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緒方竹虎『人間中野正剛』「序に代えて」


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書肆のすすめもあって『人間中野正剛』を上梓することにした。生前の約束の碑文に代えるのであるが、今改めて彼の文章を読むと、精魂を打ち込んだいくつかの名文は、その一行だも割愛することが惜しくなり、ために、出来上った『人間中野正剛』は、ほとんど中野君の遺文集たるに終った。文は人なりというが、彼の文章を読んでいると、彼の面目が、ことに彼の真なるもの、善なるもの、美なるものが、躍如として泛び出て来る。彼の生涯は畢竟修道者の生涯であるが、彼の文章にはその修練工夫の跡が随所ににじみ出ているのである。言は行を顧み、行は言を顧みると言った彼は、王陽明に親しむに至って、知るは行のはじめ、行は知の成るなりと、ついに所信に向って驀直前進した。この意味で、文は中野その人である。
 今この筆を執るに当り、何よりも先に瞼にうかぶのは、親孝行の彼の姿である。特に母堂に対する到らざるなき奉養である。母堂は見るからに蒲柳の質であったが、学生時代、母堂病気の郷信を得ると、彼はほとんど寝ることが出来なかった。私は学生中、いく年か彼と自炊や下宿生活をともにしたが、夜中不意に彼に揺り起こされ、医者でもない私に母堂の病気に対する判断を求められたことも一再でなかった。彼の家庭は、彼のこの親思いを中心に温かな雰囲気の常に感ぜられる家庭であった。
 こうした親思いの中野君であっただけに、彼の自裁を聞いた瞬間、何よりも先に私は母堂を後に残した彼の心事を思わざるを得なかった。中野君の自裁前後の動静については、四男泰雄君の叙述が委曲を尽している。彼の平生を知る私は、泰雄君の書いた「-…・戸は閉った。足音は階段を下りて祖母の室へ消えた。また足音は始まり、憲兵の寝ている座敷を回って再度階段を上り、書斎へ入った。しばらくして足音がまた始まり、階段を下りて自分の部屋の真下に当る寝室へ行き、また書斎へと上って来た。何か落着かぬ足音に、どうしたのだろうと思ったけれども、そのままにしてしまった。この時父は書斎に置いてあった乗馬姿の大楠公の銅像を寝室へ運んだものらしい」とか「十時頃まで書斎で何かしていたが、おそらくは『大西郷全伝』を読み続けていたものであろう。寝室へ下りて行く足音を聞きながら、自分も寝る準備をし、じきに眠ってしまった」という文字の一つ一つに、中野君の傷む心が感じ取れるような気がするのである。中野君の自裁の決意は、憲兵隊で馬鹿げたこしらえ事の告白を強要された時、おそらく一瞬にしてきまったと思われるが、母堂への恩愛の岸頭は、低徊顧望、容易に立ち去り難かったことが想像される。
 しからぽ何が彼を自裁させたか。私は彼の「大塩中斎を憶う」を読んで、初めて、これだ! と彼の心境を察し得た。大塩中斎が、秘愛の書物までも売って窮民を救った時、奉行跡部山城守は、これを賞せぬのみか、かえって大塩の養子格之助を招んで譴責した。さらでも癇癪の強い大塩は怒り心頭に発したに違いないが、しかも大塩は山城守の亡状を聴いても、なぜか憤りを見せず、相顧みて微笑したと伝えられている。この時のことを中野君は「中斎は格之助の被譴を報ずるを聴き、また憤らず、相顧みて微笑せり。父子は暗黙の間すでに意を決せしなり」と書いている。中野君は拘置以来|具《つぶ》さに事件の推移を反芻してみて、日本の政治が今や誰よりも憲兵隊の手に握られており、ただ東条の権勢を維持するために、ただ東条の機嫌を取りむすぶために汲々たる為体《ていたらく》を目の当りに視、非常の憤りを感じた一面、もう日本も駄目だ! と深い絶望の淵に沈んだことが跡付けし得るのである。「陳述無茶、人に迷惑なし」はまさにその絶望の声ではないか。
 私は政治問題について、中野君と意見を異にすることが多かった。中野君は終始それが面白くなかったし、私が足を政界に入れぬことに対しても大いに不満であった。後に聴いたことであるが、彼は数寄屋橋の上に立って、朝日新聞の社屋を見上げながら、傍らの長谷川峻君を顧み、「緒方が朝日新聞の番頭を止め切らぬのでね……」と、長大息したことがあったという。それでも中野君は何か家に変故があると必ず私を呼ぶ。私は彼の父君と長男と次男と細君と、そして最後には彼の葬儀と、五たび彼の家の葬儀委員長をした。というと、死んだ人を前に勝手に貸方にのみ記入するようであるが、私がある年盲腸炎を病んで前田病院に入院すると、今度は彼は、忙しい政治生活の中からほとんど毎日、食べ切れぬほどの見舞品をもって私の病床を訪れた。そして「母がそういうのだがね、貴様の病気を毎日でも見舞って昔通りの仲になると嬉しいとさ」と。大声に笑いながら母堂に託して、デリケートな気持を見せる彼であった。
「シッカリシロ・チチ」の一文の中に見られるように、中野君は非常の子煩悩であった。その心はもちろん了供たちにも映っていた。終戦直後のある日、千葉の独立速射砲大隊にいた三男達彦君が板のように痩せた一頭の馬を曳いて代々木の家に帰ってきた。見ればそれは「天鼓」である。達彦君の話によると、痩せ衰えた「天鼓」はほとんど歩行にも堪えず、千葉からの途上三度までも路上に倒れたのを、いたわりいたわり途中二日を費してたどり着いたとのことであった。「天鼓」は天野少年を乗せて中野君の葬列の先駆を承って以後、間もなく民間では馬糧が手に入らなくなり、中野家から軍に寄付されたものであったが、終戦後除隊に際し、達彦君が偶然群馬のなかにこれを発見し、隊長に乞うて連れ帰ったのであった。さらでだも終戦時の混乱の中に、ほとんど歩行に堪えぬ病馬を曳いて二十里の道を帰ることは決して生優しい苦労ではない。それを敢て達彦君が連れ帰ったのは、達彦君の「天鼓」に対する愛情もさることながら、亡き父の特別に「天鼓」を愛撫した思い出が、達彦君をそうさせたと思われる。父への思慕である。私はこの達彦君と「天鼓」の話を何度か聴かされたが、その度ごとに目を熱くせざるを得なかった。
 その「天鼓」が、今は進駐軍将校の愛撫のうちに繋養され、「シャムロック」と名を改めて進駐軍随一の名馬の名を恣《ほしいまま》にしているのも、桑滄の変を語るといおうか。
 終りに、本書の編集に当り、進藤一馬、長谷川峻両君の与えてくれた協力を心から感謝する。
昭和二十六年十一月
序に代えて
緒方竹虎

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