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江戸川乱歩「覆面の舞踏者」


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 わたしがその不思議なクラブの存在を知ったのは、わたしの友人の井上次郎によってでありました。井上次郎という男は、世間にはそうした男がままあみものですが、妙にいろいろな暗黒面に通じていて、たとえば、どこそこの女優なら、どこそこの家へ行けば話がつくとか、オブシーン・ピクチュアを見せる遊郭はどこそこにあるとか、東京における第一流の賭場《とば》は、どこそこの外国人街にあるとか、そのほかわたしたちの好奇心を満足させるような、種々さまざまの知識をきわめて豊富に持ち合わせているのでした。その井上次郎が、ある日のことわたしの家へやって来て、さて改まって改まって言うことには、

「むろんきみなぞは知るまいが、ぼくたちの仲間に二十日会《はつかかい》という一種のクラブがあるのだ。実に変わったクラブなんだ。いわば秘密結社なんだが、会員は皆、この世のあらゆる遊戯や道楽に飽きはてた、まあ上流階級だろうな、金には不自由のない連中なんだ。それが、何かこう世の常と変わった、 へんてこな刺激を求めようという会なんだ。非常に秘密にしていて、めったに新しい会員をこしらえないのだが、今度はひとり欠員ができたので……その会には定員があるわけだfひとりだけ入会することができる。そこで、友だちかいに、きみのところへ話しに来たんだが、どうだい、はいっちゃ」

 例によって、井上次郎の話は、はなはだ好奇的なのです。言うまでもなく、わたしはさっそく挑発《ちようはつ》されたものであります.

「そうして、そのクラブでは、いったいぜんたい、どういうことをやるのだい」

 わたしが尋ねますと、彼は待ってましたとばかり、その説明を始めるのでした。

「きみは小説を読むかい。外国の小説によくある、風変わりなクラブ、たとえば自殺クラブだ、あれなんか少し風変わりすきるけれど、まあ、ああいった強烈な刺激を求める一種の結社だね。そこでいろいろな催しをやる。毎月二十日に集まるんだが、一度ごとにあっと言わせるようなことをやる。今どきこの日本で、決闘が行なわれると言ったら、きみなんかほんとうにしないだうが、二十日会では、こっそり決闘のまねごとさえやる。もっとも、命がけの決闘ではないけれどね。ある時は、当番に当たった会員が、犯罪めいたことをやって、たとえば人を殺したなんて、まことしやかにおどかすことなんかやる。それが真に迫っているんだから、だれしも肝をひやすよ。また、ある時は、非常にエロチックな遊戯をやることもある。ともかく、そうしたさまざまの珍しい催しをやって、普通の道楽なんかでは得られない、強烈な刺激を味わうのだ。そして喜んでいるのだ。どうだい、おもしろいだろう」

 といった調子なのです。

「だが、そんな小説めいたクラブなんか、今どき実際にあるのかい」

 わたしが半信半疑で聞き返しますと、

「だから、きみはだめだよ。世の中のすみずみを知らないのだよ。そんなクラブなんかおちゃのこさ。この東京には、まだまだもつとひどいものだってあるよ。世の中というものは、きみたち君子が考えているほど単純ではないさ。早い話が、あの貴族的な集会所でオブシーン・ピクチュァの映画をやったなんてことは、世間周知の事実だが、あれを考えてみたまえ。あれなんか都会の暗黒面の一片鱗《へんりん》にすぎないのだよ。もっともっとドエライものが、その辺のすみずみに、ゴロゴロしているのだ」

 で、結局、わたしは井上次郎に説伏されて、その秘密結社へはいってしまったのです。さて、はいってみますと、彼のことばにうそはなく、いや、それどころか、たぶんこうしたものだろうと想像していたよりも、ずっとずっとおもしろい、おもしろいというだけでは当たりません、蠱惑的《こわくてき》ということばがありますが、まあ、あの感じです。一度その会にはいったら、それが病みつきです。 どうしたって、会員をよそうなんて気にはなれないのです。会員の数は十七人でしたが、その中でまあ、会長といった位置にいるのは、日本橋の呉服屋の主人公で、これがおとなしい商売がらに似合わず、非常にアブノーマルな男で、いろいろな催しも、主としてこの呉服屋さんの頭からしぼり出されるというわけでした。おそらく、あの男はそうした事柄にかけては天才だったのでありましょう。その発案が一つ一つ、奇想天外で、奇絶怪絶で、まちがいもなく会員を喜ばせるのでした。

 この会長格の呉服屋さんのほかの十六人の会員も、それぞれ一風変わった人々でした。職業分けにしてみますと、商人がいちばん多く、新聞記者、小説家  それは皆相当名のある人たちでしたーそして、貴族の若様もひとり加わっているのです。かくいうわたしと井上次郎とは、同じ商事会社の社員にすぎないのですが、ふたりとも金持ちのおやじを持っているので、そうしたぜいたくな会にはいっても、別段苦痛を感じないのでした。申し忘れましたが、二十日会の会費というのは少々高く、たった一晩の会合のために、月々五十円〔今の二万円ほど〕ずっ徴収せられるほかに、催しによってはその倍も三倍もの臨時費がいるのでした。これはただの腰弁にはちょっと手痛い金額です。

 わたしは五ヵ月のあいだ二十日会の会員でありました。つまり、五たびだけ会合に出たわけです。先にも言うとおり、 一度はいったら一生やめられないほどのおもしろい会を、たった五ヵ月でよしてしまったというのは、いかにも変です。が、それには訳があるのです。そして、その、わたしが二十日会を脱退するにいたったいきさつをお話しするのが、実はこの物語りの目的なのであります。で、お話は、わたしが入会以来第五回目の集まりのことから始まるのです。これまでの四回の集まりについても、もし暇があればお話ししたく思うのですが、そして、,お話しすればさっと読者の好奇心を満足させることができると信じますが、残念ながら紙数に箭限もあることですから、ここにははぶくことにいたします。

 ある日のこと、会長格の呉服屋さんがi井関さんといいましたーわたしの家をたずねて来ました。そうして会員たちの家を訪問して、個人個人の会員と親しみ、その性質を会得《えとく》して種々の催しを計画するのが、井関さんのやり口でした。そこではじめて会員たちの満足するような催しができるというものです。井関さんは、そんな普通でない嗜好を持っていたにもかかわらず、なかなか快活な人物で、わたしの家内なども、かなり好意を持って、井関さんのうわさをするほどになっていました。それに、井関さんの細君というのがまた非常な交際家で、わたしの家内のみならず、会員たちの細君連とたいへん親しくしていまして、お互いに訪問し合うような間柄になっていたのです。秘密結社とはいいじょう、別段悪事をたくらむわけではありませんから、会のことは、会員の細君たちにも、言わず語らずのあいだに知れ渡っているわけです。それがどういう種類の会であるかはわからなくとも、ともかく、井関さんを中心にして月に一度ずつ集会を」催すということだけは、細君たちも知っていたのです。

 いつものことで、井関さんは、薄くなった頭をかきながら、 エビスさまのようにニコニコして、客問へはいって来ました。彼はデップリ太った五十男で、そんな子どもらしい会などにまるで縁がなさそうな様子をしているのです。それが、いかにも行儀よく、キチンと座ぶとんの上へすわって、さて、あたりをキョロキョロ見まわしながら、声を低めて、会の用談にとりかかるのでした。

「今度の二十日の打ち合わせですがね。ひとつ、今までとは、がらりと風《ふう》の変わったことをやろうと思うのですよ。というのは、仮面舞踏会なのです。十七人の会員に対して、同じ人数の婦人を招きまして、お互いに相手の顔を知らずに、男女が組んで踊ろうというのです。へへへへ、どうです。ちょっとおもしろうがしょう。で、男も女も、せいぜい仮装をこらしていただいて、できるだげ、あれがあの人だとわからないようにするのです。そして、わからないなりに、わたしのほうでお渡ししたくじによって踊りの組みを作る、つまり、ここの相手が何者だかわからないというところが、ミソなんです。仮面は前もってお渡しいたしますけれど、変装のほうも、でさるだけうまくやっていただきたい。一つはまあ、変装の競技会といった形なのですから」

 一応おもしろそうな計画ですから、わたしはむろん賛意を表しました。が、ただ心配なのは、相手の婦人がどういう種類のものであるかという点です。

「その相手の女というのは、どこから招かれるわけですか」

「へへへへへ」すると井関さんは、癖の、気味のわるい笑い方をして、 「それはまあ、わたしに任せておいてください。決してつまらない者は呼びません。商売人だとか、それに類似の者でないことだけは、ここで断言しておきます。ともかく、皆さんをアッと言わせる趣向ですから、そいつを明かしてしまっては興がない。まあまあ、女のほうはわたしに任せておいてください」

 そんな問答を繰り返しているところへ、おりあしくわたしの家内がお茶を運んで来ました。井関さんはハッとしたように、居ずまいを正して、例の無気味な笑い方で、やにわにヘラヘラと笑いだすのでした。

 「たいへんお話しがはずんでおりますこと」

 家内は意味ありげに、そんなことを言いながらお茶を入れ始めました。

「へへへへへ、少しばかり商売上のお話がありましてね」

 井関さんは、取ってつけたように、弁解めいたことを言いました。いつも、そんな調子なのです。そして、ともかく、ひととおり打ち合わせを済ませた上、井関さんは帰りました。むろん、場所や時間なども、すっかりきまっていたのでした。

2

 さて、当日になりますと、生まれてはじめての経験です。わたしは命ぜられたとおり、せいぜい念入りに変装して、あらかじめ渡されたマスクを用意して、指定の場所へ出かけました。

 変装ということが、どんなにおもしろい遊戯であるかを、わたしはその時はじめて知ることがでさました。そのためにわざわざ、知り合いの美術家のところへ行って、美術家特有のへんてこな洋服を借り出したり、長髪のかつらを買い求めたり、それほどにする必要もなかったのでしょうが、家内のおしろいなどを盗み出して、化粧をしたり、そして、それらの変装を、家の者たちに少しも悟られないように、こっそりやっている気持ちが、またたまらなく愉快なのです。鏡の前で、まるでサーカスの道化役者《どうけやくしや》ででもあるように、顔にベタベタおしろいを塗りつける心持ち、あれは実際、一種異様の不思議な魅力を持っているものです。わたしははじめて、女が鏡台の前で長い時間を浪費する気持ちが、わかったように思いました。

 ともかくも変装を済ませたわたしは、異形の風体を人力車の幌《ほろ》に隠して、午後八時という指定.にまにあうように、秘密の集会場へ出かけました。

 集会場は山の手のある富豪の邸宅に設けられてありました。車がその邸宅の門に着くと、わたしはかねて教えられていたとおり、門番小屋に見張り番を勤めている男に、 一種の合図をして、長い敷き石道を玄関へとさしかかりました。アーク灯の光りが、わたしの不思議な格好を長女と、白い敷き石道に映し出していました。

 玄関にはひとりのボーイ体の男が立っていて、これはむろん会が雇ったものなのでしょう、わたしの風体をあやしむ様子もなく、無言で内部へ案内してくれました。長い廊下を過ぎて、洋風の大広間にはいると、そこにはもう、三々伍々会員らしい人々や、その相手を勤める婦人たちが、立っていたり、歩いていたり、長イスに沈んでいたりしました。おぼろにぼかした灯光が、広くりっぱなへやを夢のように照らしていました。

 わたしは、入り口に近い長イスに腰をおろして、知人を捜し出すべく、へやの中を見渡しました。しかし、彼らはまあ、なんという巧みな変装者たちなのでしょう。確かに会員に相違ない十人近くの男たちは、まるではじめて会った人たちのように、脊格好から、歩きぶりから、少しも見覚えがないのです。言うまでもなく顔面は、一様の黒いマスクに隠されて、見分けるべくもありません。

 ほかの人はともかく、古くからの友だちの井上次郎だけは、いかにうまく変装したからといって、見分けられぬはずはあるまいと、ひとみをこらして物色するのですが、わたしのあとからつぎつぎにへやにはいって来た人たちのうちにも、それらしいのが見当たりません。それはまあ、なんという不思議な晩であったことでしょう。いぶし銀のようにくすんだ色の広間の中に、にぶく光った寄せ木細工の床の上に、種々さまざまの変装をこらし、おそろいのマスクをはめた十七人の男と、十七人の女が、ムッツリと黙り込んだまま、今にも何事か奇怪なできごとの起こるのを待ち設けでもするように、ある者は静止し、ある者はうごめいているのです。

 こんなふうに申しますと、読者諸君は、西洋の仮装舞踏会を連想されるかもしれませんが、決してそうではないのです。へやは洋室であり、人々はだいたい洋装をしていましたけれど、そのへやが日本人の邸宅の洋室であり、その人々が洋装をした日本人であるように、全体の調子が非常に日本的で、西洋の仮装舞踏会などとは、まるで連った感じのものでありました。

 彼らの変装は、正体をくらます点においてきわめて巧みではありましたけれど、皆、あまりにじみな、あるいはあまりに粗暴な、仮装舞踏会という名称にはふさわしからぬものばかりでした。それに、婦人たちの妙にものおじをした様子で、なよなよと歩くふぜいは、あの活発な西洋女の様子とは、似ても似つかぬものでありました。

 正面の大時計を見ますと、もはや指定の時間も過ぎ、会員だけの人数もそろいました。この中に井上次郎がいないはずはないのだがと、わたしはもう一度目を見はって、ひとりひとりの異様な姿を調べてゆきました。ところが、やっぱり、疑わしいのが二、三見当たりましたけれど、これが井上だと言いきることのできる姿はないのです。荒いごばんじまの服を着て、同じハンチングをつけた男の肩の格好が、それらしくも見えます。また、赤黒い色のシナ服を着て、ジナの帽子をかむり、わざと長い弁髪をたれた男が、どうやら井上らしく見えます。そうかと思うと、ピヅタリ身についた黒の肉じゅばんを着て、黒絹で頭を包んだ男の歩きっぷりが、あの男らしくも思われるのです。

 おぼろなるへやの様子が影響したのでもありましょう。あるいはまた、先にも言ったとおり、彼らの変装がそろいもそろって巧妙をきわめていたからでもありましょう。が、それらのいずれよりも、覆面というものが人を見分けにくくするカは恐ろしいほどでありました。一枚の黒布、それがこの不可思議な、また無気味な光景をかもし出す第一の要素となったことは申すまでもないのです。

 やがて、お互いがお互いを探り合い、疑い合って、奇妙なだんまりを演じているその場へ、先ほど玄関に立っていたボーイ体の男がはいって来ました。そして、何か暗唱でもするような口調で、次のような口上を述べるのでありました。

「皆さま、長らくお待たせいたしましたが、もはや規定の時間でもございますし、ご人数もおそろいのようでございますから、これからプログラムの第一にきめました、ダンスを始めていただくことにいたします。ダンスのお相手を定めますために、あらかじめお渡し申しました番号札を、わたしまでお手渡しを願い、わたしがそれを呼び上げますから、同じ番号のおかたが、おひと組みにおなりくださいますよう。それから、はなはだ失礼でございますが、中にはダンスというものをご案内のないおかたさまがおいでになりますので、今夜は、どなた様も、ダンスを踊るというおつもりでなく、ただ音楽に合わせまして、手をとり合って歩きまわるくらいのお考えで、ご案内のないおかたさまも、少しもご遠慮なく、ご愉快をお尽しくださいますよう。なお、組み合わせがきまりましたならば、お興を添えますために、そのへやの電灯をすっかり消すことになっておりますから、これもお含みおきくださいますようお願いいたします」

 これはたぶん井関さんが命じたまま復唱したものにすぎないのでしょうが、それにしても、なんというへんてこな申し渡しでありましょう。いずれは気違いめいた二十日会の催しのことですけれど、ちと薬がききすぎはしないでしょうか。わたしは、それを聞くと、なんとなく身のすくむ思いがしたことであります。

 さて、ボーイ体の男が番号を読み上げるにしたがって、わたしたち三十四人の男女は、ちょうど小学生のように、そこへいっしょに並びました。そして、十七対の男女の組み合わせができ上がったわけです。男同士でさえ、だれがだれだかわからないのですから、まして相手ときまった女が何者であるか、知れよう道理はありません。それぞれの男女は、おぼろげな灯光のもとに、互いに覆面を見かわして、もじもじと相手の様子を伺っています。さすがに奇を好む二十日会の会員たちも、いささか立ちすくみの形でありました。

 同じ番号の縁でわたしの前に立った婦人は、黒っぽい洋服をきて、昔流の濃い覆面をつけ、その上からご丁寧にマスクをかけていました。一見したところ、こうした場所にはふさわしくない、しとやかな様子をしていましたけれど、さて、それが何者であるか、専門のダンサーなのか、女優なのか、あるいはまた堅気の娘さんなのか、井関さんのせんだっての口ぶりでは、まさか芸者などではありますまいが、なにしろ、まったく見当がつかないのです。

 が、だんだん見ているうちに、相手の女のからだつきに、何か見覚えのあるような気がしてきました。気の迷いかもしれませんけれど、その格好は、どこやらで見たことがあるのです。わたしがそうして彼女をジロジロながめているあいだに、先方でも同じ心とみえまして、長髪画家に変装したわたしの姿を熱心に検査し、思いわずらっている様子でした。

 あの時、蓄音器の回転し始めるのがもう少しおそく、電灯の消えるのがちょっとでも遅れたなら、あるいはわたしは、後にわたしをあのように驚かせ恐れさせたところの相手を、すでに見破っていたかもしれないのですが、惜しいことには、もう少しというところで、一時に広間が暗黒になってしまったのです。

 パッと暗やみになったものですから、しかたなく、あるいはやっと勇気づいて、のたしは相手の女の手を取りました。相手のほうでも、そのしなやかな手首をわたしにゆだねました。気のきいた司会者は、わざとダンス物を避けて、静かな絃楽合奏のレコードをかけましたので、ダンスを知った人も、知らない人も一様にしろうととして、暗やみの中を回り始めました。もしそこに、わずかの光りでもあろうものなら気がさして、とても踊ることはできなかったでしょうが、司会者の心づかいで、さいわい暗やみになっていたものですから、男も女も、案外活発に、おしまいには、コツコツというたくさんの足音が、それから、あらい息使いが、天井に響き渡るほども、勢いよく踊りだしたものであります。

 わたしと相手の女も、はじめのあいだは、遠方から手先を握り合って、遠慮がちに歩いていたのが、だんだんと、接近して、彼女のあごがわたしの庸に、わたしの腕が、彼女の腰に、密接して、夢中になって踊り始めたのであります。

3

 わたしは生まれてから、あのような妙な気持ちを味わったことがありません。それは、まっくらなへやの中です。そこの寄せ木細工のなめらかな床《ゆか》の上を、木の膚をたたいている無数のキツツキのように、コツコツと、不思議なリズムをなして、わたしたちのクツ音が走っています。そして、ダンス伴奏にはふさわしくない、むしろ陰惨な、絃楽またはピアノのレコードが、地の底からのように響いています。目がやみになれるにしたがって、高い天井の広間の申を、暗いためいっそう数多く見える、たくさんの人の頭がうごめいているのが、おぼろげに見えます。それが、広間のところどころに巨人のように屹立《きつりつ》した、数本の太い円柱をめぐって、チラチラと入り乱れているありさまは、地獄の饗宴《きようえん》とでも形容したいような、世にも奇怪な感じのものでありました。

 わたしは、この不思議な情景の中で、 どことなく見覚えのある、しかしそれがだれであるかは、どうしても思い出せないひとりの婦人と、手を取り合って踊っているのです。そして、それが夢でも幻でもないのです。わたしの心臓は恐怖とも歓喜ともつかぬ一種異様の感じをもって、はげしくおどるのでありました。わたしは相手の婦人に対して、どんな態度を示すぺきかに迷いました。もし、それが売女のたぐいであるなれば、 どのような無作法も許されるでありましょう。が、まさかそうした種類の婦人とも見えません。では、それを生業《なりわい》にしている踊女《おどりめ》のたぐい'ででもありましょうか。いや、そんなものにしては、彼女はあまりにしとやかで、かつ舞踏の作法さえ不案内のように見えるではありませんか。それなら、彼女は堅気の娘、あるいはどこかの細君ででもありましょうか。もしそうだとすると、井関さんの今度のやり方は、あまりにご念の入った、むしろ罪深いわざと言わねばなりません。

 わたしはそんなことをせわしく考えながら、ともかくも、皆といっしょに回り歩いておりました。すると、ハッとわたしを驚かせたことは、そうして歩いているあいだに、相手の婦人の一方の腕が驚くべき大胆さをもって、スルスルとわたしの肩に延ばされたではありませんか。しかもそれは、決して媚《こび》を売る女のやりかたではなく、といって、若い娘が恋人に対する感じでもなく、少しもぎこちなさを見せないで、さもなれなれしく、当然のことのように行なわれたのであります。

 間近く寄った、很女の覆面からは、軽くにおやかな呼吸が、わたしの顔をかすめます。なめらかな彼女の絹服が、なよなよと、不思議な感触をもって、わたしのビロードの服にふれ合います。このような彼女の態度は、にわかにわたしを大胆にさせました。そして、わたしたちは、まるで恋人同士のように、無言の舞踏を踊りつづけたことであります。

 もう一つわたしを驚かせたのは、やみをすかしてほかの踊り手たちを見ますと、彼らもまた、わたしたちと同じように、あるいはいっそう大胆に、決して初対面の男女とは思えないような踊り方をしていることでありました。いったいまあ、これはなんという気違いざたでありましょう。そうしたことに慣れぬわたしは、見も知らぬ相手と暗やみの中を踊り狂っている自分が、ふと恐ろしくなるのでした。

 やがて、ちょうど皆が踊り疲れたころに、蓄音器の奏楽がハタと止まって、先ほどのボーイの声が聞こえました。、

「皆さま、.次のへやに、飲み物の用意ができましてございます。しばらくあちらでご休息くださいますよう、お願いいたします」

ド声につれて境のドアが左右に開かれ、まぶしい光線が、パッとわたしたちの目をうちました。

 踊り手たちは司会者の万遺漏なき心くばりを感じながら、しかし無言のまま、一対ずつ手をとり合って、そのへやへはいるでした。広間には比ぶべくもありませんが、でも相当広いへやに、十七個の小食卓が、純白のクロースにおおわれて、配置よく並んでいました。ボーイの案内につれて、わたしとわたしの婦人とは、すみのほうのテーブルにつきました。見ると、給仕人はなくて、おのおののテーブルの上に、二つのグラスと二本の洋酒のびんが置かれてあります。 一本はボルドウの白ブドー酒、ほかの一本は、むろん男のために用意せられたものですが、シャンパンなどではなく、なんとも知れぬ不思議な味の酒でした。

 やがて、奇怪な酒宴が開かれました。堅くことばを発することを禁じられたわたしたちは、まるでおしのように黙々として、杯を満たしては飲みました。婦人たちも勇敢にブドー酒のグラスをとるのでした。

 それはかなり強烈な酒であったとみえ、まもなくわたしは、激しい酔いをおぼえました。相手の婦人に、ブドー酒をついでやるわたしの手が、おこりのように震えて、グラスの縁がカチカチと鳴りました。わたしは思わず変なことをどなりそうになっては、あわてて口をつぐみました。わたしの前の覆面の女は、口までもおおった黒布を片手で少し持ち上げて、つつましく杯を重ねました。そして、彼女も酔ったのでしょう。覆面をはずれた美しい皮膚は、もうまっかになっておりました。

 そうして、彼女を見ているうちに、わたしはふと、わたしのよく知っている、ある人を思い浮かべました。彼女の首から肩の線が、見れば見るほど、その人に似ているのです。しかし、そのわたしの知っている人が、まさかこんな場所へ来るはずはありません。最初から、なんとなく見たようなと感じたのは、おそらくわたしの気の迷いにすぎなかったのでしょう。世の中には、顔でさえもうり二つの人があるくらいです。姿勢が似ていたからとて、うかつに判断を下すことはできません。

 それはともかく、無言の酒宴は、今やたけなわと見えました。ことばを発するものこそありませんけれど、室内はグラスの触れ合う響き、きぬずれの音、ことばをなさぬ人声などで、異様にどよめいて来ました。だれもかれも、非常に酔っているように見えました。もしあの時、ボーイの口上が少しでもおくれたなら、だれかが叫びだしたかもしれません。あるいはだれかが立ち上がって踊りだしたかもしれません。が、さすがは井関さんのさしずです。もっとも適当な時機にボーイが現われました。

「皆さま、お酒が済みましたら、どうか踊り場のほうへお引き上げを願います。あちらではもう、音楽が始まっております」

 耳をすますと、隣りの広間からは、酔客たちの心をそそるように、前とはガラリと変わった快活な、むしろそうそうしい管絃楽が響いて来ました。人々は、その音楽にさそわれるように、ゾロゾロと広間に帰りました。そして、以前に数倍した物狂わしき舞踏が始まるのでした。

 あの夜の光景をなんと形容したらよいのでしょう。耳もろうせんばかりの騒音、やみの中に火花が散るかと見える無数の乱舞、そして意味のない怒号、わたしの筆ではとうてい、ここにその光景を描きだすことはできません。のみならず、わたし自身も、四肢《し》の運動につれて発した極度の酔いに正気を失って、人六が、またわたし自身が、どのような狂態を演じたかを、ほとんど記憶しないのであります。

4

 焼けるようなのどの乾きをおぼえて、わたしはふと目をさますと、わたしは、わたしの寝ていたへやが、いつもの自分の寝室でないことに気づきました。さてはゆうべ踊り倒れて、こんな家へかつぎ込まれたのかな。それにしても、この家はいったいぜんたいどこだろう。見ると、まくらもとの手の届くところへ、ベルのひもが延びています。わたしはともかく、人を呼んで聞いてみようと思い、そのほうへ、手を伸ばしかけて、ふと気がつくと、そこのタバコ盆のわきに、一束の半紙が置かれ、そのいちばん上の紙に、何か鉛筆の走り書きがしてあるのです。好奇心のまま、読みにくいかな文字を、なにげなく拾ってみますと、それは次のようにしたためてありました。

 「あなたはずいぶんひどいかたです。お酒の上とはいえ、あんな乱暴な人とは、知りませんでした。しかし、いまさら言ってもしようがありません。わたしはあれは夢であったと思って忘れます。あなたも忘れてください。そして、このことは井上には絶対に秘密を守ってください。お互いのためです。わたしはもう帰ります。春子」

 それを読んで行くうちに、寝ぼけていた頭が、一度にハッキリして、わたしは何もかも悟ることができました。 「あれは、わたしの相手を勤めた婦人は、井上の細君だったのか」そして、言いがたき悔恨の情が、わたしの心臓をうつろにするかとあやしまれました。

 泥酔《でいすい》していたとはいえ、夢のように覚えています。ゆうべ、やみの乱舞が絶頂に達したころ、例のボーイが、そっとわたしたちのそばへ来てささやきました。

「お車の用意ができましてございます。ご案内いたしましょう」  -

 わたしは婦人の手をたずさえて、ボーイのあとにつづきました。 (どうしてあの時、彼女はあんなに従順に、わたしに手を引かれていたのでしょう。彼女もまた酔っていたのでしょうか)玄関には一台の自動車が横づけになっていました。わたしたちはそれに乗ってしまうと、ボーイは運転手の耳に口をつけて、

「十一号だよ」とささやきました。それがわたしたちの組み合わせの番号だったのです。

 そして、たぶんここの家へ運ばれたのです。その後のことはいっそうぼんやりして、よくわかりませんけれど、へやへはいるなり、わたしは自分の覆面をとったようです。すると、相手の婦人がアッと叫んで、いきなり逃げ出そうとしました。それを、夢のように思い出すことができます。でもまだ、酔いしれていたわたしは、相手が何者であるかを推察することができなかったのです。すべて泥酔《でいすい》のさせたわざです。そして、今この置き手紙を見るまで、わたしは彼女が友人の細君であったことさえ知らなかったのです。わたしはなんというバカ者でありましょう。

 わたしは夜の明けるのを恐れました。もはや世間に顔出しもできない気がします。わたしはこのつぎ、どういう態度で井上次郎に会えばいいのでしょう。また、当の春子さんに会えばいいのでしょう。わたしは青くなって、とつおいつ返らぬ悔恨にふけりました。そういえば、わたしは最初から相手の婦人に、ある疑いを持っていたのです。覆面と変装とにおおわれていたとはいえ、あの姿は、どうしても春子さんに相違なかったのです。わたしはなぜ、もっと疑ってみなかったのでしょう。相手の顔を見分けられぬほども泥酔《でいすい》する前に、なぜ彼女の正体を悟りえなかったのでしょう。

 それにしても、井関さんの今度のいたずらは、彼が井上とわたしとの綿密な関係を、よく知らなかったとはいえ、ほとんど常軌《じようき》を逸していると言わねばなりません。たといわたしの相手が、ほかの婦人であったにしても、許すべからざる計画です。彼はまあ、どういう気で、こんなひどい悪だくみをもくろんだのでありましょう。それにまた、春子さんも春子さんです。井上という夫のある身が、知らぬ男と暗やみで踊るさえあるに、このような場所へ運ばれるまで、黙っているとは。わたしは彼女がそれほど不倫な女だとは、今の今まで知りせんでした。だが、それは皆わたしの、えてか・ってというものでしょう。わたしさえあのように泥酔《でいすい》しなかったら、こんな世間に顔向けもできないような、不愉快な結果を招かずとも済んだのですから。

 その時の、なんともいえぬ不愉快な感じは、いくら書いても足りません。ともかく、わたしは夜の明けるのを待ちかねて、その家を出ました。そして、まるで罪人ででもあるように、おしろいこそ落としましたけれど、ほとんどゆうべのままの姿を車の幌《ほろ》に深く隠して、家路についたことであります。


5

 家に帰っても、わたしの悔恨は深まりこそすれ、決して薄らぐはずはありません。そこへ持って来て、わたしの女房は、彼女にしてみれば無理もないことでしょうが、病気と称してひと間にとじこもったきり、顔も見せないのです。わたしは女中の給仕でまずい食事をしながら、悔恨の情をさらに倍加したことであります。

 わたしは、会社へは電話でことわっておいて、机の前にすわったまま、長いあいだぼんやりしていました。眠くはあるのですが、とても寝る気にはなれません。そうかといって、本を読むことも、そのほかの仕事をすることも、むろんだめです。ただぼんやりと、取り返しのつかぬ失策を、思いわずらっているのでした。

 そうして思いにふけっているうちに、わたしの頭に、ふと一つの懸念が浮かんで来ました。

「だが、待てよ」わたしは考えるのでした。 「いったいぜんたい、こんなばかばかしいことがありうるものだろうか。あの井関さんが、ゆうべのような不倫な計画を立てるというのも変だし、それにいくら泥酔《でいすい》していたとはいえ、朝になるまで相手の婦人を知らないでいるなんて、少しおかしくはないか。そこには、わたしをして、しいてそう信じさせるような、技巧がろうせられてはいなかったか。だいいち、井上の春子さんが、あのおとなしい細君が、舞踏会に出席するというのも信じがたいことだ。問題はあの婦人の姿なんだ。ことに、首から肩にかけての線なんだ。あれが井関さんの巧妙なトリックではなかったのか。遊里のちまたから覆面をさせなければ春子さんと見違うような女を捜し出すのは、さほど困難ではないだろう。おれはそうした影武者のために、まんまと一杯食わされたのではないか。そして、この手にかかったのは、おれだけではないかもしれない。人の悪い井関さんは、意味ありげな暗やみの舞踏会で、会員のひとりひとりをおれと同じような目に会わせ、あとで大笑いをするつもりだったのではないか。そのだ、もうそれにきまった」

 考えれば考えるほど、すぺての事情がわたしの推察を裏書きしていました。わたしはもう、くよくよすることをやめ、先ほどとは打って変わって、ニヤニヤと気味のわるいひとり笑いを漏らしさえするのでした。

 わたしはもう一度外出のしたくをととのえました。井関さんのところへ押しかけようというのです。わたしは彼に、わたしがどんなに平気でいるかということを見せつけて、ゆうぺの仕返しをしなければなりません。

「オイ、タクシーを呼ぶんだ」

 わたしは大声で女中に命じました。

 わたしの家から井関さんの住まいまでは、さして遠い道のりではありません。やがて車は、彼の玄関に着きました。ひょっと店のほうへ出ていはしないかと案じましたが、さいわい在宅だというので、わたしはすぐさま彼の客間に通されました。見ると、これはどうしたというのでしょう。そこには、井関さんのほかに二十日会《はつかかい》の会員が三人も顔をそろえて談笑していたではありませんか。では、もう、種明かしが済んだのかしら。それとも、この連中だけは、わたしのような目にも会わなかったのかしら。わたしは不審に思いながら、しかし、さも愉快そうな表情を忘れないで、設けられた席につきました。

「やア、ゆうべはお楽しみ」

 会員のひとりが、からかうように声をかけました。

「なあに、ぼくなんざだめですよ。きみこそお楽しみでしたろう」

 わたしは、あごをなでながら、さも平然と答えました。 「どうだ、驚いたか」という腹です。ところが、それにはいっこう反響がなくて、相手から返って来たことばは、実に奇妙なものでありました。

「だって、きみのところは、われわれのうちで、いちばん新しいんじゃありませんか。お楽しみでないはずはないや、ねえ、井関さん」

 すると、井関さんは、それに答えるかわりに、アハアハと笑っているのです。どうも様子が変なのです。が、彼らはわたしの表情などには、いっこうおかまいなく、ガヤガヤと話を続けるのです。

「だが、ゆうべの趣向は確かに秀逸だったね。まさか、一あの覆面の女が、てんでんの女房たあ気がつかないやね」

「あけてくやしき玉手箱か」

 そして、彼らは声をそろえて笑うのです。

「むろん、最初札《ふだ》を渡す時に、夫妻同一番号にしておいたんだろうが、それにしても、あれだけの人数がよくまちがわなかったね」

「まちがったら大変ですよ。だから、その点はじゅうぶん気をつけてやりました」

 井関さんが答えるのです。

「井関さんがあらかじめ旨《むね》を含めてあったのといえ、女房連、よくやって来たね。あれが自分の亭主だからいいようなものの、味をしめて、ほかの男にあの調子でやられちゃ、たまらないね」

「危険を感じますかね」

 そして、またもや笑い声が起こりました。

 それらの会話を聞くうちに、わたしはもはや、じっとすわっているのに耐えられなくなりました。たぶん、わたしの顔はまっさおであったことでしょう。これですっかり、事情がわかりました。井関さんは、あんなに、自信のあるようなことを言っていますが、どうかしたつこうで、わたしだけ相手がまちがったのです。自分の女房のかわりに、春子さんと組み合ったのです。わたしは運わるくも、偶然、恐ろしいまちがいに陥ってしまったのです。 「だが」わたしはふと、もう一つの恐ろしい事実に気づきました。冷たいものが、わたしのわきの下をタラタラと流れました。 「それでは、井上次郎はいったい、だれと組んだのであろう?」

 言うまでもないことです。わたしが彼の妻と踊ったように、彼はわたしの妻と踊ったのです。おお、わたしの女房が、あの井上次郎と? わたしはめまいのために倒れそうになるのを、やっとこらえました。

 それにしても、これはまた、なんという恐ろしい錯誤でありましょう。あいさつもそこそこに井関さんの家をのがれ出したわたしは、車の中で、ガンガンいう耳を押さえながら、どこかにまだ一縷《る》の望みがあるような気がして、いろいろと考え回すのでありました。

 そして、車が家へつくころ、やっと気づいたのは、例の番号札のことでした。わたしは、車を降りると家の中へ駆け込み、書斎にあった変装用の服のポケットから、その番号札を捜し出しました。見ると、そこには横文字で十七としるされています。ところで、ゆうべのわたしの番号は、わたしははっきり覚えていました。それは十一なのです。わかりました。それは井関さんの罪でも、だれの罪でもないのです。わたし自身の取り返しのつかぬ失策なのです。わたしは井関さんから前もって、その札を渡された時、まちがわぬようにと、くれぐれも注意があったにもかかわらず、よくも見ておかないで、あの会場の激情的な空気の中で、そぞろ心に札を見たのです。そして1と7とをまちがえて、十一番と呼ばれた時に返事をしたのだす。でも、ただ番号のまちがいくらいから、こんな大事をひき起こそうとは、だれが想像しましょう。わたしは二十日会などという気まぐれなクラブに加入したことを、いまさら後悔しないではいられませんでした。

 それにしても、井上までがその番号をまちがえたというのは、どこまでいたずらな運命だしょう。おそらく彼は、わたしが十一番の時に答えたため、自分の札を十七番と誤信してしまったのでしょう。それと、井関さんの数字は、7を1とまちがえやすいような書体だったのです。

 井上次郎と、わたしの妻のことは、わたし自身の場合に引き比べて、推察にかたくありません。わたしの変装については、妻は少しも知らないのですし、彼らもまた、わたし同様、狂者のように酔っぱらっていたのですから。そして、なによりの証拠は、ひと間にとじこもって、わたしに顔を見せようともせぬ妻のそぶりです。もう疑うところはありません。

 わたしはじっと書斎に立ちつくしていました。わたしにはもはや、ものを考える力もありませんでした。ただ焼きつくように、わたしの頭を襲うものは、おそらく一生涯消え去る時のない、わたしの妻に対する、井上次郎に対する、その妻春子に対する、唾棄《だき》すべき感情のみでありました。
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