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永井荷風「雪解」


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 兼太郎《かねたらう》は点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕から半白の頭を擡げて不思議さうに鳥渡《ちよつと》耳を澄した。
 枕元に一問の出窓がある。その雨戸の割目から日の光が磨硝子の障子に幾筋も細く糸のやうにさし込んで居る。兼太郎は雨だれの響は雨が降つてゐるのではない。昨日|午後《ひるすぎ》から、夜も深けるに従つてます/\烈しくなつた吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだといふ事を知つた。それと共にもう彼れこれ午近くだらうと思つた。正月も末、大寒の盛にこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろ/\近所の家から鮭か干物を焼く匂のして来る時分だといふ事は、r度去年の今時分初めてこ」の二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚を見てくらしたので、時計を見るまでもなく察しる事が出来るのであつた。それにつけても月日のたつのは早い。又一年過ぎたのかなと思ふと、兼太郎は例の如く数へて見ればもう五年前株式の大崩落に家倉をなくなし妻には別れ妾の家からは追出されて、今年丁度五十歳の暁とう/\人の家の二階を借りるまでになつた失敗の歴史を回想するより外はない。以前は浅草瓦町の電車通に商店を構へた玩具雑貨輸出問屋の主人であつた身が、現在は事もあらうに電話と家屋の売買を周旋する所謂|千三屋《せんみつや》の手先とまで成りさがつてしまつたのだ。昨日も一日吹雪の中をあつちこつちと駈け廻つて歩く中一足しかない足駄の歯を折つてしまつた事やら、。スブ濡にした足袋のまだ乾いてゐやう筈もない事なぞを考へ出して、兼太郎はエゝまゝよ今日はいつそ寝坊ついでに寝て暮らせと自暴な気にもなるのであつた。もとく家屋電話の周旋屋といふのは以前瓦町の店で使つてゐた男がやつてゐるので、一日や二日怠けた処で昔の主人に対して小言の云へやう筈もなく解雇される虞もない……。
 窓の下を豆腐屋が笛を吹いて通つて行つた。草鞋の足音がぴちやくと聞えるので雪解のひどい事が想像せられる。兼太郎は寝過して却てい玉事をしたとも思つた。突然ドシーンとすさまじい響に家屋を震動させて、隣の屋根の雪が兼太郎の借りてゐる二階の庇へ滑り落ちた。つゞいて裏屋根の方で物干竿の落ちる音。どうやら寝ても居られないやうな気がして兼太郎は水洟《みつばな》を啜りながら起上つた。すぐに窓の雨戸を明けかけたが、建込んだ路地の家の屋根一面降積つた雪の上に日影と青空とがきらく照輝くので暫く目をつぶつて立ちすくむと、下の方から女の声で、
「田島さん。家《うち》の物干竿ぢやありませんか。」
 兼太郎のあけた窓の明りで二階中は勿論の事、梯子段の下までばつと明くなつた処から此の家の女房は兼太郎の起きた事を知つたのである。
「どうだか家ぢやあるまいよ。」と兼太郎はそんな事よりもまつ自分の座敷の火鉢に火種が残つて居るか否かを調べた。
「田島さんもうちきお午《ひる》ですよ。」
 襖の外で言ひながら、おかみは梯子段を上り切つて突当りに一間ばかり廊下のやうになつた板の間から、すぐと裏屋根の物干へ出る硝子戸をばビリく音させながら無理に明けやうとしてゐる。いつも建付けの悪いのが今朝は殊更雪にしめつて動かなくなつたのであらう。
 此の硝子戸から物干台へ出る問の軒下には兼太郎の使料になつてゐる炭と炭団を入れた箱にバケツが一個と洗面器が置いてある。
「あら、まア田島さん。炭も炭団もびしよぬれだよ。昨夜《ゆうべ》の中にどうにかしてお置きなされアいいのにさ。」
 物干竿を掛直したかみさんは有合ふ雑巾で赤ぎれのした足の裏を拭きく此度は遠慮なくがらりと襖を明けて顔を出した。眉毛の薄い目尻の下つた平顔の年は三十二三。肩のいかつた身体付のがつしりした女であるが、長年新富町の何とやらいふ待合の女中をしてゐたとかいふので襟付の紡績縞に双子の鯉口半纏を重ねた襟元に新しい沢瀉屋の手拭を掛け、藤色の手柄をかけた丸髷も綺麗に撫付けてゐる様子。まんざら路地裏の嚊《かエあ》とも見えない。以前奉公先なる待合の亭主の世話で新富座の長吉と贔屓の客には知られてゐる出方の女房になつて、この築地二丁目本願寺横手の路地に世帯を持つてからもう五年ほどになるがまだ子供はない。
「おかみさん。湯に行つて暖たまつて来やう。今日は一日楽休みだ。」と兼太郎は夜具を踏んで柱の釘に引掛けた手拭を取り、「大将はもう芝居かへ。一幕のぞいて来やうかな。」
「播磨屋さんの大蔵卿、大変にいゝんですとさ。」
「おかみさんまだ見ないのか。」
「お正月は御年始廻りや何かで家の人がいそがしいもんだから。」と女房は襟にかけた手拭を姉さまかぶりにして兼太郎の夜具を上げ、
「ゆつくり行ってお出なさい。綺麗に掃除して置きますよ。田島さん、さう/\持つて来るのを忘れてしまつた。牛乳が火鉢の処に置いてありますよ。」
「今朝はもう牛乳はぬきだ。日が当つてゐてもやつばり寒い。」と兼太郎は楊枝をくはへて寝衣のまゝ格子戸を明けて出た。
 路地の雪はもう大抵両側の溝板のLに掻き寄せられてゐたが人力車のやっと一台通れる程の狭さに、雪解の雫は両側に並んだ同じやうな二階家の軒からその下を通行する人の襟頸へ余沫《しぶき》を飛してゐる。それを避けやうと思つて何方かの軒下へ立寄ればいきなり屋根の上から積つた雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割つた足駄を曳摺りながら表通へ出た。向側は一町ほども引続いた練塀に、目かくしの椎の老木が繁茂した富豪の空屋敷。此方《こなた》はいろ/\な小売店のつゞいた中に兼太郎が知つてから後自動車屋が二軒も出来た。銭湯も此問にある。蕎麦屋もある。仕出屋もある。待合もある。ごみくした其等の町家《まちや》の尽る処、備前橋の方へ出る通との四辻に遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓が見えるが、然し本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮られて却つて目に這入らない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでゐるのを、近処の犬が見て遠くから吠えて居る。太い電燈の柱の立つて居るあたりにはいつの問に誰がこしらへたのか大きな雪達磨が二つも出来てゐた。自動車の運転手と鍛冶屋の職入が野球の身構で雪投げをしてゐる。
 兼太郎は狭い路地口から一足外へ踏み出すと、別にこれと見処もない此の通をばいつもながらいかにも明く広々した処のやうに感じるのであつた。そして折々自分はどうしても路地に生れて路地に育つた人間ではない、死ぬまでにいつか一度元のやうに表通に住んで見たいものだと思ふ事もあるのであつた。兼太郎がこの感慨は湯屋の硝子戸を明けて番台のものに湯銭を払ふ時殊更深くなる事がある。
 築地の此の界隈にはお妾新道といふ処もある位で妾が大勢住んでゐる。堅気の女房も赤い手柄をかける位の年頃のものはお妾に見まがふやうな身なりをして居る。兼太郎は番台越しに女湯で着物をぬぎかける女の中に、小作りのぼつちやりした年増盛のお妾らしいものを見ると、以前代地河岸に囲つて置いた自分のお妾の事を思ひ出すのである。名はお沢といつた。大正三年の夏欧洲戦争が始まつてから玩具雑貨の輸出を業とした兼太郎の店は大打撃を受けたので、其の取返しをする目算で株に手を出した。とん/丶拍子に儲かつたのが却つて破滅の本であつた。四五年成金熱に浮かされて居る中、講和条約が締結され一時下つた相場は又暫く途拍子《とつぴやうし》もなく絶頂に達したかと思ふと忽にして又崩落した。兼太郎は親から譲られた不動産までも人手に渡して本妻の実家へ子供をつれて同居するといふ始末、代地河岸に囲つてあつたお妾のお沢は元の芸者の沢次になつた。幸ひ妾宅の家屋はお沢の名儀にしてあつたので、両人話合の末それを売つて新に芸者家|沢《さは》の家《や》の看板を買ふ資本にした訳である。兼太郎は本妻との間に其の時八つになる男と十三になる娘があつたにも係らず、いつか沢の家に入りびたりとなつた。本妻の実家は資産のある金物問屋の事とて兼太郎の身持に呆れ果て子供を引取つて養育する代り本妻お静の籍を抜きやがて他へ再縁させたといふ話である。
 丁度そんな話のあつた頃から兼太郎は沢次の家にもどうやら居辛いやうになって来た。初めの中は旦那の落目に寝返りをした抔と言はれては以前の朋輩にも合す顔がない。今までお世話になつた御恩返しをするのはこれからだと沢次は立派な口をきいてゐたが、一年二年とたつ中いつか公然と待合にも泊る。箱根へ遠出にも行く。兼太郎は我慢をしてゐたが、遂には抱への女供にまで厄介者扱にされ出したのでとうど丶一昨年の秋しよんぼりと沢の家を出た。流石に気の毒と思つたのか沢次は其の時三千円といふ妾宅を売つた折の金を兼太郎に渡した。以後兼太郎はあつちこつちと貸間を借り歩いた末、今の築地二丁目の出方の二階へ引つ越して来た時には、女から貰つた手切の三千円はとうに米屋町で大半《あらかた》なくしてしまひ、残りの金は一年近くの居食《ゐぐひ》にもう数へるほどしかなかつた。
 雪は止んだ。裸虫《はだかむし》の甲羅を干すといふ冂和も凵曜ではないので、男湯には唯一人生花の師匠とでもいふやうな白髭の隠居が帯を解いて居るばかり。番台の⊥にはいつも見る婆も小娘もゐない。流しの木札の積んである側に銅貨がばらくに投出した儘になつて居るのは大方隠居の払つた湯銭であらう。兼太郎も湯銭を投出して下駄をぬがうとした時、ガラくと女湯の戸をあけて入つて来た一人の女がある。
 色糸の入つた荒い絣の銘仙に同じやうな羽織を重ねた身なりと云ひ、頤の出た中低な顔立と云ひ、別に人の目を引くほどの女ではないが、十七八と覚しいその年頃とこの辺では余り見かけない七三に割つた女優髷とに、兼太郎は何の気もなく其の顔を見た.娘の方でも番台を問に兼太郎の顔を見るといかにも不審さうに、手にした湯銭をそのま」暫く土間の上に突立つてゐたが、やがて肩で呼吸をするやうに、
「まあお父《とつ》さんしばらくねえ。」と云つたなり後は言葉が出ぬらしい。
「お照。すつかり見ちがへてしまつたよ。」
 兼太郎は人の居ないのを幸ひ番台へ寄りかゝつて顔を差伸した、
「お父さんいつお引越しになつたの。」
「去年の今時分だ。」
「ぢや、もう柳橋ぢやないのね。」
「お照、お前は今どこにゐるのだ。御徒町《おかちまち》のお爺さんの処に居るんぢやないのか。」
 お照は俄に当惑したらしい様子で、「今日はアノ何なの  鳥渡そこのお友達の内へ遊びに来てゐるんですよ。」
「何しろこ猿でお前に逢はうとは思はなかつた。お照、すぐそこだから帰りに鳥渡寄つておくれ。お父さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲ると三軒目だ。木村ッていふ家にゐるんだよ。曲つて右側の三軒目だよ。いゝか。」
 その時戸を明けて貸自動車屋の運転手らしい洋服に下駄をはいた男が二人、口笛でオペラの流行唄をやりながら入つて来たので兼太郎はたゴ「い」かね/\。」と念を押しながら本意なくも下駄をぬいで上つた。お照は気まりわる気に軽く首肯いて見せるや否や男湯の方からは見えないズツト奥の方へ行つてしまつた。
 茶の間の長火鉢で惣菜を煮てゐた貸間のかみさんは湯から帰つて来た兼太郎の様子に襖の中から、一田島さん。御飯をあがるんなら蒸して上げますよ。煮くたれてゝよければお汁《つけ》もあります。どうします。」
「お汁は沢山だ。」と兼太郎は境の襖を明けて立ちながら、「おかみさん、不思議な事もあるもんだ。まるで人情ばなしにでも有りさうな話さ。女房の実家《さと》へ置き去りにして来た娘に逢つたんだ。女湯もたまにやア覗いて見るものさ。」
「へえ。まア  。」
「その時分女房は三十越していゝ年をしてゐやがつたが、よく/\おれに愛想をつかしやアがつたと見えて他へ片付いてしまやアがつたんで、つい娘や・士供の事もそれきり放捨《うつちや》って置いたんだがね、数へて見るともう十八だ。」
「この辺においでなさるんですか。まアこつちへお入んなさい。」
「湯ざめがしさうだから着物を着て来やう。おかみさん娘が尋ねて来る筈なんだ。あんまりぢゝむさい風も見せたくないよ。.
 兼太郎は二階へ上り着物を着換へてお照の来るのを待つた。午飯を食べてしまつたが一向格子戸の明く音もしない。兼太郎は窓を明けて腰をかけ口に啣へた敷島に火をつける事も忘れて、路地から表通の方ばかり見つめてゐたが娘の姿は見えなかつた。お照は矢張おれの事をよく思つてゐないと見える。人情のない親だと思ふのも無理はない。尋ねて来ないのも尤もだ。手の甲で水洟をふきながら首をすつ込めて窓をしめると、何処かの家の時計が二時を打ち、斜に傾きかけた日脚はもう路地の中には届かず二階中は急に薄暗くなつた。長い間窓に腰をかけてゐたので湯冷もする、火鉢の火を掻立てゝ裏の物干へ炭団を取りに行くとプン/\鳥鍋の匂がしてゐる。隣家億木挽町の花柳病院の助手だとかいふ事で、つい去年の暮看護婦を女房に貰つたのである。二階から此方の家の勝手口へ遠慮なく塵を掃き落すといふので出方のかみさんは田舎者は仕様がないとわるく言切つてゐる。兼太郎は雪に濡れた炭団をつまんで独り火を起す其身に引くらべると、貰つて間もない女房と定めし休暇と覚しい今日の半日を楽しく暮す助手の身の上が訳もなく羨ましく思はれたので、聞くともなく物干一つ隔てた隣の話声に耳をすました.、すると物干6下なる内の勝手口で、
「おかみさん、留守かい。おかみさん。」と言ふ男の声。物干の問から覗いて見ると紺の股引に唐桟縞の双子の尻を端折り、上に鉄無地の半合羽を着て帽子も冠らぬ四十年輩の薄い痘痕のある男である。
「伊三《いさ》どん、大変な道だらう。さアお上り。」水口の障子を明けたかみさんは男の肩へ手をやつて、
「今日は二階にゐるんだからね。」と小声に言つた。
「さうか。貸間の爺かい。ぢや又来やうや。」
「何、い㌧んだよ。さア伊三どん.、お」寒い。」
 男を内へ上げた後、かみさんは男の足駄を手早く隠してぴつたり水口の障子をしめた。男は伊三郎といふ新富町見番の箱屋で、何でもこ墨の家のおかみさんが待合の女中をしてゐた時分から好い仲であつたらしい。兼太郎は去年の今頃は毎日二階にごろくしてゐたので様子は委しく知つてゐるのであつた。その時分には二人は折々二階へ気を兼ねて別々に外へ出て行つた事もあつた。
 兼太郎は炬燵に火を入れて寝てしまはうかと思つたが今朝は正午近くまで寝飽きた瞼の閉ぢられやう筈もないので、古ぼけた.一重廻を引掛けてぷいと外へ出てしまつた。本より行くべき処もない。以前ぶらくしてゐた時分行き馴れた八丁堀の講釈場の事を思付いて、其処で時間をつぶした後地蔵橋の天麩羅屋で一杯やり、新富町の裏河岸つたひに帰つて来ると、冬の日は全く暮果て雪解の泥濘《ぬかるみ》は寒風に吹かれてもう凍つてゐる。
 格子戸をあけると、わざとらしく境の襖が明け放しになつてゐて、長火鉢や箪笥や縁起棚などのある八畳から手水場の開戸まで見通される台処で、おかみさんはたつた一人後向になつて米を磨いでゐた。
「おかみさん。とう/\来なかつたか。」
「えゝ。お出になりませんよ。」とかみさんは何故か見返りもしない。
 兼太郎はわけもなく再びがつかりして二階へ上るや否や二重廻を炬燵の上へぬぎすて其の贐ごろりと横になつた。向う側の吉川といふ待合で芸者がお客と一所に三千歳を語つてゐる。聞くともなしに聞いてゐる中、兼太郎はいつかうと/\としたかと思ふと、「田島さん、田島さん。」と呼ぶ声。
 階下《した》のかみさんは梯子段の下の上框へ出て取次をしてゐる様子で「お⊥んなさいましよ。きつと転寝《うたゝね》でもしておいでなさるんだよ。まだ聞えないのか知ら。田島さん。田島さん。」
 兼太郎は刎起きて、「お照か。まアお上り。お上り。」と云ひながら梯子段を駈下りた。
 お照は毛織の襟巻を長々とコートの.肩先から膝まで下げ手には買物の紙包を抱へて土間に立つていた。兼太郎は手を取らぬばかり。
「お照。よく来てくれたな。実はもう来やしまいと思つてゐたんだ。おれも今方帰つて来た処だ。さアニ階へお上り。」
「ぢや御免なさいまし。[とかみさんの方へ何とつかず挨拶をしてお照は兼太郎につゞいて梯子段を上つた。
「お照、こゝがお父《とつ》さんのゐる処だ。お父さんも随分変つたらう。」と兼太郎は火鉢の火を掻き立てながら、噛ぬがなくてもい丶よ。寒いから着ておいで。」
 けれどもお照は後向になつてコートと肩掛とを取乱された六畳の問の出入口に近い襖の方に片寄せながら、
「さつき昼問の中来やうと思つたんですよ。だけれどお友達と浅草へ行く約束をしたもんだから..」
「さうか、活動か。」と兼太郎は小形の長火鉢をお照の方へと押出した。
「お父さん、これはつまらないものですけれど、お土産なの。」
「何、お土産だ。それは有難い。」と兼太郎は真実嬉しくてならなかつたので、お照が火鉢の傍へ置いた上産物をば膝の上に取つて包紙を開きかける。土産物は何かの罐詰であつた。
「お父さん、やつばり御酒《おさけ》を」るんでせう。浅草にや何も無いのよ。L
「ナニ此アお父さんの大好きなものだ。…
 兼太郎は嬉涙に目をぱち/\させてゐたがお照は始終頓着なくあたりを見廻す床の問に二合罎が置いてあるのを見ると自分の言つた事が当つてゐるので急に笑ひ乍ら、
「お父さん、やつばり寝る時に上るんですか。」
「何だ。はゝゝゝ。とんだものを目付かつたな。何、これア昨夜雪が降つたから途中で一杯やつたら、もういゝと云ふのに間違へて又一本持つて来やがつたから其儘懐中へ入れて来たんだ。」
「お父さん、今夜はまだなの。お上んなさいよ。わたしがつけて上げませう。」
 丁度手の届くところに二合罎があつたのでお照はそれをば長火鉢の銅壼の中に入れやうとして、
「この中へ入れてもいゝんでせう。」
 兼太郎は唯首肯くばかり、いよ/\嬉しくて返事も出来ず涙ぐんだ目にぢつとお照の様子を見詰るばかりである。お照が二合罎を銅壺の中に入れる手付きにはどうやら扱ひ馴れた処が見えた。
 兼太郎は昼問湯屋の番台で出逢つたその時から娘の身のLが聞きたくてならなかつた。然し以前瓦町に店があつた時分から子供の事は.切母親のお静にまかしたなり、ろく-ー\顔を見た事もなかつた位。朝起きる時分には娘はもう学校に行つてゐる。娘が帰つて来る時分には兼太郎は外へ出て晩飯は妾宅で食べ長二時過ぎでなければ帰つては来なかつたので、今日突然こんなに成長した娘の様子を見ると、父親としてはいかにも済まないやうな心持もするし又何となく恨んで居はせまいかと恐ろしいやうな気もして、兼太郎はきゝたい事も遠慮して聞きかねるのであつた。
 実際その時分には兼太郎は女房の顔を見るのがいやで/\ならなかつたのだ。気がきかなくてデブ/\肥つてゐる位ならまだしもの事生れ付きひどい腋臭《わきが》があつたので嫌ひ抜いたあまり自然その間に出来た子供にまでよそ/\しくする様になつた訳である。兼太郎がその頃目をつける芸者は岡目には貧相だと言はれる位な痩立な小作りの女ばかり。旅籠町へ遂に妾宅まで買つてやつた沢次の外に、日本橋にも浅草にも月々きまつて世話をした女があったが、いつれも着痩のする小作な女であつた。大柄な女はいかほど容貌がよく押し出しが立派でも兼太郎はさして見返りもせず、あゝいふ女は昔なら大籬の華魁にするといゝ、当世なら女優向きだ、大柄な女は大きなメジ鮪をぶつころがしたやうで大味だと冗談をいつてゐたのも其の筈、兼太郎は骨格はしつかりしてはゐたが見だての無い小男なので、自分よりも丈の高い女房のお静が大一番の丸髷姿を見ると、何となく圧服されるやうな気がしてならないのであつた..
 それこれと当時の事を思ひ出すにつけて兼太郎は娘のお照が顔立は母に似てゐるが身体付は自分に似たものかそれ程デクくもしてゐないのを見ると共に、あの母親の腋臭はどうなつただらうと妙な処へ気を廻した。然しそれは折から階下のかみさんが焼き初めた寒餅の匂にまぎらされて確かめる事が出来なかつた。
 お照は火鉢へ差かざす手先に始終お墹を注意してゐたが寒餠の匂に気がついたものと見え、
「お父さん御飯はどうしてゐるの。下でおまかなひするの。」
 
「家《うち》にゐる時はさうするがね。毎日桶町まで勤めに行くからね、昼は弁当だし帰りにや花村かど
こかで一杯やらアな。」
「お父さん。それぢや今は勤め人なの。」
「碌なものちやないよ。お前は子供だつたから知るまいが、瓦町の店へ来た桑崎といふ色の黒い太つた男だ。それが今成功して立派な店を張つてゐるんだ。そこへ働きに行くのさ。」
「桑崎さん、覚えてゐるわ。どこだかお国の人でせう。此の頃はどこへ行つてもお国の人ばかりねえ。お国の人が皆成功するのねえ。」
「お父さん見たやうになつちや駄目だ。御徒町のおちいさんも江戸ツ児ぢやないよ。」
                                       
 兼太郎は話が自然にご㌧へ巡つて来たのを機会に其後の様子を聞かうと、「お照。お前|母《おつか》さんがお嫁に行く時なぜ一所について行かなかつたんだ。連れ児はいけないと云ふはなしでもあつたのか。」
「さうでもないけれど……。」とお照は兼太郎の見詰める視線を避けやうとでもするらしく始終伏目になつてゐたが、「お父さん、もうお燗がよさゝうよ。どうしませう。」
 指先で二合壜を摘み出して灰の中へそつと雫を落してゐる。
「お照、お前どこでお燗のつけ方なんぞ覚えたんだ。」
「もう子供ぢやないんですもの。誰だつて知つてるわ,」と猫板の上に載せながら、「お父さんお盃はどこにあるの。」
 兼太郎は肝腎な話をよそにして夜店で買つた茶棚の盃を出し、
「どうだお前も一杯やるさ。お燗の具合がわかる処を見ると一杯位はいけるだらう.、」
「わたしは沢山。」とお照は壜を取上げて父の盃へついだ。
「お照、お前にめぐり遇つた縁起のいゝ日だからな。」とぐつと一杯干して、「お父さんがお酌をしやう。飲めなければ飲むまねでもいゝよ。」
「さう。ぢやついで頂戴。」
 お照は兼太郎が遠慮してヒ分目ほどついだ盃をすぐに干したばかりか火鉢の縁で盃の雫を拭つて返す手つき、いよく馴れたものだと兼太郎は茫然とその顔を見詰めた。
「お父さん。いやねえ。先刻《さつき》から人の顔ばかり見て。わたしだつていつまでも子供ぢやないわ。」
「お照、お前、お母さんがお嫁に行つてから会つたか。」
「い、え、東京にや居ないんですつて、大阪にお店があるんですとさ。」
「角太郎はどうしてゐる。お前が十八だと角太郎は十三だな。」
「角ちやんは今だつてちやんと御徒町にゐるでせう。男ですもの.」
「女だと居られないのか。」
「居られないつて云ふわけもないけれど、わたしが悪かつたのよ。おちいさんの言ふ事をきかなかつたから。」
「そんなら謝罪ればい」ぢやないか。謝罪つてもいけないのか。」
「外の事と違ふから、今更帰れやしませんよ。かうしてゐる方が呑気だわ。}
「外の事とちがふ。どんな事なんだ。」
「どんな事ッて、その中に言はなくつても分りますよ。お父さんも道楽した人に似合はないのね。」
「わかつたよ。だが、どうも未だよくわからない処があるな。お照、何も気まりをわるがる事はねえや。そんな事をいつた日にやお父さんこそ、お前に合す顔がありやしない。お前がちやんとおとなしく御徒町の家にゐた日にやア途中で逢つたつて話も出来ない訳なんだ。さうだらう。乃公《おいら》は女房や子供をすてた罰で芸者家からもとうくお履物にされちまつた。それだから、斯うしてお前と話もしてゐられるんだ。」
「それアさうねえ。わたしが御徒町の家を出たからつてお父さんが先のやうに柳橋にゐたら、やつぱり何だか行きにくいわね。お父さん、何故柳橋と別れたの。」
「別れたんぢやない。追出されたんだ。もうそんな過ぎ去つた話はどうでもいゝや。それよりか、お照、お前の話を聞かう。表のお湯屋で逢つたんだからこの近所にや違ひなからうが、何処にゐるんだえ。お嫁にでも行つたのか。」
「ほゝゝほ。お父さん。わたしまだやつと十八になつたばかりよ。」
「十八なら一人前の女ぢやないか。お嫁にだつて何だつて行けるぜ。自分でもさつきもう子供ぢや無いつて言つてたちやないか。」
「それアいろんな心配もしたし苫労もしたんですもの。」
「お燗はつけるしお酌はできるし、隅にや置けなさうだな。お父さんに似ていろんな事を覚えたんだらう。は墨ゝゝは。当《あて》て見やうか。お茶屋の姐さんにしちや髪や風俗《なり》がハイカラだ。まつカツフエーかバーといふ処だが、どうだ。お照、笑つてばかりゐないで教へたつてい」ぢやないか。」
「てつきりお手の筋ですよ。」
「やつばりカツフエーか。どうもさうだらうと思つた。この近処にや然し気のきいたカツフエーはねえやうだが、何処だい。」
「この間まで人形町の都バーにゐたんですよ。だけれどももうよしたの。先に日比谷にゐた時お友達になつた姐さんがこの先の一丁目に世帯を持つてゐるから二一二日泊りながら遊びに来てゐるのよ。もう随分遊んだからそろくまた働かなくちやならないわ。」
「カツフエーは随分貰ひがあるといふ話だがほんとかい。月にいくら位になるもんだね。」
「さうねえ、一番初めまだ馴れない時分でも三四十円にはなつてよ。銀座にゐた時には矢ッ張場所だわね。百円はか」さなかつたわ。だけれども急がしい処は着物にか」るからつまり同じなのよ。」
「ふーむ偉いもんだな。どうしても女でなくちや駄目だ。お父さんなんか毎日足を棒にして歩いたつていくらになると思ふ。やつと八十円だぜ。その中で二十円は貸間の代に、それから毎日食べて行かなくちやならないからな。そこへ行くと三十円でもくらしが出なけれア楽だ。」
「だから残さうと思へば随分残るわけなのよ。中には五百円も六百円も貯金してゐる人もあるけれど、何の彼のつて蓄つたかと思ふとやつぼり駄目になるんですとさ。だからわたしなんぞ貯金なんかした事はないわ。有る時勝負で芝居へ行つたり活動へ行つたりして使つちまふのよ。」
「お客様に連れて行つて貰ふやうな事はないのかい。カツフエーだつて同じだらう。お茶屋や待合の姐さんと同じやうに好いお客や旦那があるんだらう。」
「ある人はあるし無い人はないわ。お父さんもう此でおつもりよ。」
 お照は二合壜を倒にして盃につぎ、「何時でせう。わたしもうそろ/\お暇しなくちや成らないわ。二三日中に行くところがきまつたら知らせるわ。」
「まだいゝやな。あの夜廻は九時打つと廻るんだ。」
「今夜これから襦袢の襟をかけたりいろく仕度しなくちやならないのよ。明日《あした》の晩にでもまた来ますよ。お酒と何かおいしさうなものを持つて来ますよ。」とお照は立ちかけて、「お父さん、ここのお家、厠《はゞかり》はどこなの。」
 お照は約束たがへず翌日の晩、表通の酒屋の小僧に四合壜の銀釜正宗を持たせ、自身は銀座の甘栗一包を白木屋《しろきや》の記号《しるし》のついた風呂敷に包んで、再び兼太郎をたつねて来た。甘栗は下のおかみさんへの進物にしたのである。この進物でかみさんはすつかり懇意になり、お照が鉄瓶の水を汲みにと、下へ降りて行つた時袖を引かぬばかりに、
「お照さん、あなた、お燗をなさるんならこの火鉢をお使なさいましよ。銅壺に一杯沸いてゐますよ。何いゝんですよ。家ぢや十一時でなくつちや帰つて来ませんからね。いつその事今夜はこ㌧でお話しなさいましま。田島さん、ねえ、田島さん。」と後からつゞいて手水場へと降りて来た兼太郎にも勧めたので、二人はそのまゝ長火鉢の側へ坐つた。
 かみさんとお照はかき餅と甘栗をぼりくやりながら酌をする。兼太郎はいつになく酔払つて、
「お照、お前がおいらの娘でなくつて、もしかこれが色女だつたら生命も何もいらないな。昔だつたら丹さんといふ役廻りだぜ。は丶ゝは。」
「丹さんて何のこと。」
「丹さんは唐琴屋の丹次郎さ。わからねえのか。今時の娘はだから野暮で仕様がねえ。おかみさんに聞いて御覧。おかみさんは知らなくつてどうするものか。」
「あら、わたしも知りませんよ。御酒の好きな人の事を丹次郎ッていふんですか。アゝわかりましたよ。赤くなるからそれで丹印《たんじるし》だつていふ洒落なんですね。」
「こいつは恐れ入つた。は玉ゝ㌧は。恐入谷の鬼子母神か、はゝ丶ゝは。」
「のん気ねえ。ほんとにお父さんは。」
「酒は飲んでも飲まいでもさ。いざ鎌倉といふ時はだらう、はゝ猿ゝは。然し大分今夜は酔つたやうだな。」
「お酒のむ人は徳ねえ。苦労も何も忘れてしまふんだから。」
「だから昔から酒は憂の玉箒といふちやないか。酒なくて何のおのれが桜かなだらう。お酒さへ飲んで居れアお父さんはもう何もいらない、お金もいらない。おかみさんもいらない。」
「そんな事いつたつて、お父さん、一人ぢや不自由よ。いつまで斯うして居られるもんぢやない事よ。」
「居ても居られなくつても最う仕様がないやな。まアお照そんな話はよしにしやうよ。折角今夜はお正月らしくなつて来たところだ。お照、お父さんのお箱を聞かせてやらうか。蓄音機で稽占したんぢやねえよ。」
 やがて亭主が帰つて来た。役者の紋をつけた双子縞の羽織は着てゐるが、どこか近在の者で」もあるらしい身体付から顔立まで芝居者らしい所は少しもない。どうやら植木屋か何かのやうにも見れば見られる男で、年は女房とさして違つてもゐないらしいが、しよぼ/\した左の目尻に大きな黒了があり、狭い額には二筋深い皺が寄つてゐる。かみさんは弟にでも物言ふやうな調子で、
「お前さん。田島さんのお嬢さんだよ。頂戴物をしてさ。」
「そうかい。それアどうも。」と言つたきり亭主は隅の方へ坐つて耳朶《みゝたぶ》へはさんだヱヤシツプの吸残りを手に取つたが、火鉢へは手がとゴかないのか、そのま」指先で火を消した煙草の先を摘んでゐる。
「どうです。芝居は毎日大入りのやうですね。」と兼太郎は酔つた揚句の相手ほしさに、二杯献じませう。今年の寒は又別だね。」
「ありがたう御在ます。お酒はどうも……。」と出方は再びヱアシツプを耳にはさんでもち/\してゐる。
「田島さん。駄目なんですよ。奈良漬もいけない位なんですよ。」
「さうかい。ちつとも知らなかつた。酒なんざ呑まないに越した事アないよ。呑みやアつい間違ひのもとだからね。おかみさん、いゝ御亭主を持ちなすつてどんなに仕合せだか知れないよ。」
 かみさんは何とも言はずに台所へと立つて膳拵へをしはじめた。
 路地の内は寂《しん》としてゐるので、向側の待合吉川で掛ける電話の鈴の音のみならず、仕出しを注文する声までがよく聞える。
「お父さん、それぢやわたし明日から又先にゐた日比谷のヵツフエーへ行きますからね。通りかかつたらお寄んなさいよ。御馳走しますよ。」とお照は髪のピンをさし直してハンケチを袂に入れた。
 兼太郎は酔つてゐながら俄に淋しいやうな気がして、「寒いから気をつけて行くがいゝぜ。今夜はやつばり一丁目の友達のところか。」
「どうしやうかと思つてゐるのよ。今夜はこれからすぐ日比谷へ行かうかと思ってゐるのよ。今日お午過ぎ鳥渡行つて話はして来たんだし、それに様子はもうわかつて居るんだから。」
「今夜はもう晩いぢやないか。」
「まだ十二時ですもの。電車もあるし、日比谷のバーは随分おそくまでやつてるわ。夏の中はどうかすると夜があけてよ。」
 お照は出方の夫婦と兼太郎に送り出されて格子戸を明けながら、
「まアいゝお月夜。」
 建込んだ家の屋根には一昨日の雪がその儘残つてゐるので路地へさし込む寒月の光は眩しいほどに明るく思はれたのである。
「成程いゝお月夜だ。風もないやうだな。」と上り框から外をのぞいた兼太郎は何といふ事もなくつゞいて外へ出た。兼太郎は台処の側にある手水場へ行くよりも格了戸を明けて路地で用を足す方が便利だと思つてゐるので寝しなにはよく外へ出る。
 お照は二一二歩先に佇んで兼太郎を待つてゐたが、やがて思出したやうに、一お父さんあの人が芝居の出方なの。どうしてもさうは見えないわね。L
「むッつりした妙な男だ。もう一年越し同じ家にゐるんだが、ろくそつぼ話をしたこともないよ。」
「何だか御亭主さん見たやうちやないわね。わたし気の毒になつちまつたわ。」
 路地を出ると支那蕎麦屋が向側の塀の外に荷をおろしてゐる。芸者の乗つてゐるらしい車が往来《ゆきき》するばかりで人通は全く絶え、表の戸を明けてゐるのは自動車屋に待合ぐらゐのものである。銭湯は今方湯を抜いたと見えて、雨のやうな水音と共に溝から湧く湯気が寒月の光に真白く人家の軒下まで漂つてゐる。
「今夜は馬鹿に酔つたぜ。そこまで送つて行かう。」
「お父さんソラあぶない事よ。」
「大丈夫、自分で酔つたと思つてれア大丈夫だ。」
「ねえ、お父さん。あのおかみさんは、わたし御亭主さんに惚れてゐないんだと思ふのよ。」
「何だ。また家のはなしか。」
「惚れてゐない人と一緒になると皆あ㌧なんでせうか。いやなものなら思切つて別れちまつた方がよさゝうなものにねえ。」.
「色と夫婦とは別なものだよ。惚れた同士は我儘になるからいけないさうだ。お前なんぞはこれからが修行だ。気をつけるがいゝぜ。」
「お父さん。わたしが銀座にゐた時分から今だに毎日々々きつと手紙を寄越す人があるのよ。わたしの頼むことなら何でもしてくれるわ。随分いろんなものを買つて貰つたわ。」
「さうか。若い人かね。」
「二十五よ慶応の方なのよ。この間一緒に占ひを見てもらひに行つたのよ。さうしたらね。一度は別れるやうな事があるッて言ふのよ。だけれど末へ行けばきつと望通りになれるんですツて。」
「いゝ家の坊ちやんかね。」
「えゝお父さんは銀行の頭取よ。」
「それぢや大したものだ。あんまり好すぎるから親御さんが承知しまいぜ。」
「だから占を見て貰ひに行つたのよ。だけれどね、お父さん。もしどうしても向のお家でいけないツて言つたら、その時は→所に逃げやうッていふのよ。お父さん、もしさうなつたら、お父さんどうかしてくれて。二階へかくまつて下さいな。」
 兼太郎は返事に困つて出もせぬ咳嗽にまぎらした。いつか酒屋の四つ角をまがつて電車通へ出やうとする真直な広い往来を歩いてゐる。
「大丈夫よ。お父さん、わたしだつて其様《そんな》向見ずな事はしやしないから大丈夫よ。カツフエーに働いて居さへすれば誰の世話にならなくつても、毎日会つて居られるんだから。いつそ一生涯さうしてゐる方がいゝかも知れないのよ。
「お照、お前怒つたのか。」と兼太郎は心配してお照の顔色を窺はうとした時電車通の方から急いで来かゝつた洋服の男が摺れちがひにお照の顔を見て、
「照ちやんか。日比谷だつていふから行つたんだよ。」
「これから行く処なの。」とお照は男の方へ駈寄つて歩きながら此方《こなた》を見返り、「お父さんそれぢや左様なら、もうい」わ。左様なら、おかみさんによろしく。…
 取残された兼太郎は呆気に取られて、寒月の光に若い男女が互に手を取り肩を摺れ合して行く其の後姿と地に曳く其の影とを見送つた。
 見送つてゐる中に兼太郎はふと何の連絡もなく、柳橋の沢次を他の男に取られた時の事を思出した。沢次と他の男とが寄添ひながら柳橋を渡つて行く後姿を月の夜に見送つてもういけないと諦をつけた時の事を思出した。思出してから兼太郎はどうして今時分そんな事を思出したのだらうと其理由を考へやうとした。
 お照と沢次とは同じものではない。同じものであるべき筈がない。お照は不届至極な親爺の量見違ひから置去りにされて唯.人世の中へはふり出された娘である。沢次は家倉はおろか女房児までも振捨て㌧打込んだ自分をば無造作に突き出してしまつた女である.、事情も人間も全然ちがつてゐる。然し夜もふけ渡つた町の角に自分は唯一人取残されて月の光に二人連を見送る淋しい心持だけはどうやら似てゐるといへば言はれない事もない。
 お照はそれにしても不人情なこの親爺にどういふわけで酒を飲ませてくれたのであらう。不思議なこともあればあるものだ。それが不思議なら、あれほど恩になつた沢次が自分を路頭に迷はすやうな事をしたのも矢張.不思議だといはなければならない。
 帽子もかぶらずに出て来たので娘が飲ませてくれた酒も忽醒めかゝつて来た。赤電車が表通を走り過ぎた。兼太郎は路地へ戻つて格子戸を明けると内ではもう亭主がいびきの声に女房が明ける箪笥の音。表の戸をしめて兼太郎は二階へ上り冷切つた鉄瓶の水を飲みながら夜具を引卸した。
 路地の外で自動車が発動機の響を立て始めたのは、大方向側の待合からお客が帰る処なのであらう。
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