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伊藤銀月「日本警語史」6


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その五 警語の発達とその皮肉味
人の君たるを望んで人の臣たるを願わず  犬公方  我家の桂昌院様がやかましくっ
て困る  そうせい将軍、田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様-関白
秀次公の二百年忌で御座んす  六無斎  耳目一新の論と王民の説  御酒が三合に
鯣の足よ
 徳川時代は、日本民族の生活の爛熟期《らんじゆくき》と目《もく》すべく、藤原時代におけるそれの、単に
宮室の範囲に止《とど》まりて、多数人民《たすうじんみん》はこれに与《あずか》らざりしとは異《ことな》り、上下押《しようかお》し並《な》べての天
下太平気分《てんかたいへいきぶん》に、時代を代表する警語の如きも、已《や》むを得《え》ずして自《おのずか》ら発したる痛切緊密《つうせつきんみつ》
なるものにあらずして、あくまでも凝《こ》って皮肉《ひにく》なるものを出《い》だすことに力《つと》むるの傾向
を生じたり。随《したが》って、徳川時代における警語は、含蓄《がんちく》深く、余情《よじよう》多き点において、一
段の発達を為《な》せるものと認むることを得《う》べし。
 しかも、徳川時代もその初期の頃は、なお戦国時代の余臭余味《よしゅうよみ》を留《とど》むること十分な
るをもって、戦国時代|気質《かたぎ》の人物にして、到底《とうてい》時代の趣味気風《しゆみきふう》と一致すること能《あた》わざ
るが故に、異常破格《いじようはかく》の行動に出《い》でたる者少なからず。それと同時に、これ等の逆流児《ぎやくりゆうじ》
と時代との、舷《げんげん》々|相摩《そうま》の間より生れ来りたる警語は、戦国時代
的にもあらず、また徳川時代的にもあらざる、一種|拗《す》ね気味《ぎみ》の反抗的気分《はんこうてききぷん》に、何《いず》れの
時代とも異なれる特色を認めざるべからざるなり。
 なかんずく、かの群雄《ぐんゆう》と角逐《かくちく》して天下を争うに足《た》るべき、覇王的器度《はおうてききど》と、その胆略《たんりやく》
とを併有《へいゆう》せる、一代の奇傑山田長政《きけつやまだながまさ》が、国内すでに治《おさ》まって、我が材《ざい》を試むる所なく、
|空《むな》しく悶《もんもん》々の情を懐《いだ》いて、駿府《すんぶ》の紺屋《こんや》に食客《しよつかく》となり、奇矯俗《ききようそく》を驚《おどろ》かすの言動をもって、
いささか自ら慰《なぐさ》めつつありし時、人あって彼を某大侯《ぼうだいこう》に薦《すす》めんとせしかば、彼の鬱屈《うつくつ》
一時に併発《へいはつ》し来って、「いやいや、折角《せつかく》の御親切では御座《ござ》るが、拙者《せつしや》は人の主君となる
ことを望む者で、決して、人の家来《けらい》となることは望《のぞ》み申さぬ」と、木で鼻括《はなくく》った挨拶《あいさつ》
に刎《は》ねつけたるを挙《あ》ぐべしとなす。「人の君たることを望んで、人の臣たるを願わず」
とは、秩序《ちつじよ》すでに定まりたる太平時代においては、法螺《ほら》も程度《ていど》も越《こ》して、意味《いみ》を為《な》さ
ざる狂人の言《げん》に儔《ひど》しきが如しと雖《いえど》も、独《ひと》り我が仁左衛門長政《にざえもんながまさ》においては、これ大いに
                したが             ちゆうしゆつ     きばつ
有意義なる痛語ならざるにあらず。随ってこれ、時代より抽出したる、奇抜極まれる
警語ならざるにあらざるなり。
靆が・国内においては叢譯すに響ざるを思い、醫黶驪を攀て、遠く騫
蛋の鵬なる蠹国に遊び・蠹の毆蝦を救・つて六羆を征服し、ついに、蠹の大
臣に兼ねるに六騒及び群留の王をもってして、葎国王の隷となり、その廚釜
響の譁に農うに到りたる・すなわξ」れ・蒙対錣の彼が讖をして、騨露
たらずして警語たらしむべく、裏附《うらつ》けられたる実行にあらずして何《なん》ぞや。
 予《よ》は、三十年前|初《はじ》めて東京に乗《きた》りし時、ある老人の口より、「我家《うち》の桂昌院様《けいしよういんさま》がやか
ましいので困る」と云う語の発せられしを聞き、ほとんど驚倒《きようとう》に価《あたい》するを覚えしこと
あり。これ実に、ある時代に醸《かも》し成《な》されたる隠微至極《いんびしごく》なる警語が、二百余年間社会の
しんてい                    か のうてきりゆうどうせい うしな                           しゆつ
                                 この語の出
深底を通じて、なおかつその可能的流動性を失わざるを語るものにして、
|所《しよ》は、まさに徳川五代の将軍|綱吉《つなよし》が生母|桂昌院《けいしよういん》に在《あ》るなり。しかも、今日《こんにち》の権威《けんい》ある
医学者が研究して、一種の精神病者《せいしんびようしや》に相違《そうい》なかりしと断定するところの綱吉《つなよし》は、爛熟《らんじゆく》
                        中《かいたいきぶんじようちよう》心人物と目《もく》すべき底抜《そこぬ》けの人
壊頽の間に特殊の気分情調を生じ来れる元禄時代の、
間にして、桂昌院は、ある意味における太平時代の淀君《よどぎみ》の如く、子息《しそく》将軍の昏迷《こんめい》に乗《じよう》
じて、極度《きよくど》に賢女《けんじよ》ぶりを発揮し、大いに女権拡張の脱線を遣《や》らかしたる尼様《あまさま》なり。
 この時に当っては、当世|才子《さいし》の標本|柳沢吉保《やなぎさわよしやす》が、綱吉の狂疾《きようしつ》を利用して、微《びぴ》々たる
|側用人《そばようにん》の地位より、階級制度の厳密《げんみつ》なる太平時代には奇蹟《きせき》とも云うべき、十五万石の
大名にまで躍進《やくしん》するあり。自宅を提供《ていきよう》して一種の娼樓妓閣《しようろうぎかく》に擬《ぎ》し、もって、昏迷漢《こんめいかん》綱
吉が遊蕩《ゆうとう》の場に供するなど、滅茶《めつちやめつ》々々の乱脈《ちやらんみやく》が通りたる世の中なれば、桂昌院の太平
時代的|尼将軍《あましようぐん》ぶりもまた凄《すさま》じきものにて、彼女は、かかる時代のかかる婦人に相応《ふさわ》し
き、仏教惑溺《ぶつきようわくでき》、むしろ僧侶惑溺《そうりよわくでき》の傾向を示し、この点《てん》においては、むしろ、息子《むすご》どん
の狂疾《きようしつ》ぶりにも譲らざる昏迷狂乱《こんめいきようらん》の状態を呈《てい》して、最初は、知足院《ちそくいん》の住持恵賢《じゆうじえけん》と、護
国寺《ここくじ》の住持|亮賢《りようけん》とに入《い》り上《あ》げしが、恵賢病篤《えけんやまいあつ》うして、大和長谷寺《やまとはせでら》の塔中慈心院隆光《とうちゆうじしんいんりゆうこう》な
る者を後住《こうじゆう》に迎えるに及《およ》び、この妖僧《ようそう》巧みに尼様《あまさま》を催眠術《さいみんじゆっ》に掛《か》け、盤若心経《はんにやしんきよう》の「色即
是空空即是色《しきそくぜくうくうそくぜしき》」を講ずることただ一|遍《べん》にして、ころりと参《まい》らせて了《しま》い、続いて、将軍
|綱吉《つなよし》がただ一人の男子を亡《うしな》い、無情《むじよう》の感じを起しつつある機会に乗じ、桂昌院の糸《いと》を
|操《あやつ》って、旨《うまうま》々と、神田橋外《かんだぱしそと》の五万余坪という広大もなき地面を占め、護国寺よりは一
倍も雄大《ゆうだい》に、その荘厳《しようごん》なることは東叡山寛永寺《とうえいざんかんえいじ》をも凌駕《りようが》すべき、護持院《ごじいん》(初めの名は
|知足院《ちそくいん》)なる大伽藍《だいがらん》を造営せしめたり。ここにおいて、護持院隆光《ごじいんりゆうこう》なる者の袈裟《けさひ》の光《かり》
は、だらしのなき尼御台《あまみだい》を背景として、燦爛人目《さんらんじんもく》を射《い》るの素晴《すぼ》らしき勢いを成《な》すに及《およ》
びぬ。
 しかも、この腥坊主《なまぐさぼうず》が尼後家《あまごけ》を操縦《そうじゆう》しての、狂疾将軍籠絡方《きようしつしようぐんろうらくかた》は、言語道断《こんごどうだん》の飛《と》ん
でもなき方面に発展し、綱吉の生年|戌《いぬ》の年《とし》なれば、犬《いぬ》を愍《あわれ》んでこれを養《やしな》わば、必ず再《ふたた》
び嗣子《しし》を儲《もう》くることを得《う》べしなどと、もっともらしく申し出でしかば、たちまち養犬《ようけん》
の制度《せいど》を設けて、厳酷《げんこく》なる殺犬《さつけん》の禁令《きんれい》となり、人民|過《あやま》って禁《きん》を犯して、惨刑《ざんけい》に処《しよ》せら
るる者多く、同時に一般|生類御憐愍《しようるいこれんみん》の御沙汰《ごさた》なるものが下《くだ》りたるにより、江戸城中|紅
葉山《もみじやま》のほとりは狐狸《こり》の窟宅《くつたく》となり了《お》おせ、狸公狐吉《たぬこうこんきち》の連中は、白昼《はくちゆう》ゾロゾロと隊伍《たいご》を
組みて、大奥《おおおく》の庖厨《ほうちゆう》を襲撃《しゆうげき》するの横暴《おうぽう》を敢《あえ》てするに及《およ》びたり。民怨偏《みんえんひとえ》に狂疾《きようしつ》将軍の一
身に集まりて、「犬公方《いぬくぼう》」の綽号《あだな》は、窃《ひそ》かに市井《しせい》の間に呼び習わさるるに到りたるが、
|放埓後家《ほうらつごけ》と腥坊主《なまぐさぼうず》との合体《がつたい》より、かくも天下の事の誤《あやま》られたる、実に苦《にがにが》々しさの限
りにあらずや。されば、憤怨措《ふんえんお》く能《あた》わざる多数人民も、御無理御尤《ごむりこもつと》もの極端なる圧制
政治の下においては、また如何《いかん》ともすること能《あた》わず。
 すなわち「犬公方《いぬくぼう》」の蔭口《かげぐち》に加うるに、「桂昌院様《けいしよういんさま》」の一語をもってして、あらゆる
婦人の悪徳《あくとく》の代名詞と為《な》し、徒《いたずら》に口舌《こうぜつ》に巧《たく》みにして、亭主《ていしゆ》を遣《や》り込《こ》めることを能《のう》とす
る、賢女《けんじよ》ぶりたる女房、我儘放埓《わがままほうらつ》の後家《ごけ》などを見れば、直《ただ》ちに、「何処其処《どこそこ》の桂昌院様
がどうした」とか、「いや、我家《うち》の桂昌院様がこうした」とか云いつつ、表向きには口
にするさえ勿体《もつたい》なしとせらるるその名をば、嘲笑侮蔑《ちようしようぶべつ》の極《きよく》なる対象《たいしよう》と為《な》して、もって
|纔《わずか》に不平《ふへい》を遣《や》りたる当時の事情は、現代に及《およ》んでも、なお江戸式古老《えどしきころう》の口に上《のぼ》せらる
るその語によって、明らかに窺《うかが》い知るべきにあらずや。二百年余の後に到りても、な
おかつその可能性を失わざる「桂昌院様」の一語が、その当時にては、如何《いか》に感伝力《かんでんりよく》
の強烈なるものにてありしそ。「我家《うち》の桂昌院様《けいしよういんさま》がやかましいので困る」とは、皮肉味《ひにくみ》
に饒《ゆたか》なる徳川時代式特殊的警語《とくがわじだいしきとくしゆてきけいこ》として、確かに記憶に留むるに価するものならざるべ
からず。
 十代将軍|家治《いえはる》は、その痴呆《ちほう》に斉《ひと》しき暗愚《あんぐ》をもって、また時代の民衆の面敬背笑《めんけいはいしよう》に価
したる厄介物《やつかいもの》なり。この大将《たいしよう》、綽号《あだな》を「そうせい将軍《しようぐん》」と云う。「申し上げます。これ
これに御座《ござ》りまする故《ゆえ》、これこれに仕《つかまつ》り度《と》う御座《ござ》りまするが、御賢慮如何《ごけんりよいかが》に在《あ》らせま
しょうや」。「むむ、そうせい」。何《なん》でもかんでも、「そうせい、そうせい」と云うより
|外《ほか》の事を知らぬをもって、何時《いつ》しか、蔭口《かげぐち》好きの御坊主連《おぽうずれん》や奥女中達《おくじよちゆうたち》より、「そうせい
|将軍《しようぐん》」と云う目出度《めでた》さ極《きわ》まる御名《おんな》を奉《たてまつ》らるるに及《およ》びたるなり。「そうせい将軍」の一
語、何《なん》ぞそれ徳川時代式皮肉《とくがわじだいしきひにく》の極《きよく》なる。
 しかも、「むむ、そうせい、そうせい」と、何時《いつ》もこの大将が頭《かしら》を縦《たて》に掉《ふ》る対手は、
|田沼意次《たぬまおきつぐ》、意知《おきとも》の父子なるを記憶せざるべからず。意知《おきとも》は初《はじ》め紀州藩《きしゆうはん》の小吏《しようり》なり。家
重《いえしげ》、家治《いえはる》の二代に仕《つか》えて寵《ちよう》あり。小姓隊番頭《こしようたいばんがしら》より累進《るいしん》して、五万七千石の大名となり
父を主殿頭《とのものかみ》、子を山城守《やましろのかみ》と云う。要するにこれ、綱吉時代《つなよしじだい》の柳沢吉保《やなぎさわよしやす》に匹敵《ひつてき》すべくし
て、その権勢《けんせい》の濫用《らんよう》ぶりは、むしろ、吉保《よしやす》の手加減上手《てかげんじようず》なるに過《す》ぐること数等《すうとう》なるも
のあり。ここにおいて、圧制《あつせい》に反抗する気力を去勢《きよせい》せられて、冷笑高踏《れいしようこうとう》の風《ふう》を学びつ
つありし徳川時代の子は、その特殊的皮肉味《とくしゆてきひにくみ》の警語を鍛練《たんれん》して、最上無比《さいじようむひ》の域に入ら
しむるの絶好機会《ぜつこうきかい》を与《あた》えられたり。しかも、警語《けいこ》を俗謡化《ぞくようか》して万人《ばんじん》をして内《ないない》々に唱咏《しようえい》
せしめ、もっていささか不平を遣《や》るの業《わざ》に供《きよう》せしめたる、ますますその皮肉味《ひにくみ》の徹底《てつてい》
せるを窺《うかが》うべしと為《な》す。曰く、「田沼様《たぬまさま》には及《およ》びもないが、せめてなりたや公方様《くぼうさま》」と。
|鳴呼《ああ》、何《なん》ぞそれ諷刺《ふうし》の絶妙《ぜつみよう》なるや。一|唱《しよう》三|歎《たん》に価するものはこれにあらずや。
 圧制時代においては、その圧制の度《ど》の高まるに正比例を為《な》して、諷刺《ふうし》を発達せしむ
るもの、面争《めんそう》の自由を束縛《そくばく》せらるればせらるるほど、その背笑《はいしよう》の要求はますます加わ
り行くものなれば、とうてい怺《こら》え切《き》れぬ憤《ふんふん》々|悶《もんもん》々の情《じよう》を変形せしめて出《い》だすには、如《い》何《か》なる凝《こ》りに凝《こ》りたる冷笑《れいしよう》の語を選ぶべきかと、肝胆《かんたん》を砕《くだ》いて案出《あんしゆつ》したるが、すなわ
ちこの一|俗謡《ぞくよう》ならざるべからず。しかもこれを出《い》だすこと極《きわ》めて隠微《いんび》にして、何者《なにもの》が
これを創製《そうせい》し、何者《なにもの》がこれを伝承《でんしよう》せしかの事実を明らかにすること能《あた》わざるに、蚤《はや》く
も翼《つばさ》なくして千里に走り、江戸全市中より、交通不便なりし時代の全日本に及《およ》ぼしつ
つ、ひとたびこれを耳にしたる者にして、窃《ひそか》に快哉《かいさい》を叫《さけ》ばざるはなく、しかして、窃《ひそか》
にこれを唱咏《しようえい》して、ますます痛快《つうかい》の情《じよう》を加えざるはなく、もって、暗《あんあん》々|裡《り》に田沼氏|顛
覆《てんぷげモ》の機運《きうん》を醸成《じようせい》するに到りたる、警語《けいこ》の効力もまた偉大《いだい》なりとせずや。
 すべて、徳川時代式警語は、もしその創製者《そうせいしや》の何者《なにもの》なるかを知らるるに到らば、身
首《しんしゆ》所を異《こと》にするもなお及《およ》ばざる最大危険を伴《ともな》いつつ、なおかつその恐怖をもってして
創製者の口を篏《かん》すること能《あた》わざるのみか、万人《ぱんじん》の間に不言《ふごん》の約束ありて、自然に創製
者を保護し、かつ奨励《しようれい》するの、隠微《いんび》なる社会制度|成《な》り、その普及伝播《ふきゆうでんぱ》に当っても、冥《めいめい》々
の間に鬼神《きじん》あってこれを為《な》すが如き、偉大なる効果を奏《そう》しつつ、絶対権能《ぜつたいけんのう》を抱持《ほうじ》せる
有志の力と雖《いえど》も、これを如何《いかん》ともすること能《あた》わざるところに、その特殊性《とくしゆせい》を見るべし
となすなり。支那人《しなじん》が、時代のまさに変《へん》ぜんとするを窺《うかが》うべく重《おも》きを置くところの、
「童謡《どうよう》」なるものはすなわちこれなるべし。
 人心《じんしん》の傾向《けいこう》は、なお流水《りゆうすい》の如きか。これを防遏《ぼうあつ》すれば激《げき》して奔騰《ほんとう》し、これを掩蔽《えんぺい》す
れば、地底《ちてい》を穿《うが》って潜行《せんこう》す。要するに、「犬公方《いぬくぼう》」と云い、「桂昌院様《けいしよういんさま》」と云い、「そう
せい将軍《しようぐん》」と云い、「田沼様《たぬまさま》には及《およ》びもないが、せめてなりたや公方様《くぼうさま》」と云い、徳川
時代式特殊的警語《とくがわじだいしきとくしゆてきけいこ》なるものは、皆これ地底《ちてい》を潜行《せんこう》するところの水脈が、堆積《たいせき》せる落葉《らくよう》
もしくは塵埃《じんあい》の部分々々に滲出《さんしゆつ》しつつ、卒然《そつぜん》としてこれを履《ふ》む者をして、冷《ひや》りと足の
裏に透《とお》る味を覚えしむるものに他《ほか》ならざるなり。故に、この見地よりして徳川時代の
歴史を点検《てんけん》せば、諸君は、以上の僅少《きんしよう》なる数例の外《ほか》、さらに多くの同工異曲《どうこういきよく》なるもの
を見出すを難《かた》しとせざるべし。
 田沼が失脚の後、老中の地位に立ちて政弊《せいへい》を改革したる、かの白河楽翁《しらかわらくおう》の松平定信《まつだいらさだのぶ》
が、初《はじ》め田沼父子の専権《せんけん》に際《さい》して、憤懣措《ふんまんお》く能《あた》わずと雖《いえど》も、またもって如何《いかん》ともする
こと能《あた》わず。「非無 頭民之魂 水浜黙然 去河辺 羆登下連武道 非有 頭民之魂
左右瞽唖 退漠頭 羆登下連武道」と、他人|容易《ようい》に理会《りかい》すること能《あた》わざる隠微《いんび》の寓言《ぐうげん》
を留めて、その領地|白河《しらかわ》に去りたる。またこれ、「田沼様《たぬまさま》には及《およ》びもないが」の俗謡と
|共鳴《きようめい》するものにあらずとせざるなり。
 予《よ》はさらに、徳川氏の末世《まつせ》に近き市井《しせい》の間に一事実として、興味ある逸話《いつわ》を伝えん
ことを思う。文化年間《ぶんかねんかん》、大阪市民の女《むすめ》に三好《みよし》お雪《ゆき》なる者あり。一|賤《せん》女子の身《み》をもって
  して、盛んに反徳川《はんとくがわ》の大気焔《だいきえん》を揚《あ》げ、徳川氏の命運《めいうん》を咀《のろ》うべく、到底何人《とうていなんぴと》も想到《そうとう》し得
  ざる、奇抜極《きばつきわ》まれる言動に出でたり。彼女は、年少にして飽《あく》まで武技《ぷぎ》を学び、長《ちよう》じて
  禁廷《きんてい》に奉仕して、宮中の儀礼《ぎれい》を諳《そら》んじ、一|生不犯《しようふぽん》の童貞《どうてい》を保《たも》って、まず、徳川氏に頭
  の挙《あ》がらざる一代の男性に反抗し、しかして、その築き成《な》したる立場において、反徳
  川の火蓋《ひぶた》を切るべく機会を窺いたり。
   すでにして、機会は彼女を祝福したり。もとより財富《ざいふ》を擁《よう》せる彼女は、仏教創始《ぶつきようそうし》の
  巨刹四天王寺《きよせつしてんのうじ》において、全大阪人《ぜんおおさかじん》の耳目《じもく》を甕動《しようどう》すべき一|大法会《だいほうえ》を
  挙行《きよこう》したり。しかも、人その何者《なにもの》のための追福《ついふく》なるやを知ること能《あた》わざるなり。すな
  わち怪《あや》しんで彼女に問えば、お雪《ヒゆき》は待《ま》ち設《もう》けたりとばかりに胸《むね》を反《そ》らして、「関白|秀次《ひでつぐ》
  公《,」、つ.》の二百|年忌《ねんき》で御座《ござ》んす!」と遣《や》って退《の》けたり。聞く者|驚倒《きようとう》して、呆然《ぽうぜん》たることこれ
  を久しうせざるはなし。ここにおいてお雪《ゆき》が胸間《きようかん》三|斗《ど》の溜飲《りゆういん》は、一|挙《きよ》にしてゲーッと
  ばかりに下《さ》がりたり。
   徳川氏を抑えんとするが故に豊臣氏を揚《あ》げ、しかも、故《ことさら》に豊臣氏の系統中《けいとうちゆう》より選択《せんたく》
  するに、末路《まつろ》の惨澹《さんたん》を極《きわ》めて、天下|一人《ひとり》としてこれを顧《かえりみ》る者なき、殺生関白秀次《せつしようかんばくひでつぐ》を
もってす。お雪《ゆき》が時代に反抗する極端《きよくたん》なる拗《す》ね者なる所以《ゆえん》、ここにおいて、天王寺《てんのうじ》の
五重の塔《と、つ》よりも高しと云うべし。
 お雪|剃髪《ていはつ》して月江尼《げつこうに》と称し、天王寺《てんのうじ》のほとりに月江庵《げつこうあん》を営《いとな》みつつ、お亀《かめ》、お岩《いわ》の二
|勇婦《ゆうふ》と共に棲《す》む。かつて天王寺の仏儀《ぶつぎ》に際《さい》し、驟雨《しゆうう》の来《きた》れるあり。お雪|咄嗟《とつさ》に五千本
の傘《からかさ》を集めて、これを参詣《さんけい》の群集に施行《せぎよう》す。殺生関白を担《かつ》いで徳川氏の対抗する女子
たる者、この段《だん》の活手段《かつしゆだん》なかるべからざるなり。お雪の名いよいよ高うして、豊臣氏
の末路《まつろ》の惨澹《さんたん》はますます新《あら》たに人心を刺戟《しげき》し、随《したが》って、ますますお雪が反徳川の言動
に背景を加えざるを得ず。お雪が任侠の名すでに都鄙《とひ》に喧伝《けんでん》せられて、一賤女子の狂
妄なる言行もまた、時代の人心に何等《なんら》かの影響を与えざるを得ざるなり。その晩年《ばんねん》、
|美麗《びれい》なる棺槨《かんかく》を作りて、これを屋前《おくぜん》に掲《かか》げ、大いに知己故旧《ちきこきゆう》を会《かい》して、盛
宴《せいえん》を張《は》ること三日、もってこの世の暇乞《いとまこ》いと称《しよう》す。独《ひと》り招客《しようかく》の多数なるのみにあらず
して、遠近来《えんきんきた》り観《み》る者、日《ひび》々門前に市《いち》をなせり。皆曰く、「秀次公《ひでつぐこう》の二百|年忌《ねんき》を行いし
|侠尼《きように》を見よ」と。民衆の感情の帰趨《きすう》するところ、其所《そこ》に侮《あなど》るべからざる新勢力《しんせいりよく》の醸《かも》さ
るるものなり。
「関白秀次公の二百年忌で御座《ござ》んす!」の一語、またこれ、徳川氏の命運《めいうん》に暗《あんあん》々|裡《り》の影響を与うべき皮肉《ひにく》の極《きよく》なる一警語ならずや。否《いな》、その拗《す》ねて拗《す》ね抜《ぬ》きたる思いも寄《よ》
らざる奇言狂語《きげんきようご》は、警語としての価値においても、断《だん》じて他に匹儔《ひつちゆう》あるを
許さざるものなり。しかして、お雪の結末もまた、その奇抜《きばつ》なる一生を竜頭蛇尾《りゆうとうだび》なら
ざらしむべく、頗《すこぶ》る振《ふる》ったものなり。彼女は、出《い》でて大道《だいどう》に野倒《のた》れ死《じに》したるなり。世
俗《せぞく》に「奴《やつこ》の小万《こまん》」と云うはこのお雪《ゆき》の事なり。
 幕末時代《ばくまつじだい》となりては、その色彩《しきさい》全然一変して、衰頽《すいたい》せる徳川氏の圏外《けんがい》に、新鋭《しんえい》なる
|気分情調《きぷんじようちよう》の漲溢《ちよういつ》し来《きた》れるを見るべく、随《したが》って、時代を代表する警語の如きも、全然|徳
川時代式皮肉味《とくがわじだいしきひにくみ》を含めるものとは選《せん》を殊《こと》にして、撥溂清新《はつらつせいしん》なるそれを競《きそ》うに到りたり。
かの本居宣長《もとおりのりなが》が、大いに尊王愛国《そんのうあいこく》の志気《しき》を鼓舞《こぶ》したる、
  敷島《しきしま》の大和心《やまとこエろ》を人間《ひとと》はゞ朝日《あさひ》に匂《にほ》う山桜花《やまさくらばな》
の和歌の如きも、また時代の傾向を指示《しじ》せる一警語ならざるにあらざるべし。しかも、
これに対する他の半面《はんめん》においてはなおかつ、遠識卓見《えんしきたつけん》高く時代に超越《ちようえつ》せる偉人にして、
徳川氏の圧制拘束《あつせいこうそく》のために余儀《よぎ》なくされ、同じく徳川式皮肉味《とくがわしきひにくみ》を留むるところの、
|親《おや》も無《な》し妻無《つまな》し子無《こな》し版木無《はんぎな》し金《かね》も無《な》けれど死《し》にたくも無《な》し
の冷笑的|狂歌《きようか》を発しつつ、その破天荒《はてんこう》の名著《めいちよ》『海国兵談《かいこくへいだん》』の版木《はんぎ》を没収せられたる不
平を漏らしたる、六無斎主人林子平《ろくむさいしゆじんはやししへい》の如きを出《い》ださざるを得《え》ざりき。またこれ、自《みずか》ら
|笑殺《しようさつ》しつつ併《あわ》せて時代を笑殺したる一警語にあらずや。
「尊王攘夷《そんのうじようい》」と云い「開国進取《かいこくしんしゆ》」と云い、もしくは「公武合体《こうぶがつたい》」と云いたる、すべて
皆、時代の帰趣《きしゆ》の上に焦点《しようてん》を作りたる一標語にして、同時に一警語たるもの。西郷隆
盛《さいこうたかもり》が、「二百余年|太平《たいへい》の旧習《きゆうしゆう》に汚染仕《おせんつかまつ》り候人心《そうろうじんしん》に御座候《ござそうら》えば、ひとたび干戈《かんか》を動
かし候方《そうろうほう》、反《かえ》って天下の耳目《じもく》を一|新《しん》し、中原《ちゆうげん》を定められ候|盛挙《せいきよ》と可相成候《あいなるべくそうら》えば、戦《たたかい》
を決《けつ》し候て、死中活《しちゆうかつ》を得《う》るの御着眼急務《こちやくがんきゆうむぞ》と奉《んじたて》 存《まつりそ》 候《うろう》」と云いて、必ずしも平和の間
に政権の授受を行うべき希望なきにあらざりしを、強《しい》てひとたび干戈《かんか》を動かさんこと
を主張したる、いわゆる「耳目《じもく》一|新《しん》」の論《うん》は、新旧過度期の骨髄《こつずい》に透徹《とうてつ》せる一大警語
として、当時の人心を…聳動《しようどう》したるものなり。
 これに対して、幕府の舞台《ぶたい》を一人の背中に背負《せお》って立ちし、海舟先生勝安房《かいしゆうせんせいかつあわ》が、山
岡鉄舟《やまおかてつしゆう》に托《たく》して、駿府《すんぶ》の行営《あんえい》に在《あ》る南洲先生《なんしゆうせんせい》に致《いた》したる書《しよ》は、二千五百年来|稀《まれ》に覯《み》る
|雄大熱烈《ゆうだいねつれつ》の文字《もんじ》、かつ情思痛切《じようしつうせつ》の言辞《げんじ》なるを見る。劈頭《へきとう》一|揮《き》して曰く、「無偏無党王道
蕩《むへんむとうおうどうとうとう》々|矣《たり》。官軍逼鄙府《かんぐんひふにせまる》といえども、君臣|謹《つつし》んで恭順《きようじゆん》の礼を守る者は、我|徳川氏《とくがわし》の士民《しみん》と
いえども王民《おうみん》なるをもっての故《ゆえ》なり。かつ、皇国当今之形勢昔時《こうこくとうこんのけいせいせきじ》に異《こと》なり、兄弟牆《けいていかき》に
せめげども外其侮《ほかそのあなど》りを防《ふせ》ぐの時《とき》なるを知ればなり」と。これ豈《あに》、時代の真相を道破《どうは》し、
時代の真趣《しんしゆ》に触着《しよくちやく》せる、燭《しよく》を秉《と》って闇《やみ》を照すの警語にあらずとせんや。すべて、切迫《せつばく》
せる忙殺急殺《ぽうさつきゆうさつ》の場合に発する言辞《げんじ》は、高遠深邃《こうえんしんすい》の意義《いぎ》を発《はつ》するに、一|言《ごん》もって人の肺
腑《はいふ》を衝《つ》くの警語をもってせざるべからず。もし、理路《りろ》の迂曲《うきよく》なるを辿《たと》らば、必ず疲馬《ひば》
をもって電影《でんえい》を追うの愚《ぐ》に陥《おちい》らん。すなわち、南洲先生《なんしゆうせんせい》が「耳目《じもく》一|新《しん》」の論《うん》と、海舟
先生《かいしゆうせんせい》が「王民《おうみん》」の説《せつ》とは、拇指眼晴《ぼしがんせい》を突《つ》くが如き警語をもって、忙殺急殺《ぼうさつきゆうさつ》の場合の問
題を徹底的《てつていてき》に解決し得《え》たる好適例《こうてきれい》ならざるにあらざるなり。
 予はこの章を終うるに臨《のぞ》み、慶応明治《けいおうめいじ》の交《こう》に醸《かも》し成《な》されたる珍無類《ちんむるい》の警語《けいこ》にして、
歴史もこれを伝えず、同時に伝えられずして何時《いつ》しか消滅に帰すべきものを挙《あ》げんこ
とを要す。これ徳川時代における口善悪《くちさが》なき京童《きようわらんべ》としての江戸市民  語《ことば》を換《か》えて
云えば、「田沼様《たぬまさま》には及《およ》びもないが」の俗謡を産出することを能《よ》くせし、皮肉味《ひにくみ》の警語
において鍛練《たんれん》し抜《ぬ》かれたる江戸《えど》っ子《こ》なる者が、掉尾《とうび》の一|挙《きよ》として、その歴史を終結す
べく発せられたるものなり。曰く、「御酒《おさけ》が三|合《こう》に鯣《するめ》の足《あん》よで京都狐《きようとぎつね》に騙《だま》された」と。
諸君、これは何事《なにごと》を意味するものと解釈せらるるか。
 大政奉還《たいせいほうかん》、天皇親政《てんのうしんせい》の聖代《せいだい》となりたる時、その祝意《しゆうい》として、宮中より江戸市民全部
に対し、清酒《せいしゆ》三合ずつに鯣《するめ》の肴《さかな》を添《ぞ》えて賜《たま》わりたり。ここにおいて、市民のすべてが、
|天恩《てんおん》の優渥《ゆうあく》なるに感泣《かんきゆう》し、恩賜《おんし》の酒肴《しゆこう》に酔うて、聖代万《せいだいばんばん》々|歳《ざい》の
|歓呼《かんこ》を合《あ》わせたるは、申すまでもなきところなるが、中にはそれ、一寸《ちよつと》皮肉な事を云
わねば己《おのれ》の估券《こけん》が下《さ》がるもののように心得《こころえ》たる、極端《きよくたん》なる江戸っ子|張《ば》
りの手合《てあ》いもありて、「己《おれ》の戴《いただ》いたのは鯣《するめ》の脚《あし》ばかりだ。こりゃあどうも、下《した》っ端《ば》の公
卿達《くげたち》が中に立って、いい加減《かげん》な誤茶魔《こちやま》かしを遣《や》ったのらしい」と云うままに、聖代《せいだい》の
|余得《よとく》たる酒機嫌《さかきげん》に任《まか》せて、ここ一番と、罪のない皮肉《ひにく》に云い納《おさ》めと試みしが、すなわ
ちこれ「鯣《するめ》の足《あん》よ」の俗謡《ぞくよう》なりと知るべし。これ以外に、何等《なんら》の意味もあるなし。

その六 雛形的警語史の雛形的終結

警語なるものの形式の区分とその効果の種類  緩褌ーー船成金、鉄成金、綿成金
ビリケンー和製ル;ズ  板垣死すとも自由は死せずー硬派軟派i肝胆偏照ー
妥協相撲に客と芸妓との妥協  脱線  野次  新しい女1ー裏書き1裏附ける!
ー警語家としての自己を訓練すべし
 警語《けいご》を拈出《ねんしゆつ》することを好むは、人類の進歩発達に正比例を為《な》しつつ、訓練せらるべ
き、人間本来の性癖《せいへき》の一なり。しかして、社会生活における相互関係《そうごかんけい》の複雑となるに
|随《したが》って、漸次《ぜんじ》に多く警語の適用の有効なる場合が認められ、同時に、漸次《ぜんじ》に多くその
適用の必要を感ぜられざるを得《え》ずとなす。予《よ》は、我等の同胞《どうほう》たる日本人も、また警語
を拈出《ねんしゆつ》するの熱心と、これに伴《ともな》う技能《ぎのう》とにおいて、決して他国民他民族《わこくみんたみんぞく》に歩《ほ》を譲《ゆず》る者
にあらざるを信ずるをもって、些《いささ》かその例証《れいしよう》の一|端《たん》に充《あ》つべく、ここに『日本警語史《にほんけいこし》』
という新しき試みに着手したり。されど、すでに読者に対して明言《めいげん》せしが如く、予の
この小著述は、単に建築に対する雛形《ひながた》に過《す》ぎざるもののみ。警語史とは此《かく》の如きもの
との、その一例を示したるものに過ぎざるのみ。単に一|斑《ばん》を挙《あ》げつつ、その全豹《ぜんぴよう》に到《いた》
っては、諸君|各自《かくじ》が、詳密精細《しようみつせいさい》なる史乗《しじよう》および雑纂《ざつさん》の中《うち》より発見するの、労力と趣味
とを領《りよう》せらるるに任《まか》せんとするなり。しかもこれ、試験に属《ぞく》せる雛形的事業《ひながたてきじぎよう》として、
|已《や》むを得《え》ざる約束に支配せられたる結果なりと雖《いえど》も、一にはまた、諸君のために、 一
歩を進めたる自家《じか》の労力を興味とするの、いわゆる後《のち》の楽しみを保留《ほりゆう》したるものに他《ほか》
ならずとなす。
 ただし、総括《そうかつ》したる大体《だいたい》において、賢明《けんめい》なる諸君は、いわゆる警語《けいこ》なるものの形式
の区分《くぶん》と、その内容が齎《もたら》し来《きた》るところの効果の種類とを、ほぼ判別《はんべつ》し得《え》られしなるべ
きを信ずるなり。すなわち、その形式においては、(一)口によって発《はつ》せらるるものと、
(二)筆《ふで》によって発せらるるものとの区分《くぶん》あり。しかして、その効果の種類においては、
(一)眼前覿面《がんぜんてきめん》に目的を達して、片言隻語《へんげんせきこ》の下《もと》、立ちどころに問題を解決するもの、も
しくは、問題解決の素地を作るものと、(二)ただちに問題を解決せず、また、目的を
|遂行《すいこう》せずと雖《いえど》も、ある長き期間、もしくは非常に長き後代《こうだい》に到るまで、その影響|乃至《ないし》
感化を及《およ》ぼしつつ、直接あるいは間接に、有形《ゆうけい》もしくは無形《むけい》の効果を、漸次《ぜんじ》に奏《そう》し来《きた》
るものとを認め得《、つ》べし。
 これもとより、極《きわ》めて粗大《そだい》なる概観的分類《がいかんてきぷんるい》に過ぎずして、これを細別《さいべつ》するに及《およ》べば、
なおはなはだ多くの題目《だいもく》を設《もう》け得《う》べしと雖《いえど》もこれもまた、かかる小著においては、枝
葉《しよう》の穿鑿《せんさく》のために労する者との嘲《あざけ》りを免《まぬが》れ得《え》ざるべし。なお、いわゆる金言《きんげん》はことこ
とく警語なるにあらず、警語もまた皆金言なるにあらずと雖《いえど》も、ある場合においては、
金言が警語にして、警語が金言なることあるを記憶せざるべからざるなり。
 さて、明治より大正に連《つらな》りての現代においては、歴史的事項は、その細事《さいじ》と雖《いえど》もま
た各人《かくじん》の記憶《きおく》に新《あら》たなるところにして、その間より警語史《けいこし》の材料を点検《てんけん》し来《きた》らば、あ
るいは、過去の二千数百年間の総括《そうかつ》したるそれに対して、さらに数倍《すうばい》せるものを見出
ださるるやも測《はか》り難《がた》し。故に、この小著もまた普通の編史《へんし》の法式《ほうしき》に準《じゆん》じて、現代をも
って題目《だいもく》の圏外《けんがい》に放置《ほうち》せんことを要するなり。されど、現代を現代として別様《ぺつよう》に見る
ことなく、これを過去《かこ》の歴史の連続として、その末尾《まつぴ》の一片として概観《がいかん》し去《さ》らば、単
に、読者が参考の助けとして、その中《うち》より多少の材料を見出だしつつ、兎《と》も角《かく》も諸君
の眼前に提供するは、必ずしも体《たい》を失《しつ》したる組織法にあらざるべきを信ずるなり。
 すでに緒論《ちようん》の部《ぶ》において挙《あ》げたる、「緩褌《ゆるふん》」「成金《なりきん》」等の如き、現代において最も普
遍的効果《ふへんてきこうか》を有せる、はなはだ皮肉《ひにく》なる風刺的警語《ふうしてきけいこ》の部類にして、殊《こと》に「成金《なりきん》」の一語
に到っては、その応用性《おうようせい》と耐久性《たいきゆうせい》との豊富なる、今日《こんにち》に及《およ》んでもなお新《あら》たなるものの
如く、欧州戦争《おうしゆうせんそう》の影響《えいきよう》として、多くの「船成金《ふねなりきん》」「鉄成金《てつなりきん》」「綿成金《わたなりきん》」を出《い》だし、しか
も、それ等に対する簡単《かんたん》なる「成金《なりきん》」の二字が、如何《いか》にも切実妥当《せつじつだとう》にして、このうち
|無量《むりよう》の意味を含蓄《がんちく》せるを見るにあらずや。
 また、現代の人間は冷笑的にして、好んで人に綽号《あだな》を附くると云うて憤慨《ふんがい》する者あ
り。その例証《れいしよう》として、大臣大将《だいじんたいしよう》たる伯爵寺内正毅《はくしやくてらうちせいき》を「ビリケン」と呼び、大臣たる男
爵後藤新平《だんしやくごとうしんぺい》を「和製《わせい》ルーズベルト」と称するを挙《あ》ぐるなり。されど、これ等の綽号附《あだなつ》
けは、独《ひと》り現代の人心の浮薄《ふはく》なるを証《しよう》するものなるのみにあらずして、もし綽号を附
くる事が人心浮薄の証拠ならば、人心の浮薄は古今東西|押《お》し並《な》べての事ならざるべか
らず。
「三|尺入道《じやくにゆうどう》」「赤入道《あかにゆうどう》」、これ綽号《あだな》にあらずして何《なん》ぞや。「猿面冠者《さるめんかんじや》」、またこれ立派《りつば》に
綽号にあらずや。「犬公方《いぬくぼう》」「そうせい将軍《しようぐん》」に到っては如何《いかん》。無上絶対《むじようぜつたい》の権力者たる
将軍をさえも綽号に呼びし時代の人心は、今日以上に浮薄なるものと認めざるか。古代|希臘《ギリシヤ》の賢哲《けんてつ》ジオゲネスが「樽犬先生《たるいぬせんせい》」と呼ばれしは如何《いかん》。クロンウェルが、「赤鼻《あかはな》」
と称せられしは如何《いかん》。青年時代《せいねんじだい》のナポレオンが、「侏儒の兵士」と云われしが発憤《はつぶん》し、
|皮肉《ひにく》なる批評家《ひひようか》に、「もしナポレオンの身長をして、今二|寸《すん》高からしめしならば、彼は
|仏蘭西《フランス》の帝位に昇ることを得《え》ざりしならん」と噌《ほざ》き得《う》る材料を与えしは如何《いかん》。なおま
た、胯《また》を潜《くぐ》りし淮陰《わいいん》の韓信《かんしん》が、その堂々たる大元帥《だいげんすい》に昇《のぼ》りし後《のち》に及《およ》んでも、「胯夫《こふ》々々」
と云うて、当面《まのあたり》敵人に罵詈《ばり》せられしは如何《いかん》。故に、人に綽号を附くることのそれは、
人心の浮沈厚薄問題《ふちんこうはくもんだい》として、まったく成立すべき性質のものにあらず。ただ綽号の附
け方の巧拙如何《こうせついかん》  語《こ》を換《か》えて云えば、その風刺味《ふうしみ》  皮肉味《ひにくみ》の多少|如何《いかん》と云う点《てん》に
おいてのみ、問題を成《な》すべきものならざるべからざるなり..
 ここにおいて吾人《ごじん》は、現代における「ビリケン」「和製ルーズ」等のそれが、「猿面
冠者」「そうせい将軍」等に比較して、遥《はる》かに巧妙に、遥かに婉曲《えんきよく》に鍛練《たんれん》せられたるも
のなるを見、警語を拈出《ねんしゆつ》する日本人の手腕《しゆわん》が、確《たし》かに時代と並行しつつ発達せるを知
ることによって、大いに同胞のために祝賀《しゆくが》するの当然なるを覚ゆるなり。
 予は、明治十年時代における「自由民権《じゆうみんけん》」という緊縮|烹練《ほうれん》せられたる四字を取って、
時代の帰趣《きしゆ》を代表する明確なる標語と認むると共に、なおかつ、
|幕末《ばくまつ》における「尊王攘夷《そんのうじようい》」の四字と対峙《たいじ》すべき、時代の神髄《しんずい》に透徹《とうてつ》せる警語と見做《みな》さ
んことを要するなり。
 岐阜遭難《ぎふそうなん》の板垣退助《いたがきたいすけ》が、「板垣《いたがき》死すとも自由は死せず!」と絶叫《ぜつきよう》したる、またこれ、
|忙殺急殺《ぽうさつきゆうさつ》の間に迸発《へいはつ》して、その焦点《しようてん》に触着《しよくちやく》し得《え》たる警語ならずとせず。今日《こんにち》、板垣翁《いたがきおう》
の末路《まつろ》はなはだ振《ふる》わずして、家を失い、財《ざい》に窮《きゆう》し、衰残《すいざん》の老躯《ろうく》を置くに所なきに及《およ》び、
彼がために、数十万金を費《ついや》したる壮大華麗《そうだいかれい》なる別荘を寄贈《きそう》せんとする者を出《い》だし、あ
るいは数千金を贈《おく》って家政《かせい》を補《おぎな》う者を生《しよう》ずるに到りたる、豈《あに》、「板垣死《いたがきし》すとも自由は死
せず」の絶叫の、時《とき》を隔《へだ》てたる反響にあらずとせんや。
 帝国議会開設《ていこくぎかいかいせつ》の当初《とうしよ》に成《な》りたる、政府迫撃派《せいふはくげきは》とその擁護派《ようごは》とを区別せる、「硬派《こうは》、軟
派《なんば》」の簡明《かんめい》なる標語《ひようご》も、次《つ》いで、社会上のあらゆる事物における、剛柔寛厳《こうじゆうかんげん》の対比《たいひ》に
応用せられ、はなはだしきは、新聞記者の政治部に属する者を「硬派」といい、その
社会部に属する者を「軟派」と呼び慣《な》らすに及《およ》び、またこれ標語にしてかつ警語たる
の事実を成就《じようじゆ》せるを見るなり。
 日本の政界に流行せし「情意投合《じよういとうこう》」「肝胆相照《かんたんそうしよう》」等の語も、その応用し転用せらるる
場合の諷刺的《ふうしてき》なる時において、多く警語たるの性質を賦与《ふよ》せられ、殊《こと》に、「肝胆相照《かんたんそうしよう》」
より脱線《だつせん》したる「肝胆偏照《かんたんへんしよう》」のそれに到っては、純然《じゆんぜん》たる警語に相違《そうい》なきを認むべし
となす。「妥協《だきよう》」という政界の流行語は、元来|妥協好《だきようず》きなる日本の政界《せいかい》において、その
|生命《せいめい》の短きを憂《うれ》うる要《よう》なかるべく、同時に、社会の有《あ》らゆる事物《じぶつ》に応用《おうよう》  むしろ濫
用《らんよう》せらるるの流行も、これに代わるべき今一段|奇抜《きばつ》なるそれの見出ださるるまでは、
|容易《ようい》に衰《おとろ》うることなかるべしと思う。しかして、この語もまた、その用所《ようしよ》と用法《ようほう》との
|諷刺的《ふうしてき》なる場合において、一般に警語《けいこ》として認識《にんしき》せらるるものの如し。「妥協相撲《だきようずもう》」「客《きやく》
と芸妓《げいしや》との妥協《だきよう》」の如き、その例《れい》の一、二なるのみ。
 なお、予《よ》が用いし「脱線《だつせん》」という語も、またこれ明治時代に拈出《ねんしゆつ》せられし、新味未《しんみいま》
だ失われざる警語にして、汽車電車《きしやでんしや》の脱線頻《だつせんひんびん》々たりし時、人々の目に耳に脱線《だつせん》という
語が特殊《とくしゆ》の印象《いんしよう》を与えしより、ついには問題外に反《そ》れたる言論を聞き、常規《じようき》を逸《いつ》した
る行為を見るや、「脱線《だつせん》! 脱線《だつせん》!」の評語《ひようご》を与うるをもって、最も事実に適切なるを
覚えしむるに到りたり。吾人《ごじん》は、議会の弥次《やじ》り手《て》によって、しばしばこの「脱線《だつせん》!」
の叫《さけ》びを聞くの光栄《こうえい》に浴《よく》したりき。
 なおまた、真面目《まじめ》にして品格《ひんかく》あるべき帝国議会《ていこくぎかい》における、冷評《れいひよう》、混《ま》ぜっ返《かえ》しを意味
して、「弥次《やじ》る」と云う事のそれも、その冷笑的内容において警語たるを失《うしな》わず。つい
には、野球その他の競技運動《きようぎうんどう》においても、その応援隊《おうえんたい》なるものが、何時《いつ》しか変《へん》じて、
|弥次《やじ》の「弥《や》」の字を「野《や》」に換《か》えつつ、「野次隊《やじたい》」もしくは「野次軍《やじぐん》」と称せらるるに
|及《およ》び、中には「吉岡野次将軍《よしおかやじしようぐん》」と云う、ど傑《えら》い将軍を産出《さんしゆつ》するの騒《さわ》ぎにまで到達《とうたつ》した
り。ついでに記《き》せば、得意《とくい》になりて盛《さか》んに気焔《きえん》を吐《は》く事を、「メートルを上《あ》げる」と云
うも、また時代の一警語と見做《みな》すことを得《う》べし。
 望月小太郎《もちつきこたろう》、松本君平《まつもとくんぺい》、竹越与三郎《たけこしよさぶろう》なんどの、いわゆる高襟《ハイカラ》党より発せし、「ハイカ
ラ」もしくは「灰殻《はいから》」の語も、今日《こんにち》においては、すでに時代後《じだいおく》れの感《かん》なきにあらずと
|雖《いえど》も、なお、洋服《ようふく》の襟《えり》を高くする事の直接の意味より転化《てんか》したる、種々の「新《あたら》しがり」
に応用するところのそれらにおいては、その諷刺《ふうし》もしくは冷笑の極《きわ》めて皮肉《ひにく》なる場合
に限って、辛《かろ》うじて警語《けいこ》たるを失《うしな》わざることなきにあらず。
 文芸界思想界《ぶんげいかいしそうかい》の産物《さんぷつ》なる「新しい人」、ことに「新しい女」という標語《ひようご》も、実際にお
いては、諷刺的《ふうしてき》むしろ冷笑的意味において適用せらるる場合多きをもって、その範囲《はんい》
に限りては、同じく警語の部類のものたることを得べきなり。「裏書《うらがき》する」「裏書《うらがき》され
る」という語、およびその過去に属する語も、約束手形《やくそくてがた》のそれより出《い》でて、多くの場
合に応用せられ転用せられつつあり。しかも、その転用応用の奇抜斬新《きばつざんしん》なる場合にお
いて、また警語の範囲に属《ぞく》しむることを厭《いと》い得《え》ずとなす。この語ひとたび出《い》でて、「折
紙附《おりがみつ》き」という語の転用応用は、警語としてすでに過去に葬《ほうむ》られ去りぬ。また文芸界思
想界における「裏附《うらづ》けらるる」という語も、その応用転用の場合と方法とによりては、
警語ならずと云うて排斥《はいせき》すること能《あた》わざるなり。堀紫山《ほりしざん》が報知新聞記者《ほうちしんぶんきしゃ》として創製《そうせいノ》せ
し、「轢死《れきし》」「色魔《しきま》」なんど云う語も、その新味《しんみ》の失《うしな》われざる間は、確《たし》かに証語《しようこ》の部類
なりき。
 以上は、単に手に任《まか》せて眼前《がんぜん》の材料を取り来りたるに過ぎざるもののみ。現代の警
語史は、諸君と予とが時々刻々に事実的編纂《じじつてきへんさん》を為《な》し来《きた》りつつありて、しかも、時々刻々
に事実的編纂《じじつてきへんさん》を為《な》し行《ゆ》かざるべからざるものならずや。何《なん》ぞ、この雛形的編史事業《ひながたてきへんしじぎよう》に
おいて、さらに多くを語ることを要せん。故《ゆえ》に予《よ》は、ここに現代のそれを語ることを
|終結《しゆうけつ》すると共に、この雛形的《ひながたてき》『日本警語史《にほんけいこし》』を雛形的に終結することをもって、予と
しての不相応《ふそうおう》ならざる態度《たいど》と信ずるなり。
 されど、終りに臨《のぞ》んでただ一言を添《そ》えしめよ。曰く、警語史《けいこし》を研究《けんきゆう》することのそれ
は、同時に、警語家《けいこか》としての自己を訓練《くんれん》するの利益を成《な》すべきが故に、東洋における
|警語種族《けいこしゆぞく》の一|分子《ぷんし》としての諸君《しよくん》は、宜《よう》しくこの甚深《じんしん》なる趣味《しゆみ》に指を染《そ》むべきなりと。
|然《しか》らばすなわち、予がこの小著の如きも、多少の程度において諸君が研究の友とせら
るるの栄《えい》を得《う》べけん。口のそれにおいても! 筆のそれにおいても!

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