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斬馬剣禅『東西両京の大学』2

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金井、松崎対田島

           附和田垣対田尻


  (一) 抑《そもそ》も経済学は、人間物質的欲望の波瀾《はらん》を研究する学問なり。これをもって衣食住の問題がいかに響痘に重要なるかを知るもの は、藤ちに経済学がいかに学問上重要の地位を占むべきやを想像し得べきなり。しかも斯学がその一科の学問として認められしこと、ケネi、スミス以来わずか に百余年来のことに過ぎざるをもって、その発達はなはだ幼穉《ようち》にして、その学術上の根底すら、ややもすれば動揺変転あるを免れず。これをもって欧 州各国、おのおのその国特有の学風を有し、互いに拮抗《きつこう》して下らざるの風あり。この故に我国の学者にして、笈《きゆう》をかの国に負うて研鑽 《けんさん》の功を積みしもの、おのおのその国学風の感化を受け、我学界また各国の旗幟《きし》を擁立《ようりつ》して、互いに相|雄視反目《ゆうしはん もく》せるやの観なきにあらず。 見よ、かの東京大学教授法学博士|金井延《かないえん》はそのかつてドイツに在っては、ハレi大学の教授コンラッドの教 授を受けしをもって、自ら深くその学風に私淑《ししゆく》し、頻《しき》りにコンラッド一流の穏健《おんけん》なる各派|折衷説《せつちゆうせつ》を祖述 しつつあるにあらずや。しかるにかの博士|松崎蔵之介《まつざきくらのすけ》に至りては、等しくこれ東京大学の教授なりといえども、そのかつてオ!ストリ アの京《みやこ》ウィーンに留学し、オーストリア学派の泰斗《たいと》メンゲルの教授を受けたるの故に、大いに力を欲望論価値論等の根本問題に費して、所 以《ゆえん》哲理的研究を喜ぶの風あり。而《しこう》してかの博士|和田垣謙三《わだがきけんぞう》に至りては、いわゆる英国派の学者中もっともドイツの 歴史派に近しと称せらるる、クリフレスリーの学風を祖述しつつあるものにして、現会計検査院長にして東京大学の講師たる法学博士|田尻稲次郎《たじりいな じろう》は、もっとも実際を貴ぶ英国派中、さらに実際的なる米国学派に属するものとせざるべからず。もしそれかの京都法科大学教授博士|田島錦治《たじま きんじ》に至りては、かのドイッ学派中、講壇社会主義主唱者にその人ありと知られたるワグナーの学風を承けたるものにして、彼の抱持する社会政策は大いに ワグナーのそれに得たるものなくんばあらず。
 ある人かつて評して曰く、金井の学風は井戸のごとく、松崎の学風は沼のごとく、和田垣の学風は田のごとく、田島の学風は渓流《けいりゆう》のごとしと。 けだし大いにその肯綮《こうけい》に当れる評言ならずんばあらず。思うに金井は広くすべてに通暁《つうぎよう》せりというべからざるも、その特別の問題に ついては頗《すこぶ》る深奥《しんおう》なる研究をなすの風あり。彼の社会政策および貨幣問題におけるがごときすなわちこれなり。これ彼の狭けれども深き こと、あたかも井戸のごとしと評せらるる所以《ゆえん》なり。またかの松崎の学風や渉猟頗《しようりようすこぶ》る広く、材料頗る多きの観ありといえど も、その不得要領《ふとくようりよう》にして統一を欠ける、例えば沼の蘆葦蓬《ろいほうほう》々、深浅不定、あるいは歩して渉《わた》るべきあり、あるい は泥濘《でいねい》全身を没すべきがごときあり。かの和田垣の広きを好む、その研究の範囲|広汎《こうはん》なる経済学中において、彼のもっとも好む所は 経済学史のことき、その研究範囲の三、四千年の広きに亘《わた》れるものにして、かの財政学のごとき特別の一科は、多く重《おも》きを措《お》かざるがご とき、彼の学風のいたずらに広くしてかつ浅き、これを水田の渺茫《びようばう》たるに比する、必ずしもその当を失したるものと称すべからず。もしそれかの 田島の学風に至りては、その頭脳の明敏《めいびん》にして、もっとも要領を握《つか》むに早く、所説もっとも要領を得て、また一点|晦渋《かいじゆう》の 跡なく、しかもその実際問題の解決に敏なるあたかも電光の閃《ひらめ》くに似たるがごとき、まことにこれ渓流《けいりゆう》の水質|明澄《めいちよう》に して、淵中の浮魚ことごとく数うべく、しかも急潭直瀉奔逸《きゆうたんちよくしやほんいつ》ほとんど御《ぎよ》すべからざるがごときなり。

(二) 金井は学者としてもっとも尊敬すべきものの一人なり。彼の学力については社会の一部にやや批難の声を聞かざるにあらずといえども、その主義を執 《と》る堅実にして、学問の独立を尊重するの厚き彼のごときは、大学教授中|稀《まれ》に見る所なり。明治三十一年、政府は貨幣制度を改革せんと欲し、清 国より得たる償金をもって正貨準備に充《あ》て、もって断然金貨本位制を樹《た》てんとす。ここにおいて朝野《ちようや》の議論分れて二となり、その政府 案に賛成して金貨本位制を取らんとするもの、そのこれに反対して従来の銀貨本位制に満足せんとするもの、論難攻撃相執りて互いに下らず、学界真にこれ竜攘 虎搏《りゆうじようこはく》の壮観を現じたりき。
 時に金井大学教授をもって大蔵省参事官を兼ぬ。故に行政官としてはすなわち政府案を弁護して金貨本位制を維持せざるべからずといえども、学者として彼の 持論の銀貨本位制なるは、すなわち政府案に反対せざるべからず。これにおいて彼がいかにその進退を処せんかとは、当時朝野の大いに属目《しよくもく》した る所にして、この難局は実に直ちに彼の人格の如何《いかん》を洞見《どうけん》せしむるに足るべき試金石《しきんせき》なりしなり。この時に際して彼の執 《と》るべき態度三なり。断然|宿論《しゆくろん》を放棄して、政府案を援くる、その一なり。堅く沈黙を守って大勢《たいせい》の推移に任ずる、その二な り。公然《こうぜん》持説を社会公衆の前に発表して、大いに政府案の通過を妨ぐる、その三なり。而《しこう》して彼の撰びし所のものは、実にこの第三の態 度にして、学者としてもっとも忠誠にもっとも勇敢《ゆうかん》なる挙動とせざるべからず。すなわち彼富士見軒に催されたる国家学会講演会において、その所 見を発表し、金貨本位制の弱点を攻撃して、ほとんど完膚《かんぷ》なからしめたり。これをもって彼|直《ただ》ちに大蔵省参事官の職を剥《は》がれ、退 《しりぞ》いて専任大学教授たり。爾来《じらい》彼まったく望みを|官海《かんかい》に絶ち、独り後進の誘掖《ゆうえき》をもってその畢生の事業となせ り。彼のこときは真に学者らしき学者にして、その光風霽月《こうふうせいげつ》の落々たる襟度《きんど》、大いに欽仰《きんぎよう》すべきものあるを見ず んばあらず。
 かくの如くにして彼は、その経済学中もっとも貨幣論《かへいうん》は精《くわ》しきの評ありといえども、しかも彼が社会政策の研究に熱心なるも、また万 人|知悉《ちしつ》せる所の事実なり。彼の社会政策は彼自身は堅く自ら純然たる社会党のそれと異なる所ありと称すといえども、あるいは却てこれと類似物な らざるやの疑いなきにあらず。今日彼の中堅として活動しつつある社会政策学会は、もと彼の創立せし所のものにあらずして、中頃彼の加入せしものなるに過ぎ ずといえども、彼自身の素論の生産要件の国有を主張するは、すなわちその然《しか》る所以《ゆえん》を証明せずんばあらず。

(三)学者としての松崎蔵之介もまた得やすからざるの方なり。彼資性勤勉、その渉猟《しようりよう》の該博《がいはく》においては雲のごとき経済学者中| 未《いま》だ匹儔《ひつちゆう》を有せず。彼が大学に在るの時、商工局長|木内重四郎《きうちじゆうしろう》と彼とは同級生にして、その成績においては木 内常に彼の上にありといえども、早くより勤勉家をもって教師の好愛する所たりしは彼なりき。これをもって彼の欧州に遊ぶや、また独り戸を閉じて読書を事と し、やや当時|酔郷《すいきょう》に遊び、美人に戯《たわむ》れて、学事を忘却する所の同人とその流を異にしたりき。
 かくの如くにして彼は多読の人なり。彼の引証《いんしよう》ははなはだ該博《がいはく》なり、彼の研究ははなはだ広汎《こうはん》なり。しかれども彼の 説明は不|明瞭《めいりよう》なるを免れず。特に彼の術語はことごとく嶄新《ざんしん》にして、あるいは強《し》いて奇矯《ききよう》を衒《てら》うにあ らざるやの観なきにあらず。しかり彼の講義は材料極めて豊富なり。学生の聞いてもって新知識を得るもの、彼の講義の右に出るものなかるべし。しかれどもそ の根底において、理義はなはだ不明瞭なるものありとは、学生の一般に歎息《たんそく》する所なり。彼かつて東京専門学校において財政を講ず。講義半ばにし て彼学生に謂て曰く、
諸君恐らくは余の講義は了解し難《かた》かるべし、大学の学生すらこれを解するに困《くるし》むと称す、諸君の然《しか》るまた決して怪しむに足らざるなりと。彼のこの特質は、彼自らのすでに自覚し居るものなることもって見るべきなり。
 けだしその学説の哲学的にしてややもすれば晦渋《かいじゆう》の譏《そしり》を免れざるは、メンガー一流のいわゆるオーストリア学派なるものの特質な り。松崎はこの流を汲むもの、その説明の深遠なると同時に晦渋《かいじゆう》なる、もとよりその所のみ。かくの如くにして、松崎の得意とする所は、メン ガー一派と同じく価値論にして、特に限定効用の理論のごとき、頗《すこぶ》る深奥の研究を経たるものなるがごとし。就中彼《なかんずく》のもっとも得意と する所は財政学にして、近時欧米の嶄新《ざんしん》の学説ほとんど網羅《もうら》し尽して余蘊《ようん》なきがごとし。
 田島の学風に至りてはさらにこれと異なるものあり。彼の頭脳は非凡なりといえども、彼の性質のはなはだ間歇的《かんけつてき》なるがごとく、その勉学も またはなはだ間歇的なり。彼の書を読むや、わずかに一年中の三ヵ月間なり。しかもその読むや夜を徹して朝に至り、世事俗務《せじぞくむ》一切これを抛擲 《ほうてき》して顧《かえり》みず、而《しこう》して他の九ヵ月間は悠《ゆうゆう》々自適《じてき》、豪飲放歌の間に潦倒《ろうとう》して、また学事を顧 みざるの風あり。この故に彼の講義は決して材料の豊富をもって許すべからずといえども、彼の明敏なる頭脳|善《よ》く問題の要点を把持《はじ》して、これ を明確に弁明するの辺、まことに彼の独得の長所たり。けだし彼の著書における、講義における、常にこの得色を発揮しつつあるものにして、もし頭脳の明快敏 活《めいかいびんかつ》をもってせば、経済学者中彼の右に出るものなかるべし。これをもって彼もっとも実際問題の解決に長じ、京都大学の講壇時に彼の万丈 《ばんじよう》の気焔《きえん》を聞くことあり。一日彼講堂において、財政上の時事問題を論じ、盛んに日本政事家の無見識を罵倒《ばとう》す。講義終り て、彼のまさに闥《たつ》を排して出んとするや、一学生あり、手を机の下に入れて拍手|喝采《かつさい》す。彼急に立ち戻りて再び講壇に上る。学生|窘窮 《きんきゆう》、その叱責《しつせき》せられんことを恐れ、頭を低《たれ》る。彼|徐《おもむ》うに口を開いて曰く、諸君余は非常に喝采を好む、もし他日 余が気焔の佳境《かきよう》に入ることあらば、宜《よう》しく大いに拍手をもってこれを迎えられんことを乞うと。爾来《じらい》彼の教場においては、常に 拍手喝采《はくしゆかつさい》の声、雷のごときを聞くことありという。

(四)法科大学の試験はその苛酷《かこく》をもって大学中に鳴る。毎年試験ごとに善く進級の栄誉を担い得るもの、一級の中ようやくその半数に満たざるを常 とす。これその問題の困難なると、採点の苛酷なるがためにして、その弊害《へいがい》はドイツ仕立の教授に在りてもっともはなはだしとなす。英国|仕込 《じこみ》の博士和田垣謙三これを喜ばず、かつて従容学《しようよう》生に謂《いい》て曰く、近来試験に関する一の悪風潮流行し来れり、その風潮とは他な し、何事もなく平和に大道を歩む罪なき通行人の後より、抜《ぬ》き足《あし》、差《さ》し足《あし》、不意にその睾丸を攫《つか》み、小股《こまた》をす くうてこれを叩き付け、その喫驚敗亡《きつきようはいぼう》するを見て拍手|大悦《たいえつ》するがごときをいう。この種の行為を言い表わするの名詞は、 日本には勿論《もちろん》これあらず、英語にもなくフランス語にもなし。世界中これあるはただドイツの辞書のみ。ドイツ語にてはこれを「シャーデンフ ロー」と言う。「シャーデン」は脅迫なり、「フロi」は喜悦《きえつ》なり。他人を脅《おど》かして、その困状を見るを楽しむをいうなりと。吾人《こじ ん》和田垣の文学思想に富み、各国の語学に精通し、その地口駄洒落《じくちだじやれ》のごときまた和洋|折衷《せつちゆう》のものに富むこと、これを聞く こと久しうせりといえども、この一話のごとき、善くこれを彼の日常乱発して顧《かえり》みざる所の尋常一様の駄洒落《だじやれ》をもって目することを得べ きか。
 思うにこれ和田垣が事を一場の寓話に託して、満腔《まんこう》の不平を披瀝《ひれき》したるものにして、彼の人物と学風とは、この一話の中に躍如《やく じよ》たりとせざるべからず。けだし和田垣のごとき英国仕立ての学者は、かのドイツ風のそれと全く面目を異にし、いたずらに智識の注入、学術の教授をもっ て大学教育の目的となさず、常に人物の養成をもって、却てその主要の目的となせり。故にかの試験のごとき、彼の眼中ただ一場の児戯《じぎ》たるに過ぎずし て、従ってかのいたずらに試験をもって学生を困《くるし》むるがごときは、彼の憤慨して措かざる所なり。而《しこう》して彼自身の試験法なるもののいかに 無造作《むぞうさ》なるかを見ば、髣髴《ほうふつ》として彼の抱懐《ほうかい》の如何《いかん》を想像し得べきなり。彼かつて学生を試験し、その答案の末 尾に各発句《おのおのほつく》一つずつを附記せんことを命ず。
 一学生あり時を過ぎて後《おく》れ至り、その二時間の試験時間ほとんど二十分を余すの時に至り、倉皇《そうこう》として講堂に入る。しかもその教師の命 令が発句一つずつを附記せよと云うを利し、平生の風流用うべきは方《まさ》にこの時にありとなし、単に発句のみを記して答案に代う。幸いにしてその句、大 いに和田垣の意に適い、優に及第点を得たりという。
 かくの如きは和田垣が決して学問の教授をもってその講義の主要の目的となすにあらざるを証明して余りあるものなり。彼の教育の目的は人物の養成にあり。 これをもってその講義や決して単にその受持課目を教授するものにあらずして、直ちに和田垣そのものを教授しつつあるなり。故に彼はかの滔《とうとう》々た る俗儒《そくじゆ》のごとく、いたずらに先人の説を剽窃《ひようせつ》し、故人の糟粕《そうはく》を甞《な》めて、これを学生に教授するに甘んぜず、直ち に自家の感情と抱負と蘊蓄《うんちく》の全体を挙げて、これを講壇に披瀝《ひれき》し来るなり。これをもって彼詩をもって泣き、川柳《せんりゆう》をもっ て笑い、政治談をもって怒り、人物論をもって嘲りつつあり。学生もまたいたずらにギリシア、ローマの経済学史を聞くよりは、むしろ彼の趣味豊富なる余談を 聞くことを喜べり。何となれば、彼等は他の教師の講義において得べからざるある物を彼の講義に発見し、その乾燥無味なる法理論、財政談の講堂を出でて、彼 の興趣湧《きようしゆ》くがごとき講義に列するは、砂漠《さばく》に緑地を得しの心地すればなり。彼等はいかに多くの常識をこの講座において学ぶよ。彼等 はいかに多くの風流をこの講座において解するに至るよ。彼等は人間の元気のいかなるものなるかを、この講座において知り、いわゆる文士の洒脱恬淡《しやだ つてんたん》のいかに好愛すべきものなるかを、この講座において学びたり。
今や法科大学の学風、璞として職業磐らんとする時・独り博士稗慰钁→ありて・斡|然《ぜん》として時流に抗し、いわゆる英国流の人物養成をもって孤城を死 守す。法科大学卒業生中、その政治科の卒業生が割合に常識を有し、学問以外別に人間のいかなるものなるやを解し得たるは、偏《ひとえ》に彼の教育法の恩恵 なりと云わざるべからず。しかるに何事ぞ、彪然《ひようぜん》たる法科大学の設備中、この一介の磊落児《らいらくじ》を容《い》るる能わず、ついに彼を追 うて農科大学に入らしむ。彼等の没分暁《ぼつぶんぎよう》もここに至りてまた極れりというべし。

『東西両京の大学』について  東京帝国法科大学学生(投稿)
 読売記者貴下
 筆硯愈《ひつけんいよいよ》々御多祥奉《ごたしようよろこびた》 賀《てまつりそ》 候《うろう》。陳《のぶれ》ば東西両法科大学の記事については、日々豊富なる材料
と、犀利《さいり》なる観察とは、よく各教授の生平《せいへい》を評し得て、面白《おもしろ》く閲読罷在候《えつどくまかりありそうろう》。爾来我《じらいわが》法科大
学講堂内、読売を見ざるはなく、毎朝学生等相集り候毎《そうろうごと》に今日の論評は誰と待ちかねて話合い居《おり》候。しかるに御承知の通り今回京都法 科大学においては、その制度の根本的の改革を断行して、その最低年限はこれを縮めて三年となし、すでに文部大臣の認可も得て、過日の官報をもってその制度 規定発表せられ候処《そうろうところ》、右について四、五日前、三、四の新聞紙上わが東京法科大学は京都大学の今回の改定に対して、その年限の短縮は従来 よりの歴史もありて六《むつか》ケ敷《し》けれど、この際科目制度を採用して本年度より実行|云《しかじか》々と有之候《これありそうら》いし故《ゆ え》、定《さだ》めしこれは教授会議において京都法科大学と権衡上《けんこうじよう》、如此《かくのごと》く改定のことに決定|相成候《あいなりそうろ う》ものと各生想像|至居《いたしおり》、過日|戸水《とみず》教授見えられ候節《そうろうせつ》、一生問うにこの事の真偽|如何《いかん》をもって致候 処《いたしそうろうところ》、教授の答は次のごとくに御座候《ござそうろう》。科目制度云々のこと二、三の新聞紙に掲載《けいさい》しあるも、あれは嘘な り。度《たびたび》々教授会議においても現下の制度改革のことをば述ぶるなれど、如何《いかん》と画多数の教授等はこれに対して多大の注意を払わず、科目 制度云々に対しても多少話もなきにあらざるも、未《いま》だその半《なかば》まですら進捗《しんちよく》し居《お》らず、この分にては、まずまず当分その 改正を見ること能《あたわ》ざるべく、何とも東京法科大学の保守的なることには困じ入るなり云々に御座候《ござそうら》いき。
 元《もと》より東京法科大学の現行制度の如何《いかん》、又各教授等のこれに対する意嚮の如何《いかん》等は、かつて紙上において充分御評論に相成候 《あいなりそうら》いしこと故《ゆえ》、今更《いまさら》事新らしく改めて申上候《もうしあげそうろう》も無用のことと思考|候《そうら》えども、先日 来、科目試験制度採用云々のこと二、三新聞に相表われ居《お》り候《そうろう》こと故《ゆえ》、現下の処にてはこの事のまったく無稽《むけい》なることを 御知らせ申上置度《もうしあげおきたい》とぞんじ候《そうろう》まま、寸楮《すんちよ》相認め申候《もうしそうろう》(もっともこれ等のことも疾《とう》 に御聞及《おききおよ》びに相成居候哉《あいなりおりそうろうや》も難計候《はかりがたくそうろう》。されども本年各高等学校より進入すべき学生等が、 三、四新聞記事により全然科目制度に極《きわ》まりしならんと思惟《しい》いたし候《そうらい》て、東京法科大学へ来り候様《そうろうよう》にては、彼等 各自の将来に対しても大なる不得策なることを来すにあらざるなしとも計られず候故《そうろうゆえ》、これをも兼ねて御参考まで申上候《もうしあげそうろ う》)。
 かつて聞及《ききおよ》び候《そうろう》に、法科大学制度改定については、三、四年前文部省より両法科大学に諮問《しもん》せられたるものの由《よし》 にて、京都法科大学はその各教授等が熱心なる研究よりして、早くかの成案を得て認可申請の運びに立至《たちいた》り候ことと被存候《ぞんじられそうろ う》。三年制度良なるか四年制度良なるか、その優劣を論じ候《そうら》わば、各自その理由も有之候《これありそうら》わん。乍去我《さりながら》法科大学 の現行制度の不可なることは、一部の教授は兎《と》も角《かく》も、一般に認めてもって然《しか》りとなす処、いたずらに名を制度の研究に借りて、荏苒 《じんぜん》その成案を定めざるは、実に学校に対し、かつ学生に対して不親切の極みと云わざるべからず。歴史もあること云々はしばしば耳にする処に御座候 《ござそうろう》。されど歴史はそれほどまでも重《おも》んずべからざるか。世の進運に背馳《はいち》しても、その過去の歴史に遵由《じゆんゆう》せざる べからざるものなるべきか。過去は過去なり、殊にその制度の如何《いかん》等は世の進運の如何《いかん》に鑑《かんが》みて、改むべきは改め、守るべきは 守り、もってその良好なる効果を収得するに務めざるべからざるものと思惟《しい》いたし候《そうろう》。同じく大学令の下《もと》に行動する二大学が、一 方は優に三年にして卒業生を出し、一方はなお四年を要すと云う、何たる不|権衡《けんこう》のことに候哉《そうろうや》。学生の幸不幸は申《もう》すまで もなく引いて国家経済に対しても多大の影響を及ぼすべきことと被存候《ぞんじられそうろう》。
 昨年の法科大学試験に、某生穂積博士の行政法の試験時間割を午前なりしを間違いて午後に来り、大いに困じて事情を同教授に陳述せしに、同教授も事情を諒 察《りようさつ》せられ、殊に余の受持科目なれば別に試験をなしくれんとて試験せられ候処《そうろうところ》、このこと後に教授会議の議に上り、某教授は その試験規則を楯として、これをしも進級せしむれば他日に悪例を貽《のこ》すものなれば、仮令《たとい》及第点を取り居るとするも、進級せしむることを得 ずと論じ、その結果某生は、充分なる及第点数を得あるに拘《かかわ》らず、この事情のためむざむざ原級に止り、また同じことを繰返さざるべからざることと 相成候《ピあいなりそうろう》。某生の不注意はその原因たらしめしものなれば自らを怨《うら》むより外なかるべきことなるも、如此事由《かくのごときじゆ う》にかくまでも冷刻なる処分をせざるべから
ざるか。これまた実に現制度の不都合の一と思惟《しい》いたされ候《そうろう》。
 今朝和田垣博士の記事を読み、戸水博士の言を聞き、余りにその没分暁《ぽつぶんざよう》に慨し居候《おりそうろう》まま、|寸楮拝呈如此《すんちよはい ていかくのごとく》に御座候《ござそうろう》まま、貴下材料の一助たらしむることを得ば小生の幸甚《こうじん》これに過ぎず候《そうろう》。筆を擱《お》 くに当り益《ますます》々貴下の御健勝を祈上候《いのりあげそうろう》。草《そうそう》々不二《ふじ》
  五月十七日

(五)和田垣の講義が英国流の人物教育において、東京法科大学中に異彩《いさい》を放てるに対し、博士|田尻稲次郎《たじりいなじろう》の財政に関する講 義が、米国的の生気満《せいきまんまん》々たるにおいて、同大学の一名物たるは、けだし万人の認むる所なり。けだし田尻は学者たると共に行政官なり。学者 としての彼は、もっとも実際を解し変通を知れる所の活学者なり。行政官としての彼はもっとも理想に富み、画策に長ぜる所の経綸家《けいりんか》たり。この 活学者と経綸家との真面目《しんめんぼく》を、余蘊《ようん》なくその舌端《ぜつたん》に発揮し来るものは、彼の法科大学における講義なりとす。
 講壇に立てる田尻稲次郎の風采《ふうさい》は、一個眇たる区役所の腰弁《こしべん》のごとし。彼は十年以来かつて改めざる茶褐色の疎末《そまつ》なる背 広服を枯槁《ここう》せる瘠躯《せきく》に纏《まと》い、一個|尨大《ぽうだい》なる風呂敷包《ふろしきつつみ》と蝙蝠傘《こうもりがさ》とを小側《こわ き》に抱え、やがて長靴を踏み鳴らして壇上に登る。人誰かまたこれを現任会計検査院長法学博士田尻稲次郎をもって目する者あらんや。ただ彼がその蝙蝠傘を 後面黒板の下に立て掛け、風呂敷包を壇上に置き、「カーッ」と一嘉を床上に咯し・足をもって床板颪にツ」れを掛り佃け、その痰の附着せる靴の裏面を鮮|造 作《ぞうさ》に学生の方に押し向けて椅子に腰を下し、ここに突如として頭を上げるに至りて、学生初めて彼の炯妃たる眼光の蚤《はや》く満身の精気を吐いて 驀然《ばくぜん》人に逼《せま》るものあるを発見するに至るなり。その一度《ひとたび》口を開くに当りてや、満腔《まんこう》の蘊蓄《うんちく》と経綸 《けいりん》《めい》|との、
磐る薩弁と・雛ぎ憑とを移て・講壇の上に濯し来るを見る.その壕に入るに当りてや、彼の満身の才智と生気とを集めたる緩《ゆる》みなき顔面は、驚くべき変 化をもって活動を始め、その一双《いつそう》の眉は交々上下し、その爛《らんらん》々たる眼は幾度か廻転し、鼻は舞い、口は跳り、まさにこれ渾身《こんし ん》の生気ことごとく集めて眉宇《びう》の間にありというべきがごとし。
 彼の教授する所はいわゆる経済財政の各論にあり、題して銀行論、貨幣論、公債論という。而《しこう》して彼はこれ等の研究を啻《ただ》に書籍の上になし たるのみならず、また実にこれを実務の中に学習せり。彼は決して学術語の概念を説くに数時間を費し、いたずらに東西の学説を併列して博識を衒《てら》うの 迂《う》をなすものにあらず。まことにこれ単刀直入《たんとうちよくにゆう》、直ちに経済社会の活動、変化を叙述して、変幻《へんげん》ほとんど量るべか らざらしむるものあり。彼の講ずる所は静的経済学にあらずして、動的のそれなり。彼の養わんと欲する所は、いわゆる迂儒《うじゆ》死学《しがく》の徒にあ らずして、かの活学有用の人なり。而して彼の多年行政官として帝国財政の衝《しよう》に当りし閲歴《えつれき》は、彼をしてこの種の講義をなすにもっとも 適当の人物たらしめたり。
かくの如くにして、彼の講義は内外の実例をもって満ち、東西古今の経済事蹟|網羅《もうら》し尽してまた余蘊《ようん》なきなり。
 もしそれ彼の為政家として、包蔵する所の満腔《まんこう》の経綸《けいりん》に至りては、蘊蓄《うんちく》さらに量るべからざるものあり。従来彼が大蔵 次官として施設せし所の幾多《いくた》、金融財政上の画策は、まことに彼の抱負の一小部分たるに過ぎず。彼の理想のはなはだ雄大にして、その方策の破天荒 《はてんこう》なるものある、人はなはだ多くこれを知らずといえども、彼に近親なる一、二の有力者は、善く彼の胸臆《きようおく》を解して、まことに蓋世 《がいせい》の識となせり。彼未だ不幸にして、その経綸《けいりん》を実行し得るの地位に登らずといえども、他日吾人は読者と共に彼の手腕を驚嘆《きよう たん》するの時あるべきを疑わず。要するに彼の学識と抱負とは、その雄大なるの点において、まことにそのアメリカ的なるを見るべく、これを金井の井戸のご とく、松崎の沼のごとく、和田垣の田のごとく、田島の渓流のごとき学風に対しては、彼はまさに縹渺《ひようびよう》一碧《いつべき》、涯際《がいさい》を 知らざる大海のごとしと云うべきか。

(六)時はあたかも本年二月二十六日|小松宮《こまつのみや》殿下の御葬儀当日のことなりき。博士金井は大学教授としてその祭典に列せんと欲し、新調の勅 任官|大礼服《たいれいふく》を着し(昨年初めて彼は勅任教授となれり)、意気揚々綱曳《つなひ》きの腕車《わんしゃ》を飛ばして護国寺《ここくじ》に至 る。時刻|後《おく》れて気大いに焦《いら》だてる彼は、頻《しきり》に車夫を督して車を急がしむ。途たまたま小石川水道端《こいしかわすいどうばた》に 当り、水道の|嵌板《はめいた》所在に狼藉《ろうぜき》として凹凸一ならず。飛ぶがごとき腕車《わんしや》は上下左右に動転し、彼はついに跳ね飛ばされて 数間の外に投げ付けられたり。憐むべし彼の白毛|翩《へんぺん》々たりし礼帽は溝渠《こうきょ》の中に転落し、鏘《そうそう》々たりし佩剣《はいけん》は 石に当りて弓のごとく曲れり。就中《なかんずく》もっとも物の憐れを止《とど》めたるは彼の新調の大礼服にして、金光燦然《きんこうさんぜん》たりし従前 の面影《おもかげ》、今は全く見るべくもあらず。驚き|慌《あわ》てたる彼の車夫は倉皇《そうこう》走りて彼を扶《たす》け起し、忽《たちま》ち彼が左腕 を傷《きずつ》けまた立つ能《あた》わざるを発見せり。しかれども彼は今日の大礼この小事をもって決して欠席すべきにあらずとなし、帽を拾い剣を正し、渋 面を撤して辛く護国寺《ここくじ》に至り、幸いに赤十字社医員の救護を得、無事に祭典の参列を済して帰れりという。爾来《じらい》幾|閲月《えつげつ》今 日に至りても彼の創痍《そうい》未だ全く癒えず、彼の|繃帯《ほうたい》を撤せしは、わずかに一ヵ月前なりと。
 吾人《ごじん》のここにこの一話を掲《かか》ぐる、必ずしも一場の笑話としてにあらず。また実に彼がその盛名の隆々たるに似ず、車上より跳ね飛ばさるる 程はなはだ矮身小兵《わいしんこひよう》の男なるを示すがためなり。彼かくの如く矮身小兵なりといえども、またはなはだ利かぬ気の男なり、元気なる男な り。彼が負傷しつつなお御葬儀に列せしがごとき、これを示す。特に彼のもっとも元気旺盛《げんきおうせい》なりしは、彼の洋行帰朝際の頃なりき。この際彼 は気焔万丈《きえんぱんじよう》ほとんど当るべからざるの概あり。人よって称して「金井の壮士」という。彼がかつて大学教授会において、博士|土方寧《ひ じかたやすし》と組打をなしたるがごときは、実にこの際の出来事に属す。
 けだし金井はその大学に在るの時、実に空前の俊才にして、その卒業のごとき実に未だ二十歳前後なりき。故に彼は若くして洋行し、その帰朝のごときも、彼 より数年前の卒業生なる土方に比して早かりき。これをもって金井は常に土方の上位にありて、彼が駕御《がぎよ》せんと勉めしといえども、土方《ひじかた》 もまた金井を遇するに常に青二才《あおにさい》をもってし、教授会議において二人の論戦罵倒は頗《すこぶ》る盛んなるものなりき。而《しこう》してその得 意の饒舌《じようぜつ》をもって金井を苦しめしものは土方にして、そのべらんめえ的|熱罵《ねつば》をもって土方に肉薄《にくはく》したるものは金井な り。而して彼等の共に負けぬ気なる、ついに一場の格闘を生じ、老功博士|宮崎道三郎《みやざきみちさぶろう》をして仲裁《ちゆうさい》の労《ろう》を執 《と》らしむるに至りぬ。時に宮崎は仲裁《ちゆうさい》の言に曰く、喧嘩《けんか》を売る方も悪いが、買う方もまた悪いじゃないかと。売る方とは誰ぞ、饒 舌土《じようぜつ》方の義なり。買う方とは誰れぞ、疳癖《かんべき》金井の義なり。而して彼等は共に当年の腕白小僧《わんぱくこぞう》たりしなり。

 (七) 人と格闘を辞せざる金井は、その人となりはなはだ正直にして、またはなはだ利かぬ気なるを示す。彼はなはだ正直なり、故に今日大学教授中にもっ とも好愛せらる、彼はなはなだ利かぬ気なり。これをもって常に爵禄《しやくろく》に屈せざる侠児《きようじ》の風あり。彼の社会主義を皷吹《こすい》し、 労働者に深き同情を表するのごとき彼の侠児的性格の一面を示すものなり。これをもって彼の口吻《こうふん》はややべらんめえ的なり。彼が大学における講義 のごとき、やや咄《とつとつ》々として人に逼《せま》らんとするの概あ②・しかれどもその平生を難ば却て親切にして、大いに後進の灘において力を致すを辞 せざるの風あり。
 べらんめえ的、平民的にして爵禄に屈せざる彼は、もっとも貴族を好まず。彼は陸軍中将隷欠側轂野の鷯翻勢れりといえども、そは大久保が未だ陸軍大佐たり し時の事にして、畷甌陸軍中将たる大久保、彼を谷中《やなか》の邸に訪うことあるも、彼しばしば所用ありとの故をもって、面会を謝絶《しやぜつ》すること すらありという。その他彼が疎服《そふく》に甘んじ、古靴古洋服をもって日常多く人力車《じんりきしや》に乗らざるがごとき(先日の怪我《けが》の時は例 外なりき)、すべて彼が平民的なるを示すものなり。
 金井の侠客肌《きようかくはだ》と相対して、京都大学に異彩を放つものは、かの江戸っ子の田島錦治《たじまきんじ》とす。田島の勇《いさ》み肌《はだ》 はまた実に大学に在りて教えを金井に乞《こ》いしに出るといえども、抑《そもそ》もまた彼が純粋の江戸っ子たるに依《よ》らずんばあらず。博士田島はもと 本郷春木町|金物屋《かなものや》の子息なり。故に彼自ら称して「金錦」という。かつて餓鬼大将《がきだいしよう》をもって湯島天神《ゆしまてんじん》の 祭礼に喧嘩《けんか》の采配《さいはい》を振う。もっとも敵手の向う臑《ずね》を払うて、素早《すばや》く姿を隠すに妙あり。宜《むべ》なるかな、今日に おいても彼|徹頭徹尾餓鬼大将《てつとうてつぴがきだいしよう》の面目《めんもく》を存し、悪戯小僧《いたずらこぞう》の綽名《あだな》を有せることや。
 彼ドイツ在学の日一夜ベルリンの市街を散歩す。一双の美人あり、窈窕《ようちよう》として彼の傍《かたわ》らを過ぎる。相顧みて談《かた》りて曰く、 「クライネ シワルツ」の来るを見よと。けだしドイツ語「クライネ シワルツ」とは「小さき黒きもの」の義にして、フランス語にいわゆる「プチ ジャポ ネー」と同じく、むしろ日本人に対する好愛的通称なり。その容貌の小さくして黒き彼は、特別に自己に対する軽侮《けいぶ》の言となし、突如《とつじよ》携 うる所のステッキを挙げて、健《したたか》にその美人を擲《なぐ》り飛ばしぬ。かくの如き暴行に逢うが初めてなる美人は、驚愕措《きようがく》く所を知ら ず、大声を発して救いを呼びぬ。あたかもよし一人の警官そこを通行して、田島の暴行を目撃し、「創傷に至らざる殴打罪の現行犯」として、ベルリン警察署は 彼を五マークの科料に処しぬ。利かぬ気の田島|如何《いかん》ぞこれに屈服せんや。是非に裁判所に訴えて、正式裁判を仰がんと主張せしが、辛く同人の諌止 《かんし》する所となり、事ようやくその侭《まま》に落着を見たりという。
 読者はまた実にこの一話をもって、かの金井の大礼服事件におけると同じく、略《ほぼ》田島がいかなる風采の人物なるかを知ることを得たりしなるべし。彼 は真に短身小兵《たんしんこひよう》の男にして、その面色やまたはなはだ黎黒《れいこく》なり。彼はかくの如く躯幹矮小《くかんわいしよう》なりといえど も、その勇肌《いさみはだ》、利かぬ気なることまた金井とはなはだ相似たり。而《しこう》してその顔色の黒きに似ず、その心事のはなはだ潔白にして、光風 霽月《こうふうせいげつ》の恬淡《てんたん》むしろ愛すべきものあるは、けだしまた彼が江戸っ子たるの結果にもとつかずんばあらず。

(八) 江戸っ子のばりばりにして、花川戸《はなかわど》の兄哥《あにい》の面目を伝えたる田島錦治《たじまきんじ》は、学問を売らずして男を売る。彼の 直情径行《ちよくじようけいこう》にして弱者を憫《あわれ》み、強者を挫《くじ》かんとする任侠的性《にんきようてき》格は宛然たるこれ助六《すけろく》 一流の面影《おもかげ》を写せり。
 数年前の事なり、ある日一輛の馬車ベルリンの日本公使館に外国語を解せざる一日本人を送り来りぬ。公使館員その姓名を問うて講談師《こうだんし》某なる 事を知り得たり。彼|頻《しき》りに叩頭百拝《こうとうひやくはい》してその来歴《らいれき》を談《かた》る曰く、日清の役|軍夫《ぐんぷ》として従軍 し、朝鮮北清の野を跋渉《ばつしよう》し、役果てシベリアに行き、若干金《じやつかん》を蓄え得たり。因《よつ》てこれを資に供し、ついに汽船に乗じてハ ンブルクに来りしも、如何《いかん》せん一言も外国語を解する能わず、加うるに資ようやく乏しからんとするの際、進退ほとんど谷《きわ》まるの情況に瀕 《ひん》せり。よって公使館の保護を乞《こ》わんために来れりと。ベルリン公使館貝頭を集めて評議し、またしても厄介者《やつかいもの》の到来を弔して頻 《しき》りにその処分を論じぬ。時に田島所用をもって公使館にあり、議を挟んで曰く、僕願わくはその保護の任に当らんと。よって書を裁して講談師を自己の 下宿屋に送れり。その夜岡松、高根の両人市街を散歩し、田島の書斎灯火の漏るるを見、例により案内をも乞わずしてその室を訪う。ただ見る四十歳前後の見馴 《みな》れぬ男、身に黄八丈《きはちじよう》の衣を纏《まと》い、角帯を締めて、頻《しき》りに叩頭《こうとう》しつつあり。岡松ら大いに驚き、言語を交 えずして去らんとす。時に「旦那《だんな》、旦那、ちょいと、ちょいと」とは、その男の高根を呼び返したる詞《ことば》なり。ドイツ留学以降数年来|未 《いま》だ「旦那」という尊称《そんしよう》を耳にせざる高根は、不思議の感に打たれ、顧《かえり》みてその言う所を聞けり。曰く、「何と云う旦那か知れ ませんが、小さな色の黒い旦那が、私に帰るまで家で待って居うと、おっしゃるので、唯今《ただいま》御夕飯を戴《いただ》きやして一服《いつぶく》やった 所でして、へい」と。高根等相顧みて目笑《もくしよう》し、大概《おおむね》田島の義侠《ぎきよう》を察し、慰諭《いゆ》の言を残して帰りぬ。爾来《じら い》この講談師そのベルリンに在るの間、常に田島の家に留まり、各所日本人の宴会に招かれて金を作り、ついにロンドン公使館の手を経て、無事帰朝し得たり という。これ田島が任侠的美談《にんきようてきびだん》の一なり。
 彼またかつて列車を待って大阪|天王寺《てんのうじ》の停車場にあり。一老婆あり、腰を低うして駅夫に奈良行列車の発車時間を問う。駅夫|傲然《ごうぜ ん》として答えず、却て老婆を叱す。田島これを見て大いに怒り、直《ただ》ちに駅夫を捕えてその不親切を逓信大臣に告発すべしと威嚇《いかく》す。駅夫大 いに恐れ、懇切《こんせつ》に老婆に教ゆる所ありしという。その他彼が中等列車に傲慢《こうまん》なる紳士の、多くの場所を占領するものを見る時は、必ず 来て、「そこ除《ど》け」と叱咤《しつた》し、聞かざれば次《つ》ぐに鉄拳《てっけん》をもってすることすらありという。彼の任侠|大概《おおむね》かく の如し。

(九) 田島の餓鬼大将的《がきだいしようてき》、腕白小僧的面目《わんぱくこぞうてきめんもく》は、奇人に富める今の京都大学中においてももっとも異彩 を放てる所なり。かつてベルリンに在るの日、一夜同人相会して大いに飲み、その会場を出でて帰途に上りし頃は、大概皆|蹣跚蹌踉《まんさんそうろう》とし て赤垣源蔵宜《あかがきげんぞうよう》しくなりき。例の元気者の田島錦治、興に乗じて大音|鞭声粛《ぺんせいしゆくしゆ》々を吟《く》ず。濁声破鐘《だく せいはしよう》のごとく暗《やみ》を破りてベルリンの市街を震わし、またしても警官の手を煩《わずらわ》すに至らんとす。常に田島の監督官をもって目《も く》せられし高根義人後《たかねよしとおく》れ来り、突如《とつじよ》手を挙げて田島の頭を打ち、そ知らぬ顔して行き過ぎること十歩なりき。不意を打たれ たる田島は「オヤ」と一声歩みを止めたりしも、その加害者の高根なるを見て、また放歌を続けたりしが、しばらくにして彼独語して曰く、「そうだそうだ男と いうものは頭を打たれて黙って居るんじゃなかったっけ」と、疾走《しつそう》高根を追い、突如ステッキを挙げて、健《したた》かに彼の肩先きを打ちぬ。衆 これを見て窃《ひそ》かに高根のために一場の格闘を生ぜんことを危む。高根|徐《おもむ》うに田島を顧《かえり》みて曰く、「ふむ、なかなか貴様《きさ ま》も談《はな》せる、さあ僕と一所《いっしょ》に小便をやろう」と相並んで放尿す。
 かくの如き腕白小僧をもってして、その常に気焔家をもって聞こえたるも、決して偶然にあらざるなり。彼教場において、時々拍手喝采《はくしゆかつさい》 を聞くことあるは、吾人の前《さ》きに談《かた》りたる所にして、彼が路傍《ろぽう》演説をなし、私設鉄道の不取締を慨して、汽車中その満室の乗客に向っ て、その持論たる鉄道国有論を演説せしがごときは有名なる事実なり。殊に大隈《おおくま》伯が京都に来遊せられたる時のごとき、彼京都新聞にて「大隈伯を 歓迎し、併《あわ》せて伯の財政意見を糺《ただ》す」という一文を掲《かか》げたり。その日大隈、総長|木下広次《きのしたひろじ》に会して、「京都大学 には、えらい元気な教師が居りますね」と云いしという。その日田島、大隈の歓迎会に出席し、伯もし演説せば、これを罵倒《ばとう》し呉《く》れんと待ち構 えしも、幸か不幸かその日、伯の演説なかりしをもって、ついに活劇を見ずして止《や》みたりという。
 事は実に本年四月上旬のことなりき。時あたかも梅謙次郎《うめけんじろう》その他の東京大学教授、博覧会見物のために京都に来遊せるを機とし、平野屋に おいて京都学士会を開く。その宴会に移るに先《さきだ》って、席上数番の演説あり。最後に京都府選出の代議士奥野市次郎立ちて、大いに気焔《きえん》を吐 く。駄弁|滔《とうとう》々として尽《つき》る所を知らず、会衆大いに倦《う》みて窃《ひそ》かに呟《つぶや》くものあり。直情径行《ちよくじようけいこ う》なる田島座の一隅《いちぐう》にあり、奥野演説中立ちて対抗演説を始む。曰く吾輩は決して、演説を聞きに来たりしにあらず、酒を飲みに来たりしなり、 曰く何、曰く何と。常に奥野の=言一句を攻撃してやまず。奥野閉口し、ついに演説を中止するに至りしという。これ実に満場を代表するの声なりといえども、 腕白小僧田島錦治にして独りなし得べきのことなり。
 彼はかくの如く直情径行にして、挙止やや疎暴《そぼう》に走るの嫌《きらい》なきにあらずといえども、彼の生命なる感情は、またはなはだ繊細優婉《せん さいゆうえん》なるものあり。その学生たりし時、彼一日和田垣謙三を訪い、写真帖を繰りて一葉の写真を見、熟視《じゆくし》多時|次《つ》ぐに流涕《りゆ うてい》をもってす。和田垣その故
を問う。答えて曰く、「これ吾が小学校に在りし時教師にして、今は故人となりし某先生なり。先生人となり、卓落雄偉《たくらくゆうい》決して小学校教師の 器《うつわ》にあらず。先生|善《よ》く人を見るの明あり、僕が今日あるを致せしものことごとく先生の指導に出ず。これ僕が往時を追懐《ついかい》して流 涕《りゆうてい》を禁ずる能《あた》わざる所以《ゆえん》なり」と。思うに彼の真面目《しんめんぼく》は、この一事をもって断じ得べきもののごとし。田島 は実に感情の人なり、彼の美点もここにあり。彼の欠点もまた実にここにあり。要するに彼は徹頭徹尾江戸っ子にして、彼の行動のすべては、この四字をもって 尽すことを得べきなり。

(十) 洒落風流《しやれふうりゆう》の和田垣謙三、最も駄洒落《だじやれ》に長ず。かつて新英和辞典なるものを著わし、英文をもって序文を作る。劈頭《へきとう》記して曰く、

と。解けば、余は長き顔を好まざるごとく、長き序文を好まず、というの義なり。思うに彼の大礼服事件が金井の短身小兵《たんしんこひよう》を証明し、「ク ライネ シワルツ」の一事が田島の矮小黎黒《わいしようれいこく》の男なるを立証するがごとく、またこの一話は善く彼和田垣の風貌|如何《いかん》を偲 《しの》ばしめずんばあらず。まことに和田垣はその自ら長顔を好まずというがごとく、豊頬円《ほうきよう》顔の男子なり。しかもその布袋《ほてい》然たる 肥満せる体軅を擁《よう》して講壇に上るや、滑稽詼謔口《こつけいかいぎやく》を突いて出で、文学美術上の評談|縷《るる》々として尽きざるものあらんと す。
 けだし和田垣は天禀《てんびん》の文学者なり。彼は一科専門の学者たるべく余りに多くの趣味を有す。彼は学術そのものに直《ただ》ちに趣味を感じ、これ を味い楽しむにおいてほとんど他に匹儔《ひつちゆう》の求むべきなし。故にもし彼が学問の研究をなすとならば、そはこれ快楽を取るがためにして、必ずしも その研究の結果をもって学界に貢献《こうけん》せんがためにあらず。また新学理を発見して天下を驚動《きようどう》せんがためにもあらず。彼は純然たる学 問|道楽《どうらく》の学者なり。すでに道楽なり。何ぞその乾燥なる事実の穿索《せんさく》、無味なる枝葉《しよう》の議論を云《うんぬん》々することを 好まんや。これをもって彼の学問は、ただ快楽を享《う》け得るの程度に止《とどま》り、それ以上に及《およ》ばざるなり。これ彼の学問の浅薄《せんばく》 なりとの譏《そしり》を免れざる所以《ゆえん》なり。
 彼すでに文学者なり。ただ眼中楽しむべきもの、快きものを求めてその他を知らず。これをもって名を求め、利を計るがごときは決して彼の欲する所にあら ず。これ彼の洒脱恬淡《しやだつてんたん》また一点の俗臭《ぞくしゆう》なき所以《ゆえん》なり。しかれども彼の欠点もまた実にここに存し、ただ快感を求 むるのみ急にして、ややもすれば責任を忘れ、義務を軽んじ飄逸《ひよういつ》ほとんど御《ぎよ》すべからざらんとす。けだしまた已《や》むを得ざるに出 ず。彼が借金博士をもって名あるがごとき即ちその一証なり。
 金井延《かないえん》かつて経済研究会において述べて曰く、人間は借金を払う動《 ヘノ》物なり、これギリシア哲学者の金言《きんげん》にして千古動か すべからざる真理なりと。和田垣これを駁して曰く、人間は借金を払う動物にあらず、借金の利子を払う動物なり、吾輩これを実験すと。満場唖然たり。彼かつ て経済上の生産的労力、不生産的労力の区別を講じ、ついに役者の声色《こわいろ》の生産的なるや不生産的なるやに論及《うんきゆう》し、試みにその実例を 示さんとて、自ら菊五郎《きくごろう》の弁天小僧《べんてんこぞう》に擬して、大いに声色を使う。一学生あり、後方より呼んで「イヨi音羽屋《おとわ や》」という。彼ますます得意の顔色を呈し、鼻を蠢《うご》めかして、ほとんど一時間を声色使いに費《ついや》せしという。彼また近頃大いに謡曲《ようき よく》に熱中し、教場で自慢談に移り、その興に乗ずるや、自ら講壇の卓上に蟠踞《ばんきよ》して、首を振り、頭を動かし船弁慶《ふなべんけい》の一曲を謡 い終ることすらありという。彼の飄逸御《ひよういつ》すべからざる、大概《おおむね》かくの如し。

(十一) 博士和田垣の文学上の天才は、早くよりその特色を発揮したるもののごとし。彼はもと文科大学の出にして、明治十三年同大学第一回の卒業生たり。 彼の同級生中には、井上哲次郎《いのうえてつじろう》、千頭清臣《ちかみきよおみ》、岡倉覚三《おかくらかくぞう》らあり。当時井上哲次郎はその漢学の素 養《そよう》において、遥かに彼を抜きしが故に、和田垣は常に井上に字句を教えられしといえども、その成りたる文章に至りては、和田垣遥かに井上に優《ま さ》れり。これをもって中村敬宇《なかむらけいう》常に和田垣の文才を驚嘆し、擬するに「好箇《こうこ》の新聞記者」をもってせしという。而《しこう》し てその卒業成績に至りても、また和田垣首席にして、井上これに次ぎ、卒業後三ヵ月にして和田垣は直ちに洋行を命ぜられたり。もって彼がいかに当年の秀才た りしかを知るべし。
 かくの如き文学上の天才をもってして、彼が外国語に長ずる偶然にあらず。明治二十七年仏国の女優テーオー、我国に来遊せし時、団十郎《だんじゆうろう》 と共に歌舞伎座《かぶきざ》において合併興行をなさしむるの議あり。福地桜痴《ふくちおうち》、ために脚本を作り、題して『互《たが》いの疑惑』という。 けだし日本の老紳士(団十郎これに扮《ふん》す)と、西洋の婦人(テーオーこれに扮す)と、互いに言語通ぜざるため、嫁許《いいなずけ》の関係なるにかか わらず、互いに疑惑を抱き、嫉妬《しつと》を起すと云う筋合なり。その合併興行たるをもってこれを外国文に訳するの要あるがために、長田秋濤《おさだしゆ うとう》その仏文を担任し、和田垣謙三その英文|翻訳《ほんやく》を担当せり。ここにおいて彼等二文士は筆を載せて日光に至り、山上蚊軍の襲来《しゆうら い》なきに乗じ、衣を脱して赤裸《あかはだか》となり、赤茄子《あかなす》を囓《かじ》り、蕎麦《そば》を啜《すす》りつつ(彼等の軍資ようやく尽きた り)、卓に拠《よ》りて筆を呵《か》しぬ。相約して曰く、仏文早きか英文|疾《と》きかと、彼等はここに宇治川《うじがわ》の先陣《せんじん》を争いしな り。その成《な》るに及んで、長田《おさだ》の脱稿《だつこう》は実に和田垣に先《さきだ》つこと三十分なりき。しかれどもその稿を験するに及んで、和田 垣は末文の都々逸《どどいつ》を訳するに、ことごとく韻を踏めりという。ここにおいて長田またついに和田垣と文才を争わず、今日なお兄事《けいじ》しつつ ありという。かの和田垣の通ずるもの決して英文のみにあらず、そのドイツ文における、また決して尋常《じんじよう》のドイツ語学者の上にあり。かつてドイ ツ語をもって謡曲《ようきよく》を翻訳し、課業を廃してこれを教場に朗読し、学生をしてこれを批判せしむ。学生|呆然《ぼうぜん》として五里霧中《ごりむ ちゆう》に彷徨《ほうこう》し、口を開いてこれを批判するものまた一人もあるなし。彼またかつて雑誌「文藝界」のために『深草元政《ふかくさげんせい》の 壁書』なるものを英訳す。構思惨憺《こうしさんたん》、措辞精練《そじせいれん》、かつ書きかつ改めその車上なると、酒間なるとを問わず、かつて推敲《す いこう》を絶たざりしという。その成《な》るに及び、またこれを大学の講堂に朗読し、鼻を蠢《うごめ》かして曰く、「どーです諸君、瓦《かわら》を玉とな す技倆《ぎりょう》は諸君に分ったかね。今頃元政坊は草葉《くさば》の蔭《かげ》で喜んで居るでしょうよ」と。
 かくの如きはまことに彼が文才の一端《いつたん》を示すに過ぎざるなり。もしそれ彼の文学上の素養《そよう》の尋常ならざるの一事に至りては、大概《お おむね》下の事実をもってその一端を覗《うかが》うことを得べきなり。我が読売新聞第一回|懸賞俳《けんしよう》句募集において、その第一等賞の月桂冠 《げつけいかん》を得たるは、「先達《せんだつ》は雲に入りけり滝の音」という一句なりしなり。当時和田垣謙三、大学の教場において学生に談《かたり》て 曰く、「先達《せんだつ》は雲に入りけり花の山」、これ古人の名句として人口に膾炙《かいしや》する所、これを知らずして、公然|白昼懸《はくちゆう》賞 金を窃取《せつしゆ》するに任《ま》かせしかの選者の愚や憫《あわれ》むべく、東洋|唯一《ゆいいつ》の文学新聞を標榜《ひようぽう》して、かくの如き選 者を頼みし、読売の面目|将《は》た何処《いずこ》にありやと、意気軒昂《いきけんこう》たり。

(十二) 白眼《はくがん》天下を睥睨《へいげい》し、行動常に人の意表《いひよう》に出でて、飄逸《ひよういつ》ほとんど止《とどま》る所を知らざる和 田垣謙三、自ら東洋のバイロンをもって任ぜる長田秋濤《おさだしゆうとう》と友とし善し。かつて相共に觴詠酬酢《しようえいしゆうさく》の楽しみを肆《ほ しいまま》にし、到る所|奇行《きこう》を演ず。その相|携《たずさ》えて横浜に至るや、長田その知人なる元町《もとまち》の医師|繁田《しげた》なるも のを訪う。時に両人|酔眼《すいがん》すでに朦朧《もうろう》たり。その標札《ひようさつ》の如何《いかん》を験するに遑《いとま》あらず、門前和田垣を 待たしめて長田独り入り、その懇親《こんしん》なるに乗じ、玄関より案内をも請《こ》わずして客室に至る。すでにして長田その室内の装飾のはなはだ従前と 異なるものあるを発見し、初めてその転居したるに気付き、倉皇《そうこう》として室外に逃《のが》れ、驀然《ばくぜん》門を出でて走る。家人大いに驚き、 もって盗の闖入《ちんにゆう》となし、疾走《しつそう》これを追跡す。門前一個|肥大漢《ひだいかん》の彷徨狼狽《ほうこうろうばい》するを見、乃《すな わ》ちこれを捕う。軽敏《けいびん》なる長田はこの時逃れ、すでに数十間の外にあり。遥かに顧《かえり》みてその和田垣が、「僕の朋友が云々」と弁疏《べ んそ》しつつあるを見、心中の可笑《おか》しさを忍んで姿を隠せり。すでにして和田垣の帰来するを待ち、その情を問いしに、彼ほとんど窃盗《せつとう》の 従犯として警官の手に引渡されんとせりといえり。
 その彼等が『亼/div>

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