背丈ほど伸びた草が朝の陽ざしを受けて光っている。ー此処ならば誰に見られる気づかいもない。力士一同はすっ裸体《はだか》になって土俵を築いた。正面の雑木の枝には酒屋で借りてきた前掛けが恭々《うやうや》しくかけられている。(その日五日間の本場所を終ると成績次第によって直ちに横綱を決定し土俵入りをする手筈になっているのだ)
 腰ケ嶽のいるあずま家が力士の休息所にあてられ、痩せほそった身体に締込をしめた力十がぞろぞろと高台の土俵にあつまってきた。炎天の灼《や》きつくような陽ざしの下で、空気は森閑としているし、鳥の鳴く声さえうす気味のわるい妖気を孕《はら》んでいる。
「どうも人間の仕業じゃねえ、  」と、六ノ花が玄海に囁《ささや》いたのも無理はあるまい。「どう考えたって狐か狸だ」
 しかし、そんな冗談を言っている場合ではない。大関飛竜山が「呼び出し」をかねて土俵に立ちあがった。
「東ーい、蝉ケ峰、西-い、松ノ音」
 呼び出しが終ると彼はすぐ行司に変って軍配がわりの扇を斜めに構えた。それから一段と声をはりあげて、
「蝉ケ峰  蝉ケ峰、こなた松ノ音」
 身長五尺五寸、体重十貫三百の蝉ケ峰は悠揚として土俵にあらわれたにもかかわらず四股を踏むとき左足を高くあげすぎたので身体の均衡をうしなって前へ膝もちをついたが、ニヤリと笑ってすぐ仕切にとりかかった。立ちあがるや、長身の松ノ音、弱敵と侮《あなど》ってひと突きに突っ放そうとするところを蝉ケ峰よく残し、矢庭に松ノ音の首すじに齧りついた。松ノ音は五尺七寸である。一気に持ち出そうとしたが蝉ケ峰、両足を松ノ音の背中に回してやもりのように吸いついたまま離れず。そのまま土俵際までぶら下げていってやっと前に押し倒した。次は、若鮎と馬錦。  双方入念に仕切って立ちあがったが、若鮎二枚腰の自信も効《かい》なく簡単につき出された。続く鳳来に夕凪は当日の好勝負で、両雄共に仕切は慎重を極めたが、仕切直し五回、ータ凪が幾分圧され気味に見えたのも朝来の悪条件が祟《たた》ったものらしい。鳳来は右、夕凪は左、右と左の喧嘩四つである。やがて、双声《もろこえ》に立ったと思うと鳳来の突いて出る鼻を夕凪巧みにいなし、すかさず得意の左を差しぐいぐいと寄り立て、土俵際で寄り倒そうとしたとき、勇み足に逸《はや》って踏み越し、惜しいところで鳳来にしてやられた、越ケ嶽と飛竜山は、双方共体重十九貫。i一気に立ちあがると見る間に飛竜左に前袋を引いて食い下り、充分の体勢になってから猛烈に寄り立てたが、どうした機《はす》みか土俵で楽々と打っちゃられた。
(さすが大関だけあって飛竜山はむっつりとおし黙ったまま草の上へどっかりと腰をおろした)

3

 五日間の相撲が瞬《またた》くうちに四日終って、正午ちかくになると早くも千秋楽の土俵になったのである。それが一つ一つ取り進んで、天神山と猫柳の勝負に入ったとき思いがけない騒ぎが起った。1初顔合せであるだけにとりにくいらしく、猫柳から何回となく挑《いど》みかけられながら、首を振って立たないところはいかにも老巧らしく見えたが、いよいよ立ちあがると天神山左を差すと見る間に猫柳はすばやく右に上手を引き呼吸をうかがっているうちに、機をつかんで高々とつりあげた。
 ちょうどそのときである。
「お父ちゃん!」
 と呼ぶ子供の声が聞えた。丘の傾斜面に足音が聞え、草をわけてぬっと顔を出したのは二人の女の子の手をひいた彼の女房であった。その姿をちらっと見た瞬間、天神山は慌《あわ》てて、
「待った」
 と叫んだ。-1思いがけない剣幕に恐れをなした猫柳が対手の褌をつかんだ手をはなすと天神山は教壇に立って生徒を睨《にら》みつけるような嶮《けわ》しい眼つきをしてきょろきょろと力士一同の.顔を見まわしながら、
「褌がゆるんでいるじゃないか?」
「えっ  褌が」
 極めつけるように言われたのでみんな圧倒されたようにたじたじとなったが、しかし、落ちついて考えてみると吊られた天神山が文句をいうのは可笑《おかし》い。苦情をいうとすれば天神山よりも猫柳の方である。それに取組中の力士が土俵の上から物言いをつけるのは言語道断である。ー
「おい、関取」
 と朝立が呼びかけた。「控え力士が物言いをつける前に自分で食ってかかるなんて法はないそ、1文句をいうにしても相撲がすんでからのことじゃないか」
 天神山か何か言おうとして口をもぐもぐさせているとき、七つになる娘の初子が彼の足にまといついた。
「お父ちゃん、1勝った」
「ううん」
 といって天神山が口をへの字型にへしまげた。こうなったらどうにも仕方がない。天神山は困ったような顔をした、娘をあっちへつれてゆくようにと女房に命じた。勝負の決定は場所打ちあげ後にゆずるとしていよいよ結びの相撲は、高麗山と椰子ノ花である。ー鼡色の詰襟の洋服を着た老人がのっそりと高台へあがってきた。
 彼はうろんそうにあたりを見回わしてから、
「おい」と開き直ったのである。
「君たちは誰の許可を得て此処へ入ってきた1怪しからんじゃないか無断で邸内を荒すなんて」
 老人の言葉はぼそぼそとしてよく聞きとれなかったが、しかし、彼が腹の底から怒っていることだけはたしかにわかるのである。
「まア、まア」
 と言いながら松ノ音がなだめにかかったがいきり立った老人は、並大抵の挨拶では納得しないらしく、邸宅の管理を命ぜられている自分としてはこのような不始末に対して責任を問われることがあっても何と申し開きをしてよいかわからぬ。今日のところは大目に見ておくからそのかわり、万一の用意に詑《わび》証文を一札入れておいてもらいたいというのである。
 すると天神山がいきり立った。彼はさっきの名誉回復をするつもりであろう、1おい、冗談も休みやすみいうがいい、子供じゃあるまいし、四十面を下げて、詑証文なんか書けるかい、と痩せ腕をさすりあげるのを、夕凪関が、いや1詑証文どころじゃない。おれたちは虎大尽の慰霊祭をやっているんだ。それにもかかわらず、君は旧主の恩を何と心得るか、と力みかえったので老人も対手がわるいと思ったらしく忌《い》まいましそうにぶつぶつ言いながら帰っていった。当日の会報には次のごとき言葉が書き残されているところをみると協会員は相当に悪童振りを発揮したらしい模様である。1ああ、虎大尽、今何処にありや。虎は死して皮を残すという。山本某はそもそも何を残したか。今日われ等の高邁なる計画を妨害せんとするが如きは虎にあらずして猫の仕業なり、云々。
 これで五日間本場所は目出度く打揚げとなったが、その日の午後から飛竜山の家の二階でひらかれた勝負の検討、それにつづいて新番付の編制は議論百出してまとまるところを知らず、夜に入って、再び夕凪の宅にあつまり規約をあたらしく設けて次の場所に備えることになった。例えば、天神山と猫柳の勝負における物言いのごときは、小説家でさえ自作の悪評に対しては逆に批評家に食ってかかるような時世だから天神山が女房子供の手前、亭主の尊厳と親父の体面を保つために「褌がゆるんだ」-と深刻な表情をして叫んだことは相撲に敗れて態度に勝ったものであるという異論が満場一致をもって成立したのである。そうなると自然競技の方法も一変しなければならぬ。大関飛竜山も初日、腰ケ嶽との取組において打っちゃられたのは土俵間際で対手が聴くに堪えぬような奇声を発したからであるという意見を申し立てたが、奇声をもって敵を破ったとすれば、その深謀は賞するに余りあるものであるということになって腰ケ嶽は思いがけぬ面目を施した。
「そんなら、屁《へ》をひってもいいのか?」
 と、全敗力士の女護ケ島が不服そうに口をひらいた。
1そんなことを言いだしては際限がない。故意に褌をゆるめて対手を悩したり、時ならぬ放屁《ほうひ》をしたりするものは相撲精神を冒濆《ぼうとく》するものとして厳禁されることになった。(後年、画家と作家との問に対抗試合をしようという意見が再燃したとき協議の末に作家側から反対論が起ったのは当時無敵と言われた画壇の大関松風一政には土俵際における一種の奇癖があり、これを封じなければ到底勝つ見込がないという説が多数を占めたからであると言われている)
 これで第一回本場所興行は幕を閉じたが、今から数えると早くも九年になる。往年の名力士今や土俵を退いて協会は頓《とみ》に寂寥を極めているが、しかし、当時の彼等がいかに真剣であったかという事は特に贅言《ぜいげん》を費やすまでもあるまい。ああそれにつけても思いだすのは牛追村の長い坂を締込を肩に全身を大きくゆすぶりながら下りてきた関取たちの姿である。以上-故老の談話を基礎にして書きあげた記録であるが、個人の動向には多少の誤りがあるかも知れぬ。よし、あったところで、歴史というものが絶えず少しずっ変改され、潤色されてゆくものであるかぎり、これだけは大目に見て貰わねばなるまい。呵々。
                  (昭和十四年)
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