|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

織田作之助「探し人」


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 子供心にもさすがに母親の死ぬことは悲しかった。子供といってももう十一であった。まだ五つにしかならぬ妹の芳枝はいざ知らず、新吉の顔には悲しい心でするする涙が落ちた。
 狭苦しい家のことゆえ、真夏の西日がカンカン当るところで病人は息を引きとらねばならず、見ていてさぞ暑かろうと同情されたが、しかし病人はもはや汗をかく元気もなく、かえって新吉は子供に似合わぬ大汗をかいた。
 三日前、蚊細い声で母親がくどくど言い聞かせてくれた言葉を想い出せば存分に悲しく、汗と涙がこっちゃになって眼にたまり、自然母親の顔もぼやけて見えた。
 1お母さんが死んだらナ、お父つあんはきっと後妻ちゅうもんを貰はるやろ、ほんならお前らは継《まま》子で、可哀想なこっちゃ、後妻テ鬼みたいに怖いもんやぜ。そやよって、今の内にこのお母はんの顔よう見ときなはれや。
 半年たたぬ内にその通りになり、こんどの母親はこともあろうに近所の小料理屋にいた女、一杯屋のお龍さんといえば新吉もかねがね顔見知りで、父親が打ちこんだだけあって別に鬼のような顔もしていなかったから、母親の言葉も嘘と思えた。けれどもこちらから継子の根性で向って行くと矢張りお龍は継母じみてきた、お龍も無茶に悪い女でなかったが、世間から、今にお龍さんは子供らを邪慳にするやろと蔭口立てられると、なぜか自然にその通りに振舞って行った。そうしなければ立瀬がないかのようだった。芳枝はともかく新吉ははじめから継子面をしていたから、お龍にしてもさばさばした気持で苛めることができた。などとは父親は一向に承知していなかったようだ。
 歯ブラシの軸の職人だったが、背骨が折れ曲がるくらい終日ぺたりと座り込んでせっせと軸を削っていても、貧乏には勝ち越せぬと、このごろは博奕に凝り出し、しょっちゅう家を明けていた。たまに帰って来ても女房の顔見たさと釈《と》られてもいたし方のないだらしなさで、子供たちのことなど、とんと構わぬ風だった。それでも時々は新吉の頭をこつんと押えて、坊主! 大けなりゃがったな。
 しかし、職人のごつごつした手だったから、痛アと思わず新吉の眼に涙がにじむくらいであった。散髪屋でジャッキがこつんと頭のてっぺんに当るあの時の痛さだと感じたが、けれどもその涙、たしかに嬉し涙でないともいえなんだ。
 そんな父親の留守中、新吉は学校がひけると、芳枝の手を引っぱって千日前まで往復一里の道を通った。千日前から道頓堀へ渡る通りの右側にナニワ写真館があった。そこで、かつて夏祭の晩、死んだ母親と妹と三人でうつした電気写真が沢山な見本用の写真にまじって陳列されてあると、教えてくれたのは甘酒屋のおっさんで、今はこのおっさんは隠居して日がな一日千日前や新世界の盛り場でうろうろ時間をつぶしているのだった。
 白っぽい着物を着た母親を真中に、左側は上向いて眦を釣り上げおかしいほど澄まし込んだ芳枝、右側は反対にぐつと顎を引いた新吉で、鼻の下にできたおできをもて余していると見えた。夏祭のことゆえ、芳枝は、一張羅衣《ちようらい》の長い袂をべらべら下げており、新吉は粋な甚平《じんべい》さんを着せられていた。お互いの肩に母親の白い手がかかっている。1そんな写真に三枚六十銭の見本の札がついているのだった。毎日のように、それを見に行き、毎日のように感嘆し、ああ出てる、出てる。そうして、握りあってぐつしりと汗ばんだ手に思わず力がはいるのだった。陳列されている場所が運悪く二階への階段を五六段登ったところの壁だったから、こっそり登って行っても、しばしば客と間違えられた。度重なって或る日、いきなり小窓がひらいて、
 1何さらしてけっかんねん。
 子供だてらにと呶鳴られた。驚いて、
 ーそない怒ったかて、おっさん、これわいらの写真や。
 その翌日、行ってみると、あッ、写真は姿を消していた。帰る途、生国魂神社の境内で池の亀を見ながら、新吉は派手に泣いた。そして、芳枝が案外平気な顔しているのはけしからんと無理に揺すぶって泣かすと、芳枝は泣きながら尿をもらした。
 1泣け、泣け。なんぼでも泣け。継母に苛められて泣くんやったらあかんけど、お母《かあ》んのことで泣くんやったら、構へんぞ、なんぼでも泣け。しゃけど、小便こいたら継母に吐られるぞ。



 小学校を卒業すると直ぐ奉公にやらされることになり、もっけの倖いだと新吉は喜んだが、心配はあとに残る芳枝のことだった。芳枝も早生れのもう尋常二年で、いわば物心ついていたから、継子の味をジリジリ味わうのはいよいよこれから先のことだと思えば新吉は兄らしく哀れな気持を催し、主人大事にせっせと奉公すればきつと出世できるだろう、その暁はお前を迎えに来てやる、それまでの辛抱と思って継母に苛められてもじっと涙をのんでいうと、十四の年に似合わぬ、こんな生意気な口を利いた。そして、見知らぬ人のあとに随いて、堅い歩き方で家を出た。
 南海電車で二時間足らずのところだったが、和歌山県和歌山市に着いてみると、随分遠くまで来た気持がして心細かった。市で一番の繁華なところだという「ぶらくり丁」の仏壇屋が奉公先で、「ぶつらんのしゅうれん」と書いてある看板の意味がどうしても呑み込めなんだ。あとで、紀州訛で「ぶつだんのしゅうぜん」(仏壇の修繕)のことだとわかり、やがてそれを仕込まれることになった。剥げたところへ塗る漆にかぶれて顔が赤くはれたのもはじめの十日ぐらいで、売物の木魚や鐘の音を聞いていきなり母親の死んだ時のことを思い出ししくしく泣く、そんなこともだんだんになくなり、やがてすっかり丁稚小僧めいてきた。新うん(1新どん)と呼ばれると、へえ、何ぞ用だっか。頗る板についてきた。
 新うんは憎らしいほど良い器量しちゃるんやのしと若いお内儀さんに言われて、ぽうつと赧くなり、ほのぼのと肉親めいた愛情に胸が温まっていたが、そこでまる四年問、十八歳の春、何思ったか主人の方からきびしく追い立てるように暇を出した。身に覚えのないことであったが、ずっとあとで男女の道に分別がついてから振り返ってみると、主人の心配や怒りも満更ではないと思われる節があった。
 口入屋から「築地」のうどん屋へ住込みで雇われて出前持ちとなったρここでも彼の容貌は朋輩の女中から眼をつけられたが、仏壇屋の例もあるからと、警戒して極めてつんと冷淡に構えていた。ところがその態度がかえってたまらぬと、女中は空しくうっとりするのだった。
 そんな月日が経つにつけ、もう子供でもなかったから、なるほど自分も女に騒がれる顔を持っているのかと、改めて鏡を覗いてみて何か納得できた。けれども、この顔は人のものならいざ知らず、いやでも一生ぶら下げている自分の顔と思えば、別に取立てて喜んだり己惚れたりするべきものとも思われず、かえって自慢にしたいのは、自分の声であった。生れついての美声で、近所の映画館へちょくちょく出前を持って行くにつけて聞き覚えた映画説明の真似をやらせてみると、年齢を割引きにしたとはいえ、門前の小僧芸と侮れないものがあった。
 ……次郎ちゃん、わたしはあなたをこれほどーカをこめてi愛しているのに、それだのに、次郎ちゃんは……どういう芸題の写真の説明か知らぬが、それが十八番で、そんな甘ったるい科白を女の声色でやっているうちに、だんだんに情緒というものが解されてきて、同じ家で寝泊りしているせいもあって、いつか情も移り、例の女中とねんごろめいてきた。ところを、御者《おんしや》(ーお前)がいては俺《うち》の立瀬がないと、どうやら先に眼をつけていたらしい好色の親方に到頭暇を出されてしまった。
 いたし方がなく、身の廻りのものを纏めて、しょんぼりそこを出て、安宿へ移った。宿でごろごろしたり、口入屋を覗いたりしているうちに、顔馴染みの弁士から、どうだ、弁士にならんかねと誘われ、喜んで早速小屋の者になった。
 巧い巧い、玄人はだしだと無責任な褒め方をされたのも結局は素人芸であったからで、本職にはいってみると、何ヵ月たっても舞台へは立たせて貰えず、湯呑み運び、履物の出し入れ、阿弥陀鬮《くじ》の使い走り、質屋への使い、いろおんなへの文の届けなどで毎日が暮れて行った。
 二年辛抱した挙句、やっと舞台へ立つことが出来た。花が咲いた、花狂う春ーと大抵の写真に臆面もなくそんなきまり文句を何度もうなる癖がついて、何のことはない、今のミス・ワカナのようにハナのことばかりいう芸の無さで、遂に「花狂う」という渾名がついた。本当の芸名は「原狂児」というのだったが……。そうして、二三年、もう一つの方の花も十八番の芸となり、つまり博奕打ちの親の子であった。因みに、この親とはもうそのころは音信不通で、うどん屋を追い出された時から大阪とは交渉が絶え、きょうこのごろは親のある男に見えぬよたよたした生活であった。
 美貌に任せて落花狼藉もしばしば演じて二十五年の年もやがて暮れて行った。



 主人大事にせっせと奉公すればきつと出世できるだろう、その暁はお前を迎えに来てやる、それまでの辛抱と思って継母に苛められてもじっと涙をのんでいうと、十年前別れる時に妹の芳枝に言い聞かせた言葉も忘れていた。いや忘れていたと書けば嘘だ。矢張り時々は思い出してチクチクと胸の痛む気持であったが、現在《いま》の暮しでは末の見込が立とうはずはないと、これは早くから諦めていたし、一つには前科こそはない正直一筋の暮しだが、どう装ってみても堅気に見えないこの兄の顔をぬかぬかと妹の前にも出されまいと、さすがに恥じるにつけ、なるべくは妹のことも想い出さぬように心掛け、いわば忘れたも同然であった。
 ところが従姉妹女優として有名な春山愛子、夢子の両人が正月の挨拶巡業でやって来たときのことだ。夢子の顔を実物で見て、吃驚した。雀斑《そばかす》が多く、眦がピンと釣りあがっている顔が、妹の芳枝の顔に嘘みたいに似ているのだ。そのためという訳では毛頭なかったが、例の美貌と、そして今はどんな女をも怖れない図々しさで持ちかけてみると、案外に脆く、それはもうあッという間の出来事であったと、あとで人々は呆然としていた。
 が、当の新吉は、そのとき悲しいまでに心が乱れ、何を想い出したのか、いきなり、あッ1 と声を立てたかどうか自分でも覚えはなかったが、するすると涙が頬を伝い、それはさまざまな感情から出た涙には違いないが、たしかに、妹のことは頭に泛んでいたのだ。何か観念しているらしい夢子の容子の聯想で、今はもうこれぐらいの年ごろになっている妹は、どうしているだろうか、こんな目に遇っているのではないかと、わが行跡から推してみて、柄にもなく心配が起きて来たようだった。
 その時の想いにせき立てられたとでもいうのであろうか、大阪新世界の或る小屋で.弁士の口があると聞いて、給料、手当、など碌々相談せずに、新吉は間もなく和歌山をあとにして大阪へ舞い戻った。
 難波へ着いた足で生国魂神社の近くにあるなつかしい裏長屋へ行った。路地の入口をはいる時さすがに足が震え、薬にもしたくない「原狂児」という情けない名前を持っているだけで、出世はおろか、一人前の暮しもしていない我が身が恥じられたが、忘れもせぬ入口より三軒目の家の前に立ってよくよく見ると、意外にも表札が違っていた。父も義母も芳枝もそこにはいなかった。それで、かえってほっとしたなどとは瞬間の嘘だ。隣の人に訊いてみて、蒼くなった。
 父は一年前、脳溢血で呆気なく死に、咄嗟のことゆえ死に目の間に合わなくとも兎に角と、父危篤の電報を和歌山のうどん屋宛てに打ったのだが、続けて打った父死んだの電報と一緒に附箋つきで戻って来た。葬式だけを済ませるとお龍はいつの間にか姿をくらましてしまい、残った芳枝は四十九日間新仏の守をしていたが、やがて家をたたんで、たった一人の兄を頼って和歌山の方へ行ったのだ。
 ーそうすると、新ちゃんはあの娘《こ》に会えへんかったのやな。
 隣の人はそう言い、そうして言葉を続けて、嘘か本真《ほんま》か知らぬが芳枝さんは何でも紀州の湯崎温泉の宿屋で女中をしているとか風の便りに聞いたと言った。
 聴いている内に新吉は眼をうるませ、涙を落し、声を立てずに啜り泣いた。ついぞしたことのない鄭重さで頭を下げ、ぽかんとした表情で路地を出ると、直ぐ難波へ駆けつけ、南海電車で和歌山へ、そこを素通りして近頃開通した鉄道で、湯崎・白浜温泉へ行った。
 温泉宿に泊って「風の便り」を当てに妹を探し求めたが、見つからず、二日目にもう宿屋の払いも危うくなったので、白浜の綱不知《つなしらず》から蒸気で三十分の田辺へ行き、そこの映画館へ渡りをつけて弁士に雇われた。
 田辺の映画館では月に二回、湯崎・白浜温泉へ出張興業をした。夜一回の興業で、昼の間温泉場を練りまわって宣伝する。相棒の田辺楽童はしんねりむっつりの要領の良い男で、太鼓たたきから口上、チラシ配り一切を殆ど新吉の原狂児にやらせたが、「花狂う」はいやがるどころか、呆れ果てた熱心さで、むやみに太鼓をたたき、夜の声が心配なほど身をいれて口上を述べた。賑やかにやれば大勢|仁《じん》が寄って来る、その中には宿屋の女中もいるからには、いずれ芳枝にはめぐり会えるだろうとの新吉の肚で、仁が寄って来ると、やけに眼をピカピカ光らせた。
 けれども芳枝の姿は見当らず、夜暗がりの舞台に立つ時、妙にしんみりと悲しかった。トーキーの時代であるのに、発声機械がなく説明入りで、だから新吉も未だに雇われているのであったが、「口笛を鳴らす浅太郎」など音響効果をねらった写真のときは、まるで気が抜けて、おまけに弁士の方では説明の合間々々に口笛を吹かねばならず、後半になって来ると、もう口笛の元気もなくなり随分と情けなかった。その情けない想いの底には妹のことがあった。
 女ひとり女中奉公してでも結構食べては行けるが、若い身空でおまけに身寄りもなくて心寂しかろう。寂しいだけなら良いが頼る者もなくては結局悪い男に欺されてしまうだろうと、新吉は自分の辿って来た道を振りかえってみて一層心配であった。また、そう悪い方へ心配しなくとも、たとえば真面目な男と良い仲になって地道な夫婦生活にはいるとしてみても、結婚する時たったひとりの兄に相談は兎も角、立ち会って貰えぬとあれば、なんぼう肩身が狭かろう。などと思うにつけ、むやみに芳枝のことが気になり、めぐり会えぬままにその気持が昂じて、今はそれだけが生甲斐のすべてであるかのような気にもなった。自然他に愛情を向ける余裕もなく、また芳枝のことを想えば女に無茶な真似も出来ず、次第に行状も収っていた。
 そうして一年半、焦り、空しく探しあぐんで来たが、田辺の映画館にも発声機械が据えつけられ、小屋主にはともかく機械には勝てぬと、到頭弁士を廃業しなければならぬ破目になった。
 直ぐさま生計の道を講じなければならず、智慧者の田辺楽童がこの際の頼りであった。そして楽童にさそわれるままに大阪へ舞戻ることになり、一年半の間にもう芳枝をこの土地で探すことも諦めていたからさらに未練なく、田辺をあとにした。



 弁士の崩れに出来ることといえば、漫談屋か紙芝居と相場はきまっていたが、漫談屋になれるだけの学もエスプリもなし、結局はしがない稼ぎの紙芝居より他にすることもないと半ば諦めた。けれども田辺楽童は何か妙策あるかのこどく、千日前の宿でぶつぶつひとりごとを呟きながら考え込んでいた。その挙句、ふと思いついて、
 1そうだ大道易者になろう。
 早速易の本を読んで研究をはじめたが、しかし、薄暗い、たとえば、千日前の精華小学校の裏で蝋燭を片手に一人しょんぼり店を張るような易者では儲けも少くて駄目だとの楽童の意見だった。二人連れの漫才に落語が圧されてしまう世の中だ。二人限りでやるに限る。しかも目先の変ったといっても別に「仁《じん》」の前で踊ったり跳ねたりするのではない。神秘的という奴を覘うのだ。1
 如何にも神秘的であった。先ず畳《たたみ》半畳敷ぐらいの大きな紙に、区画をして、半分には運勢、縁談、職業、普請動土、失せ物、金儲けなどの名目、半分には一白、二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、九紫とそれぞれの下に年齢、男女の別を書いて石の重しで道端に拡げる。
 夜更けの戎《えびす》橋で、女給や仲居の帰りを当て込んで、楽童がお手のものの弁をまくし立てて仁寄せにかかる。客が長い棒の先で紙の上の、たとえば五黄土星の箇所と、運勢の箇所を指すと、眼かくしをしたシテ役の新吉は、後向きの姿勢にもかかわらず、
 1五黄土星、二十五歳の方の運勢を判じます。
 とピタリと当てて、不思議であった。
 ーこの方《かた》の本年の運勢は「七十二戦い利あらざるなきも、一敗地に塗れば楚歌を聞く」というて、諸事十分は望み難いゆえ、何事も勢いに任せて遣り過ぎぬよう気をつけるべし。
 などと無論易の本まる暗記の科白をうなっていると、ワキ役の楽童が時々合の手を入れて、
 1金をぐつと掴むのはいつですか。先生1
 1五月。
 無論、出鱈目だが、ともかく、眼かくしをして後向きのシテ役が、どういう透視のからくりによるのか、客の棒の先がありありと見透かす不思議さが客を惹きつけた。だれて来ると、楽童は若い女の持物にさわって、
 ー先生、これは何ですか。
 1赤い皮のハンドバッグ。
 一回の見料十銭にしては霊験の妙を極めたものだと、面白いほど流行《はや》った。無論、からくりはあるので、先生、これは何ですか、とか.間違わんよう頼んまっせとか言いかける楽童の言葉の中に暗号があり、それならば簡単極まる透視であった。けれども新吉はときどき暗号を聞き違えてとちり、楽童に冷汗の出る思いをさせた。そんな時は必ず心がそこにあらず、ふと、遠く芳枝の身の上に想いを走らせていたのだ。
 楽童の発案で背中に南無妙法蓮華経と筆太に書いた白い行者風の着物に袴をはき、眼かくしの白い布は鉢巻のように頭のうしろでキリッとしめ、見たところいかにもそれらしい装立《いでたち》で、ときどき合掌して、妙法蓮華経を唱えるなど勿体ぶっていたが、唱えながら、ふとこの一念かなって芳枝にめぐり会えるかも知れぬと、満更インチキでもない殊勝な心掛もあった。まるで憑かれたように妹のことを考えていたのだ。ひょつとしたち悪い周旋屋に欺されて苦界に身を沈めているかも知れず、そんな時の用意に身請《みうけ》の金はこしらえて置かねばならぬと、せっせと商売に身をいれていた。



 そして或る夜。すっかり秋めいて夜更けの空気も肌寒く、自然往来の人々の足も小刻みに早くて人の寄りも悪かったが、それでも楽童の必死の口上に一刻《とき》に七八人寄って来たその中に、まるで行き暮れてとぼとぼ辿り着いたような歩き方で近寄り、しょんぼり佇んでいる若い女があった。くたびれてよれよれの銘仙の着物に、白地に二三尾汚れた赤色で金魚の泳いでいる帯を太鼓にしめているが、これもはかなく型が崩れてペッたり腰にへばりつき、一見女中と覚しかった。
 やがて、おずおずと、一白水星二十一歳の女、探し人の箇所を棒の先で押えたが、もし新吉が眼かくしをとって振り向き一眼見れば、例え十五年会わなくても、いきなりあッと声を立てたに違いないーその若い女は芳枝だった。が、眼かくし後向きの姿勢では、さすがにそれと翻訳する暗号の届こう筈はなかった。
 まして、芳枝が三年前、和歌山のうどん屋へ兄を尋ねて行ったところ、そんな男は知らんとたった一言の挨拶で、いたしかたなく和歌山の町を当てもなくうろうろしているところを、悪い周旋屋に連れられて行ったのが湯崎温泉のカフェで、怪しい商売の家と知って三日目にはもうそこを飛び出し、大阪へ戻って三年女中奉公をしていたが、大事にしてくれた御寮さんが近頃死に、旦那さんが毎夜女中部屋に押掛けて来るのが居たたまらず、到頭逃げ出して、さて何処へ行ったものやら、兄のことが胸の熱くなるほど想い出され、途方に暮れ、易者の前に立って兄の居所を判じて貰おうと思ったーそんな経緯《いきさつ》が新吉には分ろう筈はなかった。
 1二十一歳一白水星の婦人の探し人を判じます。
 その声に、虫が知らせたとでもいうのか芳枝はいきなり胸を突かれたが、しかし、どこか記憶のあるその声も、永年の弁士稼業でドス太く荒れ濁って、子供のとき聞き馴れた兄の声とは随分変っていた筈だ。ふと気になったものの、いや、これは自分が兄を探しているからその心の迷いだと打消した。けれども矢張り気がかりで、芳枝は声の主の顔を覗いてみたいと思うのだったが、その人は頑と後向きのままで、所詮術なく、集って来た人の群れの中に小さく赧くなっていた。
 めったに無い「探し人」判断の希望で、おまけに年の頃、そばかす、眦の上り具合、眼もと、口もとなど、何となく聴かされていたその人に似ていると、ワキ役の楽童もふと気になったが、しかし、大勢の客の前でそれを新吉に告げることも出来ず、暗号も用意してなかった。
 1これ、何ですか。先生1
 1娘さんの風呂敷包。
 1はい、当りました。
 そうして、新吉はペラペラとまくし立てるのであった。
 1この御婦人の探し人は恐らく三十歳前後の男の方だと判ずるが、探し人は二日以内に必ず見つかる。この御婦人本年の吉方は、乙《かのと》、丁《ひのと》、辛《きのと》、壬《みずのえ》、寅《とら》方に当っているが、探し人は寅《とら》方の方角にいる。
 ーはい、十銭。
 帯の間から白銅を取り出して楽童に渡すと、芳枝は一層赧くなり、こそこそと立ち去った。草履の底がすり減って、情けない音を立てた。
 次の客を待つ間、新吉は、
 1南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 と、はったりの声を涸らし、その声が夜更けの戎橋の空気に不気味に顫えていた。
メニュー

更新履歴
取得中です。