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江戸川乱歩「黒手組」


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あらわれたる事実

 またしても明智小五郎のてがら話です.

 それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。

 この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。

一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい
好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております
割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非
此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日
外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご》
叮嚀《ていねい》なお礼を頂《いただ》き痛み入りますあの手さげ
袋《ぶくろ》は実はわたくしがつれづれのすさびにと
自《みずか》×ら拙《つたな》い刺繍《ししゆう》をしました物でかえってお
叱《しか》りを受けるかと心配をしたほどですのよ
歌の方は近頃《ちかごろ》はいかが? 時節柄お身お大《たい》
切《せつ》にあそばしてくださいまし  さよなら


 これはあるハガキの文面です。忠実に原文どおりしるしておきました。文字をまっしょうしたところから、各行の字詰めにいたるまで、すべて、原文のままです。

 さて、お話ですが、当時わたしは避寒かたがた、少し仕事をもって、熱海《あたみ》温泉のある旅館に逗留《とうりゆう》していました。毎日いくどとなく湯につかったり、散歩したり、寝ころんだり、そしてそのひまに筆をとったりして、至極のんきに日を送っていたのです。ある日のことでした。またしてもひとふろあびていい気持ちに暖まったからだを日あたりのいい縁側の籐《とう》イスに投げかけ、なにげなくその日の新聞を見ていますと、ふと、たいへんな記事が目につきました。

 当時都には「黒手組」と自称する賊徒の一団が人もなげにちょうりょうしていまして、警察のあらゆる努力もそのかいなく、きのうは某《ぼう》の富豪がやられた、きょうは某《ぼう》の貴族がおそわれたと、うわさはうわさをうんで、都の人心はきょうきょうとして安き日もなかったのです。したがって、新聞の社会面なども、毎日毎日そのことでにぎわっていましたが、きょうとても「神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の怪賊うんぬん」というような三段抜きの大見出しで、相もかわらず書きたてています。しかし、わたしはそうした記事にはもうなれっこになっていて、別に興味をひかれませんでしたが、その記事の下のほうに、いろいろと黒手組の被害者の消息をならべたうちに、小さい見出しで「××××氏襲わる」という十二、三行の記事を発見して非常に驚きました。といいますのは、その×x××氏は、かくいうわたしのおじだったからです。記事が簡単でよくわかりませんけれど、なんでも娘の富美子《ふみこ》が賊にゆうかいされ、その身のしろ金として一万円〔注、今の四、五百万にあたる〕を奪われたということらしいのです。

 わたしの実家はごく貧乏で、わたし自身もこうして温泉湯に来てまで筆かせぎをしなければならぬほどですが、おじはどうしてなかなか金持ちなのです。二、三の相当な会社の重役なども勤めていますし、じゅうぶん「黒手紐」の目標になる資格はありました。日ごろなにかと世話になっているおじのことですから、わたしは何をおいても見舞いに帰らなければなりません。身のしろ金をとられてしまうまで知らずにいたのはうかつ千万です。きっと、おじのほうではわたしの下宿へ電話ぐらいはかけていたのでしょうが、こんどの旅行はどこへも知らせずに来ていましたので、新聞の記事になってからはじめてこの不祥事を知ったわけなのです。

 そこで、わたしはさっそく荷物をまとめて帰京しました。そして旅装をとくやいなや、おじの屋敷へ出かけました。行ってみますと、どうしたというのでしょう。おじ夫婦が仏壇の前で一心不乱にうちわ太鼓や拍子木をたたいて、お題目《だいもく》をとなえているではありませんか。いったい、かれらの一家は狂的な日蓮宗《にちれんしゆう》の信者で、一にも二にもお祖師様《そしさま》なんです。ひどいのは、ちょっとした商人でさえも、まず宗旨を確かめたうえでなければ出入りを許さないというしまつでした。しかし、それにしても、いつもお勤めをする時間ではないのにおかしなこともあるものだと思い、ようすを聞きますと、驚いたことには、事件はまだ解決していないのでした。身のしろ金は賊の要求どおり渡したにもかかわらず、肝心の娘がいまだに帰って来ないというのです。かれらがお題目をとなえていたのは、いわゆる苦しいときの神頼みで、お祖師様のおそでにすがって娘を取りもどしてもらおうというわけだったのでしょう。

 ここでちょっと、当時の「黒手組」のやり口を説明しておく必要があるようです。あれからまだ数年にしかなりませんから、読者諸君のうちには、当時の模様をご記憶のかたもあるでしょうが、かれらはきまったように、まず犠牲者の子女をゆうかいし、それを人質にして巨額の身のしろ金を要求するのでせう。脅迫状には、いつ何日《いつか》の何時に、どこそこへ金何万円を持参せよと、くわしい指定があって、その堤所には「黒手組」の首領がちゃんと待ちかまえています。つまり、身のしろ金は、被害者から直接賊の手に渡されるのです。なんと大胆なやり方ではありませんか。しかも、それでいて、かれらには寸分の油断もありません。ゆうかいにしろ、脅迫にしろ、金円の受授にしろ、少しの手がかりも残さないようにやってのけるのです。また被害者があらかじめ警察に届け出て、身のしろ金を手渡す場所に刑事などを張り込ませておきますと、どうして察知するのか、かれらは決してそこへやって来ません。そして、あとになって、その被害者の人質は手ひどい目にあわされるのです。思うに、こんどの黒手組事件は、よくある不良青年の気まぐれなどではなくて、非常に頭の鋭い、しかもきわめて豪胆な連中のしわざに相違ありません。

 さて、この凶賊のお見舞いを受けたおじの一家では、今もいいますように、おじ夫妻をはじめ、あおくなってうろたえていました。一万円の身のしろ金はとられる、娘は返してもらえないというのでは、さすが実業界では古ダヌキとまでいわれている策士のおじも、手のつけようがないのでしょう。いつになくわたしのような青二才《あお さい》をたよりにして、何かと相談をするしまつです。いとこの富美子は、当時十九の、しかも非常な美人でしたから、身のしろ金をあたえてももどさぬところをみると、ひょっとしたら、無残にも賊の毒手にもてあそばれているのかもしれません。そうでなかったら、賊はおじを組みしやすしと見て、いちどではあきたらず、二度、三度身のしろ金をきょうかつしようとしているのでしょう。いずれにしても、おじとしては、こんな心配なことはありません、

 おじには富美子のほかにひとりのむすごがありましたが、まだ中学へはいったばかりでカにはなりません。で、さしずめわたしが、おじの助言者という格でいろいろと相談したことですが、よく聞いてみますと、賊のやり方はうわさにたがわず実に巧妙をきわめていて、なんとなく妖怪《ようかい》じみたすごいところさえあるのです。わたしも犯罪とか探偵とかいうことには人並み以上の興味があり、「D坂の殺人事件」でもご承知のように、ときにはみずからしろうと探偵を気どるほどの稚気も持ち合わせているのですから、できることなら、ひとつ本職の探偵の向こうを張ってやろうと、さまざまに頭をしぼってみましたものの、これはとてもだめです。てんで手がかりというものがないのですからね。警察へはもちろんおじから届け出てありましたけれど、はたして警察の手でこれが解決できましょうか。少なくともきょうまでの成績を見ると、まずおぼつかないものです。

 そこで、当然わたしは友だちの明智小五郎のことを思い出しました。かれなれば、この事件にもなんとか目鼻をつけてくれるかもしれません。そう考えますと、わたしはさっそく、それをおじに相談してみました。おじはひとりでもよけいに相談相手のほしい際ではあり、それにわたしが日ごろ明智の探偵的手腕についてよく話をしていたものですから(もっとも、おじとしては、たいしてかれの才能を信用してはいなかったようですけれど)ともかく呼んできてくれ、ということになりました。

 わたしはご承知のタバコ屋へ車を飛ばせました。そして、いろいろの書物を山と積み上げた例の二階の四畳半で明智に会いました。つこうのよかったことには、かれは数日来「黒手組」についてあらゆる材料を収集し、ちょうど得意の推理を組み立てつつあるところでした。しかも、かれの口ぶりでは、どうやら何か端緒《たんちよ》をつかんでいる様子なのです。で、わたしがおじのことを話しますと、そういう実例にぶっつかるのは願ってもないことだというわけで、さっそく承諾してくれ、時を移さず連れ立っておじのうちへ帰ることができました。

 まもなく、明智とわたしとはおじの屋敷の数寄《すき》を凝らした応接間で、おじと対座していました。おばや書生の牧田《まきた》なども出てきて話に加わりました。この牧田というのは、身のしろ金手交の当目おじの護衛役として現場へ同行した男なので、参考のために、おじに呼ばれたのでした。

 取り込みの中で紅茶だ菓子だといろいろのものが運ばれました。明智は舶来の接待タバコを一本つまんで、つつましやかに煙をはいていましたっけ。おじはいかにも実業界の古ダヌキといった形で、生来大男のところへ、美食と運動不足のためにデブデブふとっていますので、こんな場合にも、多分に相手を威圧するようなところを失いません。そのおじの両隣におばと牧田がすわっているのですが、これがまたふたりともやせ形で、ことに牧田は人並みはずれた小男ですから、いつそうおじのかっぶくが引き立って見えます。ひととおりあいさつがすみますと、事情はすでにわたしからざっと話してあったのですけれど、もう一度詳しく聞きたいという明智の希望で、おじが説明を始めました。

「事の起こりは、さよう、きょうから六日前、つまり十三日でした。その日のちょうど昼ごろ、娘の富美《ふみ》がちょっと友だちのところまでといって、着がえをしてうちを出たまま、晩になっても帰らない。われわれはじめ『黒手組』のうわさにおびやかされている際でしたから、まずこの家内が心配を始めましてね、その友だちのうちへ電話で問い合わせたところが、娘はきょうは一度も行っていないという返事です。さあ、驚いてね、わかっているだけの友だちのところへはすっかり電話をかけさせてみたが、どこへも寄っていない。それから、書生や出入りの者などを狩り集めて八方捜索につくしました。その晩はとうとう、われわれはじめ一睡もせずでしたよ」

「ちょっとお話し中ですが、そのとき、お嬢さんがお出ましになるところを、実際に見られたかたがありましたでしょうか」

 明智がたずねますと、おばがかわって答えました。

「はあ、それはもう女どもや書生などがたしかに見たのだそうでございます。ことに、梅《うめ》と申す女中などは、あれが門を出るうしろ姿を見送って、よくおぼえていると申しておりますので…...」

「それからあとは、いっさい不明なのですね。ご近所の人とか通行人などで、お嬢さんのお姿を見かけたものもないのですね」

「そうです」

 と、おじが答えます。

「娘は車にも乗らないで行ったのだから、もし知った人に行き会えば、じゅうぶん顔を見られるはずですが、ここはご存じのとおり寂しい屋敷町で、近所の人といってもそう出あるかないようだし、それはずいぶんたずね回ρてみたのですが、だれひとり娘を見かけたものがないのです。そういうわけで、警察へ届けたものかどうだろうと迷っているところへ、その翌日の昼過ぎでした。心配していた『黒手組』の脅迫状が舞い込んだのです。もしやと思っていたものの、実に驚かされました。家内などは手ばなしで泣きだすしまつでね。脅迫状は警察へ持っていって今ありませんが、文句は、身のしろ金一万円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必らずひとりで来ること、もし警察へ訴えたりすれば、人質の命はないものと思え……娘は身のしろ金を受け取った翌日返還する。ざっとまあ、こんなものでした」

 T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東のすみっこのとこうに、ちょっとした灌木林《かんぼくりん》があって、一本マツはそのまん中に立っているのです。練兵場とはいい条《じよう》、そのへんは昼間でもまるで人の通らぬ寂しい場所で、ことに今は冬のことですからいっそう寂しく、秘密の会合場所にはもってこいなのです。

「その脅迫状を警察で調べた結果、何か手がかりでも見つかりませんでしたか」

 と、これは明智です。

「それがね、まるで手がかりがないというのです。紙はありふれた半紙だし、封筒も茶色のひとえの安物で、目印もなにもない。刑事は、手跡などもいっこう特徴がない、といっていました」

「警視庁にはそういうことを調べる設備はよくととのっていますから、まずまちがいはありますまい。で、消し印はどこの局になっていましたでしょう」

「いや、消し印はありません。というのは、郵便で送ったのではなく、だれかが表の郵便受け箱へ投げ込んでいったらしいのです」

「それを箱からおだしになったのは、どなたでしょう」

「わたしです」書生の牧田がとんきょうな調子で答えた。

「郵便物はすべてわたしが取りまとめて奥様のところへ差し出しますんで、十三日の午後の第一回の配達の分を珍り出した中に、その脅迫状がまじつておりました」

「何者がそれを投げ込んだかという点も」おじがつけ加えました。

「交番の巡査などにもたずねてみたり、いろいろ調べたが、さっぱりわからないのです」

 明智はここでしばらく考え込みました。かれはこれらの意味のない聞答のうちから、何物かを発見しようとして苦しんでいる様子でした。

「で、それからどうなさいました」

 やがて顔を上げた明智が、話の先をうながしました。

「わしはよほど警察ざたにしてやろうかと思いましたが、たとえ一片のおどし文句にもせよ、娘の命をとるといわれては、そうもなりかねる。そこへ、家内もたって止めるものですから、かわいい娘には代えられぬと観念して、残念だが一万円出すことにしました」

「脅迫状の指定は、今もいうとおり、十五目の午後十一時、T原の一本マツまでということで、わしは少し早めに用意をして、百円札で一万円、白紙に包んだのを懐中し、脅迫状には必ずひとりで来るようにとありましたが、家内がばかに心配してすすめますし、それに書生のひとりぐらいつれて行ったって、まさか賊のじゃまにもなるまいと思ったので、もしもの場合の護衛役としてこの牧田をつれて、あの寂しい場所へ出かけました。笑ってください。わしはこの年になって、はじめてピストルというものを買いましたよ。そして、それを牧田に持たせておいたのです」

 おじはそういって苦笑いをしました。わたしは当夜のものものしいありさまを想像して、思わずふき出しそうになったのを、やっとこらえました。この大男のおじが、世にもみすほらしい小男の、しかもいくぶん愚鈍な牧田を従えて、やみ夜の中をおずおずと現場へ進んでいった珍妙な様子が目に見えるようです。

「あのT原の四、五丁手前で自動車を降りると、わしは懐中電灯で道を照らしながら、やっと一本マツの下までたどりつきました。牧田は、やみのことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく木陰をつたうようにして、五、六間の間隔でわしのあとからついて来ました。ご承知のとおり、 一本マツのまわりは一帯の灌木林《かんぼくりん》で、どこに賊が隠れているやらわからぬので、かなり気味がわるい。が、わしはじっとしんぼうして、そこに立って.いました。さあ、三十分も待ったでしょうかな。牧田、おまえはあの問どうしていたっけなあ」

「はあ、ご主人のところから十間ぐらいもありましたかと思いますが、茂みの中に腹ばいになって、ピストルの引き金に指をかけて、じっとご主人の懐中電灯の光を見つめておりました。ずいぶん長うございました。わたしは二、三時間も待ったような気がいたします」

「で、賊はどの方角から参りました?」

 明智が熱心に尋ねました。かれは少なからず興奮している様子です。といいますのは、ソラ、例の頭の毛をモジャモジャと指でかきまわす癖が始まったのでわかります。

「賊は原っぱのほうから来たようです。つまり、われわれが通っていった道とは反対の側から現われたのです」

「どんなふうをしていました」

「よくはわからなかったが、なんでもまっ黒な着物を着ていたようです。頭から足の先までまっ黒で、ただ顔の一部分だけが、やみの中にほの白く見えていました。それというのが、わしはそのときに遠慮して懐中電灯を消してしまったのでね。だが、非常に背の高い男だったことだけはまちがいない。わしはこれで五尺五寸あるのですが、その男は、わしよりも二、三寸も高かったようです」

「何かいいましたか」

「だんまりですよ。わしの前まで来ると、一方の手にピストルをさしむけながら、もう一方の手をぐつと突き出したもんです。で、わしも無言で金の包みを手渡ししました。そして、娘のことをいおうとして、口をききかけると、賊のやつ、やにわに人さし指を口の前に立てて、底力のこもった声でシーッというのです。わしは黙ってうという合い図だと思って、何もいいませんでした」

「それからどうしました」

「それっきりですよ。賊はピストルをわしのほうに向けたまま、あとじさりにだんだん遠ざかっていって、林の中に見えなくなってしまったのです。わしはしばらく身動きもできないで立ちすくんでいましたが、そうしていても際限がないので、うしろのほうをふり向いて、小声で牧田を呼びました。すると、牧田は茂みからごそごそ出てきて、もう行きましたかと、びくびくもので聞くのです」

「牧田さんの隠れていたところからも、賊の姿は見えましたか」

「はあ、暗いのと木が茂っていたために、姿は見えませんでしたが、何かこう賊の足音のようなものを聞いたと思いますので」

「それからどうしました」

「で、わしはもう帰ろうというと、牧田が賊の足跡を調べてみようというのです。つまり、あとになって警察に教えてやれば、非常な手がかりになるだろうという意見でね。そうだったね、牧田」

「はあ」

「足跡が見つかりましたか」

「それがね」おじは変な顔つきをしていうのです。

「わしはどうも不思議でしようがないのです。賊の足跡というものがないのです。これは決してわしたちの見誤りではないので。きのうも刑事が調べに行ったそうですが、寂しい場所でそのあと人も通らなかったとみえ、わしたち両人の足跡はちゃんと残っているのに、そのほかの足跡は一つもないということでした」

「ほう、それは非常におもしろいですね。もう少しく詳しくお話し願えませんでしょうか」

「地面の現われているのは、あの一本マツの真下のところだけで、そのまわりには落ち葉がたまっていたり、草がはえていたりして、足跡はつかないわけですが、その地面の現われている部分には、わしのゲタと牧田のクツの跡しか残っていないのです。ところが、わしの立っていたところへ来て金包みを受け取るためには、どうしたって賊はその足跡の残るような部分へ立ち入っていなければならないのに、それがない。わしの立っていた地面から草のはえているところまでは、いちばん短いので二間はじゅうぶんあったのですからね」

「そこには何か動物の足跡のようなものはありませんでしたか」

 明智が意味ありげに尋ねました。おじはけげんな顔をして、

「え、動物ですって?」

 と聞き返します。

「たとえば、ウマの足跡とか、イヌの足跡とかいうようなものです」

 わたしはこの問答を聞いて、ずっと以前に、ストランド・マガジンか何かで読んだ一つの犯罪物語を思い浮かべました。それは、ある男が、ウマの蹄鉄《ていてつ》を足につけて犯罪の場所へ往復したために、うまくけんぎを免れたという話でした。明智もきっと、そんなことを考えていたのに相違ありません。

「さあ、そこまではわしも気がつかなかったが、牧田、おまえ覚えていないかね」

「はあ、どうもよく覚えませんですが、たぶん、そんなものはなかったようでございます」

 明智はここでまた黙想を始めました。

 わたしは最初おじから話を聞いたときにも思うたことですが、今度の事件の中心は、この賊の足跡のないという点にあるのです.それは実に一種無気味な事実でした。

 長いあいだ沈黙がつづきました。

「しかし、何はともあれ」やがてまた、おじが話し始めます。

「これで事件は落着したのだと、わしはおおいに安心して帰宅しました。そして、翌日は娘が帰って来るものと信じていました。偉い賊になればなるほど、約束などは必ず守る、一種のどろぼう道徳というようなものがあることを、かねて聞き及んでいたので、まさかうそはいうまいと、安心しておりました。ところが、どうでしょう。きょうでもう四日めになるのに、娘は帰って来ない。実に言語道断です。たまりかねて、わしはきのう警察に委細を届け出ました。けれども、警察はどうも、事件の多い中のことで、あまりあてにもなりません。ちょうどさいわい、おいがあんたとお心安いというので、実はおおいに頼みにして、ご足労を願ったような次第で……」

 これでおじの話は終わりました。明智はさらにいろいろ細かい点について巧みな質問を発し、一つ一つ事実を確かめていきました。が、それらには別にお話しするほどのζとがらもありません。

「ところで」明智は最後に尋ねました。

「近ごろお嬢さんのところへ、何か疑わしい手紙のようなものでも参っていないでしょうか」

 これにはおばが答えました。

「わたしどもでは、娘のところへ参りました手紙類は、必ず一応わたしが目を通すことにしておりますので、怪しいものがあればじきにわかるはずでございますが、さようでございますね、近ごろ別段これといって……」

「いや、ごくつまらないようなことでもけっこうです。どうか、お気づきの点を、ご遠慮なくお話し願いたいのですが」

 明智はおばの口調から何か感じたのでしょう、たたみかけるように尋ねました。

「でも、今度の事件には、たぶん関係のないことでしょうと存じますがー」

「ともかく、お話しなすってみてください。そういうところに、往々思わぬ手がかりがあるものです。どうか」

「では申し上げますが、ひと月ばかり前から、娘のところへ、わたしどものいっこう聞き覚えのないお名まえのかたから、ちょくちょくハガキが参るのでございますよ。いつでしたか、一度わたしは娘に、これは学校時代のお友だちですかって聞いてみたことがございましたが、娘は、ええと答えはいたしましたものの、どうやら何か隠している様子なのでございます。わたしも妙に存じまして、一度よくただしてみようと考えていますうちに、今度のできごとでございましょう。もうそんなささいなことは、すっかり忘れておりましたのですが、おことばでふと思い出したことがございます。と申しますのは、娘がかどわかされますちょうど前日に、その変なハガキが参っているのでございますよ」

「では、それを一度拝見願えませんでしょうか」

「よろしゅうございます。たぶん、娘の手文庫の中にございましょうから」

 そうしておばは、問題のハガキというのを捜し出してきました。見ると、日付はおばのいったとおり十二日で、差し出し人は匿名《とくめい》なのでしょう、ただ「やよい」となっています。そして、市内の某局の消し印がおされていました。文面は、この話の冒頭に掲げておきました「一度お伺いうんぬん」のあれです。

 わたしもそのハガキを手に取ってじゅうぶん吟味してみましたが、なんのへんてつもない、いかにも少女らしい要でもない文句を並べたものにすぎません。ところが、明智は何を思ったのか、さも一大事という調子で、そのハガキをしばらく拝借していきたい、というではありませんか。もちろん、拒むべきことでもなく、おじは即座に承諾しましたが、わたしには明智の考えがちっともわからないのです。

 こうして明智の質問はようやく終わりを告げましたが、おじは待ちかねたように、かれの意見を問うのでした。すると、明智は考え考え、次のように答えました。

「いや、お話を伺っただけでは、別段これという意見も立ちかねますが、……ともかく、やってみましょう。ひょっとしたら、二、三日のうちに、お嬢さんをお連れすることができるかもしれません」

 さて、おじの屋敷を辞したわたしたちは、肩を並べて帰途についたことですが、そのおり、わたしがいろいろことばを構えて明智の考えを聞き出そうと試みたのに対して、かれはただ、捜査方針の一端をにぎったにすぎないと答え、そのいわゆる捜査方針については、ひと言も打ち明けませんでした。

 その翌日、わたしは朝食をすませますと、すぐに明智の宿を訪れました。かれがどんなふうにこの事件を解決していくか、その経路を知りたくてたまらなかったからです。

 わたしは例の書物の山の中に埋没して得意のめいそうにふけっているかれを想像しながら、心安い間がらなので、ちょっとタバコ屋のおかみさんに声をかけて、いきなり明智のへやへの階段を上がろうとしますと、

「あら、きょうはいらっしゃいませんよ。珍しく、朝早くからどっかへお出かけになりましたの」

 といって、呼び止められました。驚いて行き先をただしますと、別にいい残してないということです。

 さてはもう活動を始めたかしら。それにしても、朝寝坊のかれが、こんな早くから外出するというのは、あまり例のないことだと思いながら、わたしはひとまず下宿へ帰りましたが、どうも気になるものですから、少し問をおいて二度も三度も明智を訪問したことです。ところが、何度行ってみても、かれは帰っていないのです。そして、とうとう翌目の昼ごろまで待ちましたが、かれはまだ姿を見せないではありませんか。わたしは少々心配になってきました。宿のおかみさんも非常に心配して、明智のへやに何か書き残してないか調べてみたりしましたが、そういうものもありません。

 わたしは一応おじの耳に入れておくほうがいいと思いましたので、さっそくかれの屋敷を尋ねました。おじ夫妻は相変わらずお題目をとなえてお祖師様を念じていましたが、事情を話しますと、それはたいへんだ、明智までも賊のとりこになってしまったのではあるまいか。探偵を依頼したのだから、こちらにもじゅうぶん責任がある。もしやそんなことがあったら、明智の親もとに対してもなんとも申しわけがないとあって、おじをはじめ騒ぎだすというしまつです。わたしは明智にかぎって万々へまなまねはしまいと信じていましたが、こう周囲で騒がれては、心配しないわけにはいきません。どうしようといううちに、時間がたつばかりです。

 ところが、その日の午後になって、わたしたちがおじのうちの茶の間へ集まって小田原評定《おだわらひようじよう》をやっているところへ、一通の電報が配達されました。

 フミコサンドウコウイマタツ

 それは意外にも明智が千葉から打ったものでした。わたしたちは思わず歓呼の声を上げました。明智も無事だ。娘も帰る。打ちしめっていた一家はにわかに陽気にざわめいて、まるで花嫁でも迎え惹騒ぎです。

 そうして、待ちかねたわたしたちの前に、明智のニコニコ顔が現われたのは、もう日暮れ時分でした。見るといくぶんおもやつれのした富美子が、かれのあとに従っていました。ともかく、つかれているだろうからというおばの心づかいで、富美子だけは居間に退き床についた様子でしたが、わたしたちの前にはお祝いとあって、用意の酒肴《しゆこう》がはこばれる。おじ夫妻は明智の手を取らんばかりにして、上座にすえ、お礼の百万べんを並べる。それはたいへんでした。無理もありません。国家の警察力をもってしても、長い間どうすることもできなかった「黒手組」です。いかに明智が探偵の名人だからといって、そうやすやすと娘が取りもどせようとは、だれにしたって思いもかけなかったのです。それがどうでしょう。明智はたったひとりの力でやってのけたではありませんか。おじ夫妻ががいせん将軍でも迎えるように歓待を尽くしたのは、ほんとうにもっともなことです。かれはまあ、なんという驚くべき男なのでしょう。さすがのわたしも、今度こそすっかり参ってしまいました。そこで、皆がこの大探偵の冒険談を聞こうとつめよったものです。黒手組の正体は、はたして何者でしょう。

「非常に残念ですが、何もお話しできないのです」

 明智が少し困ったような顔をしていいました。

「いくらわたしが無謀でも、単身であの凶賊を逮捕するわけにはいきません。わたしはいろいろ考えた結果、ごくおだやかにお嬢さんを取りもどすくふうをしたのです。つまり、賊のほうからのしをつけて返上させるといった方法ですね。で、わたしと『黒手組』とのあいだに、こういう約束が取りかわされたのです。すなわち、『黒手組』のほうではお嬢さんも身のしろ金の一万円も返すこと、そして、将来ともお宅に対しては絶対に手出しをしないこと、わたしのほうでは、『黒手組』に関してはいっさい口外しないこと、そして、将来とも『黒手組』逮捕の助力など絶対にせぬこと、こういうのです。わたしとしては、お宅の損害を回復しさえすれば、それで役目がすむのですから、へたにやってアブハチとらずに終わるよりはと思って、賊の申し出を承知して帰ったような次第です。そういうわけですから、どうか、お嬢さんにも『黒手組』についてはいっさいお尋ねくださいませんように……で、これが例の一万円です。確かにお渡しします」

 そういって、かれは白紙に包んだものをおじに手渡しました。せっかく楽しみにしていた探偵談を聞くことができないのです。しかし、わたしは失望しませんでした。それは、おじやおぱには話せないかもしれませんが、いくら堅い約束だからといって、親友のわたしだけには、打ち明けてくれるだろう。そう考えますと、わたしは酒宴の終わるのが待ち遠しくてしようがありません。

 おじ夫妻としては、自分の一家さえ安全なら、賊が逮捕されようとされまいと、そんなことは問題ではないのですから、ただもう明智への礼心で、にぎやかな杯の献酬が始められました。あまり酒のいけぬ明智は、じきにまっかになってしまって、いつものニコニコ顔をさらにえみくずしています。罪のない雑談に花が咲いて、陽気な笑い声が座敷いっぱいにひろがります。その席でどんなことが話されたか、それはここにしるす必要もありませんが、ただ、次の会話だけはちょっと読者諸君の興味をひきはしないかと思います。

「いや、もう、あんたは全く娘の命の親です。わしはここで誓っときます。将来とも、あんたのお頼みならどんな無理なことでもきっと承知するということをね。どうです。さしあたり、何かお望みくださることでもありませんかな」

 おじは明智に杯をさしながら、エビス様のような顔をしていいました。

「それはありがたいですね」

 明智が答えます。

「たとえば、どうでしょう。わたしの友人のある男が、お嬢さんにたいへんこがれているのですが、その男にお嬢さんをちょうだいするというような望みでもかまいませんでしょうか」

「ハハハハ、あんたもなかなかすみに置けない。いや、あんたが先の人物さえ保証してくださりや、娘をさし上げまいものでもありませんよ」

 おじはまんざら冗談でもない様子でいいました。

「その友人はクリスチャンなんですが、この点はどうでしょう」

 明智のことばは座興にしては少し真剣すぎるように思われます。日蓮宗に凝り固まっているおじは、ちょっといやな顔をしましたが、

「よろしい。わしはいったいヤソ教は大きらいですが、ほかならんあんたのお頼みとあれば、ひとつ考えてみましょう」

「いや、ありがとう。きっといつかお願いに上がりますよ。どうか、今のおことばをお忘れないように願います」

 このひとくさりの会話は、ちょっと妙な感じのものでした。座興と見ればそうとも考えられますが、真剣な話と思えば、またそうらしくもあるのです。ふと、わたしは、バリモアのしばいでは.あのシャーロック・ホームズが、事件で知り合いになった娘と恋におちいり、ついに結婚する筋になっているのを思い出して、ひそかにほほえみました。

 おじはいつまでも引き止めようとしましたが、あまり長くなりますので、やがてわたしたちは、いとまをつげることにしました。おじは明智を玄関まで送り出して、お礼の寸志だといいながら、かれが辞退するのも聞かないで、むりに二千円(今の七、八十万円)の金包みを明智のふところへ押し込みました。


隠れたる事実

「きみ、いくら『黒手組』との約束だって、ぼくにだけは様子を話してくれたっていいだろう」

 わたしはおじの家の門を出るのを待ちかねて、こう明智に問いかけたものです。

「ああ、いいとも」

 かれは案外たやすく承知しました。

「じゃ、コーヒーでも飲みながら、ゆっくり話そうじゃないか」

 そこで、わたしたちは一軒のカフェーにはいり、奥まったテ…ルを選んで席につきました。

「今度の事件の出発点はね、あの足跡のなかったという事実だよ」

 明智はコーヒーを命じておいて、探偵、談の口を切りました。

「あれには少なくとも六つの可能な場合がある。第二はおじさんや刑事が賊の足跡を見落としたという解釈、賊はたとえば獣類とか鳥類とかの足跡をつけて、われわれの目を欺瞞《ぎまん》することができるからね。第二は、これは少しとっぴな想像かもしれないが、賊が何かにぶらさがるか、それとも綱渡りでもするか、とにかく足跡のつかぬ方法で現場へやって来たという解釈、第三はおじさんか牧田かが賊の足跡をふみ消してしまったという解釈、第四は偶然賊のはきものとおじさんまたは牧田のはきむのと同じだったという解釈、この四つは現場を綿密に調べてみたらわかることがらだ。それから第五は、賊が現場へ来なかった、つまり、おじさんが何かの必要からひとりしばいを演じたのだという解釈、第六は牧田と賊とが同一人物だったという解釈、この六つだ。

「ほくは、ともかく現場を調べてみる必要を感じたので、あの翌朝、さっそくT原へ行ってみた。もし、そこで第一から第四までの痕跡《こんせき》を発見することができなかったら、さしずめ第五と第六の場合が残るばかりだから、非常に捜査範囲をせばめることができるわけだ。ところがね、ぼくは現場で一つの発見をしたんだ。警察の連中は、たいへんな見落としをやっていたのだよ。というのは、地面にたくさん、なんだかこうとがったもので突いたような跡があるんだ。もつとも、それはおじさんたちの足跡(といっても、大部分は牧田のげたの跡)の下に隠れていて、ちょっと見たんではわからないのだがね。ぼくはそれを見て、いろいろ想像をめぐらしているうちに、ふと、あることを思い出した。天来の妙音とでもいヶか、実にすばらしい考えなんだよ。それはね、書生の牧田が小さなからだに似合わない太いメリンスのへこ帯を、大きな結び目をこしらえて締めているだろう。うしろから見ると、ちょっとこっけいな感じをあたえるね。ぼくは偶然あれを覚えていたんだ。これでもう、ぼくには何もかもわかってしまったような気がしたよ」

 明智はこういって、コーヒーをひと口なめました。そして、なんだかじらすような目つきをして、わたしをながめるのです。しかし、わたしには残念ながら、まだかれの推理の跡をたどる力がありません。

「で、けっきょくどうなんだい」

 わたしはくやしまぎれに、どなりました。

「つまりね、さっきいった六つの解釈のうち、第三と第六とが当たっているんだ。いいかえると、書生の牧田と賊とが同一人物だったのさ」

「牧田だって」わたしは思わず叫びました。

「それは不合理だよ。あんな愚かな、それに正直者で通っている男が……」

「それじゃあね」明智は落ちついていうのです。

「きみが不合理だと思う点を一つ一ついってみたまえ。答えるから」

「数えきれぬほどあるよ」

 わたしはしばらく考えてからいいました。

「第一、おじは賊が大男のかれよりも二、三寸も背が高かったといっている。そうすると五尺七、八寸はあったはずだ。ところが、牧田は反対にあんなちっぽけな男じゃないか」

「反対もこう極端になると、ちょっと疑ってみる必要があるよ。一方は日本人としては珍しい大男で、一方はかたわに近い小男だね。これは、いかにもあざやかな対照だ。惜しいことに少しあざやかすぎたよ。もし牧田がもう少し短い竹馬《たけうま》を使ったら、かえってぼくは迷わされたかもしれない。ハハハハ、わかるだろう。かれはね、竹馬を短くしたようなものをあらかじめ現場に隠しておいて、それを手で持つかわりに、両足に縛りつけて用を弁じたんだよ。やみ夜で、しかもおじさんからは十間も離れていたんだから、何をしたってわかりやしない。そして、賊の役目を勤めたあとで、今度は竹馬の跡を消すために、賊の足跡を調べまわったりなんかしたのさ」

「そんな子どもだましみたいなことを、どうしておじが看破できなかったのだろう。だいいち、賊は黒い着物だったというのに、牧田はいつも白っぽいいなかじまを着ているじゃないか」

「それが例のメリンスのへこおびなんだ。実にうまい考えだろう。あの大幅の黒いメリンスをグルグルと頭から足の先までまきつけりゃ、牧田の小さなからだぐらい、わけなく隠れてしまうからね」

 あんまり簡単な事実なので、わたしはすっかりバカにされたような気がしました。

「それじゃ、あの牧田が『黒手組』の手先を動めていたとでもいうのかい。どうもおかしいね。黒手……」

「おや、まだそんなことを考えているのか。きみにも似合わない、ちときょうは頭が鈍っているようだね。おじさんにしろ、警察にしろ、はてはきみまでも、すっかり、『黒手組』恐怖症にとっつかれているんだからね。まあ、それも時節がら無理もない話だけれど、もしきみがいつものように冷静でいたら、なにもぼくを待つまでもなく、きみの手でじゅうぶん今度の事件は解決できただろうよ。これには『黒手組』なんてまるで関係ないんだ」

 なるほど、わたしは頭がどうかしていたのかもしれません。こうして明智の説明を聞けば聞くほど、かえって真相がわからなくなってくるのです。無数の疑問が、頭の中でゴッチャになって、こんぐらがって、何から尋ねていいのかわけがわからないくらいです。

「じゃ、さっききみは、『黒手組』と約束したなんて、なぜあんなでたらめをいったのだい。だいいち、わからないのは、もし牧田のしわざとすれば、かれを黙ってほうっておくのも変じゃないか。それから、牧田はあんな男で、富美子をゆうかいしたり、それを、数日の間も隠しておいたりする力がありそうにも思われぬし。現に、富美子がうちを出た日には、かれは終日おじの屋敷にいて一歩も外へ出なかったというではないか。いったい、牧田みたいな男に、こんな大仕事ができるものだろうか。それから……

「疑問百出の態《てい》だね。だがね、もしきみがこのハガキの暗号文を解いていたら、少なくともこれが暗号文だということを看破していたら、そんなに不思議がらないですんだろうよ」

 明智はこういって、いつかの日おじのところから借りてきた例の「やよい」という署名のハガキを取り出しました。 (読者諸君、はなはだごめんどうですが、どうかもう一度、冒頭のあの文面を読み返してください)

「もしも、この暗号文がなかったら、ぼくはとても牧田を疑う気になれなかったに相違ない。だから、今度の発見の出発点は、このハガキだったといってもいいわけだ。しかも、これが暗号文だと最初からハッキリわかっていたのではない。ただ疑ってみたんだ。疑ったわけはね、このハガキが富美子さんのいなくなるちょうど前日に来ていたこと、手跡がうまくまねてはあるが、どうやら男らしいこと、富美子さんがこれについて聞かれたとき、妙なそぶりを示したことなどもあったが、それよりもね、これを見たまえ、まるで原稿用紙へでも書いたように、各行十九字詰めに実に奇麗に書いてある。が、ここへ横にずっと線を引いてみるんだ」

 かれはそういいながら、鉛筆を取り出して、ちょうど原稿用紙の横線のようなものを引きました。

「こうするとよくわかる。この線にそってずっと横に目を通してみたまえ。どの列も半分ぐらいカナがまじっているだろう。ところが、たった一つの例外がある。それは、このいちばん初めの線に沿った各行の第一字めだ、漢字ばかりじゃないか。

  一 好 割 此 外 町 袋 自 叱 歌 切

「ね、そうだろう」

 かれは鉛筆でそれを横にたどりながら説明するのです。

「これはどうも偶然にしては変だ。男の文章ならともかく、全体としてカナのほうがずっと多い女の文章に、一列だけ、こんなにうまく漢字のそろうはずがないからね。とにかく、ぼくは研究してみる価値があると思ったのだ。あの晩帰ってから、いっしょうけんめい考えた。さいわい、以前暗号についてはちょっと研究したことがあるので、わりに楽に解けたことは解けたがね。ひとつやってみようか。まずこの漢字の一列を拾い出して考えるんだ。しかし、このままではチーハーの文句みたいで、いっこう意味がない。何か漢詩か経文などに関係していないかと思って調べてみたが、そうでもない。いういろやっているうちに、ぼくはふと二字だけ抹消《まつしよう》した文字のあるのに気づいた。こんなに奇麗に書いた文章の中にきたない消しがあるのはちょっと変だからね。しかもそれが二つとも第二字めなんだ。ぼくは自分の経験で知っているが、日本語で暗号文を作るとき、もっとも困るのは濁音半濁音の始末だよ。でね、抹消《まつしよう》文字はその上に位する漢字の濁音を示すための細工じゃないかと考えたんだ。はたしてそうだとすると、この漢字はおのおの一字ずつのカナを代表するものでなければならない。そこまでは比較的楽にいく。あとが大変だ。が、まあ苦心談は抜きにして、さっそく結論を示すことにしようね。つまり、これは漢字の字画がキーなんだよ。それも偏とつくりを別女に勘定するんだ。たとえば『好』は偏《へん》が三画でつくりが三画だから、33という組み合わせになる。で、それを表にしてみるとこうだ」

 かれは手帳を出して、左のようなものを書きました。

 偏 つくり
一 1
好 3 3
割 10 2
此 4 2
外 3 2
町 3 2
袋 11
自 6
叱 3 2
歌 10 4
切 2 2


「この数字を見ると、偏の方は十一まで、つくりのほうは四までしかない。これが何かの数に符合しやしないか。たとえばアイウエオ五十音をどうかいうふうに配列した場合の順序を示すものであるまいか。ところが、アカサタナハマヤラワンと並べてみると、その数はちょうど十一だ。こいつは偶然かもしれないが、まあ、やってみよう。偏の画の数はアカサタナすなわち子音の順序を示し、つくりの画の数はアイウエオすなわち母音の順序を示すものと仮定するのだ。すると『一』は一画でつくりがないからア行の第一字め、すなわち『ア』となり、『好』は偏が三画だからサ行で、つくりが三画だから第三字めの『ス』だ。こうして当てはめていくと、

『アスヰチジシンバシヱキ』

「となる。『ヰ』と『ヱ』はあて字だろう。一画の偏なんてないからア行ではさしつかえるのでワ行を使ったのだ。はたして暗号だった。ね、『あす一時新橋駅』この男なかなか暗号にかけてはくろうとだよ。さて、年ごろの女のところへ、暗号文で時間と場所を知らせてくる。しかも、それがどうやら男の手跡らしい。この場合ほかに考え方があるだろうか。あいびきの打ち合わせと見るほかにはね。そうなると、事件は、『黒手組』らしくなくなってくるじゃないか。少なくとも『黒手組』を捜索する前に、一応このハガキの差し出し人を取り調べてみる必要があるだろう。ところが、ハガキのぬしは富美子さんのほかに知っている者がない。ちょっと難関だね。しかし、ひとたびこれを牧田の行為と結びつけて考えてみると、疑問は釈然として氷解するのだよ。というのは、もし富美子さんが自分で家出をしたものとすれば、両親のところへわび状(あるいはかきおき)の一本ぐらいよこしてもよさそうなものじゃないか。この点と、牧田が郵便物を取りまとめる役目だということと結びつけると、ちょっとおもしろい筋書きができるよ。つまり、こうだ。牧田がどうかして富美子さんの恋を感づいていたとする。ああした不具者みたいな男のことで、そのほうの猜疑心《さいぎしん》は人一倍発達しているだろうからね。で、かれは富美子さんからの手紙をにぎりつぶして、そのかわりに手製の『黒手組』の脅迫状をおばさんのところへ差し出したという順序だ。これは脅迫状が郵便で来なかった点にもあてはまる」

 明智はここで、ちょっとことばを切った。

「驚いた。だが……」

 わたしがなおもさまざまの疑問についてただそうとすると、

「まあ、待ちたまえ」かれはそれを押えつけておいてつづけました。

「ぼくは現場を調べると、その足でおじさんの屋敷の門前へ行って、牧田の出て来るのを待ち伏せしていた。そしてかれが使いにでも行くらしいふうで出て来たのを、うまくごまかしてこのカフェーへ連れ込んだ。ちょうど今ぼくらがずわっているこのテーブルだったよ。ぼくはかれが正直者だったことは、はじめからきみと同樣に認めていたので、今度の事件の裏には何か深い事情がひそんでいるに相違ないとにらんでいた。でね、絶対に他言しないし、品によっては相談相手になってやるからと安心させて、とうとう白状させてしまったのだ。

「きみはたぶん服部時雄《はつとりときお》という男を知っているだろう。キリスト教信者だという理由で、富美子さんに対する結婚の申し込みを拒絶されたばかりでなく、おじさんのところへのお出入りまで止められてしまった。あのきのどくな服部君をね。親というものはバカなもので、さすがのおじさんも、富美子さんと服部君とがとうから恋仲だったことに気づかなかったのだよ。また、富美子さんも富美子さんだ、何も家出までしないでも、かわいい娘のことだ。いかに宗教上の偏見があったって、できてしまったものを、いまさらむりに引き離すおじさんでもあるまいに、そこは娘心のあさはかというやつだ。それとも、案外家出をしておどかしたら、がんこなおじさんもおれるだろうという横着な考えだったかもしれないが、いずれにしても、ふたりは手に手をとって、服部君のいなかの友人のところへ駆け落ちとしゃれたのさ。むろん、そこからたびたび手紙を出したんだそうだ。それを牧田のやつ、一つもらさずにぎりつぶしていたんだね。ぼくは千葉へ出張して、うちでは『黒手組』騒動が持ち上がっているのも知らないで、ひたすら甘い恋に酔っているふたりを、ひと晩かかってくどいたものだよ。あんまり感心した役目じゃなかったがね。で、けっきょくきっとふたりがいっしょになれるように取り計らうという約束で、やっと引き離して連れてきたのさ。だが、その約束もどうやら果たせそうだよ。きょうのおじさんの口ぶりではね。

「ところで、今度は牧田のほうの問題だが、これもやっぱり女出入りなのだ。かわいそうに、先生、涙をぼろぼろこぼしていたっけ。あんな男にも恋はあるんだね。相手が何者かは知らないが、おそらく商売人か何かにうまく持ちかけられたとでもいうのだろう。ともかく、その女を手に入れるために、まとまった金が入用だったのだ。そして、聞けば富美子さんが帰って来ないうちに出奔《しゆつぼん》するつもりでいたんだそうだ。ぼくはつくづく恋の偉力を感じた。あの愚かしい男に、こんな巧妙なトリックを考えださせたのも、全く恋なればこそだよ」

 わたしは聞き終わって、ほっとため息をついたことです。なんとなく考えさせられる事件ではありませんか。明智もしゃべり疲れたのか、ぐつたりとしています。ふたりは長いあいだ黙って、顔を見合わせていました。

「すっかりコーヒーが冷えてしまった。じゃ、もう帰ろうか」

 やがて明智は立ち上がりました。そして、わたしたちはおのおのの帰途についたのですが、別れる前に明智は何か思い出したふうで、先刻おじからもらった二千円〔今の七、八十万円に当たる〕の金包みをわたしのほうへ差し出しながらいうのです。

「これをね、ついでのときに牧田君にやってくれたまえ。婚資にといってね。きみ、あれはかわいそうな男だよ」

 わたしはこころよく承諾しました。

「人生はおもしろいね。このおれがきょうはふた組の恋人の月人氷人《げつかひようじん》を勤めたわけだからね」

 明智はそういって、心から愉快そうに笑うのでした。

      (『新青年』大正十四年三月号)
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