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馬場恒吾『自伝点描』「自伝」「オリエンタル・レビュー」時代


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「オリエンタル・レビュー」時代

 ニューヨーク生活四年

 頭本氏とニューヨークに行ったのは、私にとって初めての外国行きであった。頭本氏に連れられて行くのは、私のほかに秋本宗市(頭本氏の秘書)と白という朝鮮人であった。船はシアトル行きで航程十七日かかる予定であった。初夏の海ぱ割合におだやかで、われわれは毎日甲板を散歩して愉快な航海を続けた。船室のある甲板の一端に喫煙室があって、そこはいつでも煙草の煙が濛々と立ち込め、いろいろの人種の乗客が酒を飲んだりトランプを戦わしてとても賑やかであった。その騒ぎの中で、室の片隅に、白髪の外国人が小さな机を構えて毎日朝から晩まで物を書いている。別に誰とも話をする様子もなく、一人ボッチの寂しい感じを与える人であった。私は誰だろうかと思いながら、誰にも聞いてみなかった。ところで船に乗ってから四、五日目の朝、私はいつもの例で甲板を散歩していると、その白髪の老人が頭本氏と一緒に甲板を散歩しつつ私の方に向って来る。すれ違わんとするとき頭本氏が私に向って、「『ロンドン・タイムス』の外務部長サー・ヴァレンチン・チロル氏を紹介しよう」と言う。私はこの人が有名なチロル氏かと驚いて、「あなたは毎日何を書いておいでになるのか」と聞いた。チロルは「あれは新聞に出す原稿だ」という。私は「ヘエ、新聞に出す原稿をそんなに丁寧に書くのですか。私らは大抵書き放して出すのですが」と正直なところを言った。するとチロルは私の方へ向き直って、
「若い人よ、これだけはよく覚えておくとよい。新聞に出す原稿だと思って書き放しで出す新聞記者には生命はない。私はあの原稿を三度目に書き直しているが、もう一度書き直すであろう」
と言って、頭本氏と並んで向うに歩いて行った。私はその後ろ姿を眺めて、なるほど、新聞記者といっても、有名になるほどの人はちがったものだと思った。新聞の生命は一日だ。だが、ある原稿が何万という人の目に触れ、そして後世に残るためには、筆者のいうことに深味と真実がこもっていなければならない。チロルの言う一言で、私は頭をガンというほど打たれ、その痛さが骨に滲みたと思った。今この文を書く机の上には、チロルの著書『変る世界の五十年』という書物がある。この書の最初の章はコ八七一年のパリ・コンミューン」の記事である。私がチロルに会ったのは一九〇九年、最後の章は一九一九年のパリ講和会議である。この本のどこを開けて読んでも、ヒシヒシ胸にこたえるものがある。
 米国に渡るとき私はすでに新聞記者としてそれ相応に生意気になっていた。その生意気さを反省させたのが、郵船の甲板の上でのチロルの一言であった。
 チロルは前にも東洋に来たことがあった。ちょうど義和団事件の頃で、西太后が清国を支配していた。チロルはその足で日本を訪ね、伊藤博文と懇談した。伊藤はチロルに向って、西太后が死ぬると満州朝の清国は亡んで中国はどうなるか判らぬと言った。伊藤にそんな先見の明があったとは、日本で新聞記者をしているわれわれも知らなかった。当時の日本の政治家は、日本の新聞記者に対しては容易に内心を打ち開けなかった。チロルの書いたものを見て、私は伊藤にそんな見識があったのかと驚いた。
 日露戦争の時、日本軍が奉天の会戦でクロパトキンの率いるロシヤ軍に対して大捷を博した。その頃、チロルはかれの属するロンドン・タイムス社におった。そこへ米国大統領セオドル・ルーズヴェルト(太平洋戦争の時のフランクリン・ルーズヴェルトとぱ別人)から電報が来て、話したいことがあるから米国まで来てくれないかというのである。チロルは新聞社と相談して、米国に渡って大統領に会った。ルーズヴェルトが言うには、日本は奉天で勝ったが、シベリアまで長追いすると必ず弱る。だから適当な時機に自分が仲裁に乗り出して戦争を止めさせようと思うがどうかと聞くのであった。そうしてそういう場合に、チロルなど「ロンドン・タイムス」の連中が、この仲裁に好意をもってくれるかどうかと言った。
 私は太平洋の船の上でチロルに会ったときは、チロルがそれほどの偉い役目を果した人とは知らなかったが、かれが新聞に出す原稿でも三度も四度も書き直すという一言は身に沁みた。われわれの船がバンクーバーに寄ったとき、チロルはカナダ横断の鉄道で行くと言って上陸した。私はシアトルで上陸してニューヨークに行った。
 ニューヨークに漸く馴れた頃、ルーズヴェルトはすでに大統領でなく、自由の身になったから、アフリカに猛獣狩りに往くというのであった。出発する前にかれは、ニューヨークのその当時の公会堂ともいうべぎカーネギー・ホールで演説した。私はそれを聞きに在った。夜間の会合であったから、大きな公会堂は着飾った紳士淑女で一杯であった。私は後ろの方の席から、演壇のルーズヴェルトを眺めた。芝居の舞台全部が演壇になっている形で、ルーズヴェルトは左右前後に横行闊歩しつつ演説した。演説の原稿を重ねたのを手に持っていて、一枚読み了るとそれを自分の肩越しに後ろに投げるのだから、終りには舞台一面が白い原稿紙で埋もれた。ルーズヴェルトは当時の漫画で誰でも知っているところの獅子のごとき歯をむき出して、聴衆を睨みつけながら、「ニューヨークの淑女、紳士諸君。民衆は諸君が思うほど愚ではないそ」と叫んだ。かれは共和党の大統領をしたが、いつでも民衆の味方であることをもって自から任じていたのである。私はニューヨークに四年暮していたのであるが、ルーズヴェルトのこの時の印象ほど、今もハッキリと頭に残っているものはない。
 ニューヨークでは「オリエンタル・レビュー」という百ページばかりの英文雑誌を出していた。頭本氏は一年ばかりして日本に帰って、「ジャパン・タイムス」を経営されることになった。そのあとは元高等師範の教授だった本田増次郎氏が雑誌を主宰することになったが、氏は身体が悪くて、ハーフホードの病院住みをされた。雑誌の方は元ニューヨークの「ジャーナル・オブ・コンマース」社長ジョン・フォード氏の親戚であるチャプマンという新聞記者が手伝ってくれたが、これはわれわれの英文を直すとか校正を見るということであった。
 ここの仕事は「ジャパン・タイムス」にいるときよりは楽だった。前記のチャプマンは非常に酒のみで、ニューヨークの下町の暗いゴタゴタしたところにある「オリエンタル・レビュー」の印刷所から夜おそくなって出てくると、すぐバーに入ってゆく。アメリカの新聞記者はよく酒を飲む。もっとも日本人の記者もそうだが、その人は新聞記者の古手だからほんとうに強い。ウイスキーグラスになみなみと注いで、水なんか飲まないでぐいぐいとあおる。僕も相当強いという自信はあったが、グラスニ、三杯も飲むとヒョロヒョロになってしまうのに、その人はなみなみと注いだやつを何杯飲んでも平気な顔をしている。そんな風に酒を飲んだりいい加減なことをして、僕はニューヨークに四年ばかりいた。
 大体この雑誌は日本の実業家が資本を出してアメリカで出していたわけだが、僕はあまり会計のことは知らず、思ったことをどんどん論文や社説などに書いたものだ。日本が中国に対してやっておったことについても遠慮会釈なく、悪いことは悪いと書いてしまった。だから、日本の実業家たちはアメリカでそんなことを書かれてはどうも面白くないというところから、頭本氏に向って、「どうも世間には痛くない肚を探られるという言葉があるけれども、日本の外交問題について日本が中国に乗り出そうという問題について、あれこれあばき立てられては、これはどうも痛い肚を探られることになる。日本の実業家が必ずしも中国に利権を求めるんじゃないけれども、東洋で日本を維持してゆくためには、ある程度の無理なこともするだろうし、それに金を出すこともある。それをいちいちあばき立てられては何にもならない。痛くない肚を探られるのはまあいいけれども、痛い肚をいちいちさぐられては、どうも困る。もうそういう雑誌には金は出さない」ということになって、金の切れ目が縁の切れ目となり、私は、ニューヨークでブラブラしているわけにはゆかないので、とうとう帰ってきた。
 日本に帰ってまた「ジャパン・タイムス」の記者になった。
 これも一年の後には、頭本氏の手を離れてヶネデーという外国人の手に渡ったから、私も罷めたのである。

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