|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

服部之総「生殖器感動論」


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

生殖器感動論

 去年条約改正史を調べたおり、この問題をめぐる当年の諸論戦のなかから、生殖器感動論の一くさりを見つけ出して、いまどき見つけ出した自分の物知らずは棚にあげて、はなはだ愉快になった。論者は井上哲次郎博士で、停年直前の老博士の講義を聴かされたことのある僕は、この著書──明治二十二年九月発行『内地雑居論』──を学生じぶんに読んでおかなかったことを残念に思った。それはこんなふうに論じられている。
 「……蓋し順序を逐ひ規律に従ひ次第々々に進化発展する時は、社会の組織種族の形体、自ら其宜しきを得て、万善完備し、父母たるもの能く生まるゝ子孫を養育することを得るを以て、仮令出産の数は少きも却て人口減少の恐なかるべきなり。然れども一朝にして未だ慣習を経ざる事、未だ見聞に及ばざる事並に百般非常の事急に刺激雀動し来れるに、猶ほ進んで直に優等の人種と内地に於て万端の競争を開くときは、生理上種々なる変動を生ずるものなり。就中、奇異なるは生殖器之が為めに変動を生ずることなり。此事に就ては西洋の学者が往々論及すれども、其何故殊に生殖器上に此の如き変動を生ずるや未だ詳ならず、然れども此事あるは事実にてダーウヰン氏は其著(Descent of Man, vol.1, Chapter VII)中に於て詳細に論証せり。氏以為く何故か其理由は知らざれども生殖器は生活上変化の為に非常に感動し易きものたることを証明するを得べし云々。 (Ibid vol.1, p.293) 又氏の説に拠れば生活上の小変は或は善良なる結果を生ずることあれども、又往々産出力を減殺し子孫蕃殖せざるなり、此事は人類に限らず、動植物を貫いて皆然らざるなし。 (The Variation of Animals and Plants under Domestication, vol. 1, Chapter XVIII)然るに内地雑居の如きは日本人に取て決して小変と謂ふべからず、其事たる極めて生殖器の感動し易き生活上の変化なりと謂ふべし。此に由て之を観れば日本人口は維新以来年々多少の増加ありと雖も、 一旦内地雑居を許さば後来必ず不吉の変状を生ずるに至らんこと、吾輩の大に憂慮する所なり」
 当年の井上博士は加藤弘之博士とともに日本における進化論者の双璧で、しかも二人とも持論の進化論を武器として条約改正、内地雑居に反対した。大隈改正案を支持した島田三郎はそこで両人に対して「人種論」の駁章を設けた。
 「此説や夫の保守主義の人に出でずして学名を世に博する人の唱ふる所なり。……此の説や加藤弘之氏の天則に井上哲次郎氏の雑居論に称道する処にして人多く之を読めり。然るに……彼の論者の言に拠り我人種彼等に如かざるの故を以て雑居す可からずと云はゞ、是れ万世内地を開放すべからずと結論する外なきなり。此の如くなれば実際に二条の結果を生ずべし、曰く全国は万世之を開放す可からず、而して居留地は万世之を持続すべく、治外法権は万世之を保存すべし、曰く全国を開くこと果して危険ならんには一部を開くも亦幽部の危険あり、故に為すをコ.串.べくんぽ居留地も亦之を廃絶して外人を万里の外に   ベしと。」 (「条約改正論」)
 トックヴィルによるとアメリカ土人の運命は戦争してヨーロッパ人を皆殺しにするか、それともみずから文化してヨーロッパ人と平行するか、二つに一つだという。予は後策を取って商業を振るい工業を修めヨーロッパ人と文明の疆界に馳騁せんことを欲する。しかるにかの進化論博士たちの見解はかえって前策を取らんとする固陋保守主義の実践と通ずるではないか、といった意味のたんかを切ったのであるがあまり切り栄えがしない。というのも、進化論がブルジ・ア反対派を抑えるための反革命的御用論として登場したのは、このときが最初ではなく、明治十五年の加藤弘之の『人権新説』が最初だった、
 最初は悲劇として、という言葉があるが、加藤弘之が『国体新論』(明治七年)の天賦人権説から『人権新説』の進化論に変節するまでの経過は、一つの立派な悲劇であった。 「侍読」時代の著作たる『国体新論』は同時にまた「明六社」時代の著作だった。侍読たることと明六社同人たること──すなわち新興大産業の利害を代表して殖産興業、文明開化に向かって、政府を鞭撻し叱正する役割とは、まだなおけっして矛盾することがなかった明治の大産業は政府の強力な原始的蓄積の温室的助成とあいまって、はじめて実現されえたからである。しかるにまもなく一方に大産業以前の資本制産業の諸利害i維新前から存在し維新変革の有力な内部的起動力ともなり変革後大産業の育成過程が進行するにつれて多かれ少なかれ没落の運命を宣告されざるをえなくなったところの、旧来のマニュファクチュア、雇傭労働に基づく手工業、資本制家内労働、等の地方的・原生的諸産業資本の利害を代表するブルジ・ア反対派の結成が、民選議院建白を契機として、いわゆる自由民権運動の軌道についた。そしてこのより戦闘的なブルジ・ア反対派の台頭につれて大産業派政府鞭撻派としてのかつての矛盾なき御用理論家が、どんな迷惑を体験したかを、旧明六社派中もっとも深刻に表明したものが加藤弘之であった。
 自由民権論者は加藤の『国体新論』その他を、これ幸いと自分たちの立論の一つの武器にとりあげた。明治十二年がおしつまったころ、加藤はやっと進化論に血路を見つけて、自分で自分の天賦人権論を反駁する講演をやり、十三年の春にもくり返してやり、旧著『真政大意』『国体新論』を絶版にしてみたが、民権運動の潮流を迎えて著者に黙って出版する本屋が出てきたりして、いつかな売行きはやまぬので、十四年十一月には内務省に訴え出て、時の内務卿山田顕義の名で販売差止め命令を出してもらっている。
 それだけでは気がすまず、同時に彼は新聞広告を出した。
 「……拙著真政大意国体新論等ノ如キハ余力未タ右等(ラマルク、ギヨーテ、ダルヰン)ノ理ヲ知ラサル時ニ於テ著作セシ書ナレハ今日ヨリ之ヲ視ルニ謬見妄説往々少カラス為メニ後進二甚ダ害アルヲ覚フレハ……右ノ書ヲ以テ決シテ余力今日ノ意見ニ合スルモノト認メ給ハサランコトヲ希望ス」
 そして必死になって、ラマルク、ダーウィンらに基づくと称する『人権新説』を脱稿して、出版成ったのが十五年十月。このときすでに、自由党がその中から小ブルジョア左翼を分離するための最初の契機となった福島事件が、一世を震撼させていたのである。
 小ブルジョア左翼の分離は自由党を後退させた。今では、闘争を継続し進展させる者は小ブルジ・ア左派およびこれと結んだ被圧迫階級である。後退する自由党はいっさいの昨敵と和睦するために解体した(明治十七年)。進化論はすでに加藤弘之のみのものでなく後退する自由党のものであった。いわんや始めからもっと卑屈な改進党のものでなかったと、誰がいえよう。 『人権新説』と進化論とはいまやブルジョアからでなく、ブルジョアの左側にあるいっさいのものから防衛新説として公認されたのである。
 さて明治二十二年に今度は井上哲次郎博士が主役を買って、因縁つきの公認進化論を再びひけらかしつつ、大隈条約改正案およびこれを支持するブルジョア党派に予は反対であるといったとしても、およそ「二度目は喜劇として」現われざるをえなかろうではないか。まことに「生殖器感動論」くらい学者の扮装をした喜劇役者にふさわしい科白はなかったにちがいない。もとより博士が自己の役がらを意識してたたれる必要は毛頭ないので、そういえば停年直前の教室の老博士の印象は神のごとく朗らかなものであったが。

メニュー

更新履歴
取得中です。