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早川孝太郎『猪・鹿・狸』「鹿」

鹿

   鹿
一 淵に逃げこんだ鹿
二 鹿の跡をたずねて
三 引き鹿の群れ
四 鹿の角の話
五 鹿皮のたっつけ
六 鹿の毛まつり
七 山のふしぎ
八 鹿に見えた砥石
九 鹿撃つ狩人
一〇 十二歳の初狩り
一一 一つ家の末路
一二 鹿の玉
一三 浄瑠璃御前と鹿
一四 親鹿の瞳
一五 鹿の胎児
一六 鹿とる罠
一七 大蛇と鹿
一八 木地屋と鹿の頭
一九 鹿の大群



一 淵に逃げこんだ鹿

 鹿を撃った狩人はみなそういうた。鹿はいかにまっしぐらに逃げてゆくときでも、矢ごろを測って、ほーっと一声矢声をかけると、ふっと肢をゆるめて、声のほうをふり返ると、そこの呼吸で引き金を引いたそうである。矢声はなるべく短く歯切れのよいのを上乗とした。ぽぽっと、投げつけるようにかけるほど、効力があったという。習性とすれば哀れにもいじらしかったが、狩人の狙いどころにされたのは情けなかった。
 も一つ、これも鹿にかぎってのことで、狩人にはつこうのよいことだった。いったん手負いになると、だんだん山を出て、里近い明るみへ姿を現わしてくることである。えらい深山なら知らぬこと、自分らが聞く話はことごとくそうだった。もう三十年も前になるが、旧正月二日のことだそうである。伊那街道すじの追分《おいわけ》で、ある家で朝早く起きて蔀《しとみ》をあけると、そこへ上《かみ》のほうからバタバタと街道を駆けてきたものがあった。女房が、はっと思って見返したときはもう五、六間先へ駆け抜けていたが、それが鹿で後肢を折って引きずっていたそうである。すぐあとからイヌや狩人が追いかけていった、あとには前夜降ったらしい薄霰がほんのりおいた街道に、紅い血の滴が長くつづいていたという。
 その鹿はそこから二丁ほど下った、村端れのめくら淵に飛びこんで殺されたそうである。その淵は街道からのぞくと、すぐ目の下に蒼く澄んで見えた。淵の主は大きなウシだともいうて、晴れた日には日光のぐあいで、ときおり背中が見えると聞いた。めくら、かいくら、せとが淵などというたなかの一つで、界隈でも名高い伝説の淵だった。竜宮へつづいているともいうた。そして昔からよく鹿の追いこまれる所だったそうである。
 その鹿は、まもなくもときた道をかつがれていった。なんでも朝まだ暗いうち、鳳来寺道を五、六町登った所の、分垂《ぶんだれ》のいのあてで肢を撃たれて、一気に街道を走ってきたのだそうである。そのときの狩人の話では、三歳の雄鹿だったという。
 子どものころ、村の入りの山から追い出された鹿が、畑を横ぎって街道へ出て、ふなと(船着場)へつづく坂を下って、最後に飛びこんだ場所もやはり淵だった。宮淵《みやぶち》というて、大海《おおみ》のお宮の森が向こう岸に茂っていた。高い岩に囲まれて、川幅五十間もあるもの凄い場所だった。もう二十七、八年も前で、そのころは、そこから川下の豊橋まで七里の間船が通っていた。
 手負い鹿が、淵に飛びこんだ話はほかにも聞いたことがある。出沢《すざわ》の村のふじうの峰から追い出したときには、鹿が岩の上を走って下の鵜《う》の頸《くび》の淵へ飛びこんだというた。某の狩人が、八名《やな》郡|舟著《ふなつけ》村|小川《おがわ》の、しゅっけつの峰で肢を撃った鹿は、峰つづきのかまつるを、そんで(つる嶺を後ろに反った所)にいくと思われたが、前のきり立ったようなたわをころがるように下って、一気に黄楊《つげ》川の淵に飛びこんだというた。
 手負い鹿が最後に飛びこんだのは、川沿いの淵ばかりではなかった。山のなにある用水池を目がけた話もあった。自分の家の近くにあった、方《ほう》が窪の小さな池にも追いこんだことがあったというた。大海の奥の二つ池は、山の窪に同じような池が二つ並んで、遠くからその蒼い水が望まれた。やはりその池へも追いこんで殺したことがあったと聞いた。
 よく耳にしたことだったが、鹿は手負いになると、きまって池や川へはいるといった。密林から里近い疎木立《むらこだち》へ出て、畑や街道を走ったのはまだしも、あの蒼く澄んだ池や淵を目がけたのは、単に偶然ばかりではないように思う。

二 鹿の跡をたずねて

 猪と違って鹿のほうは、界隈ではもうどこにもいなくなった。数年前までは、鳳来寺山にたった一ついたと聞いたが、それもとってしまって、よくよくいなくなったと、狩人もいうていた。
 その鹿がここ三、四十年前までは、いまから思うと嘘のようにいたのである。狩人に追われて、人家の軒や畑を走る姿を見ることは珍しくなかった。まだほんの子どものじぶんであった。軒端に筵を敷いて、ぼとう(日なたぼっこ)をしている所へ、狩人に追われた鹿が、前の畑から屋敷へ上る坂路を駆けてぎて、すわっていた筵の端を蹴散らして、背戸の山へ駆け抜けたことがあった。そのとき、傍らに祖母がすわっていた。アッというて、自分をかかえる暇さえなかったと、あとで笑ったことを覚えている。
 家の縁側から見ると、南のほう遙かに舟著《ふなつけ》の連山が立ち塞がって、雨上がりのあとなどは紫色に澄んだ山の腰に、白く水の落ちるのが見えた。あそこが舟著の百俵窪《ひやくたわらくぼ》で、一窪で米が百俵とれるげななどというた。その手前の、わずかばかりの盆地に、大海《おおみ》、有海《あるみ》の二つの部落がひらけていた。西に低い山を負って、晴れた日には人家の瓦屋根から陽炎《かげろう》が上るのが見えた。
 鉄道が通じて、大海の村へ長篠駅ができてからもう三十年そこそこになる。それより数年前までは駅から数町離れた墓場つづきの原に、まだ鹿のいた話がある。うっかりはいった狩人の目の前へ、三つ又の角をそろえた雄鹿ばかりが四つ、駆けてきたときは、うっかりしていただけについ、あわくって、逃がしてしまったというた。
 大海の南隣、有海の篠原《しのんばら》は、いまでこそ見渡すかぎり桑園になって、「長篠戦記」に勇名を残した鳥居勝商が憤死の跡なども、そのなかに埋もれてしまったほどであるが、以前は西隣の川路《かわじ》の原とともに、またとない鹿の狩り場であった。どんな不猟のときでも、そこへいけばかならず一つ二つはえものがあったというた。山はいずれを見ても低い赤禿山のつづきで、どこに鹿がいたと思うようであるが、また一方の話では、そこの大窪の谷で、ヤマイヌが子を産んだことがあったというた。しかもそのおり赤飯を焚いて、近所の女房たちといっしょに見舞いにいったという女が、九十いくつではあったが、まだ達者でいたことを考えると、村の姿はわれわれが想像もおよばぬほど、はやく変化したのである。
 有海から東へ川を渡ると、舟著山の麓で、麓に沿うてひらけた部落を七村《ななむら》というた。大平《おおびら》、栗衣《くりぎの》、市川《いちかわ》、日吉《ひよし》、吉川《よしかわ》、久間《ひさま》、乗本《のりもと》と、いずれも小さな部落で、山と山との間に散らかっていた。界隈の村から、いつも悪口の的にされたほどの僻村だっただけに、鹿はいたるところ出た。なかにももっとも山奥の、大平、栗衣では、狩人が鉄砲かついで通るたびに、村の衆が出てきて、お狩人さまどうか鹿の奴を撃ってくだされと、頼むげななどというた。もちろん悪口ではあったが、頼まれたのも事実だった。狩人が鹿一つとって、お頼う申しますとかつぎこんでいけば、酒一升を出すのが普通であったというた。いずれもひどい山田を耕していたが、畑の少ない米どころで、しかも植え付けたばかりのイネを、鹿が出るたび片っ端から抜き取って食ってしまったのだから、あるいはこんな不文の慣習があったかもしれぬ。

三 引き鹿の群れ

 前にいうた追分は、二十年前までは鹿の鳴ぎ音が聞かれた。もうそのころは、どこにも聞かれなくなったあとであった。街道すじでこそあったが、どちらを向いても山の陰で家数も五、六しかなかった。前を寒峡川が流れて、流れに臨んで山が押しかぶさるように聳えていた。秋の日の暮れ暮れには、その山の峰で盛んに鳴いたのである。闇をすかしてキョーと鋭く響いたとぎは、慣れぬ客などは、飛び上がるほどびっくりしたそうである。かつて段戸山の山小屋にいた杣が、付近で鳴いた鹿の声を、ヤマイヌがほえたと感違いして、一晩慄えとおした話があった。もっともそれは鹿が遊《うかれ》雌のときにかぎって、まれにうなるような声をあげる、それであったというから、むりもない話であった。鹿の声は普通に鳴くのでも、相当の距離をおかないと、カンヨーと、妙な音には聞こえなんだそうである。
 いまでこそ追分の向いの山は、スギ、ヒノキが植林されて、雑木なども、したがって伸び放題であるが、以前は見渡すかぎりの山が、ことごとく近郷の草刈り場で、峰にところどころ形のおもしろいマツがあったほか、木というてはほとんどなかった。冬の夜はそこで盛んにヤマイヌがほえたものという。
 入梅が明けて山の色がいちだんと濃くなったころには、朝早くそこを幾組かの引ぎ鹿が通ったそうである。引き鹿とは、夜の間麓近く出て餌を漁《あさ》ったのが、夜明けとともに山奥へ引き揚げるそれをいうたのである。あたかもそのころは鹿が毛替りして、赤毛の美しい盛りであった。それが朝露の置いた緑の草生をいっただけに、ことに目をひいたのである。五つ六つあるいは十五、六も一列になって、山のかなたこなたを引いていった光景は、たとえようもないみごとだったというた。なかには子鹿を連.れているのもあった。それらの歩ぎぶりを見ていると、まるでびっこ(子馬)を引くようだったそうである。あるときなど、全体どれだけいるかというて、目にはいるだけを数えたてると、四十いくついたというた。毎朝のごとだったが、門に立って全部が引き揚げるまで、眺め暮らしたもので、なかには朝日が赤く峰に映ってから、ゆうゆう引いてゆくものもあった。それがまだ昨日のことのようだと、老人の一人は語っていた。
 寒中風のヒューヒュー吹きまくる日に、峰から三つの猟犬に追われて、くずれるようにたわを下ってきて、川のなかへ飛びこんで、イヌと鹿と四つが真っ黒になって、たがいにもつれ合っているのに、あとを追ってきた狩人たちも、鉄砲を向けたまま放すことができなくて、ぼんやり立っていたこともあった。そうかと思うと、まだ日のあるうちに、ヤマイヌに追われて岩の上を走る鹿を、畑に耕作しながら、見たこともあったという。
 もう五十年も前になるが、中根某がある日前の寒峡川の川原から、ヤマイヌが食い余して砂原に埋めておいた鹿を拾ってきた。近所隣へも振る舞って、自分も煮て食ったところが、その晩遅くなってから、門口ヘヤマイヌがきて、おそろしくほえたてたそうである。某はそれに驚いて、家のなかからさんざん詫びたそうであるが、その声が軒を隔てた隣家まで聞こえたという。翌朝起ぎる早々に塩を桝《ます》に入れて、昨夜《ゆんべ》は辛い目にあったと言い言い、前の川原へ置ぎにいったというた。ヤマイヌのえものを取ってくるときは、引替えに塩を置くものとは、一般にいわれていたことである。
 その家は、街道すじのウシかた相手の宿だった。いまでもウシ宿と呼んで残っている。

四 鹿の角の話

 自分の家に、鹿の角の付け根を輪切りにして、それにササにタイかなんぞを彫刻した印籠の根付けがあった。忘れたようなじぶんに、家のどこかしらにころがっていたものである。なんでも祖父が若いころにやったことだというた。仕事からふいと帰ってきたと思ったのに、どこにも姿が見えなんだ。ほうぼう捜すと、土間の向こう座敷を締めぎって、そのなかでコツコツなにかやっていたそうである。なんでも二日か三日、ろくに飯も食わないで、えらい骨をおったというた。いま一つ、これはなんでもない、ただの三つ又の角があった。いつからあったとなしに背戸の庇に吊るしてあった。ときおり笊《ざる》が引っ掛けてあったりしたが、吊った紐が切れてからは、押入れの隅などに放ってあるのをときおり見かけた。家の誰やらが、山から拾ってきたのだというた。自分の家には、そのほかに鹿の角=のあったことを記憶せぬが、隣家へいくと、かまや(納屋)の軒に、五つ六つも吊るして、それに簑が掛けてあった。
 以前はどこの家でも、軒に鹿の角を吊るして、簑掛けにしてあった。そうかと思うと土間の厩の脇の小暗い所に吊るして、作りたての藁草履が引っ掛けてあるのもあった。大黒柱の真っ黒に煤《すす》けたのに吊るして、枝の一つ一つに、種袋が結びつけたのもあった。同じようなのを両方に下げて、土閥の掛け竿の吊りにして、手拭や足袋を引っ掛けたものもあった。
 こうした角は、いつから吊るしてあったか、忘れてしまったほどだった。家が以前狩人だったためにもっていたり、狩人から手に入れたのもあった。あるいはまた、山仕事にいって、拾ってきたものもあったのである。
 ある女は、正月にもや(薪)を刈りにいって、そこで拾ったことがあるというた。最初薪木の枝に引っ掛かっているのを見つけたときは、びっくりしたそうである。その日にかぎって、からだじゅうが溶けるようにだるかったなどというた。またある男は、夏のころ山へふし(五倍子)の実を取りにはいって拾ったというた。山の峰へ出て、一休みして、タバコに火をつけると、足もとに、いましがた誰かが置いてでもいったように、三つ又の角が落ちていたそうである。
 某の男は、秋カワタケ(茸)をとりにいって、寒い日陰山の雑木の下で、落ち葉を引っ掻き回すうち、何年か雨にさらされて、骨のようになった、二又角を拾ったことがあるというた。
 こうして拾ってきた角は、何本でも軒に吊るして簑掛けにしたのである。一度吊るせば吊り縄の麿らぬかぎり、幾年たってもそこに下がっていた。雨の日など、ぐっしょり濡れた簑を、その枝に掛けて入口の敷居を跨いだのである。
 それらの角が、いまはもうどこの家にもなかった。角買い男に売ったのもあった。春秋の大掃除にはずしたまま、子どもが玩具にするうち、いつか見えなくなったのもあった。まだ角に枝の咲かない、若鹿の角の一方に縄を通して、筵織りの仕上げに使ったものなどは、つい昨日まで土間の壁に下げてあったように思ったが、それももう見えなかった。
 ときたま鹿の角が座敷に吊るしてあれば、熱さましになるというて、一方の端をひどく削ってしまったようなものだった。こんなものでないかぎり、もうなくなってしまったのである。鹿が滅びるといっしょに、その角もまた、たちまち消えてしまったのである。

五 鹿皮のたっつけ

 鹿の角がたちまち家々から消えてしまったのも、じつは角買いが盛んに入りこんで、買っていったのが、もっとも大きな原因だった。
 ある家では、以前狩人だったにもよるが、主人が昔ふうを改めえない性分も手伝って、もうどこの家にもなくなってから、軒や土間の隅に幾本も吊るしてあった。事実そうしてあれば、なにかにつけてつごうもよかったそうである。
 それが近ごろになって、角買いが目をつけ出した。売れ売れとしつこく責めるのに、ついに断わりきれなくなって、若主人が全部引きはずして、まとめて売ってしまった。家じゅうを捜し集めたら、十七、八本もあったそうである。その金で先祖代々の位牌をこしらえたというた。鹿の角がなくなっても、かくべつ不自由はせなんだが、ただ簔などの置き場がなくなって、らちもなくそこいらへ丸めたり載せて置いたりして、しまつが悪くなったそうである。
 角とともに、鹿が村へ残していったともいえるものに、鹿の皮のたっつけがあった。秋から冬にかけて村々を歩けば、白い皮のたっつけを穿《は》いた男をときおり見た。ムギ畑に耕作していたり、山から薪を負って出てきたりした。多くはたっつけと同じような、老人であった。畑などに穿いて出ると、たちまち皮の色が汚れてしまったが、一日山を歩いてくれば、木の枝やいばらで洗濯されて、真っ白になったそうである。
 家々をたずねて回ったら、どの家も同じように、以前はあったがもうないという。老人が死んでから、久しく物置に投げこんでおくうち、いつか虫が付いていたのに、あわてて谷へ捨てたのもあった。ぼろといっしょに棒手《ぼて》振りなどに売ったのもあった。女たちがすこしずっ切って、針止めや針山を作り作りするうち、紐ばかりになったのもあった。よくよくたんねんな心がけのよい家か、老人でもある家のほかは、なくなっていたのである。律義者でとおったある老人は、親類への年始回りに、かならずつけてきたという。
 以前はたっつけ屋という専門の職人が、ときおり回っできたそうであるが、多くは大鹿をとったごとに狩人自身がこしらえたものである。なんでも以前のたっつけは、鹿が二頭なくては、作れぬともいうた。前にいうた、鳳来寺三禰宜の一人だった平沢某は、作るに妙をえていて、ほうぼうから頼まれたものというた。そのたっつけを、まだたいせつにしまってある家もあった。
 いろいろの話を総合すると、鹿皮のたっつけを狩人がつけたのは、あまり古くはなかった。以前は物持ちなどでないかぎり、めったにつけなんだ。狩人が、山で雨にあったとぎなど、あわてて脱《ぬ》いで丸めたというからは、よくよくたいぜつな狩衣であったのである。

六 鹿の毛まつり

 狩人が鹿を撃ったときは、その場で襟毛《えりげ》を抜いて山の神をまつったことは、猪狩りの毛まつりとなんら変わったことはなかった。ただ鹿にかぎっての慣習として、その場で臓腑を割《さ》いて、胃袋のそばにあるなにやら名も知らぬ、直径一寸、長さ五、六寸の真っ黒い色をしたものを、山の神への供えものとして、毛まつりといっしょに、串《くし》に挿しあるいは木の枝に掛けてまつった。これをやとうまつりというた。やとうは前にもいうたが、やはり串であった。その真っ黒いものはなんであったか、狩人のことごとくが名を知らぬのも、ふしぎだった。腎臓だろうというた人もあったから、あるいはそうかもしれぬ。ずっと以前は、両耳を切って、やとうまつりをしたというが、近世では耳の毛だけを串にはさんでまつる者もあった。しかし後には臓腑を割《さ》くことをも略して、ただ毛まつりだけですましたものもあったという。
 狩人としては、一たび傷を負わしたえものは、たとえ二日が三日を費やしても、あとをもとめて倦むことをしらぬのが嗜《たしな》みであるというた。某の狩人は、あるとき朝早く、出沢の村のこやん窪で一頭の鹿を追い出したとき、鹿はまっしぐらに峰へ向けて逃げ去った。それをどこまでもと追いすがって、あるときは山つづきの谷下《やげ》の村を追いとおし、さらに引っ返して出沢の村の東にあたるふじうの峰に追いこみ、峰を越してその日の午すぎには、滝川の村に出た。またもや山に追いこんで、それからはだんだん山深くはいり、日の暮れがたには滝川から一里半山奥の、赤目立の林に追いこみ、またもや峰一つ越えて作手の荒原村の手前の舟の窪で、やっと仕止めたというた。十六の年から狩りをしたが、このときほどの骨おりはまずなかったという。
 同じ男が舟著連山の七村《ななむら》で、大鹿を追い出したどきは、その鹿が峰から谷、谷から村と、終日目まぐるしいほど逃げ回るので、どこまでもと追ってゆくうち、ゆくさきざきで、その鹿を目がけて鉄砲を放す者があった。おおかた他の狩人たちも、目がけているとは予期していたが、最後に大平の奥に追い詰めてたおしたとき、そこへ集まってきた狩人を数えると、総勢三十六人あった。しかもその狩人連が、放した弾は全部で十三発で、その十三発が一つ残らず当たっていたには、あきれ返ったという。三十幾人の狩人がなんの連絡もなしに、一つの鹿を一日追いとおしたのである。こんなばかばかしいことは、昔も聞いたことがないと、みんなして大笑いに笑ったそうである。
 そうかと思うと、狩人は一人で、えものばかりが多くて、弱ったこともあった。あるとき出沢の茨窪《ばらくぼ》の人家の背戸へ一匹の鹿を追いこんだ狩人は、思いがけなく行く手の木立から、雄鹿ばかり七つ、もやもやと角をそろえて走り出したのに、狙いつける的に迷って、ことごとく逸してしまったことがあった。その狩人の話だった、狩りの運は別として、雄鹿が七つ角をそろえて駆け出したところは、にぎやかなもので、見た目だけでも法楽であったという。
 前の話もそうであるが、こうした出来事をすべて山の神の手心というたのである。

七 山のふしぎ

 山の神の手心から、えものを隠.されることは、前の猪の話にもいうた。それとも違って、現在とってそこに置いてあるえものを、ちょっとの間、水を飲みに谷へ下ったりした隙に影もなくなることがあってみれば、ふしぎというよりほかなかった。狩人はそうしたときの用意に、えもののそばを離れるときは、鉄砲と山刀を上に十字に組んでおいた。あるいは半纏などを掛けておくこともあった。鳳来寺山中などで、ときおりそうした目にあった。ヤマイヌの所為ともいうたが、あるいは山男のなす業とも信じられた。
 鳳来寺山は、全山九十九谷といい伝えて、地つづきの牧原御料林を合わせて、ほとんど四里四方にわたる一大密林であった。山中の地獄谷と称する所などは、密林中に高く滝が落ちかかって、風景絶佳であるというたが、一たび奥へ入りこめば、出ることはかなわぬとさえいうた。そのため一部の狩人のほか消息を知る者もなかった。たまたまウナギ釣りにはいった者の話では、思いのほかに谷川のさまがきれいで、かつて釣りを試みた者もあるらしいと語った。ずいぶん久しい前の話らしいが、八名郡|能登瀬《のとせ》村の某家では、牧原御料林から、ふしぎな裸体の青年を二人捕えてきて、農事を手伝わせたという。力.が強くて主人の言いつけをよく守ったが、言葉がさらに通じなくて困ったという。あるいは山男でないかともいうたが、それ以上詳しいことは聞かなかった。
 鳳来寺山から東にあたって、三輪川を隔てた八名郡大一野町の奥の、山吉田村|阿寺《あてら》は、ひどい山間の部落であるが、部落内に七滝《ななたき》という滝があった。その水源である栃の窪からはだなしの山へかけての山中は、昔から狩人がえものを取られるといい伝えた場所だった。現に経験した者はもう聞かなんだが、その山に住むひめん女郎(姫女郎)の仕業というた。しかも一方には、山の主が美しい片脚の上臈《じようろう》という伝説もあった。付近へ入りこむ者が、紙緒の草履を穿いていると、かならず片っぼうを取られたというのである。
 山中で紙緒草履を穿く者もなかったと思われるが、じつは別の話がからんでいたのである。狩りとはなんの関係ももたぬよけいなことだったが、話のついでに、ひめん女郎の伝説の結末をつけておく。
 前いうた七滝の上に、子抱ぎ石の出る個所があった。子抱き石とは、石のなかにさらに別の小石を孕んだものである。子種のない婦人が、そこへいって、一つを拾って懐にして帰れば、懐妊するという言伝えがあった。女連れなどで出かける者も少なくなかった。そのおり紙緒草履を穿いていれば、かならずひめん女郎に取られたというたのである。現に草履を取られて、いつか裸足になっていたという女もあった。

八 鹿に見えた砥石

 姫女郎の仕業かどうかは知らなんだが、丸山某の狩人が明治二十年ごろのこと、瓢来寺山つづぎの、長篠村柿平の山で、仲間二人と追い出して撃った鹿は、確かに右の後肢を傷つけたという。後肢を引きずりながら、山から谷へ、雪の真っ白に降り積もった上を、村の卵塔場を抜けて走り去る姿を明らかに見届けた。それにもかかわらずあとには肢跡こそあれ一滴ののり(血)もこぼれてはいなかった。脂肪の多い猪にはままあることだったが、鹿にはかつてないふしぎであった。さすがに仲間の一人は怖気《おじけ》づいて、再び追うこともきかぬので、そのままついに見のがしたというた。しかしどうしても諦められず、翌日さらに狩り出して、みごと胴中を撃って仕止めたというた。前日撃った弾を調べると膝の骨を打ち砕いていたが、いかにも血の流れたようすはなかったという。
 同じ男がある年の十二月、八名郡|七郷《ななさと》村|名号《みょうご》の山で撃った鷹は、わずか七貫目にたらぬ雄鹿であった。それがときならぬに雪よりも白い斑が肌に現われていたというた。これも山のふしぎであったが、じつはなんでもない病鹿で、夏毛のまま毛替りのせなんだまでであるという。.丸山某は、名代のがむしゃら者だったのである。
 あえてふしぎでもなんでもなかったが、某の男が鳳来寺村の清沢の谷で般ぢた鹿は、二匹つかまってそれがそろって、みごとな四つ又の角をいただいていたというた。鹿の角は三つ又をかぎりとしてあった。形こそ変わったものはあっても、完全に四つ又に分かれたものは、珍しかったのである。
 話はまるで違っていたが、山のふしぎをいちだんと具体化した話が、本宮山《ほんぐうさん》の口碑にあった。本宮山は鳳来寺の西南方にあたって、典混川の西岸に欝えていた高山である。頂上に国幣小社|砥鹿《とが》神社の奥宮があった。祭神は大己貴命《おおむちのみこと》であるが、別に天狗だともいうた。あるとき麓に住む狩人の一人が、鹿を追うて山中に分け入って、最初の鹿はついに見失ったが、べつに谷を隔てて一頭の大鹿の眠れるを見出した。すぐに矢をつがえて放したがさらに手ごたえはなかった。幾度やっても同じなので、不審に思って近づいてみると、じつは鹿と見たのは大なる砥石であった。そのときたちまち神意を感じて、その砥石を神としてまつったという。あるいは鹿に化けていた天狗の話(拙著「三州横山話」参照)などと、関係ある話かとも思われる。
 本宮山には、以前はたくさんの鹿がおったもので、しかもここに産した鹿は、他に比べてはるかに大きかった。俗に本宮鹿というて、特種だったのである。三つ又の鹿ならふつう十七、八貫はあった。一番といえばまず二十貫どころが標準であった。食物の関係でかく大きかったという。角ぶりといい姿といい、申し分のない鹿だったそうである。

九 鹿撃つ狩人
                 
 もう五十年も前に死んだが、東郷村|出沢《すざわ》の鈴木小助という男は、名代の鉄砲上手であったという。屋敷の前のカキの木には、いつも鹿の二つ三つは吊るしてあるほどだった。あるとき家の縁先にいて、二つの鹿を一度に撃ち止めたことがあった。朝まだ床のなかにうとうとしていると、前に起きた女房が、はや向こうの道を引き鹿が通ると呼ぶ声に、むっくり起き上がるや否や、枕元の鉄砲を取って縁先へ出ると、いかにもみごとな雄鹿が二つあとになり先になりして、谷向こうを、谷下《やげ》村へ越す道を登っていった。その鹿が二つ重なり合ったときを待って、打ち放した弾がみごとに手前から後ろの鹿を筒抜けにたおしたというのである。
 小助は名のごとくからだはいたって小さかったが、鉄砲は名人であったといって、いまに噂が残っている。猪鹿買いがえもの払底のおりは、かならず小助の家へやってきて上り端へ寝こんだそうである。するとしぶしぶ支度をして出かけたが、出かけばなに、もし鉄砲が鳴ったら、そのほうへ迎いにお出でというのが癖だった。かつて一度もその言葉に誤りはなかったそうである。小助も鉄砲上手にちがいなかったが、えものもまたよけいにいたことも事実だった。
 小助が鉄砲上手の話はまだあった。そのころ村の梅の窪という所に、性悪キツネがすんでいて、ときどき村の者を悩ましたそうである。そのキツネが、小助の鉄砲ならちっとも恐ろしくないと嘲ったそうである。そして小助の老母に取り憑いて、どうしても離れなんだ。これにはさすがの小助もよわってしまった。そこであるとき鉄耙に紙弾を詰めて、一発天井に向けて放しておいて、こんどは真弾《ほんだま》で撃つとおどしたそうである。それにはキツネが閉口して、明日の朝は間違いなく出ていくからと、誓いをたてたそうである。そんなら確かな証しを見せよと掛け合って、行きがけに屋敷向こうの谷下村へ越す途中で、片肢上げて合図をする約束をさせた。そのかわり撃ってくれるなとキツネが念を押したそうである。承知して朝になるのを待っていた。翌朝早く起きて屋敷から見ていると、いかにも谷下村へ越す坂を、キツネが一匹ぶらりぶらり登っていった、そのうち、ちょうど屋敷の正面あたりへきた所で、いかにも片肢上げて合図をした。そこをドンと一発|欺《だま》し撃ちに撃ってしまったという。この小助の兄弟であったか、あるいは親類であるか判然記憶せぬが、長篠村|浅畑《あさばた》に、某膏五郎という狩人があった。鹿狩りにはやはり名代の剛の者であったという。かくべつ逸話としては聞かなんだが、ある朝起きて戸をあけると、表の真ん中に大きなヤマイヌがすわって、口を開いてなにやら嘆願するようすであった、そばへ寄って口中をあらためてみると太い骨が咽喉に立っている、それを除いてやると、うれしそうに尾を振って立ち去った、そして翌朝になるとみごとな大鹿が門口に持ってきてあった。猪の話のなかにもいうたヤマイヌの報恩話の一つである。

一〇 十二歳の初狩り

 鳳来寺山|行者越《ぎようじやごえ》の一つ家に、五十幾年の狩人生活をおくって、名代のがむしゃら者などといわれた丸山某は現に生きている。行者越は鳳来寺の裏道で、以前は楓来寺から遠江の秋葉山への道者路に当たっていた。昔、役の小角《おづぬ》が開いたという伝説の地で、あるいは小角がここより登ること能わず、引っ返した跡ともいうて、別に行者返りの名もあった。鳳来寺へ一里、麓の湯谷《ゆや》へ一里、文字どおりの一つ家であった。
 会って話している間にも、昔の狩人はこうもあろうかと思われるほど、一本気の気ままさがあった。そして何ものの力をも信じない冷酷さが、言葉の端々にまで感じられた。話のなかでも、てんでこっちのいうことなど耳に入れていないようすで、いいたい放題を甲高い声でしやべっていた。生まれたのはさらに山奥の、北|設楽《したら》郡黒川在で、いまの家へは養子だそうである。
 生家も代々狩人だったそうである。当人が狩りの最初は、十二の年の秋、焼き畑のそばで撃った鹿だった。初めの弾は尻に当たって惜しくも急所をそれたが、つづいて逃げる鹿を追ってゆくと、遙かのたわでイヌが止めていた。そこでアワブキの大木に身をもたせて、第二発をおくると、鹿は谷に向けてころがり落ちたそうである。すぐあとを捜し求めて、フジ蔓を取って横に背負い上げたが、重いのと谷がけわしくて、上ることができない。仕かたがないので、鹿には上衣を脱いで掛け、自身は谷を上って帰ってきた。そして遙かにわが家を望む所まできて、立ち木に上って枝をたたいて合図をしたという。そのおり家で下男同様に使っていた、乞食とも何ともつかぬ男があって、それが迎えにきてくれて運んだ。十六貫七百目あったそうである。その鹿を、さらに五里隔たった津具《つぐ》村の鹿買いの所へ、一人で負って出かけたが、おりよく途中で鹿買いに会って取引をした。二両二分二朱に売れたというていた。
 まだいたいけな十二の年に、十六貫余の鹿を負って歩くほどの者だけに、子どものころから不敵者で、十七のときには、はや家を飛び出した。そして山から山を渡り歩くうち、いまの家へ見こまれて養子になったそうである。若いころからえものを追って、どこともしらぬ山中に、夜を明かしたことは、幾度であったかしれぬ、それでいてさらに疲れることはしらなんだという。鳳来寺山麓の門谷の人々は、この男が山中で、百貫に余る巨大な朽木を負うて歩くのを、ときおり見たというた。会って見た感じでは、痩せ形のもう六十いくつという年輩で、異常な体力を備えているなどとは思えなかった。
 一代の間にとったえものは、鹿だけでも幾百を数えて、一冬に六十二の鹿をとった年もあったという。もう三十年も前のことで、そのころは猟犬のよいのがいたそうである。たかにてじにふじだと、幾度かイヌの名をくり返して聞かせた。なかでも、てじというイヌは、一冬に九貫目以下ではあったが七つの鹿をとったことがあるという。そして一度手負いにすれば、あとはそれらのイヌが追いかけて肢を噛み切ったそうである。クマも七つとったと語った、あるとぎ大木の高い洞にいるのを、一人で登っていって、山刀で前肢をたたき切ってたおしたというた。そのおりの光景を旅の絵師に描かせたというて、粗末な掛け軸を出してきて見せてくれた。悪いから黙ってなにもいわなんだが、功名談とは似もつかぬ、気の毒なほど貧弱なクマと狩人が描いてあった。

一一 一つ家の末路

 丸山某の養家であった行者越の一つ家は、旅籠《はたご》渡世もしたが、じつは代々の狩人であった。養父という人は、狩人こそしていたが、いっぽう、えらい剣術使いで、由ある者の成れの果てだろうともいうた。それで家には鎗長巻きの類が幾振りも飾ってあった。からだは四尺幾寸しかなくて、一眼のちっとも引ぎたたぬ構えであったが、剣をとっては並ぶ者はなかった。行者の又蔵といえば、遠国まで響いていたという。
 どうしたわけで代々こんな所に住んで狩人をしていたかは聞かなんだが、家は草葺きの大きな構えであった。明治維新のおり、この辺にも長州兵が幕府がたの者のあとを追って入りこんだことがあった。抜ぎ身をさげた荒くれ武士が十六人、袴の股立ちをとって鳳来寺道をやってきたときは、街道すじの者は全部戸を締めきってや隠れていたという。その連中が行者越の家へかかったとき、軒に吊るしてある草鞋を抜き身で指して、、いくらかと聞いたことから、店にすわっていた又蔵老人と喧嘩になって、あわや十六人が飛びかかるかと思われたとき、老人が落ちつきはらって名を名乗ると、びっくり這いつくばって無礼を詫びたという。別れぎわに老人が、誰やらにも行者の又蔵からよろしくというと、ヘへっと丁寧に挨拶して去ったなどというた。狩人としての逸話はあまり聞かなんだが、剣術使いとしての話はまだあった。
 あるとき旅の剣客と術比べをやったが、その武士が座敷に突っ立っていて、やっというと天井を一回蹴っていた。これに反して又蔵のほうはやっという間に、二回ずつ蹴って勝ったという。また近くの者がおおぜい集まった席で、誰でもよいからおれを押えてみよというて、畳の下を潜って歩いたが、それが速くてどうしても押えることができなんだという。しかしそれほどの又蔵でも、たった一度失敗したことがあったそうである。横山の某の物持ちとは懇意にしてよく遊びにいった。そしてそこの下男に、隙があったらいつでもおれを打てと約束したそうである。しかしどうしてもその隙がなかったが、ある日のこと又蔵が主人と畑で立ち話をしていた、下男は知らぬ顔で傍らでムギに肥料を掛けていた。そして肥料を掛けながら畝を歩いていって、又蔵の足元へ柄杓の先がいったとき、肥料のはいったまま、ぱっと脚を打つと、さすがに避ける間がなくて着物の裾を肥料だらけにしたという。そのとぎばかりは、おれに油断があったというて、門口したそうである。
 この男の娘が、前いうた養子を迎えたのであるが、女に似げない気丈夫であった。あるとき一人で留守をしていると、深夜に門をたたく者があって、大野からきたが一宿頼みたいという。その言葉に怪しい節があったので、そっと二階に上って外をのぞくと、黒装束の男が九人、手に手に抜ぎ身を持って立っていた。女房は鉄砲を片手に握って、ただいま開けますといいながら、開けると同時にドンと二つ弾を放したそうである。怪しい男たちはそれに驚いて、あわてて前の坂を駆けおりていった。なかに一人腰を抜かした奴があった。あとからまた仲間が引っ返してきて、そ奴を引きずっていったそうである。
 その女房は、もうとっくに死んだそうである。たった一人血統を継いだ男の子があった。もう久しい前であるが雑誌「少年世界」の記者が、健気な少年として誌上に紹介したことがあった。小学校を卒業するとまもなく八名郡大野町へ奉公に出て、その翌年かに、主人の子ども.が川に溺れたのを助けに飛びこんで、ともに溺れて死んでしまった。昔を知る老人たちのなかには、ひどく惜しんでいる者もあると聞いた。しかしもうなんともしようがなかった。数年前その一つ家も、引き払ってしまったそうである。

一二 鹿の玉

 行者越の一つ家がつぶれたのも、じつは鳳来寺の蓑運がおおいに関係したのである。山内に薬師と東照宮をまつり、天台、真言の両学頭が並び立って、千三百五十石の寺封を与えられて全盛をきわめた鳳来寺も、明治の改廃と数度の出火にあって、昔の面影はもうなかったのである。
 明治維新前、鳳来寺がまだ全盛のころのことである。山内十二坊中の岩本院で正月十四日の田楽祭りに、七種《なないろ》の開帳というのがあった。開祖利修仙人が百済から将来した瑠璃の壷、竜の玉、熊の角、鹿の玉、一寸八分の扨、浄瑠璃姫姿見の鏡、東照公佩用の鎧兜の七種で、一人十二文ずつの料金を取って拝観させたという。
 名まえを聞くといずれも珍宝ぞろいであった。その後いかになったか消息を知らぬが、そのなかの鹿の玉だけは、岩本院没落の後、ふしぎなわけで取り残されて、付近の家に秘蔵している。ふとした動機から一度見たことがあった。鶏卵大のやや淡紅色を帯んだ玉で、肌のいかにもなめらかな紛れもない鹿の玉であった。この類のものは、まだほかにもひそかに蔵《しま》ってある家があって、じつは前にも見たことがあったのである。秘蔵者は前から山石本院に縁故のあるものであった。いよいよ没落のおり、方丈がその者を前に呼んで、これだけはこの土地に残しておくとあって、譲られたものという。その一方には、どさくさ紛れに盗み出したなどと、悪口をいう者もあった。いずれにしても伝え残していたのはめでたかった。
 かかるものが、いかにして鹿の肉体中に生じたかは別問題として、土地の言伝えによると、たくさんの鹿が群れ集まって、その玉を角にいただぎ、角から角に渡しかけて興ずるので、これを鹿の玉遊びというて、鹿が無上の法楽であるという。あんな玉を角から角へ渡すのは、容易であるまいなどのことはいっさい、いわぬことにして、さてその玉を家に秘蔵すれば、金銀財宝がおのずから集まりくるという。自分などが聞いた話でも、旧家で物持ちだなどといえば、あそこには鹿の玉があるげななどというた。
 狩りを渡世にした者でも、めったには手にはいらぬ、よくよくの老鹿でないととられないというた。それで一たび手に入れれば、物持ちなどにずいぶん高く売れたそうである。前にいうた行者越の狩人なども、かつて手に入れたことがあると聞いた。
 あるいはそれに生玉死玉の区別があって、いかにみごとでも、鹿を殺してえたものではなんのききめもないという。群鹿が玉遊びに興じている、それでなくばだめだというのである。鳳来寺の岩本院にあったのがそれだと、秘蔵していた老人は改めて手の平に取って見せた。そしてこう握りつめていると、おのずと温《ぬくも》りがあって、かすかに脈が打ってくるなどといってじっと目をつむりながら、ふしぎなる脈を聞こうとするようなふうであった。最後に丁寧に紫の袱紗に包んで、元の箱に納めると、奥まった部屋へ蔵いに立っていった。
 通例玉を秘蔵している者は、金かなどのように、秘密にして、玉があるなどとは、さらにおくびにも出さなんだのである。そうしてこっそり秘蔵している者が、あんがいそちこちの村にあるらしいのである。

一三 浄瑠璃御前と鹿

 鳳来寺の伝説では、光明皇后は鹿の胎内より生まれ給うたとなっている。開祖利修仙人が、かつて西北方にある煙巌山の岩窟に籠もって修法中、一日山上に出でて四方を顧望するうち、たまたま尿を催して、傍らのススキに放したるところ、おりから一匹の雌鹿きたってそのススキを舐め、たちまち孕んだとある。月満ちて玉のごとぎ女子を産んだが、仙人修法中とてその処置に窮し、ひそかにその子を人に託して郷里奈良につかわし、一日あるやんごとなき邸の門前に捨てしむという。その女子成長して後に光明皇后となり給うたが、鹿の胎内に宿り給いしゆえ、生まれながらにして足の指二つに裂け、あたかも鹿の爪のごとくなりしという。皇后これを嘆き給い、宿業滅亡のため鳳来寺に祈願をこめ、兼ねて御染筆の扁額を納め給うというのである。これは「鳳来寺寺記」のなかに載せたことであったが、べつに元祿時代に書いた、同寺所蔵の「掃塵夜話」という写本には、そのこによって、夜々西方山麓の里に一女を設く云々などと、もっともらしく説明してあった。
 しかし自分らが耳で聞いた伝説では、これとはやや趣を異にして、浄瑠璃御前の話になっていた。矢作《やはぎ》の兼高長者が、子のないことを憂いて、薬師堂に十七日の参籠をして、子種を一つ授け給えと祈ったところ、あたかも満願の夜の夢に、薬師は大なる白鹿となって現われ、汝の願いせつなるものあれども、ついに汝に授くべき子種はなければとて、一個の玉を授けらると見て、胎むというのである。また別の話では、薬師が白髪の翁となって現われ、鹿の子を授くと告げて消え失せ給うたともいうた。やがて月満ちて生まれた子が浄瑠璃御前で、輝くごとく美しかったが、足の指が二つに裂けていることを、長者が悲しんで、それを隠すため布をもってその足を纏うておいたが、これが足袋の濫觴であるという。
 いまから三、四十年前までは、浄瑠璃御前一代の譚《はなし》として、そのことを謡った文句をうたっていた者もあったそうであるが、今日では、いかにしてもそれを聞くことはできなかった。また村の所々に、御前の姿を描いた小さな掛けものを、蔵《しま》ってある家もあったという。
 いっぽう鹿の話は、それからそれと糸を引いて、妹背山の入鹿の話にまでもっていった。鳳来寺の東方山麓に、東門谷という山に囲まれた小さな部落があるが、村としでは古かった。そこの弥右衛門某の屋敷の背戸に、いるかが池とて形ばかりの赤錆の浮いた池があったという。鹿が入鹿大臣を産んだ所ゆえにかくいうたとは怪しかった。その池の水を笛に湿して吹けば、いかなる鹿でもと.れるなどというたが、はたしていまも跡があるかどうか「知らぬ。あるいは鹿が子を産んだという伝説と、イルカが子を産んだ話と、いずれかを誤り伝えたかとも考えられる。
 東門谷から峰一つ越えた、鳳来寺村峰の地内にある産田《うぶた》は、前にいうた鹿が皇后を産んだ跡というている。

一四 親鹿の瞳

 開創の始めから、鹿とは因縁ふかい鳳来寺であったが、明治に改まったと思うと、もうばかばかしい鹿をなぶり殺しにした話がある。
 前にもいうた岩本院は、本堂の西方寄り、俗に大難房と呼んだ高い岩壁の下にあって白木造りのりっぱな建物だったそうである。その岩壁の上を、毎朝きまって通る、五、六匹の引き鹿があった。寺男の一人が、とうからそれを知っていたが、なにぶん山内のことで、どうすることもできぬ。そこで生けどりにして山内を引き出せばよいと、かってな理窟を考えた。それである日麓の門谷へおりて、若者たちを語らって、青タケを籠目に組んで、鹿が踏みこんだら動きの取れぬような罠《わな》を掛けたそうである。翌朝いってみると、十四、五貫もある雄鹿が掛かっていた。それを多勢して寄ってたかって首から肢にめちゃくちゃに縄を掛けた。そうして口へはウマにするような轡《くつわ》をはめてしまった。二人の男がその口をとって、多勢が後ろから鹿の尻を打ち打ち、引き出したそうである。そして何百段かの御坂を下って、門、谷の町へ出てきた。軒ごとにそれを見せびらかしながら、正月初駒を引くような気で、あっちこっち多勢の見物のなかを引っ張り回したそうである。鹿はいかにも観念したようで、ちっとも抵抗せなんだそうである。町の有力者の庄田某が、さすがに見かねてその鹿は助けてやってくれと、幾許《いくばく》の金包みを取らしたそうである。しかし若者たちは、その場だけ承知してやがて村端れから再び山のなかへ引きこんで、殺して、煮て食ってしまったという。よくよく鳳来寺も没落の凶兆がきたと語り合った者もあったという。じつは鳳来寺の権威も地に墜ちて、 一山が引っくり返るような騒ぎの、明治四年のことだったそうである。
 まるきりなぶりものではなかったが、狩人のなかには、生まれてまもない小鹿を囮《おとり》にして、親鹿をとる者があった。狩人が夏山を稼げば、崖の下やなぎ(山くずれ)の跡などに、すべりこんでいる子鹿を拾うことがあった。そうしたとぎは、親鹿が近くにいることはわかっているので、すぐ殺さずに、木につないでおいて、ギーギー鳴かせ親鹿をおびき出したのである。親鹿は子鹿の姿が見える問は、幾日でもそこを去らなんだ、どこかしらから、じっと見ていたのである。もし狩人がおればその目を注意しているので、こちらがそれと気づいて瞳と瞳とがあうと、すぐ逃げてしまった。それでこの猟法は、よほどの技巧を要するそうである。何度も失敗を重ねると、ついこちらも意地になって、一日ぐらいその場に寝こんで待つこともあったが、そうなっては、けっして撃てるものではなかったというた。子が捕えられれば、親が見え隠れに見守っていたが、親鹿を撃つと、子鹿がその傍らを離れなんだそうである。イヌでもおれば格別だが、さもないときは、親鹿をかついでくると、あとからついてきたそうである。
 よけいなことだが、子鹿のことをやはりごぼうまたはこんぼうというた。そして二歳鹿の角にまだ枝のないものを、そろまたはそろっぼうというたのである。

一五 鹿の胎児

 肢腰《あしこし》がまだ不完全で、山の岨からすべり落ちるような子鹿は、親鹿一つ捕える囮にもろくろくならなんだが、それがまだ親の胎内にある問は、狩人にとっては別に一匹の鹿をとるよりも利得になったのである。
 鹿の胎児《はらご》をさごというて、その黒焼ぎは婦人の血の道の妙薬として珍重したのである。また鹿の胎籠《はらごも》りともいうて、産後の肥立ちの悪い者などには、このうえの妙薬はないとした。今日ではそう見かけなくなったが、以前はどこの村へいっても真っ蒼い血の気のない顔をした女が一人二人はきっとあったほどで、したがって需要も多かったのである。
 明治初年ごろ、普通の鹿一頭が五十銭か七十銭程度のとぎに、さご一つが七十五銭から一円にも売れたというから、狩人がなにを捨てても孕み鹿に目をつけたのはむりもなかった。そのため一年に一つしかふえぬ鹿の命数を、ちぢめることなど考える余裕はなかったのである。
 さごは春三月、親鹿が肢に脛巾《はばき》を穿いた時期が、もっとも効験があるというた。脛巾を穿くとは鹿の毛替りを形容した言葉であった。鹿は春先き木の芽の吹き始めるころから、冬の間の黒昧を帯んだ毛が抜け始めて、初夏田植えの盛りごろには、すっかり赤毛にかわって、真っ白い斑が現われた。この時期を、五月《さつき》の中鹿《ちゆうじか》というて、鹿が鹿の子を着たというたのである。毛替りは肢の蹄の付け根から始まって、だんだん上へおよぼしてくるので、膝まで替わったときが、すなわち脛巾を穿いたときだった。この時期に遠くから見ると、いかにもカキ色の脛巾を着けたように見えたそうである。月でいうと、そのときさごは五月めであった。ネズミより心もち大きかったが、肌にははや美しい鹿の子の斑が見えた。
 べつに、さごのもっとも効験ある時期を、親鹿の腹を割いて取り出したとき、手の平に載せて眺める程度がよいともいうた。
 晩春花が散り尽くしたころは、さごははやネコほどに成長して、もう生まれるにまもなかった。そうなると効験がうすいというて高くは売れなかった。そこでずるい狩人などは、いま一度皮を剥いで形を小さくした。真っ赤な肉の塊のようなものを、さすがに気がとがめるか、遠い見知らぬ土地へ持ち出して売ったそうである。
 鹿の肉もまた血の道の薬だというたが、角もまた熱さましになるというて、すこしずつ削って用いる者があった。

一六 鹿とる罠

 冬の終りから春先へかけて、鹿が人家の小便壷に付いた。鳳来寺山麓の門谷などでも、以前は夜遅く用足しに出ると、二つ三つぐらいそろって、暗がりへこそこそ影を消す姿を見ることはけっして珍しくなかった。ヤマイヌなどもそうであるが、鹿はことにこの時期に塩分の不足を感じたのである。山中などでも、人が用足したあとを求めて遠くから集まってくるという。
 狩人がはねわという罠で、鹿をとったのはその時期であった。はねわはすなわち跳ね輪で焼き畑近くなどの、だいたい鹿の寄りそうな地を選んで設けたのである。その方法は、まず鹿を吊るし上げるに十分な立ち木を基にして、その前にご(落ち葉)をうず高く掻き集め、落ち葉のめぐりに枯れ枝の類で柵を作った。そして一方口をあけておいて、そこに跳ねを仕掛けたのである。最初に選んだ立ち木を曲げてきて、それにフジ縄で輪をこしらえて罠の口に置き、一方、別のフジ縄をばね仕掛けにして、曲げ木を押えておいたのである。すなわち囲いのなかの落ち葉へ小便をしておく。鹿がきてなかの落ち葉を舐《な》めようと首を差し出すと、ばねに触れてはずれて、曲げ木が元に跳ね返る勢いで、フジ縄の輪で首をくくり上げるのである。なんだか説明がややこしくなったが、要するに小便を舐めにかかる鹿の首を、曲げ木の跳ねる力でくくり上げるのである。
 一人がはねわで鹿を捕えると、われもわれもとそのそばへ仕掛けたそうである。一個所に同じような罠が、三つ四つぐらい並ぶことは珍しくなかったという。しかしあとから真似たものへはふしぎに掛からなんだ。三つも四つも並んだなかで、同じ罠にばかり、三日もつづけて掛かったことがあったという。ふしぎなことに、はねわに掛かったのは雌鹿ばかりで、雄鹿はかつて掛からぬというた。あるいは雄鹿だと角が邪魔になって、うまく輪が首に掛からぬかとも思うが、狩人の一人はそうはいわなんだ。雌鹿のことに子持ち鹿が小便をすいて掛かるというのである。してみれば人の尿に付いたのは、ひとり伝説の雌鹿ばかりではなかった。
 また狩人の話では、そのころの鹿は朝、枯れ草に置いた霜を舐めているという。
 鹿をとる方法には、はねわのほかにやとがあった。やとのことはすでに猪の話に説明したとおりである。それを焼き畑などのわちの陰に置いて、なかに飛び入る鹿を捕ったのである。夏ぶんソバの種ヘナタネを混ぜて播くと、ソバを刈り取った後に、青々と伸びていた。山が冬枯れるに従って、鹿が付いたのである。高く結ったわちに前肢をかけて、なかへ飛び越すとそこにやとの先が鋭く光っていた。朝早く見回りにいくと胸や腹を深く貫かれて、死んでいる鹿を見出すことは珍しくなかった。
 一冬にひとつ畑で、七つもとったなどと、名もないヘぼくた狩人の、手がら話の種にもなったのである。

一七 大蛇と鹿

 大蛇が鹿を追ったという話がいろいろあった。滝川の村から小吹川《こぶきがわ》に沿うて、一里ほど山奥へ入りこんだ所に、小吹《こぶき》という一つ家があった。そこの山には大蛇がすむともっぱらいい伝えたが、かつて鳳来寺村布里から、山越ししてきた男は、行く手にマツの大木が倒れていると思って近づくと、ヘビの胴体だったというた。あるとき滝川の狩人が、朝早くそこへ引き鹿を撃ちにゆくと、見上げるような高い崖の上から鹿がころがり落ちてきた、ふしぎに思って崖の上を仰ぐと、いましも一匹の大蛇が、鎌首を差し出して下をのぞいているのに、びっくりして逃げてきたというた。
 伊那街道すじの、双瀬《ならせ》にもほぼ同じような話があったという。そこに高く切り立ったような崖があって、崖の上が宙に差し出たようになった場所だそうであるが、あるとき狩人がその下に休んでいると、崖の上からなにやらえらい音をさせてきたものがあった。見るとそれが鹿で、前の話と同じようにヘビに追われてきたというのである。同じような話はまだほかでも語られていたが、ただ八名郡石巻村にあったという話だけは、さらにふしぎな物語がついていた。
 ごく新しいことだというて、その者の名まえまで聞いたがもう忘れてしまった。某の狩人が朝暗いうちに起きて、石巻山に鹿撃ちに出かけて、山の中腹の崖の下にいって夜明けを待っていたという。その崖というのはいわゆる懸崖で、高い岩が屋根のように差し出して、崖の上は遙かに峰つづきになっている。あぎとともいって、さらに上には登ることのできぬような地形である。その岩の頭へ姿を見せる鹿を打つためだった。すると夜の明けがたに、思いがけなく、岩の上から、一匹の大鹿がころがり落ちてきた。驚いて崖を見上げると、高い岩の上から、二間もある鎌首を差し出して、恐ろしい大蛇が下をのぞきこんでいた。びっくりしてすぐ鉄砲を取り直して、ヘビを目がけて放したという。すると恐ろしい音をたててヘビは手《た》ぐるように落ちてきて、えらい苦しみをして死んだそうである。狩人はそのまま鹿を引っかついで、どんどん家へ逃げてくると、戸口に女房が真っ青な顔をして倒れていたという。驚いて助け起こしてだんだんわけを聞くと、女房は夫を送り出してから一眠りするうち、夢を見たのである。いましも一匹の大蛇になって鹿を追いかけてゆくと、その鹿が崖の下へころがり落ちたので、上からのぞきこむと、下に狩人がいていきなり鉄砲で自分を撃ったとまでは知っていたそうである。それからは夢中で、床をころがり出して門口までくると、そこに倒れて気を失ったのである。だんだん聞いてみると、男がヘビを撃ったときとちっとも違わなんだというのである。
 なんだかまだ欠けた点があるようである。この話を聞いたのは小学校へ通っているころで、学校へゆく途中だったと思う。自分より四つ五つ年上の子どもが、昨夜中村(宝飯村中村)の伯父が泊まって父に話したのを、脇から聞いたと語ったものである。いまでは子どももその父も死んでしまって、もう詳しいことを聞ぎただすあてもない。同じ八名郡の鳥原は、昔から大きなヘビがたくさんいた所というた。あるとき鹿をくわえた大蛇が、山の裾を、草を押し分けて走ってゆくところを見たという話もあった。

一八 木地屋と鹿の頭
         
 かつて長篠駅から海老《えび》へゆく街道で、道連れになった男があった。いろいろ世間話をするうち、北設楽郡|段嶺《だみね》村の者と知れた。そのおり聞いたことであるが、段嶺の奥の段戸山御料林中の、水晶山の木地屋部落へ入りこんだときに、そこの有力者らしい家に、みごとな鹿の頭が二つ、角づきのまま座敷に飾ってあったそうである。なんとかして一つ譲ってくれぬかと、掛け合ったすえに、三十円まで出すというたが、つい肯わなんだという。なんでもごく新しい木地屋部落で、最初は二、三戸であったのが、たちまち二、三十戸にふえたというた。そこへはじめて木地屋が入りこんだころには、付近の山中に、十五、六ずつも群れになって、遊んでいる鹿を見ることは珍しくなかったそうである。段戸山の鹿は昔から有名であった。つぎの話も同じ山中の話である。
 某の杣が山中の小屋に働いていたときのこと、一日ひどく雪が積もって、仕事ができぬところからぼんやり小屋の前に立っていると、向いの日陰山に、鹿が二匹遊んでいた。そこで退屈凌ぎに仲間を誘い合って、その鹿を遠巻きにして追いたてた。すると鹿は一気に峰を越して逃げてしまったので、みんなして笑いながら小屋へ引っ返してくると、途中の一|叢《むら》切り残した茂みのなかに、なにやらむくむく動くものがある、よくよく見るとそれが鹿の群れであった。およそ二十ばかりもいたというが、尻と尻とを押し合うようにして、木の陰に塊り合っていたそうである。すぐ追い散らしてしまったが、前の鹿を追ったとき、どうして逃げなかったか、ふしぎだというた。日露戦争のすんだ年あたりで、某は三十をすこし出た年輩であった。
 また自分の村の山口某は、山中の杣小屋へ、村から飛脚に立ったとき、途中の金床平《かなとこだいら》の高原でおびただしい鹿を見たというた。途中の田峰村から日を暮らして、金床平へかかったときは、八月十五夜の満月が、昼のように明るかったそうである。見渡すかぎり広々とした草生へかかって、はじめて鹿の群れを見たときは、びっくりしたという。まるで放牧のウマのように、何十と数しれぬ鹿が、月の光を浴びていちめんに散らかっていたそうである。人間のゆくのも知らぬげに、平気で遊んでいたのは、恐ろしくもあったが、見物でもあった。なかには道の中央に立ち塞がったり、脇から後ろを見送っているのもあった。
 夜遅く目的の山小屋へ着いたが、そこへゆくまでの間、高原を出離れてからも、五つ六つぐらい群れになったのには、数えきれぬほどあったというた。明治二十年ごろで、山口某はそのころ二十五、六の青年であった。

一九 鹿の大群
                       
 いまから五十年ばかり前、段戸山中の、菅原《すがひら》の奥の中《なか》の川原で、川狩りの人夫たちが材木を運んでいると、傍らの深いカヤ立てのなかから、木の枝を振りかざした裸形の山男が、大鹿を追いかけてきたという。その連中がだんだん材木を流してきて、自分の村へ宿をとったとき、そのことを語ったそうである。
 この話は、そのなかの川原付近が、もう嘘のように木を切り尽くしてしまった後のことで、さらに三里ほど奥へはいった所のことだった。
 明治三十年の冬だそうである。いつになく寒い年で、この模様では、もう長く山にはおられぬなどというほどだった。某の杣のいた小屋には、仲間が八人いたそうである。前の日までに予定の仕事が終わったので、その朝は早く起きて、新しく持ち場を決めるために、山割りの相談をしたそうである。みんな小屋の前に並んで下の窪を見ながら話をしていた。山の朝はまだ暗かった。しかもその朝にかぎって、窪の底一面に霧が立ちこめている。某の男は他の連中とは一人離れた所から見ていた。じっと見ているうち、霧がもこもこと動くようで、上へ上へとひろがってくる。そしてだんだん近づくに従って、色が薄紅いように変わってくる。じっと見ているうち、アッと声をあげんばかりに驚いたそうである。いままで霧とばかり思っていたのが、何千何百と数かぎりなくつづいた鹿の群れだった。つぎからつぎへ湧いてでもくるように、先登が脇の峰へ向けて、走っていたそうである。そのときはもうみんな気がついていた。そうして誰一人声をたてる者もなかった。じっと立ったまま、その群れが全部通りすぎるまで、見ていたそうである。
 それから急に山が恐ろしくなって、あと一日働いて、全部小屋を引き払ってしまったというた。某はそのとき、二十一か二だったそうである。
 断片的な、とりとめのない話のつづきがついながくなった。きわめて狭い、東三河の一小部分、わずか五方里にたりない間でも、そこに棲息した鹿はおのずから区別があった。北から南へ、鍵形に線を引いた寒峡川、豊川の右岸地方に繁殖した鹿は、川の左岸遠江へかけていた=ものよりはるかに長大であった。前にいうた本宮鹿がそれである。これに反して遠江の山地に近づくに従って、だんだん小さくなって、俗に遠州鹿と称したものは、雄鹿の三つ又でも七、八貫がとまりであった。山に岩石多く食物が十分でないためともいうた。鹿の生活にもまた尸地の利が影響したのである。


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