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伊藤銀月「日本警語史」5

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その四
日本史中の精華たる時代と警語の烹練《ほうれん》

闇黒時代的なる特殊の警語-軍賊兵賊と士卒が商法を営む余裕ありし戦争-大欠伸
をもって局を結びたる十一年戦争-京都人は袖口の傷るることを恐れて煮豆を食わず
ー⊥二尺入道と赤入道  群雄割拠時代の門扉を開きたる鍵の響  在天の英霊をして
微笑して首肯せしむ  大緩山とは何処の山の名ぞi看を世界の主と為し奉るは臣が
畢生の願いなりー捗を遣らざる小刀利きの武道-天下の英雄は使君と操とのみー
あえて外国に向って日輪の化身なりと公告す1人の一生は重きを負うて遠きに行くが
如しi首を切らるるに臨んでも腹に毒なる物を食わずー1ー一日に二万人を殺して二十
日に四十万人を片附くる勘定i我は弓矢八幡を刺殺すlI百千の厄難を身に下さしめ
給え1城を貸すと女房を貸すと何れぞ1砂の食い方を教えて遣わそうかi摂政関
白と殺生関白
 足利《あしかが》時代は日本の闇黒時代《ダ クエ ジ》なり。されど、日本史中の精華《せいか》たる群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》時代に対す
る、日出以《につしゆつ》前のそれと思えば、ある期間の闇黒《あんこく》もまた厭《いと》うところにあらざるなり。い
わんや、闇黒時代にはまた闇黒時代的なる特殊の警語《けいご》の拈出《ねんしゆつ》せらるるものあるにおい
てをや。
 しかして、その驚くべき混沌《こんとん》時代が何によって開かれたるかを尋ぬるに、まず、足
     たかうじ    りゆうほう ηゆうび  か.     そうそう  えんせいがい                     け う
利氏の始祖尊氏が、劉邦、劉備に兼ぬるに曹操、袁世凱をもってしたる、日本に稀有
の人物にして、胆大《たんだい》に手柔《てじゆう》に、時代の風潮に乗じて、易《やす》きに就《つ》きつつ天下を取るの手
段に出でたるが故に、すでに最初より紀綱《きこう》の振粛《しんしゆく》を欠《か》
き、彼の事業を助けし部下の士をして、また彼に倣《なら》って呑噬《どんぜい》の欲を逞《たくま》しうせしむるの
余地を存し、我儘勝手《わがままかつて》の振舞《ふるまい》を為さざる者は、却って馬鹿《ばか》を見るが如き風を起して、
為に天下を闇黒にしたるに起因するを、認めざるべからずと雖《いえど》も、さらに、第二原因
の第一よりも顕著《けんちよ》にして、第一原因の効果を保留し助長するに有力なりしを看取《かんしゆ》する
を要するなり。弄《そ》は何ぞや、他なし、源氏《げんじ》の末裔《まつえい》にして源氏の筆法《ひつぼう》を学びたる足利氏《あしかがし》
が、退《しりぞ》いて平氏《へいし》に化し、末期《まつご》の北条氏《ほうじようし》に化《か》したるに在《あ》るなり。むしろ、平氏に化し末
期の北条氏に化しつつ、さらに、平氏だも末期の北条氏だも為《な》さざりしところに出《い》で
たるに在るなり。
 しかして、これを為《な》したる者は誰ぞ。曰く、売家《うりいえ》と唐様《からよう》に書く三代目の好標本《こうひようほん》なる、
|甘《あま》やかし坊っちゃん義満《よしみつ》なり。三代の義満《よしみつ》これを始めて、六代の還俗《げんぞく》将軍|義教《よしのり》これを
養い、足利系中第《あしかがけいちゆう》一の大馬鹿者《おおばかもの》たる八代の義政《よしまさ》これを成《な》したるなり。義満|父祖辛労《ふそしんろう》の
効果を収《おさ》めて、生れながらに主権者《しゆけんしや》の卵たり。長《ちよう》じて父|義詮《よしあき》の後《のち》を襲うや、将軍とい
う職をもって単に自家《じか》の私欲《しよく》を満たすべき機関と做《な》すの意思《いし》を公表しつつ、毫《ごう》も憚《はばか》る
ところなきなり。
 第百代|後小松《ここまつ》天皇の明徳《めいとく》三年の閏十《うるう》月、南帝|神器《しんき》を北帝に譲りて、南北ここに合一
するに至りたるは、これ機運《きうん》の然《しか》らしめしところにして、時局に当《あた》りたる何人《なんぴと》の力に
てもあらざるに、義満《よしみつ》は強《しい》てもって自己の功となし、しかも、武人本来の立場を棄《す》て
去りて、平氏の顰《ひん》に倣《なら》い、同|応永《おうえい》元年十二月二十五日、叨《みだ》
りに太政大臣《だじようだいじん》の極位《きよくい》に上《のぼ》りて、三|宮《きゆう》に准《じゆん》せられ、天子《てんし》を凌《しの》ぐこと数十等なる豪奢《こうしゃ》の生
活を為《な》し、相国寺《しようこくじ》を造り、花御所《はなごしよ》を営み、金閣《きんかく》を起し、賢相細川頼之《けんしようほそかわよりゆき》を廃黜《はいちゆつ》 して自《みずか》ら用い、贅沢《ぜいたく》の限りを尽して飽《あ》くことを知らざれ
ば、これがために財用《ざいよう》の欠乏を感ずるは当然の事実にして、彼は、当時|支那《しな》を支配せ
る明朝《みんちよう》が、我が海賊《かいそく》の侵寇《しんこう》に苦しみ、使《つかい》を遣《つか》わして海賊の禁遏《きんあつ》を要請し来《きた》れるを、絶
好の機会となして捉《とら》え、明《みん》に向って金銭を強請《きようせい》し、若干《じやつかん》の銅銭《どうせん》の前に尾を掉《ふ》り頭《かしら》を低《た》
れ、明に対して臣《しん》と称し、明の求めに応じて我が海賊を誅《ちゆう》し、天皇の存在を無視して
日本国王の封冊《ほうさく》を受け、明《みん》の正朔《せいさく》を奉《ほう》じ、金甌無欠《きんおうむけつ》の我が帝国の歴史に拭《ぬぐ》うべからざる大汚点《だいおてん》を印《いん》したり。
 義満《よしみつ》が保永十年明に贈りたる書信には、明らかに「日本国王源道義表《にほんこくおうみなもとのどうぎひようす》」と記し、
しかのみならず、彼の正朔《せいさく》を奉ずるを証すべく、永楽《えいらく》元年某月某日と書せり。これ、
|予《よ》がいわゆる警語《けいこ》とは全然《ぜんぜん》反対の意味においてはなはだ奇抜《きばつ》なるもの、しかも、奇抜
なるだけそれだけ、罪悪の分量の多大なるを認めずんばあらざるなり。
 義満の後《のち》四代|義持《よしもち》、五代|義量《よしかず》、共に可《か》もなく不可《ふか》もなくして、六代の還俗《げんぞく》将軍|義教《よしのり》
に到るや、驕慢浅慮関《きようまんせんりよ》東の支族《しそく》を滅《ほろ》ぼして自《みずか》ら手脚《しゆきやく》を断《た》ち、ついには、し実力ある大諸
侯《だいしよこう》を侮辱《ぶじよく》して却ってこれがために屠《ほふ》られたる、その一生の伝記の愚劣さ加減《かげん》に相応せ
る態度を取りて、またもや足利系特有の乞食根性《こじきこんじよう》を発揮し来り、第百二代|後花園《ごはなぞの》天皇
の永享六《えいきよう》年、明《みん》に哀訴歎願《あいそたんがん》して、三十万|貫《がん》の銅銭《どうせん》を賜与《しよ》せられ、その坊主上《ぽうずあ》がりなる
をもって、義満《よしみつ》、義持《よしもち》よりもさらに一層|乞食《こじき》の功妙なるを表現し得たり。
 すでにして、八代の大馬鹿者|義政《よしまさ》に到りては、奢侈贅沢《しやしぜいたく》も尋常《じんじよう》の程度に止《とど》まること
|能《あた》わず、凝《こ》りに凝《こ》りて茶気満《ちやきまんまん》々たるの範囲に入りたれば、随《したが》って府庫《ふこ》の空乏《くうぽう》もまた義
満《よしみつ》、義教《よしのり》時代より一層はなはだしく、ために厚顔無恥《こうがんむち》なるこの醜漢《しゆうかん》をして、最劣等な
る乞食手段に出でしめ、幾度《いくたび》か強請《ねだ》り強請りたる末、わずかに銅銭五万貫を得て、さ
らに十万貫を賜《たま》わらば我が国用すなわち足《た》りなんなどと、陋劣至極《ろうれつしごく》の哀音《あいおん》を吐きしも、
「手が塞《ふさ》がっているよ」と刎《は》ねつけられて、悄《すごすご》々と引き下がらざるを得ざりし、何たる
|業晒《こうさら》しの骨頂《こつちよう》そや。されど、これならばまだしもなり。乞食を為《な》して十分に成功せざ
りし義政《よしまさ》が、一|転《てん》して、公然《こうぜん》盗賊的行為を施《ほどこ》すことをあえてするに到りたるには、呆《あき》
れて物も云えなくなるなり。
 当時将軍も諸侯《しよこう》も、皆その放縦奢侈《ほうじゆうしやし》の生活の弊《へい》を受けて、如何《いか》に相率《あいひき》いて乞食的態
度《こじきてきたいど》を取るも、如何《いか》に富豪に献金を強《し》ゆる恐喝取財的態度《きようかつしゆざいてきたいど》を取るも、もってその財用《ざいよう》の
不足を補うに足らず。共《とも》に倶《とも》に新奇《しんき》なる調金《ちようきん》の便法《べんぽう》を思うこと、渇《かつ》する者の水を求む
るよりもはなはだしきものあり。
 ここにおいて、大馬鹿者|義政《よしまさ》は諸侯の賛同《さんどう》を得たる上、「徳政《とくせい》」と名つくる珍無類《ちんむるい》の
政令を発布したり。これ、予《あらかじ》め出来得《できう》る限りの借財《しやくざい》を為《な》したる上、その返済の義務を
|免《まぬか》るるための手段にして、これを行うや、先ず何人《なんびと》にも知らしむることなくして、突
然|全都《ぜんと》の鐘鼓《しようこ》および鈴鐸《れいたく》を鳴らし、「徳政《とくせい》! 徳政《とくせい》!」と絶叫せしむ。これと同時に、
一切の貸借関係《たいしゃくかんけい》における権利義務《けんりぎむ》は消滅《しようめつ》するなり。借りたる者は返済することを要せ
ず、貸したる者は請求することを得ざるなり。されば、徳政《とくせい》は得政《とくせい》にして徳政《とくせい》にあら
ず。得《とく》の行《ゆ》く政治にして、徳《とく》を行《おこな》う政治にあらず。無暗《むやみ》に借財《しやくざい》を重ねて馬鹿《ばか》を尽す者
に対しては、これ実に有難涙《ありがたなみだ》をこぼすべき得政《とくせい》なりとも雖《いえど》も、脅迫半分《きようはくはんぷん》に金品《きんびん》を借《か》り
られし富豪《ふごう》その他生産者より見ては、まことに迷惑千万《めいわくせんばん》、これに過ぎたる損政《そんせい》あらん
や。「徳政《とくせい》」とは思い切って名づけたるものかな。またこれ、予《よ》がいわゆる警語《けいこ》とは全
然《ぜんぜん》反対の意味においてはなはだ奇抜《きばつ》なること、「日本国王源道義表《にほんこくおうみなもとのどうぎひようす》」と揆《き》を一にす
るものにあらずや。
 しかして、この政令を可能ならしむべく、もしこれを奉《ほう》ぜざる者あるときは、身首《しんしゆ》
たちまち所を異《こと》にすべしとの、苛酷《かこく》なる罰則《ばつそく》を設けてこれに添加せり。鳴呼《ああ》実にこれ、
|政《まつりごと》を為《な》す者|自《みずか》ら盗賊を行うて、天下にこれを倣《なら》えと強ゆるものにあらずや。盗賊を
|為《な》さざる者をして、法を犯すの罪人として刑罰を受けしむるものにあらずや。天下の
盗賊を行う者に、盗賊をもって正道《せいどう》となすの口実を与うるものにあらずや。此《かく》の如く
して、なお天下に騒乱《そうらん》を生ぜずんば、升《そ》は却って不可思議《ふかしき》ならざるべからず。いわん
  や、義政の在職二十九年間に、徳政《とくせい》の行わるること十三回に及《およ》びたりというにおいて
  をや。天下いずれの国いずれの世に、此《かく》の如き政治ありや、好《よ》くも出来《でき》たるものと呆《あき》
  れ果《は》つるの外《ほか》なきのみ。果然《かぜん》、第百三代|後土御門《ごつちみかど》天皇の応仁《おうにん》元年五月より始まりて、
  同|文明《ぶんめい》九年十一月に到るまでの十一年間に連《つち》なれる、肥溜《こえだめ》の中に蛆虫《うじむし》の位置を争うて
  蠢動《しゆんどう》するが如き、混沌《こんとん》の極《きよく》、醜穢《しゆうわい》の極《きよく》なる、山名宗全《やまなそうぜん》、細川勝元《ほそかわかつもと》の争乱の、尊氏《たかうじ》以来
  の足利時代的|気風《きふう》が造《つく》り成《な》したる窮極《きゆうきよく》の産物として、現前《げんぜん》し来《きた》れるを見るなり。
   乞う。当時の一|逸話《いつわ》を記《しる》さん。京都|粟田口《あわだぐち》に旅店《りよてん》あり。一日|突如《とつじよ》として四方に鐘鼓《しようこ》
  の鳴るを聞くや、旅客《りよかく》のこれに宿《しゆく》せる者、すなわち徳政《とくせい》のまさに行《おこな》わるるものなるを
  知り、皆|宿料《しゆくりよう》を弁《ぺん》ぜずして出《い》でんとす。店主《てんしゆ》これを要求すれば、すなわち口を揃《そろ》えて
  曰く、「法に触《ふ》れんことを恐るるのみ」と。ここにおいて、店主もまた、我が家に現存
  せる財物《ざいぶつ》として、ことごとく旅客の携帯品《けいたいひん》を押収し、これを詰責《きつせき》すれば、すなわち冷《れい》
  然《ぜん》として答えて曰く、「法に触《ふ》れんことを恐るるのみ」と。警語《けいご》をもって警語《けいこ》に対《こた》えつ
  つ、しかも、偶然《ぐうぜん》に時弊《じへい》を痛罵《つうば》して骨《ほね》に徹《てつ》するものと云うべし。
   応仁《おうにん》の乱《らん》という名によって呼ばるるところの、山名宗全《やまなそうぜん》、細川勝元《ほそかわかつもと》が、応仁《おうにん》、文明《ぷんめい》
十一年間に連《つらな》りて、花の如く錦の如き京洛《きようらく》の大半を焦土《しようど》に帰せしめつつ、桓武《かんむ》天皇|草
創《そうそう》以来ここに累代《るいだい》の発展を積み、帝王の居《きよ》としての十分の規模を備うるに到りたる平
安城《へいあんじよう》の内外をば、これより後復《のちふたた》び旧観《きゆうかん》を呈すること能《あた》わざるべく荒廃《こうはい》せしめし、惨毒《さんどく》
無比《むひ》の市街戦《しがいせん》は、実に、闇黒時代の闇黒戦争と称するに価す
るものなりしなり。
 足利氏の支配を受くる武人中の二大頭なる、山名氏、細川氏を両軍の首脳と為《な》して、
京都を東西より挟《はさ》み、細川氏に属する東軍二十三州十六万余人、山名氏に率いらるる
西軍は二十五州十一万六千人と算《さん》せられ、しかしてこれに参加する者、上《かみ》は将軍より
|中《なか》は大諸侯《だいしよこう》、下《しも》は小身微力《しようしんびりよく》の士人《しじん》に到るまで、一として、私怨私憤《しえんしふん》のために、もしく
は私利私欲《しりしよく》のために、自《みずか》ら逞《たくま》しうせんとして、相結托《あいけつたく》し相加担《あいかたん》せる者にあらざるはな
く、しかのみならず、これを横より観《み》るときは、これ、血縁の分派によりたる陰晦《いんかい》なる家庭の波瀾《はらん》を、幾重《いくえ》にも累積《るいせき》して、尨大《ぽうだい》ならしめ複雑ならしめたる
ものに他《ほか》ならず。応仁の乱の性質、此《かく》の如くそれ下劣《げれつ》なり。
 故に、日本史中の精華《せいか》として、絢爛煌耀人目《けんらんこうようじんもく》を眩《げん》するに足《た》れる、群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》時代まさ
に来《きた》らんとする前の戦争、しかも、群雄割拠時代を招致《しようち》すべき準備的変乱たる性質の
戦争としては、徒《いたず》らにだらだらとして十有一年の長きに連り、東西両軍の総帥《そうすい》勝元、
                             へだ     あいつ    ゆ        かか       よしゆう
  宗全の二人者が、ついに一ヵ月を隔てて、相踵いで逝きしにも拘わらず、余衆なお対
  陣して四年の久しきに到りつつ、その間に一の義憤《ぎふん》なく、一の清操《せいそう》なく、奇策《きさく》の人を
  驚かしたるなく、殊勲《しゆくん》の衆《しゆう》に抽《ぬき》んでたるなく、平々凡々、混々沌々、ただ無数の蛆虫《うじむし》
  の糞汁裡《ふんじゆうり》に蠢爾《しゆんじ》たるを認むるの外、如何《いか》に眼《まなこ》を拭《ぬぐ》うも何物《なにもの》をも見出だす能《あた》わざりしこ
  と、却ってこれ怪謌《かいが》に堪えざるが如しと雖《いえど》も、細《こま》かに当時の事情を探究し来らば、ま
  た此《かく》の如くなるの已《や》むを得ざりしを首肯《しゆこう》するに吝《やぶさか》ならざらん。
   乞《こ》う、予《よ》をして、速《すみ》やかに警語史上《けいこしじよう》の黄金《おうごん》時代に眸《ひとみ》を移さんことを思うの欲望《よくぼう》を抑《おさ》
  えて、姑《しばら》く、闇黒時代の闇黒戦争を警語史的|眼孔《がんこう》に映ぜしめよ。一言にしていえば、
  当時の気風《きふう》と、大都《だいと》を戦場と為《な》しての市街戦《しがいせん》たるーその戦争の性質とが、相俟《あいま》ち相《あい》
  合《がつ》して、この奇怪なる現象を成《な》したるもののみ。すでに家庭の波瀾《はらん》を複雑にし尨大《ぽうだい》に
  したる、生温《なまぬる》く引締《ひきし》まらざる性質の戦争なる上、ある一面より観察せし結果の如く、
  上《かみ》将軍および諸侯《しよこう》より、下《しも》水呑百姓、商人に到るまで、当時の人間は皆|盗賊《とうそく》にあらざ
  れば乞食《こじき》と認むべかりしならずや。
   しかして、大都を戦場と為《な》しての市街戦は、将士兵卒《しようしへいそつ》をして、戦争の片手間《かたてま》に盗賊
と乞食とを行わしむるに便宜《べんぎ》多きをもって、彼等は、むしろ本職たるの戦争よりもこ
の内職に熱心を傾け、戦争を少しく行いて内職を多く行い、戦争の時間を短くして内
職の時間を長くし、戦争には十|中二《ちゆう》、三の力を用いて、内職にはその他の七、八を用
いしなり。加うるに、市街戦は危険《きけん》多くして残酷《ざんこく》に傾《かたむ》き易《やす》く、死者傷者の率《りつ》高くして、
その種別の度《ど》を定むること能《あた》わず、将帥《しようすい》必ずしも士卒《しそつ》より安全なるを保《ほ》し難《がた》きを例と
なせば、利《り》ありて義《ぎ》なく、名《な》を軽《かろ》んじて利《り》を重《おも》んずる、当時の武人等は、これを知る
ことはなはだ怜悧《れいり》にして、たがいに戦闘を極度《きよくど》に到らしむることを避《さ》け、常に三、四
|分《ぶ》にして蚤《はや》くも切《き》り上《あ》ぐるをもって、策《さく》の得《え》たるものとなせり。これ、応仁《おうにん》の乱の何
時《いつ》までも煮《に》え切《き》るに到らずして、ぐずぐずに長引《ながび》きたる理由なり。
 彼等は、戦争を疾《と》く鋭《するど》く行うの弾力《だんりよく》を欠《か》きて、なるべく危からざるようにと、のろ
りのろり遣《や》り、それも、半日四半日《はんにちしはんにち》戦っては、一ヵ月も二ヵ月も、はなはだしきは半
年も一年もその余《よ》も休み、その間の退屈凌《たいくつしの》ぎには、何《いず》れも陣中にて面白《おもしろ》き遊びを為《な》し、
はなはだしきは、戦争の中休みに故郷へ帰省して、父母妻子の顔を見てより、故郷の
|土産《みやげ》などを携《たずさ》えて、緩《ゆるゆる》々と出《い》で来《く》る者もあり。彼等はまた、洛中洛外《らくちゆうらくがい》を遊び歩きて、
酒を飲み、女に戯《たわむ》れ、乞食《こじき》を行い、盗賊《とうそく》を働き、あるいは、乞食し盗賊し得たる金銭
にて、必要および娯楽用《こらくよう》の物品を買いなどするなり。山の中の城攻《しろぜ》めや、何もなき野
の戦いなどとは事変《ことかわ》り、たとえ兵乱のために荒れ果てたる跡《あと》なりとは云え、花の都は
また格別《かくべつ》にて、享楽的《きようらくてき》生活の対象少《たいしよう》なからず。しかのみならず、盗賊的|臭味《しゆうみ》を帯た
る胆太《きもふと》き商人等は、兵馬《へいば》の間を物《もの》ともせずして、売買《ばいばい》の戦争を行い、軍隊を主《おも》なる顧
客《こかく》と為《な》しての市場《しじよう》は、所《しよしよ》々に開催せられ、遊女辻君《ゆうじよつじぎみ》なんどもそれ等の側面を縫《ぬ》うて出
没《しゆつぽつ》する故、彼等《かれら》はむしろこの間《かん》に趣味《しゆみ》を見出だして、自然に軍陣生活《ぐんじんせいかつ》の長きを忘れ、
あるいは却って、軍陣生活のなお長からんことを希《ねが》うの事情もなきにあらざりしが如
し。これ決して予《よ》が出鱈目《でたらめ》の言にあらず。
 当時、京都を中心と為《な》しての界隈《かいわい》において、「軍賊《ぐんぞく》」あるいは「兵賊《へいそく》」というはなは
だ奇異《きい》なる通語《つうご》の流行したるを記憶せよ。「軍人軍属《ぐんじんぐんぞく》」の「属《ぞく》」の字ならば、別に怪し
むに足らざれども、「盗賊《とうぞく》」の「賊《ぞく》」の字を「軍《ぐん》」の字「兵《へい》」の字の下に加えて呼ぶが
故に、奇異ならざるを得ざるなり。しかして、その何を意味するかと問えば、東西両
軍をおしなべたる軍士兵卒《ぐんしへいそつ》にして、戦争の傍盗《かたわら》賊を働くの徒《と》を指さすと云うなり。
かかる奇警なる特殊《とくしゆ》の普通名詞《ふつうめいし》を創造するの必要に迫《せま》られたるほど、軍隊より出ずる
盗賊がはなはだしかりしとは、実に驚倒《きようとう》に価する話説《わせつ》にあらずや。されど、歴史が明
らかに、一通りや二通りの驚倒にては、なお足《た》らざる事実を伝えつつあるを如何《いかん》せん。
 軍賊兵賊《ぐんぞくへいそく》の如何《いか》に跋扈跳梁《ばつこちようりよう》を縦《ほしい》ままにせしかは、応仁《おうにん》元年九月十三日に、その徒党《ととう》
数百が、三|宝院《ぽういん》、近衛殿《このえどの》、鷹司殿《たかつかさどの》、日野《ひの》の屋形《やかた》、花山院《かざんいん》、西園寺《さいおんじ》、広橋殿《ひろはしどの》、転法輪《てぽり》、
三条内大臣|実量卿館《さねかずきようやかた》を始めとして、武家には、吉良《きら》、大館《おおだて》、小笠原《おがさわら》、細川下野守《ほそかわしもつけのかみ》、飯
尾豊前守等《いいおぶぜんのかみ》の邸宅に火を放ち、南禅寺《なんぜんじ》、青連院《せいれんいん》、元応寺《げんおうじ》、法城寺《ほうじようじ》等の殿堂伽藍《でんどうがらん》、その
他|有財《うざい》の家を焼き払い、飽《あく》まで物を取り尽して、贓品《ぞうひん》を積むこと山の如く、奈良《なら》およ
び近江《おうみ》の坂本《さかもと》に市《いち》を立てて、盛んにこれを売却《ばいきやく》したりと云うに、その一端《いつたん》を窺《うかが》うこと
を得《う》べし。ただしこの中《うち》には、軍隊に属せる真の兵士にあらざる野武士輩《のぶしはい》をも雑《まじ》えた
るなるべしと雖《いえど》も、真の兵士がその大部分を占めしことは争うべからず。さすが、京
都にて盗賊を行いたる贓品《ぞうひん》を、同じ土地に市《いち》を開いて売らざりしは、その徳義《とくぎ》を重ん
ずる態度の殊勝《しゆしよう》さ加減《かげん》、実に感服敬服《かんぷくけいふく》の至りとや申さんなれど、戦争中|勝手《かつて》に徒党《ととう》を
結んで強盗に出ずる自由を認められ、かつ、勝手に奈良や坂本《さかもと》まで出商《であきな》いに行く余裕《よゆう》
ありしとは、その不規律《ふきりつ》の度外《どはず》れなる、とうてい今日より想像し得るところにあらざ
るなり。いわんや、歴史に留められたるこの軍賊兵賊《ぐんぞくへいそく》の大劫掠《だいきようりやく》の記録は、応仁《おうにん》の戦乱
が端緒《たんちよ》を開かれてより、わずかに四ヵ月以後の事実に過ぎずして、これより、十有一
年の長きに連なりたる時日の間には、この種の劫掠《きようりやく》がさらに幾回か繰返《くりかえ》されたるな
るべきを、推測《すいそく》し得《う》べきにおいてをや。
 初陣《ういじん》の花武者《はなむしや》として持《も》て囃《はや》されし少年は、何時《いつ》しか鬚食《ひげく》い反《そ》らしたる壮夫《ますらお》となり、
|壮年《そうねん》の大将も早鬚《はやびん》の毛に置く霜《しも》の白きを歎《かこ》つ身となりぬ。されど、だらだらとだらし
のなき微温的《びおんてき》戦争は、何時局《いつきよく》を結ぶべしとも見えざるを如何《いかん》せん。すでにして、開戦
以来七年の星霜《せいそう》を閲《けみ》し去り、応仁は文明と改まりて、その文明の年号も新《しん》を迎うるこ
と五|度《たび》の多きに及びたるが、その三月、廃残《はいざん》の都にも、また桜開きて、損《そこな》われながら
に春の色を成《な》したる時、西軍の首脳|山名右衛門太夫持豊入道宗全《やまなうえもんだいぶもちとよにゆうごうそうぜん》、七十歳の高齢《こうれい》に堪
うる能《あた》わずして、陣中に病死し、同じく五月には東軍の主帥細川右京太夫勝元《しゆすいほそかわうきようだいぶかつもと》もまた
|奇瘡《きそう》に悩まされ、享年《きようねん》四十四にして、五月雨空《さみだれそら》の夜半《よわ》の時鳥《ほととぎす》に誘《さそ》われ去りたり。
 かくて、東西両軍共に頭《かしら》を失いたる蛇の如く、残党《ざんとう》ただちに散《さん》じて、干戈《かんか》たちまち
治まるべく思われしに、何《なん》ぞ測《はか》らん、両軍の形勢は毫《ごう》も変化を現わさずして、依然《いぜん》と
して百年も対抗するが如く見ゆる態度を守りつつあるなり。ここにおいて、この争乱
が単に勝元と宗全とのみの葛藤《かつとう》にあらずして、両軍の将士が、私欲私憤《しよくしふん》のために、も
しくは私利私欲《しりしよく》のために、 各自《おのおの》ら逞《たくま》しうせんとし、便宜《べんぎ》に随いて相結托《あいけつたく》し相加担《あいかたん》し
たるものなること、ますます明らかなり。両頭共に亡びても、兵結んで解《と》けざるもの
は、なお両立すべからざる仇敵《きゆうてき》の幾対《いくつい》を存《そん》すればなり。しかして、盗賊を行い乞食を
働くことに味を占め、我儘勝手乱暴無法《わがままかつてらんぽうむほう》に振舞《ふるま》うことに興《きよう》を覚えたる彼等が、容易に
これ等の興味と手を分《わか》つことを欲せざるも、また、宗全、勝元|両《ふた》つながら亡《な》きの後《のち》に
戦争を継続せしめたる理由の、一|半《ばん》ならずんばあらざるなり。
 故に、勝元の残徒《ざんと》は依然《いぜん》として将軍|義政《よしまさ》(両頭共《りようとう》に亡《ほろ》びし年、義政《よしまさ》将軍職を九歳の
|義尚《よしなお》に譲りたりとも雖《いえど》も、幵《そ》はただ名義のみ)を神輿《みこし》に舁《か》つぎ、宗全の余党《よとう》は飽《あく》まで
も義政の弟|義視《よしはる》を本尊《ほんぞスロ》に祭りて、盲蛇《めくらへび》の相闘うが如く、ただ暗雲《やみくも》にのたうち廻りつつ、
両将没後さらに四年の長きに連りて、この状態を持続したるが畢竟《ひつきよう》ずるにこれ、行掛《ゆきがか》
り上|已《や》むを得《え》ずして為《な》すものに過ぎずして、誰も彼《かれ》も内実《ないじつ》はあぐみ果てたる事なれば、
いよいよ文明《ぶんめい》九年の十一月と云うに、西軍の本尊の義視《よしはる》が、ついに居堪《いた》たまらず陣中
より逃亡せしを機会《きつかけ》として、両軍一時に、縁日《えんにち》の見世物小屋《みせものこや》の大地震《おおじしん》に揺《ゆ》られたるが
如くに解体し、各自その陣営に放火して、もって馬鹿《ばかば》々々しく長《か》かりし遊戯《ゆうぎ》の終結と
|為《な》しつつ、二っ三つずつの大欠伸《おおあくび》を廃残《はいざん》の京都への置土産《おきみやげ》と為《な》して、その国々に別れ
帰りぬ。
 古今世界、我が応仁文明《おうにんぶんめい》の役《えき》を除くの外《ほか》、豈《あに》家庭の紛擾《ふんじよう》に始まって欠伸《あくび》に終るの戦
争あらんや。日本人を目《もく》して、一概《いちがい》に島国根性《しまぐにごんじよう》の小国民《しようこくみん》なりと做《な》すことなかれ。実に、
|此《かく》の如く大国民に失《しつ》たる時代もありしなり。口善悪無《くちさがな》きは京童《きようわらんべ》の常《つね》、彼等は、大風《おおかぜ》
の過ぎたる如き京の町に、吻《ほつ》と十一年|振《ぶり》の安心の息を吐《つ》くや、錦様鶯花《きんようおうか》の地が、寸
断《ずたず》々々に引《たひ》き裂《さ》かれて火に焦《こ》がされし画幅《がふく》の如き無惨《むざん》の光景を呈し、折柄《おりから》吹き荒《すさこ》ぶ凩《がらし》
に一入《ひとしお》物の哀《あわ》れを添えたるを見て、そぞろに悲涼《ひりよう》の感を催《もよお》しながらも、十一年戦争の
終局の呆気《あつけ》なきに対し、また、皮肉《ひにく》極まる一|冷語《れいこ》の引導《いんどう》を渡さずして已《や》むこと能《あた》わざ
るなり。弄《そ》は非常に洗錬せられたる警語なり。曰く、「戦争が欠伸《あくび》をしたり!」と。
 予《よ》がここに「京の着倒《きだお》れ、江戸の食倒《くいだお》れ」という俚言《りげん》を引《ひ》き来《きた》りたるを怪《あやし》むことな
かれ。「京の着倒れ、江戸の食倒れ」とは、江戸っ子すなわち旧時代の東京人の云うと
ころなるが、大阪にもまたこれと意味を同《おなじ》うする俚言あり。すなわち、「京の着倒れ、
大阪の食倒れ」というなり。何《いず》れにしても、これ、京都人が食物道楽《くいものどうらく》にあらずして着
物道楽《さものどうらく》なるを意味するもの。すなわち、食物を重んぜずして衣服を重んずるを意味す
るものに他ならず、しかもこの語が、大阪という都府《とふ》および江戸という都府《とふ》が日本に
|在《あ》りてより後《のち》  すなわち豊臣時代以後むしろ徳川時代となりてよりの産物《さんぷつ》なること
は、云うまでもなきところなるが、いわゆる「京の着倒れ」の語に適当する事実の濫
觴《らんしよう》は、実に足利系中の大馬鹿者|義政《よしまさ》の時代に在《あ》り。是れ予《よ》が応仁の乱について警語史
の材料を見出だしたる後、特にこの後代《こうだい》の警語を挙《あ》げ来《きた》りたる所以《ゆえん》なり。
 事実においては、京都人必ずしも食物を軽んじて衣服を重んずるにあらずと雖《いえど》も、
この語の本来の意義たる、京都人が眼前に消費せらるる物に重《おも》きを置かずして、長く
保存に堪《た》うる物を喜ぶことを指《さ》すに在《あ》り。換言《かんげん》すれば、物を眼前に消費せずして、な
るべくこれを保存することに意を用うるは、京都人一般の風習なりと云うに帰するの
み。京都人は吝《けち》なりと云うも、京都人はしみったれなりと云うも、また、この事実に
対する批評に他《ほか》ならざるなり。
 然《しか》り、京都人が果して吝《けち》なるかしみったれなるかは知らずと雖《いえど》も、その風習が、出
来得《できう》べき限り生活の外観を縮小して、地味《じみ》に、目立《めだた》ぬを主眼と為《な》し、代りに、深く蔵
し厚く積んで、基礎を固くし、万一の場合に応ずるの準備を怠《おこた》らざること、全然、東
京その他一般の気質と選《せん》を殊《こと》にして、はなはだ日本人的ならず、むしろ、日本におい
てこの一区画のみ色彩を異《こと》にするの現象ある事は、つらつら思えば、また怪底《かいてい》すべき
事実ならざるにあらざるなり。
 しかもこれ、決して桓武|草創《そうそう》以来の京都人の気風なりと断言すること能《あた》わずして、
元来|華奢風流《かしやふうりゆう》なるが京都人の本色《ほんしよく》なりしを、足利時代  殊《こと》に義政《よしまさ》の世《よ》となりて、か
の鐘鼓《しようこ》を鳴らして貸借関係の権利義務を消滅《しようめつ》せしむる「徳政《とくせい》」を濫施《らんし》し、これを重ぬ
ること実に二十九年間十三度に及《およ》び、人民をして到底《とうてい》財産の安固を保持すること能《あた》わ
ずして、已《や》むなく、門戸を狭隘《きようあい》にし、財産を隠蔽《いんぺい》して、出来得る限り他と物質上の関
係を絶ち、消極的に己《おの》れを守るの態度に傾《かたむ》かしめしが、今日《こんにち》に到りてなお変《へん》ぜざる京
都風の、因《よ》って起りたる根源ならずんばあらず。これに加うるに、京都人に対する空
前絶後《くへつぜんぜつご》の災禍《さいか》なる、応仁文明《おうにんぷんめい》十一年間の惨毒無比《さんどくむひ》なる市街戦が、ただちに蹤《あと》を追うて
起り、彼等をして兵賊軍賊《へいそくぐんぞく》の憂《うれ》いに堪《た》えざらしむるあり。ために京都人をして、いよ
いよ空《むな》しきを示して、内《うち》に蓄《たくわ》うるの方針を確乎《かくこ》たらしめざるを得ざるなり。
 彼等が、特に常時においても非常の用意を旨《むね》とし為《な》しつつ、財物ーiなかんずく不
変質と可能性とに富みて、一|朝事《ちよう》ある時、これを帯《お》びて走るに便《ぺん》なる金銭に重《おも》きを置
き、貧しきを示して富を作るに専《もつば》らなる風習は、実にこの時代に起りたるものにして、
これより後《のち》は、日本の大恐怖期《だいきようふき》、大流血期《だいりゆうけつき》たる戦国時代来り、いよいよ財布《さいふ》の口を引
締《ひきし》めざる能《あた》わざるに到れり。
 しかして、戦国時代に継《つ》いで到れるものは徳川時代にして、江戸に幕府を置かるる
と共に、ひとたび京都を去りたる政権の中枢《ちゆうすう》は、ついに再《ふたた》び帰り来らず。京都は、時
代に遺《のこ》し去られたる骨董品《こつとうひん》の如き非実用の都会となりて、ますますその住民の、外を
|空《むなし》うし内を充《み》たす必要を加え、もって今日《こんにち》に及《およ》びたるなり。彼等は、いわゆる食う物
も食わぬ態度をもって富《とみ》を作れり。しかして衣服の如きも、実質および外観の久しき
に耐うるものを選《えら》びたる上、これを愛護《あいこ》して、汚さず破らざるべく意《い》を用うること、
|尋常《じんじよう》一|様《よう》にあらず。平常服《へいじようふく》にても、少しく立ち働く時には必ず「上《うわ》っ張《ぱ》り」を用い、
「京都人は袖口の傷《やぶ》るることを恐れて煮豆《にまめ》を食《くら》わず」と江戸人に嘲笑《ちようしよう》せらるるほど、
衣服の保存のために苦心を払うに到りたり。「京の着倒れ」の正当の意義、それ此《かく》の如
くならざるべからずして、元来決して、衣服に贅沢《ぜいたく》なるを云うにあらざるなり。
 なお一回、闇黒時代より見出だされたる警語史の材料のある残余《ざんよ》を処理《しより》せしめよ。
人に綽号《あだな》を附くることは、古今世界一般の通例にて、我が国史中にもまたその事実少
なからず。神代《じんだい》より上古《じようこ》に連《つらな》り、この人名の如きは、その実名《じつめい》なるか綽号《あだな》なるかを識
別するに苦しむもの多く、むしろ、綽号と実名との区分なかりしにあらずやと想像し
得べきが、なかんずく、国史における綽号問題《あだなもんだい》の最も顕著なる事実は、また闇黒時代
において見出ださるるこそ面白《おもしろ》けれ。まず、義政《よしまさ》と伯仲《はくちゆう》の間に在る大馬鹿者なる、六
代の還俗《げんぞく》将軍|義教《よしのり》が、係蹄《わな》に懸《かか》りたる狐《きつね》の如くに屠《ほふ》られて、非業《ひごう》の最後《さいご》を遂《と》げしは、
人に綽号を附けたる報酬に他《ほか》ならざるを記憶せざるべからず。
 当時|赤松満祐《あかまつみつすけ》なる者あり。摂津《せつつ》、播磨《はりま》、美作《みまさく》、備前《びぜん》、因幡《いなば》五ヵ国の領主にして、左
京太夫《さきようのだいぶ》と称し、かつて尊氏《たかうじ》に父と呼ばれし則村入道円心《のりむらにゆうどうえんしん》の裔《すえ》なれば、足利氏の配下《はいか》
においても屈指《くつし》の大諸侯《だいしよこう》にして、将軍と雖《いえど》もこれに相当の敬意を払わざるべからざる
に、義教《よしのり》の驕慢《きようまん》にして浅慮《せんりよ》なる、毫《ごう》もこれ等の点に留意せずして、満祐《みつすけ》が身の長《たけ》低く
して長刀を帯《たい》する形状を滑稽《こつけい》なりと做《な》し、これに「三|尺入道《じやくにゆうどう》」と綽号《あだな》して実名を呼
ばざるなり。また頻《しき》りにこれに戯《たわむ》れ、はなはだしきは、手飼いの猿を放って満祐《みつすけお》の面《もて》
を傷《やぶ》らしめんとし、彼をして刀を抜いてこれを斬るの己《や》むを得ざるに出でしめたり。
これ、曷《いずくん》ぞ大諸侯に対する将軍の態度ならんや。満祐《みつすけ》が心に憤怨《ふんえん》を懐《いだ》きつつも、努め
てしばらく恭敬《きようけい》の色を失わざりしは、むしろ却って同情に価すべしと做《な》す。しかも、
満祐の忍耐に乗じてますます虐待《ぎやくたい》の度を加えたる義教は、ついに、満祐の領地を削り
て、その一族|赤松貞村《あかまつさだむら》に与えんとするの横暴《おうぽう》を敢《あえ》てするに到れり。これにおいて、三
尺入道もついにその勘忍袋《かんにんぷくろ》を破らざるを得ざるなり。
 第百二代|後花園《ごはなぞの》天皇の嘉吉《かきつ》元年六月二十四日、満祐《みつすけ》は将|軍《へ》をその邸に招き、猿楽《さるがく》を
催してこれを饗《きよう》す。宴|酣《たけなわ》にして馬を大庭に放ち、衆人《しゆうじん》の驚慌《きようこう》に乗じて兵を出だす。か
くして将軍は、係蹄《わな》に掛《かか》りたる狐の如く、取って抑《おさ》えて捻《ね》じ伏《ふ》せられ、腕《もが》く間もなく
首を掻《か》かれたり。綽号《あだな》の名附《なつ》け親《おや》としての報酬、また大ならずや。
 されど、話はこれにて仕舞《しま》いたるにあらずして、さらにその余談の珍無類《ちんむるい》なるもの
なるに着眼することを要するなり。満祐《みつすけ》すでに将軍を弑《しい》して、その根拠地播磨《こんきよちはりま》に退き、
|則村《のりむら》以来名誉の記念《きねん》を留めたる白旗城《しらはたじよう》に拠《よ》りて、足利氏に対し叛旗《はんき》を翻《ひるがえ》せしも、天下
の大兵三十余万を受けて、久しきを保つこと能《あた》わず、同年九月十二日、城|陥《おちい》りて満祐《みつすけ》
自殺したるは、まず順当の成行《なりゆき》と云うべきが、城陥る時、満祐の嫡子教祐《ちやくしのりすけ》、および次
子則尚《じしのりなお》の窃《ひそか》に逃れ出でて、伊勢《いせコ》の北畠氏《きたばたけし》に投《とう》じたるあり。
・後|義政《よしまさ》の時代に至りて、山名、細川二氏の軋礫《あつれき》に乗《じよう》し、細川勝元《ほそかわかつもと》について訴願した
れば、たちまち免されて旧領地《さゆうりようち》を回復し、すなわち、所々に流落《りゆうらく》せる旧臣《きゆうしん》を集めて三
千余人を得、同じ天皇の享徳《きようとく》三年十二月二日京都を発して、意気揚《いきようよう》々として播磨に赴《おもむ》
くの奇観《きかん》を呈するに及《およ》び、人をして、足利時代という奇妙《きみよう》な時代は、将軍を弑《しい》せし逆
臣《ぎやくしん》の子にても、どうかして生命《いのち》を保ちておりさえすれば、何時《いつ》かは世に出ずる機会を
これに与《あた》うるものと、つくづく感心の首を傾《かたむ》けざるを得《え》ざらしめたり。
 されど、話はまだまだこれにて御仕舞《おしまい》にあらず、またまた飛んだ事に引っくりかえ
るところに、足利時代の堪《たま》らぬ面白味《おもしろみ》はあるなり。さてこの享徳《きようとく》三年は、応仁《おうにん》の戦乱《せんらん》
の前十三年に当り、山名、細川が相反目《あいはんもく》するの状勢ようやく熟しつつある際《さい》にて、し
かも、赤松兄弟《あかまつきようだい》が回復し得たる旧領|播磨《はりま》は、山名宗全《やまなそうぜん》が白旗城攻撃《しらはたじようこうげき》の際の首功《しゆこう》により、
|新《あら》たに加えられたる領地なれば、将軍および勝元《かつもと》が、赤松兄弟を援《たす》けて己《おの》れを圧迫せ
んとするを見るや、宗全|憤慨措《ふんがいお》く能《あた》わず。大柄《おおがら》の獰猛《どうもう》なる諸《あか》ら顔に、鬼が坊主に化《ば》け
たる如き円《まる》い頭を有せるより、勝元一派の者より「赤入道《あかにゆうとう》」と呼ばれて、何時《いつ》しか一
般に通ずる綽号《あだな》となりつつある  その赤入道ぶりをば、一入《ひとしお》朱の如く染め上げて、
赤松兄弟を途《みち》に迎え、一戦してこれを粉砕《ふんさい》し、兄弟をしてわずかに身をもって備前の
|児島《こじま》に遁《のが》れしめぬ。
 されど驚《おどろ》くことなかれ、話はこれにてもまだまったくの御仕舞《おしまい》にあらざるなり。何
となれば、宗全はこの逆撃《ぎやくげき》によって罪を得ざるのみか、勢いに乗じて京都に上りたる
に、将軍は却って辟易《へきえき》して、宗全を引見《いんけん》し、温顔《おんがん》もってこれを慰撫《いぶ》したるにより、山
名氏の武威《ぶい》盛んなること、むしろ前時《ぜんじ》に倍《ばい》して、傲然《こうぜん》細川氏を凌轢《りようれき》し、両家の暗闘|為《ため》にますますはなはだしきを加えたるをもってなり。「三尺入
道」を滅ぼすに功ありたる者は「赤入道」にして、「三尺入道」が滅亡したる後《のち》、「赤
入道」の跋扈《ばつこ》するを見る。大新旨義《だいしんしぎ》が実地に施行されたる効力の如何《いか》に大なるかは、
早雲に継いで起りたる群雄《ぐんゆう》が、各《おのおの》々その面目と手法とを異にせるに拘《かかわ》らず、ただこの
点においてのみは、何人《なんびと》と雖《いえど》も必ず早雲に一致せざる能《あた》わざりしによって明らかなり
とす。早雲は実に英雄なり、実に偉人なり。しかして予輩《よはい》は、彼の口より、、真に英雄
らしき、真に偉人らー-)き、長く武《ぶ》をもって天下に立つ者をして服膺《ふくよう》せしむるに足《た》れる、模範的警語《もはんてきけいこ》の発せられたるを聞くことを得《う》べし。
 早雲かつて人をして兵書《へいしよ》を講ぜしめしに、開巻まず、「主将《しゆしよう》たるの道は英雄の心を総
攬《そうらん》するに在《あ》り」と云うを聞くや、すなわちただちに巻を掩《おお》わしめて曰く、「我すでに一
篇の精神を得たり、再《ま》た講ずることを要せず」と。鳴呼《ああ》、実にこれ、富岳《ふがく》を抱擁《ほうよう》し東
海《とうかい》を呑吐《どんと》するの概《がい》ある、大度量《だいどりよう》の声にあらずや。馬上に天下を取りつつ、馴《な》らし易《やす》か
らざる虎狼《ころう》の徒《と》をして、足下《そつか》に戯《たわむ》るる狗児《くじ》の如くに悦服《えつぶく》せしむる偉人の面目、この一
語の中《うち》に躍《ゃくやく》々たるを覚ゆるなり。この一警語は、群雄割拠時代《ぐんゆうかつきよじだい》の門扉《もんぴ》を開きたる鍵《かぎ》の
響きなり。しかして、戦国時代を総括《そうかつ》したる封《ふう》じ目《め》に押捺《おうなつ》されたる印章《いんしよう》なり。
 早雲に次《つい》で起りて、第二の英雄時代開拓者《えいゆうじだいかいたくしや》となりたる者を、毛利元就《もうりもとなり》となす。すで
  に早雲においてその例を示されし如く、この時代の英雄は、皆、人心《じんしん》すでに濫政《らんせい》に苦
  しみ、無才無能《むさいむのう》にして、徒《いたずら》に階級の上層《じようそう》を占《し》めつつ、多数人を自家の放情縦慾《ほうじょうじゅうよく》の犠
  牲に供《きよう》して、省《かえり》みることを知らざる将軍および諸侯が、着々として時代より後方に断《だん》
  送《そう》せられつつあるを看取《かんしゆ》し、もって、機会の乗ずべきを覚《さと》り、手に唾《つばき》して起《た》ちたる者
  なれば、すべて、組織的事業を企《くわだ》て秩序的行動《ちつじよてきこうどう》を取るにおいて、一致せざるを得ず、
  民《たみ》を本《もと》としつつ、これを慰撫愛護《いぶあいこ》するの善政《ぜんせい》を施《ほどこ》すにおいて、同型ならざる能《あた》わざり
  しなり。なかんずく、最も共通なる要点は、英雄|何《いず》れも時代の裏面より頭《かしら》を抬《もた》げ、ま
  ったく赤手空拳《せきしゆくうけん》なるか、しからざれば微々たる一|城砦《じようさい》の主管者《しゆかんしや》なるかに過《す》ぎざりしを
  もって、小をもって大を摧《くだ》き、寡《か》をもって衆《しゆう》を破るべく、両入道の対照|頗《すこぶ》る妙《みよう》にして、
  両者に対する綽号《あだな》のはなはだ奇警なるを覚えずや。かかる滅茶苦茶《めちやくちや》に混沌乱脈《こんとんらんみやく》なりー-)
  時代と、堂《どうどう》々たる大諸侯を呼ぶに、侮辱《ぶじよく》を極めたる綽号をもってするを憚《はばか》らざりし事
  実との関係、また玩味《がんみ》に価せり。
   かくて、予《よ》が待ち設けたる戦国時代は来《きた》れり。日本史中の精華《せいか》たる時代、警語史的《けいこしてき》
  眼孔《がんこう》に映ずる黄金時代たる、群雄割拠時代《ぐんゆうかつきよじだい》はついに来りたり。ここにおいてまず、凡《ぼん》
人時代《じんじだい》を断送《だんそう》して英雄時代《えいゆうじだい》を招来したる最初の人物として、北条早雲《ほうじようそううん》に眼《まなこ》を注《そそ》がざる
べからず。単調また単調、単調の外《ほか》に何等《なんら》の挙《あ》ぐる物なき千里の砂漠《さばく》を行くこと、日《にちにち》々
また日々にして、人をしてほとんど倦殺《けんさつ》に堪《た》えざらしめんとするの時、たちまち、馬
頭雲《ばとうくも》開くところ、奇峰《きぽう》の突兀《とつこつ》として天腹《てんぷく》を刺して峙《そばだ》てるを見、覚えず鞍《くら》を拍《う》って快哉《かいさい》
を叫ばしむるものは、早雲の出現なり。
 早雲は元来|伊勢平氏《いせへいし》にして、新九郎|長氏《ながうじ》と称し、初め足利義視の近侍《きんじ》たり。応仁の
乱ひとたび起るや、謂《おも》えらく、「天下これより将《まさ》に麻《あさ》の如く乱れんとす。方《まさ》にこれ、英
雄《えいゆう》手に唾《つばき》して大業《たいぎよう》を成《な》すの秋《とき》なり」と。すなわち、財を散じて奇傑《きけつ》の士の志を得ざる
者と結び、六士と共に剣《けん》によって、東の方|駿河《するが》に至り、その姉の夫|今川義忠《いまがわよしただ》に依《よ》る。
たまたま義忠の病死するに遭《あ》い、叔父の地位よりして幼主|氏親《うじちか》を補翼《ほよく》し、功をもって
同国|八幡山《やはたやま》の城主となれり。
 これ、早雲が事業の第一着歩にして、彼は、これより伊豆を取り、相模《さがみ》を略《りやく》し、小
田原《おだわら》に居《きよ》を定めて(後土御門《ごつちみかど》天皇の明応《めいおう》四年二月)、関《かん》八州を平定《へいてい》するの基《もとい》を開きたる
が、彼が従前《じゆうぜん》の武人と全然《ぜんぜん》行き方を異にしたる点は、戦争においては、出来得る限り
時間を短く度数を少なくして、人命を損じ財貨を費やすこと多からざるよう、一|挙《きよ》に
|偉功《いこう》を奏《そう》する投機的奇兵主義《とうきてききへいしゆぎ》を用い、同時に政治においては、民力を休養して訟獄《しようごく》を
公平にする着実なる仁愛主義《じんあいしゆぎ》を施《ほどこ》したるに在《あ》り。この二点は、混沌《こんとん》たる足利時代をそ
の積弊《せきへい》と共に葬り去りて、真に人物の実価実力《じつかじつりよく》をもって事《こン》を成《な》すべき新時代の萌芽《ほうが》が
|抽出《ちゆうしゆつ》せられたるもの、すなわち全然|新義《しんぎ》と新味《しんみ》とによって充《み》たされたるものなり。
 この二必ず奇兵《きへい》を用いて危険を冒《おか》したる記録を有せる一事なり。早雲すでに爾《しか》り、
|元就《もとなり》また爾《しか》らざるを得ず。同時に起れる武田信玄《たけだしんげん》も、上杉謙信《うえすぎけんしん》も、また、継《つ》いで来《きた》り
たる織田信長《おだのぶなが》も、群雄《ぐんゆう》が成功の第一要素は、ことごとく、奇兵《きへい》の成功に外《ほか》ならざるの
み。しかも、元就《もとなり》において、最も出色《しゆつしよく》に奇兵の成功が多大なるを見るなり。
 元就の系統《けいとう》は、頼朝《よりとも》の知嚢大江広元《ちのうおおえひろもと》より出でたり。彼の起れるや、その領する所は、
数代の祖|時親《ときちか》が、足利尊氏より与えられし安芸《あき》の吉田《よしだ》にして、尼子氏《あまこし》、大内氏《おおうちし》二大勢
力の間に介在《かいざい》し、両者の何《いず》れかに隷属するにあらざれば、自ら存《そん》すること能《あた》わざる、
|寄生物《きせいぶつ》に儔《ひと》しき愍《あわれ》むべき境遇なりしなり。されど、元就は境遇に支配せらるる凡人に
あらずして、境遇を支配する非凡人なり。第百五代|後奈良《ごなら》天皇の天文《てんもん》二十年九月|朔日《ついたち》、
山陰山陽の半部と九州の一角とを併有《へいゆう》して、京都以西における海陸《かいりく》の主権を占め、従
二位の高位と足利将軍を小なりとする財富とに誇りつつありし大内義隆《おおうちよしたか》が、その老臣
|陶晴賢《すえのはるかた》に弑《しい》せらるるや、元就変に乗じて志を展《の》べんとし、まず、晴賢誅戮《はるかたちゆうりく》の勅許《ちよつきよ》を請《こ》
うて、新たに巌島《いつくしま》に城《きず》き、敵を狭窄《きようさく》の地に誘《いざな》い、後奈良《ごなら》の弘治《こうじ》元年十月|朔日《ついたち》夜、三千
に過ぎざる寡兵《かへい》をもって、風雨に乗じ敵営に決死の夜襲《やしゆう》を試み、能《よ》く十数倍の大軍を
|痛破《つうは》して晴賢《はるかた》をして窘迫《きんばく》して海頭《かいとう》に自殺せしめたり。毛利氏《もうりし》が、
山陰山陽の主人として、大内氏《おおうちし》に優《まさ》れる勢威と実力とを兼ね、関東に起りし北条氏と、
東西好一対の事業を成《な》すに至りたるは、要するに、この一回の奇兵《きへい》の成功を善用《ぜんよう》した
る結果に過ぎざるなり。
 かくて、元就《もとなり》について特に注目すべきは、晴賢《はるかた》を征討するに臨んで、勅許を請いた
る一事なるが、後鳥羽《ことば》天皇北条氏を亡ぼさんことを謀りて「天子御謀叛《てんしごむほん》!」の一喝の
下に辟易《へきえき》し給い、後醍醐《ごだいご》天皇足利氏のために吉野《よしの》の山中に窮蹙《きゆうしゆく》して、慷慨《こうがい》剣《けん》を按《あん》じて崩《ほう》じ給いてより、皇室|振《ふる》わざることはなはだしく、武人|独《ひと》り跋扈《ばつこ》
して、天呈はただ虚位《きよい》の授受をもって代《だい》を累《かさ》ね給いたれど、この
|極度《きよくど》に至って、天下はついに腐敗《ふはい》せる武人政治の更に腐敗せる文人政治よりも厭《いと》うべ
きに戦慄《せんりつ》すると同時に、皇室の御痛《おんいた》ましき現状に注意を引かれざる能《あた》わざるに及《およ》び、
ここに祖先以来の民族的精神を覚醒《かくせい》せしめて、油然《ゆうぜん》として
皇室中心の思想を湧かし来りたるを、時代の子たる元就《もとなり》が蚤《はや》くも時代精神の趨向《すうこう》を看
破《かんま》し、率先して時代精神の代表者となりたるものに外ならずと做《な》す。元就の後《のち》に起《おこ》り
て天下を取りたる者は、信長《のぶなが》にでも、秀吉《ひでよし》にても、皆皇室中心の時代思想を代表して、
これに叶《かな》いたる措置《ぞち》を為《な》ししが故の成功なるのみ。語を換えて云えば、皆元就の態度
に一致したるが故の成功なるのみ。元就の人物の非凡なるすでに此《かく》の如し。
 されば、その七十五年の一生において、名言の伝うべきものを出だしたること、決
して、一、二にして止まらずと雖《いえど》も、なかんずく有名なるは、その老死《ろうし》に臨んで子孫
に与えたる遺訓《いくん》なり。第百六代|正親町《おおぎまち》天皇の元亀《げんき》二年六月、元就病んで再び起たざる
を知るや、その諸子を枕頭《ちんとう》に集めて、人をして箭《や》を持ち来らしめ、諸子の数と斉《ひと》しき
矢を束《つか》ねて、これを折らんとするも能《あた》わざる状を示し、しかして後、中《うち》より一|枝《し》ずつ
を抽《ぬ》いて試むるに、随《したが》って折れざるはなし。元就すなわち誡《いまし》めて曰く、「汝等《なんじ》もまた
かくの如きのみ。兄弟《けいてい》心を一にせば、外敵これを如何《いかん》ともすること能《あた》わずと雖《いえど》も、も
し各自に異心《いしん》を懐《いだ》かば、共に亡んで我が家|跡《あと》なきに到らん」と。諸子皆|唯《いい》々としてこ
れに服す。独《ひと》り、三子|隆景《たかかげ》口を挟《さしはさ》んで曰く、「兄弟の相争うは欲を逞《たくまし》うせんとするに
|由《よ》る。欲を捨《す》てて義を取らば、何の争いかこれあらん」と。元就これを聞いて首肯《しゆこう》し、
「美哉言《よいかなげん》や、汝等|須《すべか》らく仲兄《ちゆうけい》の云うところに遵《したが》うべし」と云って瞑《めい》せり。
 元就の遺訓《いくん》は、骨肉兄弟《こつにくけいてい》相争うて国を失い家を亡ぼす者多々なりし、足利時代の流
弊《りゆうへい》に鑑《かんが》みて発したるもの、またもって、元就が足利時代の汚濁《おだく》に衣《ころも》の裾《すそ》をも垂《た》れざる
|新人《しんじん》なるを知るに足るべし。
 しかして、諸子《しよし》中の麒麟児《きりんじ》にして小早川《こばやかわ》の家を継《つ》ぎたる隆景《たかかげ》の答弁《とうべん》は、奇警《きけい》にして
|剴切《がいせつ》なることその用兵《ようへい》の法《ほう》に似たる乃父《だいふ》の遺訓に対して、旗鼓《きこ》相当るの概《がい》あるものに
あらずや。元就|稀有《けう》の人傑《じんけつ》をもってして、その生れたる時少しく早く、その起りたる
地少しく僻《へき》なるにより、空《むな》しく十三州の領主として一生を終えたりと雖《いえど》も、幸いにこ
の麒麟児《きりんじ》の在《あ》るあり。後年、その兄|吉川元春《きつかわもとはる》と共に、元就《もとなり》の嫡孫輝元《ちやくそんてるもと》を輔導《ほどう》して、大
英雄秀吉の前にその家を辱《はずかし》めず。洒然《しやぜん》たる胸襟《きようきん》、快く時勢と人物とに推譲して、大乱
削平《たいらんさくへい》の偉業を翼賛《よくさん》し、もって祀《まつり》を後世に伝え得たる。必ずや、乃父在天《だいふざいてん》の英霊《えいれい》をして
微笑して首肯《しゆこう》せしむるに価せしならん。
 去《さ》るほどに、予の警語史はまさに英雄時代の中心に向って突き入りたり。早雲《そううん》、元
就《もとなり》の外《ほか》、戦国時代の群雄《ぐんゆう》中に.傑出《けつしゆつ》したる人物として、武田信玄《たけだしんげん》、上杉謙信《うえすぎけんしん》の両雄《りようゆう》を
見出ださざるべからず。しかして、両雄の口を衝《つ》いて発したるものに警語史の材料を
求むとせば、また決してその少きに憂えずと雖《いえど》も、小著元《しようちよ》来紙数の余裕《よゆう》に乏しきをも
って、忍んでこれを看過《かんか》しつつ、ただちに、最初の天下人|織田信長《おだのぶなが》を捉《とら》うることに是
認《ぜにん》を乞《こ》わざるを得ざるなり。
 信長《のぶなが》の天下を取りたる基本も、また早雲、元就の系統《けいとう》を追いたる奇丘《きへい》ハの成功《せいこう》に他《ほか》な
らずして、もって、彼が新時代の子たる所以《ゆえん》を明《あき》らかにせり。彼は、足利時代の大諸
侯《だいしよこう》の一|個《こ》なる斯波家《しばけ》の重臣にして、主家《しゆか》の腐朽《ふきゆう》に乗《じよう》じ尾張《おわり》を横領《おうりよう》したる、備後守信秀《びんこのかみのぶひで》
の子なり。父|没《ぽつ》するや、諸兄弟《しよけいてい》の国を争う者を亡《ほろ》ぼして、少年にしてその家を継ぎた
るが、彼の根拠地尾張は、東国《とうごく》より起って天下を取らんとする者の要路《ようろ》に当《あた》り、やや
もすれば、その馬蹄《ばてい》に蹂躙《じゆうりん》せらるるの不安あると共に、また、自《みずか》ら進んで大業《たいぎよう》を成《な》さ
んとする者のためには、近きに失《しつ》せず遠きに過《す》ぎざるの好位置を占《し》めつつあるのみな
らず、彼|信長《のぶなが》は、大《だい》ならずと雖《いえど》も一地方の首長として、最初より天下に為《な》すあるべき
資料を所有せり。
 ここにおいて、正親町《おおぎまち》天皇の永禄《えいろく》三年五月、今川義元《いまがわよしもと》が駿《すん》、遠《えん》、参《さん》、三国を合して、
四万の大丘ハを率いつつ、上洛《じようらく》して天下の主となるべく、野火《やか》の枯草《こそう》を焼き、疾風《しつぶう》の樹
枝《じゆし》を靡《なぴ》かすが如き勢いをもって、まずその経路《けいう》の第《だい》一|関門《かんもん》たる尾張《おわり》の地を突破《とつば》せんこ
とを要するや、二十七歳の青年|信長《のぶなが》は、これに一|擲《てき》して乾坤《けんこん》を賭《かけもの》にするの機会を看取《かんしゆ》したり。すなわち、敢然《かんぜん》として義元《よしもと》の
十|分《ぶん》一に足《た》らざる寡兵《かへい》を提《ひつさ》げて起《た》ち、目《め》に余《あま》る大軍を抑留《よくりゆう》せんことを試む。また何ぞ
   はるかた  むか          一と                     かくさく     きばつ
元就が晴賢を邀えしと事情を異にせんや。しかして、信長の画策もまた奇抜にしてか
つ凱鵬なりき。まず、黜瀏、編榔、囓麟、鑑祁、その他の識螺鬆ぱ兵を配して、敵を
                               己《つえささようかくしよわかほんえいくうきよおの》れ自《みずか》ら、五月
釣るの餌に供し、敵の丘バカを各所に分ちてその本営を空虚ならしめ、
十九巳夜の雷雨に乗じて、間道よりただちに義元《よしもと》の本営|桶狭間《おけはざま》を襲《おそ》い、一|挙《きよ》にして義
元を馘《くびき》りぬ。かくて、この奇兵の大成功は、信長が一生の運命《うんめい》を定むるに足れるほど、
|爾《しか》くはなはだ有力なりしにて、これより後の彼が事業の進展は、順風《じゆんぷう》に帆《ほ》を張《は》りて穏《おん》
るカ《ま         ド心》|し
波を渡るの概あり。
 尾張《おわり》に併《あわ》するに義元《よしもと》の旧地《きゆうち》をもってしたる彼は、漸次《ぜんじ》に前面を経略《けいりやく》して近畿《きんき》に及ぼ
し、初め足利義昭《あしかがよしあき》を助けて征夷大将軍《せいいたいしようぐん》たらしめしと雖《いえど》も、これ一時の権宜《けんぎ》に過《す》ぎずし
て、彼は長く、腐根《ふこん》に生じたる蕈《きのこ》の如き末世の足利将軍を戴《いただ》く者にあらず。義昭《よしあき》が身《み》
の程《ほど》をも知らずして彼を除《のぞ》かんことを謀《はか》るや、待ち設《もう》けたる信長の鉄腕《てつわん》は、時《とき》こそ来《き》
たれと下《くだ》って、ただちに、将軍を追うこと、宿無《やどな》き犬を追うが如く、己れ自ら皇室を
|戴《いただ》いて天下を号令《こうれい》するに至りたり。これ、同じ天皇の天正元《てんしよう》年七月にして、桶狭間《おけはざま》に
|義元《よしもと》を馘《くびき》りてより、僅《きんきん》々十四年の後《のち》に過ぎざるなり。
 しかのみならず、信長が真に新時代の新人物たる所以《ゆえん》は、元就《もとなり》が時代思想を代表し
て皇室を尊奉《そんぽう》せし歴史を継承《けいしよう》しつつ、さらに大いにそれより歩《ほ》を進め、皇居を造営し
てその頽廃《たいはい》の観を改め、皇室の御料地《ごりようち》を献《けん》じ、公卿《くげ》の所領《しよりよう》のすでに売却されたるもの
をば、ことごとく価《あたい》を償《つぐの》うて旧主《きゆうしゆ》に返与《へんよ》し、もって、皇室および宮廷の規模格式《きぼかくしき》を応
仁《おうにん》以前の旧状《きゆうじよう》に復し、時人《じじん》をして真に天子の尊《たつと》きを知らしめたる上、進んで、伊勢《いせ》の
神宮を改築し、同時に、二十年ごとに改築するの旧制《きゆうせい》を復興して、再び祖宗《そそう》の威霊
昭《いれいしようしよ》々として輝《う》くを覚えしめたるにあり。しかして彼は、この元就を出でて大いに歩を
進めたる一面に兼ぬるに、さらに、早雲《そううん》を出でて大いに歩を進めつつ、人民を愛撫《あいぶ》す
るに意を用いたるの一面をもってせり。
 信長の政治は、元就の尊王主義《そんのうしゆぎ》に加うるに早雲の愛民《あいみんし》・干義《ゆぎ》をもってしたる、尊王愛
民主義《そんのうあいみんしゆぎ》のそれなり。彼が、容易に天下を平定《へいてい》して、威令《いれい》を四方に及《およ》ぼせる、また偶然
ならずと云うを得《う》べきか。不幸にして、大事《だいじ》未だまったく成《な》らざるに、逆臣《ぎやくしん》の弑《しい》する
ところとなりたりと雖《いえど》も、能《よ》く彼の衣鉢《いはつ》を伝えて、しかも、出藍《しゆつらん》の誉《ほま》れある秀吉《ひでよし》が.正当に彼の事業を継承《けいしよう》して、さらにこれを拡大《かくだい》したる
あり。英雄としての信長は、もって瞑《めい》するを得《え》ざるにあらざるべきなり。これを要す
るに、信長は時代が産出したる覇者的天才《はしやてきてんさい》にして、しかも、その天才の度《ど》の高き、ま
ったく時代の諸英雄より一|頭地《とうち》を抽《ぬ》きんでたり。
 されど、彼は秀吉の如く身を卑賤《ひせん》より起して、背中に赤切《あかぎ》れを切らすほど世間の風
に揉《も》み抜《ぬ》かれたる訓練を有せず。その生れながらにかなりの武将の子たると、少年時
代より蚤《はや》くも士卒《しそつ》を指揮《しき》して、毫《こう》も、人の下に屈《くつ》しつつ一歩ずつ踏《ふ》み登《のぼ》りし苦《にが》き経験
を有せざるとは、彼の天才をしてある度以上の訓練を受くる便宜《ぺんぎ》を得ざらしめ、何時《いつ》
までも野性的に、駄《だだ》々っ児《こ》的に、一点の不自然を帯《お》ばる代りには、余りに直情径行《ちよくじようけいこう》
に失《しつ》して、紆余曲折《うよきよくせつ》の間に妙味《みようみ》を醸《かも》し来《きた》るの余地を欠《か》けるを遺憾《いかん》とせざる能わざりし
なり。これ、彼が容易に天下を取りしにかかわらず、容易に天下を取りし所以《ゆえん》の彼の
長所が、同時に容易にその身を亡ぼす所以《ゆえん》の短所となりて、その臣下の小心局促《しようしんきよくそく》たる
者に、窮鼠《きゆうそ》かえって猫《ねこ》を噛《か》むが如き事情において弑《しい》せられたる理由なり。
 ここに、信長の面目《めんもく》の活躍《かつやぐ》するを覚《おぼ》えしむる一|警語《けいこ》あり。彼の人を罵《ののし》るや、大声疾
呼《たいせいしつこ》して「大緩山《おおぬるやま》!」と云う、蓋《けだ》しこれ、「遅鈍《ちどん》の極《きよく》なり」と云うの意味にして、彼の如
く、大局《たいきよく》に通じ大勢《たいせい》に明《あき》らかにして、如何《いか》なる場合にも、直観的直覚的《ちよつかんてきちよつかくてき》に問題の神
髄《しんずい》に徹底《てつてい》し、その頭脳に動ける閃《ひらめ》きと、その手腕《しゆわん》に発する冴《さ》えとの間に、分秒《ふんぴよう》の差違《さい》
もなくして、神速明快《じんそくめいかい》に事《こと》を断《だん》ずること、ほとんど人間業《にんげんわざ》にあらざるの観ある、天才
的英雄より見ては、秀吉を除《のぞ》くの外《ほか》、大概《たいがい》の人間の思慮《しりよド》および行動《こうどう》が、生温《なまぬる》く愚図《ぐずぐ》々《ず》々
として見え、歯痒《はがゆ》くて堪《たま》らぬより、早速|癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させて奴鳴《どな》りつけずに已《や》まれぬ
場合の少なきにあらざるも当然なり。
 ある時、敵と対陣すること数日に及《およ》びたる後、信長ほとんど直覚的に、敵の必ず夜
中に退軍すべきを知り、部下の諸将士《しよしようし》に命じて追撃《ついげき》の準備を為さしむ。その夜信長|櫓
上《ろじよう》に在《あ》り、明目《めいもく》して敵状《てきじよう》を凝視《ぎようし》するに、果《はた》して、夜半《やはん》に到りて敵陣に動揺《どうよう》を生じたり。
信長すなわち令《れい》して曰く、「疾《と》く進撃せよ」と。しかも、諸将士すでに信長の予言を聞
きしと雖《いえど》も、その必ず当《あた》るべきを信ぜざりしにより、ここに到って、急に狼狽《ろうばい》して兵
を進むること能《あた》わざるなり。信長すなわち大《おお》いに罵《ののし》って曰く、「咄《とつ》、大緩山《おおぬるやま》!」と。そ
の眉《まゆ》を昂《あ》げ足を頓《つまだ》てて励声《れいせい》する状態、咄《とつとつ》々として眼前に活現《かつげん》するを覚えずや。あるい
は曰く、「大緩山」は、尾張《おわり》の山の名なりと。されど、実際「大緩山」という山の有無《うむ》
は問うところにあらず。信長が天才的直情径行の気質が、凡々たる多数の者の、徒《いたずら》に
罫甥欝争と謙ずる状を見て・難の情に堪えざるの余り、口を衡てこの
諍語を発しつつ・しかも・自らその鰍る醴卿を知らざりしものと催すをもって、実際
に当れりと認むべし。
 信長より出でてさらに信長より歩《ほ》を進《すす》めたる、日本第一の人物にして、英雄時代中
の大英雄たりし、豊臣秀吉《とよとみひでよし》に到りては、その一生の行動《こうどう》ことごとく奇《き》にして、その一
生の言語皆|警《けい》なりと云うも、決して溢美《いつぴ》にあらざるなり。しかも、英
雄信長と英雄秀吉との警語の唱和《しようわ》の、歴史に伝わりたるものをもって、二人者の記録
中に出色《しゆつしよく》のそれとなすことを得《う》べし。
|てんしよう《めいほうさんいんさんようばんきよもうりし》
 秀吉が、天正五年十月信長の命を奉じて、山陰山陽に蟠踞せる毛利氏を征討すべく
出発し、同十年六月信長の横死《おうし》により、毛利氏と和《わ》を講《こう》じて兵を解きたるは、史上に
けんちよ             なか  こう  な          ちゆうかん                かえ          あ つち
                          ひとたび還って信長に安土
顕著の事実なるが、半ば功を成したるその中間において、
に諦し・戦争の経過を報告せし攜諱ありしことを、記憶せざるべからざるなり。秀吉
|おびただ《みやげしよにんま》
はまず、夥しき中国の土産を献じて、安土城中の諸人に舌を捲かしめ、信長が喜びに
|禁《た》えずして、近く進ましめて秀吉の額を撫《な》で、「山陰山陽|平定《へいてい》の上は、その全部を挙《あ》げ
|なんじ《あたじきみきんしんあた》
て汝に与えん」と云いしを秀吉は辞して、「君の近臣にして、功あるも未だ賞を得る能
わざる者に分ち与えよ」と乞い、己《おの》れはさらに進んで、九州を掃蕩《そうとう》せんとするの意《い》を
|述《の》ぶ。信長これを壮《さかん》なりとし、「然《さ》らば汝に与うるに九州をもってせん」と云えば、秀
吉またこれを辞《じ》して、単に九州における一年の収穫を賜《たま》えと乞うに、信長もついに怪《あやし》
まざるを得ず。すなわち眉《まゆ》を顰《ひそ》めて問うて曰く、「汝の欲《ほつ》するところ果して何ぞや」と。
し《いなずまきおもてきぜんい》|ん
ここにおいて、秀吉は電の如き気を面に浮べたり。毅然として謂って曰く、「臣は進
んで朝鮮を征《せい》せんのみ、願《ねがわ》くば、臣《しん》を封《ふう》ずるに朝鮮をもってせよ。しかして、臣《しん》はさ
らに君が先鋒《せんぽう》となりて大明《たいみん》を取らん。天竺《てんじく》、紅毛《こうもう》、その他世界に有《あ》りと有《あ》らゆる国々
を攻《せ》め随《したが》えて、君《きみ》を世界の主《しゆ》と為《な》し奉《たてまつ》る。これ、臣《しん》が畢生《ひつせい》の願いなり」と。信長これ
を聞いて、「秀吉がまた大言《たいげん》を吐《は》くことよ!」と云い、呵《かか》々|大笑《たいしよう》これを久《ひさ》しうし、その
|如何《いか》にも心地好《ここちよ》げなる有様《ありさま》、人の未だ見ざるところなりしと。
 実に、当時の形勢事情は、徳川氏が鎖国政策のために愚化《ぐか》したる明治維新《めいじいしん》以前の人《じん》
臓の状態とは舞て、外国との交通すこぶる盛んに、殲に・我が激驟鬣卿の鷲蠶
謙つながら用うる活動区域も、時代象うて南方に拡張せられ・爨・蕃騫・駕
ナン  シヤム                        さい                         かく
南、
  暹羅等、
      皆その勢力範囲となりたる際なりしかば、信長と秀吉との間に此の如き
馨の交換ありしと云うも、また決して署べき事にあらず・秀吉が礎蕎の慕罫衡
|語《ご》は、その平生《へいせい》の抱負《ほうふ》よりして元《もと》より当然の本音《ほんわ》を吹《ふ》きたるもの、奇警《きけい》なりと評する
さえ蛇足《だそく》なるを覚ゆるほどなるが、信長が、「また大言《たいげん》を吐《は》くことよ」と云いて呵《かか》々|大
笑《たいしよう》したる。嘲《あざけ》るが如くにして嘲《コあざけ》るにあらず、これ感服《かんぷく》以上の共鳴《きようめい》を覚えたる声として、
言外の妙意|酌《く》めども尽《つ》きざるものあるなり。
 秀吉《ひでよし》は撥乱反正《はつらんはんしよう》の英雄として、その一挙一動|専《もつば》ら天下平定の目的のためにせざるは
なく、戦争の興味に駆《か》られて損失を顧《かえり》みざる如きは、その最も忌《い》む所、徒《いたずら》に眼前の毀
誉《きよ》に拘泥《こうでい》して小さき意地を張りつつ、もって大局《たいきよく》の不利を来すを顧《かえり》みざるも、見ては
なはだ陋《ろう》なりと做《な》すところなり。これをもって、彼は自己の為《な》すところを意味して、
「捗《はか》を遣《や》る」と云い、自己の為《な》すところに反する者を冷笑して、「捗《はか》を遣《や》らざる小刀利《こがたなき》
きの武道」と呼べり。しかして、この「捗《はか》を遣《や》る」方針よりして、多く血を流さずし
て敵を屈する手段を取るを、「位詰《くらいつ》め」と称するなり。
 第百七代|後陽成《ごようぜい》天皇の天正十《てんしよう》八年七月六日、秀吉|小田原城《おだわらじよう》を陥《おとしい》れて北条氏《ほうじようし》を亡《ほろ》ぼ
しし後《のち》、関東および奥羽《おうう》を処理すべく宇都宮《うつのみや》に到りたる時、佐野《さの》の城・王の叔父《おじ》にて関
東|名題《なだい》の老武者《おいむしや》なる天徳寺了伯《てんとくじりようはく》を召して、その見聞したる、武功談《ぶこうだん》を為《な》さしむ。もっ
て、関東の人心を検《けん》せんとするなり。ここにおいて、了伯盛んに信玄《しんげん》、謙信《けんしん》二|雄《ゆう》を説《と》
くや、秀吉まず軽《かろ》く首肯《うなず》いて、しかして大きく頭から浴《あび》せかけて曰く、「左《さ》もあらん、
|左《さ》もそうず。左様《さよう》に捗《はか》を遣《や》らざる小刀利《こがたなき》きの武道にては、天下に思い掛《か》くることは、
なかなか思い寄らざる事たるべきなり。この者なども早く相果《あいは》てたれば外聞《がいぶん》をば失い
申さず候《そうろう》。その故《ゆえ》は、ロハ今《ただいま》までこれあるにおいては、秀吉が草履取《ぞうりとり》に使うべきもの
なり」と。
 これ、徒《いたずら》に大言してもって自ら快《かい》なりとなすにあらず、頑擴《がんこう》なる関東人を威服《いふく》する
の必要より、故《ことさ》らに、関東人が武将の標本として推尊《すいそん》しつつある二|雄《ゆう》を罵倒《ばとう》したるも
のに相違無《そういな》しと雖《いえど》も、這裡《このうち》また肯綮《こうけい》に中《あた》れる意味|無《な》きにあらず。信玄、謙信が、川中
島《かわなかじま》に対陣すること数度にして、徒《いたずら》に、後世《こうせい》の詩人をして「力争咫尺既双疲《しせきをりきそうしてすでにそうひす》」と歌
わしむるに該当《がいとう》せる事実ありしに対し、「捗《はか》を遣《や》らざる小刀利《こがたなき》きの武道」の一|評語《ひようこ》は、
これ沈痛《ちんつう》骨に徹するものにあらずや。真実秀吉より見ては、弓矢《ゆみや》の神と称《しよう》せらるるこ
の二雄の如きも、単に低級なる戦闘器械に過《す》ぎざりしなるべし。この語|奇警《きけい》なるのみ、
|肯《あ》えて奇矯《ききよう》なりと云うべからざるなり。
 秀吉が、鎌倉に到りて頼朝《よりとも》の木像《もくぞう》を撫《ぶ》せりという逸話《いつわ》も、また、警語史上|看過《かんか》する
ことを惜《おし》むべき価値あるものなり。これもまた小田原陥落後《おだわらかんらくこ》の事実にして、信玄、謙
信を痛罵《つうば》せしと同じく、幾分か関東人を威服《いふく》するの手段を帯《お》ばざるにあらざると雖《いえど》も、
その云うところはなはだ奇警にして、しかも、秀吉の面目《めんもく》を極度に発揮したるものな
れば、決して、小説的|仮構《かこう》に似たりと做《な》して排斥《はいせき》すべきにあらず。
 伝えて曰く、小田原開城後八日、すなわち七月十四日の事、秀吉朝の涼しさに乗じ
て小田原の陣を発し、鎌倉見物に赴《おもむ》きしが、まだ日の長き頃にて、路《みち》も左迄《さまで》遠からぬ
事なれば、その日の中に見物を了《お》えて、藤沢《ふじさわ》まで引返《ひきかえ》し一泊したりと。鎌倉にての物
語少なからぬ中《うち》に、若宮八幡《わかみやはちまん》に立ち寄りたる時、祠官《しかん》戸を開きて請《しよう》じたれば、秀吉左
の方に頼朝の木像あるを屹《きつ》と打ち見て、つかつかと立ち寄り、感じの深き面持《おももち》にて、
しばらくは、木像を撫《な》でさすり居たりしが、ややあって口を開き、「頼朝は天下取りな
れば、秀吉の天下友達《てんかともだち》なり。等輩《とうはい》に取扱《とりあつか》うべきはずなれど、秀吉は関白《かんばく》にて、貴所《きしよ》よ
りは位上《くらい》にて候間《そうろうあいだ》、あしらいを下《さ》げ申候《もうしそうろう》。頼朝は天下を取る筋《すじ》の人にて候を、清盛|白痴《たわけ》を尽し、伊豆へ流し置き年月立ち候内《そうろううち》、東国《とうごく》にて親父《おやじ》義朝の恩情蒙《おんじようこうむ》る侍共《さむらいども》、
昔を思い出で、貴所を取立《とりた》て申候《もうしそうろう》と聞こえ申候。貴所は氏系図《うじけいず》においては多田《ただ》の満
仲《まんちゆう》の末葉《まつよう》なり、残る所なき系図なり。秀吉は恥《はずか》しくは候《そうら》えども、昨今までの草刈《くさか》りわ
らべなり。ある時は草履取《ぞうりと》りなど仕《つかまつ》り候故《そうろうゆえ》、氏も系図も持ち申さず候えども、秀吉
は心たまらざる目口《めくち》かわき故、個様罷成候《かようまかりなりそうろう》。御身《おんみ》
  は天下取る筋にて候えば、目口《めくち》かわき故とは存《ぞん》ぜず候。生《うま》れ附果報《つきかほう》ある故なり」と、
  生きたる人間に対する如くに申したりとは、すなわちこの一|条《じよう》の眼目《がんもく》なるが、曹操《そうそう》が
  青梅酒《せいばいさけ》を煮《に》て英雄を論じたる時、劉備《りゆうび》を指《さ》して、「天下《てんか》の英雄|使君《しくん》と操《そう》とのみ」と云い
  しと、何ぞそれ意気抱負《いきほうふ》の相似《あいに》たるや。頼朝が天下を取るべき家筋なりしに対し、己
  れ自身が、草刈《くさか》り童《わらべ》の出身にして、草履取《ぞうけノと》りの賤《いや》しき役を勤めしことあるを自負す。
  奇警《きけい》の極《きよく》にしてまた真実の極にあらずや。「目口《めくち》かわき」の俗言《ぞくげん》、関白殿下の金箔《きんばく》を剥《は》
  がしたる秀吉の真相を露呈《うてい》して、黙笑《もくしよう》して首肯《しゆこう》するを禁ずること能わざらしむ。
   さらに、秀吉の大抱負《だいほうふ》を表白《ひようはく》して、人をして舌を捲いて驚倒《きようとう》せしむべき、一大警語
  あり。彼、世界を統一するの雄図《ゆうと》を披《ひら》かんとして、まず大明《たいみん》四百|余《よ》州を征服すべく、
  朝鮮をしてその嚮導《きようどう》の任《にん》に当《あた》らしめんことを要せり。すなわち、天正十《てんしよう》七年、対島《つしま》の
  領主宗義智《りようしゆそうのよしとも》、その臣|柳川調信《やながわちかのぶ》、僧玄蘇《そうげんそ》等をして、朝鮮王|李舩《りえん》を説《と》いて、書信《しよしん》と方物《ほうぶつ》
  を我に致《いた》さしめ、これにたいする返書《へんしよ》において、その企画を朝鮮王に通ずるの手段に
  出でたり。文中に曰く、「窃《ひそか》に予の事跡《じせき》を案《あん》ずるに、鄙陋《ひろう》の小臣なり。然《しか》りと雖《いえど》も、予《よ》
  が託胎《たくたい》の時に当《あた》り、慈日輪懐中《じぽにちりんかいちゆう》に入《い》るを夢《ゆめ》む。相士《そうし》曰く、日光の及《およ》ぶ所|照臨《しようりん》せざるは
なし。壮年《そうねん》にして必ず八表仁風《はつぴようじんぷう》を開き、四海威名《しかいいめい》を蒙《こうむ》むる者、何《なん》ぞ疑《うたが》わんやと」と。
 これ、外国に向って敢《あ》えて日輪《にちりん》の子《こ》なりと吹聴《ふいちよう》するものにして、その抱負《ほうふ》の思い切
って絶大なる、ほとんど滑稽《こつけい》感を起さんとすべく驚歎《きようたん》に価《あたい》するものにあらずや。秀吉
が、正月元日の日の出と共に誕生して、しかも、その母|日輪《にちりん》の懐《ふところ》に入るを夢みて懐胎《かいたい》
せしものとの伝説も、要するにこれ、大将自身が国威発揚《こくいはつよう》的高圧手段の大法螺的吹聴《おおぼらてきふいちよう》
を、根拠《こんきよ》となせるものに相違無《そういな》きなり。これ、単純なる秀吉が自家広告《じかこうこく》と見るべきに
あらず。実に、日本国および日本民族の代表者たる立場において、国家民族を九鼎大
呂《きゆうていたいりよ》よりも重《おも》からしむべく、その大抱負大自尊心《だいほうふだいじそんしん》を海外に発揮《はつき》したるもの
と認《みと》むるを当《あた》れりと做《な》す。「我は日輪《にちりん》の子《こ》なり!」「我は日輪《にちりん》の化身《けしん》なり!」と。何ぞ
その語の破天荒《はてんこう》に奇警《きけい》なる。
 その他、秀吉が一生を通じて、その舌を弾《だん》じ唇《くちびる》を衝《つ》いて発するところのもの、こと
ごとくこれ警語ならざるにあらずと雖《いえど》も、一々これを挙ぐるは不可能事に属《ぞく》するをも
って、単に以上の極少例《ごくしようれい》に止《とど》むべきが、秀吉の好敵手《こうてきしゆ》たる家康《いえやす》に到っては、その性格
および行動、全然秀吉と正反対なるが故《ゆえ》に、予《よ》がいわゆる警語史的眼孔《けいこしてきがんこう》よりして、彼
の伝記よりあるものを見出だすことは、すこぶる困難を感ずる事業ならざるを得ざる
と共に、はなはだ興味少き労役《ろうえき》たらざる能《あた》わざるなり。むしろ、いわゆる警語的気分
を帯《お》ばざるところ、すなわち家康《いえやす》の価値ならずんばあらざるなり。ただ、彼が遺訓《いくん》と
称せらるるもの、「人の一生は重《おも》きを負《お》うて遠きに行くが如し」という、家康の全人格
的頭語《ぜんじんかくてきとうこ》をもって、予がいわゆる警語にあらざる、消極的《しようきよくてき》警語の代表たらしむるある
のみとすべけんか。
 ただし、秀吉死後における家康の勁敵《けいてき》たる、一代の奇傑石田三成《きけついしだみつなり》において
は、彼が一|個《こ》の彗星的《すいせいてき》人物なるだけそれだけ、またその吐棄《とき》に属せる徹底至極《てつていしごく》の警語
を見出だし得ざるにあらざるなり。三成は、失敗の英雄なるをもって、勝利者たる徳
川氏の御用史家《ごようしか》、および、準御用史譚家《じゆんごようしだんか》の毒筆《どくひつ》に余儀《よぎ》なくせられ、ほとんど完膚《かんぷ》なき
までの瑕疵《かし》を留《とど》めつつありと雖《いえど》も、彼が、江州水口四《こうしゆうみなくち》万石の小大名たりし時において、
その半《なか》ばなる二万石を割《さ》きつつ、名士|島左近《しまさこん》を養いたる、また、同国|佐和山《さわやま》十八万石
の大身《たいしん》に昇進《しようしん》して後《のち》も、なお居室《きよしつ》の壁を粗塗《あらぬ》りにし、座上に畳《たたみ》を用いずして、偏《ひとえ》に、
身を節《せつ》し士《し》を養うに力《つと》めたる、これ等の乏しき例証《れいしよう》によるも、決してその、徳川氏に
|誣《し》いられし如き利巧円滑《りこうえんかつ》の小才子《しようさいし》にあらざるを窺《うかが》うに足《た》るべし。いわんや三成は、傲
慢不遜《こうまんふそん》という事実を意味する当時の俗語において、「へいかい」と罵《ののし》られし事程左様《ことほどさよう》に
|人附《ひとつ》きの好《よ》からぬ  すなわち、利巧円滑《りこうえんかつ》ならざりし記録を留むるにおいてをや。三
成は実に徹底せる大野心家なり。しかして彼は、その大野心家に相応せる資格と、こ
れに伴《ともな》う修養《しゆうよう》とを、十分に具足《ぐそく》しつつありしなり。
 最も三成が人物の真価を窺《うかが》うべき機会は、その乾坤《けんこん》一|擲《てき》の大賭博《おおとばく》を見事《みごと》に失敗して、
空しく身を敵手《てきしゆ》に委《ゆだ》ね、面縛《めんばく》の辱《はずかし》めを受けたる後《のち》において到来したり。すでに刑《けい》せら
れんとするに臨んで、渇《かつ》して白湯《さゆ》を求めたる囚人の三成は、「白湯《さゆ》はなけれども、甘干《あまぽし》
の柿《かき》ならばあり」と答えられたり。三成頭を掉《ふ》って曰く、「否《いな》、甘干《あまぽし》の柿《かき》は腹《はら》に毒なれ
ば……」と。これを聞いて冷笑したる者は、その故朋輩《こほうばい》にして新敵党《しんてきとう》たる福島正則《ふくしままさのり》な
り。曰く、「首が胴を離るる間際に、腹を庇《かば》う心ぞ解《げ》し難《がた》けれ」と。この時三成は如何《いか》
に応酬《おうしゆう》せしか。彼は、その痩《や》せ衰《おとろ》えたる双《そう》の肩を傲然《ごうぜん》と聳《そび》やかして、正則《まさのり》のそれに十
|倍《ばい》する冷笑を唇辺《しんぺん》に浮《うか》べ、「ふふ、天下に志《こころざし》ある者の胸中は、其方達《そちたち》に測《はか》り知らるる
ものにあらず」と。さすが横紙破《よこがみやぶ》りの福島太夫も、これには
ギャフンと参《まい》らざるを得《え》ざりき。「甘干の柿は腹に毒なり!」。これ、徹底せる大野心
家に相応したる徹底せる警語にあらずして何《なん》ぞや。この身首《しんしゆ》所を異にするに臨んでの
一警語は、石田三成なる者の人物の光輝《こうき》を、千歳《せんざい》に発揚《はつよう》すべく、なお余《あま》りあるものに
あらずや。
 戦国時代は、日本史中の精華《せいか》たる時代なると共に、警語の烹練《ほうれん》においても、また他の時代に卓出《たくしゆつ》したるそれなる所以《ゆえん》は、すでに説
述《せつじゆつ》したるところの如し。されば、予は今この一章を終結するに臨んで、無数の好適例
の中《うち》よりその二、三を抜萃《ばつすい》し来《きた》り、読者のために、他の多くのそれ等を見出だすべき
標示《ひようじ》を提供するも、決して無益の業《ぎよう》にあらざるを信ずるなり。
 征韓《せいかん》の役《えき》、加藤清正《かとうきよまさ》孤軍を提《ひつさ》げて深く入り、その絶北《ぜつぼく》の咸鏡道《かんきようどう》に在《あ》り。時に、明《みん》の
|援軍《えんぐん》大いに到り、我が軍ことごとく退《しりぞ》く。清正|独《ひと》り、ますます進んで休《きゆう》せざるなり。
|明将《みんしよう》これを聞いて、弁士馮仲纓《ぺんしひようちゆうえい》なる者を遣《つか》わし、清正を恫喝《どうかつ》せんことを試む。曰く、
「天兵《てんぺい》四十万、すでに平壌《へいじよう》に迫《せま》り、倭将行長《いしようゆきなが》、一戦を経《へ》ずして逃匿《とうとく》しぬ。汝速《なんじ》やかに
退かずんば、斧鉞《ふえつ》たちまちにして一|下《か》して、粉砕遺肇《ふんさいいげつ》を留《とど》めざるべし」と。もとより、
清正の胆《たん》落ち気沮《きはば》むべきを当《あ》て込《こ》んでの事なり。さて、これに対する清正の答辞《とうじ》こそ
は、真《まこと》に耳の垢《あか》をほじくって聞くに価するものなれ。曰く、「好意多謝《こういたしや》!」と。しかし
て、徐《おもむう》に曰くと連続す。「咸鏡《かんきよう》の道《みち》、山|険《けわ》しく、谷|窄《せま》し。如何《いか》に法《ほう》を講《こう》じ術を究《きわ》むる
も、一日に二万人を行進せしめ得《う》るに過《す》ぎず。然《しか》らば、日に二万人を殺すとして、明《みん》
|軍《ぐん》四十万を鏖殺《みなごろ》しにするには、二十日を要すれば足《た》れる業《わざ》ならずや。重ねて云う、好
意多謝《こういたしや》!」と。馮仲纓先生《ひようちゆうえいせんせい》、これを聞いて尻尾《しつぼ》を巻いて去る。云うことなかれ、途
方《とほう》もなき大言《たいげん》なりと。
「一日に二万人を殺して、四十万の明軍《みんぐん》を片附《かたつ》くるは二十日の仕事なり」とは、これ
|眼中《がんちゆう》に大敵無《たいてきな》き清正の面目を発揮《はつき》するに、最も奇警なる言辞《げんじ》を選択《せんたく》し得たるもの。こ
の肯綮《こうけい》に中《あた》り、焦点《しようてん》を刺《さ》せる警語は、日本男児の真価《しんか》を発揮するにおいて、最も有効
なるを知らざるべからずとなす。清正が超凡異常《ちようばんいじよう》なる所以《ゆえん》、実にここに在《あ》り。かかる
ずば抜《ぬ》けたる大言《たいげん》を吐き、他人にはとうてい企て及《およ》ばざる奇絶妙絶《きぜつみようぜつ》の言辞を、煙草《たばこ》の
|煙《けむ》でも吹き出すように無造作《むぞうさ》に出だして、しかも、それに相応する実力を裏附《うらづ》けたる
ところ、これ清正の清正たる所以《ゆえん》にして、死して神と祀《まつ》らるる清正の真価《しんか》も、まった
くこれ等の点に窺《うかが》わるるを覚ゆるなり。
 なお、坪内玄蕃《つぼうちげんば》という戦国時代の一武士に、戦国武士|気質《かたぎ》の神髄《しんずい》を結晶せしめたる、
一大|模範的警語《もはんてきけいこ》あるを語らしめよ。曰く、「人は皆戦いに臨んで、弓矢八幡《ゆみやはちまん》我を守らせ
給えと頼めど、我も頼み敵も頼んでは、相頼《あいだの》みになりてその甲斐《かい》あるべからず。故に、
我は戦いに出《い》ずるごとに、弓矢八幡を刺し殺す覚悟《かくご》にて参《まい》るなり」と。好《よ》し好し、大
いに好し。この気焔《きえん》にてこそ、始《はじ》めて万人《ばんにん》に傑出《けつしゆつ》したる武勲《ぶくん》を立て得べきなれ。また、
有名なる山中鹿之介幸盛《やまなかしかのすけゆきもり》は、人々ことごとく幸運を願う中《うち》に、独《ひと》り、「有《あ》らゆる百千の
|厄難《やくなん》を身に下さしめ給え」と、三日月《みかづき》に祈《いの》ることを習わしとなせし由《よし》なり。これ等は
すべて、日々生死の巷《ちまた》に出入して、不断《ふだん》に切迫《せつばく》せる感念《かんねん》のみを味《あじわ》いつつあるより来り
たる、ストイックなる戦国武士|気質《かたぎ》の産物と云うべく、その語の奇警《きけい》にしてかつ痛切《つうせつ》
なる、人の骨髄《こつずい》に貶《いしばり》せずんば已《や》まざるものなり。
 徳川の名臣にして鬼作左《おにさくざ》と呼ばれたる本多重次《ほんだしげつぐ》が、コ筆啓上《ぴつけいじよう》、火の用心、お仙《せん》泣か
すな、馬肥《うまこ》やせ」の家信《かしん》は、簡《かん》にして要《よう》を得たる点において有名なるものなるが、ま
たこれ、煮詰《につ》めてエッキスと為《な》したる武士気質の代表語と見做《みな》し得ざるにあらざるべ
し。この作左衛門重次《さくざえもんしげつぐ》、太閤《たいこう》の小田原征伐《おだわらせいばつ》に際《さい》して、我が主君|家康《いえやす》が、行軍中《こうぐんちゆう》の秀吉《ひでよし》
のために、駿府《すんぷ》の城を開いて宿営《しゆくえい》に充《あ》てしを、怪《け》しからぬ事と憤慨《ふんがい》の余《あま》り、城門に秀
吉を迎えたる家康の前に立ちはだかり、一|期《こ》の破《わ》れ鐘声《がねこえ》を振《ふ》り立《た》てて、「殿《との》よく、な
どて他人を我《わ》が城《しろ》へ入《い》れ給《たま》うそ。この不所存《ふしよぞん》にては、一条|北《きた》の方《かた》をも貸《か》させ給わめ!」
と、傍若無人《ぼうじやくぶじん》に喚《わめ》き立てしかば、秀吉の手前、家康も大いに面目を失わんとせしを、
さすがに猿面公《えんめんこう》の事とて、「聞こゆる鬼作左《おにさくざ》よな。駿府殿《すんぷどの》には、好《よ》き家来《けらい》を持たれて、
|羨《うらや》ましう候《そうろう》ぞ」と、笑顔|鮮《あざや》かに遣《や》って退《の》けしとのこと。これ等は、朴訥《ぼくとつ》にして不屈《ふくつ》な
る、戦国武士気質《せんごくぶしかたぎ》の発揮の、好標本《こうひようほん》と目《もく》すべきものなるべし。「城を明《あ》けて貸《か》すくらい
だから、女房を貸せと云われても、厭《いや》とは断《ことわ》り切《き》れないだろう」と、当面《まのあた》り主君を痛
罵《つうば》して、それにて済《す》みたる戦国時代は面白からずや。
 これに似たるは、前に記《しる》せし征韓《せいかん》の役《えき》にて、清正が蔚山籠城《うるさんろうじよう》の砌《みぎ》り、京城《けいじよう》に集まり
たる日本の諸将が、兵粮不《ひようろう》足のために救援《きゆうえん》を難《かた》んじ、評定区《ひようじようまちまち》々なる折柄《おりから》、末席小大
名《まつせきこだいみよう》の加藤光泰《かとうみつやす》、目《め》に角《かど》立てて進み出で、「兵粮不足に事寄《ことよ》せて、清正を見殺しにする所
存《しよぞん》であろう。兵粮なくば砂を食《くら》え。砂の食《く》い方《かた》を知らぬとあらば、この光泰《みつやす》が教えて
|遣《つか》わそう。やい市松《いちまつ》、おのれは誰の御蔭《おかげ》を蒙《こうむ》って、左様《さよう》に大名顔《だいみようがお》を致《いた》すのじゃ。中納
言殿《ちゆうなごんどの》も、今よりは中納言めと呼び棄《す》つるぞ!」と暴《あば》れ出《い》だしたり。市松《いちまつ》とは、福島正
則《ふくしままさのり》の幼名《ようみよう》、中納言《ちゆうなごん》は、総大将《そうだいしよう》の浮田秀家《うきたひでいえ》なり。この末《ド》席の奇警極まる痛語《つうご》によって、
清正救援の議に決したる、これまた戦国時代の面白き所以《ゆえん》にあらずや。これ等とは趣《おもむき》
を異《こと》にすれど、関白|秀次《ひでつぐ》が殺戮《さつりく》を好むを風刺《ふうし》する時人《じじん》の語に、「殺生関白《せつしようかんばく》」と云うて
「摂政関白」に通《かよ》わしめたる、また、戦国時代の京童《きようわらんべ》の皮肉《ひにく》さ加減《かげん》を窺《うかが》うべき一材料
にあらずとせじ。
 以上、戦国時代の史乗《しじよう》および雑纂《ざつさん》においては、むしろ警語史《けいこし》の材料の多きに苦しま
  ざるを得ざるなり。予はただその一斑《いつばん》を挙《あ》げたるのみ。他《た》の全豹《ぜんぴよう》に至《いた》
  っては、諸君|各自《かくじ》の看取《かんしゆ》に任《まか》せん。

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