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森鴎外「潦休録」


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|潦休録《れうきうろく》
 |罷《まか》り出でたるは小倉の田舎ものだ。|扨《さて》何か言はうとはおもふが、小倉に二箇所ある劇場はまだ一度も覗いて見たことがない。そこで止むことを得ず、少し西洋の話をする。田舎ものが西洋の話をするとは|可笑《をかし》い、都の事も知るまいにといふか知らぬが、それが田舎ものゝ無遠慮なところだから是非がない。読みたくない人は、この辺二三枚飛ばしてしまふが好い。そこで、読者よ、人の好い、読んで呉る読者よ。昨年の暮このかた、ことしは二十世紀だとか、いや二十世紀の前の年だとか、いろ/\議論があつたが、勿論|算盤《そろばん》の上からは、来年でなくては二十世紀と云はれない。然るに| 独逸帝《ドイツ》の|詔《みことのり》に二十世紀だと云つてあるので、新聞などでやかましく批評したものもある。それは独逸人が常に、我等は|一八何何《いちはちなに/\》と書くではないかといふ|詞《ことば》を、我等は十九世紀に居るではないかといふ意味に使つて居た通に、ことしは一九|零零《れい/\》と書くといふところから、転じて又我等は二十世紀の初に居るともいふやうになつた事と見える。併し百年づゝを|一紀《いつき》として勘定する上からは、一年位は殆ど|何《ど》うでも好くなるだらう。譬へば幾何学の本を開けて見ると、これが線だと云つて筋が引いてあるが、その筋だつて実は黒い面で、線でも何でもない。丁度此筋のやうに、世紀と世紀との間の年の幅を見のがして、その面を線として見ても事は済むだらう。いかにも理窟から言へばことしはまだ十九世紀の終の年に違ない。併し気の早い|仏朗西《フランス》人は余
程早くからフアン、ド、シエエクルといふことを称へた為めに、この世紀の終といふ|詞《ことば》が、あの国では最う黴が生えてしまつた。読者よ。兎も角も我等は十九世紀の終で二十世紀の初といふ限界線の上に立って居る。
今日の壮年以上の人の|閲《けみ》し来つた歴史は、十九世紀後半の歴史だ。この間世界の藝術はどうであつたか。これは大い問題で、これに答へるには大い著述をせねばならぬであらう。またそんな著述に手を着けて居る大家先生が西洋には|幾人《いくたり》もあるだらう。併し世界の中の小い日本の中の小い小倉町の|蝸廬《くわろ》の中なる一書生が、これに|一口評《ひとくちひやう》を試たら、どうであらうか。それは好からう、といふ読者は先づ有るまい。万一有つたら、その人の写真を貰つて、諷刺の擬人とでも題して世に|公《おほやけ》にする|直打《ねうち》があるだらう。併し読者よ、これから先を読む、物好な読者よ。己は十九世紀の後半は藝術破壊の時代であつたとおもふ。何故といふに、彫刻絵画は十五六世紀に形式が出来た。詩は|縦令《たとひ》十二三世紀の間に一のダンテが居たとしても、大体から言へば十六七八世紀に形式が出来た。その他の諸藝術も似たり寄つたりだ。かやうに隆盛の時があつた後には、幾度か|末流《ばつりう》が出て小波瀾を起しても、そのしくじりは踏襲のしくじりで、そのてがらは摸擬のてがらだ。そこで英雄豪傑の士は|技癢《ぎいやう》に堪へない。どうかして前人の形式を破壊して見たいといふ願はこゝに生ずる。己は十九世紀後半の藝術の歴史は此破壊者の歴史だとおもふのだ。読者よ。この破壊といふことを解するには、かの|建立《こんりふ》のありさまを知つて居ねばならない。己は人々から、きさまは時代に遅れて居ると忠告せられると共に、同じ人々から社会は進んで居ると教へられて居る。
今十五六世紀の彫刻絵画といつたら、それはミケランジエロやラフアエロの事だらう、それ位の事を知らぬものはないといはれるだらう。十六世紀にシエエクスピイヤが居た、十七世紀にカルデロンが居た、十八世紀の末から十九世紀の初にかけてギヨオテが居たといふことも同様だ。成程そんな片仮名を|排《なら》べた点鬼簿はどの|星貨舗《ほしみせ》にも積み|畳《かさ》ねてあるだらう。併し|例之《たとへ》ばミケランジエロといふ名は、現社会の人にどんな映象を喚び起さするやうになつて居るか。近頃己に時代おくれの忠告をした投書の載せられて居た新聞は、当今最も文学美術の思想に富んで居るものゝ一つであるが、その一記者は優しい好い女を形容して、ミケランジエロの作をも|欺《あざ》むくと云つて居る。大抵美人の形容なら、古いところでプラクシテレエスの作とか、新しいところでカノワの作とかいふのが当前だが、若し是非とも再興期の人で大手腕のあるものが引きたいなら、レオナルドオの画のやうだとでも云つた方が、その女が円顔なる限は、多少色気もあつて相当だらう。ミケランジエロの作には、彫刻にも絵画にも、聖母どもより外に女で目立つものはない。そしてその聖母の彫像には|厳《いかめし》いところや落付いたところはあらうが、優しいなまめいゐところなどは微塵あるまい。又絵画の聖母も或る現在の批評家が力持の女房だと云つて居る位ではないか。これでは己にはミケランジエロといふ名が解せられて居るとはおもはれない。又例之ぱ或る新進作家といはれる人が、遠目に女の姿を視ても気を失ひさうな、極端なプラトオン主義の作を出して居て、自らハイネを愛読すると称して居ると、批評家はそれを取り上げて、あれはハイネに私淑して居ることが其作中に見えると云つて居る。いかにもハイネの詩抄には、わざと|少《わか》いものに読ませるために、罪のない、無邪気な作ばつかり|撰《え》り抜いた小冊子もあるさうだが、彼の野合のマチルドと|巴里《バリイ》に客死したハイネの全集を見たらどうだ。浮気な、気の多い、人の悪い根調が全体に亘つて、プラトオン主義と反対の熱い色情が、我等の地球の中心の火の如く、その底に潜んで居るではないか、これではハイネの名も、解せられて居るとはいはれない。己が形式の破壊といふことを話しかけて、その形式といふものがどれ丈の人の腹にはいつて居るかを疑ふのも、これでは無理はあるまい。田舎ものゝ話を笑はうにも、これではその可笑みが充分知れまいかとさへ云ひたくなる。読者よ。己の十九世紀の後半の藝術家は形式を破壊しやうとしたものだといふのは、どういう意味であらうか。先づ近世余り盛でない彫刻は|姑《しばら》く置くとして、絵画には|英吉利《イギリス》のラフアエロ前派のやうなものがある。この派はさして重きを置く程のものではないが、久しく我国の学者先生がたの藝術上思想も支配して居たラスキン、このあひだ死んだラスキンが此派の|提灯《ちやうちん》を持つた人だからこゝに引出すのだ。
此派がラフアエロ前派と|名告《なの》つたのは何故かといふに、絵画の形式がラフアエロに至つて備はつて、代々の画家がその…轍を踏んで居るから、いつそおれ等はラフアエロより前に立戻つて新規蒔直しとしやうといふ趣意であつた。これはラフアエロとその同世者とラフアエロ以後の作家とを丸で無いものにするといふ訳で、破壊の最も極端なるものであつた。それから仏蘭西から起つた外光派となると、彼ラフアエロ前派の竜頭蛇尾となつたとは違つて、次第に勢力が盛になつて、つひく日本の洋画さへその旋渦中に捲き込まれてしまつた。この派の得失は、後に猶説明せねばならぬが、一体外光といふことがどうして出て来たかといふに、これまでの形式が室内光線の射照を使つて居るのを見て、それを破壊しやうとしたのだ。その上画に布置局勢を貴むのは、|素《も》と自然の発展であるのに、この派がわざと局勢を無いものにしやうとして居る事は、掩ふぺからざる事実であらう。之も破壊に外ならぬのだ。その外色の配合にも従来理学上充分の理由を具て居る法則があるのに、今の西洋の画家はわざと夫を破壊して、日本主義などといふ名を唱へて居る。之は日本の画にそんな法則が無いのを師とするといふ|積《つもり》と見える。これから詩の領分にはいるが、舒情詩は今は詩人が作つて詩人が評して詩人が読んで居る、即ち供給者と需要者とが一つになつて|居《ゐる》と、ベエルワルドとか云人が吹聴して居る位だから、一口評には|退《のけ》て置ても好らう。
叙事詩は過去の詩体だといふ説も久しいものだから、これも退て置て好らう。そこで戯曲と小説とが残るが、小説は詩の|継子《まゝこ》の我儘育で、形式沙汰は無用として、話はすぐに戯曲にはいる。さて戯曲の形式といふものは、昔からやかましいものであつて、グスタアフ、フライタハの戯曲の技巧と云本などを見れば、熱病患者の体温表のやうな|線《すぢ》が引張つて、序幕から大詰までの|行道《ゆきみち》が極めてある。それは自然にさうありさうな事だ。芝居の中ではいつれ人間が何か|為《し》て居る。これが即ち筋だ。その為て居ることは、役者が坐つて|饒舌《しやべ》つてばかりは居られぬから、どうせ動いて見せるやうな筋でなくてはならない。これが即ち行為だ。行為といへば、どうせ人と人との間の出来事で、その出来事には初もあれば終もある。|縺《もつれ》たものは|解《ほど》けねばならない。フライタハが上つたり下つたりする|線《すぢ》を引いて見せるのも無理はないのだ。そこで此形式を破壊するのは、随分骨が折れるに違ない。トルストイが闇の威力で、今まで英雄とか烈女とか大盗とか毒婦とかの事を仕組んだかはりに、無智で敗徳で何の変つたこともない|魯西亜《ロシヤ》の百姓の事を仕組だのも、イプセンが徳義上の破壊主義を擬人して、今まで|所謂《いはゆる》傾向を避けて居た詩論にかまはずにいろくな心理上の問題を解釈しやうと試みたのも、まだ形式の破壊としては際立つたものとはいはれぬやうであつた。そこヘゲルハルト、ハウプトマンが出て来た。あれの作つたハンネレエの昇天を見るが好い。気が狂うて池に身を投げた田舎の鍛冶やの娘が小学校の教師に助けられて、貧院の|臥床《ねどこ》の上に寝かされてから、医者が来て息の切れたのを確めるまで、その娘の心の裡に往来する妄想ばかりで一つの芝居になつて居る。これは作者が、これでもまだ劇詩には行為がいるといふかと見せ付けたものに違ない。又同じ人の織屋を見るが好い。工場主に虐待せられて居る寒村の職人が飢渇に|困《くるし》むところを、丁度幾枚かの写真を見るやうに、写して並べたものだ。これは作者が、これでも戯曲には結ぼれたり|解《ほど》けたりする筋道がいるといふかと見せ付けたものに違ない。成程かうなれば、詩の形式は|天晴《あつぱれ》破壊せられたと云つても好いだらう。
読者よ。己が十九世紀後半の藝術は形式の破壊を試みたものだといふ訳はあらまし分つたらう。己は破壊時代だといふ。併し丸で成功のなかつた時代だといふのではない。己は小倉に来てから、少し都合が有つてクラウゼヰツツの兵法を読んで居るが、その中に純抗抵の説といふものがある。純抗抵の戦は敵を|何《ど》う|為《し》やうともおもはない。唯ゞ敵の為やうとおもふことを|為《さ》せまいとおもふ丈だといふことだ。これは余程得用な戦法であつて、殊に弱国の戦法としては頗る用ゐるべきものだとしてある。さて此純抗抵の例にはプリイドリヒ大王の|澳太利《オホストリヤ》との戦が引いてあるが、この戦にもロスバハの勝利のやうな高名がある。読者はそれがどうしたのだといふかも知れぬが、純抗抵は戦の消極だけれど、その間に|積極《しやくきよく》の勝利の無いことはない、形式の破壊は藝術の消極だけれど、その間に積極の成功の無いことはないといふのだ。読者よ。形式を破壊するものだからといつて、何の|憑拠《よりどころ》もなしに物を作ることは出来ない。そこで自然を師とするといふ事になる。久しい間やかましかつた自然主義といふのは是だ。絵画では外光派が戸外の光で画をかく、光線をかく、空気をかく。この間には確に自然を師としての成功があつた。彼ラフアエロ前派なども、|半《なかば》はアカデミイの院画仲間にはいつてしまつたが、半はまた此外光派と同化したやうだ。詩では先にハウプトマンを引き出したから、専らあの人に就いて言つて見やう。ハンネレエの昇天で心の生活を写したのも、織屋で身の生活を写したのも、どれも写生で、自然を写して成功したのだ。
要するに破壊者中の豪傑は、自然派の旗の下でそれ/\高名手柄をして居るのだ。併し、読者よ、此自然派の破壊に力を|竭《つく》したところの形式といふものは、|本《も》と何から出て居るとおもふか。これとても自然から出たものに違ない。ミケランジエロは解剖家レアルドオ、コロンボオと一しよに、|親《みつか》ら手を下して|屍《しかばね》を|解《と》いた。
ギヨオテは深く自然を愛するところから、余力は科学上の研究にわたつて、光線論もある、今も用ゐられて居る雲の分類もある。さうして見れば彼も自然の一面此も自然の一面であるが、その|差別《しやべつ》は何処にあるだらうか。読者よ。この問に対するさし当つての答は、むかしの人は自然の見かたが古いので、今の人は新しいといふにあるだらう。併しそれでは所謂タウトロギアに落ちて、答へたも答へないも同じになる。是をタウトロギァでないとするには古い見やうが間違つて居て、新しい見やうが正しいといふことを証拠立てねばならない。然るに昔の人も自然を写すといつて、今の人も自然を写すといふ、この写すといふのは自然そのまゝでない|意《こ、ろ》をあらはして居る。藝術は自然そのまゝではない。之をフオルケルトは自然の変更だといつて居る。
既に藝術の本性として、自然を変更する筈のものである上は、自然を目安にして、間違つて居るとか、正しいとかいふことは余程むつかしい。所詮かういふ側からはどちらにも|団扇《うちは》を上げることは出来まいとおもはれる。読者よ。こゝに田舎ものゝ説がある。今これを道破したならば、さぞ田舎ものは頑固だとか、昔贔負だとかいつて笑ふことだらうが、無遠慮は己の持前だから言つてしまはう。昔の人は飽くまで積極の考を持つて居て、藝術を完全にしやうくと心掛けた。その形式は此一筋の願から生れたのだ。今の人は考が頭から消極で、何か昔の人の見落した穴はないかと探して居る。絵画でおもに光線をかく空気をかくといふことなどは、天晴見付ものであるけれど、山水でわざと名勝故跡だの林泉の趣のあるところだのを避けて、上る坂に下る坂、田の|畔《くろ》の一本道といふやうなところをつかまへて、こゝでも光線空気をかく手際は見せられるとりきんだり、人物では戦争風俗を題として、そつのないやうに多人数を組み合せることを嫌つて、人が棒のやうに並んで立つて居てもかまはぬといふ風にしやれるのは、皆この消極の考から出たものだ。詩に至つてはいよー甚だしい。前人は戯曲に行為がなくてはならぬといつた。夢は随分前人も使つたが、これは夢といふ|位取《くらゐどり》をした上の行為だ。おれは一番|譫語《うはこと》を仕組んで見せやう。前人は行為が因果の鎖で|捗《はかど》つて行かねばならぬといつた。己は一番|切《きれぐ》々の幕で|当《あたり》を取つて見せやう。先つかういふ工合に、裏を行くことを心掛けるのだから、その仕事は徹頭徹尾消極たることを免れない。己は前人が正しくて、|今人《きんじん》が間違つて居るとはいはぬが、彼はすなほで無邪気で、此はひねつてねちれて居る、彼は正で、此は奇だといふことは出来るやうだ。己,は形式を建立したのが功で、形式を破壊したのが|過《あやまち》だとはいはぬが、彼は王者の風があつて、此は覇者の風があるといふことは出来るやうだ。読者よ。これから先の二十世紀の世界の藝術はどうなるだらうか。今日本には絵画の方で、黒田君や久米君のやうに兎も角も世界の潮流と共に泳いで居る人があるが、詩の方では誰だらう。己は知らない。そこで己の心の底には一つのぼんやりした、まだ星にならぬ|霧斑《むはん》のやうな考がある。この考は書かうとして見れば、とりとめのないやうなのに困るけれど、まあざつとかうだ。人間の思潮の波動にも寄せては返す趣がある。今からニ千何百年前の|希臘《ギリシヤ》には立派な藝術があつた。十五六世紀の大家が自分の形式を成したのは、コンスタンチノポリスの陥落の後に、考古学者が西に遷つて、希臘思想を呼び醒したのに本ついて居る。形式を摸倣して前人のお供をするのは固より卑しいが、形式を破壊しやうとして|去嫌《さりきらひ》に|窘《くるし》むも矢張どつとしない。それよりはどの時代、どの国の古い作をでも充分に研究して、その上ですなほに積極に新しい藝術を産み出すことゝしたらどうだらうか。己はこんな考があるから、去年死んだ所謂洋画旧派の原田をでも惜しくおもつた。己は或時黒田君と現在の人のかいた肖像の沢山あるところで話したことがある。その時黒田君が此中では先づこれを取るといつて|指《ゆびさ》したのは原田の作であつた。その時己はひどく嬉しく感じた。己はこんな考があるから日本画をもたやすく棄てやうとはしない。己はこんな考があるから、彫刻では腕のたしかな長沼君のやうな人に大に望を|嘱《そく》する。己はこんな考があるから、詩では幸田君のやうな人に奮発を願ふ。|縦令詭謀《たとひきぼう》を中心にした、胸にあげ底のある|椀久《わんきう》を書かれたのを見ても、決して古めかしいとはいはない。その外後進の人々が製作の上で頭を|抬《もた》げるのを見れば、何の藝術でも何の流派でも甚だ嬉しい。読者よ、こゝまで読んで呉た、根の好い読者よ。これが田舎ものゝ藝術史上の一口評であつて、この反面には審美史上の一口評もあるが、都住ひの間ハルトマン先生を|尊崇《そんしゆう》した|罰《ばち》で、今年になつてもまだ審美綱領と外の丸で|性《たち》の違つた本と比べてやれ勝の負のといはれて居るのがうるさいから、|最《も》つと時節を待つた上の事としやう。併し強情なやうだが、田舎ものゝ目からは、ハルトマンの後には|零砕《れいさい》な本ばかり出て、矢張ろくなものは見えない。又審美綱領は詰らぬ本だが、あの中には人の骨折をそつくり使つたところなどはないから、|縦令《たとひ》独逸文に訳して出されても、赤い顔をすること丈はない積だ。どこやらの新聞に、ハルトマンの審美学くらゐは今は誰でも読むといふことも見えたが、若し本当なら、日本は独逸などから見ると余程えらい国であらう。

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