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江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」


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 たぶんそれは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田《こうた》三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世がおもしろくないのでした。

 学校を出てからーその学校とても、一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですがーかれにできそうな職業は、片ッ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生をささげるに足りると思うようなものには、まだ一つもでくわさないのです。おそらく、かれを満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短いのは一月ぐらい、かれは職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を捜すでもなく、文字どおり何もしないで、おもしろくもないその日その日を送っているのでした。

 遊びのほうもそのとおりでした。かるた、玉突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種のとばくにいたるまで、とてもここには書ききれないほどの、遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書というような本まで買い込んで、捜しまわって試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、かれはいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯《いつしようがい》、飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそうおっしゃるでしょうね。ところが、わが郷田三郎は、不思議と、その二つのものに対しても、興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女のほうは、むろんその欲望がないわけではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかといって、これがあるために生きがいを感じるというほどには、どうしても思えないのです。

「こんなおもしろくない世の中に生きながらえているよりは、いっそ死んでしまったほうがましだ」

 ともすれば、かれはそんなことを考えました。しかし、そんなかれにも、命を惜しむ本能だけはそなわっていたとみえて、二十五歳のきょうが日まで、「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死にきれずに生きながらえているのでした。

 親もとから月々いくらかの仕送りを受けることのできるかれは、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、かれをこんな気まま者にしてしまったのかもしれません。そこで、かれは、その仕送り金によって、せめていくらかでもおもしろく暮らすことに腐心しました。たとえば、職業や遊戯と同じように、ひんぱんに宿所を替えて歩くことなどもその一つでした。かれは、少しおおげさにいえば、東京じゅうの下宿屋を一軒残らず知っていました。ひと月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。むろん、その間には、放浪者のように旅をして歩いたこともあります。あるいはまた、仙人のように山奥へ引っ込んでみたこともあります。でも、都会に住みなれたかれには、とても寂しいいなかに長くいることはできません。ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会の灯火に、雑踏に、引き寄せられるように、かれは東京へ帰ってくるのでした。そして、そのたぴごとに下宿屋を替えたことはいうまでもありません。

 さて、かれが今度移ったうちは、東栄館《とうえいかん》という、新築したばかりの、まだ壁に湿りけのあるような、新しい下宿屋でしたが、ここでかれは、一つのすばらしい楽しみを発見しました。そして、この一編の物語は、そのかれの新発見に関連したある殺人事件を主題とするのですが、お話をそのほうに進める前に、主人公の郷田三郎が、しろうと探偵の明智小五郎《あけちこごろう》──この名まえはたぶんご承知のことと思います。──と知り合いになり、今までいっこう気づかないでいた「犯罪」という事柄に、新しい興味を覚えるようになったいきさつについて、少しばかりお話ししておかねばなりません。

 ふたりが知り合いになったきっかけは、あるカフェーでかれらが偶然いっしょになり、そのとき同伴していた友だちが、明智を知っていて紹介したことからでしたが、三郎はそのとき、明智のそうめいらしいよ㍉ぼうや、話しっぷりや、身のこなしなどに、すっかりひきつけられてしまって、それからはしばしばかれを尋ねるようになり、また、ときにはかれのほうからも三郎の下宿へ遊びに来るような仲になったのです。明智のほうでは、ひょっとしたら、三郎の病的な性格にー一種の研究材料として〜興味を見いだしていたのかもしれませんが、三郎は明智からさまざまの魅力に富んだ犯罪談を聞くことを、他意なく喜んでいるのでした。

 同僚を殺害して、その死体を実験室のかまどで灰にしてしまおうとしたウエブスター博士の話、数力国のこどばに通曉《つうぎよう》し、言語学上の大発見までしたユージン・エアラムの殺人罪、いわゆる保険魔で、同時にすぐれた文芸批評家であったウエーンライトの話、小児《しように》の臀肉《でんにく》をせんじて養父のライ病をなおそうとした野口男三郎の話、さては、あまたの女を女房にしては殺していった、いわゆるブルーベヤドのランドルーだとか、アームストロングなどの残虐な犯罪談、それらが退屈しきっていた郷田三郎をどんなに喜ばせたことでしょう。明智の雄弁な話しぶりを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色の絵巻き物のように底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくるのでした。

 明智を知ってから二、三ヵ月というものは、三郎はほとんどこの世のあじきなさを忘れたかにみえました。かれはさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読みふけるのでした。それらの書物の中には、ボーだとかホフマンだとか、あるいはガボリオだとか、そのほかいろいろの探偵小説なども混じっていました。

「ああ、世の中には、まだこんなおもしろいことがあったのか」

 かれは書物の最終のページをとじるごとに、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、できることなら、自分も、それらの犯罪物語の主人公のような、めざましい、けばけぱしい遊戯(?)をやってみたいものだと、だいそれたことまで考えるようになりました。

 しかし、いかな三郎も、さすがに法律上の罪人になることだけは、どう考えてもいやでした。かれはまだ、両親や、兄弟《きようだい》や、しんせき知己などの悲嘆や侮辱を無視してまで、楽しみにふける勇気はないのです。それらの書物によりますと、どのような巧妙な犯罪でも、必ずどこかに破綻《はたん》があって、それが犯罪発覚の糸口になり、一生涯《いつしようがい》、警察の目をのがれているということは、ごくわずかの例外を除いては、全く不可能のようにみえます。かれにはただそれが恐ろしいのでした。かれの不幸は、世の中のすべての事柄に興味を感じないで、こともあろうに「犯罪」にだけ、いい知れぬ魅力を覚えたことでした。そして、いっそうの不幸は、発覚を恐れるために、その「犯罪」を行ないえないということでした。

 そこで、かれは、ひととおりの手にはいるだけの書物を読んでしまうと、今度は「犯罪」のまねごとを始めました。まねごとですから、むろん処罰を恐れる必要はないのです。それは、たとえばこんなことを。

 かれはもうとっくにあきはてていたあの浅草に、ふたたび興味を覚えるようになりました。おもち.やの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地は、犯罪|嗜好者《しこうしや》にとっては、こよなき舞台でした。かれは、そこへ出かけては、活動小屋と活動小屋の間の、人ひとりようやく通れるくらいの細い暗い路地や、共同便所の背後などにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われるような、妙にがらんとしたあき地を、好んでさまよいました。そして、犯罪者が同類と通信するためでもあるかのように──白墨でそのへんの壁に矢の印を書いてまわったり、金持ちらしい通行人を見かけると、自分がスリにでもなった気で、どこまでもどこまでも、そのあとを尾行してみたり、妙な暗号文を書いた紙切れを──それにはいつも恐ろしい殺人に関する事柄などをしたためてあるのですー公園のベンチの板の間へはさんでおいて、木陰に隠れて、だれかがそれを発見するのを待ちかまえていたり、そのほかこれに類したさまざまの遊戯を行なっては、ひとり楽しむのでした。

 かれはまた、しばしば変装をして、町から町をさまよい歩きました。労働者になってみたり、こじきになってみたり、学生になってみたり、いろいろの変装をした中でも、女装することが、最もかれの病癖を喜ばせました。そのためには、かれは着物やとけいなどを売りとばして金を作り、高価なかつらだとか、女の古着だとかを買い集め、長い時間かかって好みの女姿になりますと、頭の上からすっぽりとがいとうをかぶって、夜ふけに下宿屋の入り口を出るのです。そして、適当な場所でがいとうを脱ぐと、あるときは寂しい公園をぶらついてみたり、あるときはもうはねる時分の活動小屋へはいって、わざと男子席のほうへ紛れ込んでみたり、はては、きわどいいたずらまでやってみるのです。そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が姐己《だっき》のお百だとか蟒蛇《うわばみ》お由《よし》だとかいう毒婦になった気持ちで、いろいろな男たちを自由自在にほんろうするありさまを想像しては、喜んでいたのです。

 しかし、これらの「犯罪」のまねごとは、ある程度までかれの欲望を満足させてはくれましたけれども、そして、時にはちょっとおもしろい事件をひき起こしなぞして、その当座はじゅうぶん慰めにもなったのですけれど、まねごとはどこまでもまねごとで、危険がないだけに──「犯罪」の魅力は、見方にょってはその危険にこそあるのですから──興味も乏しく、そういつまでもかれを有頂天にさせる力はありませんでした。ものの三ヵ月もたちますと、いつとなく、かれはこの楽しみから遠ざかるようになりました。そして、あんなにもひきつけられていた明智との交際も、だんだん遠女しくなっていきました。

 以上のお話によって、郷田三郎と明智小五郎との交渉、または三郎の犯罪|嗜好癖《しこうへき》などについて、読者にのみ込んでいただいたうえ、さて、本題にもどって、東栄館という新築の下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見したかという点に、お話を進めることにいたしましょう。

 三郎が東栄館の建築ができ上がるのを待ちかねて、いの一番にそこへ引き移ったのは、かれが明智と交際を結んだ時分から、一年以上もた-っていました。したがって、あの「犯罪」のまねごとにも、もういっこう興味がなくなり、といって、ほかにそれに代わるようなことがらもなく、かれは毎日毎日のたいくつな長女しい時間を、過ごしかねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友だちができたりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものはなんとたいくつきわまる生き物なのでしょう。どこへ行ってみても、同じような思想を、同じような表情で、同じようなことばで、繰り返し繰り返し発表し合っているにすぎないのです。せっかく下宿屋を替えて、新しい人たちに接してみても、 一週間たつかたたな.いうちに、かれはまたしても、底知れぬ倦怠《けんたい》の中に沈み込んでしまうのでした。

 そうして、東栄館に移って十日ばかりたったある日のことです。たいくつのあまり、かれはふと妙なことを考えつきました。

 かれのへやには、ーそれは二階にあったのですが  安っぽい床の間のわきに、一間の押し入れがついていて、その内部は、鴨居《かもい》と敷居とのちょうど中ほどに押し入れいっぱいのがんじょうなタナがあって、上下二段に分かれているのです。かれはその下段のほうに数個のコウリを納め、上段にはふとんをのせることにしていましたが、いちいちそこからふとんを取り出して、へやのまん中へ敷くかわりに、しじゅうタナの上に寝台のようにふとんを重ねておいて、眠くなったらそこへ上がって寝ることにしたらどうだろう。かれはそんなことを考えたのです。これが、今までの下宿屋であったら、たとい押し入れの中に同じようなタナがあっても、壁がひどくよごれていたり、天井にクモの巣が張っていたりして、ちょっとその中へ寝る気にはなれなかったのでしょうが、ここの押し入れは、新築早々のことですから非常にきれいで、天井もまっ白なれば、黄色く塗ったなめらかな壁にも、しみ一つできてはいませんし、そして全体の感じがタナの作り方によるのでしょうが、なんとなく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝てみたいような誘惑を感じさえするのです。

 そこで、かれはさっそくその晩から押し入れの中へ寝ることを始めました。この下宿は、へやごとに内部から戸締まりができるようになっていて、女中などが無断ではいって来るようなこともなく、かれは安心してこの奇行を続けることができるのでした。さて、そこへ寝てみますと、予期以上に感じがいいのです。四枚のふとんを積み重ね、その上にフワリと寝ころんで、目の上二尺ばかりのところに迫っている天井をながめる心持ちは、ちょっと異様な味わいのあるものです。奥をピッシャリ締め切って、すきまからもれて来る糸のような電気の光を見ていますと、なんだかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなったような気がして、愉快ですし、また、それを細めにあけて、そこから、自分自身のへやを、どろぼうが他人のへやをでものぞくような気持ちで、いろいろの激情的場面を想像しながら、ながめているのも、興味がありました。時によると、かれは昼間から押し入れにはいり込んで、一間と三尺の長方形の箱のような中で、大好物のタバコをプカリプカリとふかしながら、とりとめもない妄想《もうそう》にふけることもありました。そんなときには、締め切ったふすまのすきまから、押し入れの中で火事でも始まったのではないかと思われるほど、おびただしい白煙がもれているのでした。

 ところが、この奇行を二、三日続けているあいだに、かれはまたしても、妙なことに気がついたのです。あきっぽいかれは、三日めあたりになると、もう押し入れの寝台にも興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や寝ながら手の届く天井板に落書きなどをしていましたが、ふと気がつくと、ちょうど頭の上の一枚の天井板が、クギを打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動くようなのです。どうしたのだろうと思って、手で突っばって持ち上げてみますと、なんなく上のほうへはずれることははずれるのですが、妙なことには、その手を離すと、クギづけにした個所は一つもないのに、まるでバネ仕掛けのように、元々どおりになってしまいます。どうやら、何者かが上から押えつけているような手ごたえなのです。

 はてな、ひょっとしたら、ちょうどこの天井板の上に、何か生き物が、たとえば大きなアオダイショウか何かがいるのではあるまいかと、三郎はにわかに気味がわるくなってきましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押して試みてみますと、ズッシリと重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かすたびに、その上でなんだかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。いよいよ変です。そこで、かれは思いきって、力まかせにその天井板をはねのけてみました。すると、そのとたん、ガラガラという音がして、上から何かが落ちてきたのです。かれはとっさの場合ハッとかたわきへ飛びのいたからよかったものの、もしそうでなかったら、その物体に打たれて大ケガをしているところでした。

「なあんだ、つまらない」

 ところが、その落ちてきた品物を見ますと、何か変わったものであればよいがと、少なからず期待していたかれは、あまりのことに、あきれてしまいました。それはつけ物石を小さくしたような、ただの石ころにすぎないのでした。よく考えてみれば、別に不思議でもなんでもありません。電灯工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚だけわざとはずして、そこからほこりなどが押し入れにはいらぬように、石ころで重しがしてあったのです。

 それはいかにもとんだ喜劇でした。でも、そ、の喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽しみを発見することになったのです。

 かれはしばらくの間、自分の頭の上に開いている、ほら穴の入り口とでもいった感じのする、その天井の穴をながめていましたが、ふと、持.ちまえの好奇心から、いったい天井裏というも・のはどんなふうになっているのだろうと、おそるおそるその穴に首を入れて、四方を見回しました。それはちょうど朝のことで、屋根の上にはもう日が照りつけているとみえ、ほうぼうのすきまからたくさんの細い光線が、まるで大小無数の探照灯を照らしてでもいるように、屋根.裏の空洞《くうどう》へさし込んでいて、そこは存外明るい.のです。

 まず目につくのは、縦に長々と横たえられた、太い、曲がりくねった、ダイジャのような棟木《むなぎ》です。明るいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しがきかないのと、それに、細長い建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが、向こうのほうはかすんで見えるほど、遠く遠く連なっているように思われます。そして、その棟木と直角に、これはダイジヤの肋骨《ろつこつ》にあたるたくさんの梁《はり》が、両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それだけでもずいぶん雄大なけしきですが、そのうえ、天井をささえるために、梁《はり》から無数の細い棒が下がっていて、それがまるで鐘乳洞《しょうにうどう》の内部を見るような感じを起こさせます。

「これはすてきだ」

 一応屋根裏を見回してから、三郎は思わずそうつぶやくのでした。病的なかれは、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人にはくだらなく見えるようなこうした事物に、かえって、いいしれぬ魅力をおほえるのです。

 その日から、かれの「屋根裏の散歩」が始まりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、かれはどろぼうネコのように、足音を盗んで、棟木《むなぎ》や梁《はり》の上を伝い歩くのです。さいわいなことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につきもののクモの巣もなければ、すすやほこりもまだ少しもたまっていず、ネズミのよごしたあとさえありませんですから、着物や手足のきたなくなる心配はないのです。かれはシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁《ちょうりよう》しました。時候もちょうど春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。

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 東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央に庭を囲んで、そのまわりに、ます型に、へやが並んでいるような作り方でしたから、したがって、屋根裏もずっとその形に続いていて、行き止まりというものがありません。かれのへやの天井裏から出発して、グルッと一回りしますと、またもとのかれのへやの上まで帰って来るようになっています。

 下のへやべやには、さも厳重に壁の仕切りができていて、その出入り口には締まりをするための金具まで取りつけてあるのに、一度天井裏に上がってみますと、これはまた、なんという開放的なありさまでしょう。だれのへやの上を歩きまわろうと、自由自在なのです。もし、その気があれば、三郎のへやのと同じような、石ころのおもしのしてある個所がほうぼうにあるのですから、そこから他人のへやへ忍び込んで、盗みを働くこともできます。廊下を通って、それをするのは、今もいうように、ます型の建物の各方面に人目があるばかりでなく、いつなんどき、ほかの止宿人や女中などが通り合わさないともかぎりませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。

 それからまた、ここでは、他人の秘密を透き見することも、かってしだいなのです。新築とはいっても、下宿屋の安普請のことですから、天井にはいたるところにすきまがあります。──へやの中にいては気がつきませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、そのすきまが意外に多いのに一驚を喫しますーまれには、節穴さえもあるのです。

 この屋根裏という屈強の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつの間にか忘れてしまっていた、あの犯罪|嗜好癖《しこうへき》が、またムラムラとわき上がってくるのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺激の強い、 「犯罪のまねごと」ができるに相違ない。そう思うと、かれはもううれしくてたまらないのです。どうしてまあ、こんな手近なところに、こんなおもしろい興味があるのを、きょうまで気づかないでいたのでしょう。魔物のように暗やみの世界を歩きまわって、二十人に近い東栄館の二階じゅうの止宿人の秘密を、次から次へと透き見して行く、そのことだけでも、三郎はもうじゅうぶん愉快なのです。そして、ひさかたぶりで、生きがいを感じさえするのです。

 かれはまた、この「屋根裏の散歩」を、いやがうえにも、興味深くするために、まず、身じたくからして、さもほんものの犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織りのシャツ、同じズボン下ーーなろうことなら、昔映画で見た、女賊プロテアのように、まっ黒なシャツを着たかったのだけれど、あいにくそんな物は持ち合わせていないので、まあがまんすることにしてータビをはき、手袋をはめー天井裏は、皆荒削りの木材ばかりで、指紋の残る心配などはほとんどないのですが-iそして、手にはピストルが……ほしくても、それがないので、懐中電灯を持つことにしました。

 夜ふけなど、昼とは違って、漏れてくる光線の量がごくわずかなので、一寸先も見分けられぬやみの中を、少しも物音をたてないように注意しながら、その姿で、ソロリソロリと棟木の上を伝っていますと、何かこう、自分がヘビにでもなって、太い木の幹をはい回っているような気持ちがして、われながら妙にすごくなってきます。でも、そのすごさが、何の因果か、かれにはゾクゾクするほどうれしいのです。

 こうして、数日、かれは有頂天になって、「屋根裏の散歩」を続けました。その間には、予期にたがわず、いろいろとかれを喜ばせるようなできごとがあって、それをしるすだけでも、じゅうぶん一編の小説ができ上がるほどですが、この物語の本題には直接関係のない事がらですから、残念ながらはしょって、ごく簡単に、二、三の例をお話しするにとどめましょう。

 天井からの透き見というものが、どれほど異様に興味のあるものだかは、実際やってみた人でなければ、おそらく想像もできますまい。たとい、その下に別段の事件が起こっていなくても、だれも見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察するだけで、じゅうぶんおもしろいのです。よく注意してみますと、ある人々は、そのそばに他人のいるときと、ひとりきりのときとでは、立ち居ふるまいはもちろん、その顔の相好までが、まるで変わるものだということを発見して、かれは少なからず驚きました。それに、ふだん、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見おろすのですから、この、目の角度の相違によって、あたりまえの座敷が、ずいぶん異様なけしきに感じられます。人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、ツクエ、タンス、火バチなどは、その上方の面だけが主として目に映ります。そして、壁というものは、ほとんど見えないので、そのかわりに、すべての品物のバックには、畳がいっぱいにひろがっているのです。

 何事がなくても、こうした興味があるうえに、そこには、往々にして、こっけいな、悲惨な、あるいはものすごい光景が展開されています。ふだん過激な反資本主義の議論を吐いている会社員が、だれも見ていないところでは、もらったばかりの昇給の辞令を、折りカバンから出したり、しまったり、…幾度も幾度も、飽かずにうちながめて喜んでいる光景、ゾロリとしたお召《め》しの着物をふだん着にして、はかない豪奢《ごうしや》ぶりを示しているある相場師が、いざ床《とこ》につくときには、その昼間はさもむぞうさに着こなしていた着物を、女のように丁寧にたたんで、床《とこ》の下へ敷くばかりか、しみでもついたものとみえて、それをたんねんに口でなめてーお召しなどの小さなよごれは、口でなめとるのがいちばんいいのだといいますー一種のクリーニングをやっている光景、何々大学の野球の選手だというニキビづらの青年が、運動家にも似合わないおくびょうさをもって、女中へのつけぶみを、食べてしまった夕飯のおぜんの上へ、のせてみたり、思い返して引っ込めてみたり、またのせてみたり、モジモジと同じことを繰り返している光景、中には、大胆にも、淫売婦《いんぱいふ》(?)を引き入れて、ここに書くことをはばかるような、すさまじい狂態を演じている光景さえも、だれはばからず、見たいだけ見ることができるのです。

 三郎はまた、止宿人と止宿人との、感情の葛藤《かつとう》を研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、さまざまに態度を変えていくありさま、今の先まで、えがおで話し合っていた相手を、隣のへやへ来ては、まるで不倶戴天《ふぐたいてん》のかたきででもあるようにののしっている者もあれば、コウモリのように、どちらへ行っても、つこうのいいおざなりをいって、陰でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の止宿人ー東栄館の二階にはひとりの女画学生がいたのですーになると、いっそう興味があります。「恋の三角関係」どころではありません。五角、六角と、複雑した関係が、手に取るように見えるばかりか、競争者たちのだれも知らない本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」にだけ、ハッキリとわかるではありませんか。おとぎ話に隠れみのというものがありますが、天井裏の三郎は、いわばその隠れみのを着ているも同然なのです。

 もし、そのうえ他人のへやの天井板をはがして、そこへ忍ぴ込み、いろいろないたずらをやることができたら、いっそうおもしろかったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三間に一個所くらいの割合で、三郎のへやのと同様に、石ころでおもしをした抜け道があるのですから、忍び込むのはぞうさもありませんけれど、いつへやの主が帰ってくるかしれませんし、そうでなくとも、窓はみな透明なガラス障子になっていますから、外から見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押し入れの中へ降り、ふすまをあけてへやにはいり、また押し入れのタナへよじ上って、もとの屋根裏へ帰る、その間には、どうかして物音をたてないとはかぎりません。それを、廊下や隣室から気づかれたら、もうおしまいなのです。

 さて、ある夜ふけのことでした。三郎は、一巡「散歩」を済ませて、自分のへやへ帰るために、梁《はり》から梁を伝っていましたが、かれのへやとは、庭を隔てて、ちょうど向かい側になっているむねの、一方のすみの天井に、ふと、これまで気のつかなかった、かすかなすきまを発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線がもれているのです。なんだろうと思って、かれはソッと懐中電灯をともして、調べてみますと、それはかなり大きな木の節《ふし》で、半分以上まわりの板から離れているのですが、その半分で、やっとつながり、あやうく節穴になるのを免れたものでした。ちょっとつめでこじさえすれば、なんなく離れてしまいそうなのです。そこで、三郎はほかのすきまから下を見てへやの主がすでに寝ていることを確かめたうえ、音のしないように注意しながら、長い間かかって、とうとうそれをはがしてしまいました。つこうのいいことには、はがしたあとの節穴が杯形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元元どおりつめてさえおけば、下へ落ちるようなことはなく、そこにこんな大きなのぞき穴があるのを、だれにも気づかれずに済むのです。

 これはうまいぐあいだと思いながら、その節穴から下をのぞいてみますと、ほかのすきまのように、縦には長くても、幅はせいぜい一分内外の不自由なのと違って、下側の狭いほうでも直径一寸以上はあるのですから、へやの全景が、楽々と見渡せます。そこで、三郎は思わず道草を食って、そのへやをながめたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人のうちで、三郎のいちばんむしの好かぬ、遠藤《えんどう》という歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者の助手を勤めている男のへやでした。その遠藤が、いやにのっぺりしたむしずの走るような顔を、いっそうのっぺりさせて、すぐ目の下に寝ているのでした。

 ばかにきちょうめんな男とみえて、へやの中は、ほかのどの止宿人のそれにもまして、キチンとせいとんしています。机の上の文房具の位置、本箱の中の書物の並べ方、ふとんの敷き方、まくらもとに置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の目ざましどけい、漆器の巻きタバコ入れ、色ガラスの灰ザラ、いずれを見ても、それらの品物の主人公が、世にも奇麗好きな人物であることがわかります。また、遠藤百身の寝姿も、.実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、かれが大きな口をあいて、雷のようないびきをかいていることでした。

 三郎は、何かきたないものでも見るようにまゆをしかめて、遠藤の寝顔をながめました。かれの顔は、奇麗といえば奇麗です。なるほど、かれ自身でふいちょうするとおり、女などには好かれる顔かもしれません。しかし、なんという間延びな、長々とした顔の造作《ぞうさく》でしょう。濃い頭髪、顔全体が長いわりには変に狭い富士額《ふじびたい》、短いまゆ、細い目、始終笑っているような目じりのしわ、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下のところから段をなして、上あごと下あごとが、オンモリと前方へせり出し、その部分いっぱいに、青白い顔と妙な対照をして、大きな紫色のくちびるが開いています。そして、肥厚性鼻炎ででもあるのか、始終鼻を詰まらせ、その大きな口をポカンとあけて呼吸をしているのです。寝ていていびきをかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。

 三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、なんだかこう背中がムズムズしてきて、かれののっぺりしたほっぺたを、いきなりなぐりつけてやりたいような気持ちになるのでした。


4

 そうして、遠藤の寝顔を見ているうちに、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴からつばをはけば、ちょうど遠藤の大きく開いた口の中へ、うまくはいりはしないか、ということでした。なぜならば、かれの口は、まるであつらえでもしたように、節穴の真下のところにあったのです。三郎は物好きにも、モモヒキの下にはいていた、サルマタのひもを抜き出して、それを節穴の上に垂直にたらし、片目をひもにくっつけて、ちょうど銃の照準でも定めるように、ためしてみますと、不思議な偶然です。ひもと、節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり、節穴からつばを吐けば、必ずかれの口へ落ちるに相違ないことがわかったのです。

 しかし、まさかほんとうにつばを吐きかけるわけにもいきませんので、三郎は節穴をもとのとおりに埋めておいて立ち去ろうとしましたがそのとき、不意に、チラリとある恐ろしい考えが、かれの頭にひらめきました。かれは思わず、屋根裏の暗やみの中で、まっさおになって、ブルブルと震えました。それは実に、なんの恨みもない遠藤を殺害するという考えだったのです。

 かれは遠藤に対してなんの恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから半月もたってはいないのでした。それも、偶然ふたりのひっこしが同じ日だったものですから、それを縁に、二、三度へやを尋ね合ったばかりで、別に深い交渉があるわけではないのです。では、なぜその遠藤を殺そうなどと考えたかといいますと、今もいうように、かれのようぼうや言動がなぐりつけたいほどムシが好かぬということも、多少てつだっていましたけれど、三郎のこの考えの主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。先からお話ししてきたとおり、三郎の精神状態は非常に変態的で、犯罪|嗜好癖《しこうへき》ともいうべき病気を持ってい、その犯罪の中でも、かれが最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起きるのも決して偶然ではないめです。ただ、今までは、たといしばしば殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりです。

 ところが、今、遠藤の場合は、全然疑いを受けないで、発覚のおそれなしに、殺人が行なわれそうに思われます。わが身に危険さえなければ、たとい相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮するのではありません。むしろ、その殺人行為が残虐であればあるほど、かれの異常な欲望は、いっそう満足させられるのでした。それでは、なぜ遠藤にかぎって殺人罪が発覚しないかー少なくとも三郎がそう信じていたかーといいますと、それには次のような事情があったのです。

 東栄館へひっこして四、五日たった時分でした。三郎は懇意になったばかりの、ある同宿者と、近所のカフェーへ出かけたことがあります。そのとき同じカフェーに遠藤も来ていて、三人が一つテーブルへ寄って酒をーもっとも、酒のきらいな三郎はコーヒーでしたけれどi飲んだりして、三人ともだいぶいい心持ちになって、連れだって下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、

「まあ、ぼくのへやへ来てください」

 と、むりにふたりを、かれのへやへひっぱり込みました。遠藤はひとりではしゃいで、夜がふけているのもかまわず、女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェーから持ち越しののろけ話を繰り返すのでした。ー三郎がかれをきらいだしたのはその晩からですーそのとき、遠藤は、まっかに充血したくちびるをペロペロとなめまわしながら、さも得意らしくこんなことをいうのでした。
「その女とですね、ぼくは一度情死をしかけたことがあるのですよ。まだ学校にいたころですが、ホラ、ぼくのは医学校でしょう。薬を手に入れるのはわけないんです。で、ふたりが楽に死ねるだけのモルヒネを用意して、聞いてください、塩原へ出かけたもんです」

 そういいながら、かれはフラフラと立ち上がって、押し入れのところへ行き、ガタガタふすまをあけると、中に積んであったコウリの底から、ごく小さい、小指の先ほどの、茶色のびんを捜してきて、聞き手のほうへさし出すのでした。びんの中には、底のほうにほんのぼっちり、何か白い光った粉がはいっていました。

「これですよ。これっぽっちで、じゅうぶんふたりの人間が死ねるのですからね。……しかし、あなたがた、こんなことをしゃべっちゃいやですよ。ほかの人に」

 そして、かれののろけ話は、さらに長々と、止めどもなく続いたことですが、三郎は今、そのときの毒薬のことを、はからずも思い出したのです。

「天井の節穴から、毒薬をたらして、人殺しをする! まあ、なんという奇想天外な、すばらしい犯罪だろう」.

 かれは、この妙計に、すっかり有頂天になってしまいました。よく考えてみれば、その方法は、いかにもドラマチックなだけ、可能性に乏しいものだということがわかるのですが、そしてまた、何もこんな手数のかかることをしないでも、ほかにいくらも簡便な殺人法があったはずですが、異常な思いつきにげんわくさせられたかれは、何を考える余裕もないのでした。そして、かれの頭には、ただもうこの計画についてのつこうのいい理屈ばかりが、次から次へと浮かんでくるのです。 、

 まず薬を盗み出す必要がありました。が、それはわけのないことです。遠藤のへやを尋ねて話し込んでいれば、そのうちには、便所へ立つとかなんとか、かれが席をはずすこともあるでしょう。その暇に、見覚えのあるコウリから、茶色の小びんを取り出しさえすればいいのです。遠藤は、始終そのコウリの底を調べているわけではないのですから、二日や三日で気のつくこともありますまい。たといまた気づかれたところで、その毒薬の入手経路が、すでに違法なのですから、表ざたになるはずもなく、それに、じょうずにやりさえすれば、だれが盗んだのかもわかりはしません。

 そんなことをしないでも、天井から忍び込むほうが楽ではないでしょうか。いやいや、それは危険です。先にもいうように、いつへやの主が帰ってくるかしれませんし、ガラス障子の外から見られる心配もあります。だいいち、遠藤のへやの・天井には、三郎のところのように、石ころでおもしをした、あの抜け道がないのです。どうしてどうして、クギづけになっている天井板をはがして忍び入るなんて危険なことができるものですか。

 さて、こうして手に入れた粉薬を、水に溶かして、鼻の病気のために始終開きっぱなしの、遠藤の大きな口へたらし込めば、それでいいのです。ただ心配なのは、うまく飲み込んでくれるかどうかという点ですが、なに、それもだいじょうぶです。なぜといって、薬がごく少量で、溶き方を濃くしておけば、ほんの数滴で足りるのですから、熟睡しているときなら、気もつかないくらいでしょう。また、気がついたにしても、おそらく吐き出す暇なんかありますまい。それから、モルヒネが苦い薬だということも、三郎はよく知っていましたが、たとい苦くとも、分量がわずかですし、なおそのうえに砂糖でも混ぜておけば、万一失敗する気づかいはありません。だれにしても、まさか天井から毒薬が降ってこようなどとは想像もしないでしょうから、遠藤が、とっさの場合、そこへ気のつくはずはないのです。

 しかし、薬がうまくきくかどうか、遠藤の体質に対して、多すぎるかあるいは少なすぎるかして、ただ苦悶《くもん》するだけで、死にきらないというようなことはあるまいか。これが問題です。なるほど、そんなことになれば、非常に残念ではありますが、でも、三郎の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々どおりふたをしてしまいますし、天井裏にも、そこにはまだほこりなどたまっていないのですから、なんの痕跡《こんせき》も残りません。指紋は手袋で防いであります。たとい困天井から毒薬をたらしたことがわかっても、だれのしわざだか知れるはずはありません。ことに、かれと遠藤とは、昨今の交際で、恨みを含むような問がらでないことは周知の事実癒のですから、かれに嫌疑《けんぎ》のかかる道理がないのです。いや、そうまで考えなくても、熟睡中の遠藤に、薬の落ちてきた方角などが、わかるものではありません。

 これが、三郎の屋根裏で、またへやへ帰ってから考えだしたムシのいい理屈でした。読者はすでに、たとい以上の諸点がうまいくとしても、そのほかに一つの重大な錯誤のあることを気づかれたことと思います。が、かれはいよいよ実行に着手するまで、不思議にも、そこへ気がつかないのでした。

5

 三郎が、つごうのよいおりを見計らって、遠藤のへやを訪問したのは、それから四、五日たった時分でした。むろん、その間には、かれはこの計画について、繰り返し繰り返し考えたうえ、だいじょうぶ危険がないと見きわめをつけることができたのです。のみならず、いろいろと新しいくふうをつけ加えもしました。たとえば、毒薬のびんのしまつについての考案もそれです。

 もし、うまく遠藤を殺害することができたならば、かれはそのびんを、節穴から下へ落としておくことにきめました。そうすることによって、かれは二重の利益が得られます。一方では、もし発見されれば重大な手がかりになるところのそのびんを、隠匿する世話がなくなること、他方では、死人のそばに毒物の容器が落ちていれば、だれしも遠藤が自殺したのだと考えるに相違ないこと、そして、そのびんが遠藤自身の品であるということは、いつか三郎といっしょにかれののろけ話を聞かされた男が、うまく証明してくれるに違いないのです。なおつこうのよいのは、遠藤は毎晩、キチンと締まりをして寝ることでした。入り口はもちろん、窓にも、中から金具で止めをしてあって、外部から絶対に、はいれないことでした。

 さてその日、三郎は非常な忍耐力をもって、顔を見てさえむしずの走る遠藤と、長い間雑談を交えました。話の間に、しばしばそれとなく、殺意をほのめかして、相手をこわがらせてやりたいという、危険きわまる欲望が起こってくるのを、かれはやっとのことでくい止めました。

「近いうちに、ちっとも証拠の残らないような方法で、おまえを殺してやるのだぞ。おまえがそうして、女のように多弁にペチャクチャしゃべるのも、もう長いことではないのだ。今のうちにせいぜいしゃべりためておくがいいよ」

 三郎は、相手のとめどもなく動く、大ぶりなくちびるをながめながら、心の内ではそんなことを繰り返していました。この男が、まもなく、青ぶくれの死がいになってしまうのかと思うと、かれはもう愉快でたまらないのです。

 そうして話し込んでいるうちに、案の定、遠藤が便所に立って行きました。それはもう、夜の十時ごろでもあったでしょうか、三郎、は抜けめなくあたりに気を配って、ガラス窓の外などもじゅうぶん調べたうえ、音のしないように、しかし、手早く押し入れをあけて、コウリの中から、例の薬びんを捜し出しました。いつか入れ場所をよく見ておいたので、捜すのにほねはおれません。でも、さすがに、胸がドキドキして、わきの下からはひや汗が流れました。実をいうと、かれの今度の計画のうち、いちばん危険なのは、この毒薬を盗み出す仕事でした。どうしたことで、遠藤が不意に帰ってくるかもしれませんし、また、だれかが透き見をしていないともかぎらぬのです。が、それについては、かれはこんなふうに考えていました。もし見つかったら、あるいは見つからなくても、遠藤が薬びんのなくなったことを発見したらーそれはよく注意していれば、じきわかることです。ことに、かれには天井の透き見という武器があるのですからー殺害を思いとどまりさえすればいいのです。ただ毒薬を盗んだというだけでは、たいした罪にもなりませんからね。

 それはともかく、けっきょく、かれは、まずだれにも見つからずに、うまうまと薬びんを手に入れることができたのです。そこで、遠藤が便所から帰って来るとまもなく、それとなく話を切り上げて、かれは自分のへやへ帰りました。そして、窓にはすきまなくカーテンを引き、入り口の戸には締まりをしておいて、机の前にすわると、胸をおどらせながら、ふところからかわいらしい茶色のびんを取り出して、さて、つくづくとながめるのでした。

 MORPHINUM HYDROCHLORICUM (o.-g.)

 たぶん遠藤が書いたのでしょう。小さいレッテルには、こんな文字がしるしてあります。かれは以前に毒物学の書物を読んで、モルヒネのことは多少知っていましたけれど、実物にお目にかかるのは今がはじめてでした。たぶん、それは塩酸モルヒネというものなのでしょう。びんを電灯の前に持って行って、透かして見ますと、小さじに半分もあるかなしの、ごくわずかの白い粉が、奇麗に透いて見えています。いったい、こんなもので、人間が死ぬのかしら、と不思議に思われるほどです。

 三郎は、むろん、それをはかるような精密なはかりを持っていないので、分量の点は遠藤のことばを信用しておくほかはありませんでしたが、あのときの遠藤の態度口調は、酒に酔っていたとはいえ、決してでたらめとは思われません。それに、レッテルの数字も、三郎の知っている致死量の、ちょうど二倍なのですから、よもやまちがいはありますまい。

 そこで、かれはびんを机の上に置いて、そばに、用意の砂糖や清水《せいすい》を並べ、薬剤師のような綿密さで、熱心に調合を始めるのでした。止宿人たちはもう皆寝てしまったとみえて、あたりは森閑《しんかん》と静まり返っています。その中で、マッチの棒に浸した清水を、用心深く、一滴一滴と、びんの中へたらしていますと、自分自身の呼吸が、悪魔のため息のように、変にものすごく響くのです。それがまあ、どんなに三郎の変態的な嗜好《しこう》を満足させたことでしょう。ともすれば、かれの目の前に浮かんでくるのは、暗や、みのどうくつの中でフツフツとあわ立ち煮える毒薬のナベを見つめて、ニタリニタリと笑っている、あの古い物語の恐ろしい妖婆《ようば》の姿でした。

 しかしながら、一方においては、そのころから、これまで少しも予期しなかった、ある恐怖に似た感情が、かれの心の片すみにわきだしていました。そして時間のたつにしたがって、少しずつ少しずつ、それが広がってくるのです。

MURDER CANNOT BE HID LONG;A MAN'S SON MAY, BUT AT THE LENGTH TRUTH WILL OUT.

 だれかの引用で覚えていた、あのシェークスピアの無気味な文句が、目もくらめくような光を放って、かれの脳髓に焼きつくのです。この計画には、絶対に破綻《はたん》がないと、あくまで信じながらも、刻女に増大してくる不安を、かれはどうすることもできないのでした。

 なんの恨みもないひとりの人間を、ただ殺人のおもしろさに殺してしまうとは、それが正気のさたか、おまえは悪魔にみいられたのか、おまえは気が違ったのか。いったい、おまえは、自分自身の心をそら恐ろしくは思わないのか。

 長い間、夜のふけるのも知らないで、調合してしまった毒薬のびんを前にして、かれは物思いにふけっていました。いっそ、この計画を思いとどまることにしよう。幾度そう決心しかけたかしれません。でも、けっきよくは、どうしても、あの人殺しの魅力を断念する気にはなれないのでした。

 ところが、そうして、とつおいつ考えているうちに、ハッと、ある致命的な事実が、かれの頭にひらめきました。

「ウフフフ……」

 突然、三郎は、おかしくてたまらないように、しかし寝静まったあたりに気をかねながら、笑いだしたのです。

「ばかやろう。おまえはなんとよくできた道化役者だ! 大まじめでこんな計画をもくろむなんて、もうおまえのマヒした頭には、偶然と必然の区別さえつかなくなったのか。あの遠藤の大きく開いた口が、一度例の節穴の真下にあったからといって、その次にも同じようにそこにあるということが、どうしてわかるのだ。いや、むしろ、そんなことは、まずありえないではないか」

 それは実にこっけいきわまる錯誤でした。かれのこの計画は、すでにその出発点において、一大|迷妄《めいもう》に陥っていたのです。しかし、それにしても、かれはどうしてこんなわかりきったことを今まで気づかずにいたのでしょう。実に不思議といわねばなりません。おそらく、これは、さも利口ぶっているかれの頭脳に、非常な欠陥があった証拠ではありますまいか。それはとにかく、かれは「この発見によって、一方でははなはだしく失望しましたけれど、同時に他の一方では、不思議な気安さを感じるのでした。

「おかげで、おれはもう、恐ろしい殺人罪を犯さなくても済むのだ。ヤレヤレ、助かった」

 そうはいうものの、その翌日からも、「屋根裏の散歩」をするたびに、かれは未練らしく例の節穴をあけて、遠藤の動静を探ることを怠りませんでした。それは一つは、毒薬を盗み出したことを遠藤が勘づきはしないかという心配からでもありましたけれど、しかしまた、どうかして、このあいだのように、かれの口が節穴の真下へこないかと、その偶然を待ちこがれていなかったとはいえません。現に、かれは、いつの「散歩」の場合にも、シャツのポケットからあの毒薬を離したことはないのでした。

6

 ある夜のことーそれは、三郎が「屋根裏の散歩」を始めてから、もう十日ほどもたっていました。十日の間も、少しも気づかれることなしに、毎日何回となく、屋根裏をはいまわっていたかれの苦心は、ひととおりではありません。綿密なる注意、そんなありふれたことばでは、とてもいい表わせないようなものでした。ー三郎はまたしても、遠藤のへやの天井裏をうろついていました。そして(何かおみくじでも引くような心持ちで、吉か凶か、きょうこそはひょつとしたら吉ではないかな、どうか吉が出てくれますようにと、神に念じさえしながら、例の節穴をあけてみるのでした。

 すると、ああ、かれの目がどうかしていたのではないでしょうか。いつか見たときと寸分たがわない格好で、そこにいびきをかいている遠藤の口が、ちょうど節穴の真下へ来ていたではありませんか。三郎は、何度も目をこすって見直し、またサルマタのひもを抜いて、目測さえしてみましたが、もうまちがいはありません。ひもと穴と口とが、まさしく一直線上にあるのです。かれは思わず叫び声を上げそうになるのを、やっとこらえました。ついにその時が来た喜びと、一方ではいいしれぬ恐怖と、その二つが交錯《こうさく》した一種異様の興奮のために、かれは暗やみの中でまっさおになってしまいました。

 かれはポケットから、毒薬のびんを取り出すと、ひとりでに震えだす手先を、じっとためながら、そのせんを抜き、ひもで見当をつけておいてーおお、そのときのなんとも形容できない心持ちーポトリ、ポトリ、ポトリと数滴。それがやっとでした。かれはすぐさま目を閉じてしまったのです。

「気がついたか、きっと気がついた。きっと気がついた。そして、今にも、おお、今にもどんな大声で叫びだすことだろう」

 かれは、もし両手があいていたら、耳をもふさぎたいほどに思いました。

 ところが、かれのそれほどの気づかいにもかかわらず、下の遠藤はウンともスーともいわないのです。毒薬が口の中へ落ちたところは確かに見たのですから、それにまちがいはありません。でも、この静けさはどうしたというのでしょう。三郎はおそるおそる目を開いて、節穴をのぞいてみました。すると、遠藤は口をムニャムニャさせ、両手でくちびるをこするような格好をして、ちょうどそれが終わったところなのでしょう。またもやグーグーと寝入ってしまうのでした。案ずるより産むがやすい、とはよくいったものです。寝ぼけた遠藤は、恐ろしい毒薬を飲み込んだことを少しも気づかないのでした。

 三郎は、かわいそうな被害者の顔を、身動きもしないで、くい入るように見つめていました。それがどれほど長く感じられたか、事実は、二十分とたっていないのに、かれには二、三時間もそうしていたように思われたことです。すると、そのとき、遠藤はフッと目を開きました。そして、半身を起こして、さも不思議そうにへやの中を見回しています。目まいでもするのか、首を振ってみたり、目をこすってみたり、うわごとのような意味のないことをブツブツとつぶやいてみたり。いろいろ気違いめいたしぐさをして、それでも、やっとまた、まくらにつきましたが、今度は盛んに寝返りを打つのです。

 やがて、寝返りの力がだんだん弱くなっていき、もう身動きをしなくなったかと思うと、そのかわりに、かみなりのような鼾声《かんせい》が響き始めました。見ると、顔の色がまるで酒にでも酔ったように、まっかになって、鼻の頭や額には、玉の汗がふつふつとふき出しています。熟睡しているかれの身内で、今、世にも恐ろしい生死の闘争が行なわれているのかもしれません。それを思うと、身の毛がよだつようです。

 さて、しばらくすると、さしも赤かった顔色が、徐々にさめて、紙のように白くなったかと思うと、見る見る青藍《せいらん》色に変わっていきます。そしていつの間にかいびきがやんで、どうやら、吸う息、吐く息の度数が減ってきました。……ふと、胸のところが動かなくなったので、いよいよ最期かと思っていますと、しばらくして、思い出したように、またくちびるがビクビクして、鈍い呼吸が帰ってきたりします。そんなことが二、三度繰り返されて、それでおしまいでした。……もうかれは動かないのです。グッタリとまくらをはずした顔に、われわれの世界とはまるで別な一種のほほえみが浮かんでいます。かれはついに、いわゆる「仏《ほとけ》」になってしまったのでしょう。

 息をつめ、手に汗を握って、その様子を見つめていた三郎は、はじめてホッとため息をつきました。とうとうかれは殺人者になってしまったのです。それにしても、なんという楽々とした死に方だったでしょう。かれの犠牲者は、叫び声一つ立てるでなく、苦悶《くもん》の表情さえ浮かべないで、いびきをかきながら死んでいったのです。

「なあんだ。人殺しなんて、こんなあっけないものか」

 三郎はなんだかガッカリしてしまいました。想像の世界では、もうこのうえもない魅力であつた殺人ということが、やってみれば、ほかの日常茶飯事となんの変わりもないのでした。このあんばいなら、まだ何人だって殺せるぞ。そんなことを考える一方では、しかし、気抜けのしたかれの心を、なんともえたいの知れぬ恐ろしさが、ジワジワと襲い始めていました。見つめている自分の姿が、三郎はにわかに気眛わるくなってきました。妙に首筋のところがゾクゾクして、ふと耳をすますと、どこかで、ゆっくりゆっくり、自分の名を呼び続けているような気さえします。思わず、節穴から目を離して、暗やみの中を見回しても、久しく明るいところをのぞいていたせいでしょう。目の前には、大きいのや、小さいのや、黄色い輪のようなものが、次々に現われては消えていきます。じつと見ていますと、その輪のうしろから、遠藤の異様に大きなくちびるが、ヒョイと出て来そうにも思われるのです。

 でも、かれは、最初計画したことだけは、まずまちがいなく実行しました。節穴から薬びんfその中にはまだ数滴の毒液が残っていたのですーをほうり落とすこと、その跡の穴をふさぐこと、万一天井裏に何かの痕跡《こんせき》が残っていないか、懐中電灯を点じて調べること、そして、もうこれで手落ちがないとわかると、かれは大急ぎで梁を伝って、自分のへやへ引き返しました。

 「いよいよこれで済んだ」

 頭もからだも、妙にしびれて、何かしら物忘れでもしているような、不安な気持ちを、しいて引き立てるようにして、かれは押し入れの中で着物を着始めました。が、そのときふと気がついたのは、例の目測に使用したサルマタのひもを、どうしたかということですっひょっとしたら、あすこへ忘れてきたのではあるまいか。そう思うと、かれは、あわただしく腰のあたりを探ってみました。どうもないようです。かれはますますあわてて、からだじゅうを調べました。すると、どうしてこんなことを忘れていたのでしょう。それはちゃんとシャツのポケットに入れてあったではありませんか。ヤレヤレ、よかったと、ひと安心して、ポケットの中から、そのひもと、懐中電灯とを取り出そうとしますと、ハッと驚いたことには、その中にまだほかの品物がはいっていたのです。……毒薬のぴんの小さなコルクのせんがはいっていたのです。

 かれは、さっき毒薬をたらすとき、あとで見失っては大変だと思って、そのせんをわざわざポケットへしまっておいたのですが、それを度忘れしてしまって、びんだけ下へ落としてきたものとみえます。小さなものですけれど、このままにしておいては、犯罪発覚のもとです。かれは恐れる心を励まして、ふたたび現場へとって返し、それを節穴から落としてこなければなり.ませんでした。

 その夜、三郎が床《とこ》についたのはーもうそのころは、用心のために押し入れで寝ることはやめていましたがー午前三時ごろでした。それでも、興奮しきったかれは、なかなか寝つかれないのです。あんなせんを落とすのを忘れてくるほどでは、ほかにも何か手ぬかりがあったかもしれない。そう思うと、かれはもう気が気ではないのです。そこで、乱れた頭をしいて落ちつけるようにして、その晩の行動を、順序を追って一つ一つ思い出していき、どっかに手ぬかりがなかったかと調べてみました。が、少なくとも、かれの頭では何事をも発見できないのです。かれの犯罪には、どう考えても、寸分の手落ちもないのです。

 かれはそうして、とうとう夜の明けるまで考え続けていましたが、やがて、早起きの止宿人たちが、洗面所へ通うために廊下を歩く足音が聞こえだすと、つと立ち上がって、いきなり外出の用意を始めるのでした。かれは遠藤の死がいが発見されるときを恐れていたのです。そのとき、どんな態度をとったらいいのでしょう。ひょっとして、あとになって疑われるような、妙な挙動があっては大変です。そこで、かれは、そめあいだ外出しているのがいちばん安全だと考えたのですが、しかし、朝飯もたべないで外出するのは、いっそう変ではないでしょうか。

「ああ、そうだっけ。何をうっかりしているのだ」

 そこへ気がつくと、かれはまたもや寝床の中へもぐり込むのでした。

 それから朝飯までの二時間ばかりを、三郎はどんなにビクビクして過ごしたことでしょう。が、さいわいにも、かれが大急ぎで食事をすませて、下宿屋を逃げ出すまでは、何事も起こらないで済みました。そうして下宿屋を出ると、かれはどこというあてもなく、ただ時間を過ごすために、町から町へとさまよい歩くのでした。

7

 けっきょく、かれの計画はみごとに成功しました。

 かれがお昼ごろ外から帰ったときには、もう遠藤の死がいは取りかたづけられ、警察からの臨検もすっかり済んでいましたが、聞けば、案の定、だれひとり遠藤の自殺を疑うものはなく、その筋の人たちも、ただ形ばかりの取り調べをすると、じきに帰ってしまったということでした。

 ただ、遠藤がなぜ自殺したかというその原因は少しもわかりませんでしたが、かれの日ごろの素行から想像して、たぶん痴情の結果であろうということに、皆の意見が一致しました。現に最近、ある女に失恋していたというような事実まで現われてきたのです。なに、「失恋した、失恋した」というのは、かれのような男にとっては、一種の口癖みたいなもので、たいした意味があるわけではないのですが、ほかに原因がないので、けっきょく、それにきまったわけでした。


 のみならず、原因があってもなくても、かれの自殺したことは、一点の疑いもないのでした。入り口も窓も、内部から戸締まりがしてあったのですし、毒薬の容器がまくらもとにころがっていて、それがかれの所持品であったこともわかっているのですから、もうなんと疑ってみよう,もないのです。天井から毒薬をたらしたのではないかなどと、そんなばかばかしい疑いを起こすものは、だれもありませんでした。

 それでも、なんだかまだ安心しきれないような気がして、三郎はその日一日、ビクビクものでいましたが、やがて一日、二日《ふつか》とたつにしたがって、かれはだんだん落ちついてきたばかりか、はては、自分の手ぎわを得意がる余裕さえ生じてきました。

「どんなものだ。さすがはおれだな。見ろ、だれひとり、ここに、同じ下宿屋の一間《ま》に、恐ろしい殺人犯人がいることを気づかないではないか」

 かれは、この調子では、世間にどれくらい隠れた処罰されない犯罪があるか、知れたものではない、と思うのでした。 「天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にして漏《も》らさず」なんて、あれはきっと昔からの為政者たちの宣伝にすぎないので、あるいは人民どもの迷信にすぎないので、その実は、巧妙にやりさえすれば、どんな犯罪だって、永久にあらわれないで済んでいくのだ。かれはそんなふうにも考えるのでした。もっとも、さすがに夜などは、遠藤の死に顔が目先にちらつくような気がして、なんとなく気味がわるく、その夜以来、かれは例の「屋根裏の散歩」も中止しているしまつでしたが、それはただ、心の中の問題で、やがては忘れてしまうことです。実際、罪が発覚さえせねば、もうそれでじゅうぶんではありませんか。

 さて、遠藤が死んでからちょうど三日めのことでした。三郎が今、夕飯を済ませて小楊枝《こようじ》を使いながら、鼻歌かなんかうたっているところへ、ヒョッコリと、久しぶりの明智小五郎が尋ねてきました。

「やア」

「ごぶさた」

 かれらはさも心安げに、こんなふうのあいさつを取りかわしたことですが、三郎のほうでは、おりがおりなので、このしろうと探偵の来訪を、少々気味わるく思わないではいられませんでした。

「この下宿で毒を飲んで死んだ人があるっていうじゃないか」

 明智は、座につくと、さっそくその三郎の避けたがっている事がらを話題にするのでした。おそらく、かれは、だれかから自殺者の話を聞いて、さいわい同じ下宿に三郎がいるので、持ちまえの探偵的興味から、尋ねて来たのに相違ありません。

「ああ、モルヒネでね。ぼくはちょうどその騒ぎのときに居合わせなかったから、詳しいことはわからないけれど、どうも痴情の結果らしいのだ」

 三郎は、その話題を避けたがっていることを悟られまいと、かれ自身もそれに興味を持ってるような顔をして、こう答えました。

「いったい、どんな男なんだい」

 すると、すぐにまた明智が尋ねるのです。それからしばらくの間、かれらは遠藤のひととなりについて、死因について、自殺の方法について、問答を続けました。三郎は初めのうちこそ.ビクビクもので、明智の問いに答えていましたが、慣れてくるにしたがって、だんだんおうちゃくになり、はては、明智をからかってやりたいような気持ちにさえなるのでした。

「きみはどう思うね。ひょっとしたら、これは他殺じゃあるまいか。なに、別に根拠があるわけではないけれど、自殺に相違ないと信じていたのが、実は他殺だったりすることが往々あるものだからね」

 どうだ、さすがの名探偵もこればっかりはわかるまいと、心の中であざけりながら、三郎はこんなことまでいってみるのでした。

 それがかれには愉快でたまらないのです。

「それはなんともいえないね。ぼくも実は、ある友だちからこの話を聞いたときに、死因が少しあいまいだという気がしたのだよ。どうだろう、その遠藤君のへやを見るわけにはいくまいか」

「ぞうさないよ」三郎はむしろとくとくとして答えました。

「隣のへやに遠藤の同郷の友だちがいてね。それが遠藤のおやじから荷物の保管を頼まれているんだ。きみのことを話せば、きっと喜んで見せてくれるよ」

 それから、ふたりは遠藤のへやへ行ってみることになりました。そのとき、廊下を先頭になって歩きながら、三郎はふと妙な感じにうたれたことです。

「犯人自身が、探偵をその殺人の現場へ案内するなんて、じつに不思議なことだな」

 ニヤニヤと笑いそうになるのを、かれはやっ.とのことでこらえました。三郎は、生涯《しょうがい》の中で、おそらくこのときほど得意を感じたことはありますまい。

「イヨー、親玉ア」

 自分自身にそんなかけ声でもしてやりたいほど、水ぎわたった悪党ぶりでした。

 遠藤の友だち──それは北村といって、遠藤が失恋していたという証言をした男です──は、明智の名まえをよく知っていて、快く遠藤のへやをあけてくれました。遠藤の父親が国もとから出て来て、仮葬《かりそう》を済ませたのが、やっときょうの午後のことで、へやの中には、かれの持ち物が馬まだ荷造りもせず、置いてあるのです。

 遠藤の変死が発見されたのは、北村が会社へ出勤したあとだったので、発見のせつなのありさまはよく知らないようでしたが、人から聞いたことなどを総合して、かれはかなり詳しく説明してくれました。三郎もそれについて、さも局外者らしく、いろいろとうわさ話などを述.べたてるのでした。

 明智はふたりの説明を聞きながら、いかにもくろうとらしい目配りで、へやの中をあちらこちらと見回していましたが、ふと机の上に置いてあった目ざましどけいに気づくと、何を思ったのか、長い間それをながめているのです。たぶん、その珍奇な装飾が、かれの目をひいたのかもしれません。

「これは目ざましどけいですね」

「そうですよ」北村は多弁に答えるのです。

「遠藤の自慢の品です。あれはきちょうめんな男でしてね、朝の六時に鳴るように、毎晩欠かさずにこれを巻いておくのです。わたしなんかいつも、隣のへやのベルの音で目をさましていたくらいです。遠藤の死んだ日だってそうです.よ。あの朝もやっぱり、これが鳴っていましたので、、まさかあんなことが起こっていようとは想像もしなかったのですよ」

 それを聞くと、明智は長く延ばした頭の毛を、指でモジャモジャかき回しながら、何か非常に熱心な様子を示しました。

「その朝、目ざましが鳴ったことは、まちがいないでしょうね」

「ええ、それはまちがいありません」

「あなたは、そのことを、警察の人におっしゃいませんでしたか」

「いいえ……でも、なぜそんなことをお聞きなさるのです」

「なぜって、妙じゃありませんか。その晩に自殺しようと決心した者が、翌日の朝の目ざましを巻いておくというのは」

「なるほど、そういえば変ですね」

 北村はうかつにも、今まで、まるでこの点に気づかないでいたらしいのです。そして、明智のいうことが、何を意味するかも、まだハッキリのみ込めない様子でした。が、それも決して無理ではありません。入り口に締まりがしてあったこと、毒薬の容器が死人のそばに落ちていたこと、その他すべての事情が、遠藤の自殺を疑いないものに見せていたのですから。

 しかし、この問答を聞いた三郎は、まるで足もとの地盤が不意にくずれ始めたような驚きを感じました。そして、なぜこんなところへ明智を連れて来たのだろうと、自分の愚かさを悔やまないではいられませんでした。

 明智はそれから、いっそうの綿密さで、へやの中を調べ始めました。むろん、天井も見のがすはずはありません。かれは天井板を一枚一枚たたき試みて、人間の出入りした形跡がないかを調べまわったのです。が、三郎の安堵《あんど》したことには、さすがの明智も、節穴から毒薬をたらして、そこをまた元々どおりふたしておくという新手には、気づかなかったとみえて、天井板が一枚もはがれていないことを確かめると、もうそれ以上のせんさくはしませんでした。

 さて、けっきょく、その日は別段の発見もなく済みました。明智は遠藤のへやを見てしまうと、また三郎のところへもどって、しばらく雑談を取りかわしたのち、なにこともなく帰って行ったのです。ただ、その雑談の間に、次のような問答のあったことを書きもらすわけにはいきません。なぜといって、これは一見ごくつまらないように見えて、その実、このお話の結末に最も重大な関係を持っているのですから。

 そのとき、明智はたもとから取り出したタバコに火をつけながら、ふと気がついたように、こんなことをいったのです。

「きみはさっきから、ちっともタバコを吸わないようだが、よしたのかい」

 そういわれてみますと、なるほど、三郎はこの二、三日、あれほど大好物のタバコを、まるで忘れてしまったように、一度も吸っていないのでした。

「おかしいね。すっかり忘れていたんだよ。それに、きみがそうして吸っていても、ちっともほしくならないんだ」

「いつから?」

「考えてみると、もう二、三日吸わないようだ。そうだ、ここにあるのを買ったのが、たしか日曜日だったから、もうまる三日の間、一本も吸わないわけだよ。いったい、どうしたんだろう」

「じゃ、ちょうど遠藤君の死んだ日からだね」

 それを聞くと、三郎は思わずハッとしました。しかし、まさか遠藤の死と、かれがタバコを吸わないこととのあいだに因果関係があろうとも思われませんので、その場は、ただ笑って済ませたことですが、あとになって考えてみますと、それは決して笑い話にするような、無意味な事がらではなかったのです。fそして、この三郎のタバコぎらいは、不思議なことに、その後いつまでも続きました。

8

 三郎は、その当座、例の目ざましどけいのζとが、なんとなく気になって、夜もおちおち眠れないのでした。たとい遠藤が自殺したのでないということがわかっても、かれがその下手人だと疑われるような証拠は一つもないはずですから、そんなに心配しなくともよさそうなものですが、でも、それを知っているのがあの明智だと思うと、なかなか安心はできないのです。

 ところが、それから半月ばかりは、なにごともなぐ過ぎ去ってしまいました。心配していた明智も、その後一度もやって来ないのです。

「やれやれ、これでいよいよおしまいか」

 そこで三郎は、ついに気を許すようになりました。そして、ときどき恐ろしい夢に悩まされることはあっても、だいたいにおいて、愉快な日々を送ることができたのです。ことにかれを喜ばせたのは、あの殺人罪を犯して以来というもの、これまで少しも興味を感じなかったいろいろな遊びが、不思議とおもしろくなってきたことです。ですから、このごろでは毎日のように、かれは家を外にして、遊びまわっているのでした。

 ある日のこと、三郎はその日も外で夜をふかして、十時ごろに自分のへやへ帰ったのですが、ざて寝ることにして、ふとんを出すために、なにげなく、スーッと押し入れのふすまを開いたときでした。

「ワッ」

 かれはいきなり恐ろしい叫び声を上げて、二、三歩あとへよろめきました。

 かれは夢を見ていたのでしょうか。それとも、気でも狂ったのではありますまいか。そこには、押し入れの中には、あの死んだ遠藤の首が、頭髪をふり乱して、薄晴い天井からさかさまに、ぶらさがっていたのです。

 三郎は、いったん逃げ出そうとして、入り口のところまで行きましたが、何かほかのものを見違えたのではないかというような気もするものですから、おそるおそる引き返して、もう一度、ソッと押し入れの中をのぞいてみますと、どうして、見違いでなかったばかりか、今度はその首が、いきなりニッコリ笑ったではありません.か。

 三郎は、ふたたびアッと叫んで、ひと飛ぴに入り口のところまで行って障子をあけると、や,にわに外へ逃げ出そうとしました。

「郷田君。郷田君」

 それを見ると、押し入れの中では、しきりと.三郎の名まえを呼び始めるのです。

「ぼくだよ。ぼくだよ。逃げなくってもいいよ」

 それが、遠藤の声ではなくて、どうやら聞き、覚えのあるほかの人の声だったものですから、三郎はやっと逃げるのを踏みとどまって、こわごわふり返ってみますと、

「失敬失敬」

 そういいながら、以前よく三郎自身がしたように、押し入れの天井から降りて来たのは、意外にも、あの明智小五郎でした。

「驚かせて済まなかった」押し入れを出た洋装姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。

「ちょっと、きみのまねをしてみたのだよ」

 それは実に、幽霊なぞよりはもっと現実的な、いっそう恐ろしい事実でした。明智はきっと、何もかも悟ってしまったのに相違ありません。

 そのときの三郎の心持ちは、実になんとも形容のできないものでした。あらゆる事がらが、頭の中で風車《かざぐるま》のように旋転して、いっそ何も思うことがないときと同じように、ただボンヤリとして、明智の顔を見つめているばかりでした。

「さっそくだが、これはきみのシャツのボタンだろうね」

 明智は、いかにも事務的な調子で始めました。手には小さな貝ボタンを持って、それを三郎の目の前につき出しながら、

「ほかの下宿人たちも調べてみたけれど、だれもこんなボタンをなくしているものはないのだ。ああ、そのシャツのだね。ソラ、二番めのボタンがとれているじゃないか」

 ハッと思って、胸を見ると、なるほど、ボタンが一つとれています。三郎は、それがいつ取れたものやら、少しも気がつかないでいたのです。

「形も同じだし、まちがいないね。ところで、"このボタンをどこで拾ったと思う。天井裏なんだよ。それも、あの遠藤君のへやの上でだよ」

 それにしても、三郎はどうして、ボタンなぞを落として、気づかないでいたのでしょう。それに、あのとき、懐中電灯でじゆうぶん調べたはずではありませんか。

「きみが殺したのではないかね、遠藤君は」

 明智は無邪気にニコニコしながら、──それがこの場合、いっそう気味わるく感じられるのです──三郎のやり場に困った目の中をのぞき込んで、とどめを刺すようにいうのでした。

 三郎は、もうダメだと思いました。たとい明智がどんな巧みな推理を組み立ててこようとも、ただ推理だけであったら、いくらでも抗弁の余地があります。けれども、こんな予期しない証拠物をつきつけられては、どうすることもできません。

 三郎は今にも泣きだそうとする子どものような表情で、いつまでも黙りこくって、突っ立っていました。ときどき、ボンヤリとかすんでくる目の前には、妙なことに、遠い遠い昔の、たとえば小学校時代のできごとなどが、幻のように浮き出してきたりするのでした。

 それから二時間ばかりののち、かれらはやっぱりもとのままの状態で、その長いあいだ、ほとんど姿勢さえもくずさず、三郎のへやに相対していました。

「ありがとう、よくほんとうのことを打ち明けてくれた」最後に明智がいうのでした。

「ぼくは決して、きみのことを警察へ訴えなぞしないよ。ただね、ぼくの判断が当たっているかどうか、それが確かめたかったのだ。きみも知っているとおり、ぼくの興味はただ『真実』を知るという点にあるので、それ以上のことは、実はどうでもいいのだ。それにね、この犯罪に.は、一つも証拠というものがないのだよ。シャツのボタン? ハハハハ、あれはぼくのトリックさ。何か証拠品がなくては、きみが承知しまいと思ってね。この前きみを尋ねたとき、その二番めのボタンがとれていることに気づいたものだから、ちょっと利用してみたのさ。なに、これはぼくがボタン屋へ行って仕入れてきたのだよ。ボタンがいつとれたなんていうことは、だれしもあまり気づかないことだし、それに、きみは興奮している際だから、たぶんうまくいくだろうと思ってね。

「ぼくが遠藤君の自殺を疑いだしたのは、きみも知っているように、あの目ざましどけいからだ。あれから、この管轄の警察署長を尋ねて、ここへ臨検したひとりの刑事から、詳しく当時の模様を聞くことができたが、その話によると、モルヒネのびんが、タバコの箱の中にころがっていて、中身が巻きタバコにこぼれかかっていたというのだ。聞けば、遠藤は非常にきちょうめんな男だというし、ちゃんと床にはいって死ぬ用意までしているものが、毒薬のびんをタバコの箱の中へ置いてさえあるに、しかも中身をこぼすなどというのは、なんとなく不自然ではないか。

「そこで、ほくはますます疑いを深くしたわけだが、ふと気づいたのは、きみが遠藤の死んだ日からタバコを吸わなくなっていることだ。この二つの事がらは、偶然の一致にしては、少し妙ではあるまいか。すると、ぼくは、きみが以前犯罪のまねなどをして喜んでいたことを思い出した。きみには変態的な犯罪嗜好癖《しこうへき》があったのだ。

「ぼくはあれから、たびたびこの下宿へ来て、きみに知られないように、遠藤のへやを調べていたのだよ。そして、犯人の通路は天井のほかにない、ということがわかったものだから、きみのいわゆる「屋根裏の散歩」によって、止宿人の様子を探ることにした。ことに、きみのへやの上では、たびたび長い間うずくまっていた。そして、きみのあの鹽イライラした様子を、すっかり透き見してしまったのだよ。

「探れば探るほど、すべての事情がきみをさしている。だが、残念なことには、確証というものが一つもないのだ。そこでね、ぼくはあんなおしばいを考え出したのさ。ハハハハハ、じゃ、これで失敬するよ。たぶん、もうお目にかかれまい。なぜって、ソラ、きみはちゃんと自首する決心をしているのだかちね」

 三郎は、この明智のトリックに対しても、もはや何の感情も起こらないのでした。かれは明智の立ち去るのも知らず顔に、

「死刑にされるときの気持ちは、いったいどんなものだろう」

 ただそんなことを、ボンヤリと考え込んでいるのでした。

 かれは毒薬のびんを節穴から落としたとき、それがどこへ落ちたかを見なかったように思っていましたけれど、その実は、巻きタバコに毒薬のこぼれたことまで、ちゃんと見ていたのです。そして、それが意識下に押しこめられて、精神的に、かれをタバコぎらいにさせてしまったのでした。

     (『新青年』大正十四年八月増刊)
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