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伊藤銀月「日本警語史」2


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葦原《あしはら》のしげこき小屋《をや》に菅畳《すげたたみ》いや清《さや》しきて我《わ》が二人寝《ふたりね》し
と詠《えい》じて、懐《おも》いを述べ給いぬ。当時の生活の質朴簡易《しつぼくかんい》にして天真爛漫《てんしんらんまん》なる、人をして
|恍然神往《こうぜんかみゆ》かしむるものあるにあらずや。
 しかして、天皇のこの情話《じようわ》に胚胎《はいたい》して、これより後《のち》の世《よ》に「歌垣《うたがき》」という事の流行
を来《きた》し、その風習が雄略天《ゆうりやく》皇時代の前後に到りて最も盛況《せいきよう》を呈《てい》したるに、深き注意を
払わざるべからず。歌垣《うたがき》とは、花の宵《よい》、月の夕《ゆうべ》、多数の男女《なんによ》所を定めて野外に集会し、
|互《たが》いに即詠《そくえい》の和歌を朗吟《ろうぎん》して、情を通じ交《まじわり》を結ぶ事なり。大和《やまと》の海柘榴市《つばきのいち》、摂津《せつつ》の歌
垣山《うたがきやま》、肥前《ひぜん》の杵島山《きねしまやま》、常陸《ひたち》の筑波山《つくばやま》等は、各地における歌垣の中心にして、歌垣に会
して女を得ざる男、男を得ざる女は、衆人《しゆうじん》に嗤笑《ししよう》せられて、一|大恥辱《だいちじよく》を蒙《こうむ》らざるべか
らざるが故に、彼等は、競《きそ》うて秀歌《しゆうか》を案《あん》じ出《い》だして、朗詠の調《ちよう》と声《こえ》とを闘《たたか》わし、」男子《だんし》
まず一首を得てこれを高吟《こうぎん》すれば、女子これに応じてただちに一首を酬《むく》い、男子|再《ふたた》び一首を発《はつ》し、女子さらにこれに答うるの一首を出《い》だし、連綿《れんめん》として尽《つ》きざる間に、興《きよう》
いよいよ加わり、情《じよう》ますます燃《も》ゆるという次第《しだい》にて、あるいは、中間《ちゆうかん》において想窮《そうきゆう》し、
|咄嗟《とつさ》に名吟《めいぎん》の出《い》でざるが故《ゆえ》に、赤面《せきめん》して退《しりぞ》き匿《かく》るるあり。また、歌唱の問答まさに闌《たけなわ》
なる時、突如《とつじよ》として一|隅《ぐう》より奇警《きけい》の調を発して横槍《よこやり》を入れ、三巴《みつどもえ》の混闘《こんとう》を起して、局
面を攪乱《かくらん》し、漁夫《ぎよふ》の利《り》を占めんことを謀《はか》る者あり。歌唱の戦争  すなわち恋愛の戦
争にして、ために、警語《けいこ》を歌謡化するの訓練、到《いた》らざるなきの観を呈《てい》するに及《およ》べり。
 聞く、武烈《ぶれつ》天皇のなお太子《たいし》たりしや、菟田首《うだのおびと》の女《むすめ》と海柘榴市《つばさのいち》の歌垣《うたがき》に相逢《あいあ》わんこと
|けんしんへぐりのま《とりしびむすめいさまた》
を約せしが、権臣平群真鳥の子鮪またこの女に意ありて、歌垣の場に太子を妨げたり。
太子すなわち歌を唱《とな》えて懐《おも》いを述《の》ぶれば、鮪《しび》もまた歌をもって太子を誹《そし》り、互いに歌
|ひれい《いきどおたおお》
|すうばん《しび》
唱を闘《たたか》わすもの数番、太子ついに鮪の非礼を憤るの情に禁えず、走り帰ってこれを大
とものかなむら  はか            あ     しび  な ら やま  ほふ          じよう   ま とり  やしき およ
                       勢いに乗じて真鳥の邸に及ぼし、
伴金村に謀り、急に兵を挙げて鮪を奈良山に屠り、
一家を燔殺《はんさつ》して了《おわ》りぬと。この一|例《れい》は、如何《いか》に歌垣の会が、歌唱の戦
争  すなわち恋愛の戦争として激烈《げきれつ》なりしかを証《しよう》するに足《た》れるものにして、随《したが》って、
歌垣の会において闘わさるる歌唱の、如何《いか》に警語《けいこ》として訓練を経《へ》たるものなりしかを、
|想察《そうさつ》するに難《かた》からずと做《な》す。
 これは余事《よじ》なれど、万葉集《まんようしゆう》に、
  勝間田《かつまた》の池《いけ》は我《わ》れ知る蓮無《はちすな》し爾云《しかい》ふ君《きみ》の鬚無《ひげな》きがごと
という奇異《きい》なる一首あり。これ、勝間田《かつまた》の池《いけ》には蓮無《はちすな》しと云う言《げん》を否定《ひてい》して、これあ
るを主張するところの、皮肉《ひにく》なる反語《はんこ》なるが、その奇警《さけい》して冷《つめ》たき辛味《からみ》を有せること、
歌謡の警語化せられたる  むしろ警語の歌謡化せられたる、一個の好適例《こうてきれい》ならずや。
 バイロンに兼《か》ぬるにハンニバルをもってせるが如き、詩的英雄にして青年的人物た
る、我が日本武尊《やまとたけるのみこと》の三十年の伝記にも、自発的に他動的に、また鏘《そうそう》々の響《ひびき》を発する多
くの鍛練《たんれん》せられたる警語《けいこ》を挿《はさ》めり。尊《みこと》が東西経略《とうざいけいりゃく》の偉業の歴史は、少なからず神話化
せられつつあるだけ、それだけ人倫《じんりん》を超絶《ちようぜつ》せるものなり。史《し》に曰く、景行《けいこう》天皇の二十
七年十月、皇子|小碓尊《おうすのみこと》を遣《つか》わして熊襲《くまそ》を討《とう》ずと。尊《みこと》は、天皇が九十の老境に入《い》り給い
てよりの御子《おんこ》にして、しかも双生児《そうせいじ》の一個なるが、他の一個なる兄|大碓尊《おおうすのみこと》、不肖《ふしよう》の故
をもって、父皇《ふこう》の愛情はこの少子《しようし》の一身に鍾《あつ》まり、しかも、小碓《おうす》は英豪《えいこう》なる景行《けいこう》天皇
の愛を専《もつば》らにするに足《た》れるの麒麟児《きりんじ》にして、容貌端麗《ようぽうたんれい》、
|気魄雄大《きはくゆうだい》、この時|齢《よわい》わずかに十六にして、身丈《みのたけ》一丈、力|能《よ》く鼎《かなえ》を扛《あ》ぐ。
 命《めい》を奉《ほう》じてただちに四人の射《しや》を善《よ》くする者と共に発し、十二月|熊襲《くまそ》の境《さかい》に入り、巨
魁取石鹿文川上梟師《きよかいとりしかやかわかみたける》が大いにその族を集めて宴《えん》するに乗じ、剣《つるぎ》を懐《ふところ》にし、女装して婢
妾《ひしよう》に雑《まじわ》り、座《ざ》に侍《はんべ》る。かくて、夜深く人の散《さん》ずるを見るや、尊《みこと》すなわち進み近づきて、
川上の酔臥《すいが》せるを捉《とら》え、剣《つるぎ》を抜いてその胸を刺す。これ実に、一|匕深《びふか》く鮫鰐《こうがく》の淵《ふち》を探《さぐ》
るものにして、十六歳の少年の勇胆《ゆうたん》、鬼神《きじん》を驚倒《きようとう》せしむるに足《た》れり。
 宜《むべ》なり、当の敵|川上梟師《かわかみたける》が、ほとんど奇蹟《きせき》に打たれたるが如き感を起《おこ》しつつ、すで
に刃《やいば》に胸を穿《うが》たれて死に垂《なんな》んとするの痛苦《つうく》より超脱《ちようだつ》し、異常の能力を賛嘆《さんたん》するの至情《しじよう》
に、渾身《こんしん》の血液《けつえき》を琴《こと》の如く揺鳴《ようめい》せしめ、「筑紫《つくし》においては儂《われ》に優《まさ》れる勇者《ゆうしや》なきに、単身
来《たんしんきた》って能《よ》く儂《われ》を刺す者は、そも何人《なんびと》なるぞ?」と敬《うやま》い問いしことや。尊《みこと》すなわち答《こた》う
るに実《じつ》をもってすれば、梟師《たける》が賛嘆《さんたん》の情《じよう》はますます昂騰《こうとう》せり。粛然《しゆくぜん》として容《かたち》を正して
曰く、「幸いに御名《おんな》を上《たてま》つるの光栄を有せしめよ。日本武尊《やまとたけるのみこと》!」ど。ここにおいて川
上梟師《かわかみたける》は一切|恩怨彼我《おんえんひが》の差別観《さべつかん》を忘れ、微笑してもって静かに瞑《めい》しぬ。
 尊《みこと》の絶倫超凡《ぜつりんちようぽん》は云うまでもなけれど、川上梟師《かわかみたける》の人物の偉大また驚《おどろ》くに堪《た》えたり。
九州の人物を物色するに、遥かに後代《こうだい》の西郷隆盛《さいこうたかもり》を除《のぞ》いて、絶《た》えて取石鹿文川上梟師《とりしかやかわかみたける》
の如く器《うつわ》の大なる者を見ざるなり。川上が末期《まつこ》の一句、小碓尊《おうすのみこと》に上《たてま》つるに「日本武《やまとたける》」
の名《な》をもってしたる、何《なん》ぞそれ、奇警《きけい》の極《きよく》にしてかつ剴切《がいせつ》の極《きよく》なる。かくて、他《た》を輝
かしてしかも自家《じか》の抱負《ほうふ》を辱《はずかし》めず。簡単にして含蓄《がんちく》深く、酌《く》めども尽きざるの味《あじわ》いあ
り。「愛《う》い少年じゃ。可愛い稚児《ちこ》さんじゃ。ようその小腕《こうで》で、川上《かわかみ》ほどの豪傑仕留《こうけつしと》めや
はった。九州じゃ、おんどもほどの猛者《もさ》は無《な》かばってん、あんたにゃア叶《かな》わんば。そ
のおんどもより強《きつ》いあんたを、何《なん》と呼《よ》ぽうかえ。日本武《やまとたける》じゃ。日本武《やまとたける》じゃ。あんたは
|日本武《やまとたける》じゃ。この川上が娑婆《しやば》の置土産《おきみやげ》に、あんたに箔《はく》を附《つ》けて上《あ》げるけん、今から日
本武《やまとたける》と御名乗《おなの》りなされまっせ!」との意《い》にして、他を輝かして一段|自家《じか》の位置を高く
す。実にこれ、歴史を照破《しようは》するの光焔《こうえん》を帯《お》べる警語なり。警語の価値《かち》ここにおいて高《たか》
めらるること数等《すうとう》ならずや。
 すでにして、尊《みこと》二十七歳にして、東夷征討《とういせいとう》の任に当り、まず伊勢《いせ》の神宮《じんぐう》に詣《いた》りて、
|往昔素盞鳴尊《おうせきすさのおのみこと》が八岐《やまた》の大蛇《おろち》を斬って斃《たお》せしところの叢雲剣《むらくものつるぎ》を受け、進んで駿河《するが》に到る
や、過《あやま》って賊徒《ぞくと》の術中《じゆつちゆう》に陥《おちい》り、空原《くうげん》において火攻《かこう》に遭《あ》う。尊《みこと》すなわちこの剣《つるぎ》を抜き、
|草《くさ》を薙《な》ぎて活路《かつろ》を開き得《え》たるをもって、改《あらた》めて草薙剣《くさなぎのつるぎ》と名づけ、その地《ち》を称《しよう》して焼津《やいつ》
と呼ぶ。
 次《つ》いで、相模《さがみ》より上総《かずさ》に航《こう》せんとし、今の浦賀海峡《うらがかいきよう》なる走《はし》り水《みず》を過ぐるや、竜神祟《りゆうじんたた》
りを為して俄《にわか》に風濤《ふうとう》を起こし、まさに船を覆《くつがえ》さんとす。この時、尊の妃|弟橘姫《おとたちばなひめ》、軍
に従《したが》って船中に在《あ》り。奮《ふる》って身を投じて竜神の牲《にえ》に供《きよう》す。風濤《るうとう》すなわち歇《や》む。尊これ
より蝦夷《えぞ》を征《せい》して陸奥《むつ》を定め、還《かえ》って碓氷《うすい》峠に登って遥かに東南を望《のぞ》むに到《いた》り、端無《はしな》
く海に投ぜし弟橘姫《おとたちばなひめ》を思い、追慕《ついぼ》の情に禁《た》えずして、まさに腸《はらわた》を断《た》たんとす。すな
わち声を放って嘆《たん》じて曰く、「吾嬬今《あずまは》何|在《や》!」と。如何《いか》に、その情の切《せつ》にしてその声の
|哀《かな》しく、三軍をして、ことごとく鎧《よろい》の袖《そで》を濡《ぬ》らさしむるものありしかは、尊が唇頭《しんとう》よ
り、迸《ほとばし》りしこの一|短句《たんく》の余声《よせい》、永《とこし》えに消《しよう》せずして、後世|碓氷《うすい》の東南諸国《とうなんしよこく》が「吾妻《あずま》の地《ち》」
と呼《よ》ばるるに到《いた》りたるにより、その万一を想像すべしと做《な》す。普通にいわゆる警語《けいご》と
は性質を異《こと》にすと雖《いえど》も、「吾嬬今《あずまは》何|在《や》」の一句の感伝力《かんでんりよく》の強烈無比《きようれつむひ》なる。またこれ一
種の警語《けいこ》にして、しかもその上乗《じようじよう》なるものと云うべからずや。
 此《かく》の如く、予輩《よはい》は日本武尊《やまとたけるのみこと》の伝記《でんき》において、警語《けいこ》と実地との関係の別種の例を見
出だすこと一、二にして止まらず。随《したが》って、警語の利用せらるる範囲を、比較的拡大《ひかくてきかくだい》
して見ることを得《え》、警語とその歴史とを研究するにおいて、さらに一歩を進むるに到《いた》
りたるが、神武天皇の裔《すえ》なる日本武尊は、また一|面《めん》において、天皇の系統を追うて、
|警語《けいこ》の歌謡化したるものを戦陣の間に利用するの好適例《こうてきれい》を示しつつあり。
 尊《みこと》、川上梟師《かわかみたける》を屠《ほふ》りて九州を平定したる帰途《きと》、出雲《いずも》に入りて出雲梟師《いずもたける》を討《う》つや、謀《はかりごと》
を用いて、予《あらかじ》め梟師《たける》の佩剣《はいけん》を木刀《ぼくとう》に変え、しかして後《のち》、これと闘って容易にその頭《かしら》を
|斬《き》り、即時《そくじ》に血刀《ちがたな》を揮《ふる》いて、
  やつめさす出雲梟師《いずもたける》が佩《おび》ける太刀都豆良佐波麻岐真身無《たちつづらさはまきさみな》しにあはれ
と朗吟《ろうぎん》しつつ、喜舞《きぷ》これを久しうせりと云うもの、すなわちこれなり。
 第十六代の聖主仁徳《せいしゆにんとく》天皇が、即位の四年|高台《こうだい》に登り、炊煙《すいえん》の起ること少なきを望《のぞ》み
て、百姓の窮乏《きゆうぽう》せるを知り給い、天下に詔《みことのり》して、課税《かぜい》を除《のぞ》くこと三年に及《およ》び、その間、
|宮室壊敗《きゆうしつかいはい》すれども、毫《こう》も修覆《しゆうふく》を加え給わざりしは、国史上有名の事実なるが、七年|再《ふたた》
び高台に登りて、炊煙の遠近|相連《あいつらな》れるを望み、欣然《きんぜん》として皇后に向
って、「朕《ちん》すでに富めり!」と告げ給《たま》い、皇后がその意を解《かい》せずして、窮乏《きゆうぽう》の事実を挙《あ》
げ、これを反問《はんもん》し給うや、「百姓の富めるはこれ朕《ちん》の富めるにあらずや」と答え給いし、
これ独《ひと》り、盛徳《せいとく》の君主より出でたる金言《きんげん》として尊重すべきものなるのみならず、警語《けいこ》
としてもまた特別に選択《せんたく》せられたる、極《きわ》めて奇抜《きばつ》にはなはだ歯切好《はぎれよ》きものと看做《みな》すこ
とを得《、つ》べきなり。
 しかも、この語が仁徳《にんとく》天皇の御唇《おんくちびる》より発したるをもって、特に警語としての価値《かち》あ
りと云う理由は、天皇が、皇弟稚郎子尊《こうていわかいらつこのみこと》の如く、多く儒教の感化を受けて、儒教書籍
中の支那古聖王《しなこせいおう》の口吻《こうふん》を模《も》するの傾《かたむ》きある者とは異なり、活眼達識《かつがんたつしき》の政治家にして、
手腕|頗《すこぶ》る辛竦《しんらつ》に、海外|経略《けいりやく》の国是《こくぜ》を定めて、都を海浜《かいひん》の難波《なにわ》に移し、毎《まいまい》々痛烈なる高
圧手段《こうあつしゆだん》を用いて韓半島を処置《しよち》したる、一個の豪傑漢《こうけつかん》にて在《おわ》ししが故なり。
 しかのみならず、天皇の伝記には、女事に関する波瀾《はらん》はなはだ多く、添うるに、皇
后|磐之媛《いわのひめ》の妬悍《とかん》無比《むひ》なるもってす。これをもって、天皇の
|閨門《けいもん》は決して治まれりと云うこと能《あた》わず。はなはだしきは、吉備《きび》の黒媛《くろひめ》という美人を
|密《ひそか》に招きて寵幸《ちようこう》し給いしに、黒媛《くろひめ》たちまち皇后の猛烈《もうれつ》なる嫉視《しつし》に触《ふ》れて、居《きよ》を安《やす》んず
ること能《あた》わず、早《そうそう》々に本国《ほんごく》に逃《のが》れ還《かえ》りしかば、天皇|情《じよう》に禁《た》えずして、高台《こうだい》より遥《はる》かに
|黒媛《くろひめ》の船《ふね》を望《のぞ》み、愛慕《あいぼ》の和歌を詠《えい》じ給いしに、皇后これを聞いて妬心已《としんや》むこと能《あた》わず、
|怒《いかり》を黒媛《くろひめ》の船《ふね》に移《うつ》して、その発航《はつこう》を禁止《きんし》し、黒媛《くろひめ》をして陸路《りくろ》を取りて吉備《きび》に還《かえ》るの他《ほか》
なからしめしなどの事件あり。いわんやその高台こそは、
  高き屋《や》に登りて見れば煙《けむり》立つ民の竈《かまど》は殷《にぎは》ひにけり
の御製《ぎよせい》を出《い》だし給いて、天皇と皇后との間に古聖王的《こせいおうてき》問答のありたる、神聖の場所な
るにおいてをや。
 此《かく》の如き複雑なる偉人にて在《お》わし、豪傑漢《ごうけつかん》にて在《おわ》す仁徳《にんとく》天皇の御唇《おんくちびる》より発したるも
のなればこそ、「朕《ちん》すでに富《と》めり!」と宣《のたま》いしも、「百姓の富めるは朕《ちん》の富めるにあら
ずや」と宣《のたま》いしも、それ等の当然の価値の外《ほか》に、警語《けいこ》としての一種|洗錬《せんれん》せられたる価
値ありと云うなり。しかもこれ、警語《けいこ》をもって警語の説明《せつめい》に充《あ》てし一特例なりとす。
 歴史は明《あき》らかに、時人《じじん》呼んで大悪天皇《だいあくてんのう》と做《な》すと伝う。これ、我が第二十一代|雄略《ゆうりゃく》天皇の謂《い》いにあらずや。天皇はなはだ剛勇《こうゆう》にしてむしろ狂暴の域に入《い》るを厭《いと》い給わず、
しかも、青竹を割《わ》りし如き洒然《しやぜん》たる襟懐《きんかい》あり。これをもって、
|皇兄安康《こうけいあんこう》天皇が、大草香皇子《おおくさかのおうじ》の子なる七歳の眉輪王《まゆわおう》に弑《しい》せらるるや、天皇|憤《いきどお》ることは
なはだしく、多くの疑わしき者を屠《ほふ》りて自《みずか》ら遣《や》らんとし、まず、庶兄黒彦王《しよけいくろひこおう》の許《もとお》に赴《もむ》
きてその処置《しよち》を協《はか》り給う。しかも、黒彦|冷然《れいぜん》として路傍《ろぼう》の人の如き態度を取りしかば、
天皇|激怒自《げきとみずか》ら禁《きん》ぜず、ただちに黒彦《くろひこ》の衿《えり》を攫《つか》みて提《ひつさ》げ出《い》で、狗児《いぬころ》の如くにこれを撲《う》ち
|殺《ころ》し給いぬ。
 次に、同じく庶兄《しよけい》の一人なる白彦王《しろひこおう》を訪《と》い給いしに、これまた冷然《れいぜん》たること黒彦《くろひこ》に
|譲《ゆず》らざれば、天皇|有無《うむ》を宣《のたま》わず、例《れい》によって衿《えり》を提《ひつさ》げ出《い》で、小治田《おはりだ》に穴を掘りて、立
てながらこれを埋殺《うめころ》し給えり。また兵を起《おこ》して、眉輪王《まゆわおう》が匿《かく》れたる大臣葛城円《おおおみかつらぎつぶら》の家を
囲み、風に乗じ火を放ちて、眉輪《まゆわ》と円《つぶら》とを併《あわ》せて焼き殺し、さらに勢いに乗《じよう》じて、安
康《あんこう》天皇がこれに宝位《ほうい》を伝うるの内旨《ないし》ありし市辺押磐皇子《いちののべのおしわのおうじ》を殺して、押磐《おしわ》の同母弟な
る御馬皇子《みまのおうじ》をもまた屠《ほふ》り、諸兄近親《しよけいきんしん》をしてことごとく絶滅《ぜつめつ》に帰《き》せしめて、己《おのれ》ただ一人
|残存《ざんぞん》し給い、すなわち石上宮《いそのかみのみや》に位に即《つ》く。時人呆然《じじんぽうぜん》、手も足も着《つ》くること能《あた》わずして
ただ座視《ざし》するのみ。大悪天皇《だいあくてんのう》の大悪天皇たる所以《ゆえん》、実にここに在《あ》りと見られたり。されば、怒《いかり》を発し殺すを嗜《たしな》むの性癖《せいへき》は、即位の後《のち》と雖《いえど》も改《あらた》まり給わず。しばしば人をし
て面《めん》を掩《おお》わしむるの出来事《できごと》あり。
 しかも、洒然《しやぜん》として諫《いさ》め納《い》れて過《あやま》ちを改《あらた》め給いし佳話《かわ》も、また少なきにあらず。な
かんずく、葛城山《かつらぎやま》の遊猟《ゆうりよう》における一条の如きは、独り美談たるに止まらずして、警語
史的眼孔《けいこしてきがんこう》よりこれを見るに到《いた》り、さらに一段の価値を認めざるべからざるものなり。
即位の五年、天皇|葛城山《かつらぎやま》に猟《かり》し給いし時、突如《とつじよ》として、巨大《きよだい》なる野猪《やちよ》の叢間《そうかん》より出《い》で
て、御座《ぎよざ》に衝《つ》き到《いた》るに遭《あ》う。天皇すなわち舎人《とねり》に命じてこれを射《い》さしめんとし給いし
に、舎人《とねり》は野猪《やちよ》の猛悪《もうあく》に辟易《へきえき》して命《めい》を奉《ほう》ずること能《あた》わず、急に樹《き》を攀《よ》じてこれを避《さ》く。
|事態切迫《じたいせつばく》して天皇|身《み》を重《おも》んじ給うの暇《いとま》なく、まさに、至尊《しそん》をもってして赤手《せきしゆ》
す で       かくとう                 さいだいつうさんじ                    うれ
                               されど憂うるこ
                  最大痛惨事を現出せんとす。
野獣と格闘せざるべからざるの、
とを休《や》めよ。これ、剛勇無比《こうゆうむひ》の雄略《ゆうりやく》天皇にて在《おわ》しまさずや。伝えて曰く、天皇|平生《へいぜい》の
|神力《しんりき》を発揮《はつき》して、ただ一腸《ひとけ》に野猪《やちよ》を腸殺《けころ》し給いぬと。
 事《こと》はこれにて了《おわ》りぬ。ただ了《おわ》らざるは、不忠怯懦《ふちゆうきようだ》なる舎人《とねり》の処分《しよぶん》のみ。しかも、こ
れまた容易に解決せず。天皇ただちにこれを殺《ころ》さんとし給えばなり。この時、皇后|幡
梭皇女《はたひのこうじよ》、猟《かり》に随《したが》って天皇に侍《じ》し給えり。諌《いさ》めて宣《のたま》わく、「獣《けもの》の故をもって人を殺し給わ
ば、いかで、豺狼《さいろう》に儔《ひと》しとの誹《そしり》を免《まぬか》れ給うべき!」
と。.天皇これを聞き給いて、竜顔《りゆうがん》たちまち喜色《きしよく》を浮《うか》べ、「善《よ》い哉言《かなげん》や。人は猟《かり》して禽獣《きんじゆう》
を獲《え》、朕《ちん》は猟《かり》して善言《ぜんげん》を得《え》たり」との優詔《ゆうしよう》あり。すなわち舎人《こねり》を赦《ゆる》し、歓笑《かんしよう》して還御《かんぎよ》
あらせられぬ。共にこれ警語《けいこ》の上乗《じようじよう》なるものにして、皇后が警語を発して面《おもて》を犯《おか》し給《たま》
える、その鋒鋩《ほうぼう》の犀利《さいり》、利鏃《りぞく》をもって胸を穿《うが》たんとするの概《がい》あり。これ、警語史上の
一|新事実《しんじじつ》にして、後《のち》の警語を発せんとする者のために生面《せいめん》を開《ひら》きたるものと云うべく、
しかも、警語と警語との葛藤《かつとう》が変形して、警語と警語との和協に帰着し、雲|湧《わ》き風起
らんとする険悪《けんあく》の天候より、忽然《こつぜん》として、花|笑《わら》い鳥|歌《うた》う和暢《わちよう》の風日《ふうじつ》を産《う》み出《い》だしたる
事、また、警語が実際に作用せし一|新特例《しんとくれい》と称《しよう》し得《う》べきなり。
 これを要《よう》するに、以上|神代《じんだい》より上古《じようこ》に連《つらな》りての我が警語史は、大半|変形的神話《へんけいてきしんわ》と綯《な》
い交《ま》ぜになりて、その形影《けいえい》の散漫糢糊《さんまんもこ》たるを遺憾《いかん》とせざる能《あた》わざる部分多く、あるい
は、その一部分にのみ光彩《こうさい》ありても、全体《ぜんたい》における明確の度はこれに伴《ともな》わずして、人
をして切実の感を起すを得《え》ざらしむるを如何《いかん》ともすること能《あた》わずと雖《いえど》も、なお、仔細《しさい》
に点検《てんけん》すれば、後代《こうだい》に到《いた》りて十分に発達すべき、奇《き》の極《きよく》なるもの、矯《きよう》の極なるもの、
|苦《く》の極なるもの、毒《どく》の極なるもの、痛《つう》の極なるもの、切《せつ》の極なるもの、徹《てっ》の極なるも
の、深《しん》の極なるものの萌芽《ほうが》が、それ等の間に胚胎《はいたい》しつつあるを看取《かんしゆ》し得ざるにあらず。
 もしそれ、最後に挙《あ》げたる、雄略《ゆうりゃく》天皇とその皇后との唱和《しようわ》に到《いた》りては、比較的《ひかくてき》多く
|後代的色彩気味《こうだいてきしきさいきみ》を帯《お》びて、朧気《おぼろげ》ながら警語史《けいこし》のために過渡期を劃《かく》するものと、云うこ
とを得《う》るべきなり。ただし、上古《じようこ》の歴史は事|簡《かん》にして、天皇および皇室を離れては、
記述すべき現著《げんちよ》なる問題少なく、ために、警語史の内容また比較的|単調《たんちよう》なるを免《まぬか》れず
と雖《いえど》も、この過渡期《かとき》を限りとして、これより以降はやや佳境《かきよう》に入《い》ることを得《う》べけん。

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