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緒方竹虎『人間中野正剛』「人間中野正剛」

緒方竹虎『人間中野正剛』「人間中野正剛」


人間中野正剛
 魂の告白
  「シッカリシロ・チチ」
 残された父の心に



人間中野正剛
魂の告白
 中野君が長男克明君を前穂高に喪った時、血涙をしぼりながら認めた追憶の文がこの「シッカリシロ・チチ」である。人間中野正剛を露呈した名文である。

 「シッカリシロ・チチ」

   糟糠の妻、糟糠の子
長男|克明《かつあき》、去る七月十七日、北アルプス前穂高なる北尾根の険を縦走中、第四ピークに差しかかる頃、岩石とともに墜落すること約一千尺、満十七歳二ヵ月の若い身空で、電光の去りしがごとくたちまち不帰の客となった。四大空に帰するか、魂魄故郷に還るか、雄心滅せずして長《とこし》えに天地の間に磅砥《ほうはく》たるか、自分はこの迷いに確答を与うべき科学を持っている。ただ藹々《あいあい》たる彼が笑容、昂然たる彼が雄姿、朗々たる彼が声調、眼の前に、耳の底に髣髴として残留し、寸時も我が胸臆を離れない。彼なお活けるがごとく、幽冥相隔てて長えに心の接触を霊感する。自分はかつて骨肉の喪を悲しんだ、友の難を悲しんだ、さらにまた社会国家のために憂い、かつ悲しんだと思っていた。しかし、その時には自分という一の主体が、骨肉、友人、社会、国家という対象物を憂い、かつ悲しんでいるのであった。しかるに今度は、自分自体が魂を打ちのめされて、心臓を抉り取られて、形骸のみ茫然として存在しているようである。自分は生年四十五歳にして始めて真の悲しみに沈潜した。
 克明は大正三年五月十日、朝鮮京城なる南山の下に呱々の声を挙げた。当時自分は二十九歳、朝日新聞の特派員として、彼地に駐在していたのである。その頃の自分の生活はまことにささやかなものであった。自分はわずかの収入で、東京の父母弟妹と、京城の新家庭と二つの生活を支えねばならなかった。しかし、自分は当時壮年の意気に燃えていた。「総督政治論」は、自分が熱血をそそいだ文章の一つであった。満鮮を通じてシナを見、東亜を通じて世界を見、最近の機会に欧米に遊ぼうと意気込み、真剣に勉強していた。
 克明はこんな生活の際、糟糠の妻が生んだ糟糠の子である。書経を繙いて「克《ク》明二《カニス》俊徳一」の句を得、これに則りて克明と命名した。克明が生い立ちの歴史には、一家夫妻が刻苦の跡がまざまざと織り込まれている。在京の母上が克明の誕生に手伝うべく、単身遥々出かけて来られたこと、自分が釜山の埠頭に出迎えてステッキ打振りながら懐かしの母に合図したこと、母上が過労のため京城に病み、久しく癒えざりしこと、京城を引揚げて東京に帰る時、妻と自分とが克明を携え、釜山のランチで夜の風波に悩まされたこと、幾ばくもなく老父母と家族とを妻に托して、二年間の外遊に出かけたこと、外遊から帰りし後、新聞社を辞して放浪したこと、「東方時論」の孤塁に立て籠ったこと、選挙に出馬して一敗地に塗れたこと、その前後母と克明とがしばしば病みしこと、消化不良の幼児をおんぶして、妻が大井町鹿島谷の森を朝夕逍遥したこと、突如パリ会議の風雲を望んで再び外遊したこと、等々。奮闘の歴史は小さい人生の崎嶇《きく》に彩られている。もとよりこの間自分はほとんど家庭を顧みる暇とてもなかった。
 しかし克明は老父母や妻の愛情にひたりながら、のびのびと生長した。幼稚園でも、小学校でも、聡明で活澄で、何ごとにも級中に先だっていた。自分は彼に対して渾身の愛情をそそいでいた。しかしそれを表現して彼に感じさせる心身の余裕さえもなかった。
 克明が日記の中に「秋の夜」と題した短文がある。尋常五年生の十二歳の時の筆である。「つるべ落しの秋の日がくれて暗い夜のとばりがおろされました。狭い路地にも広い道路にも……またひろい庭園にも狭い家にも……。夜になってからの家は静かでした。窓によりかかって街灯の光が暗い庭をとおして、ボンヤリくもって、目にうつるのを見ました.、ロンアにある父も今こういうようなことをして故郷のことを考えているかしら……。草間の虫の声も淋しく清らかに庭を流れる」これは自分が大正十四年露領から満蒙、シナへ三ヵ月の長い旅を続けた留守中における幼児の感想文である。自分はこの間絵葉書一枚も滅多に出しはしなかった。呑気な父はシベリアの旅中「霜は軍営に満ちて秋気清し」を賦する雅懐もなかったのに、頑是なぎ稚子は窓に倚りて、淋しくも遠征の父を憶っていたか。「克《ク》明二《ニシ》俊徳《ヲ》一|以《テ》親二《シム》九族《ヲ》」という克明の名にはずいぶん重い精神上の負担が投げかけてある。我子はこの重責を肩に担っていそしみ励み、かつ感じ、かつ笑い、かつ泣いていたことであろう。愚かなる父よ、爾の神経と感情とは、余りに粗硬であって、繊細なる現代少年の頭にしんみりとしなかったではなかったか。

本然の父に帰る

 自分は所謂九州男児である、封建的武士道の影響を多分に受けている。喜怒色に現われずという方は一向うまく型にはまらなかったが、愛情と哀愁とを人の前で見せることははなはだしぎ男子の恥辱なるかに習性づけられている。そこにはなはだしい無理があるのではないか、自己の弱点を蔽わんがための怯儒なる衒耀《げんよう》があるのではないか、その無理と衒耀とがあるから最愛の子に対する愛情すら、融け込むように働かなかったのではなかろうか。
 自分は外科手術後の保養のため七月四日、前田病院から湯河原の伊藤旅館に引き移り、二週間滞在の予定であった。克明は入院中しばしば病院を訪れた。肩と頸筋が凝ると言っていたら、スポーツ按摩をしてあげようとて、懇切に揉んでくれた。彼を最後に見たのは退院の前々日たる七月二日であった。その時にも得意のスポーツ按摩を施し、見舞品のメロンを驚くほど飽食し、弟らを顧みて、どうだ果物は旨いだろう、親の恩が解ったろうと戯れて哄笑した。克明は湯河原には来なかった。試験で忙がしい上に自分の病状について憂うべき点がなかったためであろう。
 七月十日に試験は終えた、彼は、先発の友人を追いて即夜山地に向って出発した。克明が山に行ったのは今度で四回目である。今年は特に元気よく、制服はリュックサックを担うに窮屈だとて、自分が着古しの背広を母に請い受け、八貫に余る重荷を背負いて得意満面であったそうだ。彼は十七歳を超ゆること、二ヵ月であったが、身長は五尺五寸許り、筋骨あくまで逞しく、体格も体力もすでに父よりは勝れていた。ちょうど次男の雄志が蓼科の高原に行くので、打ち並びてリュックサックを背負い、折柄の豪雨を衝いて出発した姿は、我子ながらも頼もしいように見えたと妻は語っていた。それが出発より一週間目の十七日に、前穂高の第四ピークで難に遭うたのである。
「今朝九時カツアキ穂高より落つ捜索中応援一人頼む」との第一報が宅に達したのが午後三時過ぎであった。「発見した。生命あり楽観を許さず」の第二報が到着したのは午後十一時頃であったそうだ。上高地まで人を馳せて打電させるのだから、報告が遅れるのは当然である。東京の留守宅では悲報を手にしながら、病後の自分を驚かさざらんことに、余程心を悩ましたらしい。自分にこの悲しむべき事件が打明けられたのは、第二報によりてやや希望の幻影が見えた後である。それとも知らぬ自分は明日帰京の下準備に身体を慣らすべく、夕方より小田原までドライヴした。来訪の弟秀人及び白仁、進藤両君と同行である。暮靄《ぽあい》は伊豆半島の山々を埋め、やがて五月雨に煙る海面まで暗くなって来た。自動車内に電灯をつけると、外が暗いので硝子窓は鏡の作用をする。鏡に映った自分の顔、何と不運な、何と悲観的な、何と寂寞な色を漂わしていたことか。自分は克明の悲報など夢にも思わなかったのに、なぜかあの夕方ほど自己の姿を哀れに寂しく見たことはない。
 七月十七日午後十二時頃、東京電話と長い間話した進藤君は、極めて冷静に、極めて保留した語調で、克明の遭難を打あけた。しかして身命に別条なし、涸沢小屋に収容中、明日松本に着く予定と力強く言葉を結んだ。自分はその言葉通りに、否その言葉を自己の希望で潤色して、生命は大丈夫、疵も重からずと盲断した。そしてドライヴより帰りて会談中の人々に対し、例の武士道的頑張りが無意識に現われて、「山に登らずとも街頭ででも死ぬ時は死ぬ、大丈夫だろう、驚くことはない」と言い放ち、翌日午前十時十分、東京着の列車で帰京した。湯河原を発するに先だち、克明へは上高地気付にて、激励の電報を発した。
 東京に着いたら家族関係の人々が多数出迎えてくれた。民政党の山道幹事長まで来てくれている。杉浦武雄君の顔色の悪かったこと、まるで活きた人ではない。いろいろの挨拶がすでにお悔みのそれに近い。自分は悲しむべき事実をそのまま受け入れ得ない自己欺瞞の楽観的判断と、人の前で弱味を見せたくないという痩我慢の衒耀《げんよう》とに囚われていた。そしてそれが一つになって極めて強そうな挨拶となって現われた。三木喜延君が新橋駅から宅への自動車内でその後の消息を添えて報告してくれた。
 七月十八日午前十時半頃家に帰って座敷に通ると、見舞の客でごった返している。妻は自分と出で違いに午前九時の列車で松本に向ったそうで、母のみおどおどして控えている。三男四男いずれも失神したような姿で来客の間にまじっている。自分はこの災厄防禦の総司令官であるかのごとく、座敷の椅子にドッカリ腰を下した。前日来の報告によれば早朝涸沢を発し、午前十一時頃までに上高地へ到着すべしとのことであった。しかるに、涸沢小屋出発の報告が一向届かない。午頃になって報告が来た。
「ひとまず涸沢小屋を出発し、牧場小屋に向ったが容体急変したので、豪雨を衝いて引返した」云々と。三時頃まで続く報告がない。上高地から誰が打った電報か解らぬが、「出発当時より容体よし、呻きながら話す」と。これは大分良好である。その他新聞社からの電話、警保局長からの報告等々を綜合すると、克明は頭部、顔部、胸部、肘などに重傷を負うたが、意識は明瞭で生命には別条なかるべしとのことである。生命に別条はないか、馬鹿にならねばよい……男の子だから顔はどうでもよい……これが少しよさそうな消息を得た時の親が望蜀《ぽうしよく》の念であった。
 突如三時半頃から消息が切れた。不安は人々の胸を襲うて来た。種々の推測を下して、一喜一憂する。自分は鐘つくような胸を鎮めて、極めて冷静らしく、来客と応対した。
 六時に上高地よりの電話、新聞社よりの通知、ほとんど同時に吉報をもたらした。
「涸沢小屋にて克明を見し新聞記者の直話によれば、克明は毛布に巻かれて看護を受けつつありしが、全く危険を脱せしが故に、上高地へ移すこととなれり、午後八時には到着すべし」と。
 三宅(雪嶺博士)の祖父母も来客の間に交って愁眉を開いた。自分らも上高地へ着くという八時が待ち遠しかった。そしていよいよはっきりした消息が知りたかった。八時を過ぐる十五分、案外早く電話がかかった。進藤君が電話口に出た。話がいやに長く続く、漏れ聞ゆる進藤君の声に生気がない。自分は早くも凶報なることに感づいた。進藤君は座敷に帰って来た。どうだと力強く問うたら、悄然としてためらいながら「いけませんでした」と答えた。克明は午後六時十八分、上高地に至る中途にて、担架の上で亡き人の数に入ったのだ。三宅の祖母は泣き出した。来客も声を潤した。座敷は愁雲に包まれた。自分は無意識に悲しみを噛み殺して来客に応答し、直ちに遭難地への妻に気を確かにもてと打電した。
 深更にして客は散じた。自分は悲痛せる老母を傷ましく思い、親類の人々を付添わせて休んでもらった。また十二歳の三男と十歳の四男とが寂しかろうと思い、進藤君と山本君とに頼み、妻に代りて子供らと一所の蚊帳に寝てもらった。みなの者を片づけると、今度は急に我身の置き場がないのを感じた。午前三時頃まで克明を念じて小さい写真の前に坐った。寝もされぬ、坐ってもおれぬ。意気地のない話だが、東方時論時代からの同志三木喜延君に頼んで一つの蚊帳に入ってもらい、語り明して、やる瀬なき身を始末しようとした。
 明け方になってほんの束の間ほどまどろんだ。たちまち寝部屋に進み来る足音は克明そのままである、足音の主人はためらいながら敷居をまたいで蚊帳の外に立った。それは克明でなく二男の雄志である。兄が遭難の報を聞いて蓼科から帰って来たのだ。彼は石地蔵のように立って動かない。自分は、「雄志帰って来たか、克明は死んだぞ、まあここへ来い」と叫んだ。雄志は入って来た。三男の達彦、四男の泰雄、いずれも雄志とともに自分がいる蚊帳に滑り込んだ。兄弟三人相擁し、父を囲んで無言のまま泣き出した。三木君は見かねて席を外した。自分は一昨日夜悲報を耳にしてから、昨日一日と今朝まで、悲哀を噛み殺し、涙を呑み込んで、天晴れ厳父《げんぷ》振りを示していたが、この時に至って涙の堰は一度に決潰した。三人を膝元に引寄せて心行くまで泣いた。「父が泣くのを見たのは始めてだろう、今日は泣くぞ、兄弟三人力を合せて克明の分まで泣き尽すのだぞ」
 自分は悲報を得ても人前では泣かぬほど、不自然な厳父であった。それが本然の父に帰った。否な愚かなる父に帰った。克明の生前なぜ、早く自然を流露《りゆうろ》して、父が無限の愛情を表現してやらなかったか。
      ×
 自分が厳父振りを維持していれば、子供の遭難など一私人の私事を公の雑誌になど書くものでない。しかし今の自分は本然の父である、愚かなる父である、浅ましの凡夫である、恥かしながら公人たる自分は、今公事を思う心もなく、私事の悲しみに惑溺している。そこで夢がさめるまで少しく書こう、恥かしながら書こう。

憐れなるかな小丈夫

 僕には種々な友人がある。青年団の団長で、日蓮宗の僧で、近頃岡山県で寺持ちになっている若者がある。彼は父の時にも来合せたが、今度も偶然上京中なので、克明の通夜に読経をしてくれた。自分は仏教のみならず、宗教には無関心である。しかし朗々として読まるる日蓮宗の邦語体経文に耳を澄ました。それは豪僧日蓮の気焔である、いわく「三界は火宅である、老病死その他の悲しみに満ち満ちている。凡夫は平常これを悟らずしてあさましく振舞いながら、一朝肉親の不幸にでも遭うと、わが身ばかりのことなるかに嘆き悲しみ、自ら慰むるところを知らない。しかるに釈尊は衆生の悲しみを一身に引受け、幾千年の後なる幾億万の人々の嘆きを、慈眼を開いて尽く見そなわしたのである。日蓮はこの釈尊と同様である。亡き人の霊を確かに引受けて成仏させてやる。疑うことなかれ、この日蓮が確かに引受ける」と。自分はこの読経を聴きながら考えた。釈尊ならず、日蓮ならずとも、三界の火宅に住する社会衆生の苦痛を除くことは、まさに我々の任務である。我々はそれを物質的に救おうというのだ。しかるに釈尊はその悲しみの心を救おうというのである。心だけを救うて物質を救わずに終れば、それは社会苦に対する単なるあぎらめとなってしまう、もしそのあきらめで社会苦に対する憤りを鎮めてしまえば、現実社会を向上さする推進力がなくなってしまう、だから宗教は阿片だなど罵る国があるのだ。しかし子を失った親の心は、物質では救われない。そこにやるせなき悲しみがある。その凡夫の悲しみを引受けて、日蓮和尚は、大胆に宣言した、おれが引受ける、おれが成仏させてやる、三途の川の辺りにたたずみておれが確かに手を引いてやると。弱き衆生はこれで安心するだろう。遺族が安心することは即ち亡き人が成仏することだ。日蓮はおれが引受けたと買って出たところがえらい。今日の日本を、今日の世界を、おれが確かに引受けると、買って出る人傑こそ実に、衆生の渇仰するところだ。
 いやしくも書を読み、いやしくも公人として世に立つ者、慈眼を開いて、社会衆生の痛苦を見きわめねばならぬ。僕の入院中にも僕の関係のある勤労自足会の労働者が、工事中に墜落して死んでしまった。彼には扶養すべき妻子がある。彼の死は直ちに肉親の生活不能に接している。克明の場合よりは遥かにつらい。今年は梅雨を過ぎて二十余日に亘る長雨である。土用の中に袷を着る日が続いた。都市のルンペンは失業して餓えている。農民は凶作に脅やかされている。この社会には幾多克明の死にまさる痛苦がある。これを憂うるのがおれの任だ。経文を聞いても徒《いたず》らに悲嘆するのは恥かしい。……しかしこれは理性である。理性は扶け起すようにしてやると、少しく頭を擡《もた》げるが、直ちにこみあげてくる悲痛の情に呑まれてしまう。僕ぽ今自ら鞭撻しても、理性の駒は躍らないで、感情の悲しみに悩まされる。
 今度のみならず、自分はいつもこうである。五年前にちょっとした手術をやったのが原因で、三週間入院の予定が半年にも及んだ。そして足は昼夜に痛み続けた。腿から足先まで巌石に挟まれたようである。その痛みが脳髄に滲み渡る。左足は血行を中止して指先から枯れて行くのだ。何日も何日も一睡も取られない。パントポンを注射して眠らせる。だんだん量を増しても利かなくなる。今度は、パミナール、次に、パソトポソ、スコポラミン、漸次に強烈な薬を注射して、一時の苦痛を除こうとする。それで、わずかに一時間も眠らない。その眼の覚めぎわには悪夢に襲われたような苦しみと、谷底に落ち込むような恐怖心と、石臼に入れて春《つ》かるるような痛さとが、時に襲来する。この苦しみは五分間と耐えられないと思った。それが一時間、二時間、三時間、一日、二日、十日と無限に続く。また注射を要求する。注射は最初睡眠を誘ったが、後にはだんだん眠らなくなり、一時の痛苦を去りて、いやに精神を清澄にする作用を始めて来た。その時はいやに感傷的になる。痛みが去った間にとて母より送られた手料理をすすめてくれる。顧みれば自分の身体は死相を漂わすほど痩せ衰えている。死んでは相済まない、食慾は少しもない。しかし食わねばならぬ、母の志を食わねばならぬ。かく思って無理に食うた。
 医者は誤診のトに希望をつないで、足を切断してくれない。自分は実際死にそうに思われた。その病中、最初は新聞を読んでもらって、天下国家を憂えた。だんだん新聞記事は聴かしてもらうのもいやになった。母や妻は可憐なる女性である、この女性が病床に侍して僕の痛苦を見ていることは、それは余りにいたいたしい。いたいたしく思うことは自分が病身の負担を増すような気がする。そこでためらう妻になるだけ早く病院から帰ってもろうた。彼らにおられては呻くことも出来ぬ。かかる時の看護は、家にいる学生諸君が一番心安かった。子供に対してはさらに痛切なるものがある。克明、雄志、達彦、泰雄、十三歳、九歳、七歳、五歳。克明と雄志とは父の病気を憂えているそうだ。その子らにこの痛ましい姿を見せるのは可哀相だ。まぎれるように他所に遊びにやり、幸い妻の妹夫婦が助川海岸の自宅に克明と雄志を連れてくれた。二人は元気に泳いでいるそうだ。達彦と泰雄が見たい。しかし達彦と泰雄をこの室に伴えぽ、彼らは父の姿を見て、あどけなき心を痛ましむるであろう。それはおれに堪えきれない。ヨシヨシ窓越しに向うの棟の屋上庭園が見ゆる、あの上に二人の子をつれてやれ、この病床から眺めてやろう。二人の子は屋上に現れた、案外元気で無邪気な姿でかけ回っている。憐れなるかな小丈夫、それが無上に嬉しく、また悲しかった。
 緒方君が来た。自分は早く医者に交渉してくれとせがんだ。緒方君も憂色を漂わして交渉を重ねるが埒があかぬ。痛みはますますつのる。大家連は申合せたように神経の作用だと言う。足が腐敗せずして、内部から枯れているのに気がつかないのだ。自分はその際考えた、早く切断してもらいたい。切断すれば生命は取りとめる。片足では政治は出来まい、よし、それなら読書して筆をとる。天下の志も何もいらぬ、それで糊口《ここう》を凌ぎ、子供達を養えば満足だ。今ヘタバッテは子供が可哀相だ、きっと癒ってみせる。子供らのために、憐なるかな小丈夫。この切迫した場合、頭を占有しているものは、天下国家でもなく、社会民衆でもなく、四人の子供のことぼかりであった。そのうちにパントポンが影響して便秘を増し、嵩じて痔瘻《じろう》を起し、それを切開してますます身体を衰弱させた。憐なるかな小丈夫、緒方君に対して恥しくも、子供のことまで頼んだ。妻はこれを伝え聞いて自分を励ました。「平常のご気象にも似合わない、全く、パントポンの中毒で、病的のセンチですよ」と。
 自分と友人とに責め立てられて、医者は遂に足首だけを切断する決心をした。手術室に入り、腰椎麻薬を注射して足首に刀を加えた。たちまちただならぬ医者の驚きが見える。助手をしていた一人の博士は、手術室の外に走り出でて、友人や妻に変を報じた。執刀の博士は、饌に向って言うた。「中野さん、済みません、皮下の肉は全く変質しております。足首だけでは行きません、もっと上から切断します、よろしいですか、これまでになるにはさぞ痛んだでしょう」と。僕は冷然として答えた。「痛んだでしょうと言うてもらえぽ満足だ、神経を起して痛がる僕でない、神経だと言ったのを取消しなさい、そして足を切るのに遠慮は入らぬ、悪い所だけ切って落して下さい」と。二寸、二寸、と上の方を切ってみてみな肉の変質を認め、遂に大腿の下部膝の上から切って落した。
 切断が済んで疵を縫うて、血を拭いて、繃帯をかけるぼかりのところを見せてもらった。一時に重力を失うた大腿の残部はブルブルと血慄いに慄っていた。自分はその際に困ったとも、しまったとも思わなかった。ただ反抗心がこみあげて来て、何これしきで屈するものかと思った。その刹那直ちに克明を、雄志を、四人の子を思った。もう片輪になって政治はみっともない、筆を執っても子供だけは食わせてやる。これが死生の際に発せらるる衷心の声であった。その愛児の克明はいなくなった。自分はその後倍旧の元気を振い起しているが、死生、断足の際に、天下国家にもまして思いの焦点たりし克明は永久にいなくなった。

「子」より「同志」へ

 隻脚となって後、子供と自分との心の距離がはなはだ近くなった。深夜まで書斎に読書して、寝室への階段を下ろうとすると、克明はしばしぼ飛んで来て肩を貸してくれた。
 克明は満十七歳で身長五尺五寸、握力六十いくつ、武芸十八番何でもやるという体躯上の剛の者であった。柔道と蹴球とは付属中学の選手で、ことに蹴球は主将であり、ゴール・キイパアであった。「今度政治がやかましくなれば、お父様の護衛は僕が引受けるぞ、だって隻脚のお父様に暴力団なぞ差し向ける卑怯な奴がいるんだもの、僕は多数を相手にする時にはただの柔道マンよりは遥かに勝っているぞ」と言うたことがあった。自分は「馬鹿を言え、おれは隻脚でも眼玉が黒いうちは、三尺四方に敵を寄せつけるようなノロマでないそ」と答えて笑ってやった。
 克明は体驅上の剛の者である点は遥かに父に優り、勝ち気で冒険的であるところは父に似てるといわれていた。思索的で研究的で謙遜で、思想と文藻があるところは三宅の祖父母にあやかっているという人もあった。本人は冷笑して、「そんなにうまく組合せがつくものか、学問なしの雪嶺、勇気なしの正剛、それを組合せたのが僕かも知れない」と戯れた。克明は小学校の時は文字通り優等生であった。上級に進むにつれてある時は非常の才気を現わし、ある時は一切の勉強を放擲した。「そのたくさんの男生徒の中で、中野さんに対して私は常に敬意を表していた。そして何だか四年も五年も先輩であるような気がしていたというのは、中野さんは成績も良かったし、それにどことなく大人びたところがあったからである。中野さんの一挙一動が私の目にはませてみえた。それでまた一方には大変いたずらで、よく皆の笑いを爆発させたり、奇抜な事件を起したりしたということも、私はよくおぼえている。いつもいつも髪の毛が伸びていた」と。これは小学校の同級たりし某女生の追憶文の一節である。克明はいたずらの中に、人々の笑いを爆発させるユーモアを持っていたのだ。それが付属中学の三年頃から、物事に対し批判的となり、懐疑的となり、時々感傷的なまたニヒリスト的な詩や小品文さえ日記の端くれに書きつらねていた。自分はセンチメンタルな文章など大嫌いである。 一向にそんなものなど読んだこともなかった。されど今はそれが亡き子の心の閃きとして残っている。亡き人への回向に写経するということがある。自分は写経の気持で、彼の文章を一字一字写してみた。亡き子の書いたものを、嘆きの父が写すのである。その巧拙に係らず犇々《ひしひし》と胸に迫るのは当然である。「天と地」というのがある、「夢と実在」というのがある。「ときめく」というのがある。
「晩春」というのがある。山の荘厳を歌い、人生の意義を探ったものがある。鋭敏なる感覚、繊細なる情緒、沈痛なる思索、それは読みながら吸い込まるるようである。自分は子供達から音痴であると言われるほど音楽が解らぬ。論文は書くが詩は了解出来ぬ。しかるに断足後偶然杜甫の詩を読んだが、初めて解るような気がした。改めて李白の詩も比べて読んでみた。さすがに李杜は双璧である。しかし李白の詩は人間の悲哀と憂憤とを酒と神仙とに遁避して、わざと天空海闊の気を繃うたようにも見える。杜甫の詩はそれと趣が違う、彼は人生無限の悲憤に包まれて、どこまでもこれに沈潜し真正面に引き受けて、少しも誤魔化しがない。自分はそれに吸いつけられるようで、しぎりにこれを耽読した。今度克明の小品文と詩を読むと、その吸いつけらるる気持はさらに切なるものがある。妻にそう言うたら、「およしになったがよいでしょう、杜甫の詩と比較するなんて、親馬鹿と申しますよ、ご自分の心で克明の感情を潤色したり誇張したりしていらっしゃる」と答えた。自分は寝ながら次男の雄志に問うた。
「どうだあの若い強い克明が、あんな繊細な感傷をもたらしているのは悲しいではないか、克明はいつもあんなことを考えていたか」「お父様の方が余計に真剣でしょう。文学に興味のある青年は、みんなあんなことを書きたがりますが、お兄様も書く時は真剣でしょうが、年中あんなことを考えるものですか。半分は文学の影響です」と。自分はさらに問うた、「その文学は、欧州からのどんな流れを汲むのか知ってるか」と。雄志は彬ち晦に答う.「そんな大した文学じゃない。本郷か早稲田か、そこらの文学です」と。しかし翌朝兄の文稿を整理し、つまらぬものは捨てようと相談した時、雄志は所謂「そこらの文学」を肉親の眼で読みながらしきりに涙を流した。
      ×
「お止しになったら……子供のことなどクドクドしく書きつけて、……愚かなる父なんて……少しも似合いは致しませんよ」これが妻の言葉である。自分は生前克明の思想を噛みこなしていなかったから、彼の詩文にはいちいち清新痛切の興味がある。妻は平常から克明の書いた一行をも読み落とさなかったらしい、克明もまたいちいち書いたものを母に示し、細かく自己の考えを述べていた。
「そんなニヒルのような、利己主義のような、ケチな考え方はお止しなさい。もう少し四辺の人のことを思いなさい。社会のことを、気の毒な人々のことを、そうすると張合いがつきます」
「だってこれが僕の本然の姿です、嘘の考え方は出来ません。嘘の芝居はなおさらいやです」
「何がそんなものが本然の姿なものか、もっと心の奥底に本然の姿が隠れているのです」
 こんな生意気のような、現代じみたような、馬鹿気たような問答が母と子の間に、時には二時間も続けて交換された。自分は妻の根気のよい馬鹿らしさに驚いていた。しかし妻は克明と問答してその思想に触れる時、自分の最も大切な心臓を擦るような気持でいたことが解る。
 妻は常に言うた。現代の東京は刺戟が強い、昔の九州のようにはゆかぬ。子供の頭では支え切れないほど、鋭い刺戟を外で受けて来る。
 そこで家庭の方で海のような広い融け込むような柔かい感じで、これを慰撫誘導してやらぬと、克明のような激しい男は、思想的均衡を失うか、性的煩悶に陥ってしまう危険がある。私は子供の天分ば親と別だと思うが、せめて父と子との思想の共通点を疎通させる媒介者にならねばならぬと。
 実際現代の少年に対しては、旧式の九州男児教育では駄目であろう。僕の親友はその愛児に当年の修猷館(福岡藩の中学校)風のスパルタ教育を施そうとして、ことごとくみなこれをいじけさせてしまったと、告白していたことを記憶する。
 克明は今年三月付属中学の四年を終えた。高等学校の試験を受けると言っていたが、この子は教育し過ぎるとよろしくない、少くとも教育の弊の少いところがよいと思い、早稲田の高等学院を勧めたら、早速受験して極めて優等の成績で入学した。果せるかな、「大学の鐘楼」などという皮肉な文を書いて無気力な? 学校を嘲笑していた。しかし早稲田で選んだのは文科であった。政治経済科に進む予科としての文科であった。そこには政治問題、社会問題の雰囲気が動いていた。早稲田に行った後の克明は日に日に見違えるほどシッカリして来た。社会的関心事が、鋭敏なる頭脳に少し責任感を与えたらしい。
『国民に訴う』と題する僕の著書を批評し、「なぜ自分は父への孝行に『国民は訴う』という書物を書いておかなかったろうか。国民こそ訴うべき数々を有する。それを政治家から訴えられては面喰らってしまう。現代社会の民衆は、海胆《うに》の幼虫が向性《トロピズム》に誘われて泳ぐのと同様に、向金性《クリスマロヒズム》の変形たる向食性の命ずるままに走りふためいている。これに食塩水の数滴を投じさえすれば、人間の向性は海胆の向性と同様に転向されて、社会苦はそこに除かれる、それには科学が要る、熱情が要る。それこそ政治家の任務ではないか」というような気焔をあげ、板橋のもらい子殺しの凄惨を叙述し、政府の社会政策の無力を罵って、中学の校友会雑誌に発表せんとし、先生に咎められて「癪に障った」と言うていたのは去年のことであった。それが今年三月から早稲田に入った、所謂民衆の向性を決定せんとする社会科学にも興味を持ち始めた。変な方面に走らぬよう杉森教授(孝次郎)や佐々(弘雄)先生に指導してもらうこともあった。自分は思想の拘束をしたくない、しかし宣伝ビラを読んで動かさるるような右でも左でも感心しない。西洋の思想を味わうくらいなら、少なくとも欧州語の一つで、名著大作を読み通すくらいの真率さが必要だと説き聴かせた。克明もいくばくもなくヒストリカル.マティリアリズムを英文で読み始めていた。それも結構だと放任しておいた。字引を力に多少は読めたであろう。隣り合せの自分の書斎を訪れてしばしば疑義を質していた。いろいろ複雑に考えてみて簡単に結論に賛否を表せぬところは、お祖父さんの雪嶺式ではないかと思われた。「沈滞日本の更生」を書いた僕の原稿も精読して、よく解るが別に考えがあると生意気を言うていた。克明にはようやく男性的勇気が横溢して来て、母の媒介を待たずして、この父と思想の感応するものが見え始めたのだ。「子」からして「同志」に進みはせぬかとさえ思われた。それが突如として姿を、声を、永久にこの現世から消したのである。十八年の幻影は余りにも悲痛であった。

「球を蹴て空を見上げる中野かな」

 克明の霊柩が七月十九日午後八時、新宿に到着した時の光景はあたかも戦歿勇士のそれを迎えるような光景であった。学生、先輩、青年団、労働者、本人の友人、父の知己、寂然として居並んだつあまりにすべての人に鄭重にされて恥しくさえ感ぜられた。
 七月二十一日、青山斎場における克明の葬儀は盛大を極めた。朝野各政党の総裁、大臣、領袖、学界、財界知名の士、各大新聞社の花輪、礼拝、焼香。……自分が死んでもこれほどは揃うまい。
 ことに学生、同行登山者、労働者多数の会葬が眼についた。会葬老実に二千人、それが真実衷情からの哀悼の表現である。わずかに柔道を学んでいたが故に、講道館の最高有段者の歴々が打ち揃うて会葬してくれた。登山に縁が近いからであろう飛行関係の人々も見えていた。老人は斎藤前総督、山本達雄氏、岡崎邦輔老まで、幼《いと》けなき三男四男の友達まで、心から弔慰し、心から会葬していただいた。自分は妻と相談し、子供のことだから、親戚故旧だけで、心ぼかりの葬儀を行おうと言うていた。それが愛国者か殉難者かの葬儀のように花やかになった。例えば農村の少年の溺死者を救わんとして難に殉じたとする。克明のはむしろ分に過ぎる。佐々教授の所謂青年未発の勢いにおいて、清く山に斃れたことと、強そうに見えて実は愚なるこの父への同情とが、この盛儀を生み出したのであろう。ことに深く自分を感銘させたことは、政敵も剣を伏せて悲しんでくれた。思想を異にする人々も首を俛れて哀れんでくれた。いささかこちらより好意を尽したことがあったかと思う青年、学生、ほとんど漏れなく参列してくれた。世人の同情は清い、麗わしい、自分は今日世人から受けるほどの同情を、世間に対して表現していなかったろうに。
 同級生、すなわち付属中学五年三組の代表者が弔詞を読んでくれた。
「……鳴呼、中野君よ、君が友大塚君が『球を蹴て空を見上げる中野かな』……と歌いしその雄姿も、『頭のよい皆様』と呼びかけて、組一同を哄笑の渦中に投ぜし君が文才も、……今は空しく」と。克明の思い出には誰のにもその勇壮なる姿と、軽妙なるユーモアとが付き纏う。
 自分は元来スポーツを知らなかった。しかしいつぞや付属中学が神宮競技場で優勝した時、妻と弟らとを伴い、克明へのお愛想に競技を見に行った。克明はゴール・キイパアとして前傾きに落ちつき払って構えていた。しかし彼の顔面は昂奮と緊張と責任感とで蒼白となっていた。時には全軍を睥睨《へいげい》して味方を叱咤するかに見えた。球が眼前に迫った時、沈着に鷹揚に、しかも敏速に蹴返す彼が球はいつも敵の空虚を縫うて、敵陣深く突入した。彼は微笑をもらして飛び行く球を見上げた。大塚君という友達が「球を蹴て空を見上げる中野かな」と歌ったのは少年らしくまことに無邪気な描写である。弟達はこれを見ながら、ほとんど兄を崇拝した。「スポーツ嫌いのお父さまがこれでようやく喜んだ」と、口巧者な三男の達彦が騒ぎ立てた。付属中学は遂に優勝した。今まで戦っていた少年達はにわかにヘナヘナになり、感激の余り泣いたりした。控室を見舞った時、泣いたり身体を投げだしたりしている仲間の中で、克明は一向平気に語り、かつ笑いながら、友達を介抱したり、からかったりしていた。克明のこの姿が弔詞の中に現われている。
 自分はその後克明が優勝メダルをくれたので、時計の鎖につけてやった。これは何だと時々友人に問われて微笑した。これも遂に形見となった。
      ×
 通夜の晩に、初七日の逮夜《たいや》に、しきりに来合せた同窓生等の回顧談に花が咲く。
「○○先生がいやに圧迫的に組の者一同を叱りつけたね。みんな固くなって、泣き出しそうになってそして、悔しかったね、……あの時中野が手をあげて正式に先生に食ってかかったね、とても熱烈だったよ、正義の観念が強いんだね。それに理窟が通っているよ、大議論をして、とうとう先生を黙らせてしまったね。みんな痛快がったじゃないか」
「中野もずいぶん悪いたずらをしたよ、先生が試験をするつもりでいたんだろう、それに奴が僕達一同に靴をぬいで貸してくれと言うんだろう、中野のことだから面白い考えがあるだろうと思ってその通りにすると、奴はそれを教壇の机の上にお供え物のように積みあげ、一番上にボールを載せてうまく飾ったね。ずいぶん先生におこられたが、誰の企てだかみんなで白状しなかったね」
「そら中野が教場で○○と喧嘩をして、ストーブの横につき飛ばしたろう。お湯がひっくりかえる、灰かぐらが立つ、そのお湯が下の主事室に流れて行ったから大騒ぎになったっけ。さあ先生達がやりて来て組一同を放課後に止めおいて、厳しく叱ったね。一体この組は怪しからん……。そこへ中野の奴がヒョッコリ手を挙げて、この責任は私一人にあります、この組全体は怪しからんことはありません、私一人を残してお調べ下さいッて、とても勇敢な顔をしたよ」
「中野は仲間に親切で弱い者は苛めなかったね。……しかし面白半分にほうり投げたり、転がしたりして笑っているんだもの、あんまり強いので泣かされた奴もいるぜ。……奴もいるぜって、君なんかそうじゃないのか」

シッカリシロ・チチ

 初七日の日にも、克明と山に同行した七人の人々が打ち揃って弔慰し、始めて詳細に山中日記と引合せて、克明の遭難顛末を話してくれた。
 七月十六日ジャンダルムの険を攀じた時、克明は先輩を凌ぎて一番元気旺盛であったそうだ。そして彼は、ジャソダルムを卒業したらその上の難所を踏破してみたいと要求したそうだ。同行者は克明の元気と技術とに確信を得たので、アルプスの長難所たる前穂高北尾根縦走に伴うことに決定したのである。
 寺岡、越、中野の順序で克明は殿《しんが》りである。九時二十五分、寺岡まず進み、越これに従い、一つの岩石を後にして次の足場に辿りついた越君は、振り返って克明をみた。克明は見事岩石の上に攀じ登った喜びで会心の笑みを洩らしていた。越君は向き直って進もうとしたその一刹那、囂々《ごうごう》たる岩石崩壊の声が響いた。越君が振り返った時克明の乗りし大岩石の下層が崩壊し始め、岩石はすでに傾いている。克明はこの時悲壮沈痛なる顔をして、次の岩石に飛び移った。不幸、前の岩石の下層が崩壊したので、次の岩石の下層もまたゆるみ、一畳敷きほどの巨岩はみるみるうちに傾き始めた。克明は岩石を避けながら、モンドリ打って墜落した。墜落しながら肘と腕を働かし、頭部を保護しようと試みた。しかし、五、六間落つればその下は雪渓である。雪渓では施す術がない。みすみす一千尺を墜落した。一行中の先達寺岡君は特に友情と責任とを痛感した。突嗟の間に決心し身を跳らしピッケルを使いながら、健気にも一気に雪渓をすべり落ちて克明の後を追うた。九時三十二分、実に克明の墜落後七分間にして克明を発見した。克明は頭部、顔面、胸、肘など、滅茶滅茶に傷を負い朱に染まってグッタリなっている。しかし意識は鮮明であった。言葉も交えた。そして人夫の来着を待ち、午後二時十五分から引き上げ作業を開始した。
「克明は悲鳴をあげませんでしたか、父母のことを言いませんでしたか」これは自分が寺岡君に対する問いである。
「何分私としては生れて始めて見た重傷で、とても命はないと思いましたが、克明君は意識明白、まことに確かりしていました。そして家のことも何も一言も言いませんでした」これが寺岡君の答えである。「池之平天幕に午前二時二十五分、始めて医者が来た時、墜落後已に十七時間を経過しております。カンフルを注射し、友人が一同に手足を抑えて、頭部の治療にかかろうとすると、克明君は手を振り放って、『手なんか抑えなくてよい、よせよっ!』と叫んで、いつもの調子で僕らを叱りつけました。そして胸の上に双手を組んで、平然として痛い治療を受けました」これは天幕の中で看病した吉田君の話である。
 克明は遭難後、あるいはロープに吊され、あるいは担架に揺られ豪雨を衝き、幾艱難を経て上高地へ担ぎ出さるる途中、「頑張れ!」「頑張れ!」と言う友人らの声に励まされて、実に三十三時間活きこたえた。自分の家から派遣した永見君は上高地宛に打った自分の電報を持し、上高地より数里手前の横尾谷入口にて、担ぎ出されて来る克明に遭遇した。自分の電文を高く読み上げて克明に聴かせた。
「シッカリシロ・チチ……お父様からの電報ですよ」克明はウーンと呻り手を差し出そうとした。人夫達はよくお解りですよと言うたそうだ。永見君はこの電文を克明のポケットに入れた。八時上高地に着く予定であったが、克明は雨降りしきる初夏の山路にて、若き友らにみとられながら、遂に担架の上で絶命した。時に昭和六年七月十八日午後六時十八分。「オニイサマハッヨイカラガマンシテガイセンシナサイ.タツピコ・ヤスヲ」  三男と四男とが出した電報は兄の死に目に合わなかった。
      ×
 自分はふた七日の夜、自分の友人達と克明の霊前に語り合うた。
 自分は克明とともに蓄音機をかけて、薩摩琵琶の本能寺を聴いたことがある。──雲か霞か白旗か、染めたる桔梗の紋所、見るより蘭丸引返し、光秀謀叛と答うるにぞ、
赫と怒りて信長は、者ども覚悟と呼ばわりて、弓矢おっとり立ち向いf「どうだ克明、信長の風幸《ふうぼう》が見えるじゃないか。赫と怒る信長、者ども覚悟と呼ばわる信長、突嗟の危難に直面して少しの弱気も示さねば、うろたえたところもない。秀吉なら味噌摺坊主に化けるだろうが、死んでも音をあげぬ信長は痛快じゃないか、大剛の気が充満しているね。武人としては風格が高いね」これは自分の説である。克明は笑って答えた、「そんな時に泣き面する暇があるもんですか」
 克明は突嗟の危難に遭遇し、善くも死に直面して悲鳴をあげなかった。大剛の気が充満していたのであろうか、治療に際して抑えらるるを恥じ、「よせッ」と言うたのは悲壮であった。がしかし「それほど我慢するのはつらかったろう、父を母を、喚びたかったであろう、それに『シッカリシロ・チチ』は少し厳し過ぎた。どうも意地らしくてならん」、これは愚なる父の繰り言である。
 この時北一輝君は厳然として言うた。「中野君よせよ、楠正成が湊川で正行を抱えて泣きわめいたらどうだろう。君が従来の教育は悪くないそ、信長に事よせての訓戒なども『シッカリシロ・チチ』も、みな男性的慈愛の自然的表現だ。この厳然たる父を夢幻の間に臠っているから、克明君は重傷を負うても痛くないのだ、君の男性的慈愛は愛児をして痛さを覚えしめなかったのだ、それに前頭部は割れ、歯は折れ、頭蓋底骨は挫折して、おびただしく内出血をしていたというじゃないか。もう痛みを感ずる力も衰えているはずだ、『よせッ』と言うて腕を組んだのもかねての鍛錬による潜在意識が突如、幻の間に発露されたんだ、このくらいの元気があれば痛くも何ともないはずだ。『シッカリシロ・チチ』、それが中野正剛らしい愛児への引導じゃないか。息子は君に感激しているよ」
 なるほどそうであろう。愚なる父は本然の父に帰らねばならぬ。もとの厳父に帰らねばならぬ。山の犠牲者を悲しんで、これに対する憤りを文筆に漏らしていたのに対しても……。
 一万尺の険峰、清く高き辺、永遠の若き姿をうつし世の記憶に印して、遠く昇天し去った克明は、はなはだ痛快であったろう。
 おれは李白の詩を歌おう。克明も唱和するであろう。
  倶《とも》に逸興を懐《おも》うて壮志|飛《と》ぶ
  青天に上《のぼ》りて日月を攬《と》らんと欲す
  刀を抽《ぬ》いて水を断《た》てば……水更に流れ
 もうよい、前の二句だけにしよう、三句目からまた悲観に流れて面白くない。
 人々は「父が子なれば」と言う。その子は猪突猛進、頸の骨を突き折って死んだ。おれも「克明が父なれば」同じ覚悟で残余の命数を戦い続けよう。「シッカリシロ・チチ」と克明もし霊あらぽ、例のユーモアを交え、鸚鵡返しに叱呼するであろう。
                   (昭和六年八月五日、克明が画像の前にて)

「シッカリシロ・チチ」。この一文を読んで泣かざる者は人でない。正直にいうと、中野君の文章にはとかく誇張と、ある場合には衒耀と思わるるものさえ感ぜられるが、「シッカリシロ・チチ」は衒耀はおろか一字の誇張も粉飾もない。中野正剛の強いところも脆いところも、美わしいところも醜いところも、すべて裸のままに露呈されている。彼は悲しんで悲しんで涙の最後の一滴をも涸らしたあと、魂を吐き出す思いでこの二万字を綴ったであろう。真実ほど人を打つものはない。私は「シッカリシロ・チチ」を読むごとに、惻々と心にせまるものを感じて、卒読に堪えないのである。
「シッカリシロ・チチ」は、そういう意味で中野君自身の魂の自叙伝であり、同時に彼の家庭の写真でもある。そこには中野君がその美質を享けついだかと思われる彼の母堂、その母堂と彼との心のつながり、賢貞無比の細君の内助、子供の成長を見守る慈愛の瞳、この母堂と中野夫妻を中心に醸し出される書生本位の家庭の雰囲気等々の、すべてが語られており、私は中野君の家庭を叙すべく、改めてここに蛇足を付けないであろう。
 しかし、それにしても、いかに彼の家庭の不幸続きであったことか。彼の左脚切断はその第一歩であった。ついで長男克明が前穂高に死し、間もなく次男雄志は急病に斃れ、続いて厳父の喪に遭い、最後に賢貞の細君を喪った。その間わずかに数年。細君の病気は相当長期に亘ったが、彼は公の活動の寸暇を割いては病牀を慰め、寝食ほとんど安んぜず、天下に神薬を求めてなお足らずどするがごとくであった。
 しかしながら、不屈の彼はこの間も毫も政治的活動をゆるめるものでない。あたかも戦場の勇士が傷ついては起ち、起っては傷つき、弾丸雨飛のなかを潜って突撃するがごとく、最後に東条軍閥に肉迫して非命に斃れたのである。天の斯人に任ずる、あまりに試煉が重くて遂に政治家としての中野正剛を完成させなかった。けれども一個この未完成の魅力は永久に国民の心の中に生きるであろう。
 いまこの魂の告白書ともいうべき「シッカリシロ・チチ」を読めば、文中の人はことごとく世を謝し去り、僕一人|徒《いたず》らに残年を持て余している。噫。

残された父の心に

 白仁君(進)が来て「克明君の文稿その他を出版するについて、是非貴君に序文を書いてもらえと中野先生に言われましたから、お引受けを願います」と言った時、瞬間自分は、これは断ろうと考えた。が、次の瞬間には、悲しみを裹《つつ》んで県会選挙の応援に奔走している中野君の姿がまざまざと浮んで来て、白仁君から二度目の「是非」を言われるとほとんど同時に、「書こう」と答えてしまった。
 自分は、克明君の葬儀を終ると同時に、今後中野君に向って克明君のことを一切語るまいと決心した。それは、克明君の遭難より葬儀に至る数日間、中野君と弔問客の応接を横で見ていて、いかに慰めても中野君の胸奥の痛手を慰め得るものでない。否、憖《なま》じいに思い出を語れば語るほど、傷に触るるようなものだと考えたからである。返らぬ悲しみを新たにするばかりだと知ったからである。
 克明君の凶報が新聞に伝わるとともに、中野君の宅は真に踵を接する弔問の人々でたちまちいっぱいになった。弔問の人々は、いろんなより惨しい、より悲しい例を挙げ、言葉を尽して中野君を慰めた。いかにして慰めんかの苦心が惨しいほど人々の顔に歴々と読まれた。しかしながら正直に言って、いかなる言葉も中野君の心胸を真に慰め得るものでない。自分は、石橋和訓画伯の未亡人(イギリス人》が、中野君の前に跪き、中野君の手を握って、顔も着物も涙に濡しながら、むせぶように「天は余りに貴君に残酷だ……」とただ一語、慰めるというよりは、中野君と一緒に悲しみ、座に堪えぬままに一、二分にして次男の賢二君に扶けられて帰って行った姿が、心が、かえってあの場合に最も残された父の心を慰めはしなかったかとさえ思った。中野君自身、「自分自体が魂が打ちのめされて、心臓が抉《えぐ》り取られて、形体のみが茫然として存しているようである」という悲しみは、おそらくただ時間のみが解消し得るものであろう。と考えて以来自分は、たとえ非人情に見えても、中野君に対して再び克明君を語るまいと考えたのだ。
 が、それはみな理窟であった。理窟は一瞬にして感情に征服される。弔問者の弔詞のみをもって中野君の悲しみを和げることの困難を知った自分は、今その弔問者と同じく、いかにせば、たとい少しにしても中野君を慰め得るかと、胸を傷める自分を発見するのである。



 実をいえば、僕は最近いく年かの間、ほとんど克明君と相会うの機会をもたなかった。最後に克明君を見たのは、中野君の厳父の葬儀が青山斎場で行われたその日であったろう。中野君も自分も相当多忙な身で、用があれば出先きで会って済ますことが多いので、自然宅を訪問する機会はお互いに少なくなり、時々訪問しても時間の関係上、学校に通っている子供の顔を見るのははなはだ稀ならざるを得ない。そういう次第で、克明君に対する自分の思い出は、極めて幼少の時のものだけである。
 余り大きい方ではなかったが英発の気は赤ん坊の時から眉宇の問に盗れていたこと、智慧が早くて頭の大きい克明君が、宅の二階の段梯子からころころ落ちたこと、牛込矢来町住いの頃、ヨチョチ歩きの克明君が近所の子供の木馬を占領して、思わぬ敵軍襲来に呆気に取られている木馬の持ち主を馬上から叱咤し、蛇は寸にして人を呑むの気概を見せたこと、それが「悪戯で困る困る」と言う口の下からお婆さん(中野母堂)のご自慢話の一つであったこと、等々、すべて幼き人、小さいものに対する他愛もない記憶ばかりであるが、それだけに今度の遭難に関連して克明君の近状を聞いた時の驚きは大きかった。交るところを見てその人を知る。穂高の遭難をともにした同行諸君が、中野君の父親らしい質問に答えている態度、言葉つきを見ていると、そこには銀座ボーイと正反対の頼もしい純真さ、底の知れぬ深沈さがひたひたと感ぜられる。お通夜をしている付属当時の学友の話を聞いていると、伸び伸びと闊達な空気が悲しみも歎きも打ち消しそうに陽気である。当年の木馬大将は、この空気の間に養われ、この友達を友として、柔道いく段かになり、蹴球のゴール・キーパーとなり、アルピニストで鳴らした外貌と体力の裏に、偉大なる双葉を蔵していたのであろう。その双葉をついに双葉のままにアルプスの雪に埋めてしまったことは、返す返すも残念に堪えない。
 中野君は自分より二年前に結婚して、二年前に長男をもうけた。僕の長男が幼時極めて羸弱《るいじやく》で、消化不良のためにほとんど二年にわたり生と死の分水嶺を彷徨していたのに引替え、克明君は生れたときから強壮で、誰の目にも華々しい将来をもつと考えられた。しかるにその羸弱なりし僕の長男のとやかく成長するに反し、強壮なりし克明君が今年十八歳をもって世を去ろうとは、今さらに人生朝露の感を深うするのみである。



「中央公論」九月号に載った「シッカリシロ・チチ」という克明君の追憶録の中に、「克明が生い立ちの歴史には、一家夫妻が刻苦の跡がまざまざと織り込まれている」
と、中野君は書いている。最近中野君の政界における躍進は目醒ましく、いわゆるトントン拍子の観があるが、この足場を築くまでの中野君の苦闘は、中野君の言う通り真に人生の崎嶇に彩られていた。学生時代突如たる一家の傾覆に遭った時のことは措くとしても、朝日新聞社を辞して三十歳にして東方時論社を経営した時の苦心、空拳無名の一書生で金権候補と選挙を争い、一敗地に塗れた時の心中、いまペンを執って追想すると、当時のことがいちいち目の前に浮び出て来る。ことに人一倍親孝行の中野君が、この悪闘を親に知らせまいとした苦心は、他所の見る目も痛々しいものであった。その苦闘の思い出の一つ一つに宿る克明君、中野君の言葉を借りていえば、「糟糠の妻の生んだ糟糠の子」を失ったのである。中野君の悲しみが、「シッカリシロ・チチ」の中に流露した真情以上にさらに文字に書き尽せぬ深刻なものであろうことは、十分に想像される。
 この悲しみは何ものをもっても消し得るものでない。自分ははなはだ俗っぽいことを言うようであるが、克明君葬儀の前後、いかなる慰藉も中野君の悲痛を和げ難いと見て、せめて、それを紛らすべく、何らか中野君を必要とする時局の展開はないかとさえ考えた。しかして克明君の葬儀の近来稀に見るほど盛大を極めたのを見て、いささか故人の霊を慰め得たことを喜ぶとともに、この同情がいつかは一転して、政治家中野をある難局のなかに支持する力となる日のあることを想像して、ひとり自ら慰めた。
 しかしながら中野君は、いかにその悲しみは大きくとも、決してその悲しみに触れないであろう。先年|仮初《かりそ》めの手術から遂に隻脚を切落すに至った四ヵ月間の劇痛は、人間の神経の堪え得るものではなかった。何日経っても疼痛の衰えぬ中野君、日とともに癒えはせでかえって骨の腐蝕の深くなる中野君を日々病院に見出すことは、見舞うわれわれにとっても最大の苦痛であった。しかるに中野君は遂によくそれを堪えた。それは中野君の体質でもなけれぽ健康でもない。中野君の気力、撥ね返す力である。この撥ね返す力は難局に当るごとに勃然と起り、一難を経るごとに靱強を加える。自分は克明君の凶報の来た日、中野君がよく悲しみを忍んで涙を見せず、踵を接する弔問客に応接しているのを見て、真に感心した。僕は旧式かも知れぬが、今も男は涙を見せるものではないと考えている。芝居を見て涙を流すことを自慢にするような男は大嫌いだ。しかもかく信ずる自分が、はじめて凶報を得て中野邸に馳け付けた時、中野君の顔を見ると、慰めに来たはずの自分の眼から涙の湧くのをいかんともし得なかった。しかも中野君は涙を見せない。平生中野君の多感多恨を知るだけ、涙を見せぬ腹の中で腸九回しているだろうと考えると、かえって自分の顔面の妙に痙攣するのを感じる。「シッカリシロ・チチ」を見ると「兄弟三人相擁し、父を囲んで無言のまま泣き出した。三木君が見かねて席を外した。自分は一昨夜悲報を耳にしてから、昨日一日と今朝まで、悲哀を噛み殺し、涙を呑み込んで、天晴れ厳父振りを示していたが、この時に至って涙の堰は一度に決潰した」と書いてある。真にそうであったろう。しかしそこまでもよく中野君は悲しみに堪えた。この中野君の堪える力は、悲しみに沈潜することが大きければ大きいだけ、やがて大なる撥ね返す力とならずにはおかぬであろう。
 八月十九日、城北多磨共同墓地に克明君の墓域を選定しての帰る車中、中野君は多感多恨やるに所なきがごとく「オイ、いろんな不幸が近来重なるが、お互いにもう四十を過ぎたぞ、何かせねばいかんねえ」と突如として述懐をはじめた。僕はまた顔面の痙攣を感じて腑甲斐なくもただ、「そうだ」と答えただけだった。が、今は平静に答える。中野君、真にまさに働き盛りである。君の悲しみは遂に何物をもっても消し難いであろうが、大丈夫は悲しんで悲しみに傷《やぶ》れない。難局は重畳している。君が材幹を縦横に揮い、もって克明君の墓標とせんことを、僕は刮目《かつもく》して待つ。
                        (昭和六年十月克明君の百日忌に)


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