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江戸川乱歩「断崖」

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amizako

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 春、K温泉から山路をのぼること一マイル、はるか目の下に渓流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七、八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。

女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」

男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」

女「じゃあ、はじめるわ……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぽい液体が、ドクドク流れこんでくるのよ」

男「いやだなあ、その話は。僕はそういうことは、ぐわしく聞きたくない。君の露出狂のお相手はごめんだよ。しかも、君のハズだった人との閨房秘事なんか」

女「だって、ここがかんじんなのよ。これがいわば第一ヒントなんですもの。でも、あなたおいやなら、はし、圦って話すわ……そうして斎藤があたしを抱いて、頬をくっつけ合って泣いていた時に、ふと、あたし、あら、変だなと思ったのよ。泣き方がいつもよりはげしくて、なんだか別の意味がこもっているように感じられたのよ。あたし、びっくりして、思わず顔をはなして、あの人の涙でふくれあがった眼の中をのぞきこんだ」

男「スリルだね。閨房の蜜語がたちまちにして恐怖となる。君はその時、あの男の眼の中に、深い憐愍の情を読みとったのだったね」

女「そうよ。おお、可哀そうに、可哀そうにと、あたしを心からあわれんで泣いていたのよ……人間の眼の串には、その人の一生涯のことが書いてあるわね。まして、たった今の心持なんか、初号活字で書いてあるわ。あたし、それを読むのが得意でしょう。ですから、一ぺんにわかってしまった」

男「君を殺そうとしていることがかい」

女「ええ、でも、むろんスリルの遊戯としてよ。こんな世の中でも、あたしたち、やっぱり退屈していたのね。子供はお仕置《しおき》されて、押入れの中にとじこめられていても、その闇の中で、何かを見つけて遊んでいるわ。おとなだってそうよ。どんな苦しみにあえいでいる時でも、その中で遊戯している。遊戯しないではいられない。どうすることもできない本能なのね」

男「むだごとをいっていると、日が暮れてしまうよ。話のさきはまだ長いんだから」

女「あの人、ちょっと残酷家のほうでしょう。あたしはその逆なのね。そして、お互に夫婦生活の倦怠を感じていたでしょう。むろん愛してはいたのよ。愛していても、倦怠がくる。わかるでしょう」

男「わかりすぎるよ。ごちそうさま」

女「だから、あたしたち、何かゾッとするような刺戟がほしかったの。あたしはいつもそれを求めていた。斎藤の方でも、そういうあたしの気持を布分知っていた。そして、何かたくらんでいるらしいということは、うすうす感じていたんだけれど、あの晩、あの人の眼の中をのぞくまでは、それがなんだかわからたかった……でも、ずいぶんたくらんだものねえ。あたしギョッとしたわ。まさかあれほど手数のかかるたくらみをしようとは思っていなかったのよ。でも、ゾクゾクするほど楽しくもあったわ」

男「君があの男の眼の中に深い憐愍ウ読みとった。それもあの男のお芝居だったんだね。そのお芝居で、君に第一ヒントをあたえたんだね。それで汝の第ニヒントは?」

女「紺色のオーバーの男」

男「同じ紺色のソフトをかむって、黒日がねをかけて、澱い口ひげをはやした」

女「その男を、あなたが最初にみつけたのね」

男「うん、なにしろ僕は君のうちの居候で、君たち夫婦のお抱え道化師で、それから第三に、売れない絵かきだったんだからね.ひまがあるから町をぶらつくことも多い。紺オーバーの男が君のうちのまわりをウロウロしているのを、第一に気づいたのも僕だし、角の喫茶店で、その紺オーバーが、君のうちの家族のことや間取りなんかまで、根ほり葉ほりたずねていたということを、喫茶店のマダムから聞き出して、君に教えてやったのも僕だからね」

女「あたしもその男に出会った。勝手口のくぐり門のぞとで一度、表門のわきで二度。紺のダブダブのオーバーのポケットに両手を突っ込んで、影の上うに立っていた。何かまがまがしい影のように突っ立っていた」

男「最初はどろぼうかもしれないと思ったんだね。近所の女中さんなんかも、そいつの姿を見かけて、注意してくれた」

女「ところが、それはどろぼうよりも、もっと恐ろしいものだったわね..斎藤の憐愍の涙を見た時、あたしのまぶたに、パ曽、とその紺オーバーの男がうかんできたのよ。これが第ニヒント」

男「そして、第三ヒントは探偵小説とくるんだろう」

女「そうよ。あなたが、あたしたちのあいだに、はやらせた探偵趣味よ。斎藤もあたしも、もともとそういう趣味がなかったわけではないわ。でも、あんなに理窟っぼくクネクネと、トリックなんかを考えス・ようになったのは、あなたのせいよ。あの頃は少し下火になっていたけれど、半年ほど前は絶頂だったわね。あたしたち毎晩、犯罪のトリックの話ばかりしていた。中でも斎藤は夢中だったわ」

男「その頃、あの男の考え出した最上のトリックというの を}刀......」

女「そう、一人二役よ。あの時の研究では、一人二役リトリックにはずいぶんいろんな種類があったわね。あなた表を作ったでしょう。今でも持っているんじゃない?」

男「そんなもの残ってやしない。しかし覚えているよ一一人二役の類別は三十三種さ。三十三のちがった型があるんだ」

女「斎藤はその三十三種のうち、架空の人物を作り出すトリックが第一だという説だったわね」

男「たとえば一つの殺人をもくろむとする。できるなbば実行の一年以上も前から、犯人はもう一人の自分を作っておく。つけひげ、目がね、服装などによる、ごく蘭単な、しかし巧妙な変装をして、遠くはなれた別の家に別の人物となって住み、その架空の人物を充分世闇に見せびらかしておく。つまり二重生活だね。ほんものの万が仕事と称して外出している時間には、架空の方が自毛にいる。架空の方は何か夜間の勤めをしていると見ゼかけ、その出勤時間にはほんものが自宅にいる。ときどきどちらかに旅行でもさせれば、このごまかしはずっと楽になるわけだね。そして、最好の時期を見て、架空の方が殺人をやるんだが、その直前直後に自分の姿を二、三人の人に見せて、犯人は架空の人物にちがいないと思いこませる。いよいよ目的をはたしたら、そのまま架空の方を消してしまう。変装の品々は焼き捨てるか、おもりをつけて川の底にでも沈める。架空のほうの住宅へはいつまでたっても主人が帰ってこない。杏《よう》として行方を知らずというわけだね。そして、ほんものの方は何くわぬ顔で今まで通りの生活をつづける。そうすれば、この事件は、もともと架空の人間の犯罪だから、犯人の探しようがない。いわゆる完全犯罪というやつだね」

女「あの人はこれがあらゆる犯罪トリックのうちで最上のものだと、恐ろしいほど熱中して話したわね。あたしたち、すっかり説きふせられてしまったでしょう。ですから、あたし、あの架空犯人のトリックのことは、ずうっと忘れないでいたのよ。それに、もう一つ日記帳ってものがあったの。あの人はあたしが探し出すことを、ちゃんと予想して、自分の日記帳をかくしていた。ひどくむずかしい場所にかくしたものよ。でも、もともとあたしに見せるための日記だから、心の底の秘密は書いていない。あとでわかったあの女のことだって、一行も書いてないのよ」

男「見せ消しというやつだね。見せ消しというのは校訂家の使う言葉なんだが、昔の文書などに元の字が読めるように、線だけで消したのがある。読めば読めるんだね。われわれの手紙にだってよくあるよ。わざと見えるように消しておいて、そこに実はいちばん相手に読ませたいことが書いてある。あの男の日記帳はその見せ消しだよ。見せかくしかね」

女「で、あたしその日記帳を読んだのよ、すると、長い論文が書いてあった。架空犯人トリックの論文なのよ。うまく書いてあったわ。この世にまったく存在しない人聞を作り出す興味。あの人、文章がうまかったわね」

男「わかったよ。懐古調はよして、先をつづけろ」

女「ウフ、そこで三つのヒントがそろったわけね。憐れみの涙、紺オーバーの怪人物、架空殺人トリックの讃美。でも、もう一つ第四のヒントがなくては完成しない。それは動機だわ。動機はあの女だった。それをあの人は日記にさえ書かなかった。そこまで書いてしまっては、まったくお芝居になって、スリルがうすらぐからよ。なんて憎らしい用心深さでし.山う……女のことはあなたが教えてくれたわね。でも、あたし、うすうすは感づいていた。あの人の眼の奥に若い女がチラチラしていた。それから、ベッドの中で抱き合っていると、.あたしでない女のにおいが、あの人のからだから、ほのかに漂ってきた.....」

男「そこまで……それでつまり、その四つのヒントを結び合わせると、あの男のお芝居の筋はこういうことになるんだね。いわゆる見せ消しで、君にその女の存在をさとらせ、同時に憐愍の涙を流し、可哀そうだが、あの女といっしょになるためには、君がじめ、まになる。しかし、君と別かれることは、生活能力のない斎藤にしてみれば、たちまち食えなくなることだから、それはできない……あの男は友だちの事業を手伝うのだといって、毎目出勤していたが、たいして俸給がはいるわけでもなかった。いわば退屈しのぎだった……君は斎藤と正式に結婚したけれども、財産は手放さなかった。戦後成金だった君の亡くなったおとうさんに譲られた財産は、君自身のものとして頑固に守っていた。夫婦の共有財産にはしなかった。あの男は君から莫大なお小遣いをせしめていたが、財産の元金には一指も触れることを許されなかった。そこで、この財産を君の意志に反して、別の女との享楽に使おうとすれば、君を殺すよりない。そうすれば正式に結婚しているのだし、君には身よりもないのだから、全財産があの男にころがりこむ。これが動機だ」

女「むろん、スリル遊戯の動機という意昧ね」

男「そうだよ。しかし、真実の犯罪としても、申し分のない動機だ。そして、殺人手段は彼の讃美する架空犯人の製造……まず紺オーバーの男を充分見せつけておいて、その姿で君の寝室にしのびこみ、君を殺した上、架空の犯人を永遠にこの世から消してしまう。そして、入れちがいにもとの斎藤にもどって帰ってくる。君の死体を見て大騒ぎをやる。という順、序なんだね」

女「ええ、そういうふうにあたしに思いこませ、こわがらせ、お互にスリルを味わって楽しもうとしたわけね。子供の探偵ごっこの少し手のこんだぐらいのものだわ。でも、もしあたしがあの人の遊戯心を信じなかったとしたら、そして、ほんとうに殺意があると感じたら、これは恐ろしいスリルだわ。あの人はそこを狙ったのよ。子供の探偵ごっこよりはずっとこわいものを狙ったのよ暫

男「子供の探偵ごっこだって、ばかにならないぜ。僕は十二、三の時、探偵ごっこをや.っていて、年上の女の子といっしょに、暗い納屋の中にかくれていて、その女の子からいどまれたことがある。可愛らしい女の子が、ここでいえないような変な恰好をしたんだよ、あんな恐ろしいことはなかった。生きるか死ぬかの恐ろしさだった」

女「枝道へはいっちゃいけないわ。で、今まであたしたちが話し合った全部のことを、その晩、斎藤の涙にふくれ上がった眼をのぞきこんだ瞬間、一秒ぐらいのあいだに、ちゃんと考えてしまったのよ。あれだけの出来事を思い出して、論理的に組み合わせる、それが一秒聞こできるんだわ。人間の頭の働きって、ほんとうに不思議なものね。どういう仕掛けなのかしら。口で話せば三十分もかかることが、一秒間に考えられるなんてし

男「だがね、それでどういうことになるんだい。ほんとうに君を殺す気なら、ちゃんと幕切れがあるわけだが、まったくお芝居だとすると、いつまでもケリがつかないじゃないか。ただ紺オーバーの男でおどすだけで、おしまいなのかい」

女「そうじゃないわ。これはあたしの想像にすぎないけれど、ケリはつくのよ。紺オーバーの男は窓かなんかから忍びこんであたしの寝室にはいってくるのよ。そして、あたしに悲鳴をあげさせ、あたしがどんなはげしいスりルを感じるか、ながめてやろうというわけよ、そのあとで、まだ架空の人物のまま、あたしのベッドにはいる。他人に化けて自分の妻のベッドにはいる……」

男「悪趣味だね」

女「そうよ。あの人はそういう悪趣味の人よ。でなければこんな変てこなスリル遊戯なんか思いつきやしないわ」

男「ところが、結果はまるでちがったことになったね」

女「そう……もうこのあとは冗談ではないわ……こわかった。あたし今でもこわい」

男「僕だって、これからあとの話は、あまりいい気持がしないね。しかし、話してしまおう。この無人境の崖の上で、一度だけおさらいをしよう。そうすれば、君だって、いくらか気分が軽くなるかもしれないぜ」

女「ええ、あたしもそう思うの……その晩から日を置いて三度、同じようなことがあったのよ。そして、頬をくっつけて涙を流すあの人の泣き方が、だんだんはげしくなるばかりなの……おやっ変だなと思うことが、幾度もあった..あたし、そのたびに、急いで顔をはなして、あの人の眼の奥をのぞいたけれども、もうわからなかった。ただ邪推よ。あたしは恐ろしい邪推をしたのよ」

男「あの男がほんとうに君を殺すと思ったんだね」

女「ふと、あの人の眼が、こう言ってるように見えたのよ……おれは架空の人物を作って、お前にスリルを味わわせようとたくらんでいる。はじめはそのつもりだった。しかし、今ではもう、これがお芝居で終るかどうか、おれにも判断がつかなくなった。おれはほんとうにお前を殺しても、まったく安全なんだ。そして、お前の財産がおれのものになるのだ。おれはその魅,刀に負けてしまうかもしれない。実をいうと、おれはお前よりもあの女の方を何倍も愛している。可哀そうだ。お前が可哀そうでたまらない……あの人がそんなふうに、.声をふりしぼって、泣き叫んでいるようにさえ感じられた。あの人の眼から涙がとめどもなくあふれた。それがゴクゴクとあたしの喉へ流れこんできた。あの人とあたしの、てんでの妄想が、まっ暗な空間でもつれあっイ丶こっちゃになって、あたしはもう、どうしていいのかわけがわからなくなってしまった」

男「僕に相談をかけたのは、その頃なんだね」

女「そうよ。今いった不安を、あなたにうちあけたわね。すると、あなたは、君の思いすごしだ..そんなばかなことがあるものかと、あたしを笑ったわ、でも、笑っているあなたの眼の奥に、チラッと疑いの影があった。あなたも、もしかしたらと、 一抹の不安を感じていることが、あたしにはよくわかったのよ」

男「しかし、僕はあの時、そういう不安を意識してはいなかったね。君のような千里眼にかかソちゃかなわない。相手の無意識の中までさぐり出すんだからね」

女「あたし、あの人の眼を見るのがこわくなった。またこちらがこわがっていることを、あの人に悟られるのが恐ろしかった。そして、とうとう、ピストルのことまで気を廻すようになった……ある夕方、門のぞとで、また紺オーバーの男に出会ったのよ。あの男はいつも夕方か夜しか姿をあらわさなかった。変装を見破られることをおそれたのだわ。その時も、うすぐらくて、はっきり見えなかったけれど、あの男があたしを見て、ニヤッと笑ったような気がしたのよ。斎藤の変装ということがわかっていても、あたしゾーッとしないではいられなかった。そして、その刹那、なぜかハッとピストルのことを思い出したのよ..あの人の書斎の机の引出しにかくしてあるピストルのことを」

男「ピストルのことは僕も知っていた。あの男は禁令を破って、こっそりとピストルを手に入れていたね。いつも実弾をこめて、引出しの底の方にしまってあった。別に何に使おうというのじゃない。ただ手にはいったから持っているんだと言っていた」

女「あたし、そのピストルを、紺オーバーの男が、いつも身につけているんじゃないかと思って、ギョッとしたのよ。それで、あわてて書斎にとびこんで、引出しをあけてみると、ピストルはちゃんと元の場所にあった。あたし一時はホッとしたけれど、すぐに、あの人が架空の犯人に斎藤の持ち物であるこのピストルを持たせるような、間抜けなことをするはずがないと気づいた。紺オーバーの男は別のピストルを手に入れたかもしれない。もっとほかの兇器を用意しているかもしれない。ピストルが元の場所にあったからといって、決して油断はできない。そう考えると、あたしはいよいよ不安になった」

男「そこで、君はあのピストルを、自分で持っていようと決心したんだね」

女「ええ、その方がいくらか安心だと思ったの。それC、あたし、ピストルを自分の部屋にうつして、夜はベッドの中へ持ってはいることにしたのよ」

男「悪いものがあったねえ。あれさえなければ……」

女「あたし、あなたにたずねたわね。紺オーバーの男か、あたしの寝室へはいってきたとして、その時あたしかピストルであの男をうったら、どんな罪になるでしょうかって」

男「そうだったね。僕はあの時、見知らぬ男が暴力で屋内に侵入して、寝室にまで踏みこんできたら、男の方に危害を加える意志がなかったとしても、正当防衛は成り立つ。たとえ相手をうち殺しても、罪にはならないと莟えた。事実それにちがいないんだが、今から考えると悪いことを言った」

女「そして、とうとうあの男がやってきた。もうくるかもうくるかと、斎藤の不在の夜は、そればっかり待っていたほどよ。十二時すぎ、あの男は塀をのりこえ、廊下の窓からしのびこんで、足音も立てないで、あたしの寝室のドアをひらいた。紺オーバ!を着たまま、ソフトをかぶったまま、黒目がねと濃い口ひげが、たびたび出会ったあの男にちがいなかった。あたしは眼をつむって寝たふりをしながら、まつげのすきまから、じっと男を見ていた。ピストルはいつでもうてるように、ふとんの中でにぎりしめていた」

男「   」

女「あたし、心臓が破れそうだった。早くピストルがうちたかった。でも、じっと我慢して、まつげのすきまから見ていた……あの男は両手をオーバーのボケットに突っ込んだまま、ヌーッと立っていた。あたしが寝たふりをしているのを、ちゃんと見抜いているようだった。そのにらみ合いが、まる一時間もつづいたような気がした。あたしは、いきなりベッドから飛びおりて、ギャーッと叫びながら、逃げ出したいのを、歯をくいしばって、こらえていた」

男「   」

女「とうとう、あの男は、大またにベッドに近づいてきた。電気スタンドの笠の蔭になっていたけれど、あの男の顔が大きく、はっきり見えた。器用に変装していても、あたしには、斎藤だということが、はっきりわかった……あの男は黒目がねの中で笑っているように見えた。そして、いきなりベッドの上に上半身をまげて、おそいかかってきた。その時、あの短刀は、ふとんの襟が邪魔になって見えなかったけれど、あたしはもう無我夢中だった。あたしはふとんの中からソッとピストルの先を出して、男の胸にむけていきなり引き金をひいた……あたし、ピストルを突きつけながら、問答するなんて、そんな余裕はとてもなかったわ。もう、うちたくって、うちたくって、気が狂いそうだった……ピストルの音をきいて、あなたと女中がかけつけた蒔には、あの男は胸をうたれて息がたえていたし、あたしはベッドの上に気を失っていたのね」

男「僕は最初、何がなんだかわからなかった。しかし、ちょっとのまに、やっぱりそうだったのかと悟った。あの男の死骸のそばに、抜きはなった短刀がおちていた」

女「警察の人たちが来た。それから、あたしは検察庁へ呼ばれた。あなたも呼ばれたわね。あたしは少しも隠さないでほんとのことを言った。検事はあたしたちの遊戯三昧の生活を非難して、長いお説教をした。そして、あたしは不起訴になった。短刀があったので、あの男の殺意を疑うことができなかったのだわ。それから、あたしは病気になるようなこともなく、あの入の葬式も無事にすませ、一と月ほど家にとじこもっていた。あなたが毎日慰めてくれたわね。身よりもないし。親友もないし、あたし、あなた一人がたよりだったわ……それから、斎藤の女のことも、あなたがちゃんとケリをつけてくれた」

男「あれからやがて一年になる。君と臣式に結婚の手続きをしてからでも五ヵ月だ……さあ、ボツボツ帰ろうか」

女「まだお話があるのよ」

男「まだ? もうすっかり、おさらい〃すませたじゃないか」

女「でも、今まで話したことは、ほんのうわっつらだわ」

男「え、うわっつらだって? あれほど心の底をさぐるような分析をしてもかい?」

女「いつでも、真にほんとうのことってのは、一ばん奥の方にあるわよ。その奥の方のことは、まだあたしたち話さなかった」

男「なにを考えてるのか知らないが、君は少し神経衰弱じゃないのかい」

女「あなた、怖いの?」

男の眼がスーッと澄んだように見えた。しかし、表情はほとんど変わらなかった。身動きさえしなかった。女はおしゃべりの昂奮で、ほの赤く上気していた。眼がギラギラ光り、唇のすみがキュッとあがって、意地わるな微笑が浮かんでいた。

女「他人の心を自分の思うままに動かして、 一つの重罪を犯させるということができたら、その人にとっては、実に愉快だろうと思うわ。心をそういうふうに動かされたほうでは、自分たちがその人の傀儡だということを少しも気づいていないんだから、これほど完全な犯罪はないわ。これこそ正真正銘の完全犯罪じゃないかしら」

男「君は何を言おうとしているの?」

女「あなたがそういう人形使いの魔術師たってことを、言おうとしているの。でも、あなたを摘発しようなんて言うんじゃないわ。悪魔が二人、額をよせてニヤニヤ笑いながら、お互の悪だくみの深さを嘉《よみ》し合う、あれね。そういう意味で、もっとお互の心の中をさらけ出したいのよ。あなたの言う露出狂だわね」

男「オイ、よさないか。僕は露出狂なんかには興味がない」

女「やっぱり、あなたは怖がっているのね。でも、話しかけたのを、このままよしてしまっては、もっとあと味がわるいでしょう。話すわ……亡くなった斎藤に探偵趣味を吹きこんだのは、あなただったわね。斎藤にはもともとその素質があった。ですから、あなたにとっては絶好の傀儡だったのよ。そして、あなたは、あの人を犯罪手段の研究に熱中させ、架空犯人のトリックに心酔させてしまった。むろん斎藤のほうで夢中になったんだけれど、あなたは実に微妙な技巧で、斎藤の物の考え方をその方向に導いて行ったのよ。話術でしょうか。いや、話術よりももっと奥のものね。あなたはそれで斎藤を白由に扱いこなした……女ができたのは、あなたのせいじゃない。斎藤が勝手に作ったんだけれど、それは道楽者の斎藤のことだから、いつだって起こりうることだンたわ。あなたはそれをうまく利用したのよ」

男「   」

女「架空犯人のトリックとあの女とを結びつけて、あたしたち夫婦のあいだのスリル遊戯を思いつくことだって、むろんあなたの力が働いていた。斎藤はそういう突飛なことを実行して喜ぶような性格なんだから、あなたが一とこと二たこと、それとない暗示を与えさえすればよかったのよ。斎藤には少しも気づかれない言葉で、しかし暗示としては恐ろしい力を持つような言葉で」

男「想像はどうにでもできる。そんな想像をするのは、君自身が途方もない悪人だということを証拠だてるばかりだ」

女「そうよ。悪人だから、悪人の気持がわかるのよ。あなたは、斎藤が思うつぼにはまって、紺オーバ!の男に化けて、うちのまわりをうろつき出した時、まっ先にそれを見つけたでしょう。そして、あたしに知らせてくれたわね。あたし、その時はまだ気づかなかったけれど、あとになって思い出してみると、あなたの眼は喜びの色を隠すことができなかったのね。あの眼の意味は、ただ怪しい男を見つけたというだけのものじめ、なかった。してやった、うまく行ったという歓喜が、今から考えると、あなたの眼の中に、まるではだかみたいに、さらけ出されていたわ。あたしには斎藤の涙を分析したり、架空犯人のトリックを思い出したりしなければ判断できなかったことが、計画者のあなたには、最初からちゃんとわかっていたのだわ」

男「もうよそう。ね、もうよそう」

女「もう少しよ。もう少し言うことがあるのよ……お芝居がいつのまにか本気になって、斎藤はあたしを殺すのじゃないかと思った。それから、ピストルを手に入れて、あなたにその事を相談した。すると、あなたは芯からのように、そんなばかなことがあるものかと打ち消しながら、眼の奥に不安の色を漂わせて見せた。その上、万一ピストルで相手を殺しても、正当防衛で罪にならないということをはっきりあたしにのみこませた……これでもう、あなたは成り行きを眺めていさえすればよかったのだわ。殺人は起こるかもしれない。起こらないかもしれない。でも、起こらなかったとLても、あなたは別に損をするわけではない。もしあたLがピストルをうち、斎藤が死ねば、すっかりあなたの思う壼。なんてうまい考えでしょう。あたしたちがよく犯罪トリックのことを話し合ったころ、プロバビリティの犯罪というのが問題になったわね。可能性は充分あろけれども、必らず目的を達するかどうかはわからない。それは運命にまかせるという、あの一等ずるい、一等安全な方法よ。失敗しても、犯人はこれっぽちも疑われる心配はないんだから、何度だって、ちがった企らみをくり返すことができる。そうしているうちには、いつか日的を達する時がくる。そして、目的を達しても、犯人は絶対に疑われることがない……あなたのプロバビリティの犯罪は、斎藤の架空犯人の思いつきなんかより、一枚も二枚もうわ手だったわ」

男「僕は怒るよ。君は妄想にとりつかれているんだ。頭が変になっているんだ……僕は一人で先に帰るよ」

女「あなたの額、汗でビッショリよ。気分わるいの? ……あの時、ピストルの引き金をひいた時、あたし斎藤が短刀を持っていることは知らなかった。とっさに、首をしめにくるのじゃないかとも思ったし、そうでなくて、ただ、あたしを抱くばかりかとも思った。ほんとうのことは、わからなかったのよ。それでも、あたし引き金をひいてしまった……ほんとうは、ずっと前から、心の底のほうであなたを愛していたからよ。あなたにもそれはわかっていたはずだわ……そして、引き全をひいたまま気を失ってしまった。短刀は意識をとりもどした時に、はじめて見たのよ。ですから、あの短刀け斎藤がオーバーのポケットに入れていたとも考えられるし、また、あなたが、あらかじめ用意しておいた斎藤の短刀を持ちこんで、死んだ斎藤の指紋をつけてあすごへ放り出しておいたとも考えられるわね。なぜって、ピストルの音をきいてまっ先にかけつけたのは、あなただったし、それから斎藤が短刀を持っていたとすれば、正当防衛の口実が一そう完全になるからだわ。あなたは斎藤が殺されることは望んでいたけれど、あたしが罪におちては困る。あたしを助けるためには、どんなことでもしなければならなかったのだわ」

男「おどろいた。よくもそこまで妄想をめぐらすもんだね。ハハハハハ」

女「だめよ、笑って見せようとしたって。まるでいつもの声とちがうじゃありませんか。泣いているみたいだわ……何をそんなに怖がっているの、これはここだけの話よ。たとえまったく危険のないプロバビリティの犯罪にもせよ、そういう恐ろしい企らみまでして、あたしを手に入れようとしたあなたを、あたしは決して裏切りゃしないわ。しんそこから愛しているわ。このことは二人のあいだの永久の秘密にしておきましょうね。あたしはただ、 一度だけはほんとうのことを話し合っておきたいと思ったばかりよ」

男は無言のまま、妄想狂のお相手はごめんだと言わぬばかりに、自然石のベンチから立ちあがった。それにつれて、女も立ち、帰りみちとは反対の、崖ばなの方へ、ゆっくり歩いて行った。男は何かおずおずしながら、二、三歩あとから、女について行く。

女は崖っぷち二尺ほどの所まで進んで、そこに立ちどまった。遙か下方に幽かに渓流の音がしている。しかし淡流そのものは見えない。谷の底には薄黒いモヤがたてこめ、その深さは何十丈ともしれなかった。

女は谷の方を向いたまま、うしろの男に話しかけた.

女「あたしたち、きょうはほんとうのことばかり話したわね。こんなほんとうのことって、めったに話せるものじゃないわ。あたし、なんだかせいせいした……でも、一つだけ、まだ話さなかったことが残っているわ。その最後のほんとうのことを言ってみましょうか……あなたの顔を見ないで言うわね……あたしははだかのあなたを愛していたのに、あなたはあたしとお金とを愛していたのでしょう。そして、今ではあたしを愛さないで、あたしの持っているお金だけを愛しているのでしょう。それがあたしにはよくわかるのよ。あなたの眼の中が読めるのよ。そして、あたしがそれにかんついたということを、あなたの方でも知っているんだわ。ですから、きょ、つこんな淋しい崖の上へ、あたしを誘い出したんだわ……あなたはあたしを愛さなくなっても、あたしと離れることができない。斎藤と同じように、あなたも生活能力のない男だから。すると、あなたにできることは、たっも上つしか残っていないわね……斎藤の故智《こち》にならって、あたしを無きものにする。そうすれば、あたしの全部の財産が夫《おつと》であるあなたのものになる……あたし、あなたに別の愛人ができていることを、そして、今ではあなたはあたしを憎んでいることを、とうから知っていたのよ」

うしろから、バッハッという男のはげしい息づかいが聞こえてきた。男のからだがソーッとこちらへ迫まってくるのが感じられた。女はいよいよその時がきたのだと思った。

背中に男の両手がさわった。その手は小きざみに烈しくふるえていた。そして、ググッと恐ろしい力で女の背中を押してきた。

女はその力にさからわず、柔かくからだを二つに折るようにして、パッと傍らに身を引いた。

男は力あまって、タタッと前に泳いだ。死にものぐるいに踏みとどまろうとした最後の一歩の下には、もう地両がなかった。男のからだ全体が、棒のように横倒しになったまま、スーッと下へおちて行った。

今まで少しも気づかなかった小鳥の声が、やかましく女の耳にはいってきた。渓流のしもての広くひらけた空を、そこにむらがる雲を、入り陽がまっ赤に染めていた。ハッとするほど雄大な、美しい夕焼けであった。

女は荘然と岩頭に立ちつくしていたが、やがて、何かつぶやきはじめた。

女「また正当防衛だった。でも、これはどういうことなのかしら。一年前に、あたしを殺そうとしたのは斎藤だった。そのくせ、殺されたのはあたしてなくて、斎藤の方だった。今度も、あたしを突き落とそうとしたのは、彼だった。そのくせ、崖から落ちて行フたのは、あたしでなくて、彼の方だった……正当防衛って妙なものだわ。両方とも、ほんとうの犯人はこのあたしだったのに、法律はあたしを罰しない。世闇もあたしを疑わない。こんなずるいやり方を考えつくなんて、あたしはよくよくの毒婦なんだわね……あたしはこの先《さき》まだ、幾度正当防衛をやるかわからない。絶対罪にならない方法で、幾人ひとを殺すかもわからない……」

夕陽は大空を焼き、断崖の岩肌を血の色に染め、そのうしろの鬱蒼たる森林を焔と燃え立たせごいた。岩頭にポッツリと立つ女の姿は、小さく小さく、人形のように可愛らしく、その美しい顔は桃色に上気し、りぶらな眼は、大空を映して異様に輝いて見えた。

女はそのままの姿勢で、大自然の微妙な、精巧な装飾物のように、いつまでも、身動きさえしなかった。

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