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緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」


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中野正剛の回想
  中野の碑文
  現状打破の牢騒心
  東洋的熱血児
  竹馬の友
  悍馬御し難し
  打倒東条の決意
  自刃・凄愴の気、面を撲つ


 中野の碑文
「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。
 当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険悪であった。ことに東京を中心にした政府の一味は、極度の神経過敏症に陥っていて、言論出版集会結社等臨時取締法とか、戦時刑事特別法とかの悪法を次ぎ次ぎに制定し、一方憲兵を使って、あらゆる暴圧手段を講じている時であった。中野君の名文「戦時宰相論」を掲載して「東京朝日」が発売禁止になったのもその正月であった。「戦時宰相論」どころか、東条一味の手段をえらばぬ追及が中野君の「東方九拝」の死となったのは、眼前の事実である。中野の肉を啖《くら》わんと欲する東条一味は、私が中野の葬儀委員長になることすら、はなはだ面白くない。これが後の朝日新聞に対する東条、星野らの小細工になったのだと想像されるが、いずれにせよ、その空気のなかで中野君の建碑など思いも寄らぬことであった。しかし建碑はA,すぐ出来ぬにせよ、碑文は草しておかねばならぬ。いつになって建てられるか知れぬが、文だけは中野君の死して灰せざる志を後世に残すことにせねばならぬ。ただ中野君の志を悲しめぽ悲しむほど筆が重くなる。
 ちょうどその時、熱海の徳富翁から書面が来た。見ると、青山の葬儀のあと、多磨墓地に中野君の新塋《しんえい》を弔った。樹紅雨冷一段と感傷をそそるものがあった。ただ墓域がいかにも淋しいと思うが、もし友人で何か企てることがあったら、自分も一枚加えてくれということが書いてある。中野君の墓域は決して立派なものではない。しかしこれを宏壮にしても中野君の寂寥《せきりよう》を慰めることにはならない。それよりも翁にその志があるならば、私と中野との約束には反するかも知れぬが、翁に碑文を草してもらうことによって翁のいわゆる墓域の淋しさを慰めるがよい。交遊の年月はともあれ、中野君の思想志向は、僕とよりは遥かに徳富翁に近かったのだから、地下の中野君も僕の違約を咎《とが》めることはないであろう。と考えると直ぐ、一書を裁して、翁に感慨の新たなる間に碑文を草していただきたい、今すぐに碑を建て得ぬかも知れぬが、碑文だけは頂戴しておきたいと申送った。
 すると折返して翁から返書が来、同時に碑文も封中にあった。それが今多磨墓地にある碑文である。さすがに翁の老手を思わしめた。「中野正剛君昭和十八年十月二十七日代々木ノ邸ニ自裁ス。人ソノ何ノ故タルヲ知ルモノナシ。但シ君ノ遺骸ノ従容《しようよう》トシテ能ク士道ノ規矩《きく》ヲ遵守《じゆんしゆ》シタルヲ見テ偶然ナラサルヲ悲ムノミ……」といい、中野君が何の憤りあって自裁したか、東条との間にいかなる問題を生じていたか、等々の疑問を「ソノ能ク士道ノ規矩ヲ遵守シタルヲ見テ偶然ナラサルヲ悲ムノミ」の一語に蔽うたところに無限の余韻《よいん》を託しているのである。翁はその当時、中野君の同情者中、中野君の死について口を開き得るただ一の人であった。東条もいろんな場合に  宣戦の大詔の文案をはじめ  翁の助言を求めるので、翁には多少の気兼があった。翁もまた海千山千の古強者だけに東条の弾圧のもと、どの程度まで中野の死を弔えるかの限度を知っていた。これが翁に碑文を依頼した一半の理由でもあった。当時の感覚では、私も、さすがに文壇の老手、これならば即刻建碑しても軍憲の弾圧は下るまいと考えた。そこで私は約束と違うが、その幾分の責を償《つぐな》う下心もあって、碑文から書の方に回ったのである。
 しかも、終戦の今日、改めて碑前に立つと、何といっても不十分である。徳富翁の棺前演説も碑文も、当時の空気のなかでは、中野君の友人故旧みな翁の厚誼《こうナき》と文外の感慨に咽《むせ》び泣いたものであるが、今読みなおすといかにも物足りない。それは翁も必ず同感であろう。国民大衆を鼓励してついに太平洋戦争に至らしめたものは、実に中野君の力であったと碑文にあるが、私は中野君が果して戦争論者であったか否かを、今でも疑うのである。昭和十六年十二月八日の朝、西南太平洋において交戦状態に入ったというあのラジオの放送された直後、八時頃、中野君は私のうちに電話をかけて来た。電話口に出ると、「いよいよ始めたようだね、うまくいくかね?」という言葉であった。軍部に嫌われた朝日新聞はとかく阻害されることが多く、新聞として決して自慢にはならぬが、当日朝の紙面はこれを競争紙と較べてすこぶる非時局的のものであった。それだけ私が外に別に情報を持たぬと知るや中野君はガタンと直ちに電話を切った。その時の声が今も私の耳底に残っているが、いかにも自信の乏しい、少くも戦争の結果に危惧を持っているとしか考えられぬ声であった。

 現状打破の牢騒心

 中野君と私とは小学校時代からの友達であり、お互いに何もかも知り抜いた仲であるが、残忍なことを忌むこと中野君よりはなはだしい者はないのである。中野君は一面勇敢である。何物をも怖れない勇者として知られている。それは確かに事実である。しかし、中野君はその半面、血を見ることが非常に嫌いであった。中野君ぐらい一生の中に度々大手術を受けた人は少ない。そのとどのつまりは左脚を失うに至ったのであるが、それでいて中野君は、他人の手術など身を震わして厭がった。民族が民族と血を流し合う戦争など、それだけに、中野君がよろこぶわけがない。太平洋戦争開始の朝、中野君が言うに言われぬ憂鬱を感じたろうことが、私にははっぎりと想像されるのである。戦争が勝つとか敗けるとかよりも、戦争が当然に齎すであろう戦争の悲惨事については、中野君のヒューメーンな心が惻々《そくそく》と動いたからである。軍のなかの腐敗情実、少しく気概あり智略ある将領が、次々に退けられて行く軍の近情を見て、果して戦争が出来るかという危惧もあったろうが、それよりも本能的に戦争を嫌ったのである。私の眼に映る中野君は、馬車馬的の勇者、才気の奔溢《ほんいつ》する中野君でなくて、慈愛に満ちた、残忍なことはそれこそ虫一つ殺すにさえ堪え得ない、極めてデリケートな心の持主であった。
 しからば中野君は何故に日独伊同盟を主張し、わざわざヒトラー、ムソリーニに面会のため欧州旅行を企てたのか。これは私にも十分の説明が出来ない。ただ中野君は、若くして犬養、頭山に随って中国の辛亥《しんがい》革命に赴き、現地で孫文、黄興の風采に接して以来、強いアジァ解放の主張を持つようになった。上海で書いた「孫逸仙黄興両氏の風采」という文章を読むと、夢の多かった当時二十六歳の中野君の風貌が彷彿《ほうふつ》として眼前に浮んで来る。
 第一次世界大戦当時イギリスに留学した中野君は、ロイド・ジョージ、チャーチル等の政治家としての器量には傾倒したが、帰途、船の寄る港という港がことごとくイギリスの領土であるのを見て、アジア民族のために名状し難い感慨を催したことも事実である。二度目の欧州旅行──パリ講和会議の視察に際し、ロソドンでガンバシチなる一国際説客と邂逅《かいこう》し交游《こうゆう》を重ねて以来、彼のアジア解放論はさらに油を注がれた観があった。ガンバシチは、中野君のいうところによればジョルジア人で、当時いかなる背景のもどに活躍していたのか知る由もないが、ガンバシチの国際現状打破論が若い東洋の一熱血児に影響を与えたことは争えなかった。この中野君の中に燃えるアジア解放の思想が、彼の日独伊同盟論の何らかの機縁をなしたことは容易に想像される。日独伊同盟の締結は、確かに太平洋戦争を不可避の結論に追い込むものであったし、彼の戦争嫌いと日独伊同盟論とはいささか両立しないのであるが、その点については、日独伊同盟によって米国の参戦を牽制し得ると考えた近衛と同じ錯覚に陥っていたとしか考えられないのである。
 加藤高明の憲政会と床次一派の政友本党が合同して民政党となったが、その民政党の名付け親は中野正剛である。議会中心政治というその頃としては新しい言葉を唱え出したのも中野であった。それほど議会民主主義の徹底を主張した中野君が、掌《たなごころ》を翻すごとくナチス政治を謳歌するのは、何といっても変説改論たるを蔽えない。しかし中野にしてみれば、今日の政党で結局主流をなすものは俗論である。いかなる名論も名国策も、ただ一場の喝采を博することはあっても、党の政策として表われるものは、いつも反対の方嚮《ほうこう》を指している。これでは政治は改革される時がないではないか、というのである。これは自らの体験に基く結論である。
 中野君は学生時代から犬養木堂の門に出入し、大正九年初めて代議士に当選した時も革新倶楽部員としてであった。犬養氏と中野君とは傾向の似たところがあるし、犬養の指導下の革新倶楽部は、少くも客観的に見て中野君の政治的|磊塊《らいかい》をやるに相応しいとこうと思われた。しかるに久しからずして中野君は安達謙蔵氏に接近し、その紹介によって憲政会に入党したのである。この出処に対する批評はしばらくおくとして、中野君はこの時を劃して政党主義に帰依《きえ》したのである。憲政会に入党した後の中野君の活動はもとより相当花々しいものてあった。張作霖爆死事件に関し、田中総理大臣を向うに回しての予算委員会における一問一答は、議会史あって以来のめざましい論戦で、ほとんど田中首相を気死せしむるものであった。中野君の闘士としての名声はこれによって一時に揚り、田中内閣が潰えて浜口内閣が出現したについても、この追及が一原因をなしたとさえ言われたのである。しかるに得意の絶頂にあるべき中野君は、浜口内閣の末期頃からすでに民政党に慊《あきた》らない様子が見えた。それには、田中内閣倒壊の論功行賞について多少の不満もあったろうと思う。実際、逓信政務次官は中野君にとっては役不足とみえた。当時すでに満州事変を孕《はら》んだ国内の動向、特に軍の動きに刺戟された点もあったであろう。いずれにしても一片の牢騒心が政界の現状に安んじ得なくなったことは蔽えない。
 この現状に安んじ得ない牢騒心が、やがて安達を舁《かつ》いでの若槻内閣倒壊運動となり、民政党を安達らとともに脱して国民同盟を結成した。次いで国民同盟にも不満で直参の同志とともに東方会を組織し、東条内閣の政事結社禁止とともに一時翼賛政治会に投じたが、戦時刑事特別法等非常立法問題でたちまち会の最高幹部と衝突し、旧同志とともに思想結社東方同志会に拠った。清瀬一郎君は当時中野君に対し、「君はいつもオルドブルか精々スープまでで出て行くが、今度は珈琲をのむまで辛抱してはどうか」と慰留したそうであるが、そうした情勢に一刻も辛抱できないのが中野君であった。
 つらつら中野君の行動の跡を見ると、政党政治家として最も損な進退のみで、いわゆる玄人政治家の指笑に値するのであるが、多感なる彼は一念発起することに到底周辺のことを功利的に考えておれないのである。政治家としての生活力からいえば、彼は桜内、頼母木級はさておき、永井、大麻級の足許にも及ばない。自ら身の察々をもって物の■々《ぼんぼん》に堪えぬと感ずるのは、畢竟政治家としての生活力不足に半ば淵源するといってもよいであろう。この生活力の欠如と現状に満足し得ない牢騒心とが中野を枢軸論に向って拍車し、昭和十二年ヒトラー、ムソリー二訪問のための彼の欧州旅行にまで脱線させたものとしか考えられない。彼の平生を知る私には、彼のファッショ擬《まが》いの黒いユニフォーム、ナチのハーヶンクロイツに似た徽章、それからその独伊巡礼等々、すべて憑きものがしたとしか思えなかった。後にベルリン駐剳を命ぜられ、スターリソの粛清にかかって最期を遂げたソ連のユレネフ大使が私にこういうことを言ったことがある。「中野はディクテーターシップの主張者だが、彼自身は人情味の厚いリベラリストに過ぎない」と。彼らの眼から見れば、まさにそうであったに違いない。

東洋的熱血児

 中野君はどこまでも多情多感の多血児であった。この点から理性的で常識主義な議会政治は彼の好みに投じなかったかも知れないが、さればといって、冷血的な独裁政治など到底彼に出来るものではなかった。その意味で彼は天性政治家でなかったともいえる。それは彼の儒学的教養から来ている。多数決政治は彼の性急な性質に合わなかったが、有司専制的な、官僚政治を彼は最も憎んだ。官僚制度を嫌ったばかりでない、官僚その人までも彼は憎悪した。彼の談論中、その官僚攻撃の時ほど熱することはない。彼のこの傾向は彼の血の中に流れていた。彼は中学時代常に級中二三番を下らない秀才であったが、彼は当時中学卒業の秀才が概ね官立の高等学校を志すのに反して、初めから早稲田大学を選んだ。当時はまだ、私立大学というと、官立大学に入学すべく成績不十分なものか、しからざれば落第坊主の入る学校とされていた。それだけに、彼が優秀な成績をもちながら早稲田大学に入学したことは、一種の反逆児ででもあるかのごとくに人の注目を惹いた。彼は早稲田在学中も官学の学生に拮抗して断じて一籌《いつちゆう》も輸すまいとした。そのために彼は非常に勉強した。私は中野君とは小学校以来の友達であり、中学時代においてもいわゆる勉強虫的でない秀才としての中野を知っていたのであるが、私は東京に来て初めて彼と起居を共にし、牛込の下宿で五分芯|洋灯《ランプ》を共用するようになって、実は彼の勉強家なるに驚いたのである。彼の眼には官僚およびその卵である官学学生は一の出世主義者としか映じなかった。そのために彼は多方面に数多くの友人を持っていたにかかわらず、官界には遂に最後までほとんど友人らしい友人を持たなかった。私は彼に対し、彼が政治家を志す以上、日本の政治組織の中に善かれ悪かれ一つの存在である属僚制度、それを形作る官僚を軽視するのはよろしくないと説いたことがあるが、彼は表面同意するがごとく見せて、少しも私の注意を容れた模様はなく、終生官僚嫌いであり、官僚出身の友人を持たなかった。
 こうした彼は最も西郷南洲を景仰した。彼には、浴衣に胸をはだけて日本犬を伴った西郷の風采が、何ともたまらなく好きなのである。その村夫子的な形をいうのではない。その形に帰納された西郷の心境に共鳴を感ずるのである。彼は文章家である。漢字を自由に駆使して絢爛な文章を作ることにおいて彼は当代ほとんど比儔《ひちゆう》を見ない。その彼の数多い文章中、最も彼の面目の躍如たるものとして、私は「西郷南洲」(それは南洲五十年記念祭典に際して鹿児島で行った講演の草稿)と「大塩平八郎を憶う」を推すのであるが、「西郷南洲」中彼はこう述べている。
 「岩崎谷の洞窟をご覧になった諸君は定めてお眼に止まったでありましょう。あの途に見ゆる鉄道の隧道の上に彫みつけられた南洲翁の筆蹟は実に『敬天愛人』の四字であります。これは南洲の好んで書かれた文字でありますが、敬天愛人とは何と情趣ある文字ではありませんか。深き人間性の根柢を把握したる者でなければ、到底こんな文句は浮んで来ないのであります。そこらの維新の元勲達に書かせたら、大概『忠君愛国』の四字ぐらいで片づくるでありましょう。忠君愛国はもとより神聖であります。しかし忠君愛国の行動の主体は人間にあります。敬天愛人はこの人間性の深いところを捉えたもので、忠君愛国よりは今一つ奥のところを言っているのであります。南洲翁は忠誠無類の人でありました。また愛国的情熱家でありました。しかしながらその一身を挺して忠君愛国の大任に当るべき自己の修養は、奥深い人間性に尋ね入っているので、そこに敬天愛人というゆかしい音色が出て来るのであります」
と南洲の心奥を尋ね、そしてさらに南洲の修養の極致を究めてこう書いている。
 「浄光妙寺には南洲翁の墓を囲みて、桐野、村田以下十年役戦歿者の墓が、塁々として立ち並んでおります。その中には十六歳を年少とし、同姓の兄弟三人までも討死した墓石も見出されます。肥後、日向、薩摩を通じて、戦死者の墓は九千に達するとか称せられています。……しかし岩崎谷の最後まで南洲翁にお供した門人子弟達が事敗れ、死に面しても、一人のこれを恨む者なく、身の負傷をも疲労をも打ち忘れて、先生のこのお姿がお痛ましいとて、互いに涙を催したと伝えられております。
 南洲翁はその子弟達とは反対に自分一身の進みかたで、かくも一万数千の人の子を損うたことに対し、実に忍びざるの思いがあって心で泣いておられたでありましょう。この忍びざるの心こそは数千の子弟をして命を捧げて悔いざらしむる神秘的引力でありまして、五十年後の今日『南洲翁は謀叛する気はなかった、門人達に誤られたのだ』などという軽薄な言葉を泉下に甘受することは、南洲翁としてどうしても出来ないところであろうと思います。現在では一婦人の愛を得れば、これと共に水に投じて悔いざる青年もあります。その説くところの恋愛至上主義も心を虚しうして承われば、かえって同情すべき点があります。しかるに南洲翁は鬼をもひしぐ血気の若者一万人に囲繞《いじよう》せられ、その崇敬、その愛着の的となりて、神仙のごとく死するにおいて、大丈夫の本懐これに過ぎたるはなしといわねばなりません。勝海舟翁が『腕の力も試しみて、心にかかることもなし』と羨望的嘆声を発せられたのももっとも千万であります」
中野君はこの心境にまで達したい念願に堪えなかった。彼の「大塩平八郎を憶う」は「時事日に非にして大塩中斎を憶う」と書き起して、
 「見よ今時において理を究めんとするの学者はこれあり、しかれども彼らは理のために理を究むるのみ、天地を貫く大至誠に立脚するに非ざるなり、したがって終始一貫せる志なるものを見るあたわざるなり。すなわち志専一ならざるが故に理義の学も根本に徹底せず、理を談ずれば即ち口頭の理となり、義を説けば、則ち筆端の義に止まるのみ。また看よ今の時において、市井の勇夫は乏しからず、しかれども彼らは単に血気のために動かさるるのみ。毫《ごう》も志の師たるべき理義の究明に工夫を用いず、すなわち理義なき志はようやくにして専らなるあたわず、志もっぱらならざるが故に気もまた■《おとろ》え、遂に碌々たる窮措大《きゆうそだい》となり終るのみ。かの自由民権論の勃興以後、所在に命的活劇を演じたる壮士的政客が、今日窮するに及びて、権力者の走狗となるに至りし者、比々としてこれが適例ならざるはなし。
  大塩中斎は最初大阪の与力の家に養われて官職に従事せしも、三十七歳にして職を辞せしより以後、仁智を修め、理気を養い、聖賢をもって志となすの人勇猛心を起せり。彼が天保の饑饉に際会せる頃、学問ようやく老熟せんとし、その著書のごときすでに天下の学者をして敬服せしむるものありき。しかも彼が齢不惑を超えて乱を起して死を辞せざるに至りしは、彼が講学の疎《おろそか》なるに非ずして、彼が熱誠の已むを得ざるものあればなり。
  姚江《ようこう》の学は由来知行合一を主とし、理義一元を信条とす。ここにおいてか知は行の始めなり、行は知の成るなりと称し、真に知る者は行を併せ伴うをもって要件となす。故にその学徒は往々理義を究むるにおいて、浅薄に流るるの弊ありといえど、学者をして単刀直入、その正鵠《せいこく》を得しむる点において、我が旧幕の官学たりし朱子学に勝ること数等なりしとなす。同じく陽明学をもって鳴る者の間、中江藤樹は最初孝経を読みて孝において徹底せんとし、熊沢蕃山は経世の学を喜び、治国安民において徹底せんとし、大塩中斎は資性任侠、奸邪を懲《こ》らし、無辜《むこ》を救うにおいて徹底せんとせり」

 これは大塩中斎の志を憶うと同時に、彼自身の志を述べているのである。中野君は最初のイギリス留学以来努めて英書を読み、また、清水芳太郎その他周囲の雋秀《せんしゆう》から日夕新知識の輸血を受けたが、修養は結局年とともに儒学に帰ったようであった。蘇東坡であったろうか、人生字を知るは憂患の初めと教えたが、彼が少壮儒学を郷先生について読み噛ったことは、彼をして終生憂患の子たらしめた。しかも、彼が文章家であるだけ、西郷南洲も大塩中斎も一たび彼の筆端に上ると、層一層美化され、理想化される。その美化され理想化された南洲、中斎を目標とするのであるから、彼の精進をもってしてもなかなかその境地に達しようはずはない。世のいわゆる名士、政治家というような者も、これに較べれば品等の差違、とてもお話にならない。彼の憂患はそれだけ募る。彼は生れながら勝れた才気を有し、曲豆かな天分に恵まれていた。したがって到るところ必ず頭角を露《あらわ》し、いわく犬養毅、いわく三浦梧楼、いわく池辺吉太郎、いわく頭山満、いわく安達謙蔵、いわく金子雪斎、いわく三宅雪嶺、いわく徳富蘇峰等々新聞界、政治界到るところの先輩に珍重がられ愛せられ、彼もまたこれら先輩に一時非常に傾倒した。しかし彼のこれら先輩に対する熱情傾倒は多くは久しからずして冷め、私の知る限りにおいて、彼が死に至るまで推服してかわらなかったのは、大連振東学社の金子雪斎ただ一人のようであった。一例を挙げれば、彼が「亜細亜の風雲児孫文」を論じた文章である。彼がそのなかに、

「犬養木堂翁と会見すべく、その代人と面談せるは、故旧を辿ったのであろう。借問す、今日の犬養サンは今日の孫君と何を談じようとしたのか。孫君は、当年そのままの孫君である。犬養サンは別物である。近来理想を棄てて工作に忙わしく、宗教の必要を説き、都合によっては軍閥の寵児田中義一を推し立てて、次の超然内閣でも見ようとする先生である。この先生の代人と会談して孫君は何を得たであろう。最もその場だけの相槌《あいつち》と座談の巧妙に至っては、犬養系独特の壇場、孫君は案外素直に感心したかも知れない」
 と書いているのは、早稲田の破れ書生時代から革新倶楽部時代までの犬養、中野の関係を知るものをして、顔を背けしめずに措《お》かないであろう。この彼のややもすれば先輩を凌轢《りようれき》しようとする癖は、彼の亡恩的態度として時々批判に上るのであるが、これは必ずしも彼の悪い癖ばかりでなく、彼が自らの筆先で理想化し美化した西郷や大塩とその先輩の心事とを対比してはなはだ物足らなくなることが、主たる理由であることを認めてやらねばならぬ。もとより彼自身はこの水中の月を獲ようとし、それが獲られぬばかりに一生を憂患のうちに終ったのである。彼にして今少しくお座なりであり、大勢順応であったなら、彼は民政党のなかにあっても、翼賛政治会の中にあってもつとに首領株として重用されたであろう。彼が大臣たることを欲したと否とにかかわらず、少くも永井柳太郎と同列には大臣になっていたに相違ないのである。
 政治家を志す以上、大臣になることを避くべき理由はない。彼は少くも一度は大臣にもなり、政党の総裁にもなろうと考えた。それが幾日かの苦吟の後に犬養との関係を絶ち切り、安達の紹介を得て憲政会  後の民政党  に入党した所以だった。しかも、いざという場合、目をつぶって大勢順応的になり得ないところに、過を見て仁を知るというか、彼の真面目があるのである。彼には幾万の若いファンの常に彼を囲繞《いじよう》するものがあると同時に、いわゆる玄人筋の敵が多かった。しかしいかに彼を非難する者といえども、彼が政治家として一つの理想を描き、ひたむきにそれに向って精進したことを非難することは出来ないであろう。彼は酒は飲まず、煙草も吸わず、もちろん声色はこれを遠ざけ、道楽としてはただ馬を愛し馬にのることのみ。乏しい財布から書生を養い、その書生本位の家庭の健全なことと、そのピューリタン的生活とにおいて、今の政治家中彼と伍し得る者はあまり多くはないはずである。

竹馬の友

 彼は家庭的にはなはだ恵まれなかった。彼の細君は三宅雪嶺博士の愛嬢で貞淑無比の賢夫人であり、結婚当時は世間にその幸福を羨まれた家庭であったが、長男は前穂高を縦走中奇禍に遭い、次いで次男も急病に死し、彼自身は医師の粗忽《そこつ》から左脚を切断せねぼならぬようなことになり、最愛の夫人は久しく病褥《びようじよく》に親んだ上、ついに不帰の客となった。彼が宴会酒を好まぬのは、この左脚を切断したことから来る坐作の不自由にも何がしか原因するであろうが、憂患に満ちた彼は盃盤の間に無駄話で時間を費すことを極度に悪んだ。私などは彼の孤独を気の毒に思って時々茶屋に誘ったこともあるが、彼は終始盃盤に馴染まず、むしろ真から迷惑そうなのである。彼といえども茶屋酒を知らぬわけではない。若い時分には私らと一緒に神楽坂あたりを右往左往したこともある。しかし晩年の彼はただただ克己復礼、寸陰を惜しんで西郷や大塩の理想を趁《お》い、天下民人のために憂うるがごとくであった。彼は甫《はじ》めて二十四歳、朝野の政治家を品隲《ひんしつ》して『八面鋒』を著し、二十八歳にして『明治民権史論』を世に問い、筆端のほとばしるところ、ずいぶん不必要に敵を作ったようであった。しかし、これらの讐も、よく世間の批判に上る諸先輩との関係も、所詮は、彼の目標があまりに高かったからに他ならぬ。彼自身もまた、メリー・ゴー・ラウンドの木馬が幾回回っても前の馬に追付けぬと同様、終世理想の人物、理想の政治を趁い回しながら、及び得ない憂患のうちに過したのである。
 私と中野君とはいわば竹馬の友である。理窟抜きの友人である。われわれの郷里福岡というところは、昔から武道の盛んなところで、われわれの中学時代は、未だ正科にこそはなっていなかったが、中学に入学すると、体育として柔道か剣道かをやらなければならなかった。そして、この柔道をやるか剣道をやるかによって、交游も一生の方嚮もおのずから別れた。いわば柔道の方は武断派で剣道の方は文治派であった。中野君はいつも柔道派の親玉であり、私は終始剣道をやった。しかし中野君は柔道派でありながら文章を書いては校内に並ぶものがなく、見るから才気煥発の生徒であった。そこに普通の柔道連と違って剣道派と相通ずるところがあり、ことに私は小学校時代からの友人として懇意であった。東京に遊学してからもほとんど終始同じ下宿または自炊生活の机を並べ、私が朝日新聞に入社したのも、全く中野君の推輓によるものであった。しかるにこういう莫逆《ばくぎやく》の間柄でありながら、性格的、傾向的にはまた不思議に一致しなかった。私から見れば中野君は始終あまりに焦りがちに見える。中野君は常に私の鈍重が喰い足りないようであらた。これが私としては一つの悩みであったが、かくのごとく性格の違うことが互いに補い合って二人の交游をかえって長からしめるのだと自ら慰めた。中野君は中学時代から治国平天下を唱えていた。私は蘭学の流れをくむ比較的自由な家庭に育ったためか、中学の初年頃から中国を相手に商売をすることを志としていた。当時は福岡でも東京でも、黒木綿の紋付羽織というものが書牛の風を做《な》していたが、私は母にねだってわざと茶縞の羽織を拵えてもらったりした。
 中野君は中学を卒えると、前にも述べたごとく、当時の秀才の行き途と違って早稲田に入った。私は多年の志望で東京高等商業に入学した。その頃よく私は中野君に、将来君の政治資金ぱ僕が中国質易で儲けて出してやるなど冗談口を叩いたものである。しかし、共同生活が長くなるにつれ、覇気の強い中野君は私の商業学校通学に反対を始め、早稲田に転向しろと勧め出した。彼は将来日本の政治を左右する時代を夢に描き、不器用な私までも幕僚に使おうと考え出したのであろう。私も初めは問題にも何にもしなかったが、当時高商の校風に失望を感じ出していた事情もあって、いつか中野君に動かされるようになり、帰郷して一年遊んだ後早稲田に転学、これも中野君の強い勧めによって早稲田を出ると同時に朝日新聞社に入社した。私としては全然予期しなかったコースの変更である。
 ところで入社してすぐ感じたことは、中野君が斬然儕輩《ざんぜんせいはい》の間に頭角を抽《ぬき》んでてはいるが、何となしに皆と游離した特異の立場にいることである。艦隊の運動は最も船足の遅い軍艦標準でなければ初めから成立たない。そうでなくて旗艦がその優秀の性能に任せて突っぱしれば、艦隊は置いてけぼりになって運動は支離滅裂になるに決っている。これは、ひとり艦隊運動の場合ばかりでなく、すべての集団生活においていつもそうであろう。新聞社といえどもそこに纏まった雰囲気が出来ていなければ、十分の活動は出来ない。しかるに中野君の性格として最遅足艦標準に甘んじていることは到底出来ないのである。中野君は新聞記者としてもちろん優秀であるが、その船足に任せて突っ走るが故に、取残された遅足艦は自然一緒に固ってその立場を守ろうとする。この微妙な関係が、私の入社当時の中野君と皆の游離した状態だったと思われる。

悍馬御し難し

 私の入社した翌年夏が明治天皇の崩御で、そのまた翌年一月は、いわゆる大正の政変、桂公が宮中から出て内閣を組織し、憲政擁護運動の勃発となった。この大正の政変は、果して桂公に幼天子を挟んで宮中府中を壟断《ろうだん》せんとするような野心があったのか、したがって果して大袈裟な憲政擁護を叫ぶほどの理由があったのか、いささか疑問であるが、とにかく、薩長藩閥に対する多年の反感と、久しぶりに木堂、咢堂が、馬を陣頭に駢《なら》べたというので、全国津々浦々沸《たぎ》り返る大騒ぎで、桂内閣はこの運動の前に一溜りもなく潰えてしまった。
 中野君は当時覇気満々の少壮記者で、初めから憲政擁護運動の謀議にも与り、運動が燎原《りようげん》の火のごとく燃え盛っただけに、社内にあっても儕輩を睥睨《へいげい》するかの概があった。しかしその結果は、何となく社内では中野の憲政擁護運動のようになって、表に賛成を示していても、仕事の上においては進んで協力する者がはなはだ少なく、毎日夕刻になると、なおいくつもの仕事が残っているにかかわらず、編輯局から一人去り二人去り、政友会が山本内閣と妥協した当夜のごとき、中野君と私とただ二人で、一ページの政治面を夜明けまでかかって埋めたことさえあった。この社内の空気と相容れなくなったことが、後に、中野君の京城特派員(当時は未だ京城特派員と称した)任命となり、欧米遊学となり、遂に退社の一原因とまでなったのであるが、理由はもちろん相手側により多くあるにせよ、中野君の態度にも反省すべきものがあると、私自身が足弱組の一人であるだけに、この頃から中野君のために考え始めたのであった。
 私は本来商人になるつもりで、新聞記者になろうなどとは夢想だもしなかった。その反対に、中野君は中学時代から新聞記者志望で、また天成の新聞記者ともいうべき資質を具えていた。その私がその後三十五年も新聞社の飯を食うようになり、中野君が早く新聞社を見棄ててしまったことを今でも私は時々残念に思うのである。しかし、新聞記者を見棄てたことはよいとして、中野君が政治界に入った後も、いつも朝日新聞を去った時と同じような心境のうちに、革新倶楽部から民政党、民政党から国民同盟、東方会と同じような去就を繰返したのではないかと、彼の志を悲しむの情に堪えなかった。生前も露骨に言い合ったのであるから、私の妄評《ぼうひよう》を許すと思うが、私をして言わしむれば、畢竟中野君の新聞記者としてのスタートがあまりに花々しかっただけに、中野君は同僚と相親しみ、それと苦しみをともにする機会を失ったのである。中野君が二十四歳初めて「朝野の政治家」を「東京朝日」紙上に連載しはじめた時、世間はその絢爛の筆に斉しく目を瞠《みは》って、筆者は主筆池辺三山だろうと噂した。ところが筆名「戎蛮馬」の主が無名の一記者中野正剛であることを知るに及んで、世間は改めてこの鬼才の出現に驚くとともに、中野君は一躍して天下の名士となり、政界新聞界の上層部に持てはやされ出し、その時以後、中野君はいわば遅足艦の同僚と相並んで下積みの苦労を味わう機会を失したのである。
 中野君を批評する者は、よく彼は苦労が足りなかったという。しかし、それは事実でない。中野君の家は福岡黒田藩の御船方という小さい十族であったが、何か商売上の失敗で、中野君は早稲田に入学すると間もなく、自ら学資を稼がねばならぬ境遇に置かれていた。彼はその頃から,後に郭松齢の反張作霖戦争で死んだ林長民と相知り、林長民のためにノートをとってやり、今日いう「アルバイト」によってわずかながら学資を得ていたようである。また岑春喧の子の岑徳広を自宅に置いており、これは犬養翁あたりから依頼されたものらしかったが、幾分生計のためとも思われた。
 こうした次第で、彼は学生時代から決して楽学ではなかった。世の中に出た後といえども新聞社の薄給で両親と二弟二妹の生活を支えていくことは、普通の意味での相当の苦労であったし、ことに、左脚切断に至っては、精神的に肉体的に彼にとってどんな苦痛であったか。医師の粗忽の後、脱疽《だつそ》ようの症状を呈して遂に切断の余儀なきに至るまでの約四ヵ月、夜となく昼となく激痛にさいなまれて紙のように痩せ細る彼に対し、全く慰めるに言葉がなかった。私はいつとはなしにパントポン、スコポラミンという鎮痛剤の名を覚えてしまった。人間の耐え得る痛苦の限界を見るような気がした。彼自身も切断して苦痛がやや怠《おこた》ると、微笑いながら「おれも今度は方針を変える」と従来の独善性急を悔いるがごとくであった。しかし、すっかり全快すると、これらの苦労や苦痛も彼に何の影響も与えていなかった。
 浜口内閣が出来た時、中野君は小泉逓相の下に政務次官に選任された。浜口内閣は、張作霖爆死事件に田中内閣が躓《つまず》いて倒れた後を承けたのである。したがって議会で爆死問題を暴露し、田中首相を追及して政変の原因を作った中野は、普通の政党の仁義からいえば、いかなる地位もいわば取るに任せらるべきだった。しかるに書記官長はおろか、どの大臣も進んで中野を政務次官にもらおうという者がないのである。悍馬に引っかけられるより小馬を甘く御しようという人情であろう。そこで已むことを得ず安達謙蔵氏が小泉又次郎氏を説いて、中野をその政務次官たらしめたのである。その時小泉の中野を説いた言葉は実に苦労人らしいものであった。いわく「自分はご承知のように本来無学の一老漢に過ぎない。大臣などとはいわゆる沐猴《もくこへつ》の冠するものである。しかし政党というところはまた一個別の世界で、党歴も無視出来ぬというのか、今度自分は逓信大臣を仰付《おおせつ》かることになった。しかし、どう自惚《うぬぽ》れても自分は大臣の柄でない。そこで、そんなら中野正剛を政務次官にするという条件で、実は大臣を引受けた。僕の大臣の下に君の次官、どう考えても小自然は分っているが、どうであろう、党の都合もあるようだし、一つ辛抱して承諾してもらえまいか。その代り事実は君が大臣で僕が次官、政務は一切君に切り盛りを任せ、僕は主として党との調整に当る」と。頭の早い中野は小泉の厚誼を感じとって即座に政務次官を引受けた。しかも「事実」大臣は任官するや、直ちに宿論の電話国有民営案を下僚に命じて立案せしめ、それが井上蔵相の反対に会うて閣議で否決となるや、即日、辞表を出して真に弊履《へいり》のごとくに政務次官を捨て去った。そして中野君としてはこれが官途についた最後であった。
 覇気の強い彼は、朝日新聞を退く時も、その後幾回かの機会にも、私に行動をともにすることを勧めた。学生時代と同様、馬首を並べて政界を馳駆《ちく》しようということのようであった。しかし私はその都度熟考して断った。中野君はこれが非常に不満であった。私を引込み思案だとした。私はそれに相違ないのであるが、彼と行動をともにしたが最後、彼の期待に背くのはともかくとして、結局小学校以来の彼との交游を断絶するに至ることを怖れたのである。はなはだ水臭い話ではあるが、彼と事をともにしさえしなければ、我々の交游は永久に持続し得る。問題は彼の希望に添うて彼の政治活動を助けるか、彼の意思に反しても友誼を永久にするかであるが、私は彼とのある関頭に立って、彼の意思に反しても自分の方からは断じて交りを絶たぬ事を決意した。世間には、たまたま公の立場を異にするがために、いわゆる莫逆の交りさえも断つ例がよくある。私はこれをはなはだ悲しむべきことと考えたのだ。
 中野君と私とは、私がイギリスから帰ってからしばらくの間、中野君が民政党を脱するまでを除いては、終始意見を異にしたといってもよい。私がイギリスから帰った後の一年くらいは中野君も私の意見に耳を傾けた。私は当時第一次世界大戦後のイギリスに一、二年滞在し、イギリスはじめ各国に漲《みなぎ》る革命理論や議会改革論を聞きかじって、ある程度進歩的な考えを懐いていた。
 中野君が民政党結成当時、相当徹底した議会民主主義を唱えたのには、多少私の影響があったかと思う。中野君と私の交游五十年の間、多少とも私の影響が彼に及んだのはこの時だけである。しかし、前にも述べたように、中野君は間もなく政党主義を見限った。社会大衆党と東方会との合同が失敗に帰した時、その責任を負うというて議員を辞職した。その後、昭和十七年の総選挙に際し、私は彼の政界改革論の何たるにかかわらず、現実の問題として、政治に志す者が議席を持たぬ不利を説いて彼の再起を勧めた時も、非常に躊躇した後、やっと立候補したような次第であった。彼が議会主義を見限った頃から、重大な去就についてはほとんど私に相談しなくなった。それは徹底議会民主主義に彼が一時傾いたことが私の影響によったことの反動とも考えられた。それは政治的動きの場合のみでない。例えぽ彼が左脚を切断するに至った最初の手術の場合には、全然相談しなかった。彼がもし相談していたら、私は絶対賛成しなかったであろう。何かにつけ意見の相違して来たことを予め知った彼は、なるべく私の反対論を聴かずにいたいと思うようであった。この辺に彼の他人から想像し難いデリケートな心遣いのあることを、私は常に察した。したがってその以後は、自然中野君と会見する機会も少なくなった。しかしほとんど政治以外に興味を有しない中野君であるから、たまに会えば必ず政治論を闘わす。政治を論ずればほとんどきまって結論を異にする。中野君の性格がひたむきの性格であるだけ、これでは遂に政治論の相違から、交游まで傷《そこな》うことになりはしないかを、私はある頃から心配し出した。そこである日、私は中野君と晩餐をとりながら、爾後乗馬に関する話以外語らぬようにしようではないかと、真面目に提案した。中野君も笑いながらこの提案に賛成した。馬の話をしていればお互いに少年の心のまま何のこだわりもなく話が出来たからである。
 私が乗馬に熱中し自馬を持つようになったのは、中野君の左脚切断後のことであった。私は息子思いの中野母堂の希望もあって、馬に乗ることも自馬を持ったことも中野君に秘していた。しかるにいつとはなしにこれを聴き知った中野君は、いろいろと工夫して義足で乗馬を始めたばかりか、遊佐将軍に頼んで自馬をも購入した。遊佐将軍に対する註文は、緒方の「グラソド」よりも優秀な馬ということだったそうである。グランドは強悍過ぎて交配に際し牝馬を噛み殺したことで有名な輸入種牡馬ガロンの血を引いた馬で、当時一応は乗馬界に名の通った馬であった。このグランド以上の馬として最初に持った中野君の自馬が有名な「金剛」であった。中野君は金剛の繋養についても十全の注意を払った。そしてある秋の自馬共進会では見事に一等賞を贏《か》ち得た。馬術についても邸内に四十間に十五間の見事な埒馬場《らちばば》を作り、遊佐将軍にも勧めて近所に住んでもらうことにし、おまけに宮内省主馬寮から瀬理町秀雄君をもらって来て丸抱えにし、毎日といいたいが、実は一日の半ぽを馬場で費すくらい乗馬に熱中した。それだけ馬術も上達した。ついには低いながらも義足で障碍飛越までもやるようになった。代々木の原で襲歩を追うことがことに得意であった。普通人では義足でこれだけ馬に乗ることは、思いも寄らぬことである。かくて中野君は昭和十六年興亜馬事大会にも我々と一緒に天覧馬術に出場した。
 義足で馬に乗ったものには、イタリーのエンリコ・ドテーがある。これは中野君が陸軍の軍人に頼んでわざわざ調べたことである。ドテーは鉄道技師であるが、第一次大戦中一度傷ついて倒れ、再び出陣を志願して、今度は義足で馬に乗ってオーストリーの戦線に向い、乱軍の中に壮烈の戦死を遂げたことが歴史に残っている。彼は片脚で馬に乗り得たものは、イタリーのエンリコ・ドテーと、日本の中野だといって得意であった。

打倒東条の決意

 中野君がいよいよ打倒東条の決意を固めたのは、東条内閣が推薦議員制を考えた時だと思われる。これより先き、東条内閣が言論出版集会結社等臨時取締法案を議会に提出した時も、中野君および東方会は真向からこれに反対したが、推薦選挙によって一挙に議会を骨抜きにし、軍閥独善のもと全く国民の口を塞こうとするのを見て、遂に堪忍袋の緒を切らしたようであった。中野君は民政党生活を体験して逆に政党革新論者になったが、軍閥の驕慢が議会を無用化し、国を誤るのを座視し得なくなったのである。しかし、東方会の反対にかかわらず、推薦選挙は実行された。そして、全面的に推薦を拒否した東方会は四十八名の候補者を立ててわずかに六名の当選者を得たに過ぎなかった。しかも、政府は追い討ち的に言論出版集会結社等臨時取締法に基いて、政治結社は翼賛政治会一本という方針を決し、東方会に解散を命じた。ここにおいて中野君は沈潜幾日かの熟慮の後、遂に東条軍閥政治に対する宣戦布告を決意した。それが十七年十二月二十一日の日比谷公会堂における時局批判大演説会である。これは名は演説会であるが、実際は文字通り東条内閣に対する宣戦であった。
 これより中野の身辺多事となるはいうを要しないが、それを知ってなお已むあたわざるは彼の修養である。西郷、大塩を理想とする中野は平生好んで陽明学の書を読んだ。陽明学はある意味において英雄的心学である。彼の陽明学的工夫は、賢貞の細君を喪《うしな》って孤独となった以後の精進によって大いに進み、ことに社大党工作に失敗し、希望を議会に絶つに至って急速の進境を示したようであった。知はこれ行の始、行はこれ知の成るなりは、もはや中野君においては、口頭筆端の理義ではなかった。彼の東条に対する宣戦は、したがって政治論でない。政治論は妥協を許すが、学問の理義に妥協はなかった。中野君は西郷を論じ大塩を論ずる時、幾たびか死の問題に触れ、「至誠は往々にして打算の外に超越す、天地を燬《や》きつくす大情熱は、死に至らざれば休止せず」と書いている。私は中野君の死の心境が東条内閣に対する宣戦布告の時にすでに開けていたのではないかを時々思わざるを得ない。
 十八年正月元旦の「朝日新聞」に、中野君は「戦時宰相論」を草した。中野君は当時このことを語って、君の新聞に頼まれたので考えてみたが、引受けて三日間はどうしても構想が立たない。四円目の朝、四時頃目が覚めたので、今日もし構想が立たなければ、不面目ではあるが新聞の締切もあるので断る他ないと思っていると、ふと諸葛孔明の前出師表を思い浮べ、誦《そら》んじて「先帝臣が謹慎を知る、故に崩ずるに臨んで臣に託するに大事をもってす」に至り、この「謹慎」ズとばかり直ちに床を蹴って筆をとったところ、実にすらすらと四十分にして書くことが出来た。一文の趣旨は「東条に謹慎を求むるにあるのだ」と語っていた。「戦時宰相論」は一字の無駄もない荘重な名文章であった。そこには粛殺《しゆくさつ》の気の人に迫るものはあるが、反戦とか変乱の示唆とか政府の酔譁に触るべきものは何物もない。したがって東条の一顰《いちびん》一笑を極度に病んだ当時の検閲官憲すら何らの危惧なく明けて通したのであった。しかるに驕慢の極に達した東条は朝食の卓上これを一見するなり、怒気満面、傍らの電話機を取Lげ、彼自ら情報局に「朝日新聞」の発売禁止を命じたのである。驕慢の彼に中野正剛の名が端的に目障りだったのであろう。
 日比谷の演説によって口を封ぜられ、「戦時宰相論」によって筆を折られた中野君は、もはや端的に東条内閣を倒す以外に彼の主張を活かす道はなかった。これが彼の逮捕の原因となった重臣工作である。しかし、私はこのいわゆる重臣工作が果してどこまで具体化されていたかを疑っている。それは中野側の熱意でなく、重臣側の態度である。韓非子は「説難」を説いて、人に説くことの難いのは、我知我弁の我意を明らかにするの難きにあらず、聞く人の心が自分の説こうとしているところを聞こうとしているか否かを知るの難きなりと、皮肉な論鋒を弄しているが、中野君の重臣説得の場合も、果して中野君が感じとったごとく、対手側が動こうとしていたかどうか。当時の客観情勢と人とから今に大きな疑問なきを得ない。中野君と重臣層と、その情熱も誠意も相平均していたことが想像されないのである。
 当時東京憲兵隊の弾圧目標は、東条政権を脅かすものとして、近衛、中野及びその一党を消すことにあったと伝えられる。近衛は常に重臣を動かすものとして、中野は国民大衆を反東条に導くものとして。これは間接ではあるが、憲兵隊から出た話であるから本当であろう。

自刃・凄愴の気、面を撲つ

 中野君は、昭和十八年十月二十七日午前零時、代々木の自邸で自刃した。その前夜、弟の秀人君から、兄が帰って来たという電話があった。私は直ぐ訪問をしようとしたが、秀人君は大分疲れているようだから明朝にして欲しいと私を止めた。しかるに翌二十七日早朝、けたたましく電話のベルが鳴るので、出てみると同じ秀人君であるが、彼特有のたどたどしい口調で、㎝、大変悪いことをお知らせします」と冒頭して、「兄は昨夜見事に割腹して死にました。はなはだ恐縮ですが、直ぐお出でを願えませんか」とのことである。私は愕然としたが、「それでは直ぐ行く」と答えて電話を切った。
 私が最後に中野君に会ったのは、彼が警視庁に拘引される前日の十月二十日、彼と私の名で弓削田精一翁の追悼小集を帝国ホテルで催した時であるが、その時彼は主人の一人でありながら遅れて出席し、宴が終ると同時に、そそくさと引揚げたので、同じ卓子の両端から目礼を交わしたのみで、何が彼を多忙ならしめているかを聞く遑《しとま》もなかった。したがって一体何の理由によって逮捕されたかも知り得なかったのであるが、ただ自刃と聴いた瞬間、遂に東条によって殺されたなと思った。
 中野邸の手前に十字路がある。そこまで行くと秀人君が立っていて、憲兵が一切の訪問客をいれぬようだと耳扣ちしてくれた。私は、かりに中野君がいかなる犯罪を犯したにせよ、死んだ以上、恩讐ともに消えてなくなったはずで、友人の見舞も犠さぬという法があるものかと、自動車を構わず乗り付けると、なるほど数人の憲兵か私服かが門内に佇《たたず》んでいたが、誰何を受けることもなく、玄関に通ることが出来た。
 中野君の遺骸は細君の位牌の安置してある部屋に、その時すでに前田友助博士の一応の手当が済んで安らかに横たえられていたが、閾《しきい》寄りの畳に残る血糊の痕、自刃に臨み脚の悪い中野君が身を支えたと思われる安楽椅子の斑々たる手形、凄愴《せいそう》の気、面を撲つ。私は遺骸に訣別しながら、激憤と鳴咽《おえつ》をいかんともし得なかった。
 中野君はなぜ自刃したか。これは今もなお世間的には一つの謎であるらしい。その頃、頭山翁に宛てた世に出せない遺書があったという噂が飛んだ。しかし、どういう遺書があったかについては、私が最もよく知っている。頭山あての遺書というのは「護国」と封筒に大書し、頭山翁に開封してもらえと副書きしたものをいうのであろう。これは頭山満、三宅雪嶺をはじめ私に至るまで、先輩友人の名を書き列ねた丈余の手紙で、例えぽ遊佐幸平の肩には「馬のことよろしく」というように多くは俗事に関する遺志であった。「誰にも迷惑をかげておらぬ」と書いてあるのがあるいはこの遺書の目的であったかも知れない。
 私は遺書らしい遺書のなかったところに、中野君の心境を察し得る気がするのである。彼の自刃した室の卓上には『大西郷全伝』が拡げてあった。彼は『大西郷全伝』のうちに彼のいわゆる神仙のごとき死の境涯を見ようとしたのであろう。中野君の理想とする大塩中斎は幕吏と戦って衆寡敵せず、爆薬を抱いて自ら爆死した。中野君が「断・十二時」まさに刀を把《と》る時、大塩の幻が中野君の脳裡を徂徠しなかったかを時々私は考える。
 私は中野君の葬儀委員長になった時、中野君の葬儀が非常の盛儀であったならば、中野君が東条政府に勝ったことになるのだと考えた。政府も無論それを知るが故に、あらゆる方法で会葬者を少なからしめようとした。まず新聞記事の取扱いを制限した。東方会員の弔問会葬のため上京する者を地方各駅で検束した。中野自刃の裏には不敬事件があるなど放送した。軍人はもちろん、都下の学生団体にも、警察官を通じて会葬を禁止する旨伝えた。中野を殺した返り血を浴びて悚毛《おじげ》をふるった形である。葬儀委員長たる私に対しても、いろんな厭がらせを行い、どこまでも個人たる中野正剛の葬儀にしてくれと、代々木署長らの辞を尽した懇請であった。「中野は東方会だけの中野でなく、私も東方会員でないから葬儀は無論個人中野正剛の葬儀だ」と答えてやった。そうかと思うと、星野書記官長からH代議士を通じ「東条総理の供物《くもつ》を受けてくれるだろうか」と聞いて来たりした。私は「死んでしまえば恩讐ともにない。厚意あるお供えなら何人のお供えも受けるが、予《あらかじ》め受けるか受けぬかを聞くことがおかしいじゃないか」と答えたが、東条の名による供物ぱついに形を見せなかった。
 葬儀は中野君の愛馬「天鼓」に天野少年が騎乗して先頭し、ありし日に中野君が逍遥したであろう神宮参道から外苑を迂回し、沿道の人々の目送に応えながら青山斎場に着き、そこで厳粛に行われた。乗物の不自由な時であったにかかわらず、大臣、重臣、議会人、官吏、新聞社関係、労働者、浪人、学生等々、無慮二万人。カーキ色だけは一人もいなかった。
 中野が東条に勝ったのだ。

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